2018年8月15日

名コンビ=フラナガン+ムラーツを育んだ《ブラッドレイズ》と太平洋戦争のこと(2)

Bradley's76108239408492687_n.jpg= 余りにもNY的な= 

(上のイラストはJohn Carey作)

 その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドレイズ》の全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドレイ・カニングハムが病に倒れる'80年代後期と言われていて、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル/ジョージ・ムラーツ、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、ほぼ生音で、毎夜音楽の会話を繰り広げており、深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の門前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、オーナーだったブラッドレイ・カニングハムの好みだったのかもしれない。 

   ブラッドレイは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。その当時をブラッドレイは「人生で最高のひととき」と語っている。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=テニアン→オキナワ→ナガサキ= 

 ブラッドレイ・カニングハムは、1925年生まれ、日本で言えば大正15年、戦争中、学徒動員で明け暮れた私の両親より少し上の世代です。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられました。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、唐突な別離を宣告された。彼は、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次338125_275226442515015_1056041608_o.jpg大戦が始まっていた。1943年、ブラッドレイは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というよりも、徴兵されて陸軍に行かされるよりもましという選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイを経て、日米の激戦地として有名なマリアナ諸島のテニアン島へ...そこで彼は、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドレイは上層部の指令により、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。日本陸軍が英語教育を撤廃していた頃、アメリカは日本語を理解し、敵を研究しようとしていたんですね。研修が終わった1945年4月、沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない...捕虜尋問の際、ブラッドレイが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵には「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

008.jpg 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドレイは長崎に上陸しています。ブラッドレイは、名ライター、ホイットニー・バリエットのインタビューで戦争体験をかなり仔細に語っている。でも、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉が少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドレイは除隊を決意し、翌1946年に帰国-大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのかも知れない。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

  

 ブラッドレイは、NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃になると、「日本という国と日本人が大好きになっていた。」と語っている。彼は《ブラッドレイズ》を訪れた日本人客に日本語で話しかけて、驚かせることも多かったと言います。

 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドレイ・カニングハム、彼がデュオを愛したのは、傷だらけの心を癒やしてくれたからではなかったのかな?

「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかったんだ。

私もこの業界で長らくやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせていたよ。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」-ブラッドレイ・カニングハム

参考文献:

The New Yorker, February 24, 1986

The New Torker, October 11, 1982

BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)

The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)

The Bradley's Hang (Ted Panken)

Bradley's (David Hadju)

 ー終戦の日に-

2018年8月13日

名コンビ=フラナガン+ムラーツを育んだ《ブラッドレイズ》と太平洋戦争のこと(1)

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  先週の土曜日の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でトミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていて、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley's (ブラッドレイズ)》というクラブがあったことを懐かしく思い出しました。

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 《ブラッドレイズ》(1969-'96)は、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブが、シアター形式で観光名所でもあったのに対して、ここは地元密着型のカジュアルで清潔な空間。ライブは10pmからで、早い時間帯は、おいしいカクテルや料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう、こじんまりした店でした。開店当時('69)は、オーナーであるブラッドレイ・カニングハムが親友のロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)から150ドルで譲り受けたエレクトリック・ピアノを、ジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏していたのだけど、店の常連だったポール・デズモンドがボールドウィンのグランドピアノを提供したことから、ピアノとベースのデュオが主体の上質な音楽が楽しめるクラブになったらしい。開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドレイズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 

 ブラッドレイは音楽の趣味がよく、とりわけトミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーン奏者が盛んにブッキングされるようになり、不慮の火事で'96年に閉店、ジモティのベーシスト、Yas竹田によると、この場所は現在スポーツ・バーになっている。 

clip_image134.jpg フラナガンは、この店でレッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と常時演奏を重ねることによって、磨きのかかったマテリアルを、さらにピアノ・トリオ形式に用いて大きく開花させました。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが『バラッズ&ブルース』―〈With Malice Towards None〉〈They Say It's Spring〉...フラナガン・トリオの十八番の初期ヴァージョンが、ラインとパルスの兼ね備えたジョージ・ムラーツという最高のパートナーを得て、1978当時、他に例をみない斬新さと自由さ、そして品格を持つデュオローグになっています。もちろん、後になってから気づいたことだけど...

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達の、デュオ形式によるジャズの発展という意味でも重要な場所だったと言えるでしょう。

 

=夢のジャズ・クラブ=

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 《ブラッドレイズ》は、朝方まで営業していて、夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブに出演中のミュージシャン達や、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま...ありとあらゆるジャズ界の名士たちがやって来た。運が良ければ、フラナガンやバリー・ハリスを聴きに来たパノニカ男爵夫人にさえ会える。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!私たちを初めて連れて行ってくれたのはフラナガンで、寺井尚之を、レッド・ミッチェル(b)と一緒に演奏させてくれた。宿泊先にアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「明日の晩、僕は《ブラッドレイズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=ブラッドレイ・カニングハム=

 そんな夢の空間の創設者、ブラッドレイ・カニングハム(1925-88)は伝説的バーテンダー、シカゴで生まれてから、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。何店かバーを開店して利益が出たら売却し、'69年にオーB24373_104802289557432_7024570_n.jpgプンしたのが《ブラッドレイズ》で、これが最後の店になった。ブラッドレイはハンサムな大男、カクテルの腕前は伝説的で、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、それに日本語も堪能だったらしい。彼が出演を依頼したアーティストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、バリー・ハリス、ケニー・バロン...ブラッドレイは、ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾くことのできる」ピアニストが好みだった。そんな趣味の良さと人柄で、多くの名手たちが、好んで出演したのでしょう。彼とジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズ(ds)の誕生日が9月9日だったので、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドレイの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(1977, Progressive)に収録しています。

(続く)

2018年4月 8日

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(後編)

好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana (後編)

OFC_0118JJ coverlink.jpgJazz Journal Magazine 2018 1月号より:

=ボストンから世界へ=

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(前項から続く ハーヴァード大学からニュー・イングランド音大へ、驚異的な学生ドラマーとして地元シーンで注目を集めたアキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。  

s-rollins.jpgアキラ・タナ:「ソニーは、言わばドラムを含め、自己バンドの転換期にあった。それでジェリーがこう言ってくれた。『ソニーがNYでドラムのオーディションをやることになったんだけど、受けてみないか?』そこで僕はNYに出かけ、オーディション会場になっているリハーサル・スタジオに行った。-僕が一番乗りだったんだ。-そしてソニーと僕のデュオで演奏させられた。30分、45分...それくらいたっぷり一緒にやった。まるで夢が現実になったみたいだったよ。だって、あのソニー・ロリンズと僕が同じ部屋に一緒に居て、サシで演ってるんだから!僕の他にドラマーが2,3人、それにピアノやギター弾きも居たけれど、ロリンズは僕に、終わるまで残っているよう告げた。言われたとおり、居残っていたら、オーディションの終了後、彼が僕のところにやってきて、2週間のツアーに帯同してくれないかと言ったんだ。」


  ロリンズとの共演は、この若手ドラマーにとって強烈な体験となった。

「それまでボストン周辺では、ヘレン・ヒュームズと何本か仕事をしていたし、結構好評だったんだ。しかし、この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ...だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるから...」 

 10年に渡るボストンでの生活に区切りをつけ、アキラは本格的なプロとしてのキャリアをスタートさせるためにNYに進出したが、ここでも、ボストンで築いた音楽的人脈が大いに功を奏した。そして、彼の成功の源は、ちょうど良いタイミングにちょうど良い場所に居ること、そして何事にも常に前向きな姿勢であるところだ。

Julian_Priester.jpg「ジュリアン・プリースターがNYでの仕事について言っていたことを思いだすよ。『人脈作りが仕事のうちだ。声がかかれば、自分にはいつでも仕事をする準備ができていると、皆に知ってもらうこと。いつでも彼に頼めると思ってもらえる状況を作ることだ。』自分でチャンスを作ること、存在を意識してもらうようにすること。それが彼の教えだった。」

 

 

  彼の教えどおり、アキラ・タナは、1980年代全般、NYを拠点したフリーランスのドラマーとして注目度が増す。信頼できるパーカッショニストとして、またバンド・メイトとして、音楽的にも人間的にも高い評価を得たことが、数え切れないほどの演奏とレコーディングを依頼される結果となった。多くの録音の中で特に思い出に残っているのが、ズート・シムズ(ts)との共演盤三作で、そのうち2枚はピアノにジミー・ロウルズが参加している。これらは非常にリラックスしたセッションとなった。

R-7503031-1442825362-8907.jpeg.jpg「ズートは言った。『これはレコーディング・セッションだ。だから時間どおりに来て、ドラムをセットして、演奏すりゃいい。』彼が曲名をコールすると、リハーサルなしで録音したんだ。あんなすごい人達と演奏するのは素晴らしいことだった。ジミーは名作曲家でありピアノ奏者、ビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルド...すごい人たちと一緒に演ってきた...だから、こんなすごい人達と付き合い、一緒に録音したものがレコードになって残るとは、本当にありがたいことだね。」

 

しかし、パブロでの録音の全てが、ズートやジミーとの関係のようにスムーズなわけではなかった。

 norman_granz.jpg「一連のセッションで、最も記憶に残っているのは、ノーマン・グランツとのことだ。録音場所がRCAのスタジオで、そこは通常、トスカニーニのような人の大編成オーケストラが使うような大スタジオだった。だだっ広いスタジオの中で、僕たちのセッティングが離れ離れの位置になっちゃった。おかげで、ピアノも、誰の音もちゃんと聴こえない。僕の位置は他のプレイヤー達から一番離れた隅っこだったから。それで、僕はノーマン・グランツに『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』と頼んだ。するとグランツのお説教が始まった。昔から、どの時代でも、誰もそんなものは使わん!だからお前も必要ないってね。それで、ちょっとイラっとして、『ズートの音も聞こえません。ジミー・ロウルズが何を弾いてるのかも聞き取れないんです。だからヘッドフォンが必要なんですっ!』と言い返した。そうしたら、やっと彼がヘッドフォンを持ってきてくれて、皆の音が聞こえるようになった。このレコーディング・セッションが忘れられないのは、多分それが理由なのかも知れないね。」

  NYに進出したアキラは、他にアート・ファーマー(tp)やキャロル・スローンといったミュージシャンとも共演。そして、ジミー・ヒース、パーシー・ヒースの"ヒース・ブラザース"の一員としての長期に渡る活動(1979-82)は、数枚のLPに結実し、彼の名声が確立する。NY時代は、ドラマーとして多忙を極め、多くのレコーディングにも参加している。もう一枚の思い出深いセッションは、1989年録音のジェームズ・ムーディのアルバム『Sweet And Lovely』である。

cover_039.jpg「ジェームズ(ムーディ)がセッション前にこう言った。『私の友人が一人、このセッションに参加することになっている。もうすぐやって来るはずなんだが...』彼は、その友達が誰だか言わなかったので、てっきり、からかっているんだと思ってた。だが、それはディジーだったんだ。ディジーがやって来て、3-4曲一緒に録音した。その中の一曲が強烈に記憶に残ってる。シャッフル・ブルースみたいなので、二人がスキャットしたり歌ったりし始めた。すると、エンジニアのジム・アンダーソンは、それををうまくヴォーカル・トラックに作り上げだ。そして、結果的にグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル部門にノミネートされた!」(ディジー・ガレスピーはこのアルバム中〈Con Alma〉と〈Get the Booty〉の2トラックに参加している。後者がタナの言及したシャッフル・ブルースで、ディジーは1957年、ソニー・ロリンズとソニー・スティットをフィーチャーしたVerve盤『Duets』に〈Sumphin'〉という別タイトルで録音した。)

XAT-1245399253.jpg 1990年代の到来とともに、アキラ・タナの活動主軸は"タナリード"となる。"タナリード"は、ベーシスト、ルーファス・リードとの双頭バンドとして、9年間に渡って活動を続けた。ジャズ史の谷間的世代にもかかわらず、この名コンビのアルバムは、何枚もヒットを記録している。

  僕はノーマン・グランツに頼んだ。『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』するとお説教だ。「昔からどの時代でもそんなものは使わん!だからお前も必要ない!」僕は少しイラっとした。 

「僕たちよりも前の世代は、時代を越えて高い知名度を保っているし、僕たちより下の世代となると、ウィントン&ブランフォード・マルサリスのように、ヤング・ライオンとしてマスコミに大きく注目されていた。だから、僕たちのような、中間に属する世代のプレイヤーは、彼らに比べると日陰の存在だ。でも、僕たち(タナリード)は、ツアーで自分たちの音楽を演奏することができた。本当に素晴らしい体験だったよ。」 

 '90年代の終わり頃、家庭の事情でサン・フランシスコのベイエリアに戻った後も、アキラは、日本ツアーを時々行いながら、地元ジャズ・シーンで存在感を見せつけている。大都市NYの最尖端の音楽シーンでチャレンジを続けた時代を懐かしむ気持ちはあるものの、彼は自分の選んだ人生について達観している。

「確かに楽しい仕事のチャンスはあるよ。だがその一方で、生き残るために、余りグッとこない仕事もしなくては...そういう生活はうっぷんがたまる。あとになって後悔することを、最初からやるべきじゃない。」

 -悪くない人生哲学だ。そんな彼の生き方は、今後もジャズ・シーンに於いて、巨匠パーカッショニストとしての大きな存在感をずっと発揮し続けると強く確信させてくれる。(了) 

インタビュー by Randy Smith

Akira Tana Selected discography

As leader

Otonowa, Acannatuna Records

Moon Over The World, with Ted Lo & Rufus

Reid (Sons of Sound)

Secret Agent Men, with Dr. Lonnie Smith

(Sons of Sound)

As co-leader

TanaReid: Back To Front (Evidence)

TanaReid: Yours And Mine (Concord)

As sideman:

Al Cohn: Overtones (Concord)

Claudio Roditi: Gemini Man (Milestone)

Heath Brothers: Expressions Of Life (Columbia)

Heath Brothers: Live At The Public Theatre

(Columbia)

James Moody: Sweet And Lovely (Novus)

Zoot Sims: I Wish I Were Twins (Pablo/OJC)

Zoot Sims: The Innocent Years (Pablo/OJC)

Zoot Sims: Suddenly It's Spring! (Pablo/OJC)

2018年4月 6日

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(前編)

 我らがヒーロー、興味の尽きないアーティストであり一人の人間、アキラ・タナが、今月後半から単身来日。5月3日にはOverSeasに待望の来演を果たします。

 "Interlude"ブログ復帰初投稿は、英国のメジャー・ジャズ雑誌"ジャズ・ジャーナル"誌の1月号に掲載されたアキラ・タナのカバー・インタビューの日本語訳です。

 世界のどこに行ってもアキラさんは尊敬され好かれるんだ!という印象を新たにした読み応えのある内容でした。

 来日前にアキラさんのジャズ・ライフを覗いた後は、ぜひOverSeasにも聴きにきてください!

 長文なので、まず前編から:

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akira_tana_2016.jpg好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana 

1970-80s-ズート・シムス、ソニー・スティット、ジェームズ・ムーディはじめ、スイングからバップの激動期を生き抜いたベテランの巨匠と幅広く活躍したドラマー、アキラ・タナの素顔にランディ・スミスが迫る。

 

ソニー・ロリンズとの共演について:
「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ...だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。...礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っている。」-この賛辞の言葉は、当時89才のジミー・ヒースが、"ヒース・ブラザース"時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

 また、ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(87才)も、同様の質問に対して、以下のように明言する。「アキラは滅茶苦茶すごいドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」

 

 これらの発言から、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由が、お分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは"タナリード"を結成し、'90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。 

otonowafrontcover_227.jpg 近年のアキラ・タナの活動として"音の輪(Otonowa)"というグループがある。"Otonowa"は日本語で "sound circle"という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。"音の輪"は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。

 だが、アキラ・タナは、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。

 インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日本人移民である両親の影響について尋ねてみた。

 

アキラ・タナ「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、"芸術"という意味では、多分母の影響があったのだろう。」

 

アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始めて、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。

 

「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」

 

'70年代初め、ボストンのハーヴァード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧め、アキラは彼の言葉に従い、1年半の間、ドーソンの元でしっかりと研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、後進の指導と自分自身が演奏に活用し続けている。

1974年、ハーヴァード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽大学に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかりと見に付けた。それと同時に、出来る限りギグに勤しんだ。

combatzone1.jpg「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをこなした。ボストンの"コンバット・ゾーン"(ボストンの赤線地帯)と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたからね。」

 

  '70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を結んだことがきっかけで、単発で、ジャズの名手たちとの共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズが居た。

タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)が(引き受けていたのに)都合の悪くなったギグは、それがどんな仕事であっても、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

 他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティットとの1週間に渡るギグは特に思い出が深い。

sonnystitt.jpg 「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスは、ソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度か僕とジェームズの方へ振り返って、どなりつけたんだ。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だね。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイしたんだ。」

 

アキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。(続く)

39thlogo.jpg39周年記念ライヴ5/3-5/5開催

ご無沙汰です!ブログ復活

39thlogo.jpg ご無沙汰しています。

 家業と家事と翻訳、3月のトミー・フラナガン・トリビュート...仕事の合間に、ちょっとゆっくりしていたら、あっという間に半年が経過していました。

休載している間も、既刊の記事にコメントいただき、本当にありがとうございました。

 体調と相談しながらぼちぼちとリスタートしていきますので、宜しくお願い申し上げます。

Jazz Club OverSeasも、今年で開店39周年、5月の連休5/2-5/5に記念ライヴを開催します。

初日は、巨匠ドラマー、アキラ・タナ、そして寺井尚之の爆笑スタンダード集、最終日は、OverSeasが誇る中井幸一クインテットによるJ.J.ジョンソン特集という、超おすすめの3日間です。

 旅行で大阪に立ち寄られる皆様、旅行に行かない大阪の皆様、ぜひこの機会にご来店宜しくお願い申し上げます。

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 詳細はhttp://jazzclub-overseas.com/GW_jazz__events_2018.html

2017年11月14日

トリビュート・コンサートの前に:「トミー・フラナガン語録」

 土曜日はTribute to Tommy Flanagan=トミー・フラナガン追悼コンサート開催!

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 2001年11月16日にトミー・フラナガンが亡くなって以来、誕生月3月と逝去月11月に行なってきたトリビュート・コンサート、早いもので31回目となりました!

 トミー・フラナガンを一途に敬愛する寺井尚之(p)と宮本在浩(b)、菅一平(ds)のメインステム・トリオが精魂込めて演奏する名演目の数々。

 トミー・フラナガンがお好きな皆様も、まだ聴いたことのない皆様も、ぜひ一度トリビュート・コンサートに来てみてくださいね。

  OverSeasでは、毎月第二土曜に、トミー・フラナガンのディスコグラフィーを年代順に解説する講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」を続けています。  今回は、講座の下調べに使った様々な書物から、トミー・フラナガンの名言をピックアップ。数々の名盤に参加し、名伴奏者の誉れ高いトミー・フラナガン。歴史的レコーディングの一翼を担ったフラナガンの深い言葉の数々、トリビュート・コンサートのウエルカム・ドリンク代わりにどうぞ!

「サイドマン稼業:'50sを回想して」

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 「サイドマンのほうがずっと気楽に録音の仕事が出来る。...だが'50年代にやった多くのレコーディングはそれ程簡単ではなかったがね、何故なら頭の中で全部アレンジしなければならない。イントロもエンディングも考えて、自分のソロの心配までしなくちゃならない。だが演奏に没頭できて、自分にとっては良い時代だった。トップミュージシャン達の共演が目白押しで、凄い量の演奏をこなした。それで毛がごっそり抜けちゃったんだよ。(笑い)

   リハーサルなんて殆どないさ。録音の場で全てが行われ、大抵が1セッションだった。今と大違いだ。ミュージシャンのアドリブ重視のポリシー(フラナガンがSロリンズの『サクソフォン・コロッサス始め多くの歴史的名盤に参加したレーベル、Prestigeの謳い文句)なんて関係ない!予算の問題だ。潤沢な予算のある録音の見込みなどないとわかっていたしね。(笑)

  製作側も、完璧なサウンドを要求することは、あまりなかったんだ。例えば、「どこまで完璧にソロを録音するか」といった目標はなかった。今じゃ気にいらないところは編集でカットできるが、その頃の録音は、ミスも何もかも全部聞こえてしまう。だが当時はその方が好きだった。

=若いときから頑固者=
Collector's Items / Miles Davis (Prestige '56)

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  『コレクター・アイテムズ』は、マイルス・デイビスとの共演だ。<ノー・ライン>と<ヴィアード・ ブルース>というブルースを2曲と、デイブ・ブルーベックのバラード<イン・ユア・オウン・スウィート・ウエイ>を録音した

 トミー・フラナガン:「録音は私の誕生日だった。26才の誕生日、3月16日だ。マイルスはコルトレーンやフィリー・ジョー・ジョーンズとクインテットを結成する以前、デトロイトに数年間住んでいたんだ。(麻薬中毒治療のため)

  その時期、デトロイトにあるクラブ《ブルーバード・イン》で彼と共演していた。私は、ビリー・ミッチェル(ts)がリーダーのハウス・バンドの一員で、マイルスは、そこにゲストとしてで数ケ月入っていた。

  それは、マイルスは自分を立て直そうとしていた時期で、当時はチャーリー・パーカーの共演者として有名だった。... 

  そういうことがあって、私にお呼びがかかったんだ。録音セッションでは、終始いい感じで演奏した。ブルーベックの1曲(In Your Own Sweet Way)以外はね。その曲は変なきっかけで録音することになったんだ。マイルスの尻のポケットにその曲の簡単なコードのメモが入っていた。イントロのボイシングをマイルスが僕に指示したのを覚えているよ。彼は、自分が求めるものを常に正確に把握していたから、僕にこんな感じで囁いた。  (マイルスのしゃがれ声を真似て・・)「'ブロックコードを弾いてくれ。ミルト・バックナー風ではなくて、アーマッド・ジャマールみたいにな。」... でも、私はそういう弾き方が余り好きになれなかったんだ。一方、レッド・ガーランドがその奏法に飛びついた。アーマッドのプレイは大好きだけど、自分は彼のように弾きたいとは思わなかったんだ。」

=Saxophone Colossus / Sonny Rollins (Prestige '56)=
ホーキンスの次に好きなサックス奏者

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 質問:歴史的名盤『サクソフォンコロッサス』でソニー・ロリンズと共演された時、スタジオ内にエクサイティングな雰囲気はありましたか?

 トミー・フラナガン:「演奏曲がエクサイティングだったかどうかは覚えていない。ただ、ソニー・ロリンズとレコーディングで共演することで私は興奮していた。コールマン・ホーキンスを別にすれば、ロリンズは私が当時最も好きなサックス奏者だったから。

質問:<ブルー・セブン>が絶賛を受け、その後のロリンズは一時引退しましたが、それについて、あなたは困惑されましたか?

 トミー・フラナガン:「全然!ソニーはほとんどシャイといっていい人間だったからね。だから音楽からも、バンドスタンドからも離れた。彼をインタビューに引っ張り出そうとしても凄く難しいと思うよ。彼はステージでも、イナイナイバーみたいに顔を隠して上がるくらいシャイな人だった。聴衆に余り近付きたがらなかった。

 まあ、あれほど素晴らしいミュージシャンなのだから、例え<ブルー・セブン>が絶賛されても、どうってことはないさ。(笑) 実際の彼はあの演奏よりもっとすごいのだから。

=The Incredible Jazz Guitar / Wes Montgomery ('60)=
西洋音楽の教義に縛られないミュージシャン

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  トミー・フラナガン:「ウエスの噂はよく聞いていた。レコーディングする前から伝説的存在だった。ピックを使わずに親指だけでプレイするギター弾きとして、噂は良く聞いていた。コーラス毎に次々とコードを付けをして、同じ事は二度と繰り返さないとね。このセッションでも、彼は正にその通りだった。それほどインクレディブルだったんだ。

  録音でのウエスは、噂に聞いていたことは全て実際にやってのけた。それにもかかわらず、ウエスは自分の腕前についてとてもシャイなところがあった。

 『Wow! 凄いや!もう一度聞いてみようよ!』『Wow! 本当に君が弾いてるのかい!信じられない!』...そんな風に誉められるのを嫌がった。自分の超絶技巧やプレイについて話をしたがらなかった。

   おかしな奴だった。「譜面が読めない」という理由だけで、自分を良いミュージシャンだと思っていなかった。読めないミュージシャンには良くあることなんだ。素晴らしいミュージシャンなのに、読めないからといって、自分を卑下してしまう。エロール・ガーナーもその一人だ。彼等は言わばその分野の第一人者なのに!だって殆どのミュージシャン達は西洋音楽を勉強し、理論に束縛される。アカデミックな教義に縛られていないというのは、素晴らしい事なのに。

=Giant Steps / John Coltrane (Atlantic '60)=
ジャイアント・ステップスは録音用の曲だった。

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 トミー・フラナガン  「コルトレーンは、"自分の創ったシステムを用いてレコーディングし、成果を挙げたい。"と私に録音コンセプトを説明してくれた。その言葉どおり、彼は"ジャイアント・ステップス"と同種の進行を用い、何曲も録音した。だがその内の何曲かは収録すらされなかった。我々が全く出来なかったからだ。曲のテンポがどれもこれも速過ぎて、到底1セッションで様になるものではなかった。」

 「何故、レコード会社はたった1回のセッションでアルバム一枚全部作ってしまおうとするのかね?理解できないよ。あのようなハードな音楽を1日8時間もぶっ続けに演るのは、死ぬほど大変なんだ。それに自分のやっていることをきちんと把握していなければ命取りだ。勿論、トレーンはちゃんとわかっていたがね 。」

 「私はコルトレーンが"ジャイアント・ステップス"をライブで演ったのを聴いたことがない。"ジャイアント・ステップス"は録音のための曲だったのだ。彼はそのシステムを他の曲にも応用した。それは少し変則的なもので、おおむねマイナー7th~メジャー7th~メジャーとつながる。つまりメジャー~メジャー~メジャーという音楽をやろうとしたのだろう。

 「そういう音楽は演奏者の考え方を変えてくれる。考えを変えないと演奏できないからだ。もし自分に用意ができていなかったり、テンポが早すぎれば考えることすらできない。"ジャイアント・ステップス"とはそういう音楽なんだ。演奏者をエキサイトさせてくれる。そしてトレーンに"OK,おまえもなかなかやるな!"と言ってもらえれば、なおさらだ!」

 トミー・フラナガンは無口な人でしたが、時たま、外交辞令以上のドキっとするような発言が様々な文献に残っています。今回のエントリーは、"Jazz Spoken Here"(Wayne Enstice, Paul Rubin共著)と "Jazz Lives"(Michel Ullman著)を参考にしました。どちらも、ジャズ講座準備の際、ジャズ評論家、後藤誠先生にお借りしたもの。後藤先生、ありがとうございます!

 ウエス・モンゴメリーを「アカデミックな教義に縛られない」アーティストという発言が出てきます。ヨーロッパ西洋音楽に対するフラナガンの複雑な思いは、トリビュートで聴くデューク・エリントン音楽や、トミー・フラナガンのブラック・ミュージックへの憧憬とリンクしていきます。

 では土曜日のトリビュート・コンサート、寺井尚之メインステムの演奏をお楽しみに!

CU

2017年10月27日

祝ジミー・ヒース91才-録音の思い出

  Jimmy-Heath-e1373743674277-684x384.jpg 私たちが敬愛するテナーの巨匠、ジミー・ヒースは1926年生まれ。若き日は、チャーリー・パーカーの再来という意味で「リトル・バード」と呼ばれ、ディジー・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス達と関わりを持ちながら、ジャズの歴史を大きく動かしました。最高にヒップでスマートな巨匠も今年の10月25日に91才。
 OverSeasで行なったヒース・ブラザースのコンサートの素晴らしさは一生忘れることはありません!
寺井尚之のいかなる音楽的質問にも速攻で答えてくれる超ハイIQ、威張らず気取らず、それでいてオーラ溢れる天才音楽家です!

 「ジャズタイムス」電子版7月号に、リーダーとして、サイドマンとして参加した様々な名盤にまつわる非常に興味深いエピソードが掲載されていました。ジミーの奥さん、モナ・ヒースさんが「天才ミュージシャンは、何故か子供みたいなところがあるものなのよね。」と、私にこっそり話してくれたことがあります。それは決して自分の旦那さまの自慢話として語った言葉ではないのですが、このインタビューの端々に、モナさんの言葉が思い出されました。

☆日本語訳にあたり、ジミー・ヒースの優秀な生徒であったベーシスト、Yas Takedaに助言をいただいたことを感謝します。

=リトル・バードは語る=
聞き手:By Mac Randall 原文サイト:  https://jazztimes.com/features/a-little-bird-told-me/ 

1.Howard McGhee/Milt Jackson

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Howard McGhee and Milt Jackson
 (recorded 1948, released 1955 on Savoy)

McGhee, trumpet; Jackson, vibraphone; Heath, alto and baritone saxophones; Will Davis, piano; Percy Heath, bass; Joe Harris, drums

 

 バグス(ミルト・ジャクソン)とは多くのアルバムで共演していて、これが最初のアルバムだ。私が21才当時、一緒に仕事をした内で一番の大物がハワード(マギー)だった。彼のほど名前の知れた名プレイヤーと共演したのは初めてだった。彼はカリフォルニアのビバッパーだ。この録音の前に、シカゴの《アーガイル・ショウ・ラウンジ》で何度か共演したが、店のオーナーがギャラとして支払った小切手は未だに換金できていない。文句を言う為に店に戻ったら、そいつはコートのボタンを外して、拳銃をちらつかせた。それがハワード・マギーとの共演で一番の思い出かな...

私のことを"リトル・バード"と呼び始めたのがハワード(マギー)とバグス(ミルト・ジャクソン)だ。その当時、私はまだアルトを吹いていて、何とか師と仰ぐチャーリー・パーカーのようにプレイしたいと必死だった。まあ、その頃は私だけでなく、誰でも、そう思って頑張っていたのさ。バードは皆を夢中にさせたからね。だから、ハワードとバグスは、"リトル・バード"というニックネームを私に付けることによって、リスペクトを示してくれたわけだが、おこがましい名前だったと自分では思っている。確かにバードならではのフレーズやお決まりのプレイを身に着けてはいたけれど、まだまだビバップ・スタイルを目指すスタート地点に立っていただけさ。他に、このバンドで覚えていることは余りないね。バンドが長続きしなかったことだけは覚えている。このセッションは'48の2月に行われたもので、同じ年の5月に、ハワードと一緒にパリへツアーしたが、ミルトは同行しなかった。

2.Kenny Dorham Quintet

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Kenny Dorham Quintet (Debut, 1954) 


Dorham, trumpet and vocal; Heath, tenor and baritone saxophones; Walter Bishop, piano; Percy Heath, bass; Kenny Clarke, drums

   ケニーは僕の大好きなトランペット奏者であり、大好きな共演者でもあった。私は彼のアレンジするオーケストレーションやオリジナル作品も非常に気に入っていた。ケニー・ド-ハムとタッド・ダメロンは、ビバップ世代に於ける偉大なるロマン派作曲家だと思う。

 最初の'48年のハワード・マギーのセッションでは何曲かバリトンを吹いている。それが私のバリトン・サックスでの初録音だ。ケニーとの本作も、バリトンを演奏している数少ない作品だね。 "Be My Love"で、ケニーにバリトンを吹いてほしいと頼まれてね、なにしろ身長が160㌢しかないものだから、(大型の)バリトン・サックスの演奏依頼はしょっちゅうあるわけじゃなかった。楽器が大きすぎるんだよ!バリトンを吹いたセッションは確か3回だけだよ。スリー・ストライクでアウト!ってところだ。

3.The Jimmy Heath Orchestra

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Really Big! (Riverside, 1960)

Heath, tenor saxophone; Nat Adderley, cornet; Clark Terry, flugelhorn and trumpet; Tom McIntosh, trombone; Dick Berg, French horn; Cannonball Adderley, alto saxophone; Pat Patrick, baritone saxophone; Tommy Flanagan and Cedar Walton, piano; Percy Heath, bass; Albert Heath, drums

 これは「初リーダー作」というわけではないが、大編成のバンドを率いた初めてのレコーディングだった、十人編成だから殆どビッグ・バンドと言える。

 私は、自分が惚れ込んだ楽器、つまりフレンチ・ホルンと一緒にレコーディングをしたいと思った。フレンチ・ホルンがアンサンブルにしっくりと溶け込む感じが好きでね、これ以来何枚かのアルバムでこの楽器を使った。フレンチ・ホルン奏者のディック・バーグを入れてブラス四管、リード三管の編成にし、クラーク・テリー(tp.flg.)にリードを取ってもらった。クラークはこう言ってくれた。「お前さんのレコードなら、いつだって、どんな録音でも、ユニオンの最低賃金で出演させてくれ!」彼は当時すでに、相当なビッグ・ネームだったから、この言葉は私にとって非常にありがたく恩義に感じた。彼のような大物が、私の音楽を気に入ったというだけで、最低のギャラでいいと言ってくれたのだから。彼のプレイは本当に素晴らしくて、私はすっかりノックアウトされてしまったよ。

 このアルバムでは、編曲の段階で少し行き詰まってしまってね、ボビー・ティモンズの曲-"Dat Dere"はトム・マッキントッシュにアレンジしてもらった。彼はトロンボーンの名手だが、作編曲の腕前も同じくらい素晴らしい。バリトンを担当したのはパット・パトリック、元マサチューセッツ州知事、デヴァル・パトリックの親父だよ。録音セッションで、彼が私にこう言った。「この世に長いこと居れば、年月を経た重み(long gravityが備わるものさ。」 そして、後に私は、この言葉を自作曲のタイトルにした。-"Long Gravity"はヒース・ブラザースのテーマソングになったよ。

4. Jimmy Heath Quintet

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On the Trail (Riverside, 1964)

Heath, tenor saxophone; Kenny Burrell, guitar; Wynton Kelly, piano; Paul Chambers, bass; Albert Heath, drums

 

 

 私は、コルトレーンの後釜として、1,2ヶ月間、マイルスと共演していたことがある。バンドはキャノンボール(アダレイ)、ウィントン(ケリー)、ポール(チェンバース)、フィリー・ジョー・ジョーンズというすごい顔ぶれで、たまげたよ。ほどなく、この連中がオリン・キープニュース(Riversideレコードのプロデューサー)を説得して、私に専属契約を結ばせた。「コルトレーンがBlue Noteの専属になったからには、Riversideはジミー・ヒースを獲得しておくべきだ!」と言ってね。だから、Riversideでリーダー作の録音が始まると、彼らに参加してもらって恩返しをしようと思った。特にウィントン(ケリー)ならではの三連符が欲しかった。いみじくも、フィラデルフィアの友達は、彼のソロのことを「涙の粒で出来ている。」と評したが、私も全く同感だ。まさにピアノから涙がポロポロこぼれているようなんだ。

On the Trail 』には、〈Vanity〉というバラードを収録している。これはサラ・ヴォーンのヒット曲でね、コルトレーンも私も、彼女のバラードを聴くのが大好きだった。後になって、この曲を作曲したバーニー・ビアーマンに会った。百歳以上長生きした人なんだが、私の録音した〈Vanity〉にノックアウトされた!と言ってもらえた。

〈On the Trail〉を愛奏するようになったきっかけは、ドナルド・バードとの共演だ。彼が編曲したものを、アルフレッド・ライオンのプロデュースでBlue Noteに録音する予定だったんだが、ドナルドとアルフレッドの間にいざこざがあり、ドナルドが録音をやめてしまったんだ。それなら、私がこのアレンジでレコーディングしよう、ということになった。皆は私の編曲だと思っているが、ガブリエル・フォーレ作〈パヴァーヌ〉のラインを取り入れたこのアレンジは、ドナルドのものなんだ。そのラインは元々ギターのパートではなかったんだが、私のレコーディングではケニー・バレルが弾いているので、そこは私のアイデアのようだな。

5. Ray Brown/Milt Jackson

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Ray Brown/Milt Jackson (Verve, 1965)


Big-band session including Brown, bass; Jackson, vibraphone; Heath, tenor saxophone; Clark Terry, trumpet and flugelhorn; Jimmy Cleveland, trombone; Ray Alonge, French horn; Phil Woods, alto saxophone; Hank Jones, piano; Grady Tate, drums; arranged and conducted by Heath and Oliver Nelson

 このアルバムは私とオリヴァー・ネルソンが半分ずつ編曲を担当している。何故か、オリヴァーがフル・バンドの編曲を担当しているのに、私は10人編成のスモール・バンドでアレンジ依頼されていたのだとは知らなかった。気づいた時は「くそっ!騙された!」と思ったよ。そして、オリヴァーは自分のオーケストレーションに、常に半音をぶつけるハーモニーを使うことを主張した。そうすると耳触りの良いハーモニーになる。しかし、それがミルト・ジャクソンを大いにイラつかせた。バグス(ミルト・ジャクソン)は絶対音感の持ち主だから、二度マイナーに撹乱される。「EなのかFなのか?一体どっちなんだ?はっきりしやがれ!」って感じだ。後になって彼は言ったよ。「なあ、バミューダ(彼は私をこう呼んでいた。)俺はオリヴァーより、お前がアレンジした譜面の方がずっと好きだ。」ってね。

 ここには、〈Dew and Mud〉というオリジナルが収録されている。マイルス(デューイ-)デイヴィスとマディ・ウォーターズに捧げて書いた曲で、マイルスがよくトランペットで吹いてたマディ・ウォーターズのフレーズで始まってる。このアルバムではクラークがソロを取っていて...Oh, Yeah! もう最高だよ。いいレコードだな!

 ミスター・レイ・ブラウンは大好きだよ。最初に会ったのは1945年だ。ネブラスカ州のリンカーンで、私はナット・キング・コールと一緒に仕事をしていた。そこで我々は彼の引き抜きを画策したが、ディジー(ガレスピー)の楽団で仕事をしていることが判り、断念したんだ。このアルバムにはグラディ・テイト(ds)も参加している。私は彼のことを"Gravy Taker(おいしいところを取ってしまう奴)"と呼んでいた。彼は全くありとあらゆるギグで演っていたからね。

6.Art Farmer Quintet

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The Time and the Place (Columbia, 1967)


Farmer, flugelhorn and trumpet; Heath, tenor saxophone; Cedar Walton, piano; Walter Booker, bass; Mickey Roker, drums

 

 このアルバムでは、スタジオ録音と、残りはNYの近代美術館(MoMA)での演奏だ。〈いそしぎ〉をプレイした事を覚えているよ。母親が好きな曲だったので、よく演奏していたんだ。それに、私のオリジナル〈One for Juan〉も収録されている。コロンビア・コーヒーのコマーシャルに登場する農夫、フアン・ヴァルデスから名付けたんだ。「最高のコーヒーは南米だ!」って言うんだけど、私が最高だと思うのは、コーヒー豆とは違うものなんだがね(笑)

 アート・ファーマーの話をしようか。彼は、例えギグで赤字になったとしても、サイドメンにはきっちりとギャラを払う男だった。「クラブが君を雇ったわけじゃない。僕が君を雇ったんだから。」と言ってね。そういう人間だったよ。彼がヨーロッパ各地の様々な仕事場の住所を教えてくれたおかげで、私はその住所宛に手紙を書きさえすれば、仕事が取れた。そこに飛んで行って、3、4週間、行く先々で、現地のリズムセクションと共に、良い演奏ができた。いい奴だったな!アートのために曲を書き送れば、すぐさま録音してくれたよ。コード・チェンジを深く読みこなし、ほとんど完璧なソロを取った!私の経験から言えば、大抵のミュージシャンは、自分の気に入ったソロを取れるようになるまで、何度か練習するものだが、アートの場合は、音譜を読むように、コードを読みこなすことができた。全くずば抜けた才能だった。

7. Jimmy Heath

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Picture of Heath (Xanadu, 1975)

Heath, tenor and soprano saxophones; Barry Harris, piano; Sam Jones, bass; Billy Higgins, drums

 

 これはヒース・ブラザース結成直前に作ったアルバムだ。私は兄パーシー(ヒース)のプレイが大好きなんだが、モダン・ジャズ・カルテットでジョン・ルイスと共演しているし、クラシック志向が強いんだよ。だから何小節かベース・ランニングさせると、もう、うんざりしてしまう。一方、このサム・ジョーンズは、私がこれまで共演したうちで最もスイングする素晴らしいランニングのできるベーシストだ。彼のランニングは天国まで登っていく!それがこのアルバムにはある。我々は彼を"ホームズ"と呼んでいる。

『ピクチャー・オブ・ヒース』は自分のレギュラー・カルテットでレコーディングした数少ない一枚だ。ただし、ギターの代わりにピアノを入れているんだがね。このようなワン・ホーンでの録音は余りやっていない。何故なら、私は、あらゆる楽器が大好きなんだ。別にテナーだけが好きというわけではない。毎回、テナーが先発ソロで、次にピアノのソロ...そういうのは、私にとっては退屈極まりないことだ。私はフレンチ・ホルンが好きだし、チェロも好き、サックス・セクションもブラス・アンサンブルも、みんな大好きなんだ。なぜテナーだけに固執しなけりゃいけないんだね?まあ、デクスター(ゴードン)、ソニー(ロリンズ)、(ジョン)コルトレーンといった多くのミュージシャンは、確かにテナー・サックス一筋で名声を築いたんだが。トレーンが私のビッグ・バンドに在籍中に編曲した"Lover Man"が素晴らしい出来だった。「このアレンジは最高だ!とても気に入ったよ。こんな感じであと何曲か書いてくれないかい?」と頼んだら、彼はこう答えた。「いやあ...ジム、そんな暇はない。楽器の練習だけで精一杯だから。」やっぱり、私とは考え方が違っていたんだなあ。

8. The Heath Brothers

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Marchin' On (Strata-East, 1975)


Heath, tenor and soprano saxophones, flute; Stanley Cowell, piano and mbira; Percy Heath, bass and "baby bass"; Albert Heath, drums, flute and African double-reed instrument

 

 これは、ヒース・ブラザースのデビュー・アルバムだ。ちょうどスタンリー・カウエルがチャールズ・トリヴァーと一緒に"ストラータ・イースト"というレコード・レーベルを創設し、我々にレコーディングを依頼してきた。ヒース・ブラザースは家族のバンドなんだが、そこにスタンリーを義兄弟として招き入れた。だってスタンリーは凄いと感服していたからね。まあ、私たちにとって、少し毛色の変わったレコードだ。ノルウェイ、オスロでのツアー中の録音だ。この時代は、列車でヨーロッパ中をツアーしたものでね、兄のパーシーはボディがチェロと同じ形状のベース(ベビー・ベース)を、ツアーに持参していた。これはレイ・ブラウンが考案した楽器だ。列車の中で、パーシーがベビー・ベース、弟のトゥティ(アルバート・ヒース)と私がフルート、スタンリーがカリンバ(手のひら大の小箱にオルゴールのように並んだ金属棒を弾いて演奏するアフリカ生まれの楽器)を手にして演奏すると、乗客達がやってきて耳を傾ける。そうやって、次の国へと移動した。車中の私たちの演奏は、室内楽のグループのようで、たいそう喜ばれた。だから、そういうサウンドをこのアルバムに収録しようと決めたのさ。

〈Smilin' Billy Suite〉は、この『Marchin' On』のために書いた曲で、ビリー・ヒギンズに捧げたんだ。彼はいつも笑顔で、周囲をみんなも笑顔にしてしまう。ビリーのタイム感はまさに完璧だ。決して大きな音で叩かずに、聴くもの心に響くドラミングをした。後になって、ラッパーのナズが(1994年のアルバム『イルマティック』に中の〈One Love〉というトラックに)この組曲の一部をサンプリングして使っている。おかげで、私達のグループが新しい世代に注目されるようになったのはいいことだった。

Marchin' On』の録音後、私たちはCBSに移籍した。それは重要な節目の時期だった。初めてオーバーダビング技法を使ったのもこの頃だ。私の息子、ムトゥーメをバンドに入れて共演したし、グラミー賞にもノミネートされた。新譜を発表する毎に、前作より好セールスを記録した。『Then Expressions of Life』('80)は4万枚売れて、このバンドの最高記録だ。そして、会社は我々をクビにした!・・・仕方ない。私たちがいくら売れたと言っても、ビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンは数百万枚売るのだから相手にならないさ。

9. Jimmy Heath

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Little Man, Big Band (Verve, 1992)


Big-band session including Heath, tenor and soprano saxophones; Lew Soloff, trumpet; Jerome Richardson, alto saxophone; Billy Mitchell, tenor saxophone; Tony Purrone, guitar; Roland Hanna, piano; Ben Brown, bass; Lewis Nash, drums

 

 '47,'48年当時は、ビッグ・バンドのサウンドが大好きでね、これはその時代への回帰であると同時に、ビッグ・バンドでの初リーダー作だ。サックス・セクションが凄い!リード・アルトがジェローム(リチャードソン)だし、長年の盟友、ビリー・ミッチェルも入っている。それにトニー・(ピュロン)がギターだ。ヒース・ブラザースに在籍していたときから、私は彼にぞっこんなんだ。彼はバグス(ミルト・ジャクソン)のように絶対音感があり、望むままに、どんなキーでも演奏できる。これは私がとても誇りに感じているアルバムだ。

 私は自分の好きな人達に捧げて作曲するのが大好きで、この『Little Man, Big Band』にもそういう曲をたくさん収録した-ジョン・コルトレーンに捧げた〈Trane Connections〉、ソニー・ロリンズへの〈Forever Sonny〉、私の師であるディジー・ガレスピーへの〈Without You, No Me〉、そしてコールマン・ホーキンスへの〈The Voice of the Saxophone〉、ホーキンスは私がハワード・マギーとパリにツアーした時の看板スターだった。

10.The Jimmy Heath Big Band

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Turn Up the Heath (Planet Arts, 2006)

Big-band session including Heath, tenor saxophone; Terell Stafford, trumpet; Slide Hampton, trombone; Lew Tabackin, flute; Antonio Hart, alto and soprano saxophones, flute; Charles Davis, tenor saxophone; Gary Smulyan, baritone saxophone; Jeb Patton, piano; Peter Washington, bass; Lewis Nash, drums

 

 ジェブ・パットン(p)はクイーンズ・カレッジの教え子で、ここ16年間ヒース・ブラザースのレギュラー・ピアニストだ。私たちは彼が本当に大好きなんだ。アントニオ・ハートも私の生徒だよ。そしてチャールズ・デイヴィスとは実に長い付き合いだ。彼にこう言ったことがある。「お前がソロを取っている最中に、バンドが入ってくる、それが最終コーラスの合図だから、そこでソロを終わってくれ。」しかし、チャールズはソロを止めなかった・・・私は彼にLPCDというあだ名を付けてやった。つまり「ロング・プレイング・チャールズ・デイヴィス」の略だ!それから、ずっと昔に作ったオリジナル〈Gemini〉では、ルー・タバキンがフルートでソロを取っている。彼のことは「噛みタバキン(Chew Tobacco)」と呼んでいる。だって、彼がテナーをプレイするときに、まるでリードを噛み噛みしているように見えるからさ。こんなふうに、私は誰彼なしに、皆にあだ名を付けてやるんだよ。(笑)

 

2017年9月18日

本国メディアで絶賛されたアキラ・タナの『音の輪』

   OverSeaが大好きなドラマー、アキラ・タナが、今年も日系人スーパー・バンド『音の輪』を率いて今年も来日ツアーを行います。ツアー・スケジュールはこちら

  アキラさんの"日系米人によるジャズ・ユニット"というコンセプトは、今から25年前、ケイ赤城(p)と、アキラさんの音楽的パートナーであるルーファス・リード(b)と組んだ『アジアン・アメリカン・ジャズ・トリオ』(1992)のアルバム〈サウンド・サークル〉に芽生えていました。そこから約20年後、東北大震災が起こり、被災地復興のために努力したいという気持ちから、特別編成のバンドを組み、地元サンフランシスコで開催したチャリティ・コンサートが大好評を博したのを機に、アキラさんが抱いていた音楽コンセプトは大いに発展を見ることになりました。

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 『音の輪』(左から)マサル・コガ(reeds), アート・ヒラハラ(p), アキラ・タナ(ds), ケン・オカダ(b)

  サンフランシスコの日系人コミュニティの後押しで、『音の輪』を率いて2013年から始めた『東北応援ツアー』と銘打った被災地でのチャリティ・コンサートやクリニックは、現地の方々に毎年親しまれ、今年も9月末から福島県いわき市を皮切りに福島、岩手、宮城の被災地だけでなく関西での一般公演も各地で予定されています。 

 継続は力なり!アキラ・タナのリーダーシップの元、マルチ・リード奏者、マサル・コガ、ピアニスト、アート・ヒラハラ、ベーシスト、ケン・オカダという名手を擁し、レギュラー・バンドでしか叶わない、ソリッドで心のこもった『音の輪』ならではのプレイは、ジャンルを越えて聴く者の胸を打つ力があります。 

 これまで『音の輪』は2枚のアルバムを発表していますが、昨年リリースされた〈Stars Across the Ocean〉は、ダウンビート誌で大きな評価を受けました。選者は、NPRのジャズ番組のプロデューサー、NY大学で教鞭をとるジャズ評論の大家、ハワード・マンデル氏!アメリカ人評論家が感動したジャパニーズ・アメリカンな『音の輪』の世界。日本語に訳したので、ぜひご一読ください。

 

otonowa_stars_across_the_ocean.jpgダウンビート誌

2017年4月号より(原文はインターネットでも読めます。

AkiraTana and Otonowa
Stars Across The Ocean
SONS OF SOUND037 
★★★★

 

Stars Across The Ocean』は、日系ベテラン・ドラマー、アキラ・タナ率いるカルテット"音の輪"による、東日本大震災(2011)被災地復興支援を目的とした第二作目のチャリティー・アルバムだ。

 洗練された表現で魅せるポスト・バップから、日本の民謡、歌謡曲、そして仏教由来の旋律を、心を込めて様々にアレンジしたヴァージョンまで、幅広い内容となっている。それぞれの曲は、バンドの強力な一体感によって、津波の悲劇に対する献辞とも感じるが、そのような経緯を知らないリスナーでも、充分に楽しめる作品だ。アルバム全体にはメランコリーなムードが漂うものの、"音の輪"の音楽的な主眼は、モダンジャズの伝統をしっかり踏まえつつ、しなやかさと明瞭さを持って、いかなる素材も秀逸にこなす点に置かれているようだ。

強靭で熱く、それでいてカラフルな光彩を放つタナのドラミングに推進されたピアノのヒラハラは、ソロを取っても、バックに回っても、十二分に実力を発揮し、気合の籠ったプレイを繰り広げる。マルチ・リードのマサル・コガは、どの楽器を取っても名手の域に達する逸材、特にソプラノ、アルト、テナーの三管が素晴らしい。ジョン・コルトレーンの影響がみられるが、端正なフレージングとほとばしる情熱は、彼ならではしっかりした個性がある。ベーシスト、ケン岡田も、タナと息の合った手堅いプレイを聴かせている。

また、本作ではジャズにお馴染みの趣向もしっかり堪能できる。例えば〈どんぐりころころ〉の進行は"リズムチェンジ"だし、〈テムジン〉の導入部には〈フリーダム・ジャズ・ダンス〉の片鱗を感じる。そしてタナのオリジナル曲、〈ホープ・フォー・ナウ〉ではアート・ブレイキーを彷彿とさせる強力なドラミングが聴ける。だが、傑出したトラックには、やはり日本のマテリアルが多い。ピアノレスで演奏される童謡〈とうりゃんせ〉とコガの尺八をフィーチャーした〈黒田節〉が出色。そして、古典的TVアニメのテーマソング〈鉄腕アトム〉では、非常に深く掘り下げた演奏解釈が思いがけない収穫だ。

評:ハワード・マンデル

 akira_tana_2016.jpgさて、アキラさんの毎回の来演を心待ちにしているOverSeasでは、10月31日(火)に、おなじみの愉快な仲間、寺井尚之(p)と宮本在浩(b)のトリオで、スペシャル・ライヴを開催します。

Akira TANA Live at OverSeas(前売りチケット制)

【日時】10月31日(火) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜)

 店が狭いので、早めにチケットをお求めください。

2017年9月14日

翻訳ノート:ビル・エヴァンス「Another Time : The Hilversum Concert」

お久しぶりです。

長らくブログ更新お休みしている間、OverSeasでの仕事と翻訳をしていました。

 8月末にリリースされてから、大きな話題を巻き起こしているビル・エヴァンスの未発表音源「Another Time: The Hilversum Concert」(Resonance Records / キングインターナショナル)日本語ブックレットも、とてもやり甲斐のある仕事でした。

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「世界の発掘男」から、今や世界中のジャズ・ファンがその動向を注目する大物プロデューサーとなった ゼヴ・フェルドマンが放つビル・エヴァンス・トリオ(エディ・ゴメス-bass、ジャック・ディジョネット-drums)の歴史的音源、ジャズ雑誌の巻頭記事や、大手新聞の音楽欄にも紹介されています。(キングインターナショナルのアルバム紹介ページはこちらです。)

 NYタイムズに「コレクターの理想とする"芸術作品としてのアルバム"制作を追求するレーベル」と評されたResonanceが誇る充実のブックレット、今まで何度か翻訳のチャンスをいただいたのですが、関係者やミュージシャンの特別寄稿文やインタビューなど、読み応えのある内容に作り手の熱意がひしひし伝わってきて、翻訳作業もやり甲斐のあるものですが、同時に、原文の素晴らしさ、楽しさを、読んで頂く方にしっかり伝えなければと、身の引き締まる思いです。

 ブックレット翻訳は私だけではなく、いつもキングインターナショナルの関口A&Rディレクターとの共同作業です。今回は特に、ビル・エヴァンスのインタビューが引用されていて、大きな読みどころになっています。英文を日本語にする際には、"I"という一人称でも、「私」にするか「僕」にするかで、大変印象が変わってしまいますから、エヴァンスの話しぶりを、日本語でどのように伝えるべきか、貴重な過去の資料を基に細かい打ち合わせがありました。また本作の録音場所がヒルフェルスムというオランダの都市で、前例のない人名や地名のカタカナ表記は、関口ディレクター自らオランダ王国大使館とタッグを組み、最も言語に近い表記で、さらにわかりやすくエヴァンスが愛したヨーロッパの演奏地の臨場感が出ました。

 そんなわけで、今回は最も学ぶところの多かった翻訳となりました。日本語盤の児山紀芳氏によるライナーノートももエヴァンスの音楽史に於けるこのアルバムの意義が一目瞭然にわかる素晴らしい内容!日本語版ブックレット、名演奏のお供に楽しんでいただければとても嬉しいです!

 

2017年7月31日

寺井珠重の対訳ノート(50)酒とバラの日々:再考-その2

<酒とバラの日々の源流は>

Paul-Gauguin - Nevermore - 1897.jpg  『Nevermore』ゴーギャン作(1897) ロンドン、コートールド・ギャラリー所蔵 

 〈酒とバラの日々〉ーヘンリー・マンシーニの美しいメロディーにジョニー・マーサーがつけた歌詞は、私にとっては謎、謎、謎だらけ、昔対訳を作った後に見つけた上のヌードのタイトル'Nevermore'は、まさしく〈酒とバラの日々〉の詩の中、唐突に登場する草原の中のドアに記された謎の文字だったのだ。

 エドガー・アラン・ポーの《大鴉》と〈酒とバラの日々〉のキーワードは、ゴーギャンのアートのキーワードにもなっていた!調べてみると、アメリカ人、アラン・ポーの文学は、米国よりも、ヨーロッパでずっと大きな評価を受け、フランスや英国の世紀末芸術、特に象徴主義(Symbolisme)と呼ばれる芸術運動に大きな影響を与えていたのだった。《大鴉》は、最初ボードレールによって仏訳され、マネや「ふしぎの国のアリス」でおなじみの絵本画家、テニエルが挿絵を担当し、何度も出版され、カルト的人気を博したらしい。

 象徴主義(Symbolisme)は、「芸術の本質は"観念"をかたちにして表現するもの」と主張する芸術運動で、先に述べたボードレールや、音楽の世界ではドビュッシーといった人たちが、代表的アーティストと言われています。加えて、〈酒とバラの日々Days of Wine and Roses〉という言葉を創ったアーネスト・ドウソンも、ゴーギャンも、芸術史では、象徴主義のカテゴリーに入るとされている。ゴーギャンはこの作品と《大鴉》の直接の関係を、ゴーギャンは否定しているけれど、パリで開催されたアラン・ポー自身による《大鴉》の朗読会に出席した後、タヒチに渡り、この絵を描いたことは事実として証明されているらしい。

345px-Ernest_Dowson.jpg <デカダン詩人に乾杯>

 前回書いたジョニー・マーサーの作詞の状況を整理してみよう。

〈酒とバラの日々〉は、同名映画のテーマソングとして、まずヘンリー・マンシーニが曲を書き、ジョニー・マーサーが詞をつけた。

 マーサーは、作詞の依頼を受けた時、映画の内容を全く聞かされていなかった。でも、マーサーが、このタイトルの出処を知っていたとしても、 不思議じゃない。〈酒とバラの日々〉という言葉は、アーネスト・ドーソン(Ernest Dowson 1867-1900)という英国の詩人の詩から引用されたものだ。

 ドーソンは英国の世紀末=デカダン文化を代表する詩人。ジャズと縁の深いラクロの背徳小説「危険な関係」やヴェルレーヌの詩集を英訳して初めて英語圏に紹介した翻訳者でもあり、ロリータ・コンプレックスの人でもあった。彼自身、アルコール中毒で、結核を患い、鎮静剤の過剰摂取のために三十代半ばで亡くなっています。

 じゃあ〈酒とバラの日々〉の先祖となるドーソンの詩を訳してみることによう!詩のタイトルはラテン語で、紀元前1世紀(!)に活躍した古代ローマの詩人、ホラティウスの詩句からの引用だった。詩の世界はジャズよりもずっと長い間、引用が繰り返されるんだなあ...

Vitae summa brevis spem nos vetat incohare longam

儚い人生は、我らに希望を持ち続けることを許さない

 

They are not long,
 the weeping and the laughter,

Love and desire and hate;

I think they have no  portion in us after

We pass the gate.

長続きはしない、
 涙も笑いも、 
 恋も欲望も憎しみも;

我は思う、
一旦、門を通り過ぎれば
それらは心から消えるものだと

 

 

 

They are not long, 
 the days of wine and roses,

Out of a misty dream

Our path emerges for a while,
 then closes

Within a dream.

長続きはしない、
 酒とバラの日々、

もやのかかった夢の中から、

暫らくの間、我らが共に歩む道は現れ、
 そして閉ざされる
夢の中に。

 

 〈酒とバラの日々〉の中で'Nevermore'と記された「扉=Door」の原型は、ドーソンの詩の中に登場する「門=Gate」だったんだ!

酒とバラの日々は、

鬼ごっこする子供のように、

草原を走り、

閉じ行く扉に向かって逃げ去る―

"もう二度と..."と記された扉は・・・

 

 さらに調べてみると、マーガレット・ミッチェルの小説から映画化された「風と共に去りぬ/ Gone with the Wind」もドーソンの詩句の引用だし、それ以外にもコール・ポーターも彼の詩を元に曲を創っている。さらに、ドーソンが最も愛した詩人は、エドガー・アラン・ポーだった。

 ジョニー・マーサーは、ドーソンや彼の詩をよく知っていたからこそ、この素晴らしい歌詞を創作したのだとしか思えないのです。例えば〈How High the Moon〉の進行を元に、チャーリー・パーカーが〈Ornithology〉を、ジョン・コルトレーンが〈Satellite〉を創ったように...19世紀のデカダン詩人の作品を元に、全く新しい歌詞の世界を創ったマーサー恐るべし。

 <ゴーギャンからダリへ>

Dali-face-door-hall-IMG_5726_Fotor_Fotor.jpg 'Nevermore'の扉に悩みながら、ジョニー・マーサーの伝記を読んでいると面白いことが書いてありました。
〈酒バラ〉を大ヒットさせたアンディ・ウィリアムズも私と同じように、'Nevermore'の意味が判らないと打ち明けて、マーサーに教えを請うたのだそうです。すると、マーサーはこんな風に説明してくれた。

 「比喩的なものなんだ。草原を歩いていると、突如としてドアが出現する。そして文字が書いてある。ドアの向こうは見えるけれど、そこに入ることはできないんだ。」

 マーサーは、ドーソンの時代の象徴主義を、もっとモダンなかたちで表現してみせたのだった。

 Youtubeで見つけた〈酒とバラの日々〉のアカデミー賞授賞式、ジョニー・マーサーのいたずらっぽい、短いスピーチが、そっと種明かしをしてくれているみたいです。

「ミスター・ドーソンよ、美しいタイトルをありがとう、

ミスター・マンシーニよ、美しいメロディーをありがとう。

とにかく感謝します。」

 

 

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