2009年1月23日

パノニカに夢中:「三つの願い」を読みながら(その2)

若き日のパノニカ夫人パノニカ男爵夫人(1913 - 1988)

<20年前の謎>
 パノニカが亡くなったのは、今から20年前の12月のことです。今週から日本ツアーのスタンリー・カウエル(p)は、ちょうどその冬の日、J.J.ジョンソン(tb)クインテットで来日していた。大阪でスタンリーを迎えた時、開口一番彼が口にしたのがそのことでした。
   「タマエ、パノニカが手術の最中に亡くなったんだよ。そしてチャーリー・ラウズ(ts)も同じ日に逝ってしまった!ああ、何てことだ。ほとんど同じ時間に天に召されるなんて。ニカの本当のソウル・メイトは、いつもモンクのそばにいたラウズだったんだなあ、J.J.ジョンソンたちはそう言ってるんだ...」
  ごった返すホテルのロビーで、会話はそれきりだったのですが、それ以来、パノニカという女性は、私を魅了して止まない『謎』の人となりました。

チャーリー・パーカーチャーリー・パーカー(1920 - 1955)

<闘士は中傷に屈しない>

   パノニカ男爵夫人が有名になったのは'55年のことです。警察絡みの二つの事件に次々と巻き込まれ、「ジャズ男爵夫人」としてマスコミの餌食にされてしまったんです。

   まずチャーリー・パーカーの死:麻薬で体も心もボロボロになったチャーリー・パーカーが、入院を嫌いニカに助けを求め、彼女のホテルで静養中、突然吐血してそのまま亡くなったという事件。(当時のアメリカの人種差別体制での病院の黒人に対する扱いを考えると、入院を拒むのは不思議ではありません。)ビバップを生んだ天才チャーリー・パーカーを助けるのは、彼女には至極当然のことでした。でもスタンホープ・ホテルの医者は、黒人である故にパーカーの診療を拒み、マスコミは女性のホテルの部屋での「変死」「怪死」と大騒ぎしたんです。時代とはいえ、ひどい話です...

   そしてもうひとつは麻薬所持、ニカがロード・マネージャーとなり、セロニアス・モンクとチャーリー・ラウズをベントレーに乗せ、南部をドライブ中、警察に不審者として取調べを受けます。何しろ都会しか知らないイギリス貴族、南部がどれほどNYと違うかなんて彼女は知らなかった。ニカのバッグからマリワナが発見され、麻薬法違反で、留置場に繋がれ三年の禁固刑を言い渡されます。欝状態で尋問に答えないモンクは警棒で殴打された挙句キャバレー・カードを剥奪されました。結局ニカは多額の弁護費用を払い、兄や知識人達の運動で告訴を取り下げさせるのですが、彼女のジャズ嗜好は、タブロイド誌によってセックスとドラッグに結び付けられてしまいます。中傷にまみれたパノニカは、ジュール男爵の名誉を傷つけない為に離婚し、ロスチャイルドの親戚達からもうとまれることになりますが、彼女のジャズとジャズメンに対する友情は決してゆるがず、一生ジャズメンを援護し続けたんです。ドナ・カランやオメガ...'90年代、ジャズを援護した企業スポンサー達の逃げ足の速さをごらんあれ。これは並のパトロンやタニマチのレベルを遥かに超えたもので、凄い女傑です。

<兄に導かれたジャズ>

 元々ニカにジャズの楽しさを教えたのは、仲良しの兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵だった。クラシック・ピアノの素養がある兄は、戦前からジャズ好きで、ベニー・グッドマン楽団の大ファンだった。楽団がロンドンに来ると、自宅にテディ・ウイルソンを招いてはピアノ・レッスンを受け、ニカは横で兄のレッスンを見物、レッスンの後はテディ・ウイルソンのプレイを楽しんだそうです。

victor_rothchild.JPGニカの兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵23歳の時

   第二次大戦が始まると、ヴィクターは英国チャーチル首相の特使として渡米、ルーズベルト大統領とチャーチルの橋渡しをして、大戦を勝利に導く仕事をしながら、アート・テイタムやテディ・ウイルソンと親交を保ちました。このヴィクター卿は、20世紀を陰で動かしたロスチャイルド家の当主として非常に有名な人物です。IQ180以上の天才で、一説に英国秘密諜報員MI-5、また冷戦中は、ソ連KGBのスパイであったとも噂されている。銀行家の息子でありながら金融界に入らず、戦後はケンブリッジ大で動物学者として教鞭を取っていますが、その素顔は謎に満ちている。パノニカに負けないほど興味をそそられる人です。

<大使の妻として>

ケーニグスウォーター男爵レジスタンス時代の夫との写真をニカはずっと持ち歩いていたという。

  大戦後、パノニカは、大使となった夫や子供たちと、メキシコやノルウエイに赴任しました。庶民の私から見れば、レジスタンスに命を賭けて勝ち得た平和な外国暮らしは最高に思えるのですが、パノニカにとって大使夫人としての生活は、地獄のように退屈だったそうです。
 
 末息子のパトリックはNYタイムズにこう語っています。「母は芸術を愛し、性格的には大雑把、時間にルーズ。それに対して父はジュールは几帳面で厳格、母の趣味を受け容れようとしなかった。」
 ジュール男爵はジャズが大嫌いで、大使公邸ではジャズを聴くことも出来なかったとニカは言っている。戦時に、ぴったり一つだった夫婦の心が、平和になると離れていったのは皮肉ですね。

<ジャズ男爵夫人の誕生>

ニカと愛車ベントレーとモンク
 '52年、ニカは長女を伴い夫と離れNYのど真ん中、五番街のスタンホープ・ホテルに居を構えます。兄のピアノの師匠、テディ・ウイルソンのアパートを訪ねた時に、聴かせてもらったレコードがセロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』だった。彼女は感動の余り泣いたと言います。二年後、モンクが懐かしいパリでコンサートをすることを知ったニカは、自分もフランスに飛び、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)を通じて、モンクとの友情が始まります。ニカが41歳の時でした。
 
  以来、彼女のパトロンとしての生活が始まりました。コールマン・ホーキンス、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ライオネル・ハンプトンなど名だたるミュージシャンが彼女のベントレーに乗り込み、共にジャズクラブを梯子し、クラブが閉店すると、彼女のスイート・ルームでジャム・セッションが始まります。

 ジャズメンから仲間として迎え入れられたニカは、彼らの生き様を観ながら憤懣を感じます。
パノニカ:あれほど素晴らしく才能豊かでクリエイティヴな芸術家であるジャズメン達が、なぜいつも職がなく、困窮しているのか?私には全く理解しがたいことでした。 (Live at the Village Vanguard/ Max Gordonより)

 そして、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの為に、自らミュージシャン組合に加盟、上等のブルーのタキシード8着を誂え、エージェントとして働こうとするのですが、結果は惨憺たるものだったとニカは告白しています。ジャズメンが芸術家として活動できるようと試行錯誤の末、彼女はマネージャーよりも、パトロンとしてジャズメンを支援する道を選んだんです。パトロンというものは、モーツァルトの昔から、往々にして芸術の真髄を理解せず、自分の趣味を押し付けたりするものですが、、ニカは懐が深かった。ゴマをすることが一番嫌いなトミー・フラナガンが彼女にあれほど素晴らしい曲を献上しているのが一番の証拠です。

<パノニカの功績> 
 マスコミに叩かれ中傷されてもニカのジャズメン援護の信念がゆらぐことは決してありませんでした。
 ジャズ・クラブの出演者に義務付けられていた指紋押捺の条例を市長にかけあって廃止させたのも、ニカの功績だし、南部の事件で剥奪されたモンクのキャバレー・カードを再発行させて、モンクのカルテットが"ファイブ・スポット"で開花させたのも、ニカのおかげなんです。
 ニカのミュージシャンへの支援は単に金銭的なものだけでなく、心のこもったものだった、晩年のコールマン・ホーキンスが病で倒れた時、彼のアパートの冷蔵庫を常に食料で満たし、電話を至る所に据えて緊急連絡が出来るようにしたのもニカです。貴夫人でありながら、近所のおばちゃんみたいに気が利いていますよね。

<セロニアスとニカ>

ボリヴァー・ホテルから
 セロニアス・モンクは、自宅が焼失した後、家族全員でニカのホテルに移り住みました。ニカはモンクのために、スタインウエイのグランドを調達し、ツアーで街を離れるときは国内外に関わらず、ニカと長女のジェンカ、モンクの妻ネリーが同行しました。 

  ニカとモンクの間は純粋にプラトニックなものだったそうです。モンクの妻、ネリーはニカのことを、自分と夫の数少ない親友のひとりで、掛け替えのない人と言っています。

 '60年代、ニカは居心地の悪いホテル住まいを止め、マンハッタンの川向、ウィーホーケンと呼ばれる郊外に、ハドソン川と摩天楼が一望できる邸宅を購入しました。「3つの願い」に載っているミュージシャンのくつろいだ写真の大部分はキャットハウスと呼ばれるその屋敷でニカが撮影したものです。キャットハウスという名前は、ジャズ・ミュージシャン(cat)が集まるだけでなく、動物愛護家のニカが飼っていた100匹以上の猫に由来しています。モンクは晩年、'73からキャットハウスに住み、そこで息を引き取りました。ニカ亡き後、現在その屋敷にはバリー・ハリス(p)が住んでいます。

 そこで、初めのスタンリー・カウエルが発した言葉に私は立ち返ります。・・・「ニカのソウルメイトはモンクではなくラウズだったんだ...」
 彼女の親族で昨年BBC放送でニカのドキュメンタリーを制作したハナ・ロスチャイルドのタイムズへのコメントに、私の謎を解くひとつの鍵が載っていました。

「ニカには、愛する父親が自らの命を絶つほど苦しんでいるのを見ながら、幼い自分には助けることが出来なかったったという原体験がある。精神を病み苦しむモンクの姿に父のイメージを重ね合わせ、今度は助けたいと強く思っていたのではないだろうか。」

 ニカは父を助けられず、その後多くの親族や友人をホロコーストで亡くしました。そして、セロニアス・モンクは、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを始めとする多くの同志達を、暴力や麻薬で失っています。モンクの心の底にある深い悲しみを誰よりも理解したのはニカであったのかもしれません。

 チャーリー・ラウズ&セロニアス・モンク  
 「三つの願い」の表紙も、モンクとラウズのツーショットです。様々なモンクが遺したカルテットのレコーディングや映像を観るにつけ、チャーリー・ラウズ(ts)のプレイが、モンク・ミュージックを完璧に理解する最高の共演者であったことは、寺井尚之も昔からよく言っていることでした。批評の世界では、モンク・カルテットのフロント奏者として賛美されるのはジョン・コルトレーンやジョニー・グリフィンですが、ミュージシャン達の意見は違うんです。ラウズは共演者としてモンクを深く理解し支えた。ニカは友人として経済的にも精神的にもモンクを支えた。二人の間に、不思議な運命の相似点があったのかも知れません。

○ ○ ○ ○

 たった5ページほどのナディーヌの序文でしたが、庶民の私が説明するとまた長くなっちゃったね。寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が終わったら、ミュージシャン達がニカに告白した切ない「3つの願い」について書こう。
 トミー・フラナガンの名盤『セロニカ』

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コメント(2)

ジャズに生きた女たち(中川ヨウ)を読んでニカの存在を知りました。読ませていただきました。チャリーパーカーのバードの映画を見てそういう女性がいることは何となく知ってましたが、今回で深まりました。
本の中で「目の前に海があるのに、なぜあなたは、手に入らないコップ一杯の水を欲しがるの。母も知っていたのです。人には、コップ一杯の水が必要なことを。海水は、のどを潤さないことを。」彼女にとってJAZZがその
生きるための水だったのでしょうか。
最近JAZZにはまり出したばかりの初心者です。でも20代も聞いていたのに、歳を重ねて今のほうが深く響きます。

 Rikoさま、コメントありがとうございます。パノニカにご興味持っていただき、ご訪問ありがとうございました。

 人生いろいろですね!「ジャズは私の結婚には何も良いことはもたらさなかった」とニカは後年述懐していたようです。でも、彼女のような境遇の方は私たちとは「結婚」意味自体違うものだったかも知れません。

 これからも、色々調べていきたいと思っています。

ありがとうございました。

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