2009年5月28日

ラジオ・プラハで聞くジョージ・ムラーツ。


 10日ほど前に、ジョージ・ムラーツのアシスタント、しょうたんからムラーツ師匠のインタビューがラジオ・プラハのWEBで聞けますよ、とメールをもらいました。

 私がブックマークしているトニー・エマーソン氏のジャズブログ、"Prague Jazz"と同じ日の知らせだった。しょうたんの調査力恐るべし!

 早速、聞いてみると、故国で語るジョージ・ムラーツは日米のメディアとは違っていて、日本のイチローみたいに、ジャズのメジャー・リーガーとして活躍するチェコ人としての顔が垣間見える興味深いものでした。

 インタビュアーのイアン・ウィロービの英語はヨーロピアン・イングリッシュでなく、アメリカンで凄く上手!一方ムラーツ兄さんは、いつものベランメエ・イングリッシュじゃなく、東欧紳士風でかっこいい!

 ラジオ・プラハの英語テキスト&音源はここにあります。

 日本語にしたので、お楽しみください。

『現代のチェコを代表する名士に、くつろいだ雰囲気で話を聞くインタビュー番組One on One: より:』

<ジョージ・ムラーツ・インタビュー>

インタビュアー:Ian Willoughby イアン・ウィロービ

 ジョージ・ムラーツ(本名イルジ・ムラージュ、南ボヘミア地方、ピーセック生)氏は、少なくとも、彼が共演して来たミュージシャンの顔ぶれから考えれば、ジャズ史上最も成功したチェコ人と言えるだろう。ベースの巨匠、ムラーツの共演者リストは、ディジー・ガレスピー、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、チェット・ベイカー、そしてチャーリー・ミンガスなど、正にジャズ人名辞典の様相を呈している、
   更に氏は千枚以上のアルバムに参加。ニューヨークを本拠に活躍するジョージ・ムラーツが最近プラハに滞在して機会に、ジャズとの出会いなど、色々なお話を伺いました。

<ジャズとの出会い>

ジョージ・ムラーツ(以下GM):「ターボルのハイスクールに通っていた頃、幸運にも学校にジャズバンドがあったんです、当時ジャズバンドがあったなんて不思議だね。プラハ音楽院に入学した頃は、市内にジャズクラブが三軒あり、ほとんど毎晩演奏していました。」

聴き手:イアン・ウィロービ(以下IW):「当時のジャズは、ビッグビット('60年代にチェコで流行したギター主体のポップ・ミュージック)以前の、かっこいい若者向け音楽だったのでしょうか?

GM:「まあ、そういうことですね。」

IW:「あなたがジャズに魅了されたきっかけは?」

GM:「13歳くらいだったと思うんだけど、日曜になると(ラジオで)オペレッタなどの軽音楽の放送があってね、どういう風の吹き回しか、ある日ルイ・アームストロングの1時間番組があったんだ。勿論、あの独特の歌も放送されました。いつもはクラシックの声楽ばかりなのに、よくこんな声がラジオ放送されたもんだ!と子供心に不思議でね。(笑)
  でも、その日に聴いた音楽のうちで一番気に入ってしまって、それを機にジャズにのめりこんだんです。


IW:「では、ムラーツさんの楽器はアコースティック・ベースですが、ベースを演奏されるようになったのは、どうしてなんですか?」

GM:「それも単なる偶然だったんです。7歳の頃からバイオリンを習っていたんですが、その後は専らクラリネットやサックスを演ってたんです。ところが、バンドのベーシストときたら...名前は言いませんが、良い奴なんだけど、常にミスノートだけを選んで弾くという、ある意味天才だったんだ。偶然でもいいから、一度くらいは、まともな音が弾けるだろう?ってくらい凄まじいものだった。

  それで僕が、練習の合間に彼のベースを拝借して弾いてみたら、意外に難しくなかった。ベースの音色が気に入ってしまって...それでベース奏者になったんです。」


vaclav_havel.jpgハヴェル前大統領(1936-)は、劇作家としても欧米で絶大な人気のある文人政治家

 IW:「何かの本で読んだのですが、カレル橋の脇にあるカフェ・バー・シアター『欄干の上』劇場で、ハヴェル前大統領が舞台監督していた時期、ムラーツさんもそこで演奏されていたそうですね。ハヴェル前大統領とは、個人的にお付き合いされていたんですか?」

GM: 「ええ、ええ、そうです!当時僕はバーの方で演奏していてね、僕達が延々と演奏を続けるもんで、酒場のおばさんがカウンターで仕事するのに疲れきっちゃうと、彼が交代してバーテンをやっていました。
 それ以来、僕は彼に頼まれてよく演奏していたんですが、昨年久しぶりで再会できて、とても嬉しかったです。その時は、彼の著書を頂きました。今でもファースト・ネームで呼び合う仲です。」

Na_zabradli.jpg由緒ある文人カフェ・シアター、「 Divadlo Na zábradlí 欄干の上劇場」


<渡米して>

IW:「では、あなたが渡米されNYにお住まいになったいきさつについてお話を伺いたいのですが。」

GM:「渡米する前はドイツに住み、ミュンヘンにあったジャズクラブ、"ドミシル"で演奏していました。そのうち、ボストンにあるバークリー音楽院から奨学金が出ましてね。丁度あのロシア人達が戦車で侵攻してきた時です。'68年の8月でした。それで、奨学金を使ってあちらに行ったんです。まあ、行った甲斐がありました。」

IW:「当時はアメリカに滞在していただけなんですか?」

GM:「ええ、まあそうです。」

IW: 「アメリカでミュージシャンとして名を成すというのは大変でしょう?私などには音楽の世界、ましてニューヨークでは、よほど激しい競争に勝ち抜かないといけないだろうと思えるのですが。」

GM;「僕の出発点はNYでなくボストンだったんです。幸いにも向こうの人たちは、すでに僕のことを知ってくれていました。というのも、留学前にすでに何枚かレコードを録音していましたから。それに、ウィーンでフリードリヒ・グルダ(訳注:ウィーン生まれのピアニスト、作編曲家、クラシック音楽家ながらジャズにも造詣深かった。)が主催するコンクールにも出場していたし。おかげでキャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、ロン・カーター、ジョー・ザヴィヌル、メル・ルイス、アート・ファーマー・・・色んな人たちに出会えました。
 実のところ、渡米後すぐに演奏活動を始めました。'69年にはディジー・ガレスピーのバンドに入り、やがて、オスカー・ピーターソンから誘われ、約二年間、彼のトリオで演奏しました。」

IW:「ムラーツさんの共演者リストを拝見すると、ジャズ人名辞典さながらですね。そのキャリアのうちで、"自分は成功したんだ!これが頂点だ"と思われた瞬間はありますか?」

GM;「いや、そういうのは特にないですよ。これが頂点だ!みたいに思ってしまうと、もうバタンキューで、その先に進めなくなりますから。(笑)達成感なんて持っちゃいけません。」

<膨大なレコーディング>

IW:「これも何かで読んだんですが、ムラーツさんはなんと約900枚のアルバムに参加しておられるそうですね。数十年も経つとご自分のレコーディングについて記憶は曖昧になるものでしょうか?」

GM: 「レコーディングについては、僕自身よりもずっと詳しい人たちがいますからね。僕は今までの録音アルバムを全部所有していませんしね。全く覚えていないアルバムが出てくることはしょっちゅうです。
  多分900枚以上あるのじゃないかな?千枚よりはずっと多いですよ。現時点で1100~1200枚だと思います。WEB上に僕のディスコグラフィーが載っていたんだけど、10年ほど前で、はっきりは覚えていないが確か880か860枚ほど掲載されていたなあ。

  勿論、そのリストから脱落しているアルバムもあったし、それ以降何枚もレコーディングしているから、千枚以上はあると思います。」

IW: 「その内、ムラーツさんにとって特に意義深いアルバムはありますか?」

GM :「幸運なことに、僕は非常に多くの巨匠達と共演することができました。特に楽しかったのは、ジョー・ヘンダーソン(ts)のピアノレス・トリオ、ドラムがアル・フォスターだった時。それにトミー・フラナガンかな...僕は今、断続的にハンク・ジョーンズ(p)と活動していますけどね。勿論、ビッグバンドも思い出に残っています。サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch....いいバンドでした。」

gallery9.jpg  スタン・ゲッツ、チェット・ベイカーと;G.Mraz公式サイトより。

IW: 「本当に多くの人たちと共演されていますよね。各ミュージシャンのスタイルや音楽に順応するというのは難しいですか?」

GM: 「いや、それほどでもありません。ただ、共演者が一つのスタイルに固執している場合は問題です。僕がそれ以外のことを演ると当惑させていまいますからね。色んなことを演ってみるのが好きなたちだから。」

IW:「ムラーツさんはご自分のカルテットも率いておられますね。いわゆるサイドマンと、リーダーで自分の音楽を演るという、二つの仕事のバランスをとるというのは難しいことですか?」

GM: 「ある意味、大変ですね。僕自身は、サイドマンでいる方がずっと気楽ですよ。ビジネスについてあれこれ苦労しなくてもいいですから。サイドマンとしての仕事の依頼は多いですしね。
 しかし、再びリーダーとしての活動も始めるつもりです。いろいろのアイデアもあるし、新曲もいくつか用意しているしね。自分の音楽が出来るうちに、やっておくのがよいと考えています。」


<チェコ名を変えたのは何故?>

IW:「これだけはお伺いしたかったのですが、ムラーツさんがご自分の名前を"ジョージ"にされたのはいつだったんですか?」

GM:「いやあ、この名前も私のアイデアではないんです。英語名の"ジョージ"にしたのは二つの理由があります。第一の理由は、ギャラは大体小切手で受け取るでしょう。その場合、あっちで僕の名前を正しいスペルで書いてくれる人がいないので、何度も小切手を切りなおしてもらわないと、ギャラをもらえないという状況だったんです。

 おまけに、ボストン時代にシティ・バンクに口座を開こうとした時なんか、名義人を記載するのに"Mraz"という苗字だけで15分もかかってしまったんです。ファースト・ネームの"Jiri"(イルジ)に至っては、どうしても正しく書いてもらえず、とうとう諦めました。『Georgeでいいです。』ってね。(笑)」

IW:「アメリカ人には、"Jiri"というのが、そんな難しい名前なんですか?」(訳注:チェコでは"Jiri"は、例えば一郎のように、最もありふれた男性名。)

GM:「難しすぎるね。僕が親しくなった女の子達を別にすれば(笑)、アメリカ人でこの名前を完璧に判ってくれたのは、ウィリス・コノーヴァー(米国の海外向け放送、VOAのジャズ番組のアナウンサー兼プロデューサー)だけだよ。彼だけは正しくJiriと言ってくれたんだけどなあ。」
(了)

○ ○ ○ ○ ○

 ファンの皆さんならご存知のエピソードが多いけど、故郷で語ると少し趣が違っていて、楽しめたのではないでしょうか?

 チェコの盟友ピアニスト、エミル・ヴィクリッキー(p)のHPに、日本のヴィーナス・レコードプロデゥースで、ジョージ・ムラーツ、ルイス・ナッシュ(ds)とトリオのアルバムをNY録音したニュースが出ていたと後藤誠氏よりお知らせいただきました。ジョージ・ムラーツ兄さんのプレイはチェコ訛りかNY訛りかどっちやろ?興味津々です。

 明日はThe Mainstem!

 ブログを読んでくださっている寺井ファン、ジャック・フロスト氏よりの差し入れ=北の大地のアスパラガスや、箕面マチルダ農園の豆類をパスタにして待ってます。

お楽しみに~!

CU

2009年5月27日

LAコンフィデンシャル: 土曜日も楽しかった!

 

<The Day After>

 5月23日土曜日のライブは寺井-倉橋幸久(b)-菅一平(ds)3、軽やかにスイングする倉橋さんのビートに支えられ、寺井のピアノが縦横無尽にスイング、一平さんのドラムが華やかに色を添える爽快なプレイでした!

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 The Day After, フラナガニアトリオの翌日・・・あの方もこの方も昨日お越しになっていたしなあ・・・土曜日常連のあの方も、最近は週末になると実家の山口県に帰ってらっしゃるしなあ・・・と、私はウィークエンド・ブルース。

 だけど希望を捨ててはいけない!午後に美しい女性の声で予約電話が・・・
「今夜は営業していらっしゃいますか?お席はまだありますでしょうか?」
私:「は・・・はいっ!席ですか?あっ・・・あります!!!一杯ありますよー!」
「???」

<LA Confidential>


 やがてロングへアー輝く美女西岡さんと、彼女をスマートにエスコートする俳優さんみたいな長身の紳士が現れた。ワイン片手にトリオのプレイを楽しむカップルは、映画の1シーンみたい!

 その男性は「ロスアンジェルスから来た寺井さんファンです。」と、響きの良い素敵な声で自己紹介。
「実は私、トミー・フラナガンの甥っこさんと親友なんです。」

私:「ひょっとしてスコットさんですか? 」

「ああ、そうですよ!あなた御存知なんですか!?」

 ロン・長谷川さんはLA在住40年、なんと元LA市警アジア特捜隊捜査官(!)という経歴の方!ロス市警=LAPDといえば「刑事コロンボ」を連想してしまいますが、ロンさんはビヴァリーヒルズのパーティにタキシード姿で潜入捜査しても絵になる紳士。ハードボイルドやなあ!

 NYでこんなニートな日本人に出会ったことない・・・西海岸は私にとってはまだ見ぬ異国の地、ロンさんは邦人の企業や個人の安全管理や国際犯罪組織の専門家として日米の橋渡しをしておられるそうです。仕事柄、現在も古巣のLA市警と密接に連絡を取り合っていて、LAPD側のパートナーがトミー・フラナガンの甥のスコット・バトラーさんだったんです!トミー・フラナガンの親族、スコットさんは現在LA市警の敏腕刑事、頭のよさと、誰にも好かれる人柄で、事件の記者会見をするスポークスマンのような役割をこなしているらしい。

 英語なら「甥(nephew)」と言ってしまうけど、実はスコットさんはトミーの兄、ジョンソン・フラナガンのお孫さんにあたる人だから日本語なら「はとこ」かな?ジョンソン・フラナガンはデトロイトで活躍したジャズ・ピアニスト、トミーがよちよち歩きの頃からピアノを始めたのも、このお兄さんの影響だったんです。

tommy_flanagan_overseas.jpg スコットは確かアトランタ・オリンピックの前年、1995年にOverSeasに寺井尚之を訪ねて来てくれた。というのも、彼はその当時広島県尾道市で英語教師として勤務していて、帰国時にフラナガン夫妻から「帰るまでにぜひOverSeasのヒサユキに挨拶しておくように。」と言われたんです。その時の彼はスリムでトミーと面立ちがそっくり、トミー+デビューした頃のジョシュア・レッドマン(ts)みたいな感じだった。当時の写真もあるけど、現在の刑事という立場を考え、公開は自粛します。

 フラナガンの親族ながら、スコットは余りジャズが好きでなく、子供の頃LAでトミー叔父さんが演奏する時に、親戚縁者で聴きに行くのが「いやだった~」とバチ当たりなことを言ってたなあ・・・でも、トミーに似た笑顔が素敵で、遠い親戚がはるばる会いにきてくれたような懐かしい印象が残っています。

<優しき伴侶を>


 ロンさんによれば、現在彼は40歳、スキン・ヘッドで、丁度EP盤Overseasのジャケ写真のトミーと目鼻がとてもよく似ているそうです。
 そういえば、スコットが来たときに、寺井がさんざん脅かしてたっけ・・・「トミーが禿げて来たのは20代後半やで。君も気いつけや~。」スコットさんが現在スキンヘッドなのはそのことと関係があるのだろうか?

 ロンさんのGood Newsは、スコットが未婚であること、その理由は、「本物の日本女性をめとりたいと熱望しているから、なかなか見つからない」のだそうです。

 アメリカではビジネス上のパートナーでもプライベートにはノータッチが常識ですが、ロンさんとスコットは親戚みたいな間柄で、トミーの姪にあたるスコットのお母さんともすごく親しくされているそうです。ですからロンさんは、何とかスコットに日本でお嫁さんを世話してやりたいと思っておられるんですね。日本人だな~!

 詳しく話を伺うと、スコットの思い描く日本女性は亭主関白を受け容れる貞淑で清楚なジャパニーズ・レイディ、ひょっとしたら尾道時代に、あの美しい町を舞台にした「東京物語」のヒロイン、原節子みたいな理想の女性に出会ったのかしら?

 私の周りを見回せど、ジャズピアノ教室生徒さんたちも大部分がミセスだし、それより今の日本に彼の求めるヤマトナデシコがいるかどうかが、非常に不透明です。ヤマトナデシコと日本タンポポは見つけるのが難しい・・・フラナガン一族になりたい女性で「私ならリクエストに応えられる!」というPatientな方がいらっしゃいましたら、ぜひ私までご一報ください。なお、スコットさんは日本語に堪能です。

 Bad Newsは、DNAに関わりなく、スコットさんが相変わらず、ジャズに殆ど興味がないこと・・・

   逆にロンさんは熱烈なジャズ・ファン、LAでは専ら、老舗 「The Jazz Bakery」でライブを楽しんでいらっしゃるとか。捜査力を駆使し廃盤も沢山所持するレコード・コレクターです。

 スコットさんの近況だけでなく、新人刑事だった頃担当された三浦和義ロス事件についても色んな秘話を聞かせてくださって、仕事を忘れ、思わず身を乗り出して聞き込んでしまいました。 最近の思いがけない事件の幕切れでマスコミが騒然とした時は、コメンテイターとして色んなニュース番組に出ていらしゃったので、皆さんもTVで彼を観たことがおありかも・・・

ron_hasegawa.JPG  左から寺井、ロン長谷川氏、倉橋幸久(b)、謎のナニワ美人、西岡さん、菅一平(ds)

 ロンさん、西岡さん、OverSeasにきてくださってありがとうございました。その上、どっちがお客様か判らないくらい楽しませていただいて更にありがとうございました。

 心ある皆さま、頑張ってスコットのお嫁さんを一緒に捜しましょう!キーワードは「大和なでしこ」「原節子」ですからね。

CU

2009年5月24日

Our Delight! Dynamite!リユニオン・フラナガニア・トリオ 5/22(金)

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久々に揃いました。寺井尚之(p)、宗竹正浩(b)、河原達人(ds)

  5/22(金)のフラナガニアトリオ・リユニオン、一夜限りのスペシャル・コンサートに新旧のフラナガニアトリオ・ファンが集まり、記憶に残るコンサートになりました。

flanagania_3.JPG  全国から「来たかった~!」とメッセージも頂戴しました。皆様、心よりお礼申し上げます。一番遠くからはサウス・キャロライナ州在住のバリトン・サックス奏者より:「インフルエンザ、アイム・ソーリー、リユニオン行きたいよ~、やけど飛行機でも2日かかるねん、頼むから録音して送ってくれ。」と切実なメールも...

flanagania_a5.JPG  オリジナル・メンバーでライブを張るのは約2年ぶり、フラナガニアトリオはOverSeasの歴史の大きな一時代でした。メンバーの近況:宗竹正浩(b)さんは現在、会社重役で夕方になると愛器を携え、色んな場所で演奏活動中。河原達人(ds)さんは講座やライブとOverSeasに時々来てくれているので、皆さんご存知ですね!「ご先祖様」と崇拝されるドラマーズ・ドラマー、地獄の黙示録のカーツ大佐みたいに神がかりになってます。
 かつては、聴きに来てくれたトミー・フラナガンが宗竹+河原を従えてConfirmation を聴かせてくれたこともあったっけ...

  当日はインフルエンザ渦に加え雨模様だったけど、フラナガニアトリオの思い出一杯の長年の常連様や、CDで知るトリオを初めて聴く期待一杯のお客様、そしミュージシャン達で超満員。空白期間も何のその、平然と臨むセッションは、宗竹ならではのスーパー・ビートと変態フレーズ、河原ならではのカラフルなスーパー・ドラミングでフル・スイング!世界中にピアノ・トリオは星の数ほどあるけれど、フラナガニアトリオのサウンドはやっぱりOne and Only だった。

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曲目

<1st set>

1. Bitty Ditty (Thad Jones)

2. Out of the Past (Benny Golson)

3. Strictly Confidential (Bud Powell)

4. Ask Me Now (Thelonious Monk)

5. Off Minor (Thelonious Monk)

<2nd set>

1. Reets Neet (Phil Woods)

2. I Can't Give You Anything But Love (Jimmy McHugh)

3. Suddenly It's Spring (Jimmy van Heusen)

4. Pannonica (Thelonious Monk)

5. Minor Mishap (Tommy Flanagan)

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<3rd set>

1. U.M.M.G (Billy Strayhorn)

2. They Say It's Spring (Bob Haymes)

3. Mean Streets (Tommy Flanagan)

4. Passion Flower (Billy Strayhorn)

5. Our Delight (Tadd Dameron)

Encore:
A Night in Tunisia (Dizzy Gillespie)

     Eclypso (Tommy Flanagan)


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 リハなしでも、小技で逃げを打たないのがバッパーだ!どこまでも奔放にスイングするモンク・チューンや、In & Outで細かくキメる正道デトロイト・ハードバップなど、演奏曲に対して徹頭徹尾の真っ向勝負!無表情な顔と、背中から出てくる「気」の凄さがいつもどおりの寺井尚之、一曲目から汗だくでもプレイはクールな宗竹正浩、この日の為に音色のカラーパレットをメガサイズにしていた河原達人の熱いドラミング、三人の強烈な個性に、お客様があっという間に掴まれてしまう様子を目にしました。

delight.JPG ジャズフェスなどで往年の人気コンボが往年の人気曲を聴かせるリユニオンを観ると、バンドによっては「昔の自分のコピーしてますねん」みたいな浅ましさを感じ、そこはかとない幻滅を感じることがあります。でもこの夜のフラナガニアトリオは未練がましく振り返ってなんかいなかった。サムライっぽくってかっこよかったなあ。

 幕間に、長年の常連様たちは「自然やなー」と、初めて聴くお客様は「凄すぎて圧倒される!」とおっしゃってました。客席で喰い入る様に聴く宮本在浩(b)、菅一平(ds)チームは、The Mainstemとしての、フラナガニアトリオとは違う、自分たちの道筋が見えたのではないでしょうか?

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 あっという間にラスト・セット、寺井以外には久々のハードなプログラムだったはずですが、メンバー達のスタミナはガス欠どころか、曲を重ねるに連れパワーアップ。河原達人のおハコ"ミーン・ストリーツ"、宗竹正浩の名演目"パッション・フラワー"で、コンサートは最高潮になり、大向こうから沢山の声が飛びました。
 "アワー・デライト"は文字通り今夜の皆の気分、河原さんのリムを多用する神業カラーのフィル・インや、卓抜なロールにドラマー達の目が釘付けになっていた。

 スタンディング・オベーション、アンコールは鳴り止まず、HP掲示板には、再演を願うメッセージが怒涛のように入ってます。

  寺井-宗竹-河原=3人の個性が激しくぶつかりあったリユニオン、終演後寺井尚之は「サイン見落としが多い!」と相も変らぬ無愛想。だけど私はそんなの気にしない。だって良かったもん!楽しかったもん!

  リユニオンの夜、初めて気が付いた。あの頃私はフラナガニア・トリオに恋をしていたんだ。もうあの頃に戻れないとよく判っているから、今夜再び逢えたのは、嬉しく、そして切ないことだった。

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 フラナガニア時代より更に「技のデパート」になっていた河原さんは掲示板に自分のことを「大人になりきれないこども」って書いていたけど、この熱いプレイはガキには絶対出来ないものなんだ!
 かつて、サー・ローランド・ハナ3@OverSeasで、エディ・ロックさんが燃えた"Caravan"の伝説的ドラム・ソロ、あの時のエディさんのハジけぶり・・・ハナさんは一瞬ムっとしてはりました。ドラム賛美の拍手は鳴りやまずアンコールの大合唱!!
 ハナさんはどうしたか?平然とメンバー二人を捨て置いて、ひとりスタスタ・・・ピアノの前に座ると、息を呑むようなソロを披露し、再び皆を感涙させた。
 河原さんがご自分を「こども」と言うのなら、あの巨匠たちも「こども」です。

 5月29日(金)は、今の恋人The Mainstemのライブ、新しいピアノ・トリオの世界!ぜひお聴きください!

CU

2009年5月21日

Flanagania Trio : Tomorrow Night Only:

flanagania3mune.gif  明日は一夜限りのスペシャル・イベント、フラナガニアトリオ・オリジナル・メンバー、寺井尚之、宗竹正浩(b)、河原達人(ds)のリユニオン!

 宗竹、河原両氏から、「久々の共演、楽しみにしてます!」とメールいただきました。

 「フラナガニアトリオ」という名前は、多分、アルバム「フラナガニア」('94)以来、いつの間にかそう呼ぶようになったのだと思います。

 今では貫禄の3人だけど、アルバムをめくっていたら、懐かしい写真が・・・

munetakeh_recording.jpg  m_munetake.jpg  左は『Dalarna』レコーディング中、どちらも旧店舗OverSeasにて。

tastuto_nhk.jpg  tatsuto_kumamoto.jpg  左は渋谷に珍道中し、NHKのラジオ番組で。右は熊本にあったジャズクラブJanisさんに出演したとき。

hisayuki_nhkstudio.jpghisayuki_kumamoto.jpg左はNHK、右は熊本、古荘さんを初めとして九州方面の皆さんと交流(宴会?)出来て楽しかった~!焼酎の味も馬刺しも覚えました!現在も九州の皆さんとお付き合いさせてもらっていて幸せです!

 久々のリユニオン、名画『カサブランカ』に登場するめっぽうソフトタッチの酒場のピアニスト、サムの名台詞に「A lot of water under the bridge.」(月日の経つ間、いろんなことがありました。)というのがあるけれど、フラナガニアトリオの橋の下に流れた水はどんな水だったろう?今は甘いかしょっぱいか・・・

 明日は皆さん、お楽しみに!

なお、残席僅かですので、お越しになる方は必ずご予約くださいね。TEL 06-6262-3940

CU

I've Found a New Baby: "エコーズ" 鷲見和広

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 鷲見和広さんとNew Babyの2ショット!新しい楽器はストラディバリを生んだイタリアの弦楽器の町、クレモナでも現存する最高のコントラバス製作者マルコ・ノリの作品。明日出演する宗竹正浩さんの愛器も同じマエストロの作品です。因みに鷲見さんの今までの楽器は、宮本在浩さんと同じカルロ・コルシーニ作。

 5月20日のエコーズは、鷲見和広さんが新しい愛器で奏でる記念すべき夜。エコーズ愛好会長、副会長や、噂を聞き付けたベーシストたちが集合して、じっくり鑑賞会。府立大Orch.のメンバーや、ふらりとジャズを聴きに来てくれたお客様たちも、「すごいね!」と言い合ったり、音楽で奏でるジョークに大笑いしたり・・・今夜も華も実もあるプレイを聴かせてくれました。

 i_wants_to_stay_here.JPG  先日The Mainstemでも聴けた"I Wants to Stay Here"にはガーシュインの名曲の数々が、"In a Mellow Tone"はデューク・エリントン・ヒット・ソング集がどんどん挿入されて、"エコーズ"らしいインタープレイに皆大喜び!

 鷲見さんの新しい恋人マルコちゃんは、元カノのコルシーニより少し大柄でグラマー、鷲見さんは"モンスター・ベース!"と楽器の潜在能力に惚れこみながらも、まだ初日は「弾きにくい~!」と言ってました。でも、後ろのレジのところで聴いていると、倍音が店中に拡散されている感じですごい快感!

 寺井尚之も、新しい楽器の音色が気に入ったようです。

寺井:「倍音がよう鳴ってるなあ。今度のベースの方が、だいぶええんちゃうか?」

鷲見:「まあ、後10年位経ったら一番良い音になってるんじゃないですかねえ。僕そしたら50過ぎてますけど・・・」

寺井:「10年か・・・そんならわしはもう70近いやないか・・・どないすんねん?!はよ年金欲しいわ。」

・・・なんか話は変な方向へ・・・

 銀太(b)くんは、「調整直後で、殆ど弾き込んでいないはずなのに、アンプ入れてないみたいに生音が聴こえるし、何よりもしっかり鷲見さんの音色に鳴っているのがスゴいですねえ!」と感服。

bassists.JPG  休憩時間には、ベーシスト達が名器の周りに集まって、糸巻きの形を鑑賞したり、うっとりした表情で曲線をなぞってみたり、弾かせてもらったり、皆の惚れ惚れした表情に鷲見さんもにっこり。

bassmen.JPG  ベーシストたち:左から宮本在浩、銀太、鷲見、休校中府大Orch.のアーサー(敬称略)

echoes_09_520.JPG 愛器が変わると、自ずと"エコーズ"のサウンドも変化していくはず。"エコーズ"は毎週水曜日、要チェック!

CU

2009年5月18日

Un-plugged 寺井尚之 The Mainstem 5/16(土)

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 週明けの大阪、出勤時の環状線や地下鉄は休校になった学生さんで超満員。殆どの人がマスク姿、バイオハザード in Osaka?? えらい光景になってました。

 実家の知人のメキシコ在住の方の話では、向こうの国ではインフルエンザの報道も余りないし、マスクしている人はほとんどいないとか... ボストンのしょうたんも同じようなことを言っていた。とにかく用心に越したことはないので、うがいや手洗いをきっちりして、OverSeasのドアの取っ手は頻繁に消毒薬で拭き、衛生管理に充分注意しています。どうぞ安心してお越しください。

 The Mainstem3の第一ラウンド、16日の土曜日はダンスする5月に似合わぬ雨模様、却って客席は親密なムード一杯。休憩中はあやめ生徒会長主催の勉強会や、客席交流会もありデトロイト・ハードバップ風文芸サロンの楽しい雨の夜。

セット・リスト

<1st set>
1. The Con Man (Dizzy Reece)
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)
3. Muffin (Ron Carter)
4. Monk's Mood (Thelonious Monk)
5. Speak Low (Kurt Weill/ Ogden Nash)

<2nd set>
1. Yours Is My Heart Alone (Franz Lehar, Ludwig Herzer, Fritz Loehner)
2. Moon & Sand (Alec Wilder)
3. Azure (Duke Ellington)
4. I Didn't Know What Time It Was (Richard Rodgers/ Lorenz Hart)
5. Fine & Dandy (Kay Swift/ Paul James)

<3rd set>
1. Repetition (Neal Hefti)
2. 46th & 8th (Waymon Reed)
3. Mean What You Say (Thad Jones)
4. I Loves You Porgy (George Girshwin / Dubose Heyward)
5. Tin Tin Deo (Dizzy Gillespie)

Encore: 50-21 (Thad Jones)

 今夜の曲目は、The Mainstemの強み=ラン&ヒットの持ち味を生かしたセレクション!この曲を聴くいつもの状況と違い、ざわめきのない静かな客席に響く「Speak Low 」は片隅派には格別の味わいだった。

 二部には五月の青空を思わせるエリントニア、「アジュール」が湿気を一掃した後、『スティット-パウエル-JJ』の名演が忘れられない「Fine & Dandy」で軽快に締めてくれました。fine and dandyは「サイコー!」という意味だけど、突然の雨で傘を持ってないし、いくら手を挙げてもタクシーが全然止まってくれないとき、「fine and dandy!」と自嘲気味に言ったりしますよね!

 3部はThe Mainstemが"New Trio"と名乗っていた時代のオハコだった『レペティション』が久々に聴けて嬉しかった!宮本在浩(b)+菅一平(ds)は当時よりチームのまとまりが出来て大きくなっていたのを実感!

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 意表を突かれたのは三部のバラード、常日頃水曜のエコーズで聴いているI Wants to Stay Hereの異名同曲でした。1-5同様、先日のジャズ講座に登場したアルバム、『City/土岐英史』に因んだ選曲だったのでしょうが、今日の演奏解釈は水曜版と全く違う味わい。水曜のエコーズと聴き比べもまた楽し!

 雨の夜なのにピアノのサウンドは円くて冴え冴え・・・いつもよりお客様が少ないせいかな・・・と勝手に思ってた。でも本当は寺井尚之がピアノのサウンドを自分の描くイメージに合わせる為、マイクのスイッチを切ってしまってたんです。不思議なことに音量が減ったようには思えませんでした。これから毎日ノーマイクだったらエコポイントもらえるのかな?

 '84にトミー・フラナガン3が初めてOverSeasでコンサートを演った時、ぎゅうぎゅう詰めの満員のお客様の前でフラナガンはやっぱりUn-plugged だった。寺井尚之もその境地に近づいているのだろうか・・・

 次回のThe Mainstemは5月29日(金)、またよろしくお願いします!ありがとうございました。

CU

浪速のケニー・バレル、末宗俊郎(g) の夜

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 末宗俊郎(g) : 写真:後藤誠

 5月15日(金)の末宗俊郎(g)ライブは、寺井尚之(p)、銀太こと田中裕太(b)とトリオでしたが、3セット目から今北有俊(ds)がSit In!急遽、末宗俊郎(g)+Super Fresh Trioとなって盛り上がりました。

suemune4.JPG  ブルース・ナンバーや、"There Will Never Be Another You"や"It's Only a Paper Moon"、"Love for Sale""ジェニーの肖像"のスタンダード、うっとりするバラードなど、末宗俊郎の絶妙のギターいに冴え冴えしたピアノが絡みついてうっとり。

 この夜は府立大のOrch.のメンバー達が団体で来てくれたり、初めてOverSeasの扉を開けてくださったカップルも何組か・・・新鮮な反応を味わえたカルテットがプレイで応えました。

 中には台湾からやって来た寺井尚之ファンも!

with_mr.chow_09_5.JPG  左から寺井、張光佑さん、田中裕太(b)、今北有俊(ds)、前列、末宗俊郎(g)

 張光佑さんはギタリスト、日本留学の経験があるので、休憩中は日本の本を読んでらっしゃるし、言葉もネイティブ・ジャパニーズ、最初はてっきり日本のお客様だと思っていました。彼は台湾で寺井尚之のCDを愛聴していて、今回の日本旅行の際、OverSeasを探して聴きにきてくれたんです。張さんはお土産に正規品のCDも何枚が買って帰ってくれたけど、今まで彼が愛聴していたCDは、寺井尚之本人は全く知らない海賊版だったと知り、再度びっくり!ご自分もギターをやっているので、末宗4は凄く楽しかったそうです。「寺井さんみたいピアニストは台湾にいません。」と言ってくださいました。張さん多謝!

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 末宗俊郎ライブ初体験のお客様からも、「かっこよかった~」「また伺います!」と、レジで、メールでお言葉いただき嬉しかった!次回の末宗俊郎3は6月19日(金)、次回は坂田慶治(b)共演、またよろしくお願いします!

なお、Super Fresh Trioは銀太君がNY修業に行くので、5月30日(土)で一区切り。銀太くんのファンはお見逃しなく!!

CU

2009年5月15日

"Ballads & Blues" 古新聞古雑誌 根掘り葉掘り・・・

  先週の"Ballads & Blues"ジャズ講座は皆が好きなあの曲、このブルース・・・正にOverSeasヒットパレードで、凄い熱気!一生もの名盤を共に聴いた仲間達の色んな感動がOverSeasの掲示板にズラリと並んでいましたね!

 講座のあった5月9日はOverSeas開店30周年記念日、時間音痴、方向音痴の私は寺井の解説を聴くまで完全に失念...、温かいお祝いメッセージ、皆様どうもありがとうございました!

 講座には、  河原達人(ds)さんや菅一平(ds)+宮本在浩(b)のメインステム・チーム、若手ドラマーImakyくんなど、ピアニスト以外のミュージシャンの顔も沢山客席に!ギグで来れなかった鷲見和広(b)さんからは「僕も行きたかった~(涙)」とメールが...。

tf_gm.jpg    パルスとメロディラインを併せ持つベーシスト、ジョージ・ムラーツは  "Ballads & Blues"以外にも、サー・ローランド・ハナやウォルター・ノリスたちと数多くデュオの名盤を残しています。胸が張り裂けそうになる高揚感が体験できるハナさんとのプレリュード集や、たった4分ほどの演奏でフランソワ・トリュフォーの濃密な恋愛映画を見たような気分にさせてくれるノリスさんとのデュオ作品...どれも心を奪われるけど、"Ballads & Blues"はまた違う。深いところでぴったり寄り添いながら、息を読み合い奔放に流れるプレイ・・・緻密な構成表を見ながら聴くと、こんなに自由で完璧な音楽があるのか!とまた感動してしまいました。
 「最高の酒は水の如し」と言うけれど"Ballads & Blues"は丁度そんな感じ。残り少ない人生、一生聴いて楽しもう。

<1978年>


  "Ballads & Blues"が録音されたのは'78年11月。'78年といえば、トミー・フラナガンが10年努めたエラ・フィッツジェラルドの許から独立した節目の年でした。理由は心臓発作で楽旅が困難になった為となっていますが、実際はどうやったんやろう?講座の前に気になって、当時の雑誌や新聞を調べてみました。

 NYタウン情報とダイアナ・フラナガン情報によれば、"Ballads & Blues"(11/15)録音直前10/16~30の2週間、フラナガンとムラーツはNY大学のそばにあるピアノ・バー、Bradley'sに出演していた。名盤のアウトラインはきっとこの2週間の間に固まったのに違いない。講座の皆で「飛ぶ教室」みたいに当時のNYにツアーすれば、さぞ面白かったでしょうね!

 ムラーツ関連では、同年2月に、サー・ローランド・ハナが新生New York Jazz Quartet結成の記事も!自己グループで活動を始めたロン・カーターに替わり新メンバー、ジョージ・ムラーツ参加とありました。コンサート情報やレコード紹介では、ズート・シムス(ts)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb),ジミー・ロウルズ、ハナさん、フラナガンと数え切れないアーティストと共演していたみたい...34歳のムラーツ兄さんは、NYの一流ミュージシャンたちの間ですでに引っ張りだこになっていた。

<フラナガン独立の真相>

 意外だったのは、NYタイムズの電子版アーカイブに、フラナガンではなくエラ・フィッツジェラルドが病気でコンサートをキャンセルしたという記事です。

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   '78 6/6付 NYTimes 
 『エラに大喝采!』 エラ・フィッツジェラルドは3月19日に予定していたエイブリー・フィッシャー・ホールのコンサートを病気のためキャンセルし、代替公演が先週の日曜日の夕方行われた。満員のファンの前でエラは絶好調・・・

 ダウンビートや他の書物にはフラナガンはその3月に心臓発作をおこし17日間入院したと書いてあるのに... どういうことやろ?

  ダイアナがフラナガンと結婚したのは'76年だから、その辺りの事情は知っているはず。電話して訊いてみました

<ダイアナの証言>


ダイアナ・フラナガン:  「トミーの心臓発作??ああ、最初の発作のこと?確かに'78年3月よ。あんなのぜーんぜん大したことなかったわ。

 体調を悪くしたのはエラの方だった。あの頃から糖尿病が悪くなって、予定しているコンサートをキャンセルした後、意図的に仕事を減らしたの。

 当時トミーは、エラのコンサートで、トリオだけでたっぷり演奏するようになっていた。世界中で賞賛されたけれど、それだけでは満足できず、自分の音楽をしたくてたまらなくなっていたの。だからフリーになっただけ。本当は心臓発作なんて関係ないの。もっと深刻だったのは、何年か経って大動脈瘤が出来ていると判ったときよ。あんたもよく知ってるじゃない。

 私と一緒にいたいから辞めたのかって?まさか!だって私はエラ時代も、トミーにくっついて行ってたもん。それにエラのところを辞めたってトミーは世界中を飛び回っていたわ。

 とにかく辞めるためにはエラの後任を見つけるのが先決だった。だけどエラがどうしてもトミーを引き止めたがってね、とうとう直接電話をかけてきたの。「トミー、あなたどうしてもジャズに戻っちゃうの?」って。すったもんだの末、結局ジミー・ロウルズ(p)に決まったのよ。え?トミーとタイプが違うって?いいのよ!伴奏者は決まった仕事をきっちりすればいいの。ジミーならうってつけだからね。

 へえー!"Ballads & Blues"のレクチュアが予約で満員なの!?すごいわねえ!そうそう、この間のトリビュート・コンサートの写真ありがとう。部屋に飾って楽しんでるわよ!

 だけどタマエ、あんた、私が忘れていることを根掘り葉掘り訊いて一体どうするつもり?トミーの伝記でも書くつもりなの?...」

 エラの専属ピアニストとしてのフラナガンの最後のNY公演は、同年のニューポート・ジャズフェスティバル、やはりエイブリー・フィッシャーホールだったともダイアナは言っていました。

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 『エラ・フィッツジェラルド、エンジェル・アイズで大成功!』
 タイムズ紙のジョン・ウィルソンは、フラナガンとの最後の大舞台でエラが歌った"エンジェル・アイズ"を絶賛しています。後年トミー・フラナガンがエラに捧げたアルバム『Lady Be Good』の"エンジェル・アイズ"は、きっとラスト・コンサートの思い出なんだ!

 トミー・フラナガンがエラの許から独立したというインタビューがジャズ専門誌ダウンビートに載ったのは、本当の独立から4年後で、遅ればせもいいところ。レコード会社の広告収入が大事なジャズ誌は、フリーランスのフラナガンの記事はなかなか書いてくれなかった。

 逆にNYのメディアは、速攻でフラナガン独立のニュースを報じていた。

flanaganleft.jpgNYタイムズ '78 11/24付 :当面フラナガンはカーライル・ホテルのベメルマンズ・バーで演奏すると書いているけど、実際はごく短期の仕事だったとダイアナは言っていた。

<ホイットニー・バリエットの記事>

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 私の愛するホイットニー・バリエットは珍しく自分のコラムをフラナガンだけに絞り込み、さりげなく後方支援していました。(The NewYorker 11/20号)

 『Tommy Flanagan』というシンプルなタイトルのコラムは、『American MusiciansⅡ』の中の名文<Poet>の原型で、フラナガンの人となりをうまく描き上げてから、フラナガンの独立を「良いニュース」とだけさらりと書いてある。趣味の良い音楽を愛する読者だったら、ぜひ一度聴きに行きたいと思うような粋な書きっぷりです。

 秀逸なのはコラムの最後のアルバム紹介。フラナガンが初期に録音したサイドマンとしての有名盤については一切語らず、『Eclypso』『Montreaux '77』『Tokyo Recital』などアメリカのジャズ誌ではマイナー・レーベル作品として、長い間正当に評価されなかった新譜のリーダー作ばかりズラリと並べて絶賛しています。この辺りが超一流文芸誌The NewYorkerの面目躍如!

 バリエットのコラムは、フラナガンが「珠玉のピアニスト』から『ダイアモンドのピアニスト』に変貌したことを宣言して結ばれていました。

...『Montreaux '77』もまた秀作、リラックスした雰囲気のある"イージー・リヴィング"はフラナガンの愛奏曲、イン・テンポに落ち着いた時、彼が繰り出す高音部の縦横無尽のランは、光を反射しながらきらめいて、まるでダイアモンドのようだ。

 来月のジャズ講座は、これほどの名盤が聴けるかどうかは判りませんが、色んな話や音源が聴けて、きっと面白いプログラムになるはずです!

 明日はBop & Bluesの末宗俊郎(g)3、そして旬の曲が楽しめる土曜日のThe Mainstemもお楽しみに!

CU

2009年5月 7日

5月9日(土) 名コンビ登場!Tommy Flanagan-George Mraz

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 GW明けの大阪は早朝の雷が"Party Is Over!"と高らかに2発。皆様、ゆっくりお過ごしになりましたか?

 今週末のジャズ講座は、トミー・フラナガンとジョージ・ムラーツのファンににとって"JUST MUST"。とうとう『Ballads & Blues』の登場です。

 このアルバムが出たときの、関西学生ジャズ・シーンの興奮はいまだ忘れられません。「デュオ」のレコードは売れないという業界の定説があるそうですが、そんなん関係ない!

 寺井尚之が30余年じっくり聴きこみ、自分の一部にしたピアノ・デュオの歴史的名盤、録音時の色んな事情など、トミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツの二人から直接聞いた逸話や、深い音楽的考察を聴くのが楽しみです。

 加えて、フラナガン-ムラーツの名コンビが収録曲をどのようにヴァージョン・アップしていったか、即興演奏家の軌跡を、秘蔵音源と共に一望することが出来るでしょう。

『Ballads & Blues』の残りテイクを収録した『Confirmation』のデュオ、2曲も併せて解説!

 初参加でも大丈夫です。 残席僅か、必ずご予約のうえお越しください。

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CU

2009年5月 6日

GW にバリエットはいかが? 連載 "PRES" (最終回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より

《プレズ PRES》 (4)

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<晩年>
 

  ヤングは晩年の大部分をノーマン・グランツのJATP一座で過ごした。彼はアル中となり、演奏はぼうっとした不確かなものになった。変わらずスーツとポークパイハット姿であったが、演奏中は座っていることが多くなった。

 1957年にTV番組『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』に出演した時の彼は「心ここにあらず」という風情だ。スタジオではビッグバンド・ナンバー2曲のパート譜を読む事を拒んだ。(代役は、かつてヤングの父に師事したベン・ウエブスターだった。)ビリー・ホリデイのブルース、<ファイン&メロウ>で1コーラス吹いているが、音色は完璧だがソロには生気がない。(訳註;番組制作に関わったナット・ヘントフによれば、この日のヤングの体調は最悪でスタジオで立っている事すら出来ない状態だったという。)

 ソロに耳を傾けるビリー・ホリデイの愛に満ちた微笑みを見ると、彼女に聴こえているのは、今そこに座るレスターのソロではなく、彼女の脳裏に刻まれた昔の彼のソロではなかったのかという気がする。
 


 テナー奏者バディ・テイトは番組の翌年、ニューポートジャズフェスティバルに出演したヤングを車で送って帰った。

buddy_tate.jpg  「私がレスターと初めて会ったのはテキサス州シャーマンで、当時の彼はまだアルトを吹いていた。しばらくして、彼がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍した時、ベイシー楽団に後釜として入ったのが私だ。その当時レスターは酒も煙草もやらなかった。とても粋でナイーブな人だったな。1939―1940の第2期ベイシー楽団では同僚だった。演奏中に小さなベルを持っていてね、バンドの誰かがドジを踏むとそれをチンと鳴らすんだよ。

 1958年のニューポートフェスティバルの帰り道、NY迄乗せて帰った。彼はとても落ち込んでいたよ。ギャラが少なくてがっかりしていたし「自分の演奏も良くなかった」ってね。「いいや、あんたのプレイはすごく良かったよ!例えば...」と私が言うと、彼は答えた。
「レイディ・テイト、もしも本当に僕が良かったらさ、僕を真似している他のテナー連中が、一体なぜ僕より儲けてるんだい?」

 アレンジャ―、ギル・エヴァンスは40年代に西海岸でヤングと知り合い、彼の晩年はNYでも親交があった。

gil_evans.jpg   「レスター・ヤングの様に孤独な人は、往々にして自分に目隠しをしてしまうものだ。善いにつけ悪いにつけ、全ての根源は過去にあるとして、昔のことをずうっと引きずっているんだ。亡くなった年、彼がアルヴィン・ホテルに引越した頃でもまだ、「十代に譜面を読む勉強をしなかったので、父に嫌われた」と言うような話を持ち出してくる。だけど本当は、他のものに対する現在の怒りをはっきり表現できないので、昔の出来事とすり替えていたのではないだろうか? 何に怒っているのかをはっきり言えずに、時々彼は泣いていた。

 ずっと昔、たまたまカリフォルニアに行った折に、ジミー・ロウルズ(p)と連れ立ってプレズに会いに行ったことがある。彼はお父さんの所有する3階建ての建物に住んでいてね、その家を訪ねたら、丁度、親子喧嘩の真っ最中だった。プレズはすすり泣いていた。これから家を出てウエスト・ロサンジェルスの母親のバンガローに引っ越すから手伝ってくれないかと言うんだ。僕達は借り物のクーペに乗ってきていたので、言われるとおり、僕らで荷造りから引越しまで何もかもやったよ。レスターのあの涙はずっと忘れられない。

  50年代にNYの52丁目近くのレストランで、彼と一緒に食事をしていたら、トルコ帽に聖衣を着た妙な男が入ってきてキリストについて説教を始め、彼を「預言者(PROPHET)」と呼んだんだ。するとプレズはその男がイエスと「恩恵(PROFIT)」について何か言ったのだと勘違いし、プイと店を飛び出してしまった。僕が追いついた時彼は泣いていた。なぜ彼がイエスにそんな強い感情を持つようになったのか判らない。子供の頃教会に通っていたからか、或いは彼は不平等や不正に強く悩んでいたからか... 例えどういう種類の不平等や不正にしても、彼にとっては絶対に耐えがたいものだった。

  彼は晩年、アルヴィン・ホテル(訳注:NY、ブロードウェイの52丁目にあった。)に大きな部屋を借りていた。部屋を訪ねると、食べ物の皿が所狭しと置かれていた。友達の差し入ればかりだったが、彼はもう食べる事が出来なくて、ただワインを飲むだけだった。彼の飲酒が手におえなくなった理由の一つに歯の問題があった。歯がボロボロで常に歯痛に悩まされていたんだ。

 それでも彼は、ヘアスタイルとかそういう事にはすごくこだわっていた。長く伸ばしていたんだけど、とうとう私の妻(散髪がうまいんだ!)が彼の髪をカットする事になった。すると妻がハサミを一度入れるたびに、鏡を見せろって言うんだ。まだ髪の毛も床に落ちていないのね。すごいことだよ!大なり小なり意識的に自分を死に追いやっている人間が、なお自分のヘアスタイルにこだわるというのは。」

   テナー奏者ズート・シムズは、40年代にヤングを崇拝し徹底的に聴きこんだ。彼もまたレスターの無邪気なナルシズムの目撃者だ。

Zoot_Sims_at_Birdland__Marcel_Fleiss.jpg  「1957年にバードランド・オールスターズでツアーした時、レスターと相部屋だった。ある日、彼が着替えで裸同然にになったんだけど、真っ赤なショーツでね。力こぶを作ってポーズをとってゆっくりとターンしながら言うんだ。

 『おじんにしては悪くないなあ...』って。

 ほんとにその通り、いい体格でね。あの人は心も綺麗だったなあ...。それにとても知的な人だったよ。」

 ヤングはパリ公演から帰国した翌日、アルヴィン・ホテルで亡くなった。死の直前、フランスでフランソワ・ポスティフが行ったロング・インタヴューは沈鬱なものだ。多分彼は死を予感し、そこに自分の墓碑銘を残したのかもしれない。

 『社会は全ての黒人がアンクル・トムやアンクル・レミュス、アンクル・サムというようなものに成るように望んでいる。私にはそんなことは出来ない。ずっと同じことの繰り返しだ。
 生きる為には戦わなければならない。―死が戦いから解放してくれる日まで。それが勝利の時だ。』

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<あとがき>

 トミー・フラナガンは、レスター・ヤングとの録音はありませんが、ヤングの晩年にレギュラーで共演していました。レスターが大好きだったので、友達のサックス奏者がアルヴィン・ホテルに訪ねて行くと言うと、必ずくっついて行ったそうです。

 レスター・ヤングの不思議な言葉使いが、浮揚感あるサウンドにつながっているというのも、ジャズ講座に来ていらっしゃる皆さんには、わかりやすかったのではないでしょうか?

 音楽だけに限らないと思いますが、巨匠の最盛期を知る人ほど、晩年の衰えを見るのは辛い。人間は皆そうなるもんなんだ。でもジョン・ルイスやジミー・ロウルズ、ズートといった人たちは、(多分知っているんだろうけど)一言も惨めったらしい姿については話していません。

 トミー・フラナガンという人は、こういう行儀についてとてもうるさい人だったので、(フラナガンの教えてくれたルールを、私はインディアンの掟と呼んでる。)インタビューされる人たちの「見識」についても色々興味深く読みました。

 初めて掲載してしまったホイットニー・バリエットのポートレートはどうでしたか?バリエットは巧者そろいのNew Yorkerのコラムニストのうちでも「英語の達人」と呼ばれ、原文はもっとリズムと格調があります。私のような若輩者では、どうにも日本語にしきれなくてゴメンネ。

原書もペーパーバックで入手可能、辞書をひくのがイヤでなければ楽しめます。

CU

2009年5月 5日

GW にバリエットはいかが? 連載 "PRES" (第三回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より

《プレズ PRES》 (3)
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<独立独歩>
   ヤングの才能はカウント・ベイシーの元で開花した。比類なき軽やかさと陰影のある歴史的名演を数え切れぬほど録音し、ビリー・ホリデイの伴奏で名盤を作った。ビリー・ホリディとレスター・ヤングのサウンドは、一つの声から派生した双子だ。コールマン・ホーキンスが独立してから数年経った1940年代後半、ヤングも自己グループで活動を決意、NY52丁目で短期間スモールグループで活動した後、西海岸で弟のリー・ヤング(ds)とバンドを結成した。

52ndSt1948Gottlieb.jpg  ティーン・エイジャーの頃、52丁目でヤングと交友のあったシルビア・シムズ(vo)は語る。

 シルビア・シムズ:「ヤングはとても快活な人で、髪が素敵だった。40~50年代に皆がつけていたポマードは絶対使わなかった。服の着こなしも素晴らしくて、頭の後ろにちょんとかぶったポークパイハットが、彼のファッションのアクセントだった。いつもコロンのいい匂いをさせていた。一度、お客が騒いでちっとも演奏を聴かないと彼にグチをこぼすと、彼はこう言ったわ。

 『レディ・シムズ、店の中で誰かたった一人だけでも聴いてくれる人がいるとしたらどうする? その人はトイレに行ってるかもしれないが、それでも君にはお客さんがいるってことだろう?』 

 彼の話は'レスター語'だらけで理解するのが大変だったけれど、音楽は判りやすかった!レスター独特のあの言葉でフレージングしていたんだわ。私の歌は彼に大きな影響を受けている。私だけじゃなくて多くの歌手がずっと彼の演奏から学んでいるんだもの。」

 ジミー・ロウルズ(p)はヤングの西海岸時代に共演した。

p_rowles.jpg    「ビリー・ホリデイが一体いつ頃、"大統領(プレジデント)"を略したプレズというあだ名を付けたのが知らないが、彼と最初に知り合いになった頃、楽団の連中は彼のことを"アンクル・バッバ(Bubbaはブラザーの意)"と呼んでいたよ。

 私もこの業界で色んな人間に会ったが、レスターは極めてユニークだ。一人ぼっちで物静かな人でね。本当に腰が低くて、怒るという事がまずなかった。もし気を悪くしたら、ジャケットの一番上のポケットにいつも入ってる洋服ブラシを取り出し、左の肩をサッと一掃きしたもんさ。

 あの人と知り合いになりたけりゃ、一緒に仕事をするしかない。それ以外は、カードをやるか、チビチビ酒を飲むだけだ。万一何かしゃべったりしたら、皆びっくり仰天して交通がストップする位珍しいことだったよ。

 スーツ以外の姿を見た事がない。お気に入りはダブルのピン・ストライプだった。かっちりしたタブカラーのワイシャツで、ズボンの折り返しは小さく、つま先が尖り細い踵のキューバンヒールを履いていた。

 1941年頃、まだまだ年上のうるさ型たちは、彼の真価を認めていなかった。自分たちより格下と思っていたんだよ。ちゃんとキャリアを積んでいたのに、新参者と思われていたんだ。彼のプレイには変な特徴があった。彼のお父さんもサックスを上下に揺すって吹いたんだよ。一種ヴォードヴィル的な演り方だな、多分レスターのあの構えはそんなところから来たのかも知れない。いずれにせよ、レスターがノッて来るれば来るほどサックスの構えは上になり、殆ど水平になっちゃうのさ。」

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<兵役の闇>
 

cafesociety.jpg1942年、ヤングは弟のリー・ヤングと共にNYの有名なクラブ<カフェソサエティ・ダウンタウン>に出演、その後ディジー・ガレスピー(tp)やテナー奏者のアル・シアーズと共演後、ベイシー楽団に再加入した。

   1944年の徴兵は、彼が生涯決して克服できなかった第二の苦難となった。

 いったい軍隊で彼に何が起こったのか?真相は諸説あるが、重要なことは、彼は生まれて初めて現実と衝突し、現実が彼を打ちのめしたという事実だ。彼は軍隊で過ごしたのは15ヶ月間だが、兵役期間中の大部分、営倉に拘留されていた。罪状はマリファナと睡眠薬の所持、言い換えれば不当な扱いに対し無垢な黒人が、たまたま不適当な時と場所に居合わせたという罪だ。極めて不名誉な除隊を強いられてからというもの、彼の演奏と生活は、ゆっくりとすさんで行ったのである。

 ジョン・ルイス(p)は1951年にヤングの下で演奏した。

john__Lewis.jpg    「バンドは大体ジョー・ジョーンズがドラム、ジョー・シュルマンがベース、トニー・フルセラかジェシー・ドレイクスがトランペットだった。私達はNYの<バップ・シティ>の様なクラブで演奏してから、シカゴへ巡業した。

 レスターは各セット同じ曲を演奏するという日が時にあった。そして次の週も同じ曲を繰り返す。先週の火曜に<Sometimes I'm Happy >を演奏し、今週の火曜も演るんだが、今週は一曲目にを演ってみる。そして前の週に彼が演ったソロの変奏を吹き、次の週はそのまた変奏を吹くというようなことが続き、彼のソロは巨大な有機体に変わっていくんだ、

 その頃から彼の演奏が荒れたと世間じゃ言うが、私が彼と一緒の時、劣悪な演奏など聴いた事がない。彼の演奏が変わったと感じたのは最後の数年間だけだ。その変化について明確な証拠や、いやな体験などしていない。ただね、そこはかとない絶望感が漂っていた。

  彼は私の目の前に実在する本物の詩人だったよ。物凄く無口だったから、一旦彼が口を開くと、一つ一つの言葉が、小さな爆発物のように強く感じた。私は彼が意識的に特別な言葉を発明したとは思わない。アルバカーキに居た従兄弟の話し方と少し似た所があったし、20年代後半から30年代前半には、オクラホマシティ、カンザスシティやシカゴで彼の言葉に似たようなものがあった。その地方の人々もやっぱりお洒落で、レスターのようにポークパイハットなんかをかぶっていた。だから彼の話し方や服装は自然と身に付いたのじゃないかな。扮装とか、本当の姿を隠す術ではなかったと思う。ただ彼はヒップであろうとしただけさ、何もかもがスイングしているという意識の表現だろうね。

 勿論、彼は役立たずの連中の為にわざわざかっこよさを浪費したり、下手くそと共演し、せっかくの良い演奏を台無しするような愚かな事はしなかったさ。もしも彼が不当な扱いを受けたとすれば、心の傷は決して癒ることはなかったろうな。

 昔、52丁目の<バップ・シティ>に出演した時のことだ。レスターは、彼の音がか細いと世間に非難され、どれほど深く悩み続けているか話してくれたんだ。

 楽屋で話の途中に、レスターはサックスを取り上げ、素晴らしく大きな音でソロを吹いて見せてくれたよ。コールマン・ホーキンスとはまた違い、分厚く滑らかで濃密な音色で、最高に美しいサウンドだった。」

(明日につづく)

2009年5月 4日

GW にバリエットはいかが? 連載"PRES" (第ニ回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より

《プレズ PRES》 (2)
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<キング・オリヴァーとの出会い>

armstrong_oliver.jpg  (右)Joe "King" Oliver (1885-1938) コルネット&バンドリーダー。深いブルース・フィーリングを持ち、ニューオリンズからシカゴで花開いた。キング・オリヴァーはルイ・アームストロング(左)以前のKing of Jazzだ。写真は'28年、Frank Driggs Cllectionより

 ヤングが家族の楽団、ヤング・ファミリーを辞めたのは18歳の時で、それ以降6~7年の間に、しばらくファミリーに戻った後"アート・ブロンソンのボストニアンズ"に参加、ミネアポリスの『ネストクラブ』でフランク・ハインズやエディ・ベアフィールド(saxes)と共演した。また「オリジナル・ブルーデビルズ」、ベニー・モートン(p)、クラレンス・ラブ、キング・オリヴァー(cor)と活動、そして1934年、カウント・べイシーの最初の楽団に入団した。
 ヤングは、ジャズ評論家ナット・ヘントフのインタビューで、50代でなお意気盛んだったキング・オリヴァーとの共演やオリヴァーの晩年について語っている。

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「ボストニアンズの後、キング・オリヴァーと一緒に演った。すごく良い楽団だったよ。僕はレギュラーとして、主にカンザスやミズーリ方面で1~2年共演した。

 キング・オリヴァーの楽団は金管3本、木管3本とリズム隊4人の編成だった。彼のプレイに衰えはなかったが、なにしろ年だから一晩中出ずっぱりではなかった。だが一旦吹けば、非常に豊かな音色だったよ。オリヴァーはショウのスターとして各セットに1曲か2曲だけ吹いた。

 ブルース?無論ごきげんなブルースを吹いたとも!人柄も良くて、明るいおっちゃんだった。若いメンバー全員を凄く可愛がってくれたよ。一緒に演って退屈なんてことは全くなかった。」

<第一のトラウマ:フレッチャー・ヘンダーソン楽団>

fletcher_henderson_hawk.jpgLヤング入団前のFヘンダーソン楽団、前列の囲みが若き日のホーキンス、右端:ヘンダーソン

 ベイシー楽団入団後間もなく、ヤングはコールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団への移籍を要請された。気のすすまない事ではあったが、結局承諾する。それはレスター・ヤングの人生で、克服しがたい最初の苦難であった。ホーキンスはヘンダーソン楽団に10年在籍し、大海を思わせるようなホークの芳醇なトーンと、分厚い和声のアドリブが楽団の核となっていたのだ。通常ジャズ・ミュージシャンというものは、注意深く寛容な聴き手だが、テナーに転向したばかりで、まだアルト臭かったヤングの音色やふわふわした水平方向のソロは、同僚の楽団員達にとっては異端と受け止められた。やがて彼等はレスターの陰口を叩く様になり、フレッチャー・ヘンダーソンの妻は「こういう風に吹いてくれたら」と、彼にホーキンスのレコードを聴かせた。それでもヤングは3~4ヶ月持ちこたえたが、遂に 「自分は解雇されたのではない」という旨の手紙を書いてくれるようリーダーのヘンダーソンに頼んで退団。カンザスシティへと向かう。2年後にベイシー楽団に再加入、彼のキャリアはそこから始まった。

<カウント・ベイシー楽団>

 ピアニスト、ジョン・ルイスは当時のヤングを知っている。

john__Lewis.jpg  John Lewis(1920-2001) ニューメキシコ州アルバカーキ育ち、40年代NYでBeBop時代の頭角を表す。

 ジョン・ルイス:「私がまだアルバカーキに居て、まだ非常に若かった時、ヤング・ファミリーが町に逗留していると噂に聞いた。
 野外のテント・ショウで巡業に来たものの、金がもらえず立ち往生していたらしい。地元にセント・セシリアズ"という名のなかなか良い楽団があり、レスターはそこで演奏していた。街にはチェリーと言うスペイン人がいてね、ペンキ屋だったが、素晴らしいテナー奏者で、レスターは彼ととサックスで勝負したりした。当時のレスターのプレイ自体は殆ど覚えていないが、軽めの良い音色だったよ。しばらくしてヤング・ファミリーは街を離れミネアポリスに移った。

 次に会ったのは1934年頃で、彼が西海岸へ楽旅中にベイシー楽団のコーフィー・ロバーツというアルト奏者を迎えに町に戻ってきた時だ。その時代の彼はすでに1936年の初レコーデイングと同じサウンドだったよ。この地方は真鍮製のベッドが多くてね、レスターはいつもベッドの足元にテナーを吊るして寝ていた。夜中に何かアイデアが浮かぶと、サックスを手に取りすぐ音を確かめられるからだ。」

basie_lester.jpg      ヤングの初レコーデイングは、ベイシー楽団選抜のスモールグループだ。メロディの浮揚感は、フランキー・トランバウワーやジミー・ドーシーを想起させる。

 ヤングが以後15年間使用する上向きのグリスや急上昇するフレージングはコルネット奏者ビックス・バイダーベックの影響を暗示している。ヤングには深いブルース・フィーリングがあった。それはキング・オリヴァーのセンスを自分の一部として取り込んだのに違いない。淡い音色と最小限に抑制するヴィブラート、「間」のセンス、息の長いフレージング、そして容易くリズムを操る柔軟性を併せ持っていた。

 彼の登場まで、大部分のソロイスト達はオン・ビートでリズムに乗り、垂直的で短いフレージングに終始するため、リズムの波は途切れがちになった。ヤングはこのようなバウンスするアタックを滑らかにして、バーラインを越える長いフレーズとレガートを駆使した。(フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代、同僚だったトランペット奏者レッド・アレンと同じ手法である。)さらに彼は、しばしばコードからアウトする音を使った。奇妙な音符こそが、彼のソロで耳を惹きつけるものであり、沈黙は強調の為に使われた。

カウント・ベイシー楽団のベーシスト、ジーン・ラミーはこう回想する。

gene_ramey.jpg  「ヤングは33年の終わりには、非常に間のあるサウンドを手中にしていた。あるフレーズから次の新しいフレーズを始めるのに最低三拍の間を置いた。」

 真正面から胸倉をわし掴みにするようなコールマン・ホーキンスと反対に、ヤングのソロはわざとそっぽを向いて人をはぐらかすようにさえ聴こえる。ヤングのアドリブは非常に論理的に動き、滑らかで耳に優しい。彼は装飾音符の達人であり完璧な即興演奏家であった。

 "Willow Weep for Me"や"The Man I Love"といったおなじみの曲を、一瞬そうと判らないほど鮮烈に仕立てた。頭の中に原曲のメロディをしっかり持ちながら繰り出すサウンドは、曲に対して抱く「夢」であり、彼の紡ぐソロは「幻想」だ。-叙情性がありソフトで滑らか―それは演奏だけでなく、恐らくは彼の人生もそうだったのではないだろうか?

 ハミングにさえ思える気楽なソロ、だがそれは見せかけだ。音の動きは急速で、不意にホールドしたと思えばガクっとビートを落とす。リズムのギアチェンジで大胆に変化を付け、ソロは絶え間なく変化を続ける。繰り出すメロディは時に非常に美しい。スロウな演奏は優しい子守唄のようだが、テンポが速まるにつれ、彼のトーンは荒々しくなった。同時にヤングは随一無比のクラリネット奏者でもあった。30年代後半に、メタル・クラリネットを吹き、心に訴えかけるような澄み切った音色を手中にしていた。(しかし、クラリネットが盗まれたので、ヤングはいとも簡単に楽器を諦めてしまった。)

(明日につづく)

 

2009年5月 3日

GW にバリエットはいかが? 連載 "PRES" (第一回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より

Pres7.jpg 

《プレズ PRES》 (1)

lester-young.jpg サックス奏者レスター・ヤングが独創性に欠ける点はほぼ皆無だ。腫れぼったい瞼と飛び出し気味の目、少し東洋的で角ばった顔、飛び切り小さな口髭、歯の隙間が見える笑顔。彼は内股で軽やかに歩き、話し声はソフト、何かしらダンディなところがあった。スーツとニット・タイにカラー・ピン、踝(くるぶし)丈のレインコート、それにトレードマークのポークパイ・ハットを、若い時には後頭部に軽くのせ、年を取ると目深にかぶった。性格は内気、話し掛けられた場合に限り、しばしば自分も話す。演奏中は前方斜め45°にサックスを構え、まるで水中に櫂(かい)を漕ぎ入れるカヌー乗りの様に見えた。その音色は空気の様に軽くしなやか、それまで耳にした事もないようなフレーズは、何とも言えず抒情的で捉えどころのないものだった。

  サックス奏者がこぞってコールマン・ホーキンスに追従した時代、ヤングは二人の白人奏者を模範とした:Cメロディのサックス奏者フランキー・トランバウアーとアルトサックスのジミー・ドーシー、両者とも一流ジャズ・プレイヤーではない。だが1959年にレスター・ヤングが没した時、彼は白人黒人両方の無数のサックス奏者の模範となっていた。優しく親切な男で、人をけなした事はない。




ftrumbouer.jpgjimmy_dorsey.jpg  左から:Frankie Trumbauer(1901-56), Jimmy Dorsey (1904-57)


 そして彼は暗号のような言葉を使った。

<レスター・ヤング的言語について>

 レスター・ヤングの暗号化された言語についてジミー・ロウルズ(p)はこう語る。
p_rowles.jpg



 「彼の言う事を理解するためには、暗号の解読が必要だった。それは辞書を暗記するようなもので、私の場合は判るようになるまで約3ヶ月はかかったと思う。」

 ヤングの言語は大部分が消滅してしまったが以下はその一例である。

  • ビング(クロスビー)とボブ(ホープ)= 警察 
  • 帽子(Hat)= 女性 中折れ帽 orソンブレロ= 女性のタイプを表す。      
  • パウンドケーキ = 若く魅力的な女性 
  • グレーの男の子 = 白人男性 
  • オクスフォードグレイ= 肌の白い黒人、つまりレスター自身も意味する。      
  • 「目玉が飛び出る」=「賛成する。」
  • カタリナの目orワッツの目 =どちらも非常に感嘆した時の表現
  • 「左の人たち」 =ピアニストの左手の指
  • 「召集令状が来る気分だ。」= 人種偏見を持った奴が間近にいる。      
  • 「お代わりを召し上がれ。」=(バンドスタンドでメンバーに対して)「もう1コーラス演れ。」
  • One long, Two long = 1コーラス、2コーラス
  • 「耳元がざわざわする」=人が彼の陰口を言っている。
  • 「ちょいパチをもらう。」= 喝采を受ける。
  • ブンブンちゃん = たかり屋      
  • ニードル・ダンサー = へロイン中毒者
  • アザを作る =失敗する。
  • 種族=楽団      
  • トロリー・バス =リハーサル
  • マダムは燃やせるかい? =お前の奥さんは料理が上手か?
  • あの人たちは12月に来る。=2人目の子供が12月に出来る。(因みに彼は3回結婚し2人の子供を持った。)
  • あっと驚くメスが2時。 =美女が客席右手"2時"の方角に座っている。



<旅芸人>

LesterYoungonaltoJoJones.jpg 奇人変人は往々にして、混雑しつつ秩序ある場所に棲息する。ヤングが人生の大半を過ごしたのは、バスや鉄道の中、ホテル、楽屋、車の中やバンドスタンドであった。

  彼は1909年ミシシッピー州ウッドヴィルに生まれ、生後すぐに家族でニュ―オリンズの川向こうの街、アルジャーズに移った。10歳の時に両親が離別、レスターは、弟のリー、妹のイルマと共に父に引き取られ、メンフィスからミネアポリスへと移り住む。父親はどんな楽器でも演奏することが出来、家族で楽団を結成し、中西部や南西部をテント・ショウの一座として巡業した。ヤングは最初ドラムを演奏し、後にアルトサックスに転向した。初期の写真を見ると、彼のサックスの構えは後年と同様非常にヴォードヴィル的なものだ。

 「自分は譜面を読める様になるのが人より遅かった。...」かつて彼は語った。
 
レスター・ヤング : 「ある日、父がバンドのメンバー全員に各自のパートを吹くよう言った。父は僕が出来ない事を百も承知で、わざとそう言ったんだ。僕の小さなハートは張り裂け、オイオイ泣きながら思った。家出して腕を磨こう!あいつらを追い抜かして帰ってきてやる...帰って欲しけりゃな。覚えてろ!そして僕は家を出て、たった一人で音楽を学んだ。」

(明日につづく)

2009年5月 2日

フランス的贅沢な大人の時間、鉄人Duo

akihiko_nakajima_1.JPG  OverSeas第一金曜日のお楽しみは、寺井尚之+中嶋明彦(b)の鉄人デュオ!(写真提供:後藤誠氏

 鉄人コンビを組んでから何年になるのか判らない・・・(25年くらいかな?:寺井尚之)

 中嶋明彦(b)さんは、北海道生まれで、立命館大学時代から京都を中心に活動。プロ入りした動機が、'75年のエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン3の伝説的来日コンサートだったことが、寺井尚之と一緒。(あのときはプロになったら、いつでもエラ+フラナガンみたいな超満員のお客さんの前で演奏できると思てたんや・・・寺井尚之)

 フリー・ジャズから歌伴まで何でもこなすヴァーサタイルな中嶋さんですが、OverSeasではベテラン同士、肩の力を抜いたプレイで主にスタンダード曲を聴かせてくれます。

 日頃は滅多に聴けない寺井尚之のMistyや即興演奏の醍醐味一杯で、どこまで転調していくのかわからないブルース、それに中嶋さんの十八番、Hush Abyeや「朝日の如く爽やかに」など、聴きなれた曲での大人の会話を楽しみました。

 山口マダムが来られていたので、鉄人は敬意を表して弾丸スピードのJust One of Those Thingsを披露。わざと、ハアハア言いながら手をブルブル運動させて見せる中嶋さんのお茶目な表情が素敵だった。GWにも関わらず、音楽をよく知っている素敵なお客様たちが、大きな拍手や歓声を送ってくださったので、二人併せて(?)才の鉄人たちも燃えました!

 昨夜は、昔よく聴きに来てくれていた寺井ファンが、殆ど10年ぶりにご両親と一緒に来てくれて嬉しかった~!その頃は小麦色の肌が綺麗で、無口だけどいつもニコニコしている神秘的な美少女、とても印象に残っていました。

tetujin_duo_yuko_sonoda.JPG  エキゾチックな美女訪問に鉄人もフニャフニャ

 寺井尚之やトミー・フラナガンのピアノを愛する園田由子さんはクラシック・ピアニスト、姿を見せなくなったと思っていたら、ピアノ修業で渡欧し、現在はパリでコンサート・ピアニストとして活動しています。

 運命は不思議だ!由子さんがパリで知り合った年上のお友達夫妻のお宅を訪問したら、そこにはトミー・フラナガンの写真が一杯!驚いたことに、トミー・フラナガンの大ファンで友人だったんです。奥さんがルイ・ヴィトン本店のディレクターをしていたとき、フラナガンのライブを盛んに企画していたのでした。フラナガンの思い出話を色々聞いた由子さんは、パリから飛んできて報告しに来てくれたのでした。ヴィトンの熱烈なフラナガン・ファンの噂は聞いていたけど、まさか、彼女がその人たちと現在仲良しだとは・・・絶句です。

 お話を伺っている途中に、昔トミーがまだ元気だった頃、梅田のリッツ・カールトンに迎えにいったら、黒の丸いBeBopサングラスで、全身ヴィトンに身を包み、私に腕をさし出して「どや、わしってカッコイイやろう! タマエにも今度バッグをあげるよ。」と鼻高々だった姿が懐かしく甦って来ました。(バッグはもらってないけど・・・)

 美少女から、シックで洗練された美女に成長していた由子さんは明日パリに帰国するそうです。

 コンサート活動頑張って!帰国したらOverSeasに来て下さいね!

Bon Voyage!