2013年2月14日

「奇妙な果実」:カフェ・ソサエティにようこそ

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 昨年末から、バタバタしていると、あっという間に日付が替る毎日に喘いでいましたが、先週の「楽しいジャズ講座」でビリー・ホリディの名唱を聴くと、かなり疲れが癒えました。
 講座のオープニングに聴いたのがコモドア盤「奇妙な果実」、レディ・ディの本当の良さはこれなのか?この疑問符から講座が始まり、30曲以上の音源も飽きることなく一気に聴くと、不思議に気持ちが楽になっていました。
 
CafeSocietyPoster.jpg  様々な名唱を聴き進めると、「奇妙な果実」はビリー・ホリディのスタイルの内でも極めて異質なことが判ります。この歌が生まれたのは1939年、場所は『カフェ・ソサエティ』というNYの有名クラブでした。TV以前の時代、大都会の夜の愉しみは、演劇や演芸を楽しんだりダンスを愉しみに街に繰り出すことでした。当時はわが町大阪にも、寄席や芝居小屋が数々あって、大阪は天満に住んでいた私の母も、毎晩のように芝居や寄席で楽しんだというから、古き良き時代だったんですね。


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  『カフェ・ソサエティ・ダウンタウン』は1938年、グリニッジ・ヴィレッジのシェリダン・スクエアに開店。地下のL字型のスペースは収容人員210名、ミニマム・チャージ1~2$、ライブチャージ無料(!)で、バーカウンターならビール一杯で9pm- 12pm- 2pm-3回の充実したショウが観れ、幕間はテディ・ウイルソンのバンドを聴くもよし、ダンスするもよしで大盛況!2年後には山の手高級住宅街、アッパー・イーストサイドに『カフェソサエティ・アップタウン』も開店。こちらは、ダウンタウンよりも料理が充実し、両店舗共に大繁盛を誇りました。

  店のポリシーは「人種混合」、若者も後期高齢者も、いかなる肌色のお客様も平等なサービスを謳う一流店は当時、異例中の異例、大統領夫人、エレノア・ルーズベルトのように、この店以外のクラブには行かないというのが、『カフェ・ソサエティ』の主な客層でした。

Albert-Ammons_Cafe-Society1.jpg オーナーのバーニー・ジョセフソン(1902-88)は、バルト海のユダヤ系ラトヴィア移民二世、靴屋のせがれで6人兄弟の末っ子、幼い頃に父を亡くし、貧乏の辛酸を舐めた苦労人、最初は父と同じ靴屋でしたが、「飲食業は現金商売で手堅い」という理由で転業したといいます。中学時代の親友が黒人で、ジャズが好きで、ハーレムのコットン・クラブなどに足繁く通いますが、「出演するのは黒人なのに、黒人客は入れない」業態に大いに疑問を感じた社会派でもありました。つねにお客に受けるアクトを心がけ、出演者に細かいステージングを指導、ビリー・ホリディの出演時に、その美しい顔にピン・スポットを当てて、男性ファンの心臓をバクバクさせる作戦など、演出家としての才能もあったのです。

 社会派のポリシーで意気投合したのが、英国出身の大プロデューサー、ジョン・ハモンド、出演者のブッキングを担当し、傘下のビリー・ホリディやレスター・ヤング、テディ・ウイルソン、ブギウギ・ピアノの名手アルバート・アモンズやミード・ラクス・ルイス、そしてジョセフソンと切っても切れない女性ピアニスト、メアリー・ルー・ウィリアムズなど、人気者が多数出演しました。


 リベラルな気風を守るため、出演者には「店内でのクスリは厳禁」という業務規程を課して、できるだけヤクザとの関わりを避けたそうです。その反面、繁盛店ですから、いつも客席が静かにショウを鑑賞するわけではなかったようで、ビリー・ホリディはステージで客席に向かって、Kiss my Assとばかりに、ドレスの裾を繰り上げお尻を見せたこともあったそうです。イブニング・ドレスには下着をつけないのが普通なので、えらい騒ぎになったとか・・・

<高校教師が作った「奇妙な果実」>
 

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 「奇妙な果実」はルイス・アレンというペンネームで詩作をしていたブロンクスの高校教師、アベル・メアプールが南部で樹木に吊るされた凄惨なリンチ写真を見て創作したもの。「奇妙な果実」の作者は、意外にも、黒人のジャズ&ブルース歌手を妻に娶ったユダヤ系白人人だった。「奇妙な果実」を最初に気に入ったのはホリデイではなくハモンドで、リベラルな「カフェ・ソサエティ」のイメージにぴったりだと、ビリー・ホリディに歌わせて大評判になり、店のテーマソングになりました。

CafeSocUptown.gif ヴィレッジのモダン・アートの旗手たちが描いた壁画や、ジャズ、ブルース、フォークソングやスタンダップ・コメディ、ダンスや手品、当時の先鋭的なパフォーマンスが繰り広げられる『カフェ・ソサエティ』は、話題のスポットとして第二次大戦中も連日満員御礼の大盛況!

 .ところが、そのリベラルな気風が、やがてクラブの経営に影を落とします。

 1947年、店の法律業務を担当していた兄のレオンが非米活動委員会に召喚され、証言を拒否して有罪の判決を受けたんです。

 「NYの一流ナイトクラブ・オーナー、バーニー・ジョセフソンの兄、反米活動で逮捕!」そんな見出しが連日新聞の見出しを飾り、それまでチヤホヤしていたマスコミが一斉にバッシングをはじめると、客足は遠のき、隆盛を誇った『カフェ・ソサエティ』は、事件の翌年に閉店の憂き目に会いました。水商売につきもののマフィアを排除するために、出演者に「店内でのドラッグ禁止」という厳しい規則を定めていたにも拘らず、逆に正義を守るはずの政府とマスコミにつぶされてしまったのは、皮肉なことですね。

 レオナルド・デカプリオが、FBI長官、エドガー・フーバーに扮したのクリント・イーストウッド監督作品「エドガー」を観ると、FBIは公民権運動家や共産主義者と目される有名人の私生活を盗聴監視していたと描かれていますから、左翼的なナイトクラブが10年間盛業できただけでも快挙だったのかも知れません。

 ジョセフソンはその後、60年代の終わりに『ザ・クッカリー』というレストランを開業し、アルバータ・ハンター(vo)やメアリー・ルー・ウィリアムズ(p)に再びスポットライトを当てました。

 もしもビリー・ホリディが「奇妙な果実」に出会わなければ、もう少し長く生きていられたのでしょうか?そうなったら、「Lady in Satin」の名唱は生まれなかったのでしょうか?

 愛らしくいじらしい、ホリデイのナンバーを聴いていると、そんな「もしも」の疑問が生まれてきます。

 

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コメント(2)

tamae さん、こんばんは。

「奇妙な果実」の考察は染み入ります。ビリー・ホリディが「奇妙な果実」に出会ったのは必然だったのかもしれません。ジャズの神様は人間性の核心に触れることができるホリディを選んだのでしょうね。

トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートのご案内をいただきましたが、残念ながら行けそうもありません。北海道からご成功をお祈りしております。

dukeさま、ビリー・ホリディの歌は本当に心に沁みますね。ジャズの観音様と呼びたいです。トミー・フラナガンは、「ビリー・ホリディを聴け!」と寺井尚之に口をすっぱくして言っていました。

トリビュートへのエールもありがとうございます!北海道に届くような演奏ができますように!

いつも温かいお言葉に感謝、感謝です。ありがとうございました。

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