2013年5月30日

ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(前編)

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Gigi Gryce(1925-1983)


 "Jazz Lab"やオスカー・ペティフォードOrch... ここ数ヶ月、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で、ジジ・グライス関連の名盤を聴いてきました。4/4拍子が、だしぬけに3/4に捉えなおされるメーター・チェンジや転調によるカラー・チェンジ!グライスのクリアでダイナミックなアレンジは、受講のお客様と共に、「あっ、これはきっとジジの編曲だ!」と、わかるようになりました。
  ジジ・グライスがジャズ・シーンの第一線で活躍した期間は10年あまりと驚くほど短いのです。引退後はイスラム名を名乗り、教師として第二の人生を送った。そこで彼の過去を知る人はほとんどいなかったんです。謎に包まれた彼の人生の状況証拠を集めた力作、"Rat Race Blues"( Noel Cohen, Michael Fitzgerald著)という伝記が出版されていますが、残念ながら未邦訳。


 ジジ・グライス、その引退の真相は?数奇な人生の断片を。

理論派秀才 陽の当たる場所に
 
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  Gigi Gryce(本名 George General Grice Jr.) は、1925年、裕福な家庭の次男坊として、陽光降り注ぐフロリダ州の北西端にある港町ペンサコーラで生まれました。しかし8才のときに、父が心臓病で死去、取り残された家族の収入は途絶え、家は没落します。

 一家は、山の手からゲットーに移り、貧困層のための福祉プログラムのおかげで、十代でアルト・サックスに出会いました。当時のジジは、無口で内向的な少年で、学業成績も良くなかったといいます。

 1944年、海軍入隊。歴史に名高いシカゴ海軍バンドでビバップの洗礼を受け、チャーリー・パーカーに心酔、海軍の盟友たち、クラーク・テリーやジョン・コルトレーンと、バードを目指して切磋琢磨しました。

 2年間の兵役の後、グライスはコネチカット州ハートフォードでプロ活動。そこで無名時代のホレス・シルヴァー(p)に出会います。

 自分のサウンドを構築し、第一線の音楽家になるには、ビバップを越える音楽を志すには知識が必要だ!と、退役軍人の学費免除、俗に言うGI Billを利用し、ボストン音楽院で学士取得を目指す傍ら、ジャキ・バイアードやクインシ―・ジョーンズと親交を結びました。その間、パリに入学し、ナディア・ブーランジェやアーサー・ホーネッガーたち、20世紀を代表する音楽教育者の薫陶を受けながら、留学のストレスでノイローゼになり帰国した、といわれていますが、真偽は不明です。

 ブーランジェといえば、バーンスタインからバレンボイム、ピアソラまで、ジャンルを超えた巨匠たちに「音楽の視点」を教えた教育の達人、ドナルド・バードや親友クインシ―・ジョーンズも門下生です。

 同年、ジャズ界のスター、スタン・ゲッツがグライスの曲を気に入ってごっそり録音、第一線への道がひらけます。かつての盟友、ホレス・シルバーの推薦でした。 

 丁度、この時期、グライスはイスラム教に改宗、バシール・カシム(Basheer Qusim)というムスリム名を取得し、同時に、芸名を(Gigi) GriceからGryceに変えています。

 翌1953年、タッド・ダメロン楽団で活動。憧れのダメロンの編曲法を目の当たりにした後、ライオネル・ハンプトン楽団に入団、クリフォード・ブラウン、後のパートナー、ベニー・ゴルソン、アート・ファーマーなど、ハードバップを背負って立つスターたちと海外ツアーし、パリでレコーディングも果たしました。

 上の写真はクリフォード・ブラウンと、二人の共通点は、酒やクスリをやらないクリーンなジャズメンだったこと。 

<著作権意識>

 

tommy&Thad.JPG 1954年、アート・ファーマーとタッグを組み活動後、パートナーをドナルド・バードに代えて、双頭コンボ、Jazz Labで目覚しく活動を始めます。デューク・エリントンを別として、ミュージシャンの作曲作品に発生する「著作権」の意識は、この世代から強くなりました。アカデミックな「知識」世代がジャズに登場したわけですね。

 ジャズ史上初めて、個人的な出版社を設立したミュージシャンが、このジジ・グライス。それまでは、誰も彼もこぞってデューク・エリントンが帰属するMills Musicに著作権を委任した。だってエリントンを見習っておけば間違いないもん、というブランド志向の軽いノリ。さもなくば、レコード会社が録音曲の著作権を自動的に管理して、「おまけ」感覚で、忘れた頃にミュージシャンに支払うか、あるいは担当者がネコババして知らんぷりというケースも少なからずあったといいます。

 1955年、楽譜出版社を設立したグライスニベニー・ゴルソンも参入、自分たちのオリジナル曲や、ジョン・ヘンドリクス、ボビー・ティモンズといった仲間のミュージシャンの版権も管理して、レコード業界を震撼させたのでした。

 
 ビジネス感覚にたけ、楽器の腕前はチャーリー・パーカー直系の名手、初見の譜面もなんなくこなす読譜力と、クラシック音楽の基礎の上に生む斬新なアイデア!グライスは、チャーリー・ミンガスやオスカー・ペティフォード、アート・ブレイキーといった、ウルサ方に重宝され、めきめき頭角を現します。

  

<天才のストレス>

 

Gigi Gryce

Gigi Gryce (Photo credit: Wikipedia)

 

  クスリどころか、酒も煙草もやらない超堅物、才能も実力もあり、版権も確保したのに、なかなか金持ちなれないのがバッパーならでは!著作権事務所を作る手続きには、多額の弁護士費用が必要だったからかも知れません。

 グライスの妻は、元々ジャズ・ファンというわけでもないカタギの女性、たまたまジャズクラブに行ったとき、グライスに見初められた。彼女の名前はエレノア・グライス、'53年に結婚、社会保障庁に努め、夫のジャズライフを懸命に支えますが、子供が生まれると、共働きというわけにいかない。そこで、たちまち生活苦に。グライスは一時期、食堂でコックのアルバイトをしながら生活費を稼いでいたほどです。

 そんなストレスのためか、あるいは子供の頃、父の死や、貧困で味わったトラウマが原因なのか、物静かな性格とは裏腹に、グライスには異常に疑り深く、被害妄想的な性癖があった。Nica's TempoやSmoke Signalのスカっとしたサウンドからは信じがたいことですね。

 例えば、自作の譜面を演奏者に配って本番を終えると、翌日も同じ曲を演るのに、譜面を各ミュージシャンから厳しく撤収する。そんな細かいところがあり、おまけに酒も一緒に飲まないから、心底打ち解けられる仲間は少なかった。アート・ファーマーがグライスとコンビ解消したのは、そんな理由だったそうです。

 50年代の終わりが近づくと、グライスの人生行路は、鉄壁の音楽と裏腹に、大きくほころんでいきます。

 負けるなジジ・グライス!

 続きは次週・・・

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2013年5月23日

前略ホーキンス殿:ソニー・ロリンズ拝

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 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」が始まり、フラナガンが共演した巨匠達のことを再び調べてます。先週、ジジ・グライス関連で魅了されたS.ニール・フジタのアート・ライフについて書いたら、思いがけず、プロのアート・デザイナーの方から励ましのお便りを頂き、とても嬉しかったです。ありがとうございました。

 今回も、講座に関連して、私が感動したものをご紹介します。
 それは1962年10月、ソニー・ロリンズが10代の頃から尊敬するコールマン・ホーキンスに宛てて書いた手書きの書簡で、ロリンズの公式HPの中で偶然見つけました。ロリンズがしばらく第一線から離れ、ロウワー・イーストサイドのウィリアムズバーグ橋で研鑽を積んだ末、『Bridge』をひっさげてジャズ・シーンに劇的なカムバックを果たした数ヶ月後に書かれた書簡です。
 手紙はたいへん丁寧な言葉で綴られており、当時のミュージシャンの上下関係は、相撲の世界にも似た固い絆で結ばれる縦社会であることを実感しました。

 

810_rollinslettertohawkins_page_12.jpg 原文はここにあります。なにしろ手書きなので、Google翻訳も無理ですから、和訳をつけました。

 

 '62年10月13日

 親愛なるホーキンス様

  先日《ヴィレッジ・ゲイト》で聴いた演奏は最高でした!!"ジャズ界"という激しい競争社会の中、トップであり続け、今なおリーダーシップを堅持されていることよりもなお、長年磨きぬかれた音楽が、あなたの人格と品位の副産物であることの方に、ずっと大きな意味があると思いました。
 
 若手プレイヤーの中には、不幸にも、音楽の才能があるのに人間的に未熟な者が数多くいます。そしてオフ・ステージでの未熟な人格は、プレイに表れます。
 やがて彼らは、自分に音楽を創造する能力がないことに気がついて愕然とするものの、いったいどうして音楽的なパワーが、またたく間に失われてしまったのか、その理由には気が付きません。
 あるいは、自滅しないためにどうすれば良いかを分かりつつも、自分の生き方を変えられない弱虫で、一人前じゃないのかもしれません。


 はっきり言えるのは、人格や知識、そして美徳といった資質は、"音楽"に優る、ということです。そして真の"成功"は、それらの資質を高めることができるかどうかにかかっています。その努力を続けてきたコールマンは、我々の誇りです。あなただけでなく、我々仲間全体の名誉です。あなたのおかげで、私を含めた多くの後輩も高い志を持つことができるのです。あなたは"たゆまぬ努力の素晴らしさ"を教えてくれる、生きた手本です。

 私はずっと、この意義ある事を発言せねばと感じていました。
このたびのライブを聴いて、私がなぜあなたのことを強く尊敬してきたのか、その理由がわかりました。
 
 ツアーのご成功をお祈りし、あなたのテナー・サックスの演奏を再び聴くことができるよう願っています。
 
 ソニー・ロリンズ拝

 

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 ロリンズにとってホーキンスは、左の写真みたいな少年の頃、サイン欲しさに、一日中家の前で待ちぶせした大ヒーロー。その純粋な心は、自分の成長につれ、ドラッグに依存したり、音楽的な壁にぶつかり、自分を見失いそうになるたびに、一層深い尊敬と理解に変化していったのかもしれません。

  「英雄は英雄を知る」

 一方、コールマン・ホーキンスは、この年57歳、トミー・フラナガン、メジャー・ホリー、エディ・ロックとレギュラー・カルテットを組み、ライブやレコーディング、テレビなど精力的に活動していました。

 トミー・フラナガンが全キャリアを通じて、最も敬愛したボスがこのコールマン・ホーキンス!トミーがソニーと仲良しだったのは、ホークへの想いを共有する同志愛だったのかも。名盤『Hawkins ! Alive ! at the Village Gate』(V6-8509)が同年8月録音ですから、手紙に書かれたホークの演奏もフラナガン達がバックを務めていたに違いありません。

 

 ロリンズ自ら、敢えてHPに公開したこの手紙は、ロリンズを理解する一つの鍵であると同時に、新しいサウンドを模索するアーティスト達の姿勢を教えてくれる宝の地図なのかもしれません。

 寺井尚之の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、これからどんどんおもしろくなります!乞ご期待!

CU

2013年5月16日

アルバム・デザインのパイオニア、S・ニール・フジタ

 
   Modern_Jazz_Perspective.jpg先日「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いたジジ・グライスのJazz Labと『Jazz Omnibus』のノネット、余りにも鮮烈なアレンジとプレイが忘れられません。グライスはあの時代のバッパーに珍しく、酒もタバコもクスリもやらず、音楽一筋。著作権意識を持つ明晰なアーティストが、あんなに早く引退したのは何故?興味は尽きず、音楽を聴きながら伝記"Rat Race Blues"を読んでいたら、コロンビア盤『Modern Jazz Perspective』のモダンなジャケット・デザインに目を惹かれました。デザイナーはS.Neil Fujitaと書いてある。日系二世、S.ニール・フジタ、ポップ・カルチャーの隠れたヒーローだ!

 

 

 

s-neil-fujita-circa1960s-294px.jpgSadamitsu Neil Fujita (1921-2010)

 フジタは、ハワイ日系2世、鍛冶職人の息子として、ハワイ、カウアイ島のサトウキビ農園で生まれました。美術の才があったサダミツは単身本土に渡り、ロスアンジェルスで画家を目指します。

 

 

<強制収容所から激戦地へ>

 第二次世界大戦が勃発したのは、フジタが美術学校に通っている時だった。米国市民にも拘らず、彼はワイオミングの強制収容所に送られ、日系人で組織された第442連隊戦闘団に従軍、玉砕した沖縄の悲惨な戦場を目の当たりにしました。歴史的に有名な第442連隊は主に激戦地で活動したために、3割の兵士が戦死している!復員後も、敵国にルーツがあるからと、功を讃えられるどころか、仕事も財産も家も失ったまま不遇の生涯を送った人が多かったと言います。しかし、フジタは逆境に耐えながら、美術学校を卒業、フルブライトでイタリアに留学できるチャンスがあったのに、生活の為と、絵を断念し、グラフィックデザインの道に進みました。 

 因みに、学生結婚で結ばれた奥さんのアイコ・フジタはコスチューム・デザイナー、ブロードウェイのヒット・ミュージカル、"ラ・カージュ・オ・フォール"、"コーラス・ライン"などの衣装を手がけた人、ワダエミよりもずっと早く活躍した人です!
 

<コロンビア・レコード、初代チーフ・デザイナー>

 当時のメディアや広告業界はリベラルな体裁と裏腹に、他の業種より、ずっとずっと白人優位主義、フジタは、JapやNipと呼ばれ、人種的なハラスメントを受けますが、それにもめげず、普通の人の何倍も努力した。その結果、コロンビア・レコードの初代主任デザイナーに抜擢!以降、クラシックからジャズまで、幅色いジャンルで、名盤の「顔」を創っていきました。

 milesmidnight.jpgマイルズ・デイヴィスの『'Round Midnight』もフジタのデザイン、彼にしてはコンサバティブな作風といえるかもしれませんが、夕焼けのようなダーク・レッドのマイルズと、小さなロゴタイプが、音楽のムードをそのまま表していますよね!

 フジタはコロンビアに入社すると、まずデザインルームではなく、レコードの製造工場に直行。そこで数ヶ月間、レコードの製造過程を観ながら、最適なパッケージを考えた。そして、自分が手がける音楽を、聴き漁り、それぞれの音楽に、どんなデザインが適しているのかを、探っていったんです。

 当時のアルバム・デザインは、このマイルズのアルバムのように、演奏者の写真と作品名のタイポグラフィーのコンビネーションで味を出すのが常套手段でした。


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 左は、無名時代のAウォーホールを起用したクラシック作品、BLUENOTEが彼を起用したのと同じ'56年の作。右はエリントンのLP。

 

 

  フジタは、名門コロンビア・レコーのブランド力を出すために、アートを感じさせるるカバーを作った。モーツァルトはソフトに、でもグレン・グールドは写真家を録音セッションに立ち会わせて天才の素顔を捉えた。モダン・ジャズはシャープで知的な現代性を視覚的に表現しよう!それにはアブストラクトなアートを使えばいい!と、自作の絵画をデイブ・ブルーベックのアルバムに使い大ヒット!彼のデザインした『Time Out』で"Take5"は一斉を風靡することになります。

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 この色彩感覚はフジタ的エスニック、ブルーベックが録音前に、アジアをツアーしたと聴き、彼が戦時中、第442連隊で駐留した、カルカッタやフィリピンで目にした色彩を使ってアジア的な香りを表現してみたんだそうです。

 フジタは自作の絵画だけでなく、様々なアーティストや写真家を起用。その中には、全く無名だったアンディ・ウォーホールやベン・シャーンといった20世紀を代表するすることになるアーティストがいました。

 彼が個人的に気に入っているデザインは左の"Time Out"とジミー・ラッシングの『James Rushing ESQ』、ベン・シャーンとコラボした『三文オペラ』だと語っています。

 やがて'60年代になると、フジタはコロンビアに慰留されながらも独立してデザイン事務所を設立。

「私がピアノや他の楽器を弾けたり、歌がうまければ、もう少しこの仕事を続けていたかもしれない。」とフジタは語っています。音楽の真髄を視覚的に反映しきれないジレンマが大きくなったのかもしれませんね。

 

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<ゴッド・ファーザー>

godfatherjpeg.jpegcoldblood.jpg 独立後、ポップ・カルチャーの騎手として、フジタの守備範囲は更に広がります。人気テレビ番組"Tonight Show"や"ローリングストーン"誌のロゴタイプも彼のデザインだし、なにより出版業界で引っ張りだこになりました。

 ジョン・アップダイク、トルーマン・カポーティ、当代の一流作家が、彼のグラフィックに惚れこみ、表紙や装丁に直接指名。著者と相談しながら作品のイメージをに表出する醍醐味は、デザイナー冥利に尽きるものだったようです。米国ではカポーティの「冷血」の表紙が有名。黒枠の囲みと右上のマッチ棒の古い血の色が、ストーリーを物語っています。カポーティの「ティファニーで朝食を」に出てくる日本人「ユニオシ」のモデル(あくまで原作の)はフジタだったのかしら?

 そして、私たちにとって一番おなじみなのは、なんといっても『ゴッドファーザー』(マリオ・プーゾ)ですね!操り人形の糸と、GodfatherのGとdが結ばれたタイポの組み合わせ、これを上回るデザインはない!と、映画にそのまま使われました!

 

<晩年>

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 old_fujita.jpg晩年のフジタは、ゴーギャンやマティスを想起するヌードを多く描きました。それらの作品は、かつてのエッジーなアブストラクトではなく、故郷ハワイや、日本の情緒を感じさせる、温かでしなやかな画風です。

 S.ニール・フジタ、レオノールではなく、日本にルーツを持つ、もう一人のフジタ。私たちの音楽に彩りを与えてくれたポップ・カルチャーの偉人として、もっと覚えておきたい名前です。

CU 

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2013年5月 9日

布施明仁 壮行ライブ・レポート

  5月5日、マレーシアジャズ界に貢献するために、この夏からクアラルンプールで教鞭を取るために家族で移住する布施明仁(g)さんの壮行ライブ開催!

 布施さんの恩師の一人、ジャッキー・バイアード(p)の言葉を借りるなら、"That's Jazz Enough! "なプレイが満喫できました。

 

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  布施さんは、ニュー・イングランド音大でバリー・ガルブレイスに師事したことがきっかけで、7弦ギターに魅せられ、日本のMr. 7-stringsに! 奈良にあるギターの名匠、志田涼氏作の名器で繰り出すサウンドも鮮やかで、スタンダードとジャズ・ミュージシャンのオリジナル、そしてクラシック音楽のジャズ・ヴァージョンをブレンドした布施ワールドが絶妙でした。

 共演は寺井尚之The Mainstem(宮本在浩 bass, 菅一平 drums)にスペシャル・ゲストは甲陽音楽学院の同僚でもある荒崎英一郎(ts)さん。脇に回った荒崎さんのプレイも味わい深くて良かったですね。

 関大時代はジョン・コルトレーン一筋だった荒崎さんと、還暦過ぎてもフラナガン一筋の寺井尚之に配慮して、ラストは『Kenny Burrell & John Coltrane』からの曲で、四方丸く収まりました!

 布施さんのスマイル・トークと、寺井尚之のいつものMC、ふーやん、てーやん、と呼び合いながら漫才みたいで大爆笑!お客様とのやり取りも、とってもスイングした壮行ライブになり、皆様、ありがとうございました。

 【演奏曲目】

<1st セット>

  1. Like Someone in Love (Jimmy van Heusen)
  2. Batita Diferente (Cannonball Adderley)
  3. Liebestraum (フランツ・リスト:愛の夢)
  4. MONK (米TVシリーズ: 名探偵モンクの主題歌)

<2nd セット>

  1. Love for Sale (Cole Porter)
  2. Line for Lyons (Gerry Mulligan)
  3. A Nightingale Sang in Berkeley Square (Manning Sherwin)
  4. Bossa Ellis (Herb Ellis)

<3rd セット>

  1. WabashⅢ (John Scofield)
  2. Skating in Central Park (John Lewis)
  3. Menuet ( バッハのメヌエット:A Lover's Concert)
  4. Lyrest (Kenny Burrell)

Encore: Triste (Antonio Carlos Jobim)

 

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 ライブには、ベーシスト、プロデューサーとして活躍する塩崎裕氏をはじめ、布施さんが長年教鞭を取って来られた甲陽音楽学院 の同僚や教え子の皆さんも!

 

 

 

 

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 布施さんが、NEC(ニュー・イングランド音楽大学)で、超優等生として三年で卒業する前に、在籍した関西大学の仲間たちも、沢山応援に!


 

 

 

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 関西大学OBとして、布施さんの大先輩にあたる大塚善章氏と、後輩の名村成一(ds)さん、それに宗竹正浩(b)さんも駆けつけました。


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 寺井尚之ジャズピアノ教室からは、イクメン休学中のむなぞう副会長が!

 

 

 

 

   引き続き、5月25日には、神戸、北野の「クレオール」にて、演奏家としての布施明仁さんのメイン・ワークであるギター・アンサンブルを聴くことができます。

 4ギター・アンサンブル、5ギター・アンサンブルなど、様々なフォーマットで演奏する予定です。7弦ギターも、ギター・アンサンブルも、これから聴くチャンスは少なくなるかもしれませんから、聞き逃せません。 

  布施明仁先輩!マレーシアでジャズ・ミュージシャンを沢山育ててくださいね! CU

 

2013年5月 2日

コールマン・ホーキンス: トミー・フラナガンが観た巨匠

coleman_tommy.jpg  大型連休!いかがお過ごしですか?休日には、あれも読もう、これも観ようと企てても、なかなか思うように行きません。That's Life。

 5月4日(土)は、正午よりコールマン・ホーキンスの映像講座開催

 3月末にリリースされた、トミー・フラナガンとジャッキー・バイアードの新譜、『The Magic of 2』の付録ブックレットにダン・モーガンスターンの、楽しくてテンポの良い名文が添えられていました。その中に「トミー・フラナガンは、コールマン・ホーキンスが亡くなるまで面倒を見た。」という事も、ちゃんと書いてありました。

 どんな世界でも、いったん落ち目になったら、それまでチヤホヤしていた取り巻きも、何じゃかんじゃ言いながら離れていく。特にDog Eat Dogの音楽や映画の世界はキツい、という話を聞きますが、コールマン・ホーキンスとトミー・フラナガン達の関係は、そんな浅はかなものではなかった。映像に薫る風格を観ると、そういうところも実感できるように思います。

 

  今年の3月に、ジャズ・ジャーナリスト、テッド・パンケンが、トミー・フラナガン・トリビュートとして、1994年に、NYのFM局、WKCRで行ったインタビューのテキストをブログに公開してくれました。嬉しいですね!この中にも、フラナガンが観た"ザ・巨匠" コールマン・ホーキンス像が活き活きと描かれていました。

 5日に映像を観て頂く前に、抜書きしておきます。いずれ、全文和訳して「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で配布したいです。

 

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 William Gottlieb - Coleman Hawkins and Miles Davis, 1947.jpg

 

 <出会い>

 私がコールマン・ホーキンスと初めて出会った場所は"バードランド"だ。

 実は、マイルズ・デイヴィスが紹介してくれた。彼は人を引きあわせる名人だ。

 マイルズが、あの独特の声で「コールマン、トミー・フラナガンを知ってるかい?」と言うと、ホーキンスは、「ああ、勿論知ってるよ。」と言ってくれた。

 実は一度もちゃんと会ったことがなかったし、私はたいそう驚いた。同時に、そう言ってもらえたのが嬉しかった。どこで私のプレイを聴いてくれたのかは知らないが、彼はデトロイトのピアニストが好きだったから。


 私は、レコードをずっと聴いてきたから、コールマン・ホーキンスのレパートリーは、かなりよくわかっていた。ロイ・エルドリッジと、7thアヴェニューにあった"メトロポール"という店でよく演奏していて、私もそこで一緒に演らせてもらった。それから、JATPで6週間の英国ツアーをした。おかげで、かなりまとまりのよいグループになったんだ。メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)と私のリズムセクションでね。(一番上の写真)

 

<若手の擁護者>

  彼の音楽力に敬服したなあ。まさに、「歩く音楽百科事典」だった。そういうところを、常に目の当たりにしたよ。市販の楽譜を、初見で録音するような仕事をしょっちゅうやったが、コールマンはどんなcolman_h.jpeg音符記号でもへいちゃらだ。瞬時に曲の隅々まで見通すことができて、パート譜が頭のなかに出来上がる。おまけに、そういう録音は1テイク録りだ。優れたテナー奏者というものは、録音の心構えというのがしっかりしていて、そういう人ほど、どんなレコーディングでも1テイク以上録りたがらないということを学んだ。コールマン・ホーキンスもそういう種類のミュージシャンだった。あの有名な"Body and Soul"もおそらく1テイクだよ。二度とはできない演奏だ。

 それにしてもすごい音楽家だ!


 もう一つ私が好きなところは、コールマン・ホーキンスのおかげで、セロニアス・モンクが、あれほど大物になれたということ。コールマンはモンクを引き立て、多くの人に聴いてもらうチャンスを作った最初の後ろ盾だ。ご存知のように、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスといった多くの若手にも胸襟を開いて、彼らを有名にした。

 オフ・ステージでは、人間としての手本だった。だらしなくない酒の飲み方から、服の着こなしまで教わった。彼はベスト・ドレッサーだったもの。酒の趣味も最高だ。私は音楽的にも人間的にも、たくさんのことをコールマン・ホーキンスから学んだ。

 

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 めっぽう喧嘩が強くて、ガラの悪い水兵をぶっ飛ばした!ワインやコニャック片手に、サヴィル・ロウで誂えた上等の背広とイタリアの帽子が似合う大親分、男が惚れる男の中の男!コールマン・ホーキンス「楽しいジャズ講座」は5月4日正午より開催!

 CU