2013年6月28日

J.J.ジョンソン我がキャバレー・カード闘争(後編)

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 1958年10月、J.J.ジョンソンは、他2名のミュージシャンと共に、キャバレー・カード申請で、人権を侵害されたとして、NY市警察本部長と警察年金基金の理事13名を相手取り、NY州上級裁判所に告訴した。

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  あと二人の原告は、ジョニー・リチャーズとビル・ルビンスタイン、リチャーズはフランク・シナトラでヒットした"Young at Heart"の作曲者として名を残すバンドリーダー。彼は自分の楽団にルビンスタインをピアニストとして雇用する予定だった。ところが、ルビンスタインが過去の麻薬問題を理由に、キャバレー・カードの再申請を却下されたことで、演奏活動に大損害を受けた。

 原告団の代理人、マックスウエル・コーヘン弁護士は、バド・パウエルのキャバレー・カード事件以来、キャバレー法の制度的問題を追求してきたリベラル派の弁護士。同志には、マフィアと警察の両方に、みかじめ料を払っているのにも関わらず、バド・パウエル出演の一件で煮え湯を飲まされた「バードランド」の経営者、オスカー・グッドスタイン、"Jet" や"Ebony"など黒人向け人気雑誌の編集長、アラン・モリソンがいた。この訴訟を、バックでサポートしていたのは、"Local 802"(NY地域のミュージシャン組合)、"American Guild of Variety Artists"(演劇、演芸など、舞台人の組合)という、芸能関係の労組で、キャバレー法が違憲であることを主張し、無効にすることを目標としていた。

 つまり、この訴訟は、労働争議的な性格があるのですが、ジョンソンとしては、自分の生活と、仕事場から閉めだされ、破滅させられた仲間の十字架を背負ったイチかバチかの勝負でした。

 注射針の所持だけで逮捕されたJ.J.ジョンソンは、本当に潔白だったのでしょうか?

 ジョンソンの音楽評伝"The Musical World of J.J.Johnson"には、「決して麻薬中毒ではなかった。」とはっきり記されています。その一方で、終生親交のあったジミー・ヒース(ts)は、自分とドラッグとの関わりを赤裸々に告白した自伝"I Walked with Giants"に、コルトレーンやマクリーンと同様、「札付きのヘロイン中毒」であった仲間の一人と語っています。

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 いずれにせよ、J.J.ジョンソンが、進んで原告となった際には、かなりの勇気と覚悟が必要だったはずです。

 法廷でのジョンソンは、品格と知性に溢れる一流のアーティストで、どう見てもジャンキーではなかった。『J.J in Person』のMCさながらに、自分のカード申請が却下された顛末を、明瞭に証言し、裁判官に「人権を守る正しい法的な手続を受けられなかった善良な市民」であることを、強く印象付けました。

  審理は二日間に渡り、コーヘン弁護士は、ジョンソンの証言を裏付ける強力な証人を用意していました。

 

<証人登場>

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 まず、J.J.ジョンソンの妻、ヴィヴィアン(上の写真)が出廷、夫の家族愛について感動的に証言した。そして業界の著名人がどんどん証言台に立ちました。

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 大レコード・プロデューサー、カウント・ベイシーからボブ・ディランまで、多くのスターを育てたジョン・ハモンドもその一人。

 「キャバレー・カードは、ミュージシャンがNYで生活費を稼ぐため、当然持つべき権利のあるカードです。それにも関わらず、申請する際、まるで犯罪者のように指紋をとられている。明らかにハラスメントですよ。」 ハモンドの証言は、警察が憲法と人権を冒涜しているという原告の主張と完璧にマッチしたものでした。

 

 

 

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 TVでおなじみの人気司会者、スティーブ・アレンも証言した。黒縁メガネがトレードマークのアレンは放送作家出身でジャズ通、自ら音楽もたしなむ。ちょうど大橋巨泉の元祖みたいな人です。全米の人気番組だったTonight Showの初代ホストだった大物タレント。ジョンソンは彼の番組にしょっちゅう出演していた。

「私の番組には、健全な人物しか出演させません。麻薬犯罪者を、自分の番組に出演させたことなどないですよ。まして出演者がスポンサーや視聴者と問題を起こしたこともありません。はい、もちろんジョンソン氏には何度も私の番組に出演してもらっています。」

 

 

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 そして、意外にも、法廷で最大のインパクトを与えたのは、歌手でTVタレントのデヴィッド・アレン!ヴォーカル通なら、彼がジャック・ティーガーデンやボイド・レイバーン楽団で人気を博した後、麻薬で逮捕され引退していたことをご存知かも。(左は'70年代にザナドウから出たバリー・ハリスとの共演盤)

 アレンは、リハビリ後、カード再申請の際、警察の妨害を受けたことを証言した。その内容もさることながら、第二次大戦の功労者であることが重要だった。前線でマラリアに罹り負傷、勲章を授与された退役軍人だったんです。米国社会で戦争の功労を無視するというのは、日本人が考えるよりずっと理不尽なことだった。

 幸か不幸か、おまけに法廷で大ハプニングが!アレンは、戦場で罹ったマラリアの発作に襲われて、法廷で倒れたんです。これがホームラン!気の毒に・・・お国のために戦った人が、なんと気の毒に・・・審理の流れが一挙に優性になった。

 「デイヴが法廷でマラリアの発作に襲われたことが、審理に新しい展開をもたらした。証人でありカードの申請者であるデイヴが、判事や傍聴人の面前で、国のための戦いで負った痛みに襲われた。我々の証言者や目撃者は、もはや単なる法廷の申請者ではなく、苦悩し涙する人間となったのである。」コーヘン弁護士の著書"The Police Card Discord"より

<判決>

 ジェイコブ・マコーウィッツ裁判長は、原告、被告の代理人達と非公開審議を行った後、判決を言い渡した。

  •  NY市警は、原告ジェームズ・ルイス・ジョンソン、ビル・ルビンスタイン両名に対し、直ちにキャバレー従業員身分証を発給すること。
  • 人権重視と人道主義にのっとり、キャバレー従業員身分証発給の指針を緩和すること。

 ジャズ研究の大御所、ダン・モーガンスターンは喝采を叫びます。「J.J.ジョンソンこそが、不愉快極まりないNYのキャバレー法の化けの皮を引っ剥がしてくれた!」

 裁判所命令に添って、即刻キャバレー・カードを支給されたジョンソンは、数週間後にヴィレッジ・ヴァンガードに出演を果たしました。

  めでたしめでたし、というわけではない。結局キャバレー・カード制度を違憲とするコーヘンの主張は認められず、制度が廃止されるのは、これからまだ8年の歳月がかかります。有名コメディアンがカード申請のトラブルの間に死亡したり、麻薬前科のあるフランク・シナトラが、当局の「お目こぼし」によって、カードなしに堂々と高級クラブに出演していたことが発覚し、NY市警本部長が退任するほどの大スキャンダルを巻き起こしてからのことです。

 その後のJ.J.ジョンソンの人生も、決して平坦なものではなかった。常に「明瞭かつ論理的」をモットーにした天才にとって「明瞭でなく理に叶わない」ことは耐えがたいことだったのではないだろうか?自ら銃を取って幕引きをした彼の人生そのものが、激烈な闘争だったように思えてなりません。

 

  「暮らしの術を奪うとは、俺の命を奪うも同然。」 

    シェークスピア:「ベニスの商人」 第4幕1場。

2013年6月27日

J.J.ジョンソン:我がキャバレー・カード闘争(前編)

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  このところ、足跡講座で毎月聴いてるJ.J.ジョンソンのレコーディングは、大胆不敵で非の打ちどころがない。レギュラー・ピアニスト、フラナガンは「あれはトロンボーンじゃない!べ・つ・も・ん。」と言った。恐るべしJ.J.ジョンソン...彼がもし科学者だったらノーベル賞をもらったかも・・・極悪人なら山ほど完全犯罪をやったかも... そんな天才もたった一度だけしくじった。それは1946年にキャバレー・カードを剥奪されたこと。理由は「麻薬所持」ではなかった。なんと「注射針」がポケットから見つかっただけ。

 <キャバレー・カードとは>

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これがキャバレー・カード(キャバレー従業員身分証)
 NYのキャバレー・カードは「キャバレー従業員身分証」で、いわばクラブ出演のパスポートと呼ばれた。このカードを剥奪されたおかげで生活の糧を奪われたジャズの巨人は、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディ、バド・パウエル、セロニアス・モンク、ジミー・ヒース、ジャッキー・マクリーン、ソニー・クラークetc...と枚挙にいとまなし。そもそもNY特有のキャバレー・カードとは何でしょう?


 キャバレー・カードの起源は、禁酒法時代に大繁盛したモグリ酒場(Speakeasy)を統括するためにNY市がひねり出したの苦肉の条例。だいたい非合法ビジネスを法律で管理するというのが無茶で、酒場と言えないからキャバレーにして、店の営業許可制度と従業員の身分証制度を作った。

 条例におけるキャバレーの定義は、歌やダンス、それに類する音楽的娯楽と、「飲食物」の販売が関連する業態の部屋、空間、場所、回りくどいね!とにかく、もぐり酒場の営業許可証制度を敷く法令を作ったのです。だから元々は店の営業許可。それがいつの間にか従業員の就業許可制度になった。

 禁酒法のおかげでモグリ酒場は大儲け!故にキャバレー法を管理する認可局と警察には、酒場からの賄賂で潤った!ついでに警察年金基金も潤った。だから、或いは、しかしか?禁酒法撤廃後もキャバレー法は存続します。


 1940年代、全米に労働組合運動の嵐が吹き荒れて、米国に、「赤狩り」時代到来!社会主義革命を恐れる余り、自由の国アメリカ、その大統領がFBIに「合衆国の治安を脅かす可能性のある国民のリスト」を作った時代、キャバレー法はストライキ防止のための条例になった。つまり、キャバレーで働くコックやウエイターさんが組合活動なんかしないように、好ましくない分子を規制するのに使われた。この時代にキャバレー・カードという従業員身分証制度が生まれたんです。カードは調理師やウエイターだけでなく、出演ダンサー、ミュージシャン、コメディアンも取得しないと働けない。前科者や麻薬中毒者にカードは支給されない。NYのアルコール販売局が関わりながら、実質的な審査と発行はNY市警、発行手数料は警察年金基金にまわすというシステムになった。

<事例①:J.J.ジョンソン>

 J.J.ジョンソンの場合は、1946年に「注射針」が発見されて逮捕、司法取引に応じたジョンソン「有罪」を認めた。有色人種がお上にたてつくなんてありえない時代です。結果、実刑は免れたものの、キャバレー・カード剥奪。主要ジャズ雑誌の人気投票では常に1位であったのにNYのクラブ出演はできない。ツアーに出るか、劇場に出演するか、川向こうのニュージャージーのクラブに出るしかなかった。それでも、名門コロンビア・レコードからコンスタントにレコーディングすることが出来たのは、人気と実力がいかに凄かったかの証明です。


 ジョンソンは、その後もカード再発行の申請を続けましたが、NYPD(NY市警察)の認可局は一貫して却下。彼が一旦青写真技師として工業メーカーに勤務した原因のひとつです。
 事件から10年後の1956年11月、NY市警察はやっとこさ、6ヶ月間限定の臨時カードを交付してくれました。ただし出演できる店は一件だけ、そしてNY市立病院発行の「麻薬中毒者でないことの診断書」をもってこいと言われた、どだい、そんな証明書を私立病院は発行しない。NY市警はそんな証明書がないことを承知で無理難題をふっかけた。

 トミー・フラナガンのレギュラー時代、ジョンソンが海外の長期ツアーに出たり、NJの店「Red Hill In」ののライブ・レコーディングがあるのに、NYのクラブ出演はカフェ・ボヘミア以外ほとんどないのは、このためです。

 <事例②:バド・パウエル

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Jazz Original (Photo credit: Wikipedia)

 NY史上最もリベラルな法律家と言われるマックスウエル・コーヘン弁護士とキャバレー法の関わりは、1951年のバド・パウエルの事件がきっかけです。パウエルは精神病院を退院してまもなく、「バードランド」から出演依頼を受けた。それでキャバレー・カードを申請するも、「不適格」として却下。ドル箱興行が潰されて怒ったのは「バードランド」のマネージャー、オスカー・グッドスタイン、実はこの人も法律家です。パウエルの友人である黒人メディア「Jet」や「Eboby」の編集長、アラン・モリソンも怒った!そこで彼らは、コーヘン弁護士にパウエル事件の法的調査を依頼した。 すったもんだの末、パウエルもJ.Jのように限定的カードを発行され、「バードランド」のみの出演が可能になっただけでした。

 調査を進めていく内に、コーヘン弁護士は驚いた!

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 「私の徹底的な調査研究の結果、バド・パウエル(あるいは類似の従業員)に対し、NY市警がキャバレー・カードを要求する法的根拠は、どこにも存在しないことが明らかとなった。」 (コーヘン著書「The Police Card Discord」より) 

 バド・パウエルの窮状がきっかけで、このキャバレー・カード訴訟に発展するまで、7年の月日がかかったんです。




 <J.J.ジョンソン参戦>



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左からコーヘン弁護士と原告団J.J.ジョンソン ビル・ルビンスタイン(p)、ジョニー・リチャーズ

1959年5月、J.J.ジョンソンは、作編曲家、バンドリーダーのジョニー・リチャーズ、ピアニスト、ビル・ルビンスタインとともに、NY州上級裁判所に訴状を提出。被告人はNY市警本部長とその代理人、及び警察年金基金の理事13名。原告代理人、同時に裁判の仕掛け人は、コーヘン弁護士、「名目上の原告達」のバックにはオスカー・グッドスタイン、そしてミュージシャン組合などこの業界関連の労働組合がおり、キャバレー・カード条例が憲法に反し、違法に申請手数料が警察年金に流用されていることを主張するためでした。


 訴状の項目は119アイテムに及ぶもので、原告はキャバレー・カードのせいで財産に不当な損害を被った善良な市民である音楽家3名、なかでも人気ジャズマンのJ.J.ジョンソンは、「善良な米国市民が、キャバレー・カードを剥奪されて、経済的にも精神的にも甚大な被害を被った完璧な好例」だった。

 原告になると、衆目にさらされ、揚げ足をとられるかも知れない。でもジョンソンはリスクを顧みず、進んで原告を引き受け法廷に出た。ジョンソンの英断は、自分が受けた仕打ちだけでなく、バド・パウエルのように人生をめちゃくちゃにされた多くの同胞を代表して戦うんだ!という強い使命感があったからです。

 原告、J.J.ジョンソンの運命はいかに?判決は?続きは次回。

 

 

ジャズ批評7月号

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 今月発売の「ジャズ批評」7月号 No.174 に、当ブログの紹介とジャズ歌詞の訳者としてのインタビュー記事を掲載して頂きました。
 インタビュワーは、ヴォーカリストの太田"AHAHA"雅文さん、言うまでもなくジャズ歌詞のオーソリティで、盛り上がりました。ぜひご一読を!
  
 「ジャズ批評」誌、今回は"日本映画とジャズ"の特集号で、各方面からの興味深い記事が一杯!

 大阪発では、藤岡靖洋氏の連載記事「海外探訪記」も公民権運動史レポートが迫力いっぱいです!

 併せてJazz Club OverSeasのライブ&講座も、どうぞご贔屓にお願い申し上げます。

 これを励みとして、対訳ノートも近々書かなければ・・・

 今回はどうもありがとうございました!

2013年6月20日

"The Cats" トミー・フラナガンの青春グラフィティ

The_cats.jpg  演奏者:Tommy Flanagan, John Coltrane(ts),  Idrees Sulieman(tp),Kenny Burrell,(g) Doug Watkins(b), Louis Hayes(ds)   =録音日:1957 4/18=

  

今日のテーマは有名アルバム『The Cats』(LP New Jazz 8217)、OverSeasの「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で、寺井尚之が徹底的に演奏内容を検証しているので書きたくなりました。


『The Cats』、タイトルそのままのネコ・ジャケットは、MuseやXanaduなど、多くのレコード・レーベルを創った名プロデューサー、ドン・シュリッテン作。"Cat"というスラングは、'20年代に黒人達が、「ジャズ・ミュージシャン」の意味で使い始めたそうですが、アルバムが録音された'50年代には、かっこいい男、「イケメン」の意味になっていた。最近は性別関係なく使っていいみたい


<フラナガンの不思議なMC>

 

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 1984年12月、トミー・フラナガンがOverSeasで初めてコンサートをした時のMCは謎めいたものだった。

 「1957年に私はジョン・コルトレーン達と共に『ザ・キャッツ』というアルバムを録音いたしました。次の曲はアルバム中の"マイナー・ミスハップ"であります...」(大喝采)

 ダイアナ夫人は、この曲を知ってるんだ!と喜んでいましたが、フラナガンの言い方は、なんとなく引っかかるものだった。"Minor Mishap"は、「小さな災難」とか「小事故」を意味する言葉。(英語サイトには、例えば、雨上がりの道で、水たまりを踏んでしまい、靴下までびしょびしょになって、気持ちワル~というような時、大怪我したわけじゃないけど、へこむなあ・・・って時に使うとありました。)だから、フラナガンのMCは、「アルバムの中には、バツの悪いこと」が、なにかあったとほのめかしているようにも取れたのです。

  <マイナー・ミスハップはどこ?>

それは今月の足跡講座で、寺井尚之が、バッサリ明瞭に解説した。なにしろ、ドラム=各プレイヤーの4バース交換は8小節が欠落する想定外の事態、どさくさに紛れてフラナガンのソロの後ろでは、ケニー・バレルがせっせと四つ切りをやっている。バーラインを越える流れるようなフレーズが身上のデトロイト・ハードバップで、四つ切りやリムショットはご法度。それにしても、バレルの四つ切りが聴けるのはとても珍しい。ギタリストの末宗俊郎さんにお伺いしたところ、「後年もう少しゆるーい感じでスポット的に使う例はありますが、バレルがまともに四つ切してるのはこれしか知りません。」とのことでした。


でも、何故そんな事に?


<名門レーベル:プレスティッジ>

 

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 このアルバムを制作した"プレスティッジ"は、Blue Noteと並び称される名門ジャズ・レーベル、創業者のボブ・ワインストックは、15才の時から通信販売で稼ぎ、18才で"Jazz Record Corner"というレコード屋店を開業、ジャズ好きが高じて"プレスティッジ"を創設したのが弱冠20才というベンチャー起業家。小さなことからコツコツと儲けたワインストックの製作姿勢は「即興演奏というジャズ本来の姿を捉えるブロウイング・セッション形式のレコーディング」・・・語感はカッコいいけど、平たく言えば低予算。Blue Noteがアルバム・コンセプトをしっかり作り、ミュージシャンに2日間のリハーサル・ギャラを支払ったのとはかなり違う。それにも拘らず名盤が多いのは、ジャズ界に天才が多かったから?

<Overseas前夜の初リーダー作>

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 『The Cats』は、新進ジャズメンをフィーチュアした"ニュー・ジャズ"というレーベル用に録音された。収録曲全5曲中4曲がトミー・フラナガンのオリジナル、残りのスタンダード1曲(How Long Has Been Going On?)がピアノ・トリオですから、リーダーは明らかにフラナガン。他のメンバーは、ベテランでワインストックの信望厚いトランペット奏者、イドレス・スーレマンとフィラデルフィア党のジョン・コルトレーン、フロントを除く全員が、気心知れたデトロイト出身者でした。ドラムのルイス・ヘイズは当時まだ19歳!デトロイトの"ブルーバード・イン"の窓からエルヴィン・ジョーンズのプレイを盗み聞きして育ち、ダグ・ワトキンス(b)を通じて、ホレス・シルヴァー(ds)の目に止まり、NYに出てきて僅か数ヶ月の録音です。

 

 フラナガンは27才、髪もふさふさ大きな瞳、インディアンの血統を受け継ぐ精悍な顔立ちの"キャット"、この2か月後には、世界的トロンボーン奏者、J.J.ジョンソン・クインテットのピアニストとして初ヨーロッパ楽旅、滞在地のスェーデンでは自己トリオでのレコーディングも決まっていた。それが名盤『Overseas』!つまり上り調子だ!そこに飛び込んで来たリーダーの役まわり、きっとフラナガンは張り切ったんだ!

 録音の依頼を受け、フラナガンは大好きなテナー奏者、コルトレーンに自ら電話をかけて共演を頼んでいます。

<ジョン・コルトレーンのミスハップ>

 

blue_trane_francis_wolf.jpg 一方、共演を頼まれたジョン・コルトレーンは、その時ドツボ、苦境のまっただ中だった。最大手コロンビア・レコードがバックアップするマイルズ・デイヴィスのバンドを「ドラッグとアルコールによる不始末」でクビになったのが録音の4日前!野良猫にならないために、プレスティッジと不利な専属契約を交わしたばかりだったのです。プレスティッジは、ミュージシャンがきちんと仕事をする限り、ジャンキーに寛容だったし、ギャラは即金、問題を抱えるアーティストには何かとありがたかったのです。 

 そんなコルトレーンを救ったのがセロニアス・モンク。表向きは不可思議な言動で皆を煙に巻く「バップの高僧」、でも仲間内では、先輩に礼儀正しく、後輩にとっては誠実な「師」として敬愛されていた。デトロイト時代からバップの原理主義者として有名だったフラナガンは、尊敬するモンクに「選ばれた弟子」コルトレーンに大きな魅力を感じ、お互いの家を行き来しては、一緒に練習を重ねていたのです。だからコルトレーンにだけは『ザ・キャッツ』の録音予定曲も、見てもらっていたかもしれません。オリジナル曲の録音を推奨するプレスティッジの意向に添って自作曲を揃えた。上述の"Minor Mishap"そして、月に因む"Eclypso"と、太陽に因む "Solacium"を対にして並べたところもフラナガン流!ブルースの"Tommy's Tune"以外のこの3曲は、どれもこれも目まぐるしくキーの変わる難曲で、ワン・テイク・オンリーのレコーディングでは、到底、パーフェクトな仕上がりになる題材ではなかった。でも、フラナガンは強気で押し通す。信頼の置ける実力者がフロントで、同郷デトロイト出身者でバックを固めれば、一発勝負でもなんとかなる!フラナガンはそう思って賭けに出た。 

 でもフラナガンは知らなかった。コルトレーンが、ヘロインと決別を試みて、非常に体調が悪かったことを...その結果、出来上がりは厳しいものになってしまった。

 

 <やっぱりフラナガンも若かった!>

 たとえ共演者が親しい仲間でも、リーダーと同じ熱意と気合でがんばってくれるとは限らない。でもフラナガンは若く、そこまでは思い至らなかったんだ。

 "Minor Mishap"というタイトルは、トミー・フラナガンが得意とする自虐的ユーモアに違いない!元のタイトルは何だったのだろう?生きているうちに分っていれば訊いておけたのに・・・後悔先に立たずです。

 結局、この録音は2年間お蔵入りのままで、リリースされたのは、コルトレーン人気が高まった1959年になってからです。

 それ以降、フラナガンが同じ過ちを繰り返すことは二度となかった。でも、イチかバチかの強気な性格は終生、そのプレイに反映されていたと思います。

 『The Cat』の録音スタジオで、もう1テイク録音することが許されていれば、どんな演奏に、どんなアルバムになったろう?あの時のフラナガンのMCは、血気盛んな青春へのほろ苦い思いが込められていたのかも知れませんね。

 『The Cats』初演の3曲のオリジナル(ブルース以外)は、フラナガン終生の愛奏曲となっています。

=収録曲=

1. Minor Mishap (トミー・フラナガン作)

2. How Long Has This Been Going On? (ジョージ・ガーシュイン作)

3. Eclypso (トミー・フラナガン作)

4. Solacium (トミー・フラナガン作)

5. Tommy's Time (Blues:トミー・フラナガン作)


参考文献:

  John Coltrane: His Life and Music(Lewis Porter著)Univ of Michigan Press刊

  The John Coltrane Reference  (Lewis Porter, Chris DeVito, David Wild, Yasuhiro Fujioka, Wolf Schmaler共著)  Routledge刊

   Kenny Burrell Interview from Smithonian National Museum of American History

  Before Motown A History of Jazz in Detroit, 1920-60 (Lars Bjorn. Jim Gallert共著) University of Michigan Press

     「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第1巻(寺井尚之著)Jazz Club OverSeas刊 


2013年6月13日

ディジー・ガレスピー:幻のコンサート映像


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 ベニー・カーター

  先日のコンコード・ジャズフェスティバル、行かれましたか?ルイス・ナッシュのグループが、Tin Tin DeoやMean Streetsなど、トミー・フラナガン・トリオの演目を披露し、良かった、いや別物だ、と色々話題になっていました。いずれにせよ、フラナガン没後10余年、やっと本場のミュージシャンに取り上げられたのが嬉しいです。でも寺井尚之のプレイだって、決して引けを取りませんよ!ぜひぜひOverSeasに聴きに来てみてくださいね!

 最近、寺井は、押入れに保管していた膨大なジャズ映像ビデオ・コレクションをDVDに変換し、嬉々として再チェック。皆さんに良い映像、巨匠たちの姿を観て欲しいからです。

 BS(衛星放送)発足直後は、ジャズ関連プログラムが試験放映されていたので、寺井は自分の好みと関係なく、ありとあらゆるジャズのアーティストの映像を、高画質、高音質のヴィデオ機器で録画していました。

 中には、YOUTUBEでも、DVDでも観れないお宝も。米国のジャズ・ファンが躍起になって捜す垂涎のTV番組を観てみました!

<ディジー・ガレスピー70th バースデー・コンサート>

 これは、1984年6月6日、ワシントンDC郊外にある広大な文化センター、「ウルフトラップ」で開催された、ディジー・ガレスピーの70才バースデー・コンサートの記録。ディジーや参加ミュージシャンのインタビュー、チャーリー・パーカーとの歴史的映像など、ガレスピーの輝かしい音楽歴とコンサートを組み合わせて、PBS(公共放送)が一編のドキュメンタリーに仕立てたものです。

 ナレーションは、世界中にジャズを広めた功績を讃えられる"The Voice Of Amrica"の看板アナウンサー、ウィリス・コノーバー。ジョージ・ムラーツ(b)がチェコでジャズに出会ったのも、コノーバーの "Music USA"を聴いていたから。外国人にも極めて判りやすい英語で勉強になります。

 ミュージシャンへのインタビューも、とても興味深いものばかり!ビッグ・マウスのフレディ・ハバードが、真面目に技術的なことを語っていたり、ステージ上ではコメディアンみたいなジェームズ・ムーディが、シリアスにディジーへの想いを語っているのを聞き涙・・・

  コンサートは絢爛たるスター、総勢30名余り!(左の写真はごく一部)、様々の組み合わせ、凝ったアレンジでディジーのオリジナル曲を演奏するのですが、ゴージャスなだけでなく、中身が濃いくて圧倒的!

 例えば、ビバップ編:Birk's Worksでは、御大ベニー・カーター(as)、J.J.ジョンソン(tb)、22才のウィントン・マルサリス(tp)をフロントに、リズムセクションがハンク・ジョーンズ(p)、ルーファス・リード(b)、ミッキー・ロカー(ds)というドリーム・バンド。演奏の中身はお祭りムードなし!スリル溢れる真剣勝負です。フロント陣とハンクさんのソロで沸いた後、ベース・ソロになると、ザ・キング・ベニー・カーターが、他の誰よりも早く、ベースの方に向き直り、傾聴の姿勢を見せます。すると、瞬時に後の二人もそれを見倣った!超一流の品格は、プレイだけでなく、こういう細かい所作に表れる!

 ウィントン、ハバード、そしてディジーの一番弟子、ジョン・ファディスのトランペット・バトルもマジの真っ向勝負!だってディジーがリングサイドで観てるんだから、必死です。ハバードにいつもの派手なアクションなし!ひたすら誠実にプレイを展開、秀才君、マルサリスには、ディジーの目力プレッシャーがのしかかります。愛弟子ファディスの番になると、その視線が急に柔らかになるのが、映画のワン・シーンみたい!

 プレイの機微、心の機微が目に見える、映像の力はすごいなあ! 

 ラテン編では、日本の誇るピアニスト、ケイ赤城登場!エディ・ゴメスやアイアート・モレイラ、フローラ・ピュリムと共に、弾丸スピードのTANGAで胸のすくようなソロ!日本の誇りだ!寺井尚之も「うまいなあ!」と絶賛でした!

 色んな編成の豪華コンボの後は、ディジーとヘビー級アーティストがサシで渡り合うセッション、これが圧巻!お相手は、ソニー・ロリンズ、オスカー・ピーターソン、カーメン・マクレエ!マクレエが歌うBeautiful Friendshipは、この特別なコンサートにぴったりな歌詞にしてあって、エンディングで大喝采!こういうのを聴くと対訳を掲示したくなっちゃいます。

 そしてピーターソンとデュオで奏でるAll the Things You Areの美しいこと・・・もう鳥肌が立ちます。

 フィナーレは「燃えよドラゴン」など映画音楽家として活躍したラロ・シフリンの編曲、指揮、全員による「Happy Birthday」 で大団円!

 

 <ガレスピー父親、パーカー母親論>

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  この番組は、いままで、ディジー・ガレスピーを「ほっぺたがカエルみたいになる面白いおじさん」と思っていた人にぜひ観て欲しい!ディジーのプレイ、その出し入れ、そのリズム感、五線紙のおたまじゃくしが、トランペットから3D映像で飛び出します!平らなカンバスの上に、遠近法で奥行きを描いたレオナルド・ダ・ビンチと一緒です。だから聴いて欲しい!観て欲しい!

 ハードバップ期のミュージシャンにとって、ディジー・ガレスピーは、チャーリー・パーカーと共に間違いなく「神様」だった。スミソニアン博物館が所蔵するジャズ・アーティストのインタビューでそう語る人は多いし、トミー・フラナガンもそう言ってた。

 この二人の違いは、ディジーは「時には厳しく」若手に「教える」ゼウスで、バードは「優しく励ます」菩薩だったこと。フラナガンもケニー・バレルも、コルトレーンもゴルソンも、みんな駆け出しの頃、バードに励まされ、ディジーに仕込まれて一流になった。だから、ディジー=父、バード=母のハードバップの両親論を展開する人が多いのです。

 この番組でもミュージシャンたちが語っているように、ディジーはモダン・ジャズ・トランペット奏法の基盤を作り、新しいスケールを作り、それを惜しみなく後進達に伝授した。「寺井尚之はディジー一派に伝わる革新的なスケールを、ジミー・ヒースに教えてもらいました。  

 ディジーの家には2本電話があって、1本は後輩からの「ジャズ理論相談室ホットライン」だったといいます。

 同時に、チャーリー・パーカーが非業の死を遂げ、ディジー・ガレスピー楽団が経済的に破綻したことは、ジャズ史に大きく語られなくても、ミュージシャンにとっては人生観を変えるほどショックな出来事で、その後のジャズの流れに大きな影響を与えているんです。

 というわけで、この映像に全部日本語テキストをつけました。映像は7月寺井尚之の解説で、7月にご覧いただけます!

 <ディジー・ガレスピー70th バースデー・パーティ>

 7月6日(土) 開場6pm-/開演7pm-

   受講料:2,100yen (学割1050yen)

 皆さん、ぜひ一緒に観ませんか?

 

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J.J.ジョンソン

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カーメン・マクレエ

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 フローラ・ピュリム

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ウィントン・マルサリス

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フレディ・ハバード

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ジョン・ファディス

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オスカー・ピーターソン

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ハンク・ジョーンズ

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2013年6月 6日

ジジ・グライスは何故ジャズを捨てたのか?(後編)

*ブログにコメントが入らず、ご迷惑おかけしていましたが、昨日うまく修復してもらったのでコメントが入るようになりました。海外からも大丈夫!どうぞ宜しくお願い申し上げます。

grycebook.jpg 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いたジジ・グライスとトミー・フラナガンの共演盤は'57年の作品ばかり。この年がグライスにとって最も実り多い年でした。

 尊敬するチャーリー・パーカーは自宅にしょっちゅうやって来て、ギグがあるとグライスのアルトを持っていく付き合い。故クリフォード・ブラウンとは、ドラッグ+アルコール・フリー同志で、グライスはブラウニーの息子のゴッドファーザーになった。

 ドナルド・バード(tp)との双頭バンド《Jazz Lab》で名門コロンビアを始め、様々なレーベルからアルバムをリリースし、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに楽曲を提供したグライスは、この年紛れもなくハードバップの寵児だった。
 でも、この後の足跡講座にジジ・グライスが登場することはありません。フラナガンがコールマン・ホーキンスと、名作『Good Old Broadway』を録音した1962年には、グライスの名前はジャズ・シーンから完全に消滅していました。

 

プレスティッジ創業者、ボブ・ワインストックは言う。

「グライスは、ファンキーじゃなかったからね。僕もたくさんプロデュースしてやったけど、うまくいかなかった、流行とズレていたんだ。」

 ほんとかしら?

 <家庭生活>

gigi.jpg  ジジ・グライスが、いわゆる「一般女性」エレノア・シアーズと結婚したのは1953年。トランペット奏者、Idrees Sulieman(イドリース・スリーマン or イドレス・スーレマン)のガールフレンドだった姉の紹介で知り合った。(スリーマンのトランペットは、土曜日の足跡講座に登場する『The Cats』で要チェック!)"Sulieman"もイスラム名ですが、グライスもちょうどこの頃イスラム教に改宗し、Basheer Qusim(バシール・カシム)というイスラム名をもらっていました。人種差別を禁ずる預言者ムハンマドの教えに共感し改宗する黒人は多い。アーマッド・ジャマルは言うまでもなく、ハードバップ時代になると、アート・ブレイキー、ケニー・ド-ハム、ジャッキー・マクリーンなど極めて多くのスターが回教徒になっていたのですから、キリスト教の女性と結婚するのも決して珍しいことではありません。
 でも女性の私から観ると、グライスは少し思いやりが足りなかったのかも... まず結婚式の当日、仕事優先のグライスは花嫁を放ったらかしてギグに行っちゃった。いくら地味婚でも、それはアカンでしょう!ここからボタンの掛け違い。さらにイスラム教徒のグライスはキリスト教の行事を否定した。夫がポークを食べなくてもいいけれど、クリスマスや感謝祭といった家族の集まりに参加しないとなると、キリスト教の妻は困りますよね。それでも自分の選んだ亭主にエレノアは尽くした。社会保険庁に勤め生活費を補填します。やがて長男誕生、グライスはその子にBashirというイスラム名を付けます。エレノアは育児のために仕事を辞めざるを得なかった。収入が激減したからこそ、父親に成った喜びと責任感がグライスの音楽を充実させたのかもしれません。それが豊穣の1957年なんです。

 
<不幸な出来事>
 

 打って変わって、翌年は悲しみの年になった。次男が生後わずか15日で医療ミスの為に急死してしまいます。エレノアは悲しみのあまり体調を崩し、しばらく別居した後、翌1959年に今度は女の子リネットを授かります。でもこの頃からグライスの仕事は減って行きました。被害妄想的な性癖が強くなり、友人や家族を不必要に疑うようになってしまいます。
 エレノアは昼は育児、夜は夫に子供を託して銀行のデータ処理する夜勤の仕事に就き、必死になって働きますが、夫ジジは妻も信じられなくなり、自分の殻に閉じこもってしまいます。家の中に囲いを作って、家族から離れた。在る夜、3時に帰宅したエレノアを締め出します。

 そんな夫に二人の子供を託していても大丈夫かしら?悩んだ彼女は社会福祉事務所に相談、ソーシャルワーカーに、子供を連れて家を出なさいと勧められ、別居を決意。

 繊細なグライスが、極端な被害妄想に陥ったのは、それなりの理由がありました。

 

<著作権会社の崩壊>


quincy_jones0.jpg グライスが音楽出版会社"Melotone Music"を設立したのは1953年で、黒人ミュージシャンの先駆者です。会社設立に必要な弁護士費用もグライスの生活を圧迫したのに違いありません。彼に倣い著作権を自己管理したミュージシャンは、グライスの仲間だったホレス・シルヴァー、クインシー・ジョーンズ、ハンク&サド・ジョーンズ兄弟などですが、グライスが彼らとと違うのは、自分だけでなく黒人ミュージシャン全員の権利を守ろうしたところ。「著作権」という権利が、ミュージシャンにとって当然のもので、それは将来にわたって大きな利益と安定をもたらすことを仲間に啓蒙し、他のミュージシャンの著作の管理も請け負った。


 「著作権」は摩訶不思議な利権で、いわばジャズ業界の伏魔殿、レコード会社だけでなく、マフィアのような反社会的組織も一枚噛んでいたらしい。マイケル・ジャクソンの死が、ビートルズの著作権に関係があるという憶測が飛んだのも記憶に新しいですよね。そこで思い出すのが「"Walkin'"の作曲者」、ということになっているリチャード・カーペンターなる人物。おたまじゃくしも読めないこの男は、ジャンキーのミュージシャンから、僅かな現金で曲の権利を買ってやるともちかけ、拒否しようものなら、脅迫して権利を手に入れていたということを、ずっと前にブログに書きました。カーペンターのような連中なら「なめた真似しやがって、ジジの奴、ただじゃあおかねえぞ、覚えてろ!」と思ったって不思議じゃない。
 ハードバップの名曲がスタンダード・ソングになった時代、「搾取と闘うミュージシャン」は、グライスが想像していた以上に脅威だったのかも。グライスと同時期に出版会社を作ったラッキー・トンプソンがヨーロッパに渡ったのも、著作権に手を出したのが原因で、仕事をホサれたからと、『Rat Race Blues』の著者、Noel Cohenは断言しています。類まれな才能を持つジャズの巨人、ラッキー・トンプソンの晩年はホームレスだった・・・

 グライスは"Melotone Music""Totem Music"と2つの会社を設立し、当時大変高価だったコピー機まで購入し、著作権の行使に努力しました。グライスが質素な生活を強いられたのは投資のためだったのかもしれない。でも、音楽はプロでも、ビジネスはド素人だった。会社を立ち上げても、専従スタッフを雇う運営資金も、妨害をかわすノウハウもなかった。
 結局、パートナーのベニー・ゴルソンも、グライスの被害妄想に振り回されてパートナーを降り、"Moarnin'"を作曲したボビー・ティモンズや、"Comin' Home Baby"を作曲したベーシスト、ベン・タッカーというドル箱ミュージシャンが次々と解約し、1963年に会社は倒産。ミュージシャンの権利を守るどころか、却って利益を損なう結果となってしまった。
 ベニー・ゴルソンの証言では、ある日、事務所に顔を出したら、一見してヤクザと分る連中が押し入って、契約ミュージシャンの連絡先をチェックしていたといいます。

<第二の人生>

BasheerQusimSchoolx053.jpg 結局、グライスは見せしめとなり、ジャズ界を追われた。妻子も去り、財産もなく、仕事もなくなったグライスは、失意のうちに人生を終えたのか?

 ところがどっこい、そうじゃなかった!会社とジャズ界から解放されて、心的なプレッシャーがなくなると、彼はイスラム名、バシール・カシムを名乗り、学士号を生かし、中学の非常勤教師として再出発した。教科はなんと数学!!そして1974年には、NYブロンクスの小学校に正規採用され、亡くなるまで、音楽を教え教職を全うしました。

 ブロンクス区立第52小学校は、有色人種が半分以上で、裕福でない子供の多い小学校、カシム先生は、合唱団の顧問となり、ジャズ・ミュージシャン時代の手腕を生かし、あまりやる気のない子どもたちに愛情と厳しさを込めて指導しました。バラバラだった合唱隊は、ステージマナーも、ハーモニーも、南部の名門クワイヤーに匹敵するほどに見違えてPTAも教育委員会も驚愕するほどの実力を得て、地域イベントに引っ張りだこになった。子どもたちのユニホーム代など、色んな経費は、しばしばカシム先生のポケットマネーで賄われていたそうです。 地域に受け入れられたカシム先生は、1972年に職場結婚しましたが、第二の妻にも、過去の自分についてはほとんど語らなかった。学校関係者で彼がジジ・グライスと知っていたのは、補助教員で元ミュージシャンだったピアニストと教育委員の元ボーカリストだけだったそうです。NYの街で、ばったり昔のジャズ仲間に会っても、彼は挨拶するだけで足早に去っていった。


 彼は独自の音楽システムを開発し、教育委員会を説得し、通常の授業に役立てています。それは現在各地の音大で使用されるカリキュラムと似たものであったそうです。忍耐強い教育者として、生徒や父兄に大変敬愛されたカシム先生は、1980年に前の妻エレノアと和解、自分の子どもたちとも交流できるようになりました。体調を崩し故郷フロリダ州、ペンサコーラで心臓発作の為死去。彼の死後、彼が教鞭を取った区立小学校は、カシム先生を記念して"PS53 バシール・カシム小学校"と校名変更し、現在に至る。

 ここまでは、ジジ・グライス伝『Rat Race Blues』や、色んなアーカイブに点在するアート・ファーマー、ベニー・ゴルソン達のインタビューを参考にしました。ジジ・グライスについて徹底取材して「Rat Race Blues」をまとめた伝記作者、Noel CohenとMichael Fitzgerald両氏の努力に敬服です。

 

tommy&Thad.JPG さて、ジジ・グライスの数奇な生涯から、私たちは何を学ぶべきなのでしょう?アレンジャーとして、転調や拍子の変化を使いながら、"Lover"を"Smoke Signal"に変えてみせた鮮やかな「時間」の魔法を、自らの人生に応用したのかも知れないですね。

 そんなことを想いながら、グライス作品を聴くと、またまた面白いものですね!

 毎週第二土曜は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」 どうぞよろしく!