2013年8月22日

マリアン・マクパートランドを偲ぶ


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Marian McPartland (1918 3/20 - 2013 8/20 )

  8月19日にシダー・ウォルトン(享年79才)が亡くなり、たった二日後に今度はマリアン・マクパートランド(享年95才)の訃報が飛び込んできました。お二人とも、富士通100 Gold Fingersでトミー・フラナガンと一緒に来日され、ご縁がありました。

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  マリアン・マクパートランドは女性ジャズ・ピアニストのパイオニア!オスカー・ピーターソン女性版と言われたこともあります。ピーターソンよりスリムですが、フラナガンよりもずっと長身で、プレイはピーターソンより、むしろ男性的にさえ感じました。100 Gold Fingersは一枚看板を張る一流ピアニストが10人も集まるのですから、楽屋裏はなかなか大変で、ステージ以上に個性の衝突があったようですが、紅一点のマクパートランドさんは、その辺りをとてもうまく気配りされていたと聞きました。

 楽屋でお目にかかったときも、まず「素敵な方ね。」と褒めてくださる。きっとそれがマリアン流なのだ。背は高いけど上から目線じゃなくて、私の下手くそ英語を、うんうんと聞きながら、美しい言葉遣いで答えてくださったのが、とても印象に残っています。

 ラジオ公共放送のジャズ番組"PIANO JAZZ"は、聡明で気品あるパーソナリティで、ユービー・ブレイクからセシル・テイラー、はてはフランク・ザッパからエルヴィス・コステロ・・・毎回ありとあらゆるミュージシャンをゲストに迎えて、トークと音楽を楽しみます。「徹子の部屋」同様、30年以上続くお化け人気番組。ネット上でも楽しめます。フラナガンも何度かゲスト出演していて、そのうち一回分の日本語訳を「トミー・フラナガンの足跡を辿る」(第3巻)に掲載しています。

<大戦をくぐり抜け>
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 マリアン・マクパートランドはウィンザー出身の英国人、生まれたときの名前はマーガレット・マリアン。ターナー、3才でピアノを初めジャズに惹かれ、第二次大戦中は、ピアニストとして米国前線兵士慰問機関(USO)に参加、本場アメリカのジャズ・ミュージシャンとともに、英国からヨーロッパまで、ピアノのない戦地ではアコーディオンを持ち、テント暮らしをしながら兵士達をジャズで慰問しました。その時、同じバンドで出会ったシカゴ派の重鎮コルネット奏者、13才年上のバツイチ、ジミー・マクパートランドと恋に堕ち、戦後、マクパートランド夫人としてシカゴで音楽活動を始めました。
 その当時、同じ英国出身の評論家レナード・フェザー(彼自身もピアニスト)に、「英国人で白人女性」なんて絶対に売れない!と冗談交じりに言われたとか。だって当時、一流女性ジャズ・ピアニストといえば、アフリカン・アメリカンのメアリー・ルー・ウィリアムズ(p)しか居なかったのですから。


<ザ・ヒッコリー・ハウス>
 
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 シカゴでの新生活は想像以上に大変で、夫の両親の家に同居せざるを得なかった。レギュラー演奏の場は夫のバンドで、シカゴ派の伝統的なディキシーランド・ジャズ。当時台頭してきたビバップの革新的なハーモニーに魅力を覚えたマリアンは、夫の理解と応援のおかげで1949年活動地をNYに移し52丁目にあった名門ジャズクラブ、ザ・ヒッコリー・ハウスに出演、、ビル・クロウ(b)、ジョー・モレロ(ds)とのトリオで、8年間という長期間、看板スターとして人気を博しました。エレガントな物腰と、男まさりのプレイが人気を呼び、有名人が足繁く訪れるようになります。トニー・ベネットやアレック・ワイルダーとの終生の友情も、ここから生まれました。夫はアル中を克服して禁酒を守り、家庭的にもキャリアの上でも、この時期はよかった!とマリアンは振り返っています。
 
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  やがてTV時代になり、ビートルズの台頭と共に、ジャズメンに真冬の時代が到来。ベニー・グッドマン楽団で自分のプレイが受け容れられず、ノイローゼに。色々なトラブルがあり、1974年、ジミーと離婚に至ります。
 困難にへこたれず、演奏活動を続けながら、自己レーベル、"Halcyon"を立ち上げ、自己アルバムだけでなくテディ・ウイルソンや、アール・ハインズなどの名ピアニストをプロデュース、同時に、子どもたちに「ジャズの面白さ」を伝授する教室を全米で展開。ウイントン・マルサリスも受講した子供の一人でした。
 
<ジャズのウーマン・リブ>
 
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 '78年、"PIANO JAZZ"のホステス役を務めるように成ってからは、知名度が一挙にあがり、ミュージシャンとしても再評価されて、同い年のハンク・ジョーンズ同様、引退せずに終生現役という素晴らしい人生でした。

 マリアン・マクパートランドは、その人生を「ジャズのウーマンリブ」とサラリと言っていますが、彼女の品のある物腰と、誰にでも尊敬を持って接する態度は、大変な苦労をしてきた人だけが身につけられるものだったのかもしれません。
 
 マリアンは元夫、ジミー・マクパートランドが肺がんに侵された1991年に復縁し、共にロングアイランドに住んで最期を看取りました。マリアンの遺骨は火葬にされ、シカゴの夫の墓に納骨されるそうです。
 なお、遺族としてお孫さんで、Donna Kassel-Gourdolというフランス在住のアーティストがおられて、ブログでおばあさんを偲んでいます。

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「音楽のキーは、それぞれに色がある。
 "D"は水仙(Daffodil)の黄色だったり、"B Major" は栗色(Maroon)で、B♭はBlue・・・」
 マリアン・マクパートランド

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コメント(1)

ニューヨークのインターネットラジオから流れてきた音楽がマリアン・マクパートランドでした。検索してこのHPにたどり着き納得。すでにお亡くなりになっていたんですね。
ビル・エヴァンスとの音楽談義の録音など興味深かったのを思い出しながら。
へら

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