2013年11月28日

サー・ローランド・ハナ:滅多に聞いてもらえぬ物語


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 1990年代初頭、NYの寒い春、当時隆盛を誇ったジャズ・クラブ、《Sweet Basil》に出演するトミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ bass, ルイス・ナッシュ drums)を聴きに、ほぼ2週間毎晩通ったことがありました。
 たとえNYに住んでいても、フラナガン・トリオがクラブで演奏するのを聴けるのは1年にのべ数週間だけ。このときは2週間通しの出演で、フラナガンから「うちのアパートのすぐ近所のホテルを取るから聴きに来い!」というお達しがあり、店の都合をなんとかつけてNYに飛びました。寺井尚之は夜ごと五線紙と鉛筆を持って、有機的に変化するアレンジや演奏ヴァージョンを文字通り「かぶりつき」で凝視、そういうことを何度も繰り返しながら現在に至っております。

 《Sweet Basil》は当時NY観光の名所となっていて、フラナガンゆかりのジャズの巨人たちが現れる日もあれば、日本やヨーロッパ、オーストラリアなど、各国の団体客では賑わっていました。外国人のお客様は概ね静かで、1st Setだけ聴いて帰ってしまうのですが、私たち「聴きたい人」にとって厄介なのが、間違ってやってきたジャズファンではない米国人。自国の文化にリスペクトがないせいか、演奏中に大声で話すから・・・

 その夜は、トミー・フラナガンのソウル・ブラザー、サー・ローランド・ハナさんが「ヒサユキちゃん」(ハナさんはいつもこう呼んでいた。)に会いに来てくれた。ハナさんが同じテーブルにつけば鬼に金棒、勇気100倍!なにせ掛け声がプロ!前のパートナー、ジョージ・ムラーツがソロで、指板の上から下まで目にも止まらぬフレーズを繰り出した瞬間に「One mo!(もう一丁!)」の声を入れる。すかさずムラーツ兄さんが、そのフレーズを繰り返す。お客さんはもう大喜び!

 そんな楽しい演奏中に、水商売風のお姐さんを連れた酔っぱらいのグループ客が入ってきて、バラードの最中に大声でおしゃべりを始めた。ダイアナ・フラナガン夫人や周りの人が「シ~」と言っても聞く耳なし。店のマネージャーも知らん顔。怒り狂った獅子座の女、ダイアナが立ち上がったとき、止めたのがハナさんだった。
「ダイアナ、やめとけ。君が行ったら店に対して面倒なことになる。僕が替わりに言ってやるから・・・」

<天才児>
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 トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナ、デトロイトを代表するピアノの巨匠達も、世界でどれほど敬愛されてるのか判ってない同国の人々には却ってこんな仕打ちに遭うんだな・・・

 ハナさんはフラナガン以上に過小評価されてきた。その理由は、NYジャズシーンで本格的に活躍を始めた時期が60年代であったことが原因であったかもしれません。

 クラシック音楽一筋だったハナさんが中学校時代に、フラナガンのプレイに感化されてジャズに転向したのは有名な話ですが、ローランド少年は小学生のときからデトロイトの天才児として英才教育プログラムを受けていた。同時期、中西部地区で他に同じ英才児として選ばれて、ショパンやリストをガンガン弾いていたのがカーティス・フラーのお姉さん、メアリー・エリザベス・フラー、それにシカゴの巨匠、アーマッド・ジャマルがいます。

 ところがRoland "Hack" Hannaという名前で、ジャズに転向すると、デトロイトにはハナさんに負けない若き天才がゴロゴロいた。ハナさんは、フラナガンの弟分、二番手的な存在として切磋琢磨されていきました。

 フラナガンとハナさんは、ともにアート・テイタムをピアノ演奏の理想型としつつ、バップの洗礼を受けたピアニスト。美しいソフトタッチと品格はまさに同じDNAでした。ただ二人の目指すところは微妙に違っていて、フラナガンが"ブラックな音楽"を標榜した一方で、ハナさんが目指したのは、クラシックだのジャズだのというカテゴリー通念を破る音楽だった。
 ハナさんにとって「ショパンもファッツ・ウォーラーも、同様に優れた即興演奏家」だし、ラフマニノフもルビンシュタインも、アート・テイタムと同一カテゴリーに属するピアノの巨匠だった。

  そんなハナさんの偏見のなさが、「クラシックかぶれ」とか「代表作がなくて地味(!?)」だとか、奇妙きてれつな偏見を生んだ。哀しいね。


<A Story Often Told Seldom Heard>
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  "A Story Often Told Seldom Heard"(いつも話すのだけれど、滅多に聞いてもらえない物語)は、ハナさんのオリジナル曲。ハナさんが愛したモネの「睡蓮」のように、翳りと光に溢れた不思議な美しさに溢れた作品です。

 この曲は、恐らく'70年代の初めに書かれたものだと思いますが、クラブ演奏で、満員のお客さんが騒々しくて自分の演奏をちっとも聴いてくれない悲哀を曲にしたものなんだそうです。それは《Five Spot》でセロニアス・モンク・グループの対バン・ピアニストとして演奏していた頃の思い出なのか? NY大に近い《Knickerbocker Bar and Grill》でステーキを食べるのに忙しいお客さんの前で演奏していたときの気持ちだったのか?

 OverSeasで繰り広げられたハナさんの演奏は、イマジネーションが溢れ出るのが止まらないといったものでした。ソフトタッチで美しい雄叫びのようなフォルテッシモから胸の奥まで届く静謐なピアニッシモ、弾いてもらうピアノが「嬉しくて堪らない!」と言わんばかりに響きます。ハナさんがピアノで繰り出すストーリーに胸が張り裂けそうになって泣いてしまうお客さんも珍しくなかった。そんな音楽家が「聴いてもらえない」ときに、こんなに美しい曲が生まれたとは、皮肉だなあ!

 "A Story Often Told Seldom Heard"、ハナさんに直接語ってもらうことはもうできません。

   トミー・フラナガン没後1年、後を追うように逝ってしまったサー・ローランド・ハナ(1932年2月10日ー2002年11月13日没)11月に偲ぶもう一人の巨匠です。

hanna_roland_ramona_hisayuki_terai.jpg 上の動画は、ジョージ・ムラーツ(b)とメル・ルイス(ds)とのトリオ。ハナさんが録音の出来に満足して、寺井にCDを送ってくださったアルバム『Round Midnight』にも収録されていて最高!でも、これはやっぱりハナさんの「物語」として、一曲ではなく、一枚通して向かい合って欲しいです。

2013年11月21日

The Mainstem:宮本在浩(b)、菅一平(ds)のことなど


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   トミー・フラナガンの命日、11月16日(土)開催、第23回トリビュート・コンサート、ご参加の皆様に心より感謝いたします。

 ふたつのメドレーを含めて約20曲の名演目プログラム、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のThe Mainstemによる熱演で、在りし日のフラナガンを偲びました。  

 今回、寺井尚之が奏でるピアノのサウンドは、特別な感じがありました。不肖私も長年、寺井だけでなく名手と言われる人々が鳴らすピアノの音を聴いてきましたが、今回の響きの輝かしかったこと!トミー・フラナガンが聴いたらどう言っただろう・・・どんな名手でも、満員のお客様にある程度音量を吸い取られるものですが、寒い夜の月のように妖しさが満ち溢れて、凄みを感じるほど・・・今更ながらピアノは生きものだと思いました。

  コンサート・レポートは、近日HPに掲載予定。もうひとつ、私が感動したのは、The Mainstemのトリオとしての充実ぶり!一皮向けて肩の力の「抜け」感が最高!メインステムの目指してきた「かたち」の片鱗が見えました。


<5年目のレギュラー・トリオ>


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 寺井尚之がベースに宮本在浩、ドラムに菅一平という若手を擁し、デトロイト・ハードバップの本流を目指すという思いを込めてメインステム・トリオのネーミングで演奏を重ねて早5年。

 結成当初は、どうしても前のフラナガニア・トリオの往時と比較されるわけで、必ずしも、温かい応援ばかりではなかったはず。トリオは前を向き、宗竹正浩さんや、河原達人さん、先輩たちの良いところを積極的に吸収しながら、新しいトリオのかたちを目指していきました。

 前回、春のトリビュートでは、手強い曲と難しい役どころ、宮本在浩、菅一平のプレイにフリーダムが見え、今回は二人が音楽で語るストーリーがしっかり伝わってきました。

 


 宮本在浩、菅一平は、純粋なプロでなく、いわゆるDay Gigを持っているミュージシャン、ザイコウは、町工場の若社長として多くの従業員を抱える責任ある立場、イッペイはシステム・

エンジニアとして、多くのクライアント企業のシステムの開発に日本全国、アジアまで飛び回りながら、体が開くと飛び入り参加、閉店後も新しい演目を合わせて来ました。

blog_ippei_suga.jpg 家庭ではふたりとも良き夫、優しいパパのようですが、稽古ジャンキーの寺井のコールで休日返上、リハーサルした日も数限りなくあり、ご家族の理解と応援に平身低頭。トリオとしての稽古ぶりは、アマチュアというには余りにもストイック、厳しく地味なもの、二人の努力はひょっとすると、寺井尚之以上のものかも知れません。

 寺井の盟友、林宏樹(ds)さんや、バップの名手、ケニー・ワシントン、ルイス・ナッシュ、田井中福司さん来日ライブには、食い入るように見つめる二人の姿が客席にありました。

 ふたりとも1975年生まれ、トミー・フラナガンがOverSeasに初来演した時は小学生・・・でも1996年のトミー・フラナガン・トリオには、当時、寺井の一番弟子だった松本誠(p)と共に、計り知れない感動を受けたようで、それが不屈の努力につながって行ったのかもしれません。


<俯瞰できるリズム・チーム>


 宮本在浩がギグとしてOverSeasで初めて演奏したのは、2000年11月、フラナガンが亡くなる一年と一週間前ですから、それから長い月日です。その2年後、工場の事故で、ベース演奏自体が危ぶまれるほどの大怪我を右手に負いましたが、現在は前に進む4ビート感と緻密なプレイで、特にミュージシャン達が大注目する存在に成長しました。

 菅一平はレギュラーならではの「引き」のある繊細なドラミングが身上、最近著しくスピード感がアップしたのは、フォーム改造のせいらしい。今回の"Mean Streets"や"Tin Tin Deo"の掛け合いでは、「引き」だけでなく、「前に出る」「惹く」ダイナミズムを見せつけた感があります。

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 ザイコウ―イッペイ・リズム・チームの特徴は、トリオで演奏するという枠組の中、一曲全体を見据えたプレイができること!ハッタリとあざとさ抜きのプレイに徹することは、とてもむずかしいはずなのですが、それがちゃんと出来ている。二人とも、あまりゴチャゴチャ言わず寡黙な人だから、その苦労はなかなかうかがい知ることはできないけど、それは演奏の中に語られていました。

 ピアノ・ソロにしか拍手をいただけない夜もある中で、早く、早く、花開け!と一番グズグズ思っていたのは、この私かも知れない・・・ところが、 ここ数ヶ月、この「リズム・チームが良かった!」と言っていただくことが、本当に多くなったと実感しています。

 そこに今回のトリビュート・コンサート!文句なしの最高の拍手と声援を二人にいただくことが出来て、ほんとに嬉しかった!

 トリビュートに飾ったグラジオラスの花のように、下のから徐々に花開いてきたメインステム、もちろん寺井尚之だって、60過ぎても伸びしろ一杯だ!これからまだまだ咲きますよ。

 これからも頑張りますので、メインステムをどうぞよろしく!

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2013年11月14日

トミー・フラナガン:名演目のレシピは?

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Tommy Flanagan (1930-2001)

 
<フラナガンの演目はマニアックか?>
 このところ、トミー・フラナガンの名演目といわれる曲の、ごく一部を紹介してきました。 
 
 「フラナガンの名演目」と言われてもなあ・・・マニアックな曲ばっかりじゃん」と言うなかれ。馴染みのない曲でも、心にすっと入ってくる違和感のなさには驚くばかり!それにも拘らず、演奏する者がほとんどいない理由は、ひとつに「難曲」であること。もうひとつは、「譜面が入手できない」ことが、とりあえずの原因です。今はスマホでも、リアルブックと呼ばれる膨大なジャズ・スタンダード譜面集がダウンロードできますが、メロディーもコードも惨憺たるもので、そのまま演奏しても格好がつかない。
 
  フラナガンは昔気質で、譜面を見せないミュージシャンだったし・・・というか、真正のスコアはあの立派な禿頭の中にしっかり格納されていた。だからフラナガン・トリオの歴代の共演者達も、レコーディングすら譜面なしでやっているものが殆どなのです。それがほんとのジャズ・ミュージシャン。だって五線紙に音楽に必要なデータを完全に書き入れることはできないのだから。 フラナガンは一応、演奏場所には、譜面の入った茶封筒を持参してはいたけれど、実際の演奏とはだいぶ違っていたのかもしれません。でも寺井尚之には、書きおろしの新曲を写譜させていたこともありました。その原本ににもあっと驚く「書き間違え?」があって、「こんなん初めてのベーシストに渡したらエラいことになるやろな。」と寺井は呆れてた。むしろ、フラナガンの方が寺井の書いた譜面を持って帰ったりしていたくらいです。
 
 往年のデューク・エリントン楽団でも、譜面台に立てられたスコアと、実際の演奏はずいぶん食い違っていて、(恐らく何度もヴァージョン・アップがなされていて)、「ぽっと楽団に入ると全然どこを演ってるのかわけがわからない!」とディジー・ガレスピーがボヤいていたから、ジャズってそんなものなんだ!
 
 
 
<フラナガン流ブラック・ミュージック> COVER.jpg  
 エリントニア、モンク、ダメロン、バド・パウエル、それにチャーリー・パーカー!そこから派生するサド・ジョーンズ、トム・マッキントッシュという辺りがフラナガン好みの作曲家です。
 フラナガン的選択基準は"ブラック"であること。
 「ジェームズ・ブラウンのようなソウル・ミュージックのことなのか?」と、インタビューで質問されると、「そんなもんワシは知らん!」と気色ばんだことがあった。
 
   フラナガンの言うブラック・ミュージックってなんだろう?
 
 そのヒントになるのが、"Something Borrowed, Something Blue"というフラナガンのオリジナル曲。グローヴァー・ワシントンJrが録音して、たくさん印税をもらったらしい。エレクトリック・ピアノで演奏されたことは別にして、気になるのは、この曲の題名。  元は英国に伝わる花嫁さんの幸せを約束する縁起のよいもので、全体はこんな詩。
 
Something old, something new,
  Something borrowed, something blue,,
And a silver sixpence in her shoe,
古いものと新しいもの、,
 借りものとブルーなもの、,
そして花嫁の靴の中には銀貨を入れて。
  ここで連想するのが、前々回に紹介したトム・マッキントッシュの作品を取り上げたディジー・ガレスピーのアルバム『Something Old, something New』(1963年)。新旧の名曲がうまく組み合わされたこのアルバムに収録されたマッキントッシュ作品のうち"Cup Bearers"と"The Day After"はトミー・フラナガンのレパートリーになっている。
 
 "Something Borrowed, Something Blue"という曲は、ディジーとマッキントッシュへのリスポンスではなかったのだろうか?
 
 そんな風に前提を立ててから、もう一度このフレーズを訳してみると・・・
 

"Something Old (自分のルーツを自覚して), 

Something new (革新の心を持ちながら),,

Something Borrowed (先人や西洋音楽のアイデアを借り),

Something Blue (ブルース・フィーリングを保て)"

 

  花嫁に向けた格言には、トミー・フラナガン流、ブラック・ミュージックの極意が隠されていたのかも知れませんね。 

 と、いうわけで、これからもトミー・フラナガンの名演目がマニアックなもので終わらぬように、紹介していきたいと思います。

 え?私のブログがすでにマニアックって?テへへ・・・わかる奴だけわかればいいの。

 

 

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 何よりも、フラナガンの背中を見て盗み、フラナガンの教えを受けた寺井尚之と、彼が手塩にかけた宮本在浩(b)、菅一平(ds)とのメインステムの演奏を、トリビュート以降も愛していただけますように!どうぞよろしくお願い申し上げます。

CU

2013年11月 7日

トミー・フラナガンの名演目(3): Chelsea Bridge


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 『Overseas』('57)や『トーキョー・リサイタル』('75)の圧倒的な演奏を始め、ライブでは"エリントニア"(デューク・エリントン・メドレー)に組み込んでフラナガンは愛奏しました。ご存知のようにデューク・エリントン楽団のヒット曲ですから、元々はビッグ・バンド用、それをコンパクトなピアノ・トリオのフォーマットで演奏したピアニストは、フラナガンが史上初!エラ・フィッツジェラルドと共にフラナガンが待望の来日を果たした1975年、曲目紹介なしに始めた<チェルシーの橋>、僅か3拍で、怒涛のような歓声と拍手に京都国際会館が揺れた。文字通り、トミー・フラナガン、極めつけの名演目!

billy-strayhorn-duke-ellingtons-arranger-terry-cryer.jpg 作曲は、エリントンの右腕、ビリー・ストレイホーン。フラナガンはこの天才作曲家を"生涯一書生"と呼んだ。咲き乱れる花々や美術品に囲まれながら、孤独と苦悩を抱え続けた彼の人生については、随分以前に書いています。 "チェルシーの橋"とはNYではなくロンドンのテームズ川にかかる吊り橋、およそ浮世離れし耽美的な作品ですが、「お金」をめぐる世俗の争い事がなければ、この作品の幻想的な美しさも、ビリー・ストレイホーンという天才も広く知られることはなかったかも知れません。




<著作権をめぐる仁義なき戦い>


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  現在も「著作権」トラブルは絶えませんが、第二次世界大戦勃発以降、音楽業界を震撼させる争いが次々と起こり、ジャズ界は大きな影響を被ることになります。ひとつは、1942~43年のレコーディング禁止令(Recording ban)、もうひとつが、ラジオ業界とASCAP著作権組合 (The American Society of Composers, Authors and Publishers )との前代未聞の抗争でした。1940年、大恐慌から著作権収益が低迷するASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)は、世界大戦の影響で更に業績が悪化する中、最大の収入源であるラジオ業界に対し、翌年度の著作権料を前年度から一挙に448%値上げするというとんでもない通告をします。「てやんでい、この野郎!」ラジオ業界は猛反発。CBS、NBC二大ラジオ・ネットワークと傘下局は、1941年1月1日よりASCAPに帰属する楽曲を放送しないことを決議、逆に、BMI(Broadcast Music Inc.)なる自分たちの著作権団体を新設、安い著作料を設定し、ASCAPに倍返しを企みます。おかげで、ASCAPが門戸を閉ざしてきたリズム&ブルースの隆盛につながるなど、ポップ・ミュージックは新たな局面を迎えるのですが、困ったのはASCAP会員のデューク・エリントン。1930年のハーレム・コットン・クラブ時代より、ラジオを通じて全米で人気を誇った楽団のレパートリーが一切放送不可になるのですから絶体絶命!エリントンがいくら新曲を創ってもASCAPに登録されてしまうのですからダメ!とにかくエリントン以外の名義で楽団のレパートリーを総入れ替えすることが急務となります。ラジオ番組のテーマ・ソングも刷新せねば・・・それができなければエリントン楽団の前途はない。

 そこで白羽の矢が立ったのが息子のマーサー・エリントンと、書生ビリー・ストレイホーン。二人は「放送禁止になる新年までの僅か数週間で楽団の譜面帳を作れ!」という究極のミッション・インポッシブルを課せられます。

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デューク&マーサー・エリントン:

ストレイホーンという天才の存在が親子関係に陰を落とすことに・・・


 新曲を揃えるだけでなく、パート譜も全て書き上げろなんて・・・エリントンが楽団を率いて笑顔で演奏に明け暮れる間、二人はシカゴの有色人種用のホテルに缶詰で作曲編曲、24時間不眠不休で作業に従事。

 ストレイホーンはこれまで陽の目を観ることのなかった自作品を一挙に楽団用に仕上げていきました。マーサー・エリントン21才、ストレイホーン25才の冬です。

 かくして必死のパッチで出来上がった新曲集から、デュークが楽団の新しいテーマ・ソングとして選んだのが「余りにもフレッチャー・ヘンダーソン楽団っぽすぎるから」という理由でストレイホーンが一旦ゴミ箱に放り投げた"A列車で行こう "で、これはご存知のように楽団最大のヒット曲、ジャズで最も有名な曲になりました。「売れる」とか「売れない」といか言ってる場合じゃない。主にストレイホーンが書き溜めていたスケッチから出来上がった新レパートリーには、師匠エリントンから習得した作曲技法と、ストラビンスキーやドビュッシーなどクラシックの作曲家からのエッセンスが融合し、これまでにないコンテクストを持っていた。その中でも、" Chelsea Bridge"は、耽美的で印象派的、ストレイホーン独特な世界を醸し出し、ベン・ウェブスターのソロと相まって、他の楽団と一線を画し、エリントニアの象徴的作品となります。

 
<耽美派>
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「青と金のノクターン:バターシー・ブリッジ」
 曲のイマジネーションの源は、19世紀の米人画家で、日本美術の影響を受けた耽美派と言われているジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品にあったとストレイホーンは語っています。ホイッスラーが橋を描いた作品は多いのですが、「チェルシー橋」を描いたものは見つからない。上の"青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ"はホイッスラーの代表作、確かに曲と共通する幻想的なムードを感じます。ストレイホーンは芸術全般に造詣が深く、美術や骨董を収集し、仏像や彫刻など美しいものに囲まれて暮らし、その代金は全てエリントンのポケット・マネーから支払われた。
 
 
<芸能から芸術へ>

 
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   では、フラナガンにとって、ストレイホーンは、"Chelsea Bridge"は、どんな意味があるのだろう?
 
 ギル・エバンスは、"チェルシー・ブリッジ"を聴いた途端、自分の目標が定まった、と語っています。つまり「型」から入った人。それに対して、フラナガンは「こころ」から入ったのではないだろうか?
 
 ニューオリンズの歓楽街、シカゴのサンセット・ラウンジ、NYのコットン・クラブ・・・ジャズは、どれほど高級になろうとも、酒や美しいコーラス・ガールあっての音楽、ハーレム貴族のお楽しみ。
 
 ところが、著作権抗争のおかげで、慌てて表舞台に出た"Chelsea Bridge"は、ダンスもキャビアもドンペリも必要としない自己完結、、「わかる奴だけわかればいい」というスタンスで創造された芸術、ジャズには無謀なほど芸術的だった。その精神は、ストレイホーンが夜な夜なハーレムのクラブでジャム・セッションに興じたディジー・ガレスピーやマックス・ローチによってビバップとして引き継がれていく。
 どれほど卓抜な演奏者でも、黒人の音楽家はシリアスな演奏や、奥深いラブ・ソングを歌うことが許されぬ、、道化者でいなくてはいけない米社会に風穴を開ける、革新的音楽、美しい公民権運動とすら呼べるものだった。これこそ我が道、「ブラック・ミュージック」のあるべき姿だ!フラナガンはそう思ったのに違いない。
 
 『Overseas』録音直前、若き日のフラナガンは、奇しくもNYの街で憧れのストレイホーンに出会う。「実は、もうすぐあなたの作品をレコーディングさせて頂きます。」と自己紹介すると、ストレイホーンはフラナガンに、自作の譜面をありったけくれた。運命の出会い!フラナガンの想いはどんなだったろう?  
 
  この"Chelsea Bridge"、フラナガンのヴァージョンは、エリントン楽団のものとは微妙にコードも違うし、勿論構成にも秘密がある。世間に出回る譜面では、到底フラナガンの世界にはならないのです。
 かつて寺井尚之は、深夜のクラブ、Bradley's でエリントン楽団はこう、フラナガンはこうと、ロニー・マシューズとロイ・ハーグローブ、名伴奏者、マイク・ウォフォード相手、「ジャズ講座」をやるは、フラナガン自身があきれるほどに、演奏の中身を知っている。
 
 トリビュート・コンサートでは、そんな寺井尚之が「チェルシー橋」の上にまたたく星も、夜のテームズ川の流れも、橋の上を吹き渡る風の色も、全て再現してご覧に入れます。どうぞお楽しみに!
 
CU