2014年11月13日

トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(2)

〔思慮深い会話の達人〕

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 (前回より続き)  フラナガンは整った顔立ちの威厳ある風貌だが、ここ数年前から体重が落ち、華奢な体躯を包む洋服がダブついている。無愛想だが、瞳は暖かで、優しい微笑みを見せる。フラナガンは大きく丸い眼鏡をかけている。若い時から禿げているけれど、耳の後ろに少し白髪が残り、白く豊かな口ひげはえくぼをほとんど覆い隠している。
 フラナガンは「急ぐ」という事をしない、話す時は特にそうだ。彼はヴァンガードのステージから筆者のインタビューを受けている。しかし答えが出てくるまで、彼の視線は質問者から遥か遠く宙を漂い、果てしない沈黙が流れる。だが一旦気が向くと、ドライマティーニの様なピリっとした辛口のウイットで素早く会話を進める。

 "トミーは余りおしゃべりではないけれど、本当のことしか言わない。": ピアニスト、マイケル・ワイス


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 フラナガンは1950年代からマンハッタンのアッパーウエストサイドに住み、ここ25年程は82丁目で、妻ダイアナと暮らす。彼女とは1976年に結婚した。溌剌とした女性である。フラナガンはその前に1度結婚歴があり、前妻との間に3人の子供をもうけ6人の孫がいる。

 アパートは趣味の良い造作で、ダイアナの蔵書が無造作に置かれている。彼女は元歌手、大学では文学を専攻し、詩、小説、歴史、伝記、音楽に関する書物を読み漁る。ソファのある窓際と反対側になる居間の一角にはスタインウエイのグランド・ピアノが鎮座している。

 また居間にはチャーリー・パーカーやデューク・エリントンといったジャズ・ミュージシャンの写真や、絵画がそこら中に飾られている。絵画は、雑誌<ニューヨーカー>のジャズ評論家、ホイットニー・バリエットの妻、ナンシー・バリエットが書いた風景画の小品もあれば、ピアノを見下ろすように掲げられている額には、漫画家アル・ハーシュフィールドの書いたフラナガンの似顔絵 (上の写真のスタンドの上です。)が入っている。

 この日の午後、フラナガンとダイアナはソファでくつろぎながら、新刊"Before Motown"のページをむさぼるように繰っている。フラナガンは生涯の友人達で、20世紀半ばにデトロイトに出現したおびただしい数の才能あるジャズミュージシャン達の写真(バリー・ハリス、エルヴィン・ジョーンズ、今は亡きペッパー・アダムス等)を見つけては指差し、にこにこしている。

  ダイアナは当時デトロイトの街で活躍していた夫の10代の若き日の姿を見つけて高い声で叫んだ。"OH、スイートハート、あなたってすっごく可愛かったのねえ! この時代に会っててもきっと好きになっていたわ!"
 するとフラナガンは無表情にこう言った。"(フラナガンに夢中だった女の子たちの)列に並んで!"

 彼は本を閉じテーブルに置いて、駆け出し時代を回想し始めた。1953年、彼は"ブルーバード・イン"の名高いハウスバンドに参加する。メンバーは、サックス奏者、ビリー・ミッチェル、トランペッター、サド・ジョーンズ、ドラマー、エルヴィン・ジョーンズであった。この"ブルーバード"で初共演したミュージシャン達の多くと、その後NYで共演することになる。

 "あの修行時代がなかったら、今の自分はなかったろう。"フラナガンは言う。"ミュージシャンとして良い手本になるべき人が私の周りにいた。その頃はrole modelなんて言葉はなかったけれども、街に来たら私たちが必ず聴きに行くような一流ミュージシャンにひけをとらない、皆が尊敬するミュージシャン達が地元にいた。ミルト・ジャクソンや、ユセフ・ラティーフ、ラッキー・トンプソン、ワーデル・グレイといった人たちだ。"

〔デトロイトで音楽を始めた頃〕

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 フラナガンはデトロイト北東部、コナントガーデンズ地区で育った。6人兄弟の末っ子で、父は郵便配達夫だ。両親、特に母が音楽好きだった。6歳でクラリネットを始めるが、もうそれまでには、ピアノの椅子によじ登り兄のピアノレッスンの真似事をしていた。

 10歳の時、母の薦めでピアノのレッスンを受け、そのせいで現在もショパンやラヴェルを愛好している。ジャズに興味を覚えたきっかけは、兄がビリー・ホリディの新譜を家に持って帰って来たことだった。そこにはテディ・ウイルソンのピアノがフィーチュアされていた。

"ジャズとは6歳の時からの付き合いだ。"フラナガンは言う。

 そしてフラナガンはノーザン・ハイスクールに入学、ローランド・ハナとベス・ボニエ(p)がクラスメートであった。1949年、"フレイムズ・ショウ・バー"でハリー・ベラフォンテの伴奏を務めた後、ベラフォンテにNYの仕事を紹介された。しかし、母親がまだ若すぎると息子が街を離れるのを許さなかった。泣く泣くフラナガンは街に残ったのだ。

 やがて徴兵、2年間兵役に就いた。韓国駐留を言い渡された彼は一番新しい音楽を持っていこうと、スーツケースにセロニアス・モンクのSP盤(BLUENOTE)を詰め込み外地へと向かった。

 退役後の1956年初頭、とうとうフラナガンはNYに進出。音楽と家族を以外、デトロイトの思い出は楽しいことばかりではなかった。

 "早く街を出たいとそればかり思っていた。デトロイトの単調さに嫌気がさしてきたんだ。町中を動き回る自由が制限されていた。当時の警官はひどいものだった。我々が住んでいる地区で難癖をつけてくる。私が12歳頃、ある夜印刷所の前を通った時のことだ。そこは反体制的な印刷物が見つかった場所で、私は警官に呼び止められた。警官は拳銃を抜いていた。

 私は言ってやったよ。『何をするんだ!?僕はほんの子供だぞ!』"

 NYでは、とんとん拍子に素早く事が運んだ。出て来て一年経たぬうちに、《バードランド》でバド・パウエルの代役を務め、たちまちマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズの両者のレコーディングに参加する。フラナガンはその頃を懐かしむ:

jack_kerouac9780141182674.jpg マイルス・デイヴィスとの初レコーディングで、このトランペッタ―はポケットから紙切れを取り出した。そこにはデイブ・ブルーベック作の<In Your Own Sweet Way>が殴り書きされていた。マイルスはフラナガンが演奏したあの有名なコード・ヴォイシングを指示したが、リズムはフラナガンのアイデアである。

 ほぼ同時期、J.Jジョンソン・クインテットで、《ヴィレッジ・ヴァンガード》にビートニック詩人ジャック・ケルロアックの朗読会とダブルビルで出演したことがあった。フラナガン、エルヴィン・ジョーンズと、大酒のみで有名なケルロアックがはしご酒をしたあげく、最後はフラナガンのアパートで飲み明かした事があったという。

 "昼前になって、エルヴィンがケルロアックに向かって殺してやると脅かした。ケルロアックがとんでもなくひどい事をエルヴィンに言ったからだ。私も頭に来たが、エルヴィンは怒り狂っていた。"

〔気分を出してもう一度〕

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 フラナガンは話を終えて立ち上がり、ゆっくりとピアノに向かう。ピアノの脇の棚にはポピュラーソングの譜面集が積み上げられている。ピアノの上にはMJQの創設者ジョン・ルイスの作品を挟んだ紙ばさみが置いてある。3月に亡くなったジョン・ルイスは死の直前に、よかったらCDにしてほしいと自作楽譜をフラナガンに送ったのであった。

 フラナガンは謎めいたアルペジオを少し弾いてから、ジミー・マクヒューのバラード、"Where Are You?"に滑り込む。曲の裏側の鍵を開けるような、風変わりで一ひねりあるハーモニーをつけて演奏する。1コーラス目は囁くように、2コーラス目ではヴォリュームが大きくなり、対話が生まれ感情が高まる。演奏が余りに表情豊かで感動的なものだったので、私はフラナガンをピアノの前に留めておきたい一心で、すかさず"Last Night When We Were Young"をリクエストした。

 それは、ポップソングに似つかわしくない抽象的な感じの曲だ。ハロルド・アーレンのメロディとハーモニーが、風変わりなパターンに変化する。フラナガンは何年もこの曲を弾いた事がなかったので、自分の指の動きを、あたかも他のピアニストの指を見ているような不思議そうな目つきで凝視している。彼が音符に行き詰まると、彼と同じ位多くの曲を知っている妻ダイアナが、ソファーに座ったままでイップ・ハーバーグの円熟した歌詞をそっと歌って助け舟を出す。感情の高まりで音楽が震える。曲が終わった時ダイアナの目には涙が浮かび、フラナガンは夢見るように遠くを眺めていた。(了)

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