2015年9月18日

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(3) 母ともゑ:しなやかな人生

daisho_tomoe_tana_berkeley_buddhist_church5.jpgカリフォルニア州バークレー仏教会にて (1941) Photo from "A Century of Gratitude and Joy"

:Courtesy of Akira Tana

  アキラ・タナの音楽に導かれて知った、米国の日本人達の苦難と再生の姿は、自分の両親が体験した色々なことと重なり合って、興味は尽きません。上の写真は、アキラさんからいただいたご両親の写真です。前列中央、黒っぽい洋装のカップルが、田名大正、ともゑ夫妻。これは太平洋戦争直前戦前、人種差別のため住む場所に困る日系青少年のために、二人が資金集めに奔走して、カリフォルニア、バークレーの仏教教会に併設した学生寮(自知寮=Jichiryo)で寮生たちと記念撮影したもののようです。

 西海岸の陽光に負けないみんなの晴れ晴れとした笑み!この場面から、わずか数カ月後に太平洋戦争が始まり、「自知寮」はおろか、仏教教会も、日本人の町もあっというまになくなった。大正は他の日系リーダーと共に検挙され拘留所へ、身重のともゑと息子達は、大正と引き離され、アリゾナ砂漠の収容所で4年以上の歳月を送りました。ともゑは収容所内で三人目の男の子を出産し、何百キロも離れた夫との文通が二人の愛をさらに強く深いものにしました。二人が交わした手紙は800通近くに上ります。大正は結核に倒れますが、心は病むどころか、家族愛によって宗教家としての新たな展望を開きます。勾留所生活と病気という二つの苦難を抱えた大正は、次世代の日系人のために法話を書き続け、それを受け取ったともゑがガリ版で印刷して同胞達に回覧しました。同じ施設に拘留された位の高い僧侶達の中には、本道を忘れて野球やギャンブルに没頭する者も多かった中、病気の大正が常に前向きで居られたのは、ともゑの手紙の力であったかも知れません。

 激動の歴史を生きたアキラ・タナの母、田名ともゑはどんな女性なのだろう?

 調べていくと、ともゑは、大正の日記の他に、何冊もの短歌集を編纂し、出版していました。子育てを終え、60歳をすぎてから英語を学び、大学から大学院に進んで修士号を取得しています。
 晩年は地元パロアルトの名士として、尊敬された田名ともゑ、この人の業績は多岐に渡っていて、もう、どこから手を付けていいかわからないほどです。

 田名ファミリーのご厚意で、近いうちに大正の「抑留所日記」は原文で読むことが出来そうですので、後でゆっくりと調べることにして、その他の彼女の半生について書いてみます。

  <自分の道を拓く人>

tanafamily-1.jpg

  

Tana Family (circa '54 or '55): photo courtesy of Akira Tana
田名大正師を中心に、ともゑさんと膝に抱っこされている幼いアキラさんと3人の兄(Yasuto, Shibun,Chinin: 敬称略)

 田名ともゑ(1913-1991)は北海道の寺の娘、父は名僧の誉れ高く、姉妹兄弟全て仏教に仕える家系の出身で、ともゑ自身は小学校の教諭をしていました。開教使仲間で、渡米後、大正の親友となったともゑの兄、早島ダイテツ(漢字不詳)が、二人の仲を取り持ち、ともゑと大正は祝言の後すぐに、赴任地に赴きました。1938年、ともゑ25才、大正37才、カリフォルニアに着いた翌朝、大正は新妻にこう言いつけたそうです。

 「これからは自分で正しい道を見つけなくてはならない。さあ、まず手始めに、サンフランシスコまで一人で行って帰ってきなさい。」

 ともゑは夫の言葉どおり、英語が全くできないままに、初めての土地でサンフランシスコ湾を渡り町を目指し一日がかりで歩き回った。まさに"ロスト・イン・トランスレーション"!でもちゃんとシスコの町までたどり着き、夫が帰宅する夕方にはちゃんと家に戻っていた。

 このエピソードは、少年時代に田名家の子どもたちと交流し、ともゑさんに習字と短歌を教わったアーティスト、ゲイリー・スナイダー修士論文「A Profile of Tomoe Tana」で見つけたものです。困難に遭遇しても、打ち克つのではなく、受け容れて、慌てることなく、素直に努力する。そのうちに、いつの間にか新しい道が拓けている。これこそともゑ投げ!それは北海道の開拓者魂と、仏教のこころに裏打ちされた比類ない資質を象徴した話のように感じます。

<肝っ玉母さん>

 収容所を出てから半年、やっと家族の再会が叶った後、ともゑは病弱の夫を支え、4人の息子を米国市民として立派に育て上げた。

 長男 Yasutoは名門公立大学、カリフォルニア州立バークレー校卒業、軍人となり米国海軍少佐まで出世しました。(日系社会に詳しいお客様によると、少佐にまで昇進できる日系人は極めて少ないらしい。)次男、Shibunはサンホセ州立大からIBMへ、三男、Chininは、ハーバード法科大学院(ロースクール)から弁護士になった。三兄弟から10歳以上年の離れた末っ子がアキラ・タナ、彼もまた全額奨学金でハーバード大学から法科大学院を卒業していますから、どれほど秀才の兄弟なのかは私にも想像がつきます。アキラは、ほかの兄弟と同じようにエリートとして安定した生活が保証されているのに、家族の猛反対を押し切って、音楽に方向転換、名門ニューイングランド音大の打楽器科に在籍中、すでに世界的なミュージシャンと共演を重ねていました。そのあとは皆さんご存じのように、在米日本人ではなく、メジャーの檜舞台に上る日系人ミュージシャンのパイオニアとなりました。

 アキラさんの「道の拓き方」もまた、両親の影響なのかも知れません。

 それにしても、夫の大正は、宗教家として余りにも誠実な人だった。常に、己よりも他の人々の利益を優先させ、法務のお布施で家族の生活を賄うことに常にジレンマを感じる僧侶、そして病弱でもありました。4人の男の子をおなかいっぱい食べさせて、一流大学に行かせるための生活費はどうしていたのだろう?

 一家の生計を支えるために、ともゑは家政婦として働いた。

 真面目で清潔好きな日本人のハウスボーイやメイドを置くことは、ビヴァリーヒルズはもちろん、当時の米国上流家庭の一種のステータスだったそうですが、元敵国人への憎悪や人種差別もあからさまな時代、短歌や琴や習字も教えることのできる女性の適職というわけじゃない。ともえは30年近く、色んなお家の掃除をして働いていた。家の用事は深夜に済ませ、夫や子どもたちにも不自由な思いをさせないスーパー肝っ玉母さんです。この家政婦の仕事が、ともゑの短歌の業績につながっていくのだから面白い!

 子育てと家政婦の傍ら、彼女は日系人の短歌サークルを主催し、創作を続けています。ほんとに、どうやって時間を工面したのか、息子のアキラさんにも謎だったと言います。とにかくエネルギーと知性と心身の健康がなければ、そのうちのどれひとつもちゃんとできませんよね。三千年の歴史を持つ「短歌」という詩の形式は俳句よりもっと認知されるべき日本の文化だ!ともゑの夢は「短歌」の素晴らしさを日系の次世代に伝え、さらに英語のTankaとして、米国で広めることだった。

 1949年、ともゑが詠進した短歌は宮中歌会始に入選を果たします。

 その年のお題は「朝雪(あしたのゆき)」 ともゑの作品は現在も宮内庁HPで読むことが出来ます。

アメリカ合衆国カリフォルニア州 田名ともゑ
ふるさとの朝つむ雪のすがしさを加州にととせこひてやまずも

  (カリフォルニアで十年の歳月を経ても、故郷で朝に積もる雪の清々しさ、その情景が恋しくてたまらない。)

 故郷、北海道の「朝つむ雪のすがしさ」は、無垢な少女時代への憧憬かも知れない。ただ残念なことに、ともゑは宮中でこの作品の詠唱を聴くことは出来なかった。入選の通知が届いた頃には、歌会始の儀はとうに終わっていたからだ。ただ、もしちゃんと知らせが届いたとしても、日本への往復の渡航費を捻出できたかどうかは分からない。

 夫の赴任先ハワイでの2年間の生活の後、'51年、一家は再びサンフランシスコに戻り、ベイエリアの町、パロアルトの寺に落ち着きました。その間も、ともゑは家政婦として働き続けます。平安の昔、上流階級の遊びであった短歌が、米国で庶民の文化になったことを、ともゑは身を持って示した。やがて、家政婦としてともゑを呼んだ女流詩人、ルシール・ニクソン(1908-63)と運命的な出会いを果たすことになります。(つづく)

 

lucileAS20140124002490_comm.jpg Lucile Nixon はカリフォルニア州パロアルトの教育者、詩人、ともゑに短歌を師事、1956年

宮中歌会始に入選し「青い目の歌人」として日本でも大きな注目を浴びた。

  

 

 

 

 

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