2015年10月22日

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(5) 母ともゑのカレッジ・ライフ

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アメリカの
国歌うたいて
育つ子に
従い行かん
母我の道

 上の一首はアキラさんの生まれる前の年、夫の任地であった日米開戦の地、オアフ島、ホノルルで詠まれた。戦時中、日本人であるが故に被った様々な苦難を乗り越えたともゑの決意が31文字に凝縮されている。深みのある彼女の短歌には、独特の清涼感が漂っていて、アキラ・タナのドラミングと相通ずるものを感じます。この短歌に感銘を受けた大歌人、斎藤茂吉は 「下の句で、アメリカの国歌を歌う子供達の幸福を願う母の心情が明瞭に浮かび上がる感動的な一首。」と評した。

<よく学び、よく教え>

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 最愛の夫、田名大正を看取り、息子たちを立派に社会に送り出した時、ともゑはすでに還暦を過ぎていた。高校時代のアキラ・タナを鮮烈に捉えたドキュメンタリー映画『マイノリティ・ユース』で、「母は英語を勉強したいと思ってるけど、なかなか余裕がない。」という独白から十年、やっと勉強のチャンスがやって来たのだ。

 
  異国の生活と太平洋戦争、夫と離れ離れで収容所に4年間、その後は家族を支え、早朝から夜中まで27年間働き続けた人ならば、「余裕」ができると同時に、エネルギーが尽き果てて、波乱万丈の人生をフィードバックさせながら余生を送るのが普通ですが、ともゑは違った。真っ直ぐな瞳は曇ることなく、妻として、母として、一人の人間として、思い出を将来の遺産にしようと、まっしぐらに進みます。何十年という苦労の蓄積をエネルギーに変えてしまう力は、一体どこから受け継いだのだろう?それとも、その歳月を苦労とも思っていなかったのだろうか?

 念願の英語習得のため、近郊の州立"フットヒル・カレッジ"に入学したのが61才。 社会人大学生なんてゴロゴロ居る米国でも、毎日バスで通学し熱心に学ぶ熟年学生であり天皇に選ばれた歌人を、コスモポリタンな気風溢れる西海岸は放っておかなかった。しばらくすると、所属大学や傍系の文化センターに請われ、習字や琴といった日本の伝統文化の教師として大活躍するともゑの姿が評判になります。

tomoe_tana_teach_stanford.jpg 左の写真はスタンフォードの"イーストハウス"というアジア文化センターで教えるともゑを報じた新聞記事。「Tomoe Tana: 学生の身でありながら、教える事多く」の見出しの元 これまでの波乱万丈の人生と、歌人としての功績とともに、「ウィークデーはフルタイムで受講と教授を続け、授業に欠席したのはたった一度だけ。毎(土)には、自宅で育てる花を山程抱えて、夫と同胞の墓参りを欠かさない。学生たちは、習字や琴、そして彼女の人生から、多くを学んでいる。  と紹介されています。一流教師であると同時に、幅広い教養と、彼女の人柄が、多くの人々を魅了したようで、これ以外にも、ともゑは地元の新聞にたびたび掲載されている。これらの学業と並行して、短歌活動と、亡夫、田名大正の「敵国人抑留所日記」の丁寧な編纂作業と自費出版を10年間続けているわけですから、彼女のパワーの凄さは、想像もつきません!

 <学問の理由>

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 ともゑは学業も、自己満足の教養では終わらせなかった。じっくり急がず、6年かけて"フットヒル・カレッジ"を卒業、1979年には、正真正銘の名門校、サンノゼ州立大学に入学し、'82年に学士号を取得した。その頃には、ともゑの英語力は、多くの人々を前に感動的なスピーチが出来るほどになっていました。

 彼女は、LAの国際的スピーチ団体で、日系一世、69才の学士として、「父の日の輝く贈り物」という講演を行っている。

 いったい何故、この年になって学士号を取ったのか?このスピーチで、ともゑは3つの理由を挙げた。

 1. アメリカ市民である子どもたちに付き従うため。
 2. アメリカで幸福な人生を送るために、他の人々と同じ立ち位置に付きたかった。

 3. 最大の理由は19才のときに亡くなった父(享年52才)の遺志に報いるため。
  「私の父は、幼い頃病弱で、小学校5年生までしか学校に通えませんでした。中学に復学できた時、弟と同じクラスで授業を受けるのが苦痛で、学校に行かず、寺に入り学問を受けたのです。出家後は、開拓時代の北海道に赴き人々に尽くし、名僧と呼ばれるほどになりました。父には、国作りには、何よりもまず若者の教育が必要!という信念がありました。私は9人兄妹ですが、父は、さらに10人以上の恵まれない子どもたちを引き取り養育し、実技や高等教育を受けさせました。子どもたちの中には、日本やドイツで大学教授と成った者、医師となった者も居ます。それでも、父は高等教育を受けられなかったことを終生悔いていました。
 このたび私が頂いた学位は、亡父への『父の日の贈り物』です。」

  ともゑは、別のインタビューで英語習得の目標について、さらに語っている。

  「亡夫は、日記と法話の本を三冊遺しました。私は夫の哲学を子や孫に伝えたい!日系の若い世代は、どんどん日本語を話さなくなっています。私がこれらの本を英訳しなければ、夫の遺産は失われてしまいますから・・・」

 

<アメリカ発:日系短歌史>

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  卒業後、さらに上を目指し、迷わずサンノゼ大学院史学部に進んだともゑは、米国の短歌発展史という前人未到のテーマに取り組んだ。2年後、「The History of Japanese Tanka Poetry in America (アメリカに於ける日系短歌史) 」と題する論文('85)で、修士号を授与されます。

tomoe_autograph.JPG 借り物ではない筆者自身の英語で書かれたこの論文はネット上でも読むことができます。私は幸運にもアキラさんから紺色の革で丁寧に装丁された元本をお借りしました。(左は本の内側に書かれていたサインです。) 私も時たま文学系の学術論文を読ませてもらう機会があるのですが、ともゑの著作は「修士論文」のレベルを遥かに超越しています。

 「短歌」に馴染のない読者が明瞭に理解できるように、日本書記に遡る短歌の起源や、米国でより知名度の高い「俳句」と比較し、「短歌」という詩形式を定義付けた上で、米国、南米、カナダを網羅した短歌史を明瞭に述べている。

 この論文を読んで、ジャズや短歌、スポーツ、何事でも、それがどんなものか知るには、その分野の名手で愛情と知識のある人に訊くのが一番だという事を改めて実感しました。日頃、三十一文字に全く無縁で無学な私も、この論文を読んで、「短歌」をもっと知りたくなりました。

 本論中、とても興味を惹かれたのは、米国に於ける短歌運動のパイオニアが泊良彦(とまり よしひこ)という植木屋さんだったというところ。泊は50年間、庭師として労働する傍ら、戦前から短歌会を主宰して、この詩芸術を大いに広めた。彼の非凡なところは、自分の派閥にこだわらず、他の短歌サークルからも広く秀作を集めて歌集を編纂したこと。収容所時代、自らガリ版で短歌を印刷、他の収容所にも回覧し、短歌運動を展開、先の見えない苦難の日々の中で、短歌は多くの日系人、日本人の心の拠り所となっていったというのです。そして、この時代が分岐点となり、日系人短歌の芸術性が飛躍的に向上したことを、ともゑは、様々な実例を挙げて論証していきます。「受難の時代が、芸術の開花を促す」というのはジャズの歴史と共通していて、ともゑの論文にすごく共感しました。

 論文には、ルシール・ニクソンなど、非日系アメリカ人の短歌運動史や、研究者でなくても、興味をそそるアペンディクスもたっぷり!活動範囲が広すぎて、今だ実態が掴めない伝説の文芸評論家、木村穀が企画した日系人短歌集、日米の新聞雑誌に掲載されたものの、本としては未出版の「在米同房百人一首」を、一挙日本語と英訳を合わせて付録にしている。そこには、短歌翻訳に関する留意事項もあり、翻訳者としても見逃せないコンテンツ満載の論文でした。

 ともゑはこの論文を亡き親友、ルシール・ニクソンに捧げ、結論で「短歌を詠む」という行為について、ジャズの即興演奏に通ずる見解を述べている。

 「短歌創作は決して特別な作業ではない。短歌はその人の人生であり、感じたこと、思うこと、それらが短歌として日常的に湧き上がるものである。(デューク・エリントンだ!)・・・短歌創作は、人間の隠れた一面であり、日々の仕事と離れた余暇の世界、短歌にはそれぞれの平安と喜びが表現されている。
 私は短歌が、それぞれの人の、様々な心の模様を表現するかたちであることを、このアメリカの、内に秘めた詩心が花開かずにいる未知なる人たちに知らせたい。この研究が、全人種の未知なる詩人たちにとって、真の美しい人生を送る一助になることを、そして日系人短歌活動が、アメリカの未知なる詩人たちに受容されることを祈る。」

 前人の研究や参考文献はほぼ皆無、ゼロから論拠と考察を行って自説を構築した短歌論、一体、ともゑはどれほどの努力と時間を費やしたのだろう?出来上がったアメリカの日系短歌史は、あくまで清明な筆致で、気負いや自己陶酔の痕跡は一切見つからない。でも、クリスタルで論理的な考察の行間には、短歌に貢献した亡き同胞や親友への愛が溢れていた。私は学術論文を読んで初めて泣きました。 

 この素晴らしい論文から6年後、1991年4月、ともゑは77才で、最愛の夫の元へ旅立ちました。

 ともゑの死後、遺族と友人は、ともゑの母校、"フットヒル・カレッジ"に「Tomoe and Daisho Tana Scholarship」という奨学金制度を設立。日米の相互理解の促進を目指す学生たちを支援しています。

 田名大正、ともゑの歩んだ稀有な人生、私も、このパーフェクト・カップルが差し出したバトンを受け取るために、これからも二人の歴史を調べていきたいと思っています。 ともゑさんのように、あせらず、ゆっくりと。

(この章了)

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