2015年12月27日

コールマン・ホーキンスの肖像(2)

977.jpg  <生い立ち>

 

  ホーキンスは1904年、あるいはそれより数年前、ミズーリ州セント・ジョセフに、コーデリア・コールマンとウィル・ホーキンスの第二子として生れた。(第一子は女児で生後まもなく死亡。)「両親がヨーロッパでヴァカンスを過ごし、帰りの船の中で自分が生れた。」という話を、数々のインタビューで喜々として語っている。彼は人をかつぐ名人であり、伝説を作る名人でもあった。

 実のところ、彼の父親は電気工事の作業員であった。父は1920年代に事故死しているが、母親は学校教師で95歳まで長生きした。(祖母も104歳の長寿であった。) ホーキンスは5歳でピアノを始め、その後チェロを数年間学ぶ。テナー・サックスを与えられたのは9歳、13歳になると、もう心身ともに十分成長したことを確信した両親は、息子をシカゴへと送りだした。彼はこの大都会で、友人と同居し、高校に通った。

lg-louis-armstrong-and-king-oliver.jpg左:ルイ・アームストロング、右:キング・オリヴァー

 シカゴでは、キング・オリヴァー(tp)やルイ・アームストロング(tp)、ジミー・ヌーン(cl)を聴くことになる。高校卒業後、トペカ(カンザス州)のウォッシュバーン・カレッジに入学したと言うが、証拠はない。ホーキンスは、1921年にカンザス・シティの《12丁目劇場》に出演、そこでブルース歌手、マミー・スミスに見出される。彼女の伴奏者は、エリントン楽団のトランペット奏者、ババ・マイリーや、名マルチリード奏者、ガーヴィン・ブシェルなど、錚々たる顔ぶれであった。

 ブシェルはジャズ・ジャーナリスト、ナット・ヘントフのインタビューで、「12丁目劇場》に出演していた時にコールマン・ホーキンスと初めて出会った。」と証言している。

 ガーヴィン・ブシェル:オーケストラボックスにサックスを加えようってことになってね。だが、ホーキンスは、加入したサックスプレイヤーより、ずっと上だった。確かCメロディのサックスを吹いていたと思う。いずれにせよ、彼はまだほんの15歳くらいだった。我々が彼を巡業に連れて行く許可をもらおうと、セント・ジョセフのお袋さんの家を訪ねたら、こう言われたよ。

 『だめだめ!あの子はまだ、ほんの赤ん坊です。まだ15歳なんですからね!』

 若い頃から、途方も無い実力があった。ミス・ノートは全くなく、完璧な読譜力があった。あれから37年、。私しゃ彼が一音でもミスするのを、いまだかつて聞いた事がないよ。昔、サックスという楽器は、トランペットやクラリネットと同じような感覚で吹いていたもんだが、彼はそうじゃなかった。すでに、コード進行に添って吹くことも出来た。きっと、子供の時にピアノを習得していたからだ。」

fletcher_henderson_hawk.jpg 1922年、ホーキンスは、"メイミー・スミスのジャズ・ハウンズ"に入団、翌1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(左写真)に移籍、以後11年間在籍した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団(パワフルでありながら、好不調の波があり、楽団としての鍛錬は欠けていた。)は、1930年代の殆ど全てのスイングバンドの手本であった。そして、この楽団は、当代一流のジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(tp)、レックス・スチュワート(tp)、ロイ・エルドリッジ(tp)、ジョー・トーマス(tp)、ジミー・ハリソン(tb)、ベニー・モートン(tb)、J.C.ヒギンボサム(tb)ディッキー・ウエルズ(tb)、ケグ・ジョンソン(tb)、ベニー・カーター(as.tp)、ベン・ウェブスター(ts)、チュー・ベリー(ts)、ジョン・カービー(bs,tuba)、ウォルター・ジョンソン(ds)、シドニー・カットレット(ds)達を輩出した最高の学校でもあった。

<合理主義>

rex_stewart1.jpg 楽団の盟友、名トランペッター、レックス・スチュワートは著書『30年代のジャズの巨匠達』で、ホーキンスのことを回想している。

 「公演地に着くと、楽団のお決まりのメンバーで、こぞって街を見物することになっていた。とある町で、たまたまコールマンとデパートを見物に行ったことがある。すると彼は化粧品売り場で、大変高価な石鹸を半ダースも買った。ホークは『バーゲンで得だから、1年分の石鹸を買いだめした。』とのたまった。たった6個の石鹸だけで、どうやって1年持たせるのか?私はあきれ返った。ところが翌朝、ホテルの部屋でわけが判った。まず2枚の飾りの付いたきれいなタオルが出てくる。一枚は高級石鹸用、もう一枚は普通の石鹸用だった。この2枚はきっちりと区別してある。化粧用石鹸は1番タオルの隅に上品にこすりすけて、彼の顔や目の周りだけを洗うことになっていた。もう一方のタオルは、普通の石鹸を泡立てて、体を洗うことになっていた。」

 スチュワートは更に続ける。

 「Mr.サクソフォンのもう一つの顔は、倹約家の顔だ。だからと言って、ホークは決してしみったれた男ではない。用心深い人間だったのだ。彼が銀行預金への不信感を克服するまでは、常時$2,000、$3,000の現金をポケットに入れて歩きまわっていた!ある時は、夏のツアーの間に稼いだギャラを全部持ち歩いた。およそ$9000の大金だ。ある時、何かの事情で、ツアーの途中でギャラをもらえず立ち往生したたことがあったが、彼はポケットの中に蓄えた札束を見せて笑っていた。だが、例え自由の女神が、真昼のブルックリン・ブリッジで、ツイストを見せてあげると言ったとしても、彼は、25セント玉一枚すら浪費したことはなかった。」

 <花のヨーロッパ>

hawk_in_ch.jpg1937、於スイス、 Photograph by André Berner

 1934年、バンドリーダー、経営者であるフレッチャー・ヘンダーソンの無気力ぶりに辟易したホーキンスは、ヨーロッパの上流生活の噂に魅力を覚え、英国のバンドリーダー、ジャック・ヒルトンに電報を打った、すると、早速仕事のオファーが来た。楽団から6ヶ月の休暇をもらい渡欧したホーキンスは、結局5年間ヨーロッパに滞在する。恐らく、この時期がホーキンスの人生で最高の時期であった。

 彼は、ヨーロッパに初めて上陸した名ソロイストの一人として、行く先々で貴族の様に厚遇された。イングランド、ウエールズを旅した後、ヨーロッパ本土に腰を落ち着け、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、フランスと各国で演奏活動を行った。同時に、英国、オランダ、フランス、ベルギーのミュージシャンと録音を行った。現地の共演者の中にはジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリが、アメリカ人には、ベニー・カーター(as, tp その他編何でも)、トミー・ベンフォード(ds)、アーサー・ブリッグス(tp)がいた。

11576.jpg クリス・ゴダード著『ジャズ・アウェイ・ホーム』で、ブリッグスが見たホーキンスのパリ生活が紹介されている。

 「彼は本当に素晴らしい人だった。あれほどアルコールを大量に飲める人間がいる事も信じ難いが、あれほど飲んでもほとんど酔わないというのも、同じほど信じ難いことだった。・・・彼は毎日ブランデーを一瓶空にしていた。・・・よく昼下がりのダンスパーティにゲストとしてフィーチャーされたが、3曲ほど演って、あとはバカラ部屋でくつろぐのが彼の常だった。といっても賭け事はしない。バーでひたすら飲んでいた。私が演奏してくれるよう使いを遣ると、彼はすぐに帰ってきた。練習をしているのは見た事がない。・・・とにかく無口で、抜群に趣味が良かった。一足のソックスに大枚$20使っていたのを見たこともある。美しいシャツやシルクの小物に目がなく、王子のようにお洒落な格好をしていた。彼にとってヨーロッパは安息の土地だったのではなかろうか。」(つづく)0cce7dc63531437cbe816d5dc8e934f5.jpg

 

2015年12月20日

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

American_Musicians2.jpg

 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

lester_hawk.jpg

 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、"コード・チェンジ"というハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。'50年代に"リヴァーサイド・レコード"で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書"The World of Swing"でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

2015年12月17日

トリビュート・コンサートの模様がCDになりました。

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 先日の第27回トリビュート・コンサートに沢山の応援、誠にありがとうございました。

コンサートの模様がCDになりました。

ご希望の方は当店まで。

 プログラムはこちら。

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/12/27tommy-flanagan-tribute.html

2015年12月 3日

第27回Tommy Flanagan Tribute

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 第27回トミー・フラナガン追悼、トリビュート・コンサート、色んな土地からFlanagania同志大集合!ここ数年で一番の盛況になりました。80代から中学生までの皆さんが、フラナガンの往年の名演目を全力で演奏する寺井尚之、宮本在浩、菅一平のThe MainstemTrioを強力バックアップして下さいました。

 終演後は「トリオのバランスが良かった!」「楽しかった!気分がすっきりした!」「きれいだ~」「神業!」って嬉しいお言葉を!また、お供えや差し入れもありがとうございました。

 一方、私は、新しいエプロン持ってくるのも忘れ、ずるずるのエプロンで必死のパッチ、写真一枚撮る余裕もなく、キッチンであたふた、じっくり演奏を聴く余裕が全くなくて、The Mainstemの3人のバランスが完璧に、ふくよかに響いていることだけしかわかりませんでした。CDができたらゆっくり聴こうと思っています。

 この日は、沢山の方々のおかげで、自分たちが今ここに存在しているということを、このコンサートが一層深く実感させてくれました。

 応援してくださった皆様に感謝あるのみです。

 演目の曲説は後日HPにUPしますので、またご一読いただければと思います。

 ほんとうにありがとうございました。

=演奏曲目=

<1st Set>

1. Beats Up (Tommy Flanagan)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

3. Epistrophy (Thelonious Monk)

4. Embraceable You (George Gershwin)- Quasimodo (Charlie Parker)

5. If You Could See Me Now (Tadd Dameron)

6. Rachel's Rondo (Tommy Flanagan)

7. Dalarna (Tommy Flanagan)

8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie)

<2nd Set>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

2. Smooth As the Wind (Tadd Dameron)

3. Thelonica- Minor Mishap (Tommy Flanagan)

4. Mean Streets (Tommy Flanagan)

5. I Cover the Waterfront (Johnny Green)

6. Eclypso (Tommy Flanagan)

7. Easy Living (Ralph Ranger)

8. Our Delight (Tadd Dameron)

 

<Encore>

1. With Malice Towards None (Tom McIntosh)

2. Ellingtonia
  Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)
  Passion Flower (Billy Strayhorn)
  Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)