2015年12月20日

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

American_Musicians2.jpg

 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

lester_hawk.jpg

 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、"コード・チェンジ"というハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。'50年代に"リヴァーサイド・レコード"で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書"The World of Swing"でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://jazzclub-overseas.com/cgi-bin/mt/torakkubakku.cgi/1624

コメント(2)

Tamae さん、ご無沙汰しております。

コメントも入れず失礼しておりますが、素敵なジャズ紹介をいつも楽しみにしておりますし、対訳ノートは勉強になります。毎週あることないこと書き綴っている拙ブログも今年の最終を迎えました。今回、「クレオパトラの夢」を話題にするにあたり、2011年2月10日の「クレオパトラの夢:Keyのおはなし」を参考にさせていただきました。深いですね。ありがとうございました。

それでは、良いお年を!
そして楽しい Jazz Life を!

dukeさま、辺鄙な私のページにお心のこもったコメントありがとうございました。
 人気ブログ、アドリブ帖の本年最終エントリーに「クレオパトラの夢」をご紹介いただきとても光栄です。

 来年も楽しいジャズのお話を楽しみにしています。

 どうぞ良いお年をお迎えください!
 今年もありがとうございました。

 

コメントする