2018年4月 6日

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(前編)

 我らがヒーロー、興味の尽きないアーティストであり一人の人間、アキラ・タナが、今月後半から単身来日。5月3日にはOverSeasに待望の来演を果たします。

 "Interlude"ブログ復帰初投稿は、英国のメジャー・ジャズ雑誌"ジャズ・ジャーナル"誌の1月号に掲載されたアキラ・タナのカバー・インタビューの日本語訳です。

 世界のどこに行ってもアキラさんは尊敬され好かれるんだ!という印象を新たにした読み応えのある内容でした。

 来日前にアキラさんのジャズ・ライフを覗いた後は、ぜひOverSeasにも聴きにきてください!

 長文なので、まず前編から:

OFC_0118JJ coverlink.jpg


 

akira_tana_2016.jpg好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana 

1970-80s-ズート・シムス、ソニー・スティット、ジェームズ・ムーディはじめ、スイングからバップの激動期を生き抜いたベテランの巨匠と幅広く活躍したドラマー、アキラ・タナの素顔にランディ・スミスが迫る。

 

ソニー・ロリンズとの共演について:
「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ...だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。...礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っている。」-この賛辞の言葉は、当時89才のジミー・ヒースが、"ヒース・ブラザース"時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

 また、ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(87才)も、同様の質問に対して、以下のように明言する。「アキラは滅茶苦茶すごいドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」

 

 これらの発言から、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由が、お分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは"タナリード"を結成し、'90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。 

otonowafrontcover_227.jpg 近年のアキラ・タナの活動として"音の輪(Otonowa)"というグループがある。"Otonowa"は日本語で "sound circle"という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。"音の輪"は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。

 だが、アキラ・タナは、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。

 インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日本人移民である両親の影響について尋ねてみた。

 

アキラ・タナ「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、"芸術"という意味では、多分母の影響があったのだろう。」

 

アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始めて、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。

 

「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」

 

'70年代初め、ボストンのハーヴァード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧め、アキラは彼の言葉に従い、1年半の間、ドーソンの元でしっかりと研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、後進の指導と自分自身が演奏に活用し続けている。

1974年、ハーヴァード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽大学に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかりと見に付けた。それと同時に、出来る限りギグに勤しんだ。

combatzone1.jpg「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをこなした。ボストンの"コンバット・ゾーン"(ボストンの赤線地帯)と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたからね。」

 

  '70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を結んだことがきっかけで、単発で、ジャズの名手たちとの共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズが居た。

タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)が(引き受けていたのに)都合の悪くなったギグは、それがどんな仕事であっても、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

 他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティットとの1週間に渡るギグは特に思い出が深い。

sonnystitt.jpg 「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスは、ソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度か僕とジェームズの方へ振り返って、どなりつけたんだ。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だね。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイしたんだ。」

 

アキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。(続く)

39thlogo.jpg39周年記念ライヴ5/3-5/5開催

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://jazzclub-overseas.com/cgi-bin/mt/torakkubakku.cgi/2004

コメントする