2018年8月15日

名コンビ=フラナガン+ムラーツを育んだ《ブラッドレイズ》と太平洋戦争のこと(2)

Bradley's76108239408492687_n.jpg= 余りにもNY的な= 

(上のイラストはJohn Carey作)

 その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドレイズ》の全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドレイ・カニングハムが病に倒れる'80年代後期と言われていて、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル/ジョージ・ムラーツ、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、ほぼ生音で、毎夜音楽の会話を繰り広げており、深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の門前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、オーナーだったブラッドレイ・カニングハムの好みだったのかもしれない。 

   ブラッドレイは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。その当時をブラッドレイは「人生で最高のひととき」と語っている。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=テニアン→オキナワ→ナガサキ= 

 ブラッドレイ・カニングハムは、1925年生まれ、日本で言えば大正15年、戦争中、学徒動員で明け暮れた私の両親より少し上の世代です。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられました。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、唐突な別離を宣告された。彼は、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次338125_275226442515015_1056041608_o.jpg大戦が始まっていた。1943年、ブラッドレイは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というよりも、徴兵されて陸軍に行かされるよりもましという選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイを経て、日米の激戦地として有名なマリアナ諸島のテニアン島へ...そこで彼は、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドレイは上層部の指令により、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。日本陸軍が英語教育を撤廃していた頃、アメリカは日本語を理解し、敵を研究しようとしていたんですね。研修が終わった1945年4月、沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない...捕虜尋問の際、ブラッドレイが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵には「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

008.jpg 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドレイは長崎に上陸しています。ブラッドレイは、名ライター、ホイットニー・バリエットのインタビューで戦争体験をかなり仔細に語っている。でも、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉が少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドレイは除隊を決意し、翌1946年に帰国-大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのかも知れない。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

  

 ブラッドレイは、NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃になると、「日本という国と日本人が大好きになっていた。」と語っている。彼は《ブラッドレイズ》を訪れた日本人客に日本語で話しかけて、驚かせることも多かったと言います。

 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドレイ・カニングハム、彼がデュオを愛したのは、傷だらけの心を癒やしてくれたからではなかったのかな?

「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかったんだ。

私もこの業界で長らくやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせていたよ。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」-ブラッドレイ・カニングハム

参考文献:

The New Yorker, February 24, 1986

The New Torker, October 11, 1982

BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)

The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)

The Bradley's Hang (Ted Panken)

Bradley's (David Hadju)

 ー終戦の日に-

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