2019年11月 8日

連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その2)

=戦友=

PepperKorea.jpg     (左端:ペッパー・アダムス '50-52 韓国or 日本の墓地にて)

 モーターシティとして活況を呈するデトロイト・ジャズ・シーンは、NYからツアー・サーキットで巡演してくる超一流バンドのリーダーたちにとって、人材とアイディアの宝庫だった。アレサ・フランクリンや後のモータウン・サウンドに象徴される黒人のソウルフルな感性と、ナチスから逃れてきたトップクラスの音楽家がもたらした高度な西洋音楽理論、加えてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのビバップ革命の信条に啓発を受けた黒人ミュージシャン達は、NYジャズと一線を画す、非常に洗練されたジャズのスタイルを確立していきます。それがサド・ジョーンズを中核に開花したデトロイト・ハードバップです。(左下写真:サド・ジョーンズとペッパー・アダムス)その後NYに進出したアダムスが、'60年代終盤から'70年代後半まで、サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.の花形ソロイストとして大いに人気を博したのも偶然ではないのです。

thad_f_0bc763.jpg しかし、前途洋々たるモーターシティの若手ミュージシャンの躍進の壁となったのが、激化の一方を辿る朝鮮戦争でした。1951年にはトミー・フラナガン、フランク・フォスター(ts)が、翌52年にはペッパー・アダムスにも召集令状が届きます。彼らジャズ・エリート達は24ヶ月間兵役に付き、軍楽隊や前線の慰問団、そして北朝鮮の爆撃に抗する朝鮮半島の最前線で働きました。

 トミー・フラナガンは、この期間を「人生における地獄」と呼び、その中で、時にアダムスと遭遇できたことが、唯一の救いだったと語っています。

 フラナガンの証言:「ペッパーは、一足先に(ミズーリの基地で)数週間の基礎演習を終えていた。彼は、私がホヤホヤの新兵として訓練中だと知り、私が野営地に向かって行進していると、ペッパーが隊列の中の僕を目がけて走ってきた。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込んた。 『きっと役に立つよ!』と言ってね...」


Koreaf_0bc74c.jpg  ペッパーは軍楽隊での演奏と、耳が良いことから、敵機襲来の爆音をいち早く感知して本部に伝えるという最前線の諜報活動も行った。軍隊時代、ペッパーは占領下の東京にも寄港し、アーニー・パイル・シアター(旧:宝塚大劇場が進駐軍に接収され改名、日本人の入場は禁止されていた。)でも演奏している。サド・ジョーンズ+メル・ルイスOrch.より先に来日していたわけですね。(左写真:朝鮮半島38度線北側をツアーしたアダムス加入慰問団のルート。)

 丸2年の従軍期間を経て、ペッパーはジャズシーンに復帰し、デトロイトで活動を再開。トミー・フラナガンが理想のジャズクラブと呼んだ《ブルーバード・イン》では、ビリー・ミッチェル(ts)の代役としてサド・ジョーンズやフラナガンと共演、ジョーンズやフラナガンが相次いでデトロイトを去った後は、バリー・ハリス(p)達とハウスバンドを組みました、

 デトロイトで、朝鮮半島で、そしてNYで...憧れや高揚感...様々な感動体験と、人に言えないほどの苦難を分かち合ったフラナガンとの友情は、アダムスの早すぎる死まで続きました。

 最晩年の'85年、ペッパー・アダムスは 最期のリーダー作『アダムス・イフェクト(Uptown』で、アダムスは朝鮮戦争の戦友であったトミー・フラナガン(p)、フランク・フォスター(ts)に参加を要請し、抗がん剤治療の合間を縫ってレコーディングに臨みます。(続く)

=参考文献=

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