2020年6月26日

Diana Flanagan追悼

  ご無沙汰しています!!

皆様お元気ですか? 

 Interlude も長いフェルマータ...そのうち、コロナ禍に見舞われて、OverSeasは4月の緊急事態宣言とともに2か月休業、6月からやっと営業再開し、何とか元気にしています。

 今回の騒動のおかげで、私たちがジャズを仕事にしていけるのは、皆様の応援のおかげなんだと一層実感することができました。そして、生のジャズを聴ける喜びも、これまで以上に大きくなりました。休業中にご支援いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。

diana_tommy_tamae_hisayuki_his_mom_stuff_of_overseas.jpg('84年初来店時のフラナガン夫妻と寺井尚之やOverSeasのスタッフたちと)

 コロナ禍の中で、トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンが訃報を知ることになりました。ダイアナはトミーが亡くなった後、NY郊外の老人ホームに入ってから数年間は、何度も電話で連絡を取っていたのですが、そのうち軽い認知症になり、いつのまにかホームを退所。そのあとは後見人役の弁護士も退任し、行方が分からなくなっていました。NYのミュージシャンやジャズ関係者、音楽評論家など、ダイアナと親交のあった方々を当たったのですが、居所を知る人はおらず、途方に暮れていた矢先に見つけた記事でした。

 トミー・フラナガンのマネージャーとして、欧米や日本のジャズ界と渡り合ったダイアナ、業界の評判は様々ですが、寺井尚之と私には本当によくしてもらい、数え切れない思い出をいただいた恩人です。

 Opera スナップショット_2020-06-26_183140_www.legacy.jpg

 ダイアナはトミーより一つ年上の1929年生まれ、上の死亡記事では「フィラデルフィア生まれ」となっているけれど、本人は西部の出身と言っていた。お父さんの仕事の都合で、トミーの両親の出身地であった南部各地を転々としながら育ったので、トミーと話が合ったんだと言っていた。アイオワの大学で音楽を勉強した後、NYコロンビア大学演劇科に入学、卒業後はブルネットの美人シンガーとしてクロード・ソーンヒルOrch.などで活動し、ジーン・クルーパ楽団のサックス奏者、エディ・ワッサーマンと最初の結婚をし、歌手を引退した後は教師としてNYの中学校で国語を教えていた。だから、私の英語が間違っていると、辛抱強く修正して、正しい発音と文法を教えてもらいました。

 エラ・フィッツジェラルドと同じキーで歌うのを自慢にしていたダイアナの歌曲の知識はミュージシャンも驚くほどで、どんな歌のヴァースも歌詞も記憶しているという評判でした。

 フラナガン夫妻がご機嫌なときは、まるでミュージカル!会話の最中にそれに因んだ歌が次々と出てきて一緒に歌うので、本当に楽しかった。或るときは、NYアッパー・ウエストサイドのアパートで、ダイアナが〈That Tired Routine Called Love〉(マット・デニスの作品でフラナガンの愛奏曲)を歌ってくれたことがある。もちろん伴奏はトミー・フラナガン(!) ダイアナはなかなか上手いシンガーだった。

 ダイアナがトミーが結婚したのは1976年、ちょうどトミーが、エラの許を離れ、一枚看板のピアニストとして独立しようという転換期とオーバーラップしている。

 =剛腕マネージャー=

tommt_diana93_o.jpg

(Tommy and Diana Flanagan ('93): 中平穂積氏の写真展にて、中平氏撮影)

 トミーの独立後、ダイアナは彼のマネージャーを務め公私ともにパートナーとなります。古巣のジャズ界に戻ったダイアナは寡黙なフラナガンに代わり、強気のディールで剛腕ぶりを発揮し、日本のプロモーターからは、エルヴィン・ジョーンズ、ジェリー・マリガンの奥さんたちと並ぶ「三大」として恐れられた。

 レコーディングでは『Jazz Poet』('89)から『Sunset and the Mocking Bird-The Birthday Concert』に至るフラナガンの円熟期のリーダー作全てにダイアナの名前がプロデューサーとしてクレジットされている。

 ダイアナの基本ポリシーは、「トミーをいい加減な輩から守る!」こと。-海千山千もジャンキーもヤクザもジャズ界には居る。そういうリスペクトのない人間からトミーを守ることだった。NYのジャズクラブに行った人ならご存じでしょうが、音楽を聴かずにおしゃべりばかりしているマナーのないお客もいる。トミーの演奏中にそんな人を見つけようものなら、ダイアナの鉄槌は容赦なく下された。

 私が一番印象に残っているのは、'80年代にフラナガンが《ヴィレッジ・ヴァンガード》に出演していた休憩時間、最前列に陣取っている私たちの後ろのテーブルに、おそらく日本人と思われるジーンズ姿の若い男性客がやってきた。フラナガン・トリオがバンドスタンドに登場すると、拍手もせずにあの小さな丸テーブルに土足を乗せてリラックスしている。やにわに振り向いたダイアナはそのお兄ちゃんをにらみつけ、まるでちゃぶ台のように、土足の乗ってる小さなテーブルをひっくり返したのだった。男性の姿は、次の瞬間には消えていた・・・

  一方で、ダイアナの押しの強さは、出しゃばり、身勝手とも受け取られ、時には軋轢を生んだ。彼女のごり押しのおかげで、フラナガンと袂を分かったミュージシャンもいるし、彼女さえいなければ、フラナガンはもっとビッグになれたのに・・・という関係者もいる。

  でも私は思う。トミーは敢えてダイアナを悪役に仕立て、それを盾に自分の我を通したのではないだろうかと・・・表向き、尻に敷かれているふりをしながら、周りに業界人がいないときには、昭和の日本人と変わらない亭主関白のトミーの素顔を見せてくれたことがあるからだ。

 少なくとも、ダイアナなしには、フラナガンのサド・ジョーンズ集『Let's』や『Jazz Poet』といった円熟期の名盤群は生まれなかっただろう。

  ダイアナは世界一のトミー・フラナガン・ファンを自認してはばからなかったが、寺井尚之には一目も二目も置いていた。未発表ソロと称してストリーヴィルからリリースされた音源がフラナガン以外のピアニストのものと見破ったのも、この二人だ。

 音楽だけでなく、詩や文学にも造詣深いインテリ、リベラルな超駄々っ子、あれほどエモーショナルな人は、彼女の旦那さんを別にすれば他に知らない。ダイアナと知り合えて、色々語り合えたことは、私たちの人生の財産です。

diana3915162301_630cf959e4_o.jpg

 ダイアナ・フラナガン、本当にいろいろお世話になり、ありがとうございました。

心よりご冥福をお祈りします。