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2008年11月14日

ベルリン発 ジョージ・ムラーツ情報、大人のジャズファンの為の絵本情報など…

<トリビュート前、ピアノも絶好調>
 トリビュート・コンサートが来週に近づき、路地裏は何となく慌しい雰囲気,
でもピアノは、いつもに増して高らかにサウンドしています。トリビュートに備えて寺井尚之が寸暇を惜しんで稽古しているせいで、ヒット・ポイントと呼ばれる鍵盤のツボをずーっと刺激しているから、ピアノのアドレナリンが増幅されているのだろうか?? 不思議な現象です。

 遠方でトリビュート・コンサートにお越しになれないフラナガン・ファンの皆さん、沢山激励メッセージなど頂戴し、ありがとうございます! お店のフラナガンの写真に向いながら逐一報告していますよ!コンサートは、まだ少しだけ席がありますので、お早めにどうぞ!


bonne_femme-2.JPG 摩周湖から贈られた極上ポテトのお供えは、特別メニューに変身!
ジャック・フロストさま、ありがとうございました。


<ジョージ・ムラーツ情報>
george_mraz_europe.jpg  ベルリンジャズ祭HPより
 
 我らのアニキ、ジョージ・ムラーツはヨーロッパ楽旅もとうとう終盤、ベルリンから'70年代にムラーツと盛んに共演したウォルター・ノリス(p)先生から、ムラーツ情報が届きました。

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「…君たちが教えてくれたとおり、ムラーツは、リシャール・ガリアーノ・カルテットで演奏しました。ゴンザロ・ルバルカバ(p)、クラレンス・ペン(ds) ベルリン・ジャズ祭で、彼らの奏でる一音一音全てがビューティフルだった。
 コンサートが終わってから、妻のクリステンと一緒にホテルでムラーツとゆっくり会ってOverSeasの君たちの噂で盛り上がったよ。そして、1973年の共演時代の思い出、私たちが共有した、沢山の音楽的瞬間のことを語り合いました。
ああ、人生は一度じゃあ足りないね!・・・OverSeasの皆によろしく伝えてください!」

ノリス-ムラーツ・コンビのDrifting('73 Enja)や、Hues of Blues (Concord '95)は研ぎ澄まされたナイフのようなインタープレイが「妖艶」とでも言えばいいのか…しっぽり魅了されてしまいます。
 hues_of_blues.jpg  drifting.jpg

<パノニカ夫人に夢中!>

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 不景気なのに物価高、まるでエラ・フィッツジェラルドの『ノーバディズ・ビジネス』のような昨今ですが、円高をいいことに、この秋、やっと英語版で出版されたパノニカ夫人の写真集、『Three Wishes: An Intimate Look at Jazz Greats』を買いました。オリジナルは昨年出た仏語版、でも当時はユーロ高、おまけに仏語はムズカシイと躊躇していたけど、今回はペーパーバックス、紀伊国屋のサイトで1,900円弱とお買い得!届くのに数週間かかりましたが、買ってよかった!大人のジャズ・ファンのための、楽しく切ない絵本です。

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 この本は、ニカ夫人が遺した多数のスナップ写真と、親しいミュージシャンに投げかけた問いかけ:『あなたの3つの願いは?』に対する沢山の『答え』の草稿を、上手にデザインして仕上げた極上の「大人の絵本」です。

 ジャズメンたちをこよなく愛したパノニカだからこそ撮れた、様々なジャズメンの屈託のない表情が最高!「奇人」として知られるセロニアス・モンクが、尊敬するコールマン・ホーキンスの傍らで見せる検挙な表情や、トミー・フラナガンがニカの飼い猫に見せる笑顔など、商業写真では絶対に拝めない「素顔」のショットばかりです。

flanaganatnica.JPG

 「3つの願い」を告白したジャズメンの顔ぶれは、ジャズの聖人、サムライたちがずらり!冒頭のセロニアス・モンクから、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、AT、ジミー・ヒース、ディック・カッツ、スティット、ロリンス、Aブレイキーetc...勿論トミー・フラナガンも!!ジャズの巨人達の『お答え』には、その人の人生が見え隠れして、楽しかったり切なかったり。


  本文に負けないほど感銘を受けたのは「序文」! それは、アーティストであるナディーヌ・ケーニグスウォーターが、大叔母さんへの愛情をこめ、近親者のみ知る事実を交えながら書いた簡潔なパノニカの伝記。私たちも生前のパノニカ夫人を観たことがあるし、色んなミュージシャンから彼女の噂を聞いたことがあります。そこから感じるパノニカのイメージは、「タニマチ」とか「男爵夫人」とかいう枠を越えた人だった。だから、モンクの代理妻とか、上品な男爵夫人とか、メディアが伝えるパノニカ像に、どうも釈然としないものを感じていたんです。
 ところが、今回の序文からは、20世紀のユダヤ上流階級の文化、汎ヨーロッパ的精神、父の悲劇的な死、ホロコースト、レジスタンス運動、アフリカ文化などなど…修羅場をくぐってきた高貴な女性の生き様を象徴するキーワードに満ちていて、リアリティ・ギャップが一気に解消された爽快さを味わいました。

 「エラ・フィッツジェラルドMontreux'77」の対訳の合間に作った抄訳は、近日掲載予定。
 
 明日は荒崎英一郎トリオ、新人ベーシストのプレイを聴くのが楽しみです。

CU!

2008年11月07日

トリビュート・コンサートの前に:トミー&ダイアナ・フラナガンのレア映像

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 民主党オバマさんが第44代合衆国大統領に! 日本のTVなのに開票速報が順次報道され「ここはどこの国?」と思うくらいアメリカの選挙一色、直後に届いたNYタイムス速報メールの見出しが印象的でした。
Obama Elected President as Racial Barrier Falls
「人種の壁崩壊、オバマ、大統領に!」

  トミー・フラナガン未亡人ダイアナは、根っからのリベラル、民主党支持者…米国のジャズ界で共和党支持の人を私は知らない。さぞ浮かれているだろうと思って電話してみたら、意外にも風邪をひいて大人しくしていた。

  ところで、ジャズ講座の資料準備で、Youtube検索していたら、思いがけずトミーとダイアナ・フラナガン夫妻、1972年の貴重な映像に遭遇!必要は発見の母? それともトミーの思し召しか??

  映画のタイトルは「Born to Swing:The Movie About the Alumni of the Count Basie Band of 1943」
 Born to Swingは、日本語なら『生まれながらのスイング野郎たち』という感じでしょうか? 『1943年のカウント・ベイシー楽団員の現在』という副題がついている。'73年作品、英国のTV用ドキュメンタリー映画で、ヴィデオでも販売されていたようなのですが、現在は入手不可。

  ダイアナに聞いたら、「そうそう!エキストラでセッションに行ったけど、出来たフィルムは全く観たことがない。」らしい。撮影は、二人が結婚したしばらく後の'72年、トミーはNY滞在中で番組に参加したそうで、ダイアナが映っている唯一の動画だと言っていた。

  ラッキーなことにYoutubeに、番組を11のパーツに分割しアップロードしてくれた親切な人がいた!ありがとう!!

 勿論、番組には字幕がないし、残念なことには、ストーリーと直接無関係なトミー・フラナガンのソロがカットされている。だけど、ジョー・ジョーンズを初めとする巨匠達の神業がアンビリーバブル!それだけでなく、'70年代の文化に興味があれば、とっても面白いのでお暇なときに見てみてください。下の映像は、11に分けられたパーツのうちの<Part10>です。


詳しいパーソネル&サウンドトラックのデータは、imdbでなくアメリカ国会図書館にありました。

どんな内容かというと、スイングジャズの黄金期に活躍したカウント・ベイシーのメンバー達の'70年代の姿にスポットを当てた『あの人は今』風の番組。人間国宝級のアーティストにアメリカは優しくなかったということがよーく判ります。故にこの番組もUK製作でUSAじゃない。
   トランペット教室の講師が黒鉄ヒロシそっくりなジョー・ニューマン(tp)で、授業参観がバック・クレイトン(tp)だったり、ジョー・ジョーンズ(ds)の神業が拝めたり、テキサス・テナーの大御所、バディ・テイトの「ハーレム・ノクターン」が聴けたり、ジャズ講座や講座本に登場する偉人が沢山拝める。私は、深夜、一気に見てしまいました。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

★勿体無いので各パートをごく簡単に説明しておこう。

Part1 プロローグ、黄金期、1943年当時のベイシー楽団の映像。

Part2 カンザスシティ の巻き:ベイシー楽団のルーツ、カンザス・シティやダンス・ホールと結びついたスイング・ジャズについて、当時のもう一人の名バンマス、アンディ・カーク達が、ダンス音楽として発祥したスイング・ジャズの歴史を、当時の貴重映像と共に語る。

Part3: スイング時代の白人スタードラマー、ジーン・クルーパ(ds)と、ベイシー・サウンドに魅了され、彼らをスターダムにのし上げたプロデューサー、ジョン・ハモンドが、当時の状況をベイシー・サウンドに乗せて語る。最後のダンスシーンの関取みたいな人は、かの有名なブルース歌手、ジミー・ラッシングです。

Part4: 引き続き、ジョン・ハモンドが当時のベイシー楽団のメンバーが非常に読譜力があり、同時にアドリブの能力があったかを語り、'72年現在のメンバー達のリハーサルへとシーン・チェンジズ!最初のテナーが、バディ・テイト!左に座るアルトが、来月の講座に登場するアール・ウォーレン! メインストリーム誌(英ジャズ誌)の編集長、アルバート・マッカーシーは、スイング時代の名手が現在では、必ずしもアメリカで厚遇されていないと語る。凄いインパクトの赤シャツのベーシストはジーン・ラミー(b)。2:35あたりに、トミー・フラナガンのアップが!

Part 5 ディッキー・ウエルズ(tb)の巻 :英国では高い評価のミュート・トロンボーンの名手、ウエルズも今は、現在はハーレムの小さなアパート暮らし、なんとウォール街のメッセンジャー・ボーイとして生計を立てていた。なんちゅうこっちゃ…現在の日本の不景気な状況下では、配達の封筒にスタンプを押すウエルズの姿が一層身につまされる。

Part 6 バディ・テイトの巻: '72現在、現役として活動するテイトが、自分の一部のようなブルースや、奥さんとのなれそめなどを語る。ソロで吹くハーレム・ノクターンやトミー・フラナガン参加のリハーサル・シーンが最高、Bテイトの後ろでスイングしているのがダイアナ・フラナガンです。

Part7: トランペッター:バック・クレイトン&ジョー・ニューマンの巻 スイング時代に最高の美男とビリー・ホリディが絶賛した大スター、バック・クレイトン(tp)は体調を崩し引退を余儀なくされた。演奏できない辛さを酒で紛らわせたと語るクレイトン、そして、ジャズモービル(NYの夏のジャズ風物詩でした)のトランペット・セミナーで、演奏技術を後進に伝えるジョー・ニューマン先生の姿が!勉強になります。傍らで見守るクレイトンの表情は何とも言えないほど深い。

Part8 :圧巻!ジョー・ジョーンズ(ds)の巻き!!全モダン・ドラマーの祖父と呼ばれる、ジョー・ジョーンズ(ds)も現役だが、現在ドラムショップの共同経営者で、お客さんにインストラクターをしている。
 指導シーンも、Jニューマン、トミー・フラナガンとトリオでのLizaのプレイも、全てが圧倒的!!メインステムのドラマー、菅一平さんは、実家が経営していたすし屋の花板さんのイメージが重なったそうです。にこやかに接客しながら、注文を間違わずに、さっさとすしを握る仕事ぶりと似ていると、言っておられました。

 Part9:コンマス アール・ウォーレン(as)の巻   43年当時楽団のスターアルト奏者、アール・ウォーレンは、家族が病気になり収入を確保するため、現在はブロードウェイなど商業音楽の世界で暮らしているが、音楽への情熱は失ってはいない。リハ・シーンでコンサート・マスターの腕をいかんなく発揮。一流ビッグバンドのリハを観るチャンスはなかなかないので勉強になる!

 Part10:リユニオン・バンドの巻 レコーディング・セッションで往年のメンバー達が、今の自分たちのサウンドでスイングする。もちろんピアノはトミー・フラナガン!「Blues for J.Jones」 最高!壁際に座ってたダイアナに聞いたところでは、「あれは完全な即興よ、その場のヘッドアレンジだけでささっと演っちゃったの!」と言ってました。

<Part11>エピローグ

 このヴィデオは、龍谷大学の図書館にあるようなので、心ある龍大の方、どなたかコピーしてくださったらダイアナに送ってあげられるのですが・・・OverSeasは学割チャージ半額ですよ!
  とにかく今の私より若いダイアナやトミーの姿、叩き上げの名手達の姿を観て、とっても元気が出ました。

  土曜日はジャズ講座で、トミー・フラナガン3 at Montreux '77を皆で聴こう!北海道のジャック・フロスト・フラナガン氏が届けてくださった、おいしいジャガイモと地鶏で、おいしい料理を作ります。皆来てね!

CU

2008年10月30日

タッド・ダメロンについて話そう!(3)

<ドラッグ刑務所にて>
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   1958年4月、有罪判決を受けたタッド・ダメロンはケンタッキー州レキシントンにある連邦麻薬患者更正病院(The Federal Narcotics Hospital:通称 Narco)に入院した。

narcotics_farm.jpg   ナルコは、ドラッグ犯罪者の刑務所であると同時に、施設には牧場もあった。
 一般市民にも門戸を開放し、入院者が労働や娯楽活動を通じて、麻薬で失った自尊心や自信を回復できるプログラムを持つユニークなリハビリ施設だったが、治癒率は7パーセントと低く、隠密に麻薬の人体実験を行うなどの「影の仕事」が、閉院後にTVドキュメンタリーや左記の書物で明らかになっている。 

  '40年代、「レキシントンに行く」と言えば、この病院を指すほど麻薬中毒は多かった。アメリカでは、当時ドラッグはアスピリンと同じくらい簡単に入手できたからだ。おまけに、教育を受けられない有色人種の子供は、売人にとって格好の潜在的マーケットとして、ただで薬を配られ、麻薬に親しまされた、という経緯がある。チャーリー・パーカーは、芸術的恍惚感を得る為だけにドラッグ中毒になったのではないのです。

 ここにお世話になったジャズの巨人達は枚挙に暇がない、思いつくだけで、ロリンズ、エルヴィン、キャノンボール、チェット・ベイカー…加えてスティット、アモンズ、デクスター・ゴードンは、「所持」でなく麻薬売買の罪で服役した。当然、刑務所内にはジャズバンドがあり、ダメロンは入所後、すぐに指揮者となるのですが、すぐに辞めてしまう。理由は、一般入院患者がすぐに退院してしまうので、固定メンバーが少なく、バンドがまとまらないからだったそうです。そしてダメロンは一般労働につく。レキシントンでは麻薬所持だけで犯罪歴のない者は、病院外で就労することもできたんです。

<クロフォード家のコックは幸せ者>

 ダメロンが選んだのは意外にもコックの仕事(!) なんでも養父の経営するレストランの調理場で7歳の時から働いたというキャリアがあったらしい。施設の近所にあるクロフォードさんというお宅に通い、毎日料理を作った。地獄で仏、クロフォードさん一家は、タッドを音楽家と認め、家族のように親切にしてくれた。このお宅にはピアノがあり、ご飯の支度以外、タッドはピアノにずっと向かっていてよかった。彼がピアノを弾いたり作曲する様子を見ているのが、クロフォード家の人達は大好きだったのだそうです。
   「あのお宅で、生まれて初めて他人の親切というものを知った。」と、タッドは述懐している。出所後も、レコードを送ったり文通し、この一家と交際を続けた。普通ならシャバに戻れば、牢屋の記憶は消し去りたいはずでしょうから、ダメロンとこの家族の間には、よほど特別なつながりがあったのではないだろうか?

<レキシントンから吹く風は…>

smooth_as_the_wind.jpg

 もう少しで刑期が終わる頃、NYからダメロンに一通の手紙が届いた。それは、リヴァーサイド・レコードの重役、オリン・キープニュースからの仕事の依頼だった。
 ブルー・ミッチェル(tp)とストリングス、ブラスアンサンブルを組み合わせたアルバムの制作にあたり、ダメロンに編曲を依頼することに決定したのだ。NYからはるか彼方で服役中のダメロンに白羽の矢を立てた裏には、キープニュースと懇意であったダメロンの親友、フィリー・ジョー・ジョーンズの尽力があったのことは、容易に想像できます。

 ダメロンは、レキシントンから、アルバム中、2曲の書き下ろしオリジナルと5曲の編曲を提供。
 心にすがすがしさと平穏をもたらしてくれる名曲“Smooth As the Wind”は、服役中に書かれたものだったのだ。クロフォード一家の優しさに触れなければ、OverSeasで皆が大好きな、Smooth As the Windも、この間ジャズ講座で楽しんだA Blue Timeも生まれていなかったかも知れない。

  アルバムの出来について、自分が現場にいればもっと良いものになったろうと悔やんでいる。

  <浦島太郎>
  '61年 6月末、タッド・ダメロンは刑期を終えNYに帰還。しかし3年間の空白の後に観たNYのジャズシーンは「アヴァン・ギャルド」へと向かい、ダメロンには到底受け容れ難いものだった。
 
   タッド・ダメロンは出所後のジャズクラブの感想をこのように語っている。

 「何のフォーマットもないプレイに、僕はびっくり仰天した。…お客さんたちは、何に対する拍手なのかも判らず、やたらに拍手しているだけ、ミュージシャンたちは、ブロウするだけで「かたち」というものがまるでなかった…。」
  「僕は、人を煙に巻くために音楽を演っているんじゃない。自分の演っていることを、鑑賞してほしい。演奏の帰り道、僕の書いた音楽を口笛で吹いてくれればそれでいい。」

<癌と戦った晩年>
magic%20touch%20of%20tadd%20dameron.jpg  カヴァー写真は、床の上で譜面を書くダメロン:彼はフィリー・ジョー・ジョーンズと同居中、いつもこんな姿勢で楽譜を書き、ピアノに向かうのはサウンドを確認する時だけだったという。

 『Smooth As the Wind』に続きダメロンは、やっと自己名義の『The Magic Touch』を録音、3日間の録音を与えられ、スイングの風を送り込むドラムには最高の理解者フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)を据え、ダメロン・サウンドの切り札、トランペットにはブルー・ミッチェルやクラーク・テリーのトランペットを擁して、ソロ・オーダーまで、きめ細かく陣頭指揮した録音は、ダメロンにとって最も満足の行く仕上がりとなる。これがダメロン自身のラスト・レコーディングとなった。

five_spot.jpg Tadd_Dameron_late_years.jpg


 最後のライブ出演は1964年11月8日(日)の午後、場所はイーストヴィレッジのジャズクラブ、「ファイブ・スポット」で、ビバップ時代の仲間、バブズ・ゴンザレス(vo)主催:“ダメロン音楽の集い”と書物(Jazz Masters of the Forties/ Ira Gitler)に記載されているが、週刊誌NewYorkerのタウン情報を見ても、日曜は休業日となっていて、どこにも記載がない。 Ira Gitlerの本では、ダメロンは入院先から外出許可を取っての出演であったと書かれている。そうすれば、末期がんのダメロンを励まし、治療費をカンパを募るような内輪のイベントであったのかも知れない。

   翌65年、3月8日タッド・ダメロンは、イギリス人のミア夫人に看取られ、アップタウンのルーズベルト病院にて没。3日後の葬儀には、兄シーザーや母ルースがクリーブランドから駆けつけ、ビリー・テイラー(p)ロイ・ヘインズ(ds)など多くのジャズメンが参列した。牧師の説教はごく短時間で、葬儀の殆どが演奏で占められた。「ベニー・ゴルソン(ts)が、ダメロン作“The Squirrel”を演奏した。」とNYタイムズには記載されている。享年48歳だった。

mia_dameron.JPG'08 1月ASCAPの受賞式に出席したミア・ダメロン未亡人、右はジョン・クレイトン(b)


<ミュージシャンが魅了され続ける『美・バップ』>

 タッド・ダメロンは、ビバップの高度な理論を駆使し、独自の美的世界を完成させ、多くの音楽家に影響を与えた。
   作編曲だけでなく、ミュージシャン、特にトランペットの「使いどころ」を熟知していて、最高のソロオーダーを指示できた音楽監督であったと言います。また、「聴かせるツボ」を抑える為に、ソロイストに演奏表現を事細かく指導することで、ファッツ・ナバロ、クリフォード・ブラウン(tp)やサラ・ヴォーン(vo)の天才を開花させたのだと、フィリー・ジョー・ジョーンズやデクスター・ゴードン達、ミュージシャン達は語る。

  批評界には、「ビバップ期の作編曲家」としか格付けされなかったダメロン音楽を、再評価して再生させたのは、業界でなくミュージシャン達だ。
 '81年、フィリー・ジョー・ジョーンズは、エロイーズ夫人の尽力で、米国芸術基金を取得、ドン・シックラー(tp)の協力を得て、伝説的なバンド“ダメロニア”を結成、ダメロン音楽を蘇らせた。2枚のアルバムを発表後、各地で公演を行い、特にNYで大きな評価を得た。

 '88年に、リンカーン・センターで伝説的なコンサートが開催される。“The Music of Tadd Dameron”と銘打ったコンサートが、前半がトミー・フラナガン3+チャーリー・ラウズ(ts)後半がダメロニアで、全編タッド・ダメロンの名曲を聴かせ、スタンディング・オベーションの嵐となったのは今も語り草です。。
 寺井尚之にとっては、フラナガンにコンサートの最前列を取ってもらいながら渡米の日程が合わず、泣く泣く聴き逃した逸話がありますが、後にラジオで放送されました。

 mad_about_tadd.jpg  それ以外にも、'80年代はジミー・ヒース(ts)、アーサー・テイラー(ds)達のバンド、“コンティニアム”もダメロン集をリリースしています。

 と、いうわけで、2回続けてタッド・ダメロンの人生がどんなだったのか、少し書いてみました。スイングしていて美しい!ビバップというより“美・バップ”と呼びたいダメロンの名曲は、OverSeasの日常には欠かせない。11月22日のトリビュート・コンサートにも演奏されます。ぜひお楽しみください。

 
 

「この世は醜いものだらけ。私が惹かれるのは“美”だ。」
  
 「ホーンや歌手が“歌う”のに最も重要なのは“息遣い”だ。多くのミュージシャンがそれを忘れている。」

 「まずはスイングすること。そして美しくあること。」
 
 タッド・ダメロン

2008年10月24日

タッド・ダメロンについて話そう!(2)

dameron_tadd.jpgTadd Dameron 1917-1965


 このところ不景気なのに物価高、金融スパイラルで異様な円高…そうだ!今まで手の出なかった洋書の買い時だ!…しかし、先立つものが…
 ともあれ、今夜は、今までに貯め込んだビバップ資料から、タッド・ダメロンの紆余曲折の人生をちょっと眺めてみよう。今夜はその前編です。

<ミスキャスト?タッド・ダメロン>
 1962年、麻薬更正施設からNYにカムバックしたタッド・ダメロンは、ダウンビート誌のインタビューの冒頭に、「私は音楽界で、最もミスキャストの、合わない役柄ばかりこなしてきたミュージシャンだ。」と発言した。私はそれがダメロンのB級なイメージを増幅したのではないかと危惧します。天才に対するリスペクトも情もないビル・コスのまとめ方に、記事を読んだダメロンはきっと「こんなはずじゃなかった」と思ったに違いない。
 
 <独学の天才>
 タッド・ダメロンは、タドリー・ユーイング・ピーク(Tadley Ewing Peake)として、1917年(大正6年)に、アメリカ中西部の大都市、オハイオ州クリーブランドのピーク夫妻の次男として生まれた。今でもお元気なハンク・ジョーンズ(p)さんよりたった一つだけ年上です。

marylou_dameron.jpg  真ん中の眼鏡紳士がハンク・ジョーンズ、その左がタッド・ダメロン('40s)

 シーザー&タッド兄弟が幼い時、両親が離婚し、母親がアドルファス・ダメロンというクリーブランドのレストラン経営者と再婚したので、兄弟も養父のダメロン姓になりました。兄シーザー・ダメロンは、タッド同様、ピアニスト、編曲家、バンドリーダーに加え、サックス奏者として地元やシカゴで活躍、タッドがジャズの道に進んだのも、この兄さんの影響でした。


  ダメロン夫妻は、兄を音楽家、弟を医者にしようと考え、シーザーにはピアノを習わせサックスを買い与えましたが、タッドには「勉強しなさい」と自宅でピアノを弾くのを禁じたそうです。
「だめ」と言われると、子供は絶対したくなる…タッドは、母が留守をするとピアノの独習に励み、兄さんからはジャズの手ほどきを受けながら、音楽理論の書物を読み漁った。同時に映画が大好き!お好みは、ガーシュインが流れるフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの「美しい」ミュージカル映画、タッドは映画館に行くと鉄砲玉みたいで、母親が迎えに行くまで帰ってこない子供であった。

  タッド・ダメロンは、作編曲、ピアノ、ぜーんぶ独学だった。 そのため、ハイスクールの音楽理論の授業があまりにも「あほくさく」、サボリまくった結果「落第」するという皮肉な結果を招く。

 
 親の希望をよそに、兄と共にプロ活動、僅か16歳で、プロのバンドにアレンジを提供していたというのですから、音楽の授業に出ている暇がなかったのかも知れません。

<もう一人の天才、フレディ・ウエブスター>

freddie_webster.JPG ダメロンは初期のサラ・ヴォーンのSP盤“If You Could See Me Now”にフィーチュアされているけれど…


 高校時代から共演していたのが、伝説のトランペッター、フレディ・ウエブスターで、ダメロンは彼のバンドで歌手(!)とピアノを担当していた。ウエブスターはトランペット発明以来、最高といわれる大きなトーンとヴィブラートを持つ名手で31歳の若さで亡くなり、彼の往時のプレイを偲ばせる録音は殆ど残っていないんです。初期のマイルス・デイヴィスが、本番でフレディのソロの完コピーを吹いたという有名な逸話もあり、多くのトランペット奏者に影響を与えた。後年、タッド・ダメロンは、彼を規範にしてクリフォード・ブラウンやファッツ・ナバロを育て上げたそうです。生で聴いてみたかったものですね。

<ミスキャストな医学生>
 高校卒業後、オハイオ州一の名門大、オバーリン・カレッジに入学、ここは音楽部門が特に有名で、今OverSeasで話題沸騰のスタンリー・カウエル(p)も卒業生です。
 しかし、タッドは両親の希望で、医学部の予備コースへ。2回生の時、人体解剖で切除されかかった腕がブランブランしているのを見て、吐き気を催し、「無理や」と諦めたタッドは、バンドに入り巡業の日々を送ったそうです。
  ところが、最近、研究者がオバーリン大の名簿を調査しても、ダメロンの名前はなかったそうです。ひょっとしたら、親から学費をもらいながら、バンドでビータ(旅)をしていたのか?とにかく、家族は「こんなはずじゃなかった!」とびっくり仰天!

blanch_calloway.jpg学生だったタッドをスカウトして巡業に連れて行ったブランチ・キャロウエイはキャブの姉だった。

<カンザス・シティ>
  様々な楽団で演奏と作編曲をしながら各地を渡り歩くダメロンは、30年代のジャズのメッカ、カンザス・シティにしばし落ち着き、NYから帰ってきたチャーリー・パーカーと初めて出会います。しかし、Good BaitStay on Itと言ったビバップらしいダメロンの代表作は、パーカーと出会うずっと前、すでにクリーブランドで書いていた作品だったのです。
 独学でビバップの和声とリズムを開発した天才も、第二次大戦勃発後、2年間、軍需工場で労働し、音楽とは全く無縁の労働に従事しなければなりませんでした。丁度、エリントン楽団の「A列車で行こう」が全米のラジオで鳴っていた頃のことです。

Jimmie-Lunceford.jpgランスフォード楽団もラジオを通じコットンクラブから一流になった楽団でベニー・グッドマン楽団はこのバンドのアレンジで人気を博した。


 軍需奉仕から解放されると、ダメロンは即ジミー・ランスフォード楽団で、編曲、リハーサル指導として活動、やがてベニー・カーターやカウント・ベイシーなど様々な楽団に自作やアレンジを提供するのだけれど、何故かレコーディングの機会は回ってこないアンラッキーな下積み生活が続く。

<52番街からビバップの寵児に…>
52ndst.jpg当時の52丁目、左にはオニキス、右にスリー・デューシスと名店が軒を連ねる。

 ダメロンがNYに進出するのは、終戦前の1944年になってからで、NYジャズの中心地がハーレムから52丁目に南下した後のことです。ほどなく、ディジー・ガレスピー・クインテットに代役としてピアノで出演したのをきっかけにブレイク、コール・ポーターの「恋とはどんなものでしょう」の枠組を基に、スモール・コンボ用に作ったHot Houseが大ヒット、'46年には、サラ・ヴォーンのおハコとなる、“If You Could See Me Now”を作詞作曲編曲、ビリー・エクスタインのビバップ・ビッグ・バンドの編曲を担当し、花形アレンジャーとなるのです。

  当時のダメロンは、セロニアス・モンク(p)と連れ立って、「ビバップ虎の穴」、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)のアパートを訪ねては、お互いのプレイに触発されながら、モダン・ミュージックのアイデアを練り合った。

mary_lou_dizzy_tadd.jpgマリー・ルーのアパートはビバップ虎の穴だった。

<作曲家のはずなのに…>

 ビバップ・ブームの影の立役者、モンテ・ケイの主催する大手芸能事務所に所属し、事務所に言われるまま、バンドを率い、元々チキン料理店だった『ロイヤル・ルースト』に出演、するとオープニングに口コミだけで500人のお客がごった返すほどの人気を博し、ラジオ放送されてからは、更にピアニストとして有名にる。
  1947年には、ジャズに力を入れていた男性誌、「エスカイヤ」の人気投票で、「アレンジャーの新星」部門第一位、翌年には、ピアノの腕にはからきし自信がないのに、ラジオ番組で人気投票、ピアノ部門一位を獲得してしまいます。タッド・ダメロン自身は、「自分の天職は作曲だけど、誰も編曲してくれないから仕方なくやっただけ」にも関わらず、ミスマッチな役柄で有名になっちゃった。

 ビッグバンドのフィクサー的存在だったバド・ジョンソン(ts,arr)は「ダメロンの編曲は、実際にはディジー・ガレスピーに言われたことをそのまま書いただけでだ。」と批判的ですが、整然として明るく気品のあるオーケストレーションは、全てのパートが主旋律のように美しく、吹くと楽しい、アドリブもしやすい(ただし、腕があるなら)と、デクスター・ゴードン(ts)を初め、演奏者である楽団員達に熱烈な指示を受けます。

 タッド・ダメロンの本性はメロディ・メイカーであったのか?
トミー・フラナガンの考えはそうではない。

   「タッド・ダメロンの曲はオーケストラによる演奏を予定して書かれているから、ソロ・ピアノで演りやすい。」と語っている。(講座本Ⅲ:特別付録参照

 つまり、ダメロンは頭の中で楽団をサウンドさせながら、間口の広いきれいなメロディを書くことで、新たな編曲のアイデアを、他人にも提示してほしかったのではないだろうか?

 

<耽美か耽溺か>

 1949年、パーカーやガレスピーに象徴される、ベレー帽や派手なストライプのスーツでてんとう虫(Lady Bird)の様に着飾るバッパー達に替わり、ブルックス・ブラザースのトラッドファッションに身を固めたマイルス・デイヴィスがスポットライトを浴びる時代が到来します。NYのトレンドはビバップからハード・バップ、クール・ジャズへと風向きを変えたのです。
   NYでの活動が頭打ちになったダメロンはマイルスとヨーロッパに楽旅し、そのまま英国に2年間留まり音楽活動をしますが、NYのように刺激的なものではなかったのかもしれません。
 
   '51年に帰国、ダメロンが参加したのは、R&B系のブルムース・ジャクソン楽団、タッド・ダメロンの弟子格のベニー・ゴルソン(ts)、最高の理解者、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)などハード・バップの名手が在籍していたのですが、どう見たってR&Bはミスキャストだった。そこで、フィリー・ジョーやゴルソンを連れ、新人だったクリフォード・ブラウンを引き受け、自己楽団を結成する。しかし、取れた仕事は、たった一ヶ月のジャズと無関係なダンスの仕事。一ヶ月で解散の憂き目に合います。この頃から、ダメロンは、だんだんとヘロインに依存して行く。 

 1953年に、ブラウン・ローチ・クインテットが録音した名作The Scene Is Cleanは、ダメロンの麻薬根絶宣言の曲であったのですが、実際はそうは行かなかった。不本意なことが次々と重なるのです。
   1956年に、自作の組曲、『フォンテンブロー』を録音するのですが、トレンディでないとリリースが見送られます。『メイティング・コール』は発売されましたが、アルバムの名義は、ジョン・コルトレーンと並列になっていました。タッド・ダメロンは音楽ビジネスでは「過去の人」になっていたんです。
 
 八方ふさがりとなったタッド・ダメロンは、1958年1月、麻薬所持容疑で逮捕されてしまいます。
 
 続きは次回へ…

 野球シーズンも終盤で気分はしっぽりインディゴ・ブルー、明日は寺井尚之メインステムの爽快なプレイで心を癒そう…。

CU


 


 
 

 

2008年10月17日

タッド・ダメロンについて話そう!(1)

   Tadd Dameron (1917-'65)

 

  OverSeasで拍手を沢山いただけるスタンダード曲、そしてトミー・フラナガンの名演目の作曲者の一人にタッド・ダメロンがいます。ダメロンはビバップ時代を代表する作編曲家…とは言うものの、ダメロンに関する情報はネット上では凄く少ない。「ああ、Hot House 作った人か、ジョン・コルトレーンと共演してたバッパーや。麻薬中毒やろ、ピアノは下手やな。」と、なんかBクラスの格付けが多いような気がする。


  トリビュート・コンサートまでに、少しタッド・ダメロンとその作品の話をしておこう!今夜はまずプロローグ。

 タッド・ダメロンといえば、デトロイト出身ということで、フラナガン、ハンク・ジョーンズと共に一くくりにされがちなピアニスト、バリー・ハリス(p)がタッド・ダメロン集、『Barry Harris Plays Tadd Dameron』(Xanadu '75)を録っていて、リリース時には私も愛聴しました。ここでバリー・ハリスが表現したタッド・ダメロンは、絵画で言えばモディリアーニ、女性の肢体に、彫刻刀でゴリゴリ削ったような陰影と質感を付け、カンバスに命を吹き込むのと同じような手法のプレイには、洗練された楽曲とビバップ的な硬質さの渋いコントラストを感じていました。

Barry_Harris_Dameron.jpg

 一方、トミー・フラナガンが描き出すダメロンは、同じ「デトロイト」のカテゴリーに関わらず、バリー・ハリスとはかなり違う。
 最近、ジャズ講座で聴いた、<A Blue Time>、や、<Smooth As the Wind>、極めつけの<Our Delight>…どれもこれもすっきり垢抜け、金箔輝く尾形光琳の屏風のように華やかなれどケバくなく、ビバップならではの手に汗握るスリルがある。
 きっちりと襟を正しているんだけど、どこかにゆるみのある、芸者さんの着物の着方みたい!色気があって粋なんです。…とかなんとか言ったって、百聞は一見にしかず!

 下のYoutube動画は、寺井の生徒達が何百回も観ているヒット画像、トミー・フラナガンが<Smooth As the Wind>をソロで演っています。ホストは、これまた巨匠ビリー・テイラー(p)、<アクターズ・スタジオ・インタビュー>など、ユニークな教育番組で知られるCATV、『Bravo TV』のジャズ番組からの映像。これを観るとタッド・ダメロン作品の良さが判ってもらえるはず!

 ねっ!はじめはシンプルなメロディ、ひとつひとつの音が、扇のように次々とハーモニーの花を開いて、思いがけなく大きく分厚い模様になる。スイング感も倍増し、沢山の扇が大輪の花になったと思うと、最後に全ての扇があっと言う間に畳まれて元通りになる。まるで手品みたい!なんと華麗で優美な曲でしょう!

   この映像の冒頭で、ホスト役のビリー・テイラーはこう言っています。
「エラやコルトレーンとの共演も有名ですが、トミーはなんと言っても、立派なソロイストです。今日はぜひともソロ・ピアノを弾いてもらって、トミーならではのコード・ヴォイシングの素晴らしさを見せて欲しいのですが…」

それに対してフラナガンはこう答える。

「子供のときから、バンド・ミュージックを聴きながら育つと、楽団の演奏が、そのままピアノで弾けてしまうものでね… そうすると今度はちょっとピアノ向きに変えてみたりするんです。これから演るタッド・ダメロンのSmooth As The Windは、バンドのアレンジをそのままソロ・ピアノに使いました。…まずはフレンチホルンのイントロから…」

 フラナガンより10歳近く上の大先輩、ビリー・テイラーに対するフラナガンの話し方はとっても謙虚!「私は腕があるから、何人ものバンド演奏をピアノ一台でやってしまえる」という一人称でなく、「子供のときから楽団を聴いていれば、どんなピアニストだってそれ位のことは出来ますよ。」と、二人称を使っているところが、英語の勉強にもなります。

Smooth As The Windを日本語にするのは、簡単なようで難しい。「風のように、肌触り良く、淀みなく疾走する」という感じかな?快適なヨット・セイリングや、新車のステアリングなどにぴったりなことばです。

 <嵐の中の『そよ風』>
tommy_piano_room.jpg

  Smooth As the Windは、寺井尚之にとっても、大変思い出深い曲です。フラナガンが丁度『Jazz Poet』を録音した'89年、8月末にジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオでOverSeasに出演した後、フラナガン夫妻が郊外の香里園という住宅地にあった自宅に泊りに来たことがありました。丁度台風が大阪に接近していて、外は土砂降り、翌日の飛行機が飛ぶかどうか判らないような状況でしたが、コンサートは大盛況。大雨の中、第二部の当日券が出るのを期待して、漏れてくるフラナガン3のプレイを聴きながら、ジーン・ケリーみたいに傘をさして踊っているファンの方々がおられました。今でもお元気でしょうか?

   その頃のトミーは、渾身のプレイの後でも元気溌剌!夜食にそうめんを食べてから、ダイアナがお風呂に入ったり、荷解きしている隙に、深夜の地下のピアノ室で「ヒサユキ、何か教えてやろう!」と、急に稽古を付け始めました。
「何を教えたろかなあ…よし!今日はタイフーンだから(!?)、Smooth As the Windにしよう!」そう言うと、こんな風にソロ・ピアノを弾き始めたんです。
 トミー・フラナガンらしいウィットだなあ!

 沢山開いた扇が次々と畳まれて行くようなこの鮮やかなエンディングも、その夜から寺井が完全に身に付けて覚えたものです。

 私以外には誰も外野の居ないピアノ室で、師匠の一言一句、一挙一動にかじりつかんばかりにしていた寺井尚之の姿に思わずシャッターを押したのがこの写真です。この師弟の緊張感は、長年の師弟の歳月の間にも、緩んだり色褪せたりすることはなかった。だから、今でもトリビュート・コンサートの為に骨身を削って稽古できるのかな?

 さて、タッド・ダメロンの作品がどんなのか、ほんの少し聴いたので、来週はタッド・ダメロン自身のことを少し書いてみようと思います。
 ダメロンの名曲はOverSeasにお越しになればいつでも聴いていただけるんですけど…
CU

2008年08月29日

トミー・フラナガンの音楽観:Blindfold Test

tommy_bfolded.jpg   オリンピックも終わりました…鶴橋や桃谷商店街で買い物しながら、ラジオから流れる星野ジャパンの試合に、街の人達と一喜一憂、二憂三憂…でも楽しかったなあ… 

   さて、月末には恒例寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会があり、OverSeasはヒートアップ!

 発表会と同じ日に、いつもご一家で関東からトリビュート・コンサートにきてくださる常連KD氏が、現地スタッフに信望厚い名オーガナイザーとして、北京へ単身赴任されます。発表会には、「生徒の皆さんが「いま(一期一会)を大切にして素晴らしい演奏ができますよう」と熱いエールを頂戴しました。KDさま、再見!

  寺井尚之ジャズピアノ教室は、演奏の質もさることながら、寺井尚之が一音も聴き漏らさず、真摯に講評をするのが出色。
 これは、かつて寺井自身の演奏を、フラナガンやハナさんが、怖いほど真剣に聴いてくれた経験が下地になっているようです。

  今日は「寺井尚之ジャズピアノ教室」のルーツであるトミー・フラナガンの音楽観を覗き見てみよう!
 アメリカ人は、概ねリップサービスが上手な人、誉め上手な人が多いですが、フラナガンはそういう意味では、全くアメリカ人らしくなかった。「ええかげん」なことは決して言わない人でした。だからインタビュー嫌いだったのかも知れないし、無口を装うことが多かった。本当は議論好きで、一旦火がつくと、徹底的に相手をやりこめるシーンを何度か目にした事があります。

    公の場では「温厚な人」だったフラナガンの厳しさが垣間見えるインタビュー記事は数少なく、ブログで紹介するには長すぎるので、米ダウンビート誌の、「ブラインド・フォールド・テスト」を紹介しようと思います。
「ブラインド・フォールド(目かくし)テスト」は、ゲストに、何の情報もなく、いくつかのレコードを聴いてもらった感想から、ゲストの人となりや音楽観を浮き彫りにするという趣向、レナード・フェザーという評論家の先生が始めた人気企画で、以前、スイングジャーナルでも同様の連載がありましたよね。

  フラナガンは、今回紹介する'89年と'96年の2回だけゲストになっています。ちょっと読んでみましょうね。星5つが最高点です。

 

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

ダウンビート誌 1989 3月号より : 聞き手: Fred Bouchard (ジャズ評論家 本業は航空工学など技術系のライターのようです。)

 

ビバップの温和な巨匠、トミー・フラナガンは、長年の名伴奏、エラ・フィッツジェラルド、ジョン・コルトレーンなどの最高の演奏を引き出してきた。
今回が初のブラインドフォールド・テスト、“カジモド”など彼のトリオでのレガッタバーでのレパートリーに因んだレコードを主体に聴いてもらったが、事前にフラナガンには何の情報も提供されていない。

 Sonny_Clark_Memorial_Quartet.jpg
1. 演奏者:Sonny Clark Memorial Quartet Wayne Horvitz(p), John Zorn(as)…
 曲名 "Nicely" ソニー・クラークのオリジナル
 アルバム名:Voodoo/ Black Saint

 TF:誰の演奏なのかわからない。曲はソニー・ロリンズの“ポールズ・パル”を思い出させる。テーマはいいと思うが、私が気に入ったのはテーマだけだ。演奏はテーマに見合ったレベルではない。彼らのプレイを以前聴いたことがあるようにも思うが、プレイの抑揚が訛っているので、誰なのか判断することが出来ない。ひょっとしたら、ジャッキー・マクリーンかな? テーマには★★★★。

The_Other_Side_of_Round_Midnight_.jpg
2. 演奏者:ハービー・ハンコック(p)
曲名:"Round Midnight"
アルバム名:The Other Side of Round Midnight/ BlueNote

 数ヶ月前にフィニアス・ニューボーンJr.を聴いたのだが、この演奏は、フィニアスがじっくり考えてから演奏したような感じだ。
 フレーズや解釈はフィニアスを思い出させて、僕は大好きだね。もしも、本当のフィニアスなら★★★★★。しかし、もしフィニアス以外の誰かなら、5つ星の値打ちはない!

King_Cole_Instrumental_Classics.jpg
3.演奏者:ナット・キング・コール(p)3:
曲名: “Bop Kick”
アルバム名:Instrumental Classics/Capitol
パーソネルは推察どおり。

   多分、ナット・キング・コール・トリオだね。ボンゴはジャック・コンスタンツォだろう。ピアノのサウンドも、このオスカー・ムーアのギターも明らかにそうだ。この曲はいいねえ!進行がいいなあ…
 だが、ひょっとしたら、ナットの影響を受けた他のピアニストかもしれない。例えば初期のオスカー・ピーターソンとか…でも、ピーターソンはボンゴを使っていないはずだから。

Sheila_Jordan_Old_Time_Feeling.jpg4.演奏者:シーラ・ジョーダン(vo)+ハーヴィー・シュワルツ(b)
曲名:“Tribute”("Quasimodo")
アルバム名:Old Time Feeling
パーソネルは推察どおり。

 これはかなり確信がある!シーラだよ!となればベースは、ハーヴィー・シュワルツ(b)に決まってる。シーラと僕はデトロイト、ノーザン高校時代の同窓だ。彼女は高校時代から歌詞を書いていた。同じ授業をサボって、街のジュークボックスでチャーリー・パーカーの“Now's The Time”を聴いていた間柄だもの。あれは、'40年代中ごろだったかなあ。(おっと…年齢をバラしちゃった、シーラ、ごめんよ!)僕が初めて聴いた、歌詞付きのラウンド・ミッドナイトは、シーラの作詞だった。
 でも、チャーリー・パーカーの“カジモド”に歌詞を付けていたとはね…彼女はすごく音楽的だ!高得点!!★★★★1/2!

A_Celebration_of_Hoagy_Carmichael.jpg5. 演奏者 デイブ・マッケンナ(p)ソロ 
曲名“Moon Country”
アルバム名:A Celebration of Hoagy Carmichael/ Concord

Dave_McKenna.JPG


 デイブ・マッケンナだ!まるでリズムセクションがいるようなプレイ…これこそデイブのスタイルだ。ハハハ…彼はリズム・セクション内蔵型ピアニストだよ!タイトルは“The Old Country”じゃなかったかな?ホーギー・カーマイケルかウィラード・ロビンソンだったっけ?僕は昔の歌が好きだ。デイブの弾き方も大好きだよ。★★★★1/2!
 満点じゃないのは、デイブにが常に、より以上のプレイをする余力を持っているからだ。


Original_Bird_Savoy.jpg

6.チャーリー・パーカー(as)
曲名:“Thriving on a Riff:(アルバム記載によれば)
アルバム名:Original Bird/ Savoy” 
パーソネル: チャーリー・パーカー(as),マイルス・デイヴィス(tp),ディジー・ガレスピー(p):(アルバム記載よれば)
 

 色々聴かせてくれたけど、初の五つ星だね。ピアニストはサディック・ハキムだ。(フラナガンはピアノソロを滑らかにハミングしながら聴く。)曲は“アンソロポロジー”、僕は、まさにこの曲から、ビバップに親しんだんだ。多分トランペットはディジー・ガレスピー、ドラムはマックス・ローチかケニー・クラークだな。プレイからあふれ出るグルーヴが最高だ!

【聴き終わってパーソネルを知らせると、フラナガンはこう言った。】
 アルバム・ジャケットに書いてあるデータなんぞ、気にしなさんな!演奏者名なんて、契約の問題でコロコロ変わるんだから。ディズ(ガレスピー)には、ミュージシャン・ユニオンの組合員証があり、サディック(本名:アーゴン・ソーントン)にはなかった、それだけのことだよ。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

   どうですか? 2の寸評は、明らかに誰が演っているのか知っていながら知らんプリで、手厳しいことを言っていますね。6のチャーリー・パーカーには、特に深い知識と愛情を持つフラナガンならではのコメントが聴けました。レコードのクレジットには未だに、史実が反映されないところも、気をつけなければ…
 トミーは本当に「音楽的」な人だったから、普段でもよく流れてくる音楽を聴きながら歌ってました。それどころか、フル・オーケストラを聴くと、頭の中に何十ピースものスコアがダウンロード→保存されてしまう天才です。どんな歌の歌詞もよく知っていたし、知識の宝庫。嫌いな音楽を聴くと、大きな苦痛を感じ、それを隠す為に、聴こえないフリをしてた。

 また次回続きをご紹介します!今度はハナさんやセロニアス・モンクのアルバムからフラナガンの名コメントが引き出されます。

 CU

 

2008年08月15日

8月のメモワール

お盆休みはゆっくりとお過ごしですか?

 こちらは、寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が月末にあるので、それまでは休日返上、ピアニスト達は、初出場から余裕のベテラン達まで、皆とっても頑張って、良いプレイをしています!

  それでお盆のお参りだけしてきました。この時期、昭和3年生まれの実家の母親は、大阪大空襲や、軍需工場からの帰り道、十三で玉音放送を聴いた話をする。誰かに話さずにはいられないのかも知れない。私がチャランポランな学生生活を謳歌した年頃に、家を焼かれ、身内を戦争に取られ、青春どころか、工場で長時間働いていたのだ。

  私という人間は、大戦がなければこの世に存在していない。母の実家が焼け、郊外に転居しなければ、父と出会って、親の反対を押し切り嫁入りすることもなかったろうから、私も生まれなかったのです…

  トミー・フラナガンや、サー・ローランド・ハナは、第二次大戦中は中学生だったけれど、朝鮮戦争の際はキャリアを中断し戦地に送られた。トミーにもハナさんにも、「君の家族は大戦でどんな目にあったのか?」と訊かれたことがあります・・・

<ビバップと第二次大戦>
 寺井尚之とJazz Club OverSeasがこよなく愛するビバップも、第二次大戦の社会状況が大きな役割を果たしている。それまでのジャズはビッグバンド、ダンスバンドが主流だったのですが、戦時中は、ダンス・ホールに莫大な遊興税が課され、ツアーの交通手段であるバスやガソリンを調達することが困難になっていった。その上、若くて元気な楽団員はごっそり徴兵されるから人手不足。
 その為に、ダンスをせず“鑑賞する為”の“シリアスな”小編成のコンボのジャズ、つまりビバップの隆盛を促進したのだと、ビバップの創始者のひとり、マックス・ローチ(ds)は語っています。
  
   
左:グレン・ミラー、右:ジャック・ティーガーデン

 インディアンの血を引くトロンボーンの巨匠、ジャック・ティーガーデン(tb)は4ヶ月の間になんと17名の楽団員を徴兵されたそうです。一方、アーティ・ショウやグレン・ミラーなど白人バンドリーダーは、精力的に外地に慰問のツアーをし、海軍バンドを率いたショウは南方で日本軍から17回爆撃され、空軍バンドを率いたグレン・ミラーはご存知のように、英国海峡で消息を絶ちました。

<従軍ジャズメンとビバップ>

zoot sims photo:by pail slaughter     テナーの勇者、ズート・シムズは、戦時中テキサス、サン・アントニオで従軍中、黒人クラブでNYから演奏に来ていたビリー・テイラー(p)トリオの面々と知り合い、ビバップの虜になります。テキサスの名産品(?)マリワナと交換に、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの新譜をNYから送ってもらいながら、新しい音楽をなんとか聴くことが出来たらしい。

Art_Pepper_by_Ray_Avery_medium.jpg    アート・ペッパーは、ビバップの興隆期、ヨーロッパに駐屯し、捕虜の移送をしていた。その頃、レコードで初めて聴いたディジー・ガレスピーの“Oop Bop Sh'Bam”の余りの革新性と速さに、“ビバップ”という言葉すら知らなかったけれど「胃痛と吐き気がした。」と告白しています。


<日本人の知らない戦時中のブラック・ミュージシャン達>

 大戦中の米国には、まだ人種差別が歴然としてありました。当時、徴兵された黒人達はおよそ100万人、内半数が外地の前線に派兵された。黒人は一番危険な前線に送られ、割り当てられる任務は過酷なのに、アメリカ国民として当然の権利は認められない。彼らが軍隊で受けた人種差別の過酷さが、黒人の人種意識を目覚めさせ、ジャズだけでなく、後の公民権運動を加速したと言われています。だってドイツ人捕虜が食事する出来る食堂に、有色人種のアメリカ兵は入れないのですから、どちらが味方なのかわけが判りません。

 ディジー・ガレスピー(tp)は、はっきりこう言っている。
「大戦中の黒人の敵は、ドイツ人ではなかった。我々の尊厳を無視し、体力的にも倫理的にも、ダメージを与える白人達が本当の敵だった。アメリカが自国の憲法を守らず、我々を人間として扱わないのなら、アメリカの国策などくそ食らえだ!」

  大都会NYで活躍する黒人ミュージシャン達も、一旦徴兵されれば、人種差別のきつい南部のキャンプ地に送られるかもしれない。その後は前線に送られ、腕や足の一本や二本なくなるかも…そんなことはまっぴらだ!

  若いジャズメンたちは徴兵を免れる為に、住所変更を繰り返したり、それでもダメな時は、ホモセクシュアルや精神異常を装ったり、なんとか徴兵を免れるため、あの手この手を使った。
 
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ジョー・ニューマンと、ビリー・ホリディ

  カウント・ベイシーOrch.の花形トランペット奏者で、トミー・フラナガンがプレスティッジ時代によく共演したジョー・ニューマンは、覚醒剤と睡眠薬を両方飲んで徴兵検査で不合格になろうと試みて、副作用で死にそうになり、友人のビリー・ホリディが彼女の自宅で3日間看護してくれたおかげで一命を取り留めたそうです。
 バップ・トランペット奏者、ハワード・マギーは、入隊検査で、誇大妄想の演技をして、まんまと不適格の審査を勝ち取った。

  徴兵を回避し、洒落たファッションに身を包み、白人女性と交際し、ヒップな言葉を話す、そしてポケットにはお金が一杯・・・黒人ミュージシャンは、一部の白人の憎悪の対象となり、その結果バド・パウエルやセロニアス・モンクが、白人警官にこん棒で殴打されるような事件を招く遠因になったと言われています。

  もちろん、全員が徴兵から逃げられるはずもなく、戦時下、米軍のフットボール選手とジャズメンは、ドリーム・チームだった。

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アル・グレイ&クラーク・テリー

  イリノイ州の海軍訓練センターには、フラナガンと同じデトロイト出身のアル・グレイ(tb)や、どんなややこしい譜面も即座に暗譜する達人ドラマー、オシー・ジョンソンが二段ベッドの上と下、その他、クラーク・テリー(tp)や、カウント・ベイシー楽団のメンバーがごっそり集まっていた。このセンターには、一線級のミュージシャンばかりでいくつも楽団があり、その内のひとつはグアムに送られた。

 al%20grey%20in%20navy.jpg  Ira Gitler著:「Swing to Bop」より: マサチューセッツで、当時の海軍バンド:アル・グレイの姿は他のトランペット奏者に隠れています。

アル・グレイ(tb)はそんな状況下、内地に留まるために、軍のバンド競技会で、何度も賞を獲得し、ボストンやミシガンのダンスバンドや軍楽隊に所属、除隊したその日にベニー・カーター楽団に入団するという離れ業をやっています。

 ジミー・ヒース(ts)のお兄さんであり、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の一員であったベーシスト、パーシー・ヒース(b)は、タスカジー飛行訓練学校という、黒人エリート学校出身の空軍パイロットでしたが、戦地に出るまでに戦争が終わり除隊したので、「一人も殺さずにすんだ。」そうです。

  戦勝国アメリカとはいえ、ジャズ講座に登場する黒人ミュージシャン達は、色々苦労をしていたんですね。

 戦後、米軍の占領下で、日本人のジャズメンたちは驚くほどの富を得たそうですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。

 ご先祖様の苦労のおかげで今在る自分に感謝しつつ… 

今月もOverSeasは休みなく平常営業です!

CU


2008年08月08日

『"King"たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)

  先月のジャズ講座に、ベニー・カーター(as)の名盤、『The King』が登場してから、沢山の人たちがベニー・カーターに魅了されている。
8月8日はベニー・カーターの誕生日だ!

   今週末には、ジャズ講座で、再びディジー・ガレスピー(tp)との大物共演盤『Carter-Gillespie Inc』が聴けます。"







  『King』というニックネームは、その昔、一世代上の大王様、ルイ・アームストロングの発言に由来していますが、'70年代、何度かコンサートで観たベニー・カーターの姿は、正に『King』に相応しいものでした!

   スティックを空中高く放リ投げてフィニッシュするソニー・ペイン(ds)や、ハイノートをヒットすると、顔が台形になるキャット・アンダーソン(tp)、昭和天皇を想起させるジョージ・デュヴィヴィエ(b)…空前絶後的な名手を揃えたベニー・カーター・オールスターズを従え、すくっと立つベニー・カーター、上等そうなグレンチェックのブレザーにブルーのワイシャツが褐色の肌に映える。
 
 黄金色のアルトの先には、象牙色に輝くマウスピース!カーターが吹くと、最高のコニャックを使ったカクテルのように甘い芳香が満ちた。スイング感、ソロの長さ、フィル・イン、音量、テンポ…何もかもちょうどいい! 聴衆の心が躍り、足がダンスする!ベニー・カーターから発する光はスポットライト?それとも後光だったのか…
 
 '20年代に、King of Jazzとして一世を風靡した白人バンドリーダー、ポール・ホワイトマン…豪華絢爛なステージ!でもどちらかといえば「王」というより、むしろ、小太りでチョビひげの「社長」というイメージだ。

  昨年、ディック・カッツさんのベニー・カーターについての談話を書きましたが、巨匠達が、ベニー・カーターと共演したことを、ちょっと自慢げに話す様子は、「かわいい」とさえ感じます。
 '80年代に、トミー・フラナガンが、カーネギー・ホールでベニー・カーターのスペシャル・プログラムへの出演を依頼された時も、ダイアナと二人で「名誉なことだ!」と喜んでました。他のどんなスターと共演したって、トミーが名誉(honor)と言ったのは、後にも先にもこれだけです。

'95年ワルシャワでの共演映像がここに。
 
 ベニー・カーター、80年間に渡る『King』の長い航路を、ちょっと観て見よう!

○  ○  ○  ○  ○

<王様は下町っ子だった>
 ベニー・カーターこと、ベネット・レスター・カーターは、1907年(明治40年)8月8日、NYのサン・フアン・ヒルという地域に生まれた。丁度、現在のリンカーンセンターのある辺りで、昔は黒人の住宅街でした。リンカーンセンターなどのリンカーン・スクエア建設に伴い、消滅した幻の町です。(懐かしい当時の街の様子は、NYタイムズのヴィデオで見ることが出来ます。英語がよく判らなくても、映像だけで楽しい!)  
 
 ババ・マイリーはプランジャー・ミュートの神様だった。(1903-32)

  ベニー少年は幼い頃、サックスではなくトランペットに憧れた。20世紀初頭にクリフォード・ブラウンの様なプレイをしていたという伝説的トランペット奏者キューバン・ベネットが従兄弟だし、デューク・エリントン楽団の花形トランペッター、ババ・マイリーは、近所のお兄ちゃんだったのだ。それで、ベニー少年も、何ヶ月か小遣いを貯めて質屋でトランペットを買ったものの、3日経っても、モノにならず、あっさり、C-メロディのサックスと交換してしまう。こっちは3日で習得できたのか、殆ど独学のまま、15歳にはプロとして稼いでいた。
 ベニー・カーターは、サックスも、後に習得したペットも作編曲も全て独学、色んな人の演奏に耳を傾け、腕を磨いたのだ言いますが、人のプレイをコピーしたのは、13歳の時で、ただ一曲しかないそうです…

<若き王> 
 28年に初レコーディング、同年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍して、メジャーになります。新加入のカーターが手がけたアレンジは、時代を先取りした斬新さがあった。楽団がバンドリーダー不在となった期間、ベテラン揃いの団員からリーダーに選出されたのはカーターだった。若干21歳のことです。

   1931年には、デトロイトを本拠に活躍した名楽団マッキニー・コットン・ピッカーズ(トミー・フラナガンの子供時代に大好きだった楽団です。)の音楽監督に就任。トランペットでも録音しており、アルトに勝るとも劣らない名演を残す。ベニー・カーターのペットはアルトサックスと同じで、メロウな甘い音色です。また、アレンジャーとしては、一曲あたり25$が相場だった編曲料の4倍の金額を取っていました。
 
   ベニー・カーターの公式サイトで、カーターの研究者、エド・バーガーはベニー・カーターの特質は、常に全体を考える編曲者でありながら、ソロイストとして即興演奏の醍醐味を失わない点にあると述べています。

  

 翌'32年、自己の楽団を設立、テディ・ウイルソン(p)、シド・カトレット(ds)など、後のスイング時代のスターを多く起用したものの、時代を先行する芸術の例に漏れず、経済的な理由から、楽団は1934年に解散の憂き目に会います。

 <王様ヨーロッパへ>
 自己楽団に失敗したカーターは、レナード・フェザーの勧めもあり、1935年、BBC放送の音楽監督として渡欧、フランス、オランダ、北欧などヨーロッパ各国を楽旅し絶賛される。
   人種差別がなく、アーティストとして厚遇を受けますがが、音楽的な欲求不満を感じ、3年後に帰国する。すると、ビッグバンドのトレンドは、ちょうど渡米前の自己楽団のスタイルだった。自己バンドを率いて演奏する傍ら、エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、トミー・ドーシーなど多くの楽団にアレンジを提供したり、人気ラジオ番組の編曲など、どんどん仕事を続ける。

   ビバップ革命前夜、1941年頃、カーターが率いたスモール・コンボのフロントは、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・ハミルトン(cl)で、ガレスピーの代表作、当店でも大人気の演目“チュニジアの夜”は実はこの時期に書かれた曲です。当時はInterludeというタイトルでした。カーターは、その頃、J.J.ジョンソン、マックス・ローチなど、後のビバップ創設者達を盛んに起用していて、すでに次の時代を予見していたんですね。


 <王様ハリウッドへ>
 戦争中で、楽団のビジネスが困難になった時代、ベニー・カーターは単身ハリウッドへ。映画音楽の世界に飛び込みます。後にJ.J.ジョンソンも同じような転身をしましたが、カーターの影響だったのかも知れません。
 "Stormy Weather"('43)を手始めに、ありとあらゆる映画、TV音楽を手がけました。ベニー・カーターとクレジットされていない映画にも、作編曲、演奏、多岐に渡って関わっている作品が沢山あるようです。同時に、音楽スタジオでは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズ、ルー・レヴィーなど、彼がアレンジを手がけた人気歌手を挙げればキリがない。
 ハリウッドの映画音楽の世界で人種の壁を初めて破ったのがベニー・カーターです。だから、黒人映画関係者の名声の殿堂入りもしているんです。代表作には、『キリマンジャロの雪』、『キー・ラーゴ』、TVなら『シカゴ特捜隊M』などが有名です。

 映画人となったカーターですが、JATPなど様々なコンサート活動は継続、ベニー・カーター・オールスターズを率い、何度も来日公演を行った。おかげで、私達も何度か素晴らしいコンサートを拝めたんです。

<王様、教授になる>

 '70年代に入ると、ベニー・カーターが現場で培った深い教養と品格ゆえに、大学へと引っ張り出されます。歴史の生き証人、カーターの人間性にすっかり心酔した名門プリンストン大のエド・バーガーの要請で、カーターはエリート学生を前に講演やキャンパス・コンサートを頻繁に行い、プリンストン大名誉博士号取得、ハーバード大でも各員講演を行いました。国務省の依頼で'75年には国務省の親善使節として中東諸国を歴訪。ジャズ講座で現在聴いているベニー・カーターのアルバム群は、映画のキャリアが一段落し、好きなジャズの仕事を選んで行っていた時期のものです。

 1997年の90歳の誕生日には、LAのハリウッド・ボウルと、オスロで相次いでベニー・カーターの誕生日イベントが開催。
 2000年には、クリントン大統領から、米国の文化勲章と言える、The National Medal of Artsを受賞しています。

 <王妃様たち>

 NYタイムスによれば、カーターは5度結婚しているそうです。18歳で最初の結婚をしましたが、三年後に奥さんが肺炎で亡くなりました。その後三度結婚し、最後の奥さんはヒルマ・カーターさんと言う白人の上品な女性です。最初の出会いは'40年で、お互いに惹かれあったそうですが、当時の人種の状況から結婚に踏み切れず、40年の間、社会情勢の変化を待ち、72歳、'79年に結婚し添い遂げたということです。なんとも王様らしい、壮大な物語ですね。
歴代プレズとベニー&ヒルマ・カーター夫妻
 

○  ○  ○  ○  ○


 というわけで、殆ど1世紀のベニー・カーターの伝記を駆け足で辿りました。長くてゴメンネ。というのも、情報溢れるネットの世界なのに、日本語でベニー・カーターの生涯について克明にかかれたものがなかったからです。もっと興味のある方は、ラトガース大学からディスコグラフィーや参考文献が、また色んな出版社からカーターの楽譜が出ています。 
 ベニー・カーターの肉声も聞ける公式サイト。

 80年間の長い間、ベニー・カーターは一貫してベニー・カーターであり続けた。王様は、トレンドというはかない波に汚されたことは一度もなかったんです。「邪悪」な所が全く見当たらないのに人間味に溢る、ベニー・カーターの音楽を聴くたびに、私は人間の「品格」にというものについて考える。世間ではベニー・カーター翁と呼ぶ人もいるけど、私には、最晩年の姿も、おじいさんには見えない…
 
 王様、お誕生日おめでとうございます!
9日(土)は寺井尚之のジャズ講座にぜひどうぞ!面白いです。

CU

2008年07月25日

Star-Crossed Loversが運んだ幸運の星:Lilian Terry

A_dream_comes_true_1.jpg A Dream Comes True/リリアン・テリー+トミー・フラナガン3('92 Soulnote)

  先日の The Mainstem Trio のライブでは、流星が降り注ぐようにロマンチックなStar-Crossed Loversが聴けました!明日の出演は再びMainstem!こんどはどんな曲が聴けるのかが楽しみ!
 
  先日、Mainstem=7月の曲 “Star-Crossed Lovers”を紹介した際に、フラナガンと共に名唱を残したリリアン・テリーのサイトから、このレコーディングの経緯や、取り上げた歌詞について問い合わせしてみました。返事が来なくてモトモトと思っていたんで