2017年10月27日

祝ジミー・ヒース91才-録音の思い出

  Jimmy-Heath-e1373743674277-684x384.jpg 私たちが敬愛するテナーの巨匠、ジミー・ヒースは1926年生まれ。若き日は、チャーリー・パーカーの再来という意味で「リトル・バード」と呼ばれ、ディジー・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス達と関わりを持ちながら、ジャズの歴史を大きく動かしました。最高にヒップでスマートな巨匠も今年の10月25日に91才。
 OverSeasで行なったヒース・ブラザースのコンサートの素晴らしさは一生忘れることはありません!
寺井尚之のいかなる音楽的質問にも速攻で答えてくれる超ハイIQ、威張らず気取らず、それでいてオーラ溢れる天才音楽家です!

 「ジャズタイムス」電子版7月号に、リーダーとして、サイドマンとして参加した様々な名盤にまつわる非常に興味深いエピソードが掲載されていました。ジミーの奥さん、モナ・ヒースさんが「天才ミュージシャンは、何故か子供みたいなところがあるものなのよね。」と、私にこっそり話してくれたことがあります。それは決して自分の旦那さまの自慢話として語った言葉ではないのですが、このインタビューの端々に、モナさんの言葉が思い出されました。

☆日本語訳にあたり、ジミー・ヒースの優秀な生徒であったベーシスト、Yas Takedaに助言をいただいたことを感謝します。

=リトル・バードは語る=
聞き手:By Mac Randall 原文サイト:  https://jazztimes.com/features/a-little-bird-told-me/ 

1.Howard McGhee/Milt Jackson

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Howard McGhee and Milt Jackson
 (recorded 1948, released 1955 on Savoy)

McGhee, trumpet; Jackson, vibraphone; Heath, alto and baritone saxophones; Will Davis, piano; Percy Heath, bass; Joe Harris, drums

 

 バグス(ミルト・ジャクソン)とは多くのアルバムで共演していて、これが最初のアルバムだ。私が21才当時、一緒に仕事をした内で一番の大物がハワード(マギー)だった。彼のほど名前の知れた名プレイヤーと共演したのは初めてだった。彼はカリフォルニアのビバッパーだ。この録音の前に、シカゴの《アーガイル・ショウ・ラウンジ》で何度か共演したが、店のオーナーがギャラとして支払った小切手は未だに換金できていない。文句を言う為に店に戻ったら、そいつはコートのボタンを外して、拳銃をちらつかせた。それがハワード・マギーとの共演で一番の思い出かな...

私のことを"リトル・バード"と呼び始めたのがハワード(マギー)とバグス(ミルト・ジャクソン)だ。その当時、私はまだアルトを吹いていて、何とか師と仰ぐチャーリー・パーカーのようにプレイしたいと必死だった。まあ、その頃は私だけでなく、誰でも、そう思って頑張っていたのさ。バードは皆を夢中にさせたからね。だから、ハワードとバグスは、"リトル・バード"というニックネームを私に付けることによって、リスペクトを示してくれたわけだが、おこがましい名前だったと自分では思っている。確かにバードならではのフレーズやお決まりのプレイを身に着けてはいたけれど、まだまだビバップ・スタイルを目指すスタート地点に立っていただけさ。他に、このバンドで覚えていることは余りないね。バンドが長続きしなかったことだけは覚えている。このセッションは'48の2月に行われたもので、同じ年の5月に、ハワードと一緒にパリへツアーしたが、ミルトは同行しなかった。

2.Kenny Dorham Quintet

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Kenny Dorham Quintet (Debut, 1954) 


Dorham, trumpet and vocal; Heath, tenor and baritone saxophones; Walter Bishop, piano; Percy Heath, bass; Kenny Clarke, drums

   ケニーは僕の大好きなトランペット奏者であり、大好きな共演者でもあった。私は彼のアレンジするオーケストレーションやオリジナル作品も非常に気に入っていた。ケニー・ド-ハムとタッド・ダメロンは、ビバップ世代に於ける偉大なるロマン派作曲家だと思う。

 最初の'48年のハワード・マギーのセッションでは何曲かバリトンを吹いている。それが私のバリトン・サックスでの初録音だ。ケニーとの本作も、バリトンを演奏している数少ない作品だね。 "Be My Love"で、ケニーにバリトンを吹いてほしいと頼まれてね、なにしろ身長が160㌢しかないものだから、(大型の)バリトン・サックスの演奏依頼はしょっちゅうあるわけじゃなかった。楽器が大きすぎるんだよ!バリトンを吹いたセッションは確か3回だけだよ。スリー・ストライクでアウト!ってところだ。

3.The Jimmy Heath Orchestra

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Really Big! (Riverside, 1960)

Heath, tenor saxophone; Nat Adderley, cornet; Clark Terry, flugelhorn and trumpet; Tom McIntosh, trombone; Dick Berg, French horn; Cannonball Adderley, alto saxophone; Pat Patrick, baritone saxophone; Tommy Flanagan and Cedar Walton, piano; Percy Heath, bass; Albert Heath, drums

 これは「初リーダー作」というわけではないが、大編成のバンドを率いた初めてのレコーディングだった、十人編成だから殆どビッグ・バンドと言える。

 私は、自分が惚れ込んだ楽器、つまりフレンチ・ホルンと一緒にレコーディングをしたいと思った。フレンチ・ホルンがアンサンブルにしっくりと溶け込む感じが好きでね、これ以来何枚かのアルバムでこの楽器を使った。フレンチ・ホルン奏者のディック・バーグを入れてブラス四管、リード三管の編成にし、クラーク・テリー(tp.flg.)にリードを取ってもらった。クラークはこう言ってくれた。「お前さんのレコードなら、いつだって、どんな録音でも、ユニオンの最低賃金で出演させてくれ!」彼は当時すでに、相当なビッグ・ネームだったから、この言葉は私にとって非常にありがたく恩義に感じた。彼のような大物が、私の音楽を気に入ったというだけで、最低のギャラでいいと言ってくれたのだから。彼のプレイは本当に素晴らしくて、私はすっかりノックアウトされてしまったよ。

 このアルバムでは、編曲の段階で少し行き詰まってしまってね、ボビー・ティモンズの曲-"Dat Dere"はトム・マッキントッシュにアレンジしてもらった。彼はトロンボーンの名手だが、作編曲の腕前も同じくらい素晴らしい。バリトンを担当したのはパット・パトリック、元マサチューセッツ州知事、デヴァル・パトリックの親父だよ。録音セッションで、彼が私にこう言った。「この世に長いこと居れば、年月を経た重み(long gravityが備わるものさ。」 そして、後に私は、この言葉を自作曲のタイトルにした。-"Long Gravity"はヒース・ブラザースのテーマソングになったよ。

4. Jimmy Heath Quintet

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On the Trail (Riverside, 1964)

Heath, tenor saxophone; Kenny Burrell, guitar; Wynton Kelly, piano; Paul Chambers, bass; Albert Heath, drums

 

 

 私は、コルトレーンの後釜として、1,2ヶ月間、マイルスと共演していたことがある。バンドはキャノンボール(アダレイ)、ウィントン(ケリー)、ポール(チェンバース)、フィリー・ジョー・ジョーンズというすごい顔ぶれで、たまげたよ。ほどなく、この連中がオリン・キープニュース(Riversideレコードのプロデューサー)を説得して、私に専属契約を結ばせた。「コルトレーンがBlue Noteの専属になったからには、Riversideはジミー・ヒースを獲得しておくべきだ!」と言ってね。だから、Riversideでリーダー作の録音が始まると、彼らに参加してもらって恩返しをしようと思った。特にウィントン(ケリー)ならではの三連符が欲しかった。いみじくも、フィラデルフィアの友達は、彼のソロのことを「涙の粒で出来ている。」と評したが、私も全く同感だ。まさにピアノから涙がポロポロこぼれているようなんだ。

On the Trail 』には、〈Vanity〉というバラードを収録している。これはサラ・ヴォーンのヒット曲でね、コルトレーンも私も、彼女のバラードを聴くのが大好きだった。後になって、この曲を作曲したバーニー・ビアーマンに会った。百歳以上長生きした人なんだが、私の録音した〈Vanity〉にノックアウトされた!と言ってもらえた。

〈On the Trail〉を愛奏するようになったきっかけは、ドナルド・バードとの共演だ。彼が編曲したものを、アルフレッド・ライオンのプロデュースでBlue Noteに録音する予定だったんだが、ドナルドとアルフレッドの間にいざこざがあり、ドナルドが録音をやめてしまったんだ。それなら、私がこのアレンジでレコーディングしよう、ということになった。皆は私の編曲だと思っているが、ガブリエル・フォーレ作〈パヴァーヌ〉のラインを取り入れたこのアレンジは、ドナルドのものなんだ。そのラインは元々ギターのパートではなかったんだが、私のレコーディングではケニー・バレルが弾いているので、そこは私のアイデアのようだな。

5. Ray Brown/Milt Jackson

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Ray Brown/Milt Jackson (Verve, 1965)


Big-band session including Brown, bass; Jackson, vibraphone; Heath, tenor saxophone; Clark Terry, trumpet and flugelhorn; Jimmy Cleveland, trombone; Ray Alonge, French horn; Phil Woods, alto saxophone; Hank Jones, piano; Grady Tate, drums; arranged and conducted by Heath and Oliver Nelson

 このアルバムは私とオリヴァー・ネルソンが半分ずつ編曲を担当している。何故か、オリヴァーがフル・バンドの編曲を担当しているのに、私は10人編成のスモール・バンドでアレンジ依頼されていたのだとは知らなかった。気づいた時は「くそっ!騙された!」と思ったよ。そして、オリヴァーは自分のオーケストレーションに、常に半音をぶつけるハーモニーを使うことを主張した。そうすると耳触りの良いハーモニーになる。しかし、それがミルト・ジャクソンを大いにイラつかせた。バグス(ミルト・ジャクソン)は絶対音感の持ち主だから、二度マイナーに撹乱される。「EなのかFなのか?一体どっちなんだ?はっきりしやがれ!」って感じだ。後になって彼は言ったよ。「なあ、バミューダ(彼は私をこう呼んでいた。)俺はオリヴァーより、お前がアレンジした譜面の方がずっと好きだ。」ってね。

 ここには、〈Dew and Mud〉というオリジナルが収録されている。マイルス(デューイ-)デイヴィスとマディ・ウォーターズに捧げて書いた曲で、マイルスがよくトランペットで吹いてたマディ・ウォーターズのフレーズで始まってる。このアルバムではクラークがソロを取っていて...Oh, Yeah! もう最高だよ。いいレコードだな!

 ミスター・レイ・ブラウンは大好きだよ。最初に会ったのは1945年だ。ネブラスカ州のリンカーンで、私はナット・キング・コールと一緒に仕事をしていた。そこで我々は彼の引き抜きを画策したが、ディジー(ガレスピー)の楽団で仕事をしていることが判り、断念したんだ。このアルバムにはグラディ・テイト(ds)も参加している。私は彼のことを"Gravy Taker(おいしいところを取ってしまう奴)"と呼んでいた。彼は全くありとあらゆるギグで演っていたからね。

6.Art Farmer Quintet

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The Time and the Place (Columbia, 1967)


Farmer, flugelhorn and trumpet; Heath, tenor saxophone; Cedar Walton, piano; Walter Booker, bass; Mickey Roker, drums

 

 このアルバムでは、スタジオ録音と、残りはNYの近代美術館(MoMA)での演奏だ。〈いそしぎ〉をプレイした事を覚えているよ。母親が好きな曲だったので、よく演奏していたんだ。それに、私のオリジナル〈One for Juan〉も収録されている。コロンビア・コーヒーのコマーシャルに登場する農夫、フアン・ヴァルデスから名付けたんだ。「最高のコーヒーは南米だ!」って言うんだけど、私が最高だと思うのは、コーヒー豆とは違うものなんだがね(笑)

 アート・ファーマーの話をしようか。彼は、例えギグで赤字になったとしても、サイドメンにはきっちりとギャラを払う男だった。「クラブが君を雇ったわけじゃない。僕が君を雇ったんだから。」と言ってね。そういう人間だったよ。彼がヨーロッパ各地の様々な仕事場の住所を教えてくれたおかげで、私はその住所宛に手紙を書きさえすれば、仕事が取れた。そこに飛んで行って、3、4週間、行く先々で、現地のリズムセクションと共に、良い演奏ができた。いい奴だったな!アートのために曲を書き送れば、すぐさま録音してくれたよ。コード・チェンジを深く読みこなし、ほとんど完璧なソロを取った!私の経験から言えば、大抵のミュージシャンは、自分の気に入ったソロを取れるようになるまで、何度か練習するものだが、アートの場合は、音譜を読むように、コードを読みこなすことができた。全くずば抜けた才能だった。

7. Jimmy Heath

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Picture of Heath (Xanadu, 1975)

Heath, tenor and soprano saxophones; Barry Harris, piano; Sam Jones, bass; Billy Higgins, drums

 

 これはヒース・ブラザース結成直前に作ったアルバムだ。私は兄パーシー(ヒース)のプレイが大好きなんだが、モダン・ジャズ・カルテットでジョン・ルイスと共演しているし、クラシック志向が強いんだよ。だから何小節かベース・ランニングさせると、もう、うんざりしてしまう。一方、このサム・ジョーンズは、私がこれまで共演したうちで最もスイングする素晴らしいランニングのできるベーシストだ。彼のランニングは天国まで登っていく!それがこのアルバムにはある。我々は彼を"ホームズ"と呼んでいる。

『ピクチャー・オブ・ヒース』は自分のレギュラー・カルテットでレコーディングした数少ない一枚だ。ただし、ギターの代わりにピアノを入れているんだがね。このようなワン・ホーンでの録音は余りやっていない。何故なら、私は、あらゆる楽器が大好きなんだ。別にテナーだけが好きというわけではない。毎回、テナーが先発ソロで、次にピアノのソロ...そういうのは、私にとっては退屈極まりないことだ。私はフレンチ・ホルンが好きだし、チェロも好き、サックス・セクションもブラス・アンサンブルも、みんな大好きなんだ。なぜテナーだけに固執しなけりゃいけないんだね?まあ、デクスター(ゴードン)、ソニー(ロリンズ)、(ジョン)コルトレーンといった多くのミュージシャンは、確かにテナー・サックス一筋で名声を築いたんだが。トレーンが私のビッグ・バンドに在籍中に編曲した"Lover Man"が素晴らしい出来だった。「このアレンジは最高だ!とても気に入ったよ。こんな感じであと何曲か書いてくれないかい?」と頼んだら、彼はこう答えた。「いやあ...ジム、そんな暇はない。楽器の練習だけで精一杯だから。」やっぱり、私とは考え方が違っていたんだなあ。

8. The Heath Brothers

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Marchin' On (Strata-East, 1975)


Heath, tenor and soprano saxophones, flute; Stanley Cowell, piano and mbira; Percy Heath, bass and "baby bass"; Albert Heath, drums, flute and African double-reed instrument

 

 これは、ヒース・ブラザースのデビュー・アルバムだ。ちょうどスタンリー・カウエルがチャールズ・トリヴァーと一緒に"ストラータ・イースト"というレコード・レーベルを創設し、我々にレコーディングを依頼してきた。ヒース・ブラザースは家族のバンドなんだが、そこにスタンリーを義兄弟として招き入れた。だってスタンリーは凄いと感服していたからね。まあ、私たちにとって、少し毛色の変わったレコードだ。ノルウェイ、オスロでのツアー中の録音だ。この時代は、列車でヨーロッパ中をツアーしたものでね、兄のパーシーはボディがチェロと同じ形状のベース(ベビー・ベース)を、ツアーに持参していた。これはレイ・ブラウンが考案した楽器だ。列車の中で、パーシーがベビー・ベース、弟のトゥティ(アルバート・ヒース)と私がフルート、スタンリーがカリンバ(手のひら大の小箱にオルゴールのように並んだ金属棒を弾いて演奏するアフリカ生まれの楽器)を手にして演奏すると、乗客達がやってきて耳を傾ける。そうやって、次の国へと移動した。車中の私たちの演奏は、室内楽のグループのようで、たいそう喜ばれた。だから、そういうサウンドをこのアルバムに収録しようと決めたのさ。

〈Smilin' Billy Suite〉は、この『Marchin' On』のために書いた曲で、ビリー・ヒギンズに捧げたんだ。彼はいつも笑顔で、周囲をみんなも笑顔にしてしまう。ビリーのタイム感はまさに完璧だ。決して大きな音で叩かずに、聴くもの心に響くドラミングをした。後になって、ラッパーのナズが(1994年のアルバム『イルマティック』に中の〈One Love〉というトラックに)この組曲の一部をサンプリングして使っている。おかげで、私達のグループが新しい世代に注目されるようになったのはいいことだった。

Marchin' On』の録音後、私たちはCBSに移籍した。それは重要な節目の時期だった。初めてオーバーダビング技法を使ったのもこの頃だ。私の息子、ムトゥーメをバンドに入れて共演したし、グラミー賞にもノミネートされた。新譜を発表する毎に、前作より好セールスを記録した。『Then Expressions of Life』('80)は4万枚売れて、このバンドの最高記録だ。そして、会社は我々をクビにした!・・・仕方ない。私たちがいくら売れたと言っても、ビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンは数百万枚売るのだから相手にならないさ。

9. Jimmy Heath

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Little Man, Big Band (Verve, 1992)


Big-band session including Heath, tenor and soprano saxophones; Lew Soloff, trumpet; Jerome Richardson, alto saxophone; Billy Mitchell, tenor saxophone; Tony Purrone, guitar; Roland Hanna, piano; Ben Brown, bass; Lewis Nash, drums

 

 '47,'48年当時は、ビッグ・バンドのサウンドが大好きでね、これはその時代への回帰であると同時に、ビッグ・バンドでの初リーダー作だ。サックス・セクションが凄い!リード・アルトがジェローム(リチャードソン)だし、長年の盟友、ビリー・ミッチェルも入っている。それにトニー・(ピュロン)がギターだ。ヒース・ブラザースに在籍していたときから、私は彼にぞっこんなんだ。彼はバグス(ミルト・ジャクソン)のように絶対音感があり、望むままに、どんなキーでも演奏できる。これは私がとても誇りに感じているアルバムだ。

 私は自分の好きな人達に捧げて作曲するのが大好きで、この『Little Man, Big Band』にもそういう曲をたくさん収録した-ジョン・コルトレーンに捧げた〈Trane Connections〉、ソニー・ロリンズへの〈Forever Sonny〉、私の師であるディジー・ガレスピーへの〈Without You, No Me〉、そしてコールマン・ホーキンスへの〈The Voice of the Saxophone〉、ホーキンスは私がハワード・マギーとパリにツアーした時の看板スターだった。

10.The Jimmy Heath Big Band

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Turn Up the Heath (Planet Arts, 2006)

Big-band session including Heath, tenor saxophone; Terell Stafford, trumpet; Slide Hampton, trombone; Lew Tabackin, flute; Antonio Hart, alto and soprano saxophones, flute; Charles Davis, tenor saxophone; Gary Smulyan, baritone saxophone; Jeb Patton, piano; Peter Washington, bass; Lewis Nash, drums

 

 ジェブ・パットン(p)はクイーンズ・カレッジの教え子で、ここ16年間ヒース・ブラザースのレギュラー・ピアニストだ。私たちは彼が本当に大好きなんだ。アントニオ・ハートも私の生徒だよ。そしてチャールズ・デイヴィスとは実に長い付き合いだ。彼にこう言ったことがある。「お前がソロを取っている最中に、バンドが入ってくる、それが最終コーラスの合図だから、そこでソロを終わってくれ。」しかし、チャールズはソロを止めなかった・・・私は彼にLPCDというあだ名を付けてやった。つまり「ロング・プレイング・チャールズ・デイヴィス」の略だ!それから、ずっと昔に作ったオリジナル〈Gemini〉では、ルー・タバキンがフルートでソロを取っている。彼のことは「噛みタバキン(Chew Tobacco)」と呼んでいる。だって、彼がテナーをプレイするときに、まるでリードを噛み噛みしているように見えるからさ。こんなふうに、私は誰彼なしに、皆にあだ名を付けてやるんだよ。(笑)

 

2017年4月25日

エラ・フィッツジェラルド生誕100年の日に

Ella.jpg 今日はエラ・フィッツジェラルド生誕百周年。

ブログにご無沙汰している私も、ミミズのようにノコノコ地上に出てきました。

 D3605b_lg.jpeg上の素敵な作品は、パブロ・ピカソによるエラ・フィッツジェラルドのポートレート。作品の下に「エラ・フィッツジェラルドへ-友ピカソより、'70 5/28」と献辞が書かれています。

 でもエラのマネージャー、大プロモーターだったノーマン・グランツの伝記によれば、ピカソとエラは一度も会ったことがなかった。

 この絵が描かれた頃、エラはトミー・フラナガン・トリオと共にヨーロッパ・ツphoto0jpg.jpgアーの真っ最中。その頃ピカソは御年89才、南仏アンティーブのお城をアトリエにしていた。(現在この街にはピカソ美術館があります。)ピカソの大ファン、大コレクターで自分のレコード会社に「パブロ」という名前までつけちゃったグランツは、ピカソ邸にしばしば昼食に招かれ、親交を深めたそうです。そのジュアン・レ・パンで、エラさん達のオフ日がありました。

 グランツは、自分の最高の芸術品であるエラさんを、偉大なるピカソに紹介するチャンス到来、あわよくばポートレートを描いてもらおう!とばかりに、エラさんをピカソ邸に連れて行こうとしました。

 並のセレブなら、雑誌記者に連絡して、おめかしをしてすっ飛んで行くところですが、エラさんはそうじゃなかった。"ファースト・レディ・オブ・ザ・ソング"は、権力や名声に媚を売ったりしなかった。とにかく「社交」が大嫌い。だから、グランツにこう言ったんだそうです。

 「ノーマン、今日は忙しいの。ストッキングのほころびや、他にも縫いものが色々あるの。だから、出かけられない。」

ella_85-ELLAFITZGERALD.jpg この話を聞いたパブロ・ピカソは大笑い、まだ見ぬエラを大いに気に入った。何しろピカソは、セレブ嫌い、権力者嫌いなことではエラに一歩も引けを取らない反骨のアーティストだったからだ。

 それでササっと描き上げたのが上のドローイング。後にジョー・パスとポール・スミス(p)3とのコンサート・ポスターに使われました。

 えっ!何故トミー・フラナガンとのコンサートじゃなかったのって?

 それは、トミー・フラナガンもまた権力者ノーマン・グランツにちっとも媚びへつらわない、反骨の人だったからです。それはまた別の機会に。

 私はエラが大好き、あの甘く優しい声、その中から時々現れるヒリヒリするような熱さ、貴婦人の様に完璧な発音に交じるベランメエの啖呵、底抜けに明るい青空から覗く深い深いインディゴ・ブルー...

 あなたがトミー・フラナガンを連れて'75年に来日しなければ、このブログも存在しませんでした。

 エラさん、お誕生日おめでとうございます!! 

2017年1月 6日

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(後編)

hank_dizzy.jpgビバップ時代のハンクさんたち―左から:ディジー・ガレスピー(tp)、タッド・ダメロン(p)、ハンク・ジョーンズ、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)、ミルト・オレント(b.、NBCスタッフ・ミュージシャン)'47 William P. Gottlieb撮影

  

  前編で紹介したケニー・ワシントン・インタビューの聴き手は、ニック・ルフィーニというドラマー、現存するバップ・ドラムの第一人者で、自他ともに認めるジャズのうるさ型であるケニーは、ドラム教本のことは知っているけど、ジャズのことは素人同然の彼のために、ハンク・ジョーンズがどんなピアニストかを、ちょっとガラの悪い池上彰みたいに、忍耐強く簡潔に説明してあげていた。ケニーもヤルモンダ、じゃなくて、丸くなったもんだ!

 

hank-jones_bluenote.jpg ケニー・ワシントン:「ハンク・ジョーンズは歴史上最高のピアニストの一人だ。彼は膨大なレコードに参加している。'50年代、彼は引っ張りだこのスタジオ・ミュージシャンだった。名ベーシスト、ミルト・ヒントン、名ドラマー、オシー・ジョンソン(OCジョンソンちゃう!オシー・ジョンソンや!)と一緒にリズム・セクションを組み、時にはギターのバリー・ガルブレイズを入れ、何百枚というレコードに参加した。毎日、色んな相手と、2~4枚ものレコーディング・セッションをこなしたんだ。そして夜になるとライブをしていた。なのに彼らの録音には一枚の凡作もないっ!!ただの一つもだ!マジだぜ!」

 ハンクさんは、関西に強力なパトロンが居て、歯の治療をするためだけでも、関西にやって来た。NYの一流ミュージシャンと強力な信頼関係を持っていた故西山満さんも、盛んにハンクさんを招聘して地元のミュージシャンを加えたコンサートを企画していたから、関西のミュージシャンはハンクさんに接することが多く、ケニーと同じように襟を正した人も少なくないはずです。「(小型電子ピアノのない時代)来日時には必ず、特製の鍵盤を持参し、ホテルの部屋で練習してはった。」「コンサートが終わると、ステージの撤収を、自ら進んで手伝った。」とか、色んな伝説が伝わってきた。 

<若者たちへの言葉>

  ハンクさんは、亡くなる前の年に、ダウンビート誌の批評家投票で「名声の殿堂」入りを果たしました。御年91才!遅きに失した殿堂入りではあったけど、記念インタビューで若い人達へのアドヴァイスを求められ、自分が行ってきた節制と精進について淡々と語った。タバコも酒もギャンブルもしないというハンクさん。もっと若い時なら、愛奏よく微笑んで、沈黙を守ったかもしれない。71歳で亡くなったトミー・フラナガンは「自分の背中を見て覚えろ」の姿勢を貫き、練習してないふりを通した。

 ハンクさんの謙虚な言葉は、自分の選んだ生業と人生に対するこの上ない敬意と誇りが満ちた宝の山です。

0809.jpgダウンビート・マガジン2009年8月号より抜粋(聴き手ハワード・マンデル) 

<父を手本に>

 何をするにも、100%集中しろと言いたいね。全身全霊で努力しろ。私はこの年になっても、そうするべきだと思っている。私はこういうことを父親から学んだ。父は私の知るうちで、最も公明正大で筋の通った人間でね、人生の最高の手本を身をもって示してくれたんだ。清い生き方をした人だった。酒もタバコもやらなかった。そして敬虔なキリスト教徒だった。父のように生きようと努力してきたが、かなりうまくいったのではないかな。

(訳注:ハンクさんのお父さんはミュージシャンではなく、バプティスト教の助祭で、木材検査官として生計を立てていた。)

 

<集中するということ>

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 「集中力」には何が必要か?「興味を持つ」ことが第一!とにかく自分のしている事に興味を持たなくてはいけない。そこに完璧に焦点を絞り込んで没頭せよ。そして、知識、能力、知覚神経、創造力といった関連要素をありったけ注ぎ込め。

 自分の眼前の題材について考えろ。自分が集中している対象物が一体どんなものなのかをしっかり考えるのだ。何故そうするのか、どうしているのか、そんなことをごちゃごちゃ考えるな。私の言うように集中すれば、結果が出る。集中力というのは、物凄いパワーがある。どういう仕組みかは知らないが、「集中力」さえあれば、「聴く」力がつく。もし聴こえないのなら、集中が足りないんだ。 

<センスを磨きたいなら沢山聴け!> 

 (エレガントで趣味の良い)演奏スタイルをどのように確立したかだって(驚)!?

 誰だってそうだと思うが、沢山のものを聴き、多様なスタイルを吸収しそれを消化すれば、遅かれ早かれ、いずれ各人、自分なりのアイデアが出来上がってくるものじゃないかね?自分流に演奏したくなるのは当たり前だ。出来上がった自分のスタイルが、ほかの誰かに似ていたという結果になるかもしれないし、そうではないかもしれない。運が良ければ、誰にも似ていないスタイルが出来上がる。独自のスタイルや演奏解釈を会得すること、同じ曲でも、余人と異なる自分の流儀で演奏できるというのは、道半ばの学習者全ての目標だ。

 もうひとつの目標は、喜んで聴いてもらえるような演奏をすることだ。それはスタイルとはまた別で、センスの良し悪しが関わってくる。センスとは、ものの捉え方だ。それもまた、多彩な人たちの演奏を聴くことによって生まれるのだ。自分が聴いた音楽が、受け容れられるものなのか、聴きたくないものか、取捨選択を繰り返して、やっと身に付くものだ。多種多様なものを聴いた末に、自らの中に残っているもの、それこそが、「この楽曲はこういうサウンドであるべきだ」という意識をかたちづくる。それを人は「センス」とか「趣味の良さ」と呼ぶのだ。

 

 <即興演奏>

 私は自分のイマジネーションをうまく使おうとする。それに関わる要素について思いを巡らす。和声だけではなく元のメロディーについても思考を働かせ、そこから何かを作り出そうと試みるわけだ。その行為は家を建てるのと似ている。まず基本設計からスタートし、それに従って実際に建築してみる、その作業が進むうちに、装飾も加える、というようなことだ。

<ピアノ上達に近道はない!>

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 まず言っておきたいのは、ピアノが上手になる魔法なんてどこにもないということだ。ピアノに関わらずいかなる技量も、稽古するかしないか。毎日の練習は絶対に必要だ。毎日稽古すれば、どんなレベルであろうと現状を維持することができる、そして、ひょっとすると、そこからさらに上に行けるかもしれない。

 私の場合、ピアノはクラシックの練習から始めた。おかげで、どんなピアニストにも必須の基礎を身につけることが出来た。まともなピアニストになるための指針を教えてくれと言うのなら、私の答えはこうだ。

-まず勉強しろ。ピアノという楽器について熟知せよ。初心者の段階では、(可能な限り)最良のピアノ教師を見つけ、その人に習え。なぜならば、まず最初に正しい演奏法を学ぶことができなければ、後から誤った演奏方法を変えるには、大変な努力を要するから。間違ったテクニックを身に着けてしまうと、悪い癖を取り去るのは至難の業だから。これが若い人達への私からのアドバイスだ。(了)

  DBインタビューはアメリカ人の翻訳者ジョーイ・スティールさんが「読め」って送ってくれたものです。最後の「ピアノ習得」のくだりに、私は爆笑してしまいました。だって、毎日稽古を欠かさない寺井尚之が、常日頃自分の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることだったから。

 ともあれ、ハンクさんが亡くなって、さらに世の中は便利になり、次期大統領でさえ、ツイートばっかりやってる世の中になった。ハンクさんの言葉は、ミュージシャンのみならず、私たち全員がちゃんと生きていく上での忘備録のように思えます。 

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)

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Hank Jones (1918-2010)

'70年代以降、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズは、双方ともに謙虚で控えめな物腰の裏で、互いに最大のライバルとして、闘志の火花を激しく燃やしていた。

だから、この二人を(しばしばバリー・ハリスも含め)同じカテゴリーで議論されると、寺井尚之の癇癪がときどき爆発します。言うまでもなく、寺井はハンク・ジョーンズの凄さをいやというほど良く知っているからなのですが...

そんな中、今年初めて寺井が「楽しいジャズ講座:映像でたどるジャズの巨人たち」のテーマに選んだのがハンク・ジョーンズ・トリオがフランク・ウエスはじめ4人のテナー奏者と共演するという日本のコンサート映像なので、楽しみで仕方がありません。

 

<ハンク・ジョーンズ略歴>

 JATP 1950 multi signed with clipped coupon Hank Jones.jpg  ハンクさんは1918年(大正7年)ミシシッピ州生まれ、奇しくもハンクさんがCM出演していたパナソニックの前身である「松下電気器具製作所」のできた年です。幼少期が米国の工業化に伴う労働人口の南部から北東部への大移動時代と重なり、家族でミシガン州ポンティアック(フラナガンの出身地デトロイトとすぐ近くです。)に移り住みました。父が聖職と木材関係の仕事に就くジョーンズ家の子供は七人、姉二人はピアニスト、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズはジャズ史に輝く天才兄弟ですが、ヒース・ブラザーズ(パーシー、ジミー、アルバート)のように兄弟で共演することは稀でした。

 

 プロデビューは13歳で、フラナガンはまだピアノの鍵盤の上に上るのがやっとのよちよち歩き。すでにミシガン一やオハイオで、そこそこ名の知れた楽団に入り巡業に明け暮れた。成人すると、地元のメジャー・ミュージシャン、ラッキー・トンプソンの誘いを受け、故郷を出てNYに進出、当時のジャズのメッカ、52丁目の有名クラブ《オニキス》でホット・リップス・(tp)と共演、たちまちエラ・フィッツジェラルドやビリー・エクスタインといったスター達から引っ張りだこの超売れっ子となった。 

 だからデトロイト時代のフラナガン少年にとってハンクさんは、親友(エルヴィン)の兄さんであったけれど、ラジオやレコードを通じてしか知らない名手、神と崇めるチャーリー・パーカーと共演する天上人で、実際にフラナガンがハンクさんに会ったのはずっと後、NYに出てきてからのことだった。 

 1959年、ハンクさんは、全国ネットワークCBSのスタッフ・ミュージシャンとなった。以来17年間、エド・サリヴァン・ショウなど、TV界屈指のスタジオ・ミュージシャンとして活動しながら、空き時間はNYのレコーディング・スタジオに入り録音に勤しむ毎日が続く。参加アルバムには、ビリー・ホリディ晩年の不朽の名作<Lady In Satin>、ウエス・モンゴメリー<So Much Guitar>、ローランド・カークの<We Free Kings>といったものから、ジョニー・マティスなどのポップ・スター達のアルバムまで数百枚に上る。

 HCD-2023-l.jpg1968年には、弟サド・ジョーンズとメル・ルイスの双頭ビッグバンドの創設メンバーとして兄弟共演を果たしています。毎日色んな場所でいくつもの仕事を掛け持ちするハンクさんについたあだ名は「キャンセル魔」-昼間に街で会って、「ほんじゃ今夜のレコーディング、よろしく頼むわ。」「よっしゃ!」と挨拶しても、現場に現れるのはハンクさんに頼まれた別のピアニスト、というのが日常茶飯事。それでも、ハンクさんの仕事が減らなかったのは、その腕前に対する絶大な信頼であったから。

 '70年代中盤にはブロードウェイ・レビュー《Ain't Misbehavin》で音楽監督とピアノを担当、流れるようなシングルトーンが身上のハンクさんの演奏スタイルとは異なるファッツ・ウォーラー・スタイルを見事に再現し、ジャズピアノ通の度肝を抜いた。一方では、日本企画の《グレイト・ジャズ・トリオ》が大当たり、パナソニックのTVコマーシャル「ヤルモンダ!」でお茶の間にも親しまれ、新旧の名手と様々なフォーマットで、世界各地を公演、92才まで現役レジェンドの道をひた走った。

 ジャズ・ミュージシャンの旬は案外短く、かつての名手も、70を越えたライブに行くとがっかりすることも。でもハンクさんのピシっと伸びた背筋と、タッチ・コントロールの完璧さは、80才を超えても不変だった。

その秘密はどこにあったのだろう?

 

<端整なプレイの陰で>

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 昨年、寺井のドラマー、菅一平さんから、彼が尊敬するバップ・ドラマー、ケニー・ワシントン・インタビューの日本語訳を頼まれました。ドラマー向けのインターネット・ラジオ番組"Drummer's Resource"のものだったのですが、そこでケニーが大変面白い話をしていた。彼を「練習魔」にした人が、ハンクさんだったというのです。

ケニーの話を要約すると...

 僕が20代そこそこの駆け出しの頃、光栄なことにハンクさんからギグに誘われた。ベースはジョージ・ムラーツ!ピアノ・トリオのコンサートだ。演奏会場がハンクさんの家から遠く、音出しが早いので、「家内の手料理をご馳走するし、君が寝る部屋もある。前日から自宅に泊まりなさい。翌朝一緒に出発しよう。」と言ってもらった。

泊めてもらった翌朝6:30amに目覚めると、スケール練習をするピアノの音が聞こえてきた。Cメジャー、Dメジャー...順番に、全音と4ビートで稽古している。あの名人がこんな基礎練習をしている!!若いドラマーはぶっ飛んだ。

 

 やがて、ハンクさんが朝食を食べに食堂にやってきた。

「おはようございます。ジョーンズさん」

「おはよう、ワシントンくん、昨日は良く寝られたかな?」

「あのう...ジョーンズさん、さっきの練習は毎日やっておられるのですか?」

彼は私を真顔でじ~っと見つめた。

「そうだよ。あれは絶対にやらなくてはいけない。」

そのとき、僕の中でディンドン、ディンドンと鐘が打ち鳴らされた。当時ハンク・ジョーンズ70代だったが、物凄い名手だった。彼のタッチが完璧なのは、この練習を続けているからだんだ!

僕も今から同じことを始めれば、彼の年齢になってもプレイできるに違いない!!それから、僕は毎日早朝練習をするようになった。(つづく)

 

2016年6月16日

コールマン・ホーキンス達の"ルート66" (2)

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 ここでお話する『ルート66』は、1960-64年に放映されたTVドラマ、LAとシカゴを結ぶルート66を、バズ&トッドという二人の若者(上の写真左:バズ/ジョージ・マハリス、右:トッド/マーティン・ミルナー)が、コルベット・スティングレーに乗って旅するロード・ムービー。日本でもNHKでも放映され大ヒットした。余談ですが、トッドの吹き替えを担当した愛川欽也は、このドラマを下敷きにして『トラック野郎』の企画を作ったのだそうです。

<Season2/ Episode No.3 "Goodnight, Sweet Blues">

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 『ルート66』、シーズン2の第三話<グッドナイト・スイート・ブルース>はシリーズ中でも最もジャズ色の濃いもので、往年の名歌手エセル・ウォーターズを中心に、コールマン・ホーキンス、ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジという錚々たるジャズメンがゲスト出演するというもの。このエピソードの監督ジャック・スマイトの代表作は、ビリー・ホリディ、レスター・ヤングからモンクまで、現存するスター達のスタジオ・セッションを記録した歴史的ジャズ番組『The Sound of Jazz』ですから、なるほどという感じです。

 【あらすじ】 

 ストーリーは愛と涙の人情話。ピッツバーグに近いRoute 66のどこか、老女Ethel-Waters.jpgジェニー(エセル.ウォーターズ)は運転中に心臓発作を起こし、トッド&バズの運転するコルベットと接触事故を起こす。トッド&バズに救助され、医師の診察を受けたものの、ジェニーの心臓は手の施しようがないほど悪化しており、余命いくばくもない。

 ジェニーは、昔大活躍した往年のブルース歌手だった。彼女の夢は、30年前に、共に活動した仲間"メンフィス・ナチュラルズ"ともう一度一緒に歌うこと。それを冥途の土産として天国に召されたい。

そこでジェニーは、トッド&バズに、「私の有り金全部使ってくれていいから、昔の仲間に会いたいの。彼らの演奏が聴きたいの。お願い!」と頼みます。 

 バズが大のジャズファンであったことから、二人は往年のディーヴァのために一肌脱ぐことを決意。手分けしてメンバー達を捜しにアメリカ中を飛び回る。.あの人はいま・・・LAやシカゴ、メンフィス、NY、かつての人気ミュージシャンは明暗分かれるそれぞれの人生を歩んでいた。現役バリバリのミュージシャンやスタジオ・ミュージシャンとして第二の人生を歩む者、、亡くなったり、刑務所で服役中だったり、音楽ときっぱり縁を切って靴磨きで生活している者まで、人生いろいろ。ともあれ、トッド&バズは、死を目前にするジェニーの病床で、約束通り"メンフィス・ナチュラルズ"のリユニオン・セッションを実現させる。

 元気をもらったジェニーは昔の仲間の演奏で、かつてのヒット・ナンバー、<Goodnight, Sweet Blues>を歌うと、幸せの笑みを浮かべながら天国に召されるのだった。

 黒人女優として初めてエミー賞にノミネートされたエセル・ウォーターズの演技もさることながら、コールマン・ホーキンスとパパ・ジョーとロイ・エルドリッジがドラマに出てるのがすごい!それにまだまだ人種差別があった'60年代始めに、白人青年が黒人女性の願いで、色々努力すというプロットも珍しい。

 コールマン・ホーキンス扮するスヌーズ・モブレーは、昔はクラリネット、今はテナーに転向して、大人気を誇るモダン・ジャズ・ジャイアントという役どころ、でも、実際のところ、セリフもほとんどなくて、芝居しているというよりも「素」のままです。芸達者な役者さん達も一緒にミュージシャン役を演じているのですが、ジョー・ジョーンズとロイ・エルドリッジは彼らと対等にしっかり芝居をしています。ところが、役柄の設定にびっくり!

<トランペットを吹くジョー・ジョーンズ>

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左から:ジョー・ジョーンズ(tp)、actor ウィリアム・ガン(banjo)、actor フレデリック・オニール(b)、ロイ・エルドリッジ(ds)一人おいてコールマン・ホーキンス(cl)


 このドラマでは、ジョー・ジョーンズとロイ・エルドリッジの楽器が入れ替わっているんです。刑務所に服役中で、判事の温情によって一時的に釈放してもらうトランペット奏者がジョー・ジョーンズ、NYのスタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこのドラマーがロイ・エルドリッジ!勿論、セッション・シーンもそのとおりで、パパ・ジョーの吹き替えをロイ・エルドリッジがやっている・・・

 なんでこんなややこしいことになったの??JazzWaxのサイトに、ジャズメンの友人である評論家、ダン・モーガンスターンが納得のいく説明をしていました。

 特別出演の3人のミュージシャンの役柄のうち、一番重要で出演シーンの多いのがトランペット奏者、Lover Brownだった。そこで、パパ・ジョーは、「この役やりたい!」ともくろんで、誰よりも早く撮影スタジオに入り、「私、トランペットも出来るんです。芝居も出来るんです!」と、監督に直訴したのだとか・・・身のこなしも滑らかで、トランペットも実際に吹けるジョーンズの方が、カメラ映りがいいと思われたのかもしれません。

 後からやってきたロイ・エルドリッジは、パパジョーの抜け駆けに激怒したものの、後の祭り、ドラマー役をやるしかなかった。なんたってエルドリッジは十代の頃はドラマーとして稼いでいたのだから、演奏するのには何の問題もなかったんです。

 上のスチール写真を観ると、ロイ・エルドリッジが何となくブスっとしているように見えなくもない。

ともあれ、歴史的なドラマ画像、セリフも短いし、ストーリーもシンプルで判りやすい。音楽はネルソン・リドル、残念ながら、ナット・キング・コールで有名な、あの<ルート66>の歌は登場しません。

 

 

2016年5月21日

コールマン・ホーキンス達の"ルート66"

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 月例講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガン自身が最も敬愛し、影響を受けたたボス、コールマン・ホーキンスとの共演アルバム群を聴いています。

eddie_terai.jpg ホーク晩年の最高傑作と言われる『ジェリコの戦い』は、本当に"最高"の出来なのか?T.フラナガン、メジャー・ホリー、エディ・ロックという若手を擁するレギュラー・カルテットの醍醐味はどのにあるのかを、寺井尚之の解説でじっくり堪能中。生前のエディ・ロックが寺井と、このカルテットの話で盛り上がっていたとき、その「白眉」として寺井に推したのは、ドラム・ソロなし、全編ルバート、4人の息を1テイクでビシっと合わせた"Love Song from Apache"という渋いバラード(Impulse盤『Today and Now』)だったという話が、彼らがどれほどチームワークを尊んでいたかを象徴していて、しみじみとした感動を呼び起こしました。

 コールマン・ホーキンス芸術の最後期の成熟を助けたトミー・フラナガン達、彼らの結束はホーキンスが第一線から退いた後も、生活の援助というかたちで最後まで継続したと言われています。


 『ジェリコの闘い』を始めとする一連の《ヴィレッジ・ゲイト》でのライブ録音がなされたのは'62年8月、同時期、NYでは他にどんなライブが行われていたのだろう? 当時の"The New Yorker"誌のデータベースで調べてみると、アップタウンからダウンタウンまで、NYの街はジャズ博物館の様相を呈していました。《バードランド》ではディジー・ガレスピーのコンボが、《ヴィレッジ・ヴァンガード》はシェリー・マンを擁する新人ピアニスト、ビル・エヴァンス・トリオが、《ファイブ・スポット》ではチャーリー・ミンガスのバンドが、《ハーフ・ノート》にはズ―ト&アル・コーンのテナー・コンビが!ヴィレッジ地区を離れ、イーストサイドに向けば現在のキタノ・ホテルの近くにあった《リヴィングルーム》というサパークラブには、マット・デニスがトリオを率いて弾き語りを聴かせていた!すでにTVが夜の娯楽の主流になっていたとはいえ、クラブシーンは花盛り!ああ・・どこに行くか迷いますよね。

 TVといえば、この時期のホーキンスの足跡を調べていくうちに、彼が、パパ・ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジと共に、超人気TVドラマ・シリーズ、『ルート66』にミュージシャン役で出演していたことを発見!ほぼ1時間のエピソード"Goodnight Sweet Blues"が全編Youtubeにアップされていました。

 さわりだけ・・・と思ってたのに、結構面白くて最後まで観てしまった。おかげで時間がなくなって、ドラマとミュージシャン達の面白いエピソードは次回に続く・・・


2016年5月16日

写真展の中の写真 from スウェーデン

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  公私共に忙しく、ブログで大変ご無沙汰しています!お知らせしたいこと、書きたいこと沢山あるのですが、なかなか時間のやりくりが下手くそで、落ち着いたらどっさり書きたいと思っています。

 上の写真は"スイート・ジャズ・トリオ"の一員として知られるスウェーデンのベーシスト、トミー・フラナガン同志であるハンス・バッケンロスさんが送ってきてくれたものです。

 左端はスウェーデンの名ドラマーでハンスさんの大先輩でもあるルネ・カールソン、何故かドラムの向かって右側にいるのがレッド・ミッチェル(b)、そしてトミー・フラナガン(p)、フロントがディジー・ガレスピー(tp)で、奥に見えるサックスはジェームス・ムーディ! 

 ディジーを含めジャズの巨匠の写真が飾られた不思議なロケーション、なんとも不思議なセッティング、これは1983年頃、ストックホルムから車で1時間ほどの都市Västerås(ヴェステロース)の美術館で開催されたGunnar Holmberg(グンナー・ホルベルグ)という当地の名ジャズ写真家の展覧会の情景で、オープニング・イベントの演奏をホルベルグ自身が撮影したものだそうです。

  普通と逆のバンドのセッティングは、「常にハイハット側に立つ」というミッチェルのこだわりの結果なんだそうです。

 ディジー・ガレスピーは、この演奏の前、ペットを抱えウォーミングアップ代わりに、展示写真を鑑賞しながら、その演奏者の曲を吹くということを繰り返していたそうです。

 この逸話を教えてくれたハンスさんは当時まだ高校生、後にルネ・カールソンや ニッセ・サンドストーム、モニカ・ゼッタールンドといった地元の名手に可愛がられ、北欧のトップ・ベーシストとなりました。

you_are_me.jpg Red Mitchell-Tommy Flanaganコンビも大好き!二人はジョージ・ムラーツがレギュラーになるまでは、頻繁に共演していました。

 ということで、しばし二人の『You're Me』を聴きながら休憩したいと思います。

CU

2016年1月14日

コールマン・ホーキンスの肖像(4)

<親分子分>

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 左から: トミー・フラナガン、ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 '50年代から'60年代にかけて、ホーキンスはしばしば若手ミュージシャンと共演している。エディ・ロック(ds)、トミー・フラナガン(p)、メジャー・ホリー(b)といった面々である。最近、彼等はホーキンスについて次のように語った。

tommy_coleman.jpg トミー・フラナガン(p)「とてもユーモアがある面白い人だった。あの独特の低音で、物凄く長い物語をとうとうと話してくれた。その声はいつだって、他の誰よりも大きくて、彼のサックスと同じだった。あらゆるジャンルの音楽を網羅し精通していた。まさしく真の巨匠だ!」

 



eddie_terai.jpg エディ・ロック(ds)「私をクラシック音楽に開眼させてくれた人だ。自分の音楽にクラシックを取り入れたのだと確信している。それによって、彼のプレイは、他のサックス奏者と一線を画したものになった。もちろん、彼が演奏したのはジャズだが、むしろクラシカルなジャズと言うべきものだった。

 彼はまたピアノを非常に愛した。いつもピアノ弾きを家に出入りさせていた。例えばジョー・ザヴィヌル、それにモンク...モンクはね、コールマンが大好きだったんだ。彼はコールマンの前では別人だったよ!奇人でも変人でもない、きちんと普通に話をしていた。」(訳注:ロックは、ホーキンスと関わり深いサー・ローランド・ハナ(p)とトリオでOverSeasに来演し、そのときのCaravanでのドラムソロはOverSeas史に残る名演。)



 メジャー・ホリー(b): 「とても博学な人だった。音楽に関係のないことでも、驚くほどよく知っていたなあ。自coleman_hawkins-major_holley.jpg動車の構造にもすごく詳しかった。ほんとだよ、だって、私は自動車工場で働いた事があるので、よく判るのさ。(訳注:メジャー・ホリーもモーターシティ、デトロイトの出身で、フラナガン達の先輩。) 芸術一般に通じていたし、花のことまで良く知ってた。洋服のセンスは完璧、ワイン通でもあった。それに料理の名人だった!シチューを作らせたら、本格的なヨーロッパ料理みたいで、ジャガイモやニンジンが丸ごと入ってるんだ。それを食べに来いと招待されて、もしも行かないものなら、えらくご機嫌斜めになった。

 彼はピアノも弾けた。それもプロ顔負けの腕だった。サックスは、ロータリー呼吸法(鼻で呼吸しながら、口中に貯めた息で吹く呼吸法、これが出来ると息継ぎなして吹き続けることができる。)が出来たから、すごく長いラインを吹くことが出来た。チェロを手にとって、とてもうまく演奏したのも一度見たことがある。それが40年ぶりに弾いたというんだから驚いた。

 彼は人を笑わせる名人で、ジョークの天才でもあった。よくセントラル・パーク・ウエストの自宅に若手連中を呼んでくれた・・・トミー・フラナガンやローランド・ハナ(p)、ルー・タバキン(ts,fl)やズート・シムス(ts)といった面々だ。

 みんなが来ると、おもむろに、クラシックのレコードを一時間ほどかけるんだ。ショパンが多かった。レコード鑑賞の後、ローランド・ハナに向かって、今かけたショパンのエチュードを弾けと言う。その頃には、ローランドは当然のことながら、しこたまブランデーを飲んで出来上がっている・・・で、後は言わないでおこう。

 時々、ホーキンスはいたずら電話をかけてきた。電話のベルが鳴り受話器を取ると、グラスの氷のカチャカチャ言う音だけが聴こえていて、遠くで笑い声がする。そしてすぐ切っちまうんだ。とても人見知りでシャイな人だったが、すごく思いやりがあった。ツアーに出ると、刑務所で服役している知り合いのミュージシャンを面会に行ったりしていた、親友かどうかは知らないけどね。そうそう、セント・ジョセフに行くと必ずお母さんを訪ねていたな。規律や道徳というものをきちんと持っている人だった。子供時代に教わった礼節を大人になってもそのまま持ち続けた人だ。若者に興味を持っていて、自分のアイデアも伝えてくれた。若い人の為に演奏したいという大いなる野望があった。私達が一緒に仕事をしたのは、2-3年の間だ。私の大切な友人でもあった。だが、もっと彼をことを良く知りたかったよ。まだまだ自分は、彼のことを本当に理解していたわけじゃない。あれほどの人を完璧に理解するためには、余りにも時間が足りなかった。」 

〈この章了〉

2016年1月11日

コールマン・ホーキンスの肖像(3)

<コールマン・ホーキンス芸術の変遷>

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 1939年7月、ホーキンスはヨーロッパから帰国、10月に、かの有名な"ボディ&ソウル"をVictorに録音した。翌1940年初め、自己のビッグ・バンドを結成。ホーキンスの演奏は、その生涯で4段階に大別されるが、まさに第三段階の最良の時期に到達しようとしていたところであった。ホーキンスの第一段階は'20年代後半まで、サウンドは硬質で、リズムはスタッカートを多用するアグレッシブなアタックで、音の密度の濃いものだった。その時期は、ニュー・オリンズ由来で、歯車のような音を出すスラップ・タンギング 奏法さえ使用している。彼の演奏は、1930年代初頭、第二段階に移行し、彼のトーンは豊満さを極めた。スタッカートのアタックは影を潜め、代わりに豊かなビブラートを特質とするようになり、"トーク・オブ・ザ・タウン"、"アウト・オブ・ノーホエア"、"スターダスト"と言ったスロー・バラードを好んで演奏するようになる。出たとこ勝負、絶叫するような大音量、それまで現世の音楽だと思われていたジャズが、実は、この上なくロマンティックに成れる事を、ホーキンスが証明し、従来の「ジャズ」という概念を根底から覆したのである。

 103324636.jpgヨーロッパから帰国してからも、不遜とも言えるほどの自信は揺らぐことなく、出かける先々で、うやうやしくもてなされた。しかし、きっとなにか苛立ちを感じていたに違いない。
 Victorから発売された"ボディ&ソウル"、それは、飾り気なく、切れ目のない2コーラスの即興演奏で成り立っている。このレコードの大ヒットは、明らかに彼に活力を与えた。その後1940年から43年までの間のレコーディングはない。(ミュージシャン組合のレコーディング禁止令が理由の一つである。)'43年から'47年にかけては100曲以上の録音があるが、いくつかは凡作である。

ホーキンスを尊敬したマルチリード奏者、ボブ・ウィルバー は40年代初め、有名ジャズクラブ"ケリーズ・ステイブル"に出演したホーキンスを回想する。
bobwilbur.jpg 「コールマン・ホーキンスが出るから聴きに行こう!と、私たちは"ケリーズ・ステイブル"に繰り出した。彼はグレイのピンストライプのスーツを着て登場した。我々は何か特別な、ものすごい演奏を期待したんだが、ピアノ弾きが「ホーク、何を演るんだい?」と聞くと、ホーキンスは、ただ「ボディ」と言った。つまり、"ボディ&ソウル"のことで、当時の大ヒットしていた。後は、"アイ・ガット・リズム"のコード・チェンジを基にしたオリジナルの中から1曲、似たような曲をまた1曲演奏した。それでセットは終り、2時間たたないと次のセットはなかった。」

 彼のプレイは絶頂期を過ぎていた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言には絶対反対している。

 彼のスロー・ナンバーは、包容力のある音色、散漫とさえいえるヴィブラート、そしてどの曲のアドリブにも挿入される男性的な斬新なメロディで、他者と一線を画していた。一変してアップテンポのナンバーになると、大胆で向こう見ずになった。コーラスを重ねる毎に、曲を再構成しながら吹きまくった。息継ぎのために、一旦停止することは決してなかった。弾みをつけてたたみかけるように吹き、頭の中に聴こえるサウンドを、物凄い速さでサックスの音に置き換えた。例え、ごく稀にミスノートを吹いたとしても、そんなものは完璧な音の中で雲霧消散してしまった。彼の絶頂期の即興演奏に見られる濃密さと大胆さ、そして強靭さに、彼と肩を並べるのはアート・テイタム(p)だけである。(ホーキンスは1930年代初頭にアート・テイタムの演奏を初めて聴き、強い印象を受けた。)

 '40年代の終り、ホーキンスはノーマン・グランツのJATP に参加してツアーを始めた。'50年代にツアーを辞めて落ち着いてから、彼のスタイルに再び変化が起きた。彼の芸術的変遷は最終段階に入ったのである。時として、絶好調の状態もあったが、不安定な兆候が増え始めた。彼のヴィブラートは、消えたり、震えたりすることがあった。トーンは硬めになり、20年代終りの初期のサウンドを思わせるようになった。また驚くような甲高く、叫ぶ様なトーンのリアー・サウンドを使い始めた。創造的なメロディの迸りは減り、素晴らしいリズム感も衰えを見せ始めた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言にも異を唱えています。

<盟友ロイ・エルドリッジの証言>

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  ホーキンスのビッグ・バンドは失敗で、1年足らずしか存続しなかった。一時期、シカゴで活動、そこで彼はデロレス・シェリダンという女性とめぐり合う。二人は1943年にNYで結婚し3児をもうけた。コレット、ルネ、ミミである。ビッグ・バンド以降はJATPか、リズムセクションだけのワンホーン・カルテットを率いて活動を続けた。'50年代初めには、仕事をホサれる憂き目に会い、第一線に返り咲いたのは'50年代中盤で、亡くなる1-2年前まで、活躍した。

 彼は健啖家として有名であったが、徐々に酒が食べ物に取って代わっていった。晩年には殆ど何も食べずに、飲み続けるようになった。痩せ衰えて、長老の様なあごひげを蓄えていたが、それは多分やつれを隠す為だったのだ。椅子に腰掛けて演奏する時もあった。

 彼の死後間もなく、旧友ロイ・エルドリッジ(tp)が彼について語っている。

「コールマンは、何につけても最高級の奴だった。

 昔気質で、絶対にエコノミー・クラスでは旅行しなかった。

 そして、勿論、いかにも天才ホーン奏者だった!多分誰よりも私が彼をよく知っているかも知れないな・・私が初めて仕事をもらったのは1927年で、週給12$だったんだが、それも彼のおかげだよ。私は、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の"スタンピード"のレコードの彼のソロを一音漏らさずコピーしていたので、仕事にありついたんだ。

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 1939年に彼が5年ぶりでヨーロッパから帰ってきた時も、一番最初に一緒に居たのが私さ。私の愛車はリンカーンで彼はキャデラックだった。我々は旅でもいつも同じルートを追いかけ合っていた。同じ場所にダブル・ビルで出演したりしてね。 

 彼には近寄りがたい雰囲気があった。仕事で何かうまく行かない事があったら、皆彼に近寄らないようにして、僕の方に寄って来た。プライドは高いが、冷たい人間じゃなかった。それに、ユーモアのセンスもあった。好きじゃない人間とは距離を置いていただけさ。世間は、彼がレスター・ヤングを、最大のライバルとして嫌っていたと、言っとるようだ。しかし、私とコールマンは'50年代に朝までレスターと一緒に飲み明かしたこともあるんだぞ!それはJATPに出演していた時だった。一体なんでレスターはあんなにきちっとしてるのか調べようってことになってね。まあ、それは全く判らんかったんだが。

  亡くなるまでの5年間、コールマンは病気だった。殆ど食べる事を止めてしまった。随一の例外が中華料理だ。これもレスターとおんなじだ。私は夕方になると彼に電話をして、私が何を夕食に作っているのか教えてやったもんだ。すると彼は『へえ、そりゃうまそうだな。そっちへ食わせてもらいに行くよ。』と言う。来ないので、翌日また電話をすると、昨日の電話のことは全部忘れていた。 

chrysler-imperial-1940-1.jpg コールマンはいつでも金を持っていたが、無駄遣いはしなかった。彼はライカやスタインウエイ、300$の高級スーツを持っていたが、何を置いても、まずは妻子の生活費と家賃の$600を確保した。自分自身の小遣いなんてあるのかと思ったこともあったが、金の話はしない決まりだったんでね。

 昔、コールマンがロールス・ロイスを買いたいと言うので一緒に見に行った事がある。私は彼に言ったんだ。

 「おい、こんなもん乗り回してたら、バカだと思われるぞ。」ってね。そうしたら、奴はクライスラー・インペリアルを買ったよ。$8,000ポンと現金払いだった。だが、結局1000マイルも走っていないんじゃないかな。」

(続く)

2015年12月27日

コールマン・ホーキンスの肖像(2)

977.jpg  <生い立ち>

 

  ホーキンスは1904年、あるいはそれより数年前、ミズーリ州セント・ジョセフに、コーデリア・コールマンとウィル・ホーキンスの第二子として生れた。(第一子は女児で生後まもなく死亡。)「両親がヨーロッパでヴァカンスを過ごし、帰りの船の中で自分が生れた。」という話を、数々のインタビューで喜々として語っている。彼は人をかつぐ名人であり、伝説を作る名人でもあった。

 実のところ、彼の父親は電気工事の作業員であった。父は1920年代に事故死しているが、母親は学校教師で95歳まで長生きした。(祖母も104歳の長寿であった。) ホーキンスは5歳でピアノを始め、その後チェロを数年間学ぶ。テナー・サックスを与えられたのは9歳、13歳になると、もう心身ともに十分成長したことを確信した両親は、息子をシカゴへと送りだした。彼はこの大都会で、友人と同居し、高校に通った。

lg-louis-armstrong-and-king-oliver.jpg左:ルイ・アームストロング、右:キング・オリヴァー

 シカゴでは、キング・オリヴァー(tp)やルイ・アームストロング(tp)、ジミー・ヌーン(cl)を聴くことになる。高校卒業後、トペカ(カンザス州)のウォッシュバーン・カレッジに入学したと言うが、証拠はない。ホーキンスは、1921年にカンザス・シティの《12丁目劇場》に出演、そこでブルース歌手、マミー・スミスに見出される。彼女の伴奏者は、エリントン楽団のトランペット奏者、ババ・マイリーや、名マルチリード奏者、ガーヴィン・ブシェルなど、錚々たる顔ぶれであった。

 ブシェルはジャズ・ジャーナリスト、ナット・ヘントフのインタビューで、「12丁目劇場》に出演していた時にコールマン・ホーキンスと初めて出会った。」と証言している。

 ガーヴィン・ブシェル:オーケストラボックスにサックスを加えようってことになってね。だが、ホーキンスは、加入したサックスプレイヤーより、ずっと上だった。確かCメロディのサックスを吹いていたと思う。いずれにせよ、彼はまだほんの15歳くらいだった。我々が彼を巡業に連れて行く許可をもらおうと、セント・ジョセフのお袋さんの家を訪ねたら、こう言われたよ。

 『だめだめ!あの子はまだ、ほんの赤ん坊です。まだ15歳なんですからね!』

 若い頃から、途方も無い実力があった。ミス・ノートは全くなく、完璧な読譜力があった。あれから37年、。私しゃ彼が一音でもミスするのを、いまだかつて聞いた事がないよ。昔、サックスという楽器は、トランペットやクラリネットと同じような感覚で吹いていたもんだが、彼はそうじゃなかった。すでに、コード進行に添って吹くことも出来た。きっと、子供の時にピアノを習得していたからだ。」

fletcher_henderson_hawk.jpg 1922年、ホーキンスは、"メイミー・スミスのジャズ・ハウンズ"に入団、翌1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(左写真)に移籍、以後11年間在籍した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団(パワフルでありながら、好不調の波があり、楽団としての鍛錬は欠けていた。)は、1930年代の殆ど全てのスイングバンドの手本であった。そして、この楽団は、当代一流のジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(tp)、レックス・スチュワート(tp)、ロイ・エルドリッジ(tp)、ジョー・トーマス(tp)、ジミー・ハリソン(tb)、ベニー・モートン(tb)、J.C.ヒギンボサム(tb)ディッキー・ウエルズ(tb)、ケグ・ジョンソン(tb)、ベニー・カーター(as.tp)、ベン・ウェブスター(ts)、チュー・ベリー(ts)、ジョン・カービー(bs,tuba)、ウォルター・ジョンソン(ds)、シドニー・カットレット(ds)達を輩出した最高の学校でもあった。

<合理主義>

rex_stewart1.jpg 楽団の盟友、名トランペッター、レックス・スチュワートは著書『30年代のジャズの巨匠達』で、ホーキンスのことを回想している。

 「公演地に着くと、楽団のお決まりのメンバーで、こぞって街を見物することになっていた。とある町で、たまたまコールマンとデパートを見物に行ったことがある。すると彼は化粧品売り場で、大変高価な石鹸を半ダースも買った。ホークは『バーゲンで得だから、1年分の石鹸を買いだめした。』とのたまった。たった6個の石鹸だけで、どうやって1年持たせるのか?私はあきれ返った。ところが翌朝、ホテルの部屋でわけが判った。まず2枚の飾りの付いたきれいなタオルが出てくる。一枚は高級石鹸用、もう一枚は普通の石鹸用だった。この2枚はきっちりと区別してある。化粧用石鹸は1番タオルの隅に上品にこすりすけて、彼の顔や目の周りだけを洗うことになっていた。もう一方のタオルは、普通の石鹸を泡立てて、体を洗うことになっていた。」

 スチュワートは更に続ける。

 「Mr.サクソフォンのもう一つの顔は、倹約家の顔だ。だからと言って、ホークは決してしみったれた男ではない。用心深い人間だったのだ。彼が銀行預金への不信感を克服するまでは、常時$2,000、$3,000の現金をポケットに入れて歩きまわっていた!ある時は、夏のツアーの間に稼いだギャラを全部持ち歩いた。およそ$9000の大金だ。ある時、何かの事情で、ツアーの途中でギャラをもらえず立ち往生したたことがあったが、彼はポケットの中に蓄えた札束を見せて笑っていた。だが、例え自由の女神が、真昼のブルックリン・ブリッジで、ツイストを見せてあげると言ったとしても、彼は、25セント玉一枚すら浪費したことはなかった。」

 <花のヨーロッパ>

hawk_in_ch.jpg1937、於スイス、 Photograph by André Berner

 1934年、バンドリーダー、経営者であるフレッチャー・ヘンダーソンの無気力ぶりに辟易したホーキンスは、ヨーロッパの上流生活の噂に魅力を覚え、英国のバンドリーダー、ジャック・ヒルトンに電報を打った、すると、早速仕事のオファーが来た。楽団から6ヶ月の休暇をもらい渡欧したホーキンスは、結局5年間ヨーロッパに滞在する。恐らく、この時期がホーキンスの人生で最高の時期であった。

 彼は、ヨーロッパに初めて上陸した名ソロイストの一人として、行く先々で貴族の様に厚遇された。イングランド、ウエールズを旅した後、ヨーロッパ本土に腰を落ち着け、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、フランスと各国で演奏活動を行った。同時に、英国、オランダ、フランス、ベルギーのミュージシャンと録音を行った。現地の共演者の中にはジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリが、アメリカ人には、ベニー・カーター(as, tp その他編何でも)、トミー・ベンフォード(ds)、アーサー・ブリッグス(tp)がいた。

11576.jpg クリス・ゴダード著『ジャズ・アウェイ・ホーム』で、ブリッグスが見たホーキンスのパリ生活が紹介されている。

 「彼は本当に素晴らしい人だった。あれほどアルコールを大量に飲める人間がいる事も信じ難いが、あれほど飲んでもほとんど酔わないというのも、同じほど信じ難いことだった。・・・彼は毎日ブランデーを一瓶空にしていた。・・・よく昼下がりのダンスパーティにゲストとしてフィーチャーされたが、3曲ほど演って、あとはバカラ部屋でくつろぐのが彼の常だった。といっても賭け事はしない。バーでひたすら飲んでいた。私が演奏してくれるよう使いを遣ると、彼はすぐに帰ってきた。練習をしているのは見た事がない。・・・とにかく無口で、抜群に趣味が良かった。一足のソックスに大枚$20使っていたのを見たこともある。美しいシャツやシルクの小物に目がなく、王子のようにお洒落な格好をしていた。彼にとってヨーロッパは安息の土地だったのではなかろうか。」(つづく)0cce7dc63531437cbe816d5dc8e934f5.jpg