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2008年07月25日

Star-Crossed Loversが運んだ幸運の星:Lilian Terry

A_dream_comes_true_1.jpg A Dream Comes True/リリアン・テリー+トミー・フラナガン3('92 Soulnote)

  先日の The Mainstem Trio のライブでは、流星が降り注ぐようにロマンチックなStar-Crossed Loversが聴けました!明日の出演は再びMainstem!こんどはどんな曲が聴けるのかが楽しみ!
 
  先日、Mainstem=7月の曲 “Star-Crossed Lovers”を紹介した際に、フラナガンと共に名唱を残したリリアン・テリーのサイトから、このレコーディングの経緯や、取り上げた歌詞について問い合わせしてみました。返事が来なくてモトモトと思っていたんですが、とっても丁寧なお返事を頂きました。

  私なんか見ず知らずの日本人、大体イタリアの歌手です、英語で返事なんて邪魔臭いだろう…と思っていたらさにあらず! 頂いたメールの内容もさることながら、品のある素晴らしい英文の手紙でした。リリアン・テリーさんは、優しそうな歌のお姉さんに見えるけど、只者ではなかった…

  ジュアン・レ・パンにて:'66のリリアンとデューク・エリントン

 
  彼女のサイトから、経歴を見てみよう。

 リリアン・テリーはエジプト、カイロ生(レディのサイトに生年月日はない。)一般には、英伊混血の歌手と言われていますが、お父さんは、英国人と言えどもイギリス諸島ではなく、英連邦の地中海の島マルタ共和国の人です、お母さんがイタリア人、リリアンはカイロ、フィレンツェで国際教育を受け、現在、イタリー、ニース、LAに居を構えるコスモポリタンです。

   イタリアきってのジャズ歌手、イタリア・ジャズのゴッドマザーと呼ばれ、エリントンやディジー・ガレスピーなど多くのジャズの巨人達と親交を結び、ヨーロッパ全土、アメリカ西海岸などで音楽活動していますが、彼女のキャリアは単なる歌手にとどまらない。

   英、伊、仏語のマルチリンガルで、各国の公館通訳、翻訳者を経て、ローマにある国連食糧農業機関本部に勤務したキャリア・ウーマンらしいから、もともと上流階級の人なのかも知れない。

  歌唱以外のジャズの業績としてはディジー・ガレスピーの回想録のイタリア語訳を手がけたり、1987年から6年間、ディジー・ガレスピー・ポピュラー・スクール・オブ・ミュージックを立ち上げ、盲人コースも設立した。現在は人間ディジー・ガレスピーについての回想録を執筆中とのことです。

 そんな才女、リリアン・テリーから来たEメールには、Star-Crossed Loversの歌詞や、トミー・フラナガンとの共演のいきさつが細かく書かれていました。こんな内容です。

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親愛なるタマエ
 私のアルバムを気に入って頂けたとは、何て素敵なことでしょう!
喜んでトミー・フラナガンと共演したいきさつをお伝えしたいと思います。

  この当時、私は、数年間レコーディングのブランクがありました。というのも、声帯を痛め、治療をして、何とか歌えるようにはなったのですが、わざわざ国内のミュージシャンと録音する意欲を失っていたのです。

  ローマでジャズ・フェスティバルが開催され、あるディナーの席でたまたま向かいの席に座ったのがトミー・フラナガンでした。長年、私は彼の歌伴に魅了されていたので、彼にそう話すと、私が歌手なのかと尋ねられました。すると、私の長年の友人、マックス・ローチが話に入ってきて、「イタリーのトップシンガーで、ヨーロッパでも指折りの歌手だ。」と言ってくれたのです。すると、「一番最近録音したLPは?」と訊かれましたので、実はここ数年レコーディングしていないこと、でも、常々素晴らしい伴奏者を持っているエラ・フィッツジェラルドを羨ましく思っていたこと、その伴奏者、トミー・フラナガンとなら、ぜひ録音したいこと、さもなければ、私はもう二度とレコーディングしないと誓う、と言ったんです。

 トミーは、喜んでくれましたが、その反面、からかわれているのではないかと思ったようです。でも、何を歌いたいのかと訊いてくれました。"I Remember Clifford"、" Round Midnight"、"Lish Life"...私の歌いたい曲を並べると、彼は更に興味を感じたようでした。

22-LT-Duke-Hotel.jpg   Lテリーのサイトより:左からスティーヴィー・ジョーンズ、リリアン、ビリー・ストレイホーン、キモノでくつろくデューク・エリントン ('66 ジュアン・レ・パンのホテルにて)


 私は、トミーがエリントン-ストレイホーンの愛好者と知っていたので、こう言ったんです。「実はもう一曲、殆どのピアニストが演らない特別なバラードがあるんです。私は、その歌詞をビリー・ストレイホーンから特別に送ってもらったので、歌うことが出来るんです。」
 トミーはますます興味を惹かれた様子だったので、私はさらに続けました。「それは何年も前に録音された組曲で、ジョニー・ホッジス(as)が最高なんです!(トミーは殆どテーブルを乗り越えそうになっていました。)『Such Sweet Thunder』 という組曲なんですけど…」私が曲の名前を言う前に、先にトミーが当てました。「“StarCrossed Lovers”だね!!!僕も大好きなんだ!それで、君にストレイスが歌詞を送ってきたの?!

   すぐさま私たちは、お互いのスケジュールをチェックし合って、1,2日間のレコーディングの日程を決めたのです。ミラノにいる私のプロデューサーと相談して、数ヵ月後に録音しました。どの曲もリハーサルは一切なし、サウンドチェックを一回しただけです。
 サウンドチェックをして即本番、そして次の歌へ…今まで、こんなにリラックスして、共演者と一体感を感じたセッションはありませんでした。トミーと私は良い友達になり、私は彼に“クッキー・モンスター”とあだ名を付けました。だってレコーディングの間中、クッキーやビスケットをむしゃむしゃ食べちゃうんです。だから、私はあらゆる種類のクッキーをピアノの上に置いてあげました。

 もちろん、アルバム・タイトルは「A Dream Comes True: 夢が叶う」としました。

 その後、私はディジー・ガレスピー、ケニー・ドリュー、ヴォン・フリーマンたち色々なアーティストと録音しました。でも、あの時に、トミーの名人芸に応えた「私の声」を再び呼び覚ますことは叶わなかった…。
 あのLPが、成功作であったかのかどうかは判りませんが、全てはトミー・フラナガンと、彼の、私の歌に対する「聴き方」のおかげ、あるいは、“私と共に”そして“私のために”演奏してくれたおかげだと思っています。私達は、ぜひもう一作、と話し合いましたが、結局、彼は私を残し、他のジャズの天使達との演奏へと旅立って行ったのです。

 でも、あの作品を録音できたことだけで、私は十分に幸運であったと思います。だからこそ、あなたの心に触れて、メールを頂くことが出来たわけですしね。
 
 ご主人にも、私のレコードを聴いてくださった日本の皆さんにも、どうぞ宜しく!

 リリアン・テリー

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 ロメオとジュリエットに因んだ歌、「悲運の恋人達」の不幸な星は、天界を巡るうちに幸運の星と変わり、リリアン・テリーにトミー・フラナガンの名伴奏をもたらしたのだったんですね…

 
Good night, good night! parting is such sweet sorrow,
That I shall say good night till it be morrow.(ロメオ&ジュリエット第二幕三場より)

おやすみなさい、おやすみ・・・お別れとは、これほど切なく甘きもの、
それならいっそ夜明けまで、おやすみなさいと言い続けようか…

 私もいっそ夜明けまで、このブログを書き続けたいんですが、明日は、寺井尚之The Mainstem Trio 7月第二弾!! 
おやすみなさい、おやすみ・・・
CU

 
 


2008年07月21日

The Mainstemで夕涼み

ms_7_19.-1.JPG '08 7/19(土) 於OverSeas

 ピアニスト寺井尚之が、長年の英知を総結集して大きく育てる新ユニット、The Mainstemで、爽やかなジャズの夕涼み!

 

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   毎回違う素材を、Mainstemならではのしつらえで、お客様に満足していただくには、寺井尚之(p)だけでなく、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の、見えない努力が欠かせない。Mainstemのセカンドライブは、骨太でありながら冴え冴えしたサウンド、ダイナミクスの振幅も大きく、爽やかな後味だった。

kin%3Dmunazou-reunion.JPG "BOYS2MEN" 元寺井尚之ジャズピアノ教室のホープだった金ちゃんが、東京から久々に聴きに来て、むなぞう若頭とリユニオン!二人とも大人になったなあ…

 The MainstemSpecial Selection: 今夜の曲目 (曲目のブルーの字は、先週のジャズ講座に登場したナンバー。)

<1st Set>
1. Crazy Rhythm (Irving Caeser, Joseph Meyer, Roger Wolfe Kahn)
2. One Foot in the Gutter (Clark Terry)
3. Repetition (Neal Hefti)
4.Little Waltz (Ron Carter)
5. Well, You Needn't (Thelonious Monk)

<2nd Set>
1. Summer Serenade (Benny Carter)~ First Trip (Ron Carter)
2. Moon & Sand (Alec Wilder)
3. Mrs. Miniver (Dexter Gordon)
4. I Cover the Waterfront (Johnny Green)
5. Old Devil Moon (Burton Lane)

<3rd Set>
1. Syeeda's Song Flute (John Coltrane)
2. Central Park West (John Coltrane)
3. Trane Connections (Jimmy Heath)

4. Star-Crossed Lovers (Billy Strayhorn)
5. Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)

Encore: Caravan (Juan Tizol- Duke Ellington)

 <1st Set>
 オープニングで爽快にスイングした“クレイジー・リズム”は、昨年暮に講座で取り上げてから、寺井の愛奏曲になった。
Terry-1.jpg “ワン・フット・イン・ザ・ガター”は寺井尚之が大好きなトランペッター、クラーク・テリーのオリジナル、天井の高いひんやりした教会のステンドグラスを震わせるようにブルージーなピアノのエンディングに泣けた!『溝にはまった片足』なんて、変てこなタイトルでしょ? 実は「聖者の行進」の昔、テリーが育ったセント・ルイスの街でパレードの花形だったハム・デイビスというトランペッターに捧げた曲なんです。
 ジャズ史の影には無名の巨人が沢山いるのだ!ハムは、行進の時、わざと脇の溝に滑り落ちながら、ハイノートをピリっとも狂わせずにヒットする名手!クラーク・テリー少年のヒーローだった。メロディより遥か2オクターブ上を朗々と吹くペットの音は、町中に響き渡り、10マイル先でも、「あっ、ハムだ!」と判ったというのです。テリーは、もう一曲、“Two Feet in the Gutter”という曲もハム・デイヴィスに捧げている。

    リピティションは、ニール・ヘフティのダンサブルな曲、チャーリー・パーカーの、風が吹き抜けるような名演で知られている。寺井が、宮本在浩(b)+菅一平(ds)のリズムチームの為に書き下ろしたアレンジで、今後、The Mainstemのおハコになるでしょう!




 

  1-4,5,2-1,2はこのアルバムに!
『Sugar Roy』/ロイ・ヘインズ(ds)


“リトル・ワルツ”は、モネの「睡蓮」のように光や風の「ゆらぎ」を感じさせてくれます。宮本在浩(b)のベースラインが、ピアノのサウンドに絡まる様子が素晴らしかった!

ラストのモンク・チューンには、ドラムの菅一平が、強力にパワーアップしていることを改めて思い知らされました。

<2nd Set>
 湿気で鍵盤が重い故、ことさらタッチを研ぎ澄ませているせいか、湿気を含んだせいなのか、ピアノは熟した果実のような芳香を放ちます。夕涼みにぴったりのサマー・セレナーデをプロローグに、ジャズ講座で聴いたロン・カーター(b)が印象的だったファースト・トリップで、宮本在浩さんの茶目っ気溢れる、「変則ビート」が飛び出して、講座に来られていた常連さんはニンマリ!
  
 ムーン&サンドは、アメリカ東海岸の文化の権化みたいな、ユニークで偏屈でロマンチックな作曲家、アレック・ワイルダーの名曲。寺井のプレイで長年聴いてきましたが、今までのベスト・バージョンのひとつ!この夜のハイライトだった。ワイルダーは多分、ニューイングランドの夜の海をイメージして書いたのだろうけど、今夜のThe Mainstemのバージョンはどこの海だったのだろう…私はインド洋の離島、電気のないコテージで過ごした夜を想いました。
 Mrs.ミニヴァーも、『ザ・パンサー/デクスター・ゴードン』でジャズ講座に登場した曲、ゴードンの大きなストライドの吹きっぷりそのままに、ゆったりしたテンポでスイングしてヒップだったね!

 波止場に佇みは、寺井尚之にとって、映画の主題歌ではなく、ビリー・ホリディのおハコです。「恋人の帰りを、荒涼とした波止場で待ち望む切ない曲」ただし、ホリデイの歌う恋人は「きっと帰っては来ない」けど、寺井尚之の解釈には「希望」の光が点る。えっ?イントロのメロディがどっかで聴いた事あるけど思い出せないって? だからね、「男はつらいよ」のテーマ・ソングだったんです。こういうところが寺井イズム! 
 
 そして、ラストはオールド・デヴィル・ムーン ラテンと4ビートのギアチェンジで、ハッピーエンドに楽しく仕上げました。

 
<3rd Set>
  
 レパートリーの視点から一番惹かれたのはラスト・セット。コルトレーンの2作は、トレーンの作曲家としての偉大さを教えてくれます!ジミー・ヒースがトレーンに捧げたトレーン・コネクションズも、ライブでは滅多に聴けない名作で、聴けて良かった!
 寺井が初めてジャズを聴いたのは、予備校時代、涼みに入った真夏のジャズ喫茶での「至上の愛」だった。ジョン・コルトレーンの命日は7月。トレーンの曲は手強いけれど、バッパーが演ると、冴え冴えして色気が出るという見本だった。

 コルトレーンの世界から、いとも自然に7月の曲、スター・クロスト・ラヴァーズへ!この辺りの組み合わせが『メインステム流』!ロマンティックだけどベタベタしない、最高の七夕のバラード!
 ラストはエリントニアの極めつけ黒と茶の幻想!河原達人さんの数々の名演を見ながら覚えた菅一平のマレットさばきに目を奪わた。

 アンコールのキャラバンは、弾丸スピードのスインガー、F1スポーツカーで飛ばしながら、シフト・チェンジするのは、こんな快感なのだろうか?グルーブが変化しながら快感も加速!

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 次回のThe Mainstemは、今週の金曜日です。曲のウンチクを知らなくたって、初めてジャズを聴く人だって、フィンガー・スナップ・クラックル、きっと楽しいワンダーランド! The Mainstemにお越しやす! 

CU

2008年07月11日

スター・クロスト・ラヴァーズを聴きながら…

    7月にOverSeasで聴ける名曲に、“Star-Crossed Lovers”(不幸な星めぐりで、添い遂げることの出来ない恋人達)という、何とも美しいバラードがあります。日本人の寺井尚之は、星に阻まれた恋を「七夕」にしか会うことの出来ない、織姫、彦星に見立て、天の川のように瞬く幻想的なサウンドに乗せて聴かせてくれる。

<Such Sweet Thunder>
 タイトルも切ない“Star-Crossed Lovers”、今は昔、エリザベス朝時代、シェイクスピアが『ロメオとジュリエット』の戯曲で、造った言葉で、エリントン+ストレイホーンのコンビによる、シェイクスピア作品に因んだ組曲“Such Sweet Thunder”中の、『ロメオとジュリエット』楽章です。


 
組曲のタイトル・チューン、"Such Sweet Thunder"(かくも甘美なる雷鳴)は、“真夏の夜の夢”のセリフですが、「甘美に聴こえる雷」とは、エリントン楽団そのもの!この言いえて妙なネーミングはストレイホーンのアイデアかな…

  ビリー・ストレイホーン
は、バンドメンバーから“シェイクスピア”とあだ名を付けられる程、シェイクスピア好きだった。(何しろファーストネームもウィリアム!同性への哀切なソネットに共感したのかな?)で、組曲の依頼に、すごく張り切ったのですが、作曲期間は、たった3週間。デューク・エリントンは“バードランド”に出演中で、休憩中に、曲のデッサンを書きまくり、アパートに籠るストレイホーンは、作曲と組曲の体裁を整える…ところが、別の大プロジェクトが同時進行していて、到底締め切りに間に合わない絶体絶命でした。そこで、前に作っていた“Pretty Girl”というタイトルのバラードを、“Star-Crossed Lovers”と改題して使ったんです。

シェイクスピア組曲録音風景 組曲録音中のエリントンとストレイホーン

  料亭の「使いまわし」はマスコミに叩かれるが、このリサイクルは大成功!キーは D♭メジャー、A(8)-B(4)-C(4)-D(6)、計22小節という優雅な変則小節で奥行きを感じさせ、色気と品格を併せ持つ作品には、“プリティ・ガール”よりも、“Star-Crossed Lovers”の方がずっとぴったりすると思いませんか?

<村上春樹『国境の南、太陽の西』>

 この曲は、日本人バッパー、寺井尚之だけでなく、日本を代表する文学者、村上春樹のお気に入り!スタンダードではないから、ジャズファンよりハルキストの方がよく知っている曲かもしれませんね。「偶然の旅人」に先んじて、'90年代初めに書いた長編、『国境の南、太陽の西』には色んな曲が登場するけど、テーマ・ソングのように、全編、エリントン楽団の“Star-Crossed Lovers”が聴こえている。というより、作者がジョニー・ホッジスのプレイそのままに、一編の長編小説を作ってみたような印象さえ受けます。

kokkyou_no_minami.jpg
 読んだことのない方に簡単にストーリーを説明しておきますね。

 1951年という時代には稀な一人っ子として生まれ、何となく屈折した思いを持つハジメという名前の「僕」は、小学生の時、やっぱり一人っ子で、足の不自由な女の子、「島本さん」と出会い、唯一心を通わせるのだけれど、中学に入ると別れ別れになり、別々の人生を歩む。

 次に交際したガールフレンドは「イズミ」で気立ての良い魅力的な女の子だったが、「僕」は彼女の従姉妹と同時に肉体関係を持ち、「イズミ」をひどく傷つけてしまう。誰と交際しても、「島本さん」のようには、心を通わせることが出来ない。

 30代で「僕」はやっと結婚をし、子供をもうけ、都心の洒落たジャズ・バーのオーナーとして、適当に浮気もしながら、裕福な生活を送っている。
「僕」が経営する店に赴くと、必ずハウス・ピアニストは、彼のお気に入りの曲、“Star-Crossed Lovers”を演奏するのです。そんな彼の店、“ロビンズ・ネスト”に、「島本さん」が不意に訪ねてくる。美しい大人の女性に成長した彼女も同じように、ずっと自分のことを思い続けていたのだ。

  「島本さん」は私生活を明かさず、彼の店に通い詰めたかと思えば、数ヶ月姿をくらまし消息を絶ってしまう魔性の女、まるで星の巡行のように、数ヶ月単位で近づいたり離れたりするのです。「僕」は、そんな彼女に、どうしようもなくのめりこみ、とうとう箱根の別荘で一夜を過ごす。「気持ち」だけでなく「肉体」も結ばれるのです。
 
  思いを遂げて幸せになったと思えばさにあらず....
全てを投げ打って、島本さんと人生を再出発しようとする「僕」とは逆に、島本さんは「僕」と心中することを決意していた。「僕」と死ねなかった彼女は結ばれた翌朝、忽然と姿を消してしまう… そして、何も気づいていないと思っていた「僕」の妻も、夫の恋に気づいていて、自殺を考えていた事を知らされる・・・
 
 「島本さん」を失った「僕」は、映画カサブランカのリックのように、店のピアニストに向かって言う、「もう、スター・クロスト・ラバーズは弾かなくてもいいよ。」…
 
 
 結局、スター・クロスト・ラバーズは、「僕」と「島本さん」だけでなく、この小説に登場する全員のメタファー(隠喩)で、様々な「星」の行き違う様子を語った物語だったのだと、読んでから判るんです。

 ギリシャ哲学の「エロス」の概念のように、神に引き裂かれた自分の分身を求め、
過ちを犯しながら、喪失感を抱え彷徨うスター・クロスト・ラバーズ…古典的なテーマを、バブル期の東京を舞台に一気に読ませます。

リリアン・テリーの歌うStar-Crossed Lovers>

 前にも書いたように、トミー・フラナガンはこの曲を、《Tommy Flanagan Trio, Montreux '77》や、《Encounter!》で演っているのですが、もう一枚、イタリアのジャズ・シンガー、リリアン・テリーとの共演作でも、フラナガンは息を呑むようなソロ・ルバートを聴かせています。このアルバムは、ピアノの役割が、単に「歌伴」というカテゴリーに納まらないほど大きいんです。歌詞は、原型の<Pretty Girl>にストレイホーンが付けた歌詞を、ほんの少し変えて、とってもうまく歌いました。
 アルバムのタイトルは《A Dream Comes True》(Soul Note '82作)、楽曲や共演者に対する尊敬が伝わる、いい感じの作品です!

Star Crossed Lovers
 Billy Strayhorn=Duke Ellington

A_dream_comes_true_1.jpg A_dream_comes_true_2.jpg



Lover boy, you with a smile,
Come spend awhile with poor little me.
Lover boy, you standing there,
Won't you come Share my eternity?

You could make me a glad one I long to be
Instead of a sad one that you see.

Let me live for awhile,
Won't you give just a smile?

Lover boy, you with the eyes,
Won't you surprise me some fine day.

愛しい人、どうぞ私に微笑みを、
あなたを想う哀れな私と、
しばらく、共に過ごして下さいな、
愛しい人、佇むあなたをただ見つめるだけ、
どうぞ永遠の愛を受け入れて下さいな。

あなたなら、幸せの夢を叶えられる、
寂しい私を、変えられる。

しばらくだけでいいんです、
どうぞ私に生命を与えてくださいな、
微笑んでくれるだけでいいのです。

愛しい人よ、その瞳で魔法をかけて、
いつの日か、思いがけない喜びを下さいな。


 “Star-Crossed Lovers”のメロディを胸の中に鳴らしながら、私は、お店からの帰り道に、夏の夜空を眺める。
 小説を読むのもよし、エリントン楽団や、トミー・フラナガン、色々聴くのもいいけれど、私はやっぱりOverSeasで7月に聴くのが好き!
 『国境の南、太陽の西』に出てくる“ロビンズ・ネスト”みたいな、一流のバーテンダーはいないし、アルマーニのネクタイを締めたハンサムなオーナーもいないけど、プレイはずっとうちの方がいいと思う!

 そんなStar Crossed Lovers...Mainstemの演奏で7月にぜひ聴いてみて欲しい!

CU

2008年05月23日

寺井珠重の対訳ノート(9)  <Caravan>

Son_of_Sheilk.jpg  無声映画の大美男スター、ルドルフ・ヴァレンティノで大当たりした「キャラヴァン」映画、“熱砂の舞”

<キャラバン>は、寺井尚之の隠れた18番、ピアノとドラムのスリリングな掛け合いから、あのテーマが始まると、いつもお客様は大喜び!


 今月のジャズ講座では、トミー・フラナガン3の傑作アルバム『トーキョー・リサイタル(A Day in Tokyo)』の<キャラバン>が聴けた。キーター・ベッツ(b)の地響き立てて唸るようなビートと、ギラギラ光ってズバズバ時空を切る、黒澤映画のチャンバラみたいな、ボビー・ダーハム(ds)のスティックさばき、トミー・フラナガンが二人の持ち味を生かし、息を呑むようなトラックだった。

 来月のジャズ講座では、このアルバムから5ヶ月後、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルで同じトリオをバックにエラ・フィッツジェラルドが歌う<キャラバン>が次回のジャズ講座で聴けます。

ella_montreux_75.JPGモントルーはスイス、レマン湖畔の高級リゾート、このジャズ・フェスは当時カジノの中で行われていたのです。

 後で付いた歌詞は、砂漠を行く愛と冒険の旅路、レマン湖でヴァカンスやつかの間のロマンスを楽しむお客様にぴったり!下はエラが歌った1コーラス目です。







Caravan

曲:Juan Tizol,Duke Ellington/詞:Bob Russell

Night
And stars above that shine so bright,
The mystery of their fading light,
That shines upon our caravan.

Sleep
Upon my shoulder as we creep
Across the sand so I may keep
This mistery of our caravan.

You are so exciting,
This is so inviting,
Resting in my arms
As I thrill to the magic charm of you

With me here beneath the blue     
My dream of love is coming true
Within our desert caravan...
 

夜の砂漠、
輝く満天の星、
流れて消える神秘の流星は、
キャラバンに降り落ちる。

私に肩にもたれて、
眠っておいで。
砂漠を進む、キャラバンの
長き旅路に、
愛の魔法から醒めぬよう。

ときめく心、
わが腕に休む君、
君の妖しい魅力に囚われる。

空の下、君と寄り添い、
恋の夢は叶う、
愛の砂漠、二人のキャラバン…
 

   星降る夜空、砂漠の海、静かに進むキャラバン隊…異国の地に繰り広げられる愛と冒険のスペクタクル!歌詞のムードは、第一次大戦後に大流行したルドルフ・ヴァレンチノのサイレント映画(上の写真!)や、後に「アラビアのロレンス」として日本でも有名になった、砂漠の英雄、T.E. ローレンスの実話などの「砂漠ブーム」を強く意識したものです。

  実際の作曲者、フアン・ティゾールは、エリントン楽団のバルブ・トロンボーン奏者です。20歳の時、プエルトリコから第一次大戦後の好景気に沸く本土に渡って来た。それは、はラジオがやっと出来た頃、間違ってもTVなんかない! 当時、庶民の娯楽は、劇場に行って、サイレント映画と“実演”つまりバンド演奏やショーを楽しむことくらい。劇場のピットOrch.の楽員がとにかく足りなかった時代。
 プエルトリコは、本土よりずっとハイレベルの音楽教育で知られ、即戦力で使える音楽家の宝庫だった。だから、大勢のプエルトリカンがスカウトされてやって来た。ティゾールもその一人です。彼も劇場映画館のオーケストラ・ピットで、ヴァレンチノが砂漠の首長(シーク)として活躍する大スペクタクル映画、「血と砂」や「熱砂の舞」に女性達が失神するほどうっとりするのを観ていたに違いない。
juan_tizol.jpgフアン・ティゾール(1900-84)


 ティゾールは、<キャラバン>('36)の他にも<パーディド>など、楽団の為にたくさん作曲している。エリントンやストレイホーンだけでなく、こういう作品を総括したのがエリントニアなんです。

 '29年に入団し、15年間在籍した後、ハリー・ジェームズ楽団に破格の報酬で引き抜かれましたが、'51年、ジョニー・ホッジス(as)達、主力メンバーがドドっと退団した楽団の危機に、助っ人として再加入した。

 楽団での彼の役割は、アドリブで魅了するソロイストではなく、しっかりとしたテクニックでエリントン・サウンドを支える縁の下の力持ち。ヴァイオリン、ピアノetc…あらゆる楽器に習熟していたから全体を考えプレイした。
 勿論バルブ・トロンボーンでは、どんなに速く広く音符が飛び回るパッセージでも容易く吹ける名手であったから、エリントンは彼の為に、普通のスライド・トロンボーンでは到底演奏不能なパートを書きまくった。そんなティゾールの複雑なラインとサックス陣のとのコントラストが、随一無比のエリントン・サウンドを生んだのです。

 ティゾールの長所はそれだけではありません。「規律」という楽団にとって最も大切なものを守った。本番でもリハーサルでも、仕事場に、誰よりも早く入ってスタンバイしている人だった。アメリカの一流ジャズメンは、日本よりずっと体育会系で、ファーストネームで呼び合っていても、上下関係が凄いのです。先輩が早く入っていたら、いくら「飲む=打つ=買う」三拍子揃ったバンドマンでも、おいそれ遅刻など出来ません。こういうメンバーがいると、バンマスはどんなに楽でしょうか!

 故に、ティゾールはエリントンの代わりにコンサート・マスターとして、リハーサルを仕切るほど重用されました。ですからずっと後から来て側近となったビリー・ストレイホーンと確執があったのは、むしろ当然のことですよね!

 <キャラバン>のエキゾチックなサウンドは、サハラ砂漠ではなく、西インド諸島で生まれたフアン・ティゾールのものだった! エリントンは『ビバップとは、ジャズの西インド的な解釈である。』と言っている。
 この作品にも、ビバップを予見するように、オルタードと呼ばれるスケールが多用されています。

 それは、ティゾールをエリントンに結びつけた第一次大戦から、社会の変化につれて、ビバップへと連なって行く。

 その道筋もまたInterludeにとっては、愛と冒険の一大スペクタクル!
 
 次回のジャズ講座は6月14日(土)、ジャズ講座の本第5巻も新発売!

CU

2008年05月16日

ビリー・ストレイホーン(1915-67) 生涯一書生

BillyStrayhorn_2.jpg

 トミー・フラナガンは、ある午後、OverSeasで『Tokyo Recital』を聴きながら、寺井尚之に向かって言った。『ビリー・ストレイホーンは、一生エリントンの書生(a boarder)だった。そうとは書いていなくても、ストレイホーンが作ったものには、こっそりと自作と「ハンコ(stamp)」が押してあるのだ。』
 Boarder…どういうこっちゃ? フラナガンの言うBoarder…には、[下宿人]や、「寮生」というよりも、『書生』に近い意味合いが聞き取れた。そんなもんアメリカにあるのかしら? 

 ビリー・ストレイホーン…OverSeasのスタンダードナンバー、<チェルシー・ブリッジ>や<レインチェック><パッション・フラワー>の作者、なんと言っても有名なのは <A 列車で行こう>や<サテン・ドール>だ。
 トミー・フラナガン青年が、『Overseas』の録音前、街で見かけたビリー・ストレイホーンに、「今度あなたの曲を録音させていただきます。」と挨拶したら、出版社までトミーを誘い自作の譜面の束をどさっとくれた紳士だ。エリントン楽団は何度もTVで観たけど、ストレイホーンは映ってなかった…「書生さん?」どんな人なんやろう? 

 それから私は、ストレイホーンの関連する文書を手当たり次第に読んだ。丁度、'92年頃に、米ジャズ界でストレイホーン・ブームが起こり、色んな雑誌でストレイホーンの特集が組まれた。数年後、音楽ジャーナリスト、David Hajdu (日本ではデヴィッド・ハジュだけど、本当はハイドゥと読むらしい。)が書いたストレイホーン伝、『ラッシュ・ライフ』が、ジャズ界で大センセーションを巻き起こした。
 lush_life_book.jpg

  何故なら、ビリー・ストレイホーンはゲイの市民権のない時代、ホモセクシュアル故に、正当な評価を得られなかった孤高の天才音楽家として、偉大なるデューク・エリントンの実像は、彼の天才を踏み台にして名声を得たバンド・リーダー、という構図で描いていたからだ。
 ジミー・ヒースやサー・ローランド・ハナ達、良識派は『あんな本あかんっ!』とカンカンになっていた。だけど、こっそり読みました。
  
 『生涯一書生』とは禅の言葉、楽天の監督、野村克也はそれに倣い「生涯一捕手」と言うけど、ストレイホーンは禅の境地だったのだろうか?それとも…

<いじめられっ子とヒーローの出会い> 
 ビリー・ストレイホーンは、エリントンより16才年下だ。お坊ちゃん育ちのエリントンと違い、生活は苦しかった。生まれつき体が弱く、母と祖母からは溺愛されたが、アル中で工場労働者の父から虐待され、学校では、Sissy(女っぽい男)といじめに合ったという。ただし、音楽の才は並外れていて、ピッツバーグの高校時代には、楽器なしに考えるだけでオーケストラのフルスコアを書き、いじめっ子も「天才」と一目置いた。
 ビリーはクラシック音楽家を志すのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ない。将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退、ジャズにクラシックと同じ美点があるのに気づき、ドラッグ・ストアでアルバイトしながら、地元でミュージシャンとして活動していた頃、エリントン楽団が町にやって来た。

 それは、ビリーが23歳の時。ビリーを応援するバンド仲間が、ツアー中のエリントンにアポを取ってくれたのだ。ピアノの腕と作詞作曲、編曲の才能に驚いたエリントンは、即編曲の仕事を与えた。<Something to Live For>は、その時に持参した作品です。

 翌年から、ビリーはNYで、エリントンの助手として仕える。エリントン楽団のテーマ、ハーレムの香り漂う<“A”列車で行こう>は、NYのエリントンを訪ねた時、手土産代わりに持参した作品で、ピッツバーグで、A列車に乗ったことのないビリーが書いたもの、最初は作風がエリントンのイメージと違うと、ボツになった作品だったのです。

 

<“A”列車で行こう>
 師匠であるエリントンが修業中のビリーに命じたことは唯一つ。「観て覚えろ (Observe)」だったと言います。
最初は、下働きのストレイホーンの存在感が一挙に高まったのは、'42年アメリカで起こった音楽戦争、『録音禁止令』のおかげだった。『録音禁止令』(Recording Ban)とは大手著作権協会ASCAPが、著作料の大幅値上げを一方的に決めた為に、音楽家協会とラジオ局が、ASCAPに属する楽曲の放送や録音を、全面的にストップしたという事件です。エリントンの曲は全てASCAP帰属だから、レコーディングもラジオ放送もできない。ところが、録音禁止令の直後にラジオ出演が入っていた。どうしても48時間以内に、エリントン名義でない大量の楽団スコアを用意しなければならない。絶体絶命だ!

 ストレイホーンと、エリントンの息子、マーサーが、不眠不休で仕事をして、何とかレパートリーの準備をする。今までの楽団のテーマ・ソング<セピア・パノラマ>に替わって使われたのが<“A”列車で行こう>で、世界中でヒットした。その間、エリントンはどうしていたかって?もちろん楽団を率いて仕事です。だからバンドリーダーであり、大作曲家というのは、例外中の例外なのです。

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<スイーピー&モンスター>
 自作曲が楽団のテーマになり、全幅の信頼を置かれたビリーは、文字通りエリントンの影武者として、演奏に多忙なエリントンの代わりに、作曲、編曲、映画やショウの監督、レコーディングのピアノ演奏に至るまでエリントン名義で担当する。寺井尚之ジャズピアノ教室で配布しているエリントン著の「ブルース教本」も実はストレイホーンの執筆だ。モンスター、スイーピーと呼び合うエリントンとストレイホーンの仕事は、どこからどこまでが区切りか本人すら判別出来ない程緊密で、今も音楽史上最高の共同作業と言われる。その事実は業界の人だけが知ることで、一般には公表されていなかったのです。
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 スポットライトが当たらない代わりに、ビリーは自由気ままな生活を享受します。兵役を免れ、偽装結婚をする必要もなく、ボーイフレンドと豪華なアパート暮らし、高価な美術品を集め、創作活動に没頭した。多くの州で同性愛が逮捕された時代、公民権法もなかった時代のことです。
 おまけに、多額の生活費用は、全てエリントン自身が決済していた。つまり、ストレイホーンに給料はなく、エリントンがポケット・マネーで彼を養っていた。フラナガンの言うように、雇用関係のない『書生』だったのです。彼がこのまま世間知らずで一生送れたらどんなに良かっただろう。

wlena.jpg  レナ・ホーンとストレイホーン

 
<迷子のスイーピー>
 スイーピーとモンスターの稀有なパートナーシップは、実の息子、マーサー・エリントンや、生え抜きのファン・ティゾールなど、多くの取り巻きとストレイホーンの間に軋轢を生じ、状況は変わっていきます。
 反面、ストレイホーンの味方には、クラーク・テリーやジョニー・ホッジス達がいた。意外にも男臭さ溢れるテナー、ベン・ウェブスターや、夭折のベーシスト、ジミー・ブラントンも親友だ。中でも仲良しだったのが絶世の美人歌手、レナ・ホーンだ。
 彼女と夫の編曲家レニー・ヘイトン(マーサー・エリントンの同窓生)は、ストレイホーンに音楽出版会社を作ろうと独立を誘う。著作権が莫大な金額を生むと教えた。世間知らずのビリーは、自分に著作権がないことに初めて愕然とするのです。まるで、リンゴを口にしたアダムとイヴの話の様に、ビリーは、気楽に思えたエリントンの庇護から独立を望むのです。

 それを知ったフランク・シナトラも、音楽監督としてビリーを好条件で引き抜こうとしますが、エリントンは、裏で手を回して計画を阻止していく。楽団のスター・プレイヤーは放出しても、スイーピーを外に出すことは徹底的に拒否したのです。時は'48年、ビッグバンド凋落の時代でエリントンが経済的に難しい時代というのを忘れてはいけません。結局、ビリーは楽団を離れて活動するのけれど、ブロードウエイも、歌の世界でも、「知名度が低い」という現実をつきつけられ挫折。放蕩息子の帰還のように、'51年にはエリントンの元に戻ります。

<ラッシュ・ライフ>
 再び二人の共同作業が始まって、更にエリントンはステイタスを高めるのですが、今度はビリー・ストレイホーンを出来るだけ前面に出して気遣いを示します。二人の第二期黄金期の代表作、『くるみ割り人形のジャズ・ヴァージョン』のジャケットに、二人の顔写真が並んでいるのは、エリントンの気遣いを象徴したものだ。それでも、抵抗勢力との確執は続いた。エリントンという大所帯にはビリー・ストレイホーンの名声は別不要なものだった。ストレイホーンが終生、名声を得られなかったのは、人間としてのエリントンより、エリントンが抱える組織の事情が大きかった。

Duke Ellington - The Nutcracker Suite

 ナット・キング・コールがヒットさせた<ラッシュ・ライフ>には、そんな彼の行き場のない思いが感じられます。
 焦燥感を紛らわせるために、父親同様、酒に溺れそうになるストレイホーンにとって、希望を与えてくれたのが、キング牧師と自由公民権運動です。フラナガンや寺井の得意とするU.M.M.Gは、同じキング牧師の支援者で、ボランティア活動に貢献したエリントンの主治医に捧げた曲なんです。でも、ワシントン大行進の頃にはストレイホーンは食道がんに侵され、今までのような享楽の生活は叶わなくなっていた。

 エリントンは、病魔と闘うストレイホーンの最期まで、経済的な援助を続けた。リノのカジノで悲報を受けた時には、その場で泣き崩れたと言う。ストレイホーンの葬儀でのエリントンの表情、エリントンの音楽と同じように、言葉では言い表せない深い思いが読み取れて、どんな名画のシーンよりも心を打たれます。

 ハイドゥの言うようにエリントンはストレイホーンを利用した打算的な人間だったでしょうか?私にはそう思えない。エリントン楽団が亡くなったストレイホーンに捧げたアルバム、『And His Mother Called Bill』('67)を聴くと、どうしてもそうは思えないのです。

エリントンやストレイホーンを知らない人も、このアルバムは一度聴いてみて欲しい!

 エリントンは自伝にこんなことを書いています。
 「芸術家たるもの、自分の信条は、言葉であれこれ言うべきものではない。自分の作品で表現することこそ芸術家の使命なのだ。」


2008年05月12日

寺井珠重の対訳ノート(8) <Something to Live For>

Billy_strayhorn-Duke_ellington.jpeg 左:デューク・エリントン、右:ビリー・ストレイホーン 

 昨日のジャズ講座では、待望の『Tokyo Recital/ Tommy Flanagan3』を皆で聴くことが出来ました!エリントン楽団の名演をピアノトリオで演るには、キーを変え、キーター・ベッツ(b)と、ボビー・ダーハム(ds)の妙技を120%生かす…フラナガンの頭の中が講座で少し覗けた気がしました。

  寺井尚之が歌詞付きの譜面を出して解説した名曲が今も心の中で鳴っている。それは、青春の危うさと、希望の炎が、陽炎(かげろう)の様にきらめく不思議なバラード、<Something to Live For サムシング・トゥ・リブ・フォー>、OHPに出された五線紙上の歌詞が余りに小さくて、もったいなかった。だって、トミー・フラナガンのピアノは、この歌詞をストレートに歌い上げたものだったから。
 寺井の膨大な譜面には、歌詞を書き込んだものや、対訳まで横に付けているものが多い。

 ストレイホーンが二十歳になるかならない青春時代に書いたものです。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの共作とクレジットされているけど、実はストレイホーンが初めてエリントンを訪ねた際、持参した譜面の中で一番気に入られた曲だと言います。早くも翌年には、レコーディング('39)された。現実のビリーは、ピッツバーグで暖炉も別荘もなく、アル中の父から家庭内暴力すら受けていたと言います。だけど、この作品は現実逃避のファンタジーというには、メロディも歌詞も余りに愛らしい。
 昨夜、歌詞が小さすぎて判りづらかった皆様に、それから、昨日だけよんどころない事情で来れなかった、いつもの仲間に感謝を込めて!

 

Something to Live For/ Billy Strayhorn/Duke Ellington

<Verse>
I have almost everything
 a human could desire,
Cars and houses, bearskin rugs
To lie before my fire,
But there's something missing,
Something isn't there,
It seems I'm never kissing
The one whom I could care for,


<Chorus>

I want something to live for,

Someone to make my life an adventurous dream

Oh, what wouldn't I give for

Someone who'd take my life and make it seem

Gay as they say it ought to be.

Why can't I have love like that brought to me?

My eye is watching the noon crowds,

Searching the promenade,

Seeking a clue

To the one who will someday be

My something to live for.

<ヴァース>
 人がうらやむ贅沢も、

 殆ど私は手に入れた。

 車や家や別荘も、

 熱い暖炉のその脇の、

 熊の毛皮の敷物も…

 なのに何かが欠けている。

 どうやら、私にないものは、

 本当の恋人、燃える恋。

<コーラス>

 求めるのは生きる喜び、

 冒険の夢を見せてくれる人、

 私の命を輝かせ、

 それが定めと言うのなら、

 その人のために進んで死ねる、

 そんな恋がしたいのに。

 昼間の喧騒の町、

 私は人の行きかう通りを探す。

 運命の糸口が開けるように、

 私の生きがいとなる、

 その人の手掛かりを求め。


下は、エラ・フィッツジェラルドとデューク・エリントン楽団のヴァージョン、ピアノはフラナガンが伴奏者として絶賛するジミー・ジョーンズです。
 
 トミー・フラナガンのTokyo Recital (Pablo)もぜひ聴いてみてください!これはもう、最高です。 
CU

2008年05月09日

トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン




 今週の土曜日のジャズ講座には、<トーキョー・リサイタル>(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
 '75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。

 当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
 それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。

 <Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。

 ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も"A列車で行こう"も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。

 だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。

 ellington_1.jpg ピアノとワードローブに囲まれたデューク

撮影ハーマン・レオノール

(その1)デューク・エリントン

<明治のぼんぼん>
  “デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。"アンタッチャブル"でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。

Fats_Waller.jpg エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
 
  ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。'23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。

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<禁酒法に学ぶ>

  エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。

  エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
 非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。

エリザベス女王に謁見するエリントン

<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
 中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
 「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」

   '38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。

<エリントンの楽器はオーケストラだった。>

 エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
 留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」

 以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?

 Duke-Ellington--at-the-Graystone-Ballroom--1933-.jpegトミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター

 ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
 
 次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!


その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!

CU

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