2016年10月13日

秋のトミー・フラナガン・トリビュート11/19(土)開催!

tommy10870004.JPG  
  暑かった夏がやっと過ぎ、肌寒い季節になりました。皆様いかがお過ごしですか?

 OverSeasの年中行事、トミー・フラナガンを偲ぶ秋のトリビュート・コンサート"Tribute to Tommy Flanagan"、今年は11月19日(土)に開催します。

 名曲Dalarnaを始めとするオリジナル曲、フラナガンがこよなく愛したサド・ジョーンズやエリントンの楽曲、ビリー・ホリディのヒット曲、そして深いメドレーなどなど、レコードで、そしてライブやコンサートで感動を与えてくれた名演目の数々を、トミー・フラナガンの弟子として今もなお研鑽を重ねる寺井尚之率いる名トリオ、The Mainstem (宮本在浩-bass 菅一平-drums)の演奏でお聴かせします。

 長年のフラナガン・ファンから、日頃ジャズに馴染みのない方々も、来てよかった!と思って頂けるコンサートにいたします。

"Tribute to Tommy Flanagan"ぜひお越しください!

mainstem_1116.JPG

 

 "Tribute to Tommy Flanagan" トミー・フラナガン追悼コンサート

    演奏:寺井尚之メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)

 11/19(土) 7pm- / 8:30pm- (入れ替えなし)

 前売りチケット(3000円)は当店にて発売中。お早めにお求めください。

 

 

2016年3月24日

トミー・フラナガンの名演目(4) Sunset and the Mocking Bird

albumcoverTommyFlanagan-SunsetAndTheMockingbird-TheBirthdayConcert.jpg<Sunset and the Mocking Bird>は トミー・フラナガンの『バースデー・コンサート』('98)のタイトル曲もなった名演目。もうすぐトリビュート・コンサートで演奏する予定の寺井尚之によれば、この曲こそが、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの「神コラボ」の白眉!

 トミー・フラナガンは'70年代、NYのジャズ系FMの番組のテーマ・ソングに、エリントン楽団のオリジナル・ヴァージョンが使われていたので、自然と聴き覚えてレパートリーになったと言っていて、確か'82年、フラナガンが来日した時( Rufus Reid-bass、Billy Higgins-drums)でも、メドレーとして演奏していましたから、長年の愛奏曲です。

<女王組曲>

mockingbird0661.jpg この曲の霊感は、フロリダ半島で聴いた不思議な鳥の鳴き声だったそうです。エリントンは、一番の側近である名バリトン奏者、ハリー・カーネイの運転する車に同乗し、次の公演地に向かっていた時、夕暮れの山合いに聞いたその鳴き声の主が、モッキンバード(モノマネドリ)だと聞き、車中で一気に描き上げた、デューク・エリントンの自伝的エッセイ『Music Is My Mistress』には、そのように書かれていますが、真実はエリントンとストレイホーンのみぞ知る...

 夕暮れの壮大な大自然の美が、AABA形式の中にすっくり収められた、山水画のような名曲、この作品は、1958年、英国のエリザベス女王に献上した『女王組曲』の冒頭に収められました。

<たった一枚のLP>

Ellington-Meets-British-Royal-Family.jpg

 1958年、エリントン楽団は、イングランド、ウエストヨークシャーのリーズ音楽祭に出演、リーズ市長が主催するレセプションに招待され、ロイヤルファミリーに謁見することになりました。エリントンは幸運にも、謁見の列の最後尾に居たために、エリザベス女王とフィリップ殿下夫妻と、一番長いおしゃべりを楽しむことになります。

「英国は初めてですか?」と女王に尋ねられたエリントンはすごく緊張したそうですが、「いえ、初めてお邪魔したのは1933年ですから、女王陛下のお生まれになるずっと前です。」と答えたんだそうです。

 すると女王陛下は、父君の英国王、ジョージ6世がエリントン楽団の膨大なコレクションを持っていることや、フィリップ殿下も大のエリントン・ファンであることを、とても打ち解けた様子で語ってくれた。感激したエリントンは「それでは、ぜひ陛下の為に音楽をお作りします。」と約束したんだとか。

41MSZTY333L.jpg 早速ストレイホーンと共に6つのムーヴメントを作り、ジョニー・ホッジス(as)、ハリー・カーネイ(bs)、ジミー・ハミルトン(cl)、キャット・アンダーソンという錚々たる楽団メンバーを招集し、自費で録音、たった一枚だけその場でプレスし、バッキンガム宮殿の女王陛下に献上して、約束を守ったというのです。そして、その事実は、PRの種に使われることもなく、エリントンが亡くなるまで、全く外部に公表されなかった。

 ビリー・ストレイホーンが亡くなって6年、デューク・エリントンが亡くなって2年後、エリントンの子息、マーサー・エリントンが、このテープを売却、他のいくつかの組曲と共に、『Ellington Suites』というアルバム名でリリースされ、私達に聴くことが許されたといういわくつきの組曲です。

  トミー・フラナガンは、エリントン+ストレイホーンの神コラボの真髄を本当に上手に捉えて、モッキンバードの鳴き声が、ピアノの神タッチで鮮やかな夕焼けの中に浮かび上がります。大自然を描いたエリントン―ストレイホーンによるビッグバンド作品を、そのままピアノ・トリオのフォーマットで表現してみせたフラナガン円熟期の美学は、大自然を、そのまま庭園として表現したり、小宇宙的な盆栽を作ったりする、私達の芸術感と共通するものを感じずに入られません。

 トリビュート・コンサートでは、フラナガン譲りのピアノの色合いも聴きどころ!どうぞご期待ください!

 

 

2016年3月17日

神コラボ:デューク・エリントン&ビリー・ストレイホーン

duke_ellington_billy_strayhorn.jpg

 左:デューク・エリントン(1899-1974) 右:ビリー・ストレイホーン(1915-1967)

 3月26日は28回目のトミー・フラナガン・トリビュート、ここ何週間もの間、寺井尚之以下The Mainstem Trio(宮本在浩 bass 菅一平 drums)一丸となって、フラナガン三昧のプログラムを順調に仕上げているところです。

 公私共に、色んな行事と用事が舞い込んで、それなりに充実した毎日でしたが、気が付くと、もう3月後半!ご無沙汰で~す。書きたいことは山程あるのに、長らく時間が作れませんでした。

 さて、今回は、トリビュート前のお楽しみ、トミー・フラナガンが子供の頃から心酔し、生涯愛奏した名曲群を生み出した二人の天才、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの関係と、途方も無くアンビリーバブルな「共同作業」について語られる神話の数々を。トリビュート・コンサートでも、二人の名曲が一杯聴けます。

 <二人の出会い:神のプレゼン>

 デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、この二大天才の共同作業ほぼ30年に渡って続きました。かつてエリントンは、ストレイホーンの存在について、こんな風に説明しています。

「彼は私の右腕であり、左腕、私が見えないものを見通してくれる目だ。私の頭脳には彼の脳波が流れ、彼の頭脳には私の脳波が流れている。」

 ベターハーフ・・・そう言えば、ギリシャ哲学の授業で習ったなあ、古代の哲学者プラトンは、対話集「饗宴」で愛とエロスとは、原生時代に神によって切り離された、自分の半身を求める行為で、その方割れは異性に限らないと。

 二人の年齢差は16才、エリントンが、19世紀末の黒人社会の中では、比較的裕福なお坊ちゃん育ちであったのに対し、ストレイホーンは、当時どんな家にもあったとされるピアノすらない貧しい家庭に生まれ、アルバイトに明け暮れながら音楽の勉強をした苦労人だった。

 ハイスクール時代から、仲間内では"天才くん"として有名だったストレイホーンがエリントンの音楽に出会ったのは18才のとき、映画館で観たスリラー映画『 Murder at the Vanities/ 邦題:絢爛たる殺人』のワン・シーンだった。リストのハンガリー狂詩曲第二番を堅苦しく演奏するクラシックの舞台に、突如エリントン楽団が登場、リストのこの曲で強烈にスイングし、喝采をかっさらうという派手なレビューの場面。

 ストレイホーン少年は、その華やかさにうっとりしながら、エリントン楽団が発するコードの構成音が判別できずに悩んだ。そこが天才!いつの日かエリントンに会ってみたい!あのコードが何か訊いてみたい!そんな夢を持った。3年後の或る冬の日、その夢は思いがけないかたちで叶うことになります。ストレイホーンの才能を認め、世に出ることを応援してくれたバンド仲間の父親が、エリントンの興行の面倒を見ていたガス・グリーンリーというピッツバーグの黒人社会の大親分で、掛け合ってくれたのです

「愚息の友達に、ちょっと出来る子が居てね、いい曲を書くんだ。実際モノになるかどうか、わしには判らんので、ちょっと見てやってくれないかね。」 

 きっとエリントンに、こんなセリフは耳にタコだったはず、当代随一のエリントン楽団に入団したいミュージシャンは、有名無名、自薦他薦に関わらず、ワンサといて、行く先々で、ありとあらゆるコネに頼って、オーディションを請われていたはずですから。

 ともかく、ピッツバーグの劇場に招待されたストレイホーンは、精一杯の一張羅を着こみ、書きためた自作の楽譜を抱え、幕間にエリントンの楽屋を訪問した。

 折しもエリントンは、付き人達にかしずかれ、仰向けになって、縮れっ毛を伸ばす"コンク"と呼ばれるストレートパーマ中、液が目に染みるので、胸ときめかせて挨拶する青年の姿を見ようともせず、目を閉じたまま、こう言った。

「そこのピアノで何か弾いてよ。」

 ストレイホーンは、ピアノで自作を弾き語りし、たった今エリントン楽団が演奏したばかりのアレンジと、その曲に対する自分なりのアレンジの弾き比べをして聴かせると、エリントンはベタベタの頭のまま、ガバッと起き上がって、あの大きな目を見開いて、まじまじと、この青年を上から下まで見つめ、側近中の側近、ハリー・カーネイに立ち会うよう、付き人を走らせた、といいます。

 「うちの楽団にピアニストはいらないが、NYに帰ったら、何とか君が入団できるよう、ポジションを考えてみよう。」エリントンは取り合えず、20ドルという大金でストレイホーンに作詞を依頼してくれたものの、それ以後はなしのつぶて、もうこうなったらNYに自分から行くしかない!数カ月後、トレイホーンはエリントンを訪ねて、NYに赴きます。"A列車で行こう"は、エリントンからの連絡を待ちながら、まだ見ぬハーレムへの思いを綴った作品だったのです。

<エデンの園で>

315_convent.jpg左:315 Convent Ave.:ストレイホーンが住んだハーレムのアパート 

 エリントンは単身やってきたストレイホーンを住み込みの弟子(トミー・フラナガンは「書生」と読んでました。)として迎え、息子のマーサー・エリントンや娘のルースと家族同然、ハーレムの自分のアパートに住まわせ、演奏現場に付き人として同行し、エリントン・サウンドがどのようにして作られていくのか?各楽団員達の個性の活かし方や、音楽の組み立てかたを、自分の背中から学ばせたのです。

 1930年代終盤、ペンシルバニアの田舎町からNYにやってきた20代後半の青年、ストレイホーンは、黒人文化のメッカであるハーレムのど真ん中で、超ド級のエリントン芸術を、空気のように吸い込んで、自分の中に取り込んでいきます。折しも、ハーレムではビバップが産声を上げていた。ストレイホーンはエリントンのスコアを吸収すると同時に、《ミントンズ・プレイハウス》でディジー・ガレスピーやセロニアス・モンク達が繰り広げる音楽の実験にも足蹴く通い、ジャムセッションに参加しています。そして、その当時は「罪」であった彼の同性愛嗜好を受け容れてくれる知的で富裕なソサエティも、大都会NYにはあったのです。

 エリントンの庇護の元、彼の陰で、自分の名前を表に出さないことと引き換えに、ストレイホーンはゲイであることを隠さずすんだのかもしれません。彼の匿名性と自由は、皮肉にも表裏一体のものになっていた。20代の若さで、芸術の花を開花させていくストレイホーンにとって、これ以上の幸せはない。ハーレムは彼にとってまさに「エデンの園」だった。彼が自作品のクレジットをエリントンに譲らなければ、莫大な「著作料」が自分の手元に入ることを知ったとき、そこはエデンの園ではなくなってしまうのですが・・・

<神々の共同作業>

gettyimages-84893372-99a85a5dfcaef45197c21002ed836a7fb38a0038-s900-c85.jpg

 さて、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、二人の天才の共同作業とは、一体どんなものだったのでしょう?エリントニアを隅々まで知りつくすトミー・フラナガンは、かつて私達にこう語ってくれました。

「どれほど巧妙に作っても、ストレイホーンがペンが入れた場所には自分の<スタンプ>がちゃーんと押してあるんだよ。」その言葉の後で、すごく得意そうに、子供みたいな笑顔を見せたのが忘れられません。

 楽団で実際に彼らのスコアを長年演奏してきたジミー・ハミルトン達も、同じような事を証言しています。でも、彼らのように飛び入り優れたミュージシャンでなく、資料に頼る研究家には、正確に言い当てるのは不可能らしい。何故ならこの二人、手書き譜面の筆跡も、区別がつかないほど似ているのです。

 また、この二人の共同作業は、同じ机で同時に行われる、というようなものではありませんでした。エリントンが年中バンドと一緒に世界中を飛び回り、遠隔地からストレイホーンでに簡単に指示のみで創作させた。ドラフトをファックスやメールで送るなんてありえない時代、またこの二人にはそんなことは必要じゃなかった。たまに同じホテルの部屋にいたとしても、エリントンが書きだしたスコアを、彼が仮眠したり食事している間にストレイホーンが書き続ける、そしてストレイホーンが寝ている間にエリントンがまた書く・・・そんな風にして行われました。

―初期の共同作業

 ストレイホーンが新入りの頃は、楽団ではなく、小編成コンボの編曲や、歌手達のアレンジといった作業が主で、エリントンは煩雑な雑用をストレイホーンに任せて浮いた時間を、オリジナル曲の創作に当てることができたのです。その時期の、ストレイホーンのアレンジで最もヒットしたのが、美男の歌手ハーブ・ジェフリーズが歌って大ヒットした"Flamingo"(1940)、やはりストレイホーンらしい印象派的な香りが漂います。同年、エリントンがヨーロッパ・ツアー中に書き起こした作品でボツにしたものを、ストレイホーンが手を入れたのが"Jack the Bear"、モダン・ベースの開祖としてジャズ史に残るジミー・ブラントンの十八番として人気を博しました。

―円熟期

 二人のコラボが成熟期を迎えるのは、ストレイホーンが一旦エリントンの元を離れ、再び戻ってきた1950年R-4418944-1364376976-8073.jpeg.jpg代です。この当時、エリントンは「組曲」の創作期を迎え、さまざまな音楽祭で書き下ろしの「組曲」を演奏することで、他のジャズ・バンドと一線を画しました。それもまたストレイホーンという頼もしい共作者が居てこそ、できたにに違いありません。この時期のコラボは枚挙にいとまがありません。一例を挙げると<The New Port Jazz Festival Suite(1956) >、シャークスピア音楽祭のための組曲<Such Sweet Thunder(1957) >、初めてストレイホーンがジャケットに登場した<くるみ割り人形(1960)>、ポール・ニューマン主演、エリントンも出演したジャズ映画、<パリ・ブルース(1960)>、<極東組曲(1964-66)>と、大作がズラリと並びます。

 遠隔地で二人の神コラボはどのようにして行われたのでしょう?1962年の"ダウンビート"誌に、ストレイホーン自身による、貴重な証言が遺されています。

 「僕たちが電話によって、そのように仕事をするのか、お話しましょうか。3年ほど前、NYの<グレート・サウスベイ音楽祭>で演奏の予定がありました。そこで、デュークは主催者に新曲を作る約束をしていましてね、ツアー先から長距離電話が来ます。『いくつかのパートを書いたから』ってね。音楽祭は数日後、本番まで2,3日しかないんです。彼が電話口で思いついたパートをざっと説明してくれて、キーとか、各パートの関わりなど、いろいろ話し合います。そして、彼が僕にこうしろ、ああしろと指示するんです。で、言われたとおり、当日僕が言われたパートの譜面を仕上げて、会場に持っていきます。リハーサルの時間?そんなものありません。デュークには、読みやすい簡単な譜面だし、演奏したことがなくても、すぐ判るよと言っておきます。

 そうこうするうちに本番が始まります。そのとき、僕の書いたのは、真ん中のパートです。実際の音も、もちろん、デュークの書いたパートも知らないし。聴いていないんです。とにかく、その経緯を知る関係者と一緒に客席に座って演奏を聴きました。僕の書いたパートに続いてエリントンの書いたパートが演奏されると、僕たち関係者は大爆笑してしまった。全く聴いていないのに、僕の書いたパートが、エリントンのパートの発展形になってたんです!!舞台を見上げると、エリントンも同じように大笑いしてました!まるで二人が一緒に並んで書いたみたいだった、というよりむしろ、一人の作曲家の作品になっていたんです。 知らないうちに人の心の中を覗き見ているようで、妙な気持ちになりました。まるで魔法みたいだった。」

 エリントンはストレイホーンを「高尚(Sophisticated)」と評し、それに対して自らを「粗野(Primitive)」と評しました。でも、その役どころは変幻自在に入れ替わり、陰陽合わさって完璧な美の世界を創り上げました。

 ストレイホーンはエリントンの天才に埋もれて、その翼の下で自分の才を思う存分伸ばしていった。やがて、その関係が悲劇を招き、そのことによって、二人の芸術は一層円熟したようにも見えます。

 今回のトリビュート・コンサートでは、ストレイホーンが終生愛奏した名曲宮本在浩の弓の妙技をフィーチュアした"Passion Flower"、そして二人の共作の白眉、"Sunset and the Mocking Bird"がお楽しみになれますよ!

参考:A Biography of Billy Strayhorn / David Hadju

        Me and You / Andrew Homzy 

      全米人文科学基金HP In Ellignton's Shadow/ Scott Ethier 

  The Billy Strayhorn Suites / Village Voice 1982 ジャズ特集より

  

2016年2月22日

3月26日(土)第28回春のトリビュート・コンサート開催します。

tommy_flanagan28thred4.jpg 毎年トミー・フラナガンの誕生した3月と逝去した11月に開催する、フラナガンへの追悼コンサート、"Tribute to Tommy Flanagan"、今年の春のトリビュートは3月26日(土)に開催します。

 フラナガンの弟子、寺井尚之が、自己トリオ、メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)を率いて、生前の愛奏曲の数々をフラナガンならではのアレンジでお聴かせします。生前、春になるとフラナガンがSpring Songsと読んで好んで演奏した「春の曲」もお聴かせする予定です。

 珠玉のフラナガン・ミュージック、トミー・フラナガンの音楽への溢れる想い、ぜひ聴いてみてください!

tribute _28.jpg 日時:2016年 3月26 日(土) 演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
 会場:Jazz Club OverSeas  〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
 TEL 06-6262-3940 

 出演:寺井尚之(p)トリオ "The Mainstem" :宮本在浩(b)、菅一平(ds)

前売りチケット3000yen(税別、座席指定)/ 当日 3500yen(税別、座席指定)
  チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

2015年11月26日

トリビュートで聴いて欲しいこのメドレー:エンブレイサブル・ユー~カジモド

tommy_red4.jpg  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 フラナガンが織りなすメドレーは、深い意味が紡ぎこまれていて、何年も経ってから「あっ、そうだったのか!」と判るようなものが多い。<エンブレイサブル・ユー~カジモド>も、フラナガン・ミュージックの醍醐味を味わわせてくれる名演目でしたが、残念なことにレコーディングは残っていません。

 今週のトリビュート・コンサートで演奏予定、フラナガン・ミュージックの醍醐味と、幻のメドレーについて、ぜひ!

<歌のお里>

  "Embraceable You"とても有名なガーシュイン作のバラードで、お里はブロードウェイの『ガール・クレイジー』('30)というミュージカルでした。後にジュディ・ガーランド主演で映画化され、愛らしくて華麗なパフォーマンスはYoutubeで観ることが出来ます。一方、フラナガンや寺井尚之が奏でると、しっとり耳元で甘く囁きかける大人のバラードの趣に変化します。

 
私を抱いて、抱き締めたいあなた、
愛しいひと、
あなたも私を抱き締めて、
かけがえのない恋人よ、
一目見るだけで、酔い痴れる。
私に潜むジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

  そして"Quasimodo"は、チャーリー・パーカーがこ作品の枠組みを使って作ったいわゆるバップ・チューンです。先鋭的なメロディとアクセントは永遠のモダン・ミュージック!
 ジャズ評論家のジム・メロードも、このメドレーに感動した一人、フラナガンへの追悼文では、ガーシュインとパーカーによる二つの作品を、17世紀スペイン・バロックの巨匠ベラスケスの作品「ラス・メニーナス(女官達)」と、その構図をそっくりモダンアートに置き換えたピカソの同名作品に例えて説明しています。(下写真「ラス・メニーナス」 左がベラスケス、右がピカソ)

 (抄訳)Tommy Flanagan, a reminiscence by Jim Merod,. April  2002 より

...トミーは彼のヒーローの一人、チャーリー・パーカー作品をくまなく取り上げた。トミーが展開する即興演奏のアートそのものが、普段は寡黙なトミーの饒舌なパーカー論であった。中でも彼が愛奏したのがガーシュインの"Embraceable You"と、パーカーによる改訂版"Quasimodo"を組み合わせたメドレーだ。トミーは、一方の曲の視点から、もう一方の曲に光を当てて、メドレーの形で二つの作品を掘り下げていく。このメドレーを聴く者は、あたかもヴェラスケスの古典的名画『ラス・メニーナス』と、ピカソがそれをキュビズムによって再構築した同名のモダンアートを並べて鑑賞しているような感動を覚えた。...

782px-Las_Meninas,_by_Diego_Velázquez,_from_Prado_in_Google_Earth.jpg 005.jpg

   チャーリー・パーカーが、いつ"Quasimodo"を作曲したのかは判りませんが、絵画では3世紀かかったアート革命を、バードはたった20年足らずでやってのけたことになります。この映画から数年後、'47年11月に、ダイアル・セッションと呼ばれるレコーディング群に録音されており、前の月に同レーベルに、テーマ抜きのEmbraceable You を録音している記録を見ると、その時期の作品なのかも知れません。"Quasimodo"って何なのでしょう?

quasimodo-dial.jpg   

<カジモドって何?>

  '89年にヴィレッジ・ヴァンガードでフラナガンが口にしたチンプンカンプンな言葉の意味を教えてくれたのはダイアナ・フラナガンでした。  「ヴィクトル・ユーゴーの小説に出てくる、ノートルダムのせむし男(Hunchback)の名前よ。」  
 カジモドはハリウッド映画では、キングコング以前のホラー映画に再三登場しています。ですから"抱きしめたくなるあなた"を元にチャーリー・パーカーが作った"せむし男"の曲について、上のジム・メロードを含め、洞察力があるはずの多くの評論家が、バードの"ブラック・ユーモア(Sly Joke)"であると、異口同音に解説していますが、ほんとうに単なるシャレなのだろうか?トミー・フラナガンの演奏を聴くとどうしてもそんな風には聴こえない...pepper_adams.gif   トミー・フラナガンの親友、ペッパー・アダムスの証言
 (ジャズ月刊誌Cadence'86 11月号より) チャーリー・パーカーはとにかくものすごい読書家だった。ボキャブラリーが豊富で、深みのあるいい声で整然と話す人だった。物事に精通しており、洞察力があり、いとも簡単に物事の本質を捉えることができた。

 パーカーのバップ魂を受け継ぐバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスはチャーリー・パーカーが、並外れた読書家であったことを証言しています。文芸全般に精通していたチャーリー・パーカーはホラー映画だけじゃなく、ユーゴーの原作「ノートルダム・ド・パリ」をきっと読んでいたはずです。

 だから、19世紀に書かれたヴィクトル・ユーゴーのロマン派小説、「Notre Dame de Paris」のストーリーを駆け足で見てみよう。

<本当のカジモドの物語>

tear4water.jpg     昔々、フランス郊外のノートルダム寺院の前に赤ん坊が捨てられていた。その子供は、寺院の司祭に拾われて、カジモドと名付けられ、寺の鐘つき男として働いている。背中は曲がり顔は片目がつぶれた醜い姿、毎日、鐘楼で大きな鐘を撞くため鼓膜は破れ、耳も聞こえず、言葉もまともに話せない。街の人々は、カジモドを「せむし男」と呼び嘲った。

  ある日、街でリンチされ、さらし者にされたカジモドに同情し、水を飲ませてくれた美しい娘が居た。異教徒として差別されるジプシーの踊り子、エスメラルダだった。カジモドはたちまち彼女に叶わぬ恋をしてしまう。類まれな美貌のエスメラルダは、家柄の良いエリート騎兵隊長に恋をして逢瀬を重ねている。だが、その男にとって、エスメラルダは所詮遊び相手に過ぎない。男は、出世に役立つ良家の娘と婚約してしまうのに、エスメラルダは、その男の不誠実に気づかない。もちろん、どれほどカジモドがエスメラルダに純粋な愛情を捧げても、憐れに思いこそすれ、余りにも醜いカジモドの愛を受け容れるはずもなかった。やがて、カジモドの恩人である司祭までもがエスメラルダの美しさの虜となる。聖職者でありながら、淫らな欲望を遂げようとして、エスメラルダに固く拒まれる。逆恨みした司祭は、エスメラルダに殺人の罪をきせ、彼女を死刑に追いやってしまう。怒り狂ったカジモドは鬼となり、親と慕った司祭を、ノートルダム寺院にそびえ立つ鐘楼の上から突き落として復讐するのです。

esmeralda.jpg  うわべだけの魅力に屈し、愛のない男に弄ばれるエスメラルダ、怪物であるためにいくら真の愛を捧げても成就しないカジモド、聖職者でありながら欲望に溺れる司祭、現世の欲望や社会の偏見によって3つの恋が絡み合った悲劇のお話です。

marriage.jpg  でも、物語はこれで終わりではありません。罪人の死体置き場に眠るエスメラルダの亡骸に寄り添いながら、カジモドは死んでしまいます。 死体置き場に捨てられた二人の肉体が、野ざらしにされ朽ち果てるにつれ、エスメラルダとカジモドの遺骨は固く絡み合い一つになり、分かつことができなくなっていた、というところで、物語は結ばれているのです。

 この物語は、単なるホラーではなく、精神の美しさと、人はみな神の前で平等であることを教える物語だったんですね!

<パーカーとフラナガンの真意は?>

  "Quasimodo"はラテン語で、"単に・・・のような・・・"という意味であるそうです。ヴィクトル・ユーゴーは、物語の中で一番美しい心を持つ「怪物」が、この社会では「人間」ではなく、"人間のようなもの"でしかなかったことを暗示していたのだと文学解説には書いてありました。

  アーサー・テイラー(ds)は、パーカーがラテン語に精通していたと話してくれたことがあります。人間扱いされない"人間のようなもの"とは、チャーリー・パーカーの生きた時代のアメリカ社会では何だったでしょう?
  そうなんです!カジモドとは黒人のメタファーであり、パーカーは自分自身をカジモドになぞらえたの違いありません。ダイアル・セッション時代は、チャーリー・パーカーが麻薬で身も心も滅ぼす寸前であったことを思うと、禁断症状に苦しむ自画像であったとも思えてなりません。

 物語を読んで、もう一度、上の<Embraceable You>の歌詞を見てみましょうか。

・・ジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

 ほらね!

 トミー・フラナガンのメドレーでは、<Embraceable You>はエスメラルダで、パーカーの創った<カジモド>は、エスメラルダと

魂で結ばれた片割れなんだ!

 音楽的真意をしっかり掴みとったトミー・フラナガンは、元曲と対にしたメドレー形式という、通常ではあり得ない構成によって、皆にこのことを伝えてくれていたんですね!

  フラナガンのこのメドレーは残念ながら、ヤマハの自動ピアノの音源としてソロでしか残っておらず、あれほど素晴らしかったヴァージョンや曲のアクセントを受け継ぐのは寺井尚之しかいません。

 カジモドをまだジョークだと思っている人は、ぜひ寺井尚之とメインステムの演奏を聴いてみて欲しい。この世では結ばれなかった二人の魂のラブ・ストーリーが聴こえてくるはずです。



CU

2015年6月19日

Scrapple from the Apple: バードと料理のはなし

tommyflanagan-balladsblues(1).jpg  

  パーカー・チューン"スクラップル・フロム・ジ・アップル"はトミー・フラナガンとジョージ・ムラーツの名コンビによる『Ballads and Blues』や、夜毎のライブでよく聴く私的大スタンダード。皆さんご存知のように、1947年にチャーリー・パーカー・クインテット(マイルズ・デイヴィスtp、デューク・ジョーダンp、トミー・ポッターb、マックス・ローチds)が初録音。以来、様々なミュージシャンが愛奏してきました。

dial3951111.jpg ブリッジ(サビ)の部分を除いては、ファッツ・ウォーラーの"ハニーサックル・ローズ"のコード進行が、この曲の素になっていて、口づさみにくいテーマにも拘らず、ウキウキするような浮揚感に溢れている。 

お馴染みのナンバーなのに、私にとってずっと謎だったのがこの曲名、「アップルからのスクラップル」って何?ネットが普及する遥か以前、ウエブスター英語辞書、ブラック・スラング辞典、果てはアメリカンセンターの図書室まで、"Scrapple"という単語を探してみたけど、どこにも見つからなかった。フラナガンや他のバッパー達のライブで演奏されていれば、バックステージで訊いたかもしれないけど、そんなチャンスもなく月日は経ち、漠然と、これはバードの造語で「NYの新聞の切り抜き」みたいな意味なんだろうと思っていただけでした。何十年も...

<CTが教えてくれた>

 CTbook_400x600.jpg

  ところが、ごく最近やっと判りました!個人的大発見!先日米国の友人からDVDと一緒に頂いたクラーク・テリーの伝記に答えが書いてあったのです!

bandbox.JPG「'50年代始め、私がエリントン楽団に居た時に《バンドボックス》という店に出演していたことがある。

 同じ期間にチャーリー"ヤードバード"パーカーもそこに出演していた。彼は速いテンポで演奏するのが好きだった。エリントン楽団でも、ジミー・ハミルトン(cl)、ポール・ゴンザルベス(ts)、それに私も速いのが大好きでね。

 バードは専ら、モダンなハーモニーのビバップ・スタイルで演ってるんだが、一度僕達の楽団に飛び入りしたことがあったんだ。そこで私は彼のオリジナル曲"スクラップル・フロム・ジ・アップル"をやろうと提案した。

演奏が終わると、彼は大喜びした。『わあ!皆さん、どうもありがとうございます。僕の拙い曲を気に入ってもらえて嬉しいです。』と言ってた。バードは人間としても素晴らしい奴だったよ...』

ellington55.jpg  こんな場面、一度でいいから観てみたかったですね! そういえば、デューク・エリントン楽団のアルバム『Ellington '55』収録の"ハニーサックル・ローズ"では、名クラリネット奏者ジミー・ハミルトンをフィーチュアして、彼の朗々たるソロのバックで"スクラップル..."がソリとして入っています。

《Bandbox》という店をThe New Yorkerタウン情報で調べてみると、有名な《Birdland》の隣に1953年にオープンした体育館ほど大きなダンスホールで音楽鑑賞にはいささか不向きというようなことが書いてありました。2月第二週のヘッドライナーはエリントン楽団で対バンがアート・テイタム・トリオ!!行ってみたいですね!短命なクラブだったようですが、ラジオ中継も行われていたようです。

<スクラップルはホルモンだった!>

scrapple.jpg

 テリーは続ける。

 「"スクラップル・フロム・ジ・アップル"は料理のことなんだ。豚肉の色んな部位で作ったものだよ。耳や鼻や足の先、なにもかも一緒くたにミンチにしてすり潰す。それを四角く成形して、スライスしてから焼くんだ。粉も混ぜてね。朝飯に食べるものだよ。」

  改めてネットで調べてみたら、あったあった!色んなレシピも載っていて、起源はドイツやオランダの、いわゆる屑肉で作るホルモン料理。甘いアップル・バターやメープル・シロップをかけて、卵料理などと一緒に、朝食のパンケーキのように戴くものらしい。オランダからペンシルヴァニアに入植した初期のアメリカ開拓移民、いわゆるペンシルヴァニア・ダッチの料理が、黒人のソウルフードとして伝わっていったというような事も料理の解説に書かれていました。

 ビバップと呼ばれるバードの音楽は、この"スクラップル"みたいなもの!黒人のブルース・スピリットと卓越したリズミックセンスに、ヨーロッパ伝来のクラシック音楽の和声がごちゃまぜになって、NYの水に洗われて垢抜けたひとつのかたちになった。チャーリー・パーカーは、そんな思いをこの不思議な曲名に込めたに違いない。  

 私的大発見のおはなしでした。CU

2015年4月13日

第26回トリビュート・コンサートCDできました。

cdr26thP1090145.JPG

 3月のトミー・フラナガン・トリビュート・コンサートの3枚組CDが出来上がりました。

 巨匠フラナガンが最も好んだピアノ・トリオというフォーマットで培った名演目、そのアレンジを受け継ぐ弟子、寺井尚之が手塩にかけたメインステム・トリオ(宮本在浩-bass、菅一平-drums)で、渾身のプレイを披露しています。

 コンサートにご参加いただいたお客様にも、お越しになれなかったお客様にも、OverSeasならではの演奏風景を感じていただける逸品になりました。

 録音からCD製作まで、毎回ボランティアでお世話くださる福西You-non+あやめ夫妻に感謝。
お申込みはメールでお願い致します。すでにご予約いただいているお客様は次回ご来店の際にお渡しいたします。
応援くださった皆様、心よりお礼申し上げます。

2013年11月14日

トミー・フラナガン:名演目のレシピは?

flanagan1164.jpg

Tommy Flanagan (1930-2001)

 
<フラナガンの演目はマニアックか?>
 このところ、トミー・フラナガンの名演目といわれる曲の、ごく一部を紹介してきました。 
 
 「フラナガンの名演目」と言われてもなあ・・・マニアックな曲ばっかりじゃん」と言うなかれ。馴染みのない曲でも、心にすっと入ってくる違和感のなさには驚くばかり!それにも拘らず、演奏する者がほとんどいない理由は、ひとつに「難曲」であること。もうひとつは、「譜面が入手できない」ことが、とりあえずの原因です。今はスマホでも、リアルブックと呼ばれる膨大なジャズ・スタンダード譜面集がダウンロードできますが、メロディーもコードも惨憺たるもので、そのまま演奏しても格好がつかない。
 
  フラナガンは昔気質で、譜面を見せないミュージシャンだったし・・・というか、真正のスコアはあの立派な禿頭の中にしっかり格納されていた。だからフラナガン・トリオの歴代の共演者達も、レコーディングすら譜面なしでやっているものが殆どなのです。それがほんとのジャズ・ミュージシャン。だって五線紙に音楽に必要なデータを完全に書き入れることはできないのだから。 フラナガンは一応、演奏場所には、譜面の入った茶封筒を持参してはいたけれど、実際の演奏とはだいぶ違っていたのかもしれません。でも寺井尚之には、書きおろしの新曲を写譜させていたこともありました。その原本ににもあっと驚く「書き間違え?」があって、「こんなん初めてのベーシストに渡したらエラいことになるやろな。」と寺井は呆れてた。むしろ、フラナガンの方が寺井の書いた譜面を持って帰ったりしていたくらいです。
 
 往年のデューク・エリントン楽団でも、譜面台に立てられたスコアと、実際の演奏はずいぶん食い違っていて、(恐らく何度もヴァージョン・アップがなされていて)、「ぽっと楽団に入ると全然どこを演ってるのかわけがわからない!」とディジー・ガレスピーがボヤいていたから、ジャズってそんなものなんだ!
 
 
 
<フラナガン流ブラック・ミュージック> COVER.jpg  
 エリントニア、モンク、ダメロン、バド・パウエル、それにチャーリー・パーカー!そこから派生するサド・ジョーンズ、トム・マッキントッシュという辺りがフラナガン好みの作曲家です。
 フラナガン的選択基準は"ブラック"であること。
 「ジェームズ・ブラウンのようなソウル・ミュージックのことなのか?」と、インタビューで質問されると、「そんなもんワシは知らん!」と気色ばんだことがあった。
 
   フラナガンの言うブラック・ミュージックってなんだろう?
 
 そのヒントになるのが、"Something Borrowed, Something Blue"というフラナガンのオリジナル曲。グローヴァー・ワシントンJrが録音して、たくさん印税をもらったらしい。エレクトリック・ピアノで演奏されたことは別にして、気になるのは、この曲の題名。  元は英国に伝わる花嫁さんの幸せを約束する縁起のよいもので、全体はこんな詩。
 
Something old, something new,
  Something borrowed, something blue,,
And a silver sixpence in her shoe,
古いものと新しいもの、,
 借りものとブルーなもの、,
そして花嫁の靴の中には銀貨を入れて。
  ここで連想するのが、前々回に紹介したトム・マッキントッシュの作品を取り上げたディジー・ガレスピーのアルバム『Something Old, something New』(1963年)。新旧の名曲がうまく組み合わされたこのアルバムに収録されたマッキントッシュ作品のうち"Cup Bearers"と"The Day After"はトミー・フラナガンのレパートリーになっている。
 
 "Something Borrowed, Something Blue"という曲は、ディジーとマッキントッシュへのリスポンスではなかったのだろうか?
 
 そんな風に前提を立ててから、もう一度このフレーズを訳してみると・・・
 

"Something Old (自分のルーツを自覚して), 

Something new (革新の心を持ちながら),,

Something Borrowed (先人や西洋音楽のアイデアを借り),

Something Blue (ブルース・フィーリングを保て)"

 

  花嫁に向けた格言には、トミー・フラナガン流、ブラック・ミュージックの極意が隠されていたのかも知れませんね。 

 と、いうわけで、これからもトミー・フラナガンの名演目がマニアックなもので終わらぬように、紹介していきたいと思います。

 え?私のブログがすでにマニアックって?テへへ・・・わかる奴だけわかればいいの。

 

 

terai_watch_tf.jpg 

 何よりも、フラナガンの背中を見て盗み、フラナガンの教えを受けた寺井尚之と、彼が手塩にかけた宮本在浩(b)、菅一平(ds)とのメインステムの演奏を、トリビュート以降も愛していただけますように!どうぞよろしくお願い申し上げます。

CU

2013年11月 7日

トミー・フラナガンの名演目(3): Chelsea Bridge


overseas2.jpg
 『Overseas』('57)や『トーキョー・リサイタル』('75)の圧倒的な演奏を始め、ライブでは"エリントニア"(デューク・エリントン・メドレー)に組み込んでフラナガンは愛奏しました。ご存知のようにデューク・エリントン楽団のヒット曲ですから、元々はビッグ・バンド用、それをコンパクトなピアノ・トリオのフォーマットで演奏したピアニストは、フラナガンが史上初!エラ・フィッツジェラルドと共にフラナガンが待望の来日を果たした1975年、曲目紹介なしに始めた<チェルシーの橋>、僅か3拍で、怒涛のような歓声と拍手に京都国際会館が揺れた。文字通り、トミー・フラナガン、極めつけの名演目!

billy-strayhorn-duke-ellingtons-arranger-terry-cryer.jpg 作曲は、エリントンの右腕、ビリー・ストレイホーン。フラナガンはこの天才作曲家を"生涯一書生"と呼んだ。咲き乱れる花々や美術品に囲まれながら、孤独と苦悩を抱え続けた彼の人生については、随分以前に書いています。 "チェルシーの橋"とはNYではなくロンドンのテームズ川にかかる吊り橋、およそ浮世離れし耽美的な作品ですが、「お金」をめぐる世俗の争い事がなければ、この作品の幻想的な美しさも、ビリー・ストレイホーンという天才も広く知られることはなかったかも知れません。




<著作権をめぐる仁義なき戦い>


b_strahorn4_z.jpg


  現在も「著作権」トラブルは絶えませんが、第二次世界大戦勃発以降、音楽業界を震撼させる争いが次々と起こり、ジャズ界は大きな影響を被ることになります。ひとつは、1942~43年のレコーディング禁止令(Recording ban)、もうひとつが、ラジオ業界とASCAP著作権組合 (The American Society of Composers, Authors and Publishers )との前代未聞の抗争でした。1940年、大恐慌から著作権収益が低迷するASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)は、世界大戦の影響で更に業績が悪化する中、最大の収入源であるラジオ業界に対し、翌年度の著作権料を前年度から一挙に448%値上げするというとんでもない通告をします。「てやんでい、この野郎!」ラジオ業界は猛反発。CBS、NBC二大ラジオ・ネットワークと傘下局は、1941年1月1日よりASCAPに帰属する楽曲を放送しないことを決議、逆に、BMI(Broadcast Music Inc.)なる自分たちの著作権団体を新設、安い著作料を設定し、ASCAPに倍返しを企みます。おかげで、ASCAPが門戸を閉ざしてきたリズム&ブルースの隆盛につながるなど、ポップ・ミュージックは新たな局面を迎えるのですが、困ったのはASCAP会員のデューク・エリントン。1930年のハーレム・コットン・クラブ時代より、ラジオを通じて全米で人気を誇った楽団のレパートリーが一切放送不可になるのですから絶体絶命!エリントンがいくら新曲を創ってもASCAPに登録されてしまうのですからダメ!とにかくエリントン以外の名義で楽団のレパートリーを総入れ替えすることが急務となります。ラジオ番組のテーマ・ソングも刷新せねば・・・それができなければエリントン楽団の前途はない。

 そこで白羽の矢が立ったのが息子のマーサー・エリントンと、書生ビリー・ストレイホーン。二人は「放送禁止になる新年までの僅か数週間で楽団の譜面帳を作れ!」という究極のミッション・インポッシブルを課せられます。

DukeEllington.jpg 

デューク&マーサー・エリントン:

ストレイホーンという天才の存在が親子関係に陰を落とすことに・・・


 新曲を揃えるだけでなく、パート譜も全て書き上げろなんて・・・エリントンが楽団を率いて笑顔で演奏に明け暮れる間、二人はシカゴの有色人種用のホテルに缶詰で作曲編曲、24時間不眠不休で作業に従事。

 ストレイホーンはこれまで陽の目を観ることのなかった自作品を一挙に楽団用に仕上げていきました。マーサー・エリントン21才、ストレイホーン25才の冬です。

 かくして必死のパッチで出来上がった新曲集から、デュークが楽団の新しいテーマ・ソングとして選んだのが「余りにもフレッチャー・ヘンダーソン楽団っぽすぎるから」という理由でストレイホーンが一旦ゴミ箱に放り投げた"A列車で行こう "で、これはご存知のように楽団最大のヒット曲、ジャズで最も有名な曲になりました。「売れる」とか「売れない」といか言ってる場合じゃない。主にストレイホーンが書き溜めていたスケッチから出来上がった新レパートリーには、師匠エリントンから習得した作曲技法と、ストラビンスキーやドビュッシーなどクラシックの作曲家からのエッセンスが融合し、これまでにないコンテクストを持っていた。その中でも、" Chelsea Bridge"は、耽美的で印象派的、ストレイホーン独特な世界を醸し出し、ベン・ウェブスターのソロと相まって、他の楽団と一線を画し、エリントニアの象徴的作品となります。

 
<耽美派>
James_McNeill_Whistler_-_Nocturne_en_bleu_et_or.jpg  
「青と金のノクターン:バターシー・ブリッジ」
 曲のイマジネーションの源は、19世紀の米人画家で、日本美術の影響を受けた耽美派と言われているジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品にあったとストレイホーンは語っています。ホイッスラーが橋を描いた作品は多いのですが、「チェルシー橋」を描いたものは見つからない。上の"青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ"はホイッスラーの代表作、確かに曲と共通する幻想的なムードを感じます。ストレイホーンは芸術全般に造詣が深く、美術や骨董を収集し、仏像や彫刻など美しいものに囲まれて暮らし、その代金は全てエリントンのポケット・マネーから支払われた。
 
 
<芸能から芸術へ>

 
billy200703_052a_depth1.jpg
   では、フラナガンにとって、ストレイホーンは、"Chelsea Bridge"は、どんな意味があるのだろう?
 
 ギル・エバンスは、"チェルシー・ブリッジ"を聴いた途端、自分の目標が定まった、と語っています。つまり「型」から入った人。それに対して、フラナガンは「こころ」から入ったのではないだろうか?
 
 ニューオリンズの歓楽街、シカゴのサンセット・ラウンジ、NYのコットン・クラブ・・・ジャズは、どれほど高級になろうとも、酒や美しいコーラス・ガールあっての音楽、ハーレム貴族のお楽しみ。
 
 ところが、著作権抗争のおかげで、慌てて表舞台に出た"Chelsea Bridge"は、ダンスもキャビアもドンペリも必要としない自己完結、、「わかる奴だけわかればいい」というスタンスで創造された芸術、ジャズには無謀なほど芸術的だった。その精神は、ストレイホーンが夜な夜なハーレムのクラブでジャム・セッションに興じたディジー・ガレスピーやマックス・ローチによってビバップとして引き継がれていく。
 どれほど卓抜な演奏者でも、黒人の音楽家はシリアスな演奏や、奥深いラブ・ソングを歌うことが許されぬ、、道化者でいなくてはいけない米社会に風穴を開ける、革新的音楽、美しい公民権運動とすら呼べるものだった。これこそ我が道、「ブラック・ミュージック」のあるべき姿だ!フラナガンはそう思ったのに違いない。
 
 『Overseas』録音直前、若き日のフラナガンは、奇しくもNYの街で憧れのストレイホーンに出会う。「実は、もうすぐあなたの作品をレコーディングさせて頂きます。」と自己紹介すると、ストレイホーンはフラナガンに、自作の譜面をありったけくれた。運命の出会い!フラナガンの想いはどんなだったろう?  
 
  この"Chelsea Bridge"、フラナガンのヴァージョンは、エリントン楽団のものとは微妙にコードも違うし、勿論構成にも秘密がある。世間に出回る譜面では、到底フラナガンの世界にはならないのです。
 かつて寺井尚之は、深夜のクラブ、Bradley's でエリントン楽団はこう、フラナガンはこうと、ロニー・マシューズとロイ・ハーグローブ、名伴奏者、マイク・ウォフォード相手、「ジャズ講座」をやるは、フラナガン自身があきれるほどに、演奏の中身を知っている。
 
 トリビュート・コンサートでは、そんな寺井尚之が「チェルシー橋」の上にまたたく星も、夜のテームズ川の流れも、橋の上を吹き渡る風の色も、全て再現してご覧に入れます。どうぞお楽しみに!
 
CU

2013年10月31日

トミー・フラナガンの名演目(2): With Malice Towards None

ballads_and_blues_0.jpeg OverSeas的大スタンダード、"With Malice Towards None" (ウィズ・マリス・トワーズ・ノン)。トミー・フラナガンはジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ・アルバム『Ballads and Blues』('75)、トリオでのバースデー・ライブ、『Sunset And The Mockingbird』('97 )、ソロはフランク・モーガン名義の『You Must Believe In Spring 』と繰り返し録音し、ライブでも演奏し続けた愛奏曲です。

 作曲者はトム・マッキントッシュでラナガンのお気に入り!この曲以外にもCup Bearers, A Balanced Scaleなど数多くマッキントッシュの作品を取り上げている。

 

 生前、フラナガンはこの曲についていくつかのヒントをくれました。

     

① この曲はリンカーンの名言がタイトルで、メロディーの元は賛美歌だ。

     

② トム・マッキントッシュはとても信心深くて、音楽そっちのけで牧師をしていたことがある。(笑)

     

③ マッキントッシュの作品が好きな理由は非常に"ブラック"だからだ。

 フラナガンの言葉はいつも謎、謎、謎ばかり。少し調べてみよう!

       

<エイブラハム・リンカーン+賛美歌=ウィズ・マリス・・・>

 

quote-with-malice-toward-none-with-charity-for-all-with-firmness-in-the-right-as-god-gives-us-to-see-abraham-lincoln-112732.jpg "ウィズ・マリス・トワーズ・ノン"・・日本人には言いにくいし、聞きづらいタイトルですが、米国ではだれでも知っているエイブラハム・リンカーンの名言、大統領第二期就任演説の結びの言葉。   


 
何ものにも悪意を向けず、すべてのものに慈悲の心を向けよう...」
    南北戦争終結直前のスピーチ、今は敵と味方でも、終戦後は一丸となって平和な国歌を目指そう!という呼びかけです。でも、リンカーンはこの演説の3週間後に暗殺されました。
 曲のの名付け親はマッキントッシュの友人でGene Keyesという名のシカゴのピアニスト。曲を聴いていて、この名言が浮かんだのだそうです。
 
 そして、どこか懐かしいメロディーの元になった賛美歌は、日本のキリスト教会でも極めてよく歌われる「賛美歌461番:主われを愛す(Jesus loves me,this I know)」だった。  余談ですが、同じ賛美歌が、中山晋平作曲、野口雨情作詞の「シャボン玉」の元になっている!明治時代、国策として編纂された「唱歌集」以降、賛美歌のメロディーをベースに造られた童謡は日本にも多いらしい。
 
 
  
<神童マック> Mac05dac.jpg トム・マッキントッシュ(1927-)
 
  作曲者、トム・マッキントッシュについて:ジャズ通の皆さんは、"ジャズテット"やサドーメルOrch.の一員としてご存知かも・・・一般的な人気よりも、仲間内の評価がずっと高い、いわゆるMusician's Musicianです。ジャズが下火になった'70年代は映画やTV音楽の世界で活躍。「スパイ大作戦」、それにオスカー受賞の「黒いジャガー」の映画音楽は、アイザック・ヘイズ作とされていますが、本当のところはマッキントッシュ作だった。(ヘイズは譜面の読み書きができなかった。)
 
 でもフラナガンとの接点はどこにあったのだろう?
 
 トム・マッキントッシュ、愛称"Mac"は1927年、メリーランド州ボルティモア生まれ、当時、多くの黒人家庭がそうであったように、生活保護を受けながら子供時代を過ごした。黒人層の収入が他の都市より遥かに多いデトロイト育ちのフラナガンとは違い、楽器のレッスンなど受ける余裕なし。でも類稀な歌声と素晴らしい耳を持っていた。どんな音楽でも一度聴くと覚えちゃう。そして数日後でも、再びそのメロディーを歌って聴かすことができた。さらに、天性のハーモニー・センスがあった。メロディーを聞くと同時に、長3度、6度といったハーモニーが、頭の中で聴こえていて、瞬時に声で再現できたそうですから天才だ!フラナガンと一緒だ!ただし、幼い頃からクラシックの英才教育を施されたフラナガンと異なり、マックの中学校には「音楽」という教科すらなかったんです。
 ところが、担任の先生が偉かった!彼の並外れた才能に気づき、奨学金を申請、原則白人オンリーの名門音楽学校、ピーボディ・インスティチュートの声楽科に特別枠で入学し、首席になります。当時のマックはまだまだジャズには縁遠く、"ダニー・ボーイ"のような伝統的なアメリカ歌曲を愛した。フラナガンが「クラシック音楽の呪縛から解放されているブラックな音楽家」と絶賛する秘密はこの辺りにあるのかも・・・ところが、 学校の窮屈さと経済的な理由でさっさと陸軍に入隊志願、天才マックがジャズに出会うのは、戦争の酷い爪跡が残る敗戦国ドイツの駐屯地でした。
 
<ドイツでジャズと出会う>  
red_mitchell_biography-2.jpg
 ドイツに上陸したマッキントッシュを迎えたものは、至る所に立ち込める「死臭」、そして貧困に苦しむ人々。戦争さえなければ裕福で知的なレディでいたはずのドイツ人女性が、飢えないために娼婦に身を堕とし、道端でマッキントッシュ達、若い進駐軍を誘う。ガス室に送られて死に絶えたドイツ系黒人達の死体、ホロコーストはキリストのせいと、神を断罪するユダヤ人たち、その惨状に大きなショックを受けます。それがマックを「エホバの証人」の信仰に駆り立てたのかも知れません。 洗濯兵だったマックは、声楽家ながら軍楽隊に転属し、21歳で初めてトロンボーンを始めます。同時にバンド仲間を通じて、デューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に出会い、たちまち虜になりました。マッキントッシュは、エリントンに魅了された理由を、「単にハーモニーが素晴らしいと言うのではなく、楽団の各メンバーが歌う様々な歌が合わさって、エリントン・サウンドというひとつの音楽に統合されていることに驚いた。」と語っています。
 
 トロンボーンを独習し、わずか数ヶ月でトルーマン大統領直属の特別な軍楽隊の選抜メンバーに抜擢。マックの伸びしろの大きさを看破したオーディションの担当上官がなんとレッド・ミッチェル(右:写真)!上官にはチャーリー・パーカーの共演者だったピアニスト、アレン・ティニーが、トロンボーンの同僚にはジョージ・ベンソンのお父さんがいた。ベンソンもマックと同じ「エホバの証人」の信者で、ミュージシャンとしては、プリンス、テニスのビーナス & セリーナ・ウィリアムズ姉妹たちも教団の著名人欄に名前を連ねています。後に、マッキントッシュがパラマウント映画から解雇された理由は、余りに熱心な宗教活動のためだったらしい・・・ 
 
  
<NYとトミー・フラナガン>
mac587645.jpg
    1956年、マックはリスク覚悟で音楽の道に進むことを決意、GI ビル(退役軍人の学費免除制度)を利用し、NYのジュリアード音楽院に進学しました。除隊の際、軍楽隊の仲間でデトロイト出身のトップ・ピアニストがこんな風にアドバイスした。  「君は僕を最高のピアニストと思ってるみたいだが、本当はそうじゃない。NYにはトミー・フラナガンというピアニストが居る。彼こそが本当に"弾ける"奴だ。彼を訪ねて行くといいよ。」   NYにやって来たマックがフラナガンを見つけるのは簡単でした。フラナガンは街中のジャズメンが共演を望む引っ張りだこの存在だったし、二人の住むアパートは目と鼻の先、たちまち親友になります。
 「最高の人間になる近道は、最高の人間と付き合うことだ。」
 フラナガンの人脈のおかげで、マックはジャズ・シーンの若頭的存在だったジョン・コルトレーン宅のジャムセッションに参加することができ、元上官のレッド・ミッチェルと再会を果たします。やがてミルト・ジャクソンやジェームズ・ムーディといったディジー・ガレスピー組に迎えられ、アレンジャーとしての実力が知れ渡っていきました。
<フラナガンの思う壺、With Malice...>
tommy_depth1.jpg
 "With Malice..."は、トム・マッキントッシュの処女作。マックの作曲センスに興味を抱いたフラナガンは、作曲していると現れる。「さて、ここからどうしよう・・・」と迷って考えこむと、肩越しに覗きこんで「こうすれば?」「こっちの動きの方がいいんじゃない?」と逐一ナビゲートした!そのアドバイスはいつも適切で、「トミーが僕の作品をキメてくれた。」と、マッキントッシュ自身が語っています。
 フラナガンはマッキントッシュが紡ぐメロディーに、エリントンの"Come Sunday"に通じる黒人音楽のブラックな輝きを見つけたのに違いない。フラナガンは、自分がこの曲を演奏するという前提に立って、創作の舵取りをしたのではないだろうか?例えば、フェリーニがニーノ・ロータに注文を付けるように、マックのイマジネーションを喚起したのではないだろうか?
51S5YC01B5L._SL500_AA240_.jpg
 出来上がった作品は、チャーリー・ミンガスの目に留まり、マックに編曲を依頼して"ファイブ・スポット"で初演された。ただし、ミンガスが曲名を"With Malice Towards Those Who Deserve It" (憎まれても当然な奴らに悪意を向けて)と勝手に変えてしまったのですが・・・
 以来、有名ジャズ・スタンダードではないにせよ、"With Malice Towards None" は様々なミュージシャンが演奏している。フラナガンは、サイドマンとして『Dusty Blue/ Howard McGhee 』('60)、同じ曲ながら"Mallets Towards None"という曲名で『Vibrations / Milt Jackson 』('60)に参加(トム・マッキントッシュ編曲)。2003年にやっと出たという感のある、トム・マッキントッシュ自身の作品集のタイトル曲にもなっています。
 色々聴いてみましたが、曲の持つ良さ、つまり曲名が象徴する、魂を揺さぶるゴスペルの感覚と、エリントン的な洗練を併せ持つヴァージョンということでは、フラナガンが傑出している感があります。
 フラナガンの演奏に咲く華は、作曲の段階でフラナガン自身が撒いた種のせいに違いありません。
  フラナガン亡き後、この演奏解釈を再現できるのは寺井尚之だけかもしれない。11月のトリビュート・コンサートでメインステムの演奏を聴いてみてくださいね!
参考資料:
  • Reflections on Jazz and the Politics of Race/Tom McIntosh
Vol. 22, No. 2, Jazz as a Cultural Archive (Summer, 1995), pp. 25-35 Published by: Duke University
  • Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master Interview 
http://www.smithsonianjazz.org/documents/oral_histories/McIntosh_Tom_Transcript.pdf