2008年6月27日

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(1)

coleman_hawkins_1.jpgコールマン・ホーキンス(1904-69)

  コールマン・ホーキンスの名演は、ジャズ講座で大反響を呼びました。
それを言い換えれば、私たちには当たり前のコールマン・ホーキンスの素晴らしさが、忘れられつつある証拠なのかも知れない。

 今、このブログを訪問して下さっているあなたが、最近ジャズに興味を持ったのなら、「ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンなら知ってるけど、ホーキンスて誰やねん?」と思っても、ちっとも不思議じゃない。
 だけど、ソニー・ロリンズだって、少年の頃は、サイン欲しさに、ホークの家の前で、毎日待ち伏せしてたんですよ。

 この間、お店で新じゃがをボイルしながらダイアナ・フラナガン未亡人と電話でおしゃべりしていたら、'60年代に友人に連れられてホークのアパートに何度か行ったことがあると自慢していました。

ダイアナ: 「まだトミーと親しくなる前のことだった。コールマンは、“パークウエスト・ヴィレッジ”という、当時新しく出来た高層アパートに住んでいてね、窓からセントラルパークが一望できる部屋に暮らしていた。だいたいは独りでね。家にはピアノがあって、クラシックのLPのコレクションが凄かった。」

珠:あなたから見て、コールマンはどんな人だったの?

 ダイアナ:「正に巨匠(a great master)って感じ。容易に人を寄せ付けないオーラがあって、誰にでも気さくというタイプじゃない。だけど、とっても優しい人だってことは、よく判るのよね。
 無口だけど、何か自分の意見を言うときはズバっと言った。当たり障りのないものの言い方をしない人よ。でも、奥の深い言葉だった。トミーはコールマンが大好きだったけど、別にトミーだけじゃないわ、ジャズマンなら、誰だってコールマンのことは大好きだったのよ!」

 近寄りがたいオーラがあって、優しくって、奥の深いことをズバっと言う巨匠?ダイアナ、それじゃあトミーと同じじゃないの!

 だから、ちょっとホークの話をしてみよう。

<テナーサックスの父>

 “Hawk”や“Bean”という愛称で親しまれたコールマン・ホーキンス(1904 - 1969)は、日本なら明治37年生まれの辰年で、カウント・ベイシー(p)やファッツ・ウォーラー(p)が同い年。シュール・レアリズムの鬼才、サルヴァトーレ・ダリとか、名優、笠智衆、「歌謡界の父」古賀政男もこの年に生まれた。

 ホーキンスには、“テナーサックスの父”という名前もある。

   というのも、この楽器は19世紀中ごろにベルギーのアドルフ・サックスによって発明されたのだけど、ブーブーと変てこりんな音を出す『三枚目役』専門だった。幅広のマウスピースと、堅いリードを用い、重厚な音色を開発して、音楽史上初めて、テナーサックスを、シリアスな主役を張れる『二枚目』に仕立て上げたのがコールマン・ホーキンスだからなんです。

coleman_hawkins_2.jpg

 コールマン・ホーキンスの写真を見ると、今では過去の遺物かも知れない『父』の風格が漂う。家の中で、一番偉くて、恐くて、頼り甲斐があって、信念に溢れる家長の姿だ。

 普通『父』は、子孫を沢山作ると、『爺さん』になり、お役目御免となるのが常ですが、ホークは違った。自分の蒔いた種から育った子孫と共に、更に音楽を開拓したんです。

   トミー・フラナガンは郵便配達夫であった父について、「ちゃんと労働をし、家庭を守り、人間としてやるべきことをきちんと子供達に教えた人」と言っていた。フラナガンのホーキンスに対する敬愛の念は、このお父さんの印象とオーバーラップする。
   スタジオ入りしてからレコード会社が決めた曲目のメモと市販の譜面だけを頼りに、その場でどんどんアレンジして、後世の私達を魅了する名盤を数多く録音した巨匠…フラナガンにとっては「音楽家としてやるべきことを、きちんと教えてくれた」音楽の父ではなかったろうか?

 コールマン・ホーキンス、どんな生い立ちだったんだろう?

 <ミズーリの天才少年>
 コールマン・ホーキンスの生地は、ミズーリ州のセント・ジョセフという町で、音楽家の母と、電気工事作業員の父の間に生まれた一人息子、大事にされました。

 西部劇でジェシー・ジェームズという銀行強盗を見たことがありますか? ブラット・ピットも演じたアメリカン・ヒーローです。彼が、賞金稼ぎと撃ち合いの末、壮絶な死を遂げた町がセント・ジョセフ。ホーキンスが、銀行を信頼せず、長年、全財産をポケットに入れ持ち歩いたのは、そのせいなのかも…。

 コールマンは5歳からチェロとピアノをみっちり稽古し、9歳の時に、たまたまプレゼントにもらったCメロディのサックスが気に入って独学で習得してしまった。
 つまり10才かそこらで、譜面が完璧に読め、ピアノもチェロもサックスも演奏できた! 即戦力!子供のときから、劇場のオーケストラに駆り出され仕事をしていた。

 後に、多くのミュージシャン達が、彼のピアノやチェロが、プロ並の腕前だったと証言している。サー・ローランド・ハナが、チェロで活動していたのも、ホーキンスの影響に違いない!

<一流ヴォードヴィルから一流楽団へ!>
 それは、ラジオすらない時代、庶民の娯楽として大人気だったのが、旅回りのヴォードヴィル・ショー。ダンスや歌、お芝居に手品やアクロバット、何でもありのヴァラエティ劇団で、サーカスみたいに巡業します。黒人のヴォードヴィルで最も人気を博していたのが、『マミー・スミス&ジャズハウンズ』という一座でした。

   12歳になると、女座長マミー・スミスさんが、ホーキンス少年のサックスの腕を見込んでスカウトにやって来ます。彼は体が大きかったので、そんな子供とは知らなかったんだって。さっき書いたように、サックスは、サーカスや、ヴォードヴィルのような演芸には重宝されたんです。

mamie_smith_jazz_hounds.jpg “マミー・スミス&ジャズハウンズ”真ん中の女性がマミー・スミスで右がホーク、左から二人目のトランペット奏者が後にエリントン楽団のスターとなった、ババ・マイリーです。

 息子を音楽学校に通わせて、立派なチェリストにしたいと思っていたお母さんは断固断り、黒人でもちゃんと教育が受けられる大都会シカゴへ息子を送り出した。その後、カンサス州都トペカのハイスクールに進学、トペカから車で1時間ほど飛ばすと、そこはジャズのメッカ、享楽の都カンサス・シティ!内地留学は、檻の中のライオンをジャングルに放つような結果となった。コールマン少年は、ルイ・アームストロングやキング・オリヴァー達がニューオリンズから持ってきたジャズのエッセンスを吸収し、どんどん実力を高める。カンサス・シティでは大学まで行ったと言われていますが、本当のところは判りません。演奏に忙しく、学費はあっても、そんな暇なかったじゃないかしら?

 18歳になると、青田刈りされていたマミー・スミスの人気一座に入り、たちまち高給取りとなります。

fletcher_henderson.jpg フレッチャー・ヘンダーソン楽団('24) 左から2番目がコールマン・ホーキンス、3番目がルイ・アームストロング、真ん中で腰掛けているのがフレッチャー・ヘンダーソン。アメリカの人気ジャズサイト:Jerry Jazz Musician.comより。

   20歳になると、メジャーに移籍! 当時、エリントンと人気を競い合ったフレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り、更に給料が上がった。サックスを手にして僅か10年、この楽団で、ホーキンスは豪快なテナーの音色を開発し、NYに進出、ハーレムのキングの一人になったのです。
 この楽団でオハイオに旅した時に、あのアート・テイタム(p)を聴いた事は、ホーキンス自身だけでなく、それ以降のジャズの変遷を決定付ける運命的なものになります。 ホーキンスは、テイタムのハーモニー感覚とバーラインを超えたフレージングをテナーのプレイに取り込んで、新境地を開拓したのです。その革命的なスタイルが、後にビバップが芽吹く土壌を作ったと、多くのミュージシャンは言う。


<好敵手登場!>

 ホーキンスをテナーサックスの東の正横綱とするなら、西の横綱はレスター・ヤング! 性格も、演奏スタイルも、ファッション感覚も、何もかも対照的なレスター・ヤングはホークより5才年下で、何につけてもホークと比較され、辛酸をなめた。メディアは二人を「仇同志」にしたがるけど、実際はそうではなかったらしい。
 
 レスター・ヤング(1909-59)

   カッティング・コンテストと呼ばれるジャムセッションの勝負が盛んに行われたカンザス・シティで、夜明けから昼過ぎまで、二人が死闘を繰り広げ、結局レスターに軍配が上がったという伝説のセッションは、後に映画になったけど、真偽はよく判ない。タイムスリップできるなら、自分の耳で確かめたい!

 文字通り相撲の横綱のように、20代前半に頂点に上り詰めたコールマン・ホーキンス、続きはまた来週! 

 最後にこの映像をぜひ観て欲しい。1945年のミステリー映画「クリムゾン・カナリー」という日本未公開のミステリー映画の一シーンです。撮影用ですが、オスカー・ペティフォード(b)、デンジル・ベスト(ds)、ハワード・マギー(tp)、サー・チャールズ・トンプソン(p)という顔ぶれの中でブロウするホーク!テナーサックスの父でありながら、若手に引けをとらないモダンなかっこよさ!バリバリのバッパーです。

CU!