2008年7月18日

ギンギンギラギラ…ボビー・ダーハム(ds)追悼

RIP_durham.jpgBobby Durham(1937-2008)

 7月7日未明、イタリアのジェノバでドラマー、ボビー・ダーハムが亡くなった。享年71歳。肺がんと肺気腫であったとのことです。
 
 4月からジャズ講座で毎月、彼の鮮やかなドラムを聴いていて、より身近に感じていた矢先の死去でした。

 トーキョー・リサイタル   エラ・フィッツジェラルド、モントルー'75 
 講座で聴いて来たボビー・ダーハム参加アルバムは凄いのが一杯!左から"トーキョー・リサイタル" "エラ・フィッツジェラルド、モントルー'75"…

<ニッポンイチ!>

 寺井が雪の京都で初めてトミー・フラナガンに弟子入り志願した'75年、エラ・フィッツジェラルドと来日したフラナガン・トリオのドラマーが、このダーハムだった。寺井尚之は、先日のジャズ講座で、京都会館の控え室に入ってきたボビー・ダーハムの印象を、こんな風に語っている。

 「暴走族の兄ちゃんが、ヤクザの組事務所に行って、正真正銘のほんまもんの極道に初めてメンチ切られた感じ。ダーハムは、オスカー・ピーターソン・トリオですでに名を成してはったし、とにかく物凄いオーラがあった…」

  そのステージのトリオ演奏は、“前座”には程遠い圧倒的にハードな演奏だった! 私は某氏の秘蔵する音質の悪いテープで聴いたのですが、演奏に負けないほどソリッドだったのは満員のお客さんの反応! …涙が出た。

 まるで、背番号だけで、全選手を熟知するヤンキー・スタジアムか熱闘甲子園… 
 近畿一円からプロのバンドマン達も沢山来ているから、手拍子もズレないし、口笛だって最高のタイミングで入るんです。

  Caravanのドラムソロでボビー・ダーハムがクライマックスに達した瞬間、すかさず大向こうから「日本一!」の掛け声がかかる!多分ダーハムは、その意味は知らないはずなのに、ハイハットの二段打ちを炸裂させて、大見得を切った。

 ストレイホーンのAll Day LongからOleoまで… 天から何かが降りて来たような状態で、エラが登場するまでに、もの凄いことになっていた… 

 この夜に、寺井尚之も、客席にいた未来の鉄人、中嶋明彦(b)さんも、一生プロでやって行こうと思ったそうです。

  私自身、JATPやオスカー・ピーターソン3で何度かボビー・ダーハムのステージを観ました。個人的には会ったことはないけど、寺井の印象はよく判る。アーサー・テイラー(ds)がサムライであり『剣豪』であるならば、ボビー・ダーハムは、無頼であり『人斬り』だ。腕はめっぽう立つし、自分の持ち場を心得て、緩急自在のツボにはまったプレイだけど、シズルの付いたシンバルもギラギラで「今宵の虎轍(こてつ)は血に飢えた」風情、絶対カタギじゃない! だからこそカッコよくて堪らないドラマーだったんです。

<かつてドラマーはダンサーだった。>

durham.jpg
 ダーハムは'37年、フィリー・ジョー・ジョーンズやヒース・ブラザーズを輩出したフィラデルフィア生まれ。両親も叔父もタップ・ダンサーの家系に生まれ、よちよち歩きの2歳から、母にタップと歌を習う。トロンボーンやヴァイブラフォン、ベースなど、色んな楽器を習得した上で、ドラマーの道を選びました。
 デューク・エリントン楽団のハーレム時代の花形ドラマー、ソニー・グリアーや、ドラム・ソロが、そのままダンスだったエディ・ロック…タキシード姿でも、ドラム・スツールに座るとボロボロのダンス・シューズに履き替えたパパ・ジョー・ジョーンズ… '昔はダンサー出身のドラマーが多かった。“華”のあるドラムとダンスには、秘密の関係があるに違いない。

  ダーハムの名前を一躍有名にしたのは、何と言ってもオスカー・ピーターソン(p)トリオです。エド・シグペン(ds)の後、断続的に'66~ '71まで在籍、モンティ・アレキサンダー(p)とも名トリオを組んだ。エラとフラナガンは言うまでもないけど、元々R & B畑のダーハムはジャズだけでなく、ジェイムズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイやレイ・チャールズ、そしてフランク・シナトラとも録音しているらしい。具体的にどのアルバムなのか、知っていたら教えてください。

<コワモテ>

  ステージでみせた「カタギでないかっこよさ」そのままに、ボビー・ダーハムは、なかなか難しい人であったらしい。アル中と噂され、トミー・フラナガンが独立後も、ボビー・ダーハムとは断続的に共演しているけど、ギグに遅刻することも、たびたびあったらしい。

Village_Voice_ad.jpg 私のスクラップfrom the Appleから:'89年のヴォイス誌のad.

 寺井尚之の友人、チャック・レッド(ドラマー、ヴァイブ奏者)が、その昔、NYにトミー・フラナガン3を聴きに行った時のこと。ドラムのダーハムがヴィレッジ・ヴァンガードの演奏時間になっても現れない。それで、フラナガンは客席にいたチャックに急遽代役を頼んだ。ラッキー・ガイ!チャックは、憧れのトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツと、天にも昇る心地でプレイしていたのですが、1セット目が終わる頃に、酔っ払ったボビー・ダーハムが現れた。
 ダーハムは、チャックに穴埋めの礼を言うどころか、物凄い剣幕で「おまえ何やってんだ。さっさとどけよ!」とドヤしつけたらしい。だからってチャックは、ダーハムを恨んだりする人じゃないんだけど、怖かっただろうな…

 <人格者オスカー・ピーターソンの証言>

Oscar-Peterson.jpgオスカー・ピーターソン時代に弾丸スピードで"Daahoud"を演っている圧巻の動画発見。ベースはレイ・ブラウン

 UKの高級新聞、「インデペンデント」誌にスティーヴ・ヴォースが寄稿した追悼記事には、ピーターソンの興味深い証言が載っている。

 オスカー・ピーターソン: ボビーは、初参加した時でも、まるで何年も一緒に演っているように感じた。他のプレイヤーなら、譜面に予め書いておかないと判らないような細かいところまで見越して叩いたからだ。
 私がボビーに付けたニックネームは“Thug(殺し屋)”だ。フィラデルフィアでも、一番物騒な土地の出身で、昔ボクシングで鳴らしたを荒くれ男だったからね。
 ダーハムは、トリオのベーシスト、サム・ジョーンズと仲が良かったんだが、スイスのツアー中、列車の中で大喧嘩をやらかした。サムは長身でダーハムは小柄なのだが、サムに乱暴しようとしたんだよ。ボビーは後から、ノッポを殴り倒す極意を、とうとうと講義していたよ…
OscarPeterson_HelloHerbie.jpg一番左がダーハム、右端がサム・ジョーンズです。ダーハムは背伸びしているみたい…
 

 <あのデュークがクビにした…>
   ピーターソンがボビー・ダーハムを気に入ったのは、エリントン楽団の複雑なアンサンブルで、いとも易々と華のある演奏をしていたからだったと言いますが、ダーハムは、メンバーを解雇しないことで知られる名君主、デューク・エリントンからクビにされた数少ないミュージシャンの一人でもあります。(もう一人は、ベーシスト、チャーリー・ミンガスらしいです…)

 息子のマーサー・エリントンの証言によると、解雇の原因は、生意気で、デュークの言う事を聞かなかったからだった。
 ところが皮肉にも、「2週間後解雇の通告」を受けてからのダーハムのプレイは、あっさりトゲが取れて、エリントン楽団にぴったりのリラックスしたものになっていた…「なんだ、最初からこう演ってくれればいいのに!」ということになり、解雇の撤回を決定した時には、すでにオスカー・ピーターソン・トリオへの移籍が決まっていたんです… 
   プライドが高くて喧嘩っ早いけれど、超一流の腕があったダーハムには、一匹狼の板前みたいに、いくらでも職場があった。ピーターソン・トリオを退団後、即、当時売り出し中の若手だったモンティ・アレキサンダーとトリオを組み、何枚も名盤を録音、その後、エラ・フィッツジェラルドのバックに参入した。

   フラナガンがエラのトリオから独立した後も、ダーハムはノーマン・グランツに可愛がられ、世界中のジャズフェスティバルに出演、特にヨーロッパで人気を博しました。

BOBBY%20DURHAM.jpg

 晩年のダーハムはスイスと、イタリアに住居を持ち、地元ミュージシャンと活動を続けていた。亡くなったジェノヴァの小さな村、イーゾラ・デル・カントーネでは、ここ数年間『ボビー・ダーハム・ジャズフェスティバル』というイベントが開かれ、ダーハムが亡くなる数日前にも開催されていた。

  気難しいヤクザな名ドラマー、ボビー・ダーハムも、自分の天才を判ってくれる人達には、聖人のようにとことん良くした人だったのではないだろうか?と、私は思う。 
 晩年すごしたイタリアの村では、一肌も二肌も脱いで、アメリカのミュージシャンを呼び、村起こしに貢献したのではないだろうか?

 今後のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルド、トミー・フラナガン3のライブ盤 <Montreux '77 >や、 来月は、Eddie "Lockjaw" Davisのワン・ホーン作品 -< Straight Ahead>などでボビー・ダーハムのプレイを偲ぶことが出来ます。

 合掌

2008年7月 3日

コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)

colemanhawkins_by_terry_crier.jpg 撮影:Terry Cryer

<ホーク、ヨーロッパに行く>

 10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。




クライスラー・インペリアル'32型:友人になだめられロールス・ロイスを諦めて、こんなのを即金で買ったらしい…

 当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
  どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
 トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
 「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。

  やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。('34)

ColemanHawkins.jpg新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
 トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
 サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。


 「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。

BennyCarter.jpg ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!

<Body & Soul>
 ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、'39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。

 普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
 これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
 テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。

<ビバップ>

 ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。

 チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。

<After Paris>

 '50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?

 '60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
 ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。

Coleman%20Hawkins_beard.jpg

 60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
 
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」

ハナ+ムラーツの24のプレリュード ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。

  最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが'68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように'69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。

 BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。

tommy_terai_1999.jpg  口髭を蓄えたトミー、'99 OverSeasにて。

  コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!

CU