2009年7月23日

J.J.ジョンソン(後編):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

 皆さん、お元気ですか?梅雨はいずこ?激しい雷や日蝕は1Q84を読んだ者に軽いシステム障害をもたらすことがあるのかな?・・・あっという間に一週間が経ってしまいました。

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 さて、私がオフ・ステージのJ.J.ジョンソンにお目にかかったのは一度だけ、J.J.は緊急事態だった。あれは1988年秋、コンコード・ジャズフェスティバルの大阪公演の当日のことです。中之島のANAホテルのコーヒー・ラウンジで一緒にお茶していたスタンリー・カウエル(p)を探して部屋から降りて来られたんです。櫛のとおっていない髪、皺の寄ったシャツ、鋭い眼光はそのままでしたが白目がどんより充血していて、私の知ってる一分の隙もないダンディな「トロンボーンの神様」の姿とは余りに違っていました。
 「神様」は私たちのテーブルに座ることなく、スタンリーに静かな口調で連絡しました。
「東京に残っている私の妻ヴィヴィアンが脳溢血で倒れた。私はすぐに東京に発つから、これからのバンドは君が仕切れ。」
 たったこれだけ・・・後を任されたスタンリーは敬礼こそしなかったけど、「Yes Sir!」と即答、するとJ.J.ジョンソンは、戦争映画の司令官みたいに踵を返して足早に去って行きました。プロとはこういうものかと、思ったものです。

<トミー・フラナガン共演時代>
img81a2730czik1zj.jpeg DialJJ5.jpg '56年、BeBopのイディオムを駆使するクールなJJと、熱血プレイのカイ・ウィンディングのJ & Kaiのコンビ解消後、J.J.ジョンソンは新たに自己クインテットを結成します。J&Kaiのように商業的な成功はないにせよ、音楽的な成果は余りあるものでした。Dial J.J5、In Peson Live at Cafe Bohemia...私たちの愛聴盤がこの時期にどっさり録音されています。自己グループの活動と並行しながら、作曲家として、ディジー・ガレスピーに依頼された組曲Perceptionsや、Poem for Brass, El Camino Realなど意欲的な大作をどんどん発表して絶賛され、後の映画音楽家としての布石を打ちました。天才J.J.ジョンソンといえども、ツアー主体の演奏活動と、孤独と集中力が必要な作曲活動を両立させるのは並大抵なことではなかったはずです。でも当時の名盤に聴ける「論理的」で「明瞭」な構成や、J.J.ジョンソンの至高のプレイは、充実した作曲活動との相乗効果があったのかもしれません。

JJ_5.jpg左からJ.J、トミー、ボビー・ジャスパー、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル


 この時期のJ.J.ジョンソンのコンボは、大まかに分けて三種類あります。ベルギー出身の名手ボビー・ジャスパー(ts,fl)との二管クインテットが最初の布陣、リズムセクションはご存じトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウィルバー・リトル(b)、続いて、兄キャノンボール(as)がマイルス・デイヴィスのバンドに参加したために、フリーになったナット・アダレイ(cor)と、アルバート"トゥティ"ヒース(ds)に、既存メンバーのフラナガン、リトルを組み合わせた第二のクインテット、それらは今までのジャズ講座で、それぞれの個性を生かしたJ.J的アプローチを堪能することができました。最初のクインテットは、上等なシャツのボタンを上まできっちり留めたような隙のないサウンドがジャズの「品格」を教えてくれます。次のクインテットは、3つ目のボタンまで開けたシックさが最高、青い炎のようなボビー・ジャスパーや、レッド・ホットなナット・アダレイ・・・コンボのアプローチはメンバーに合わせて変化して、あの頃の講座で構成表をOHP用に作るのはすごく楽しかった。

 最初のクインテットが'57年にスェーデンに楽旅した際、ピアノトリオで録音したのが『Overseas』であったことも、勿論ご存じですよね!このツアーは熱狂的な歓迎を受け、ストックホルムの王立公園で開催されたコンサートには2万人の大聴衆が集まったそうです。

JJ_BJ_bandstand.jpgBobby Jaspar (1926-63) ブロッサム・ディアリー(vo)との結婚を期にNYに住んだジャスパーはヘロインの過剰摂取で手術中に亡くなった。

 この後、J.J.のコンボは、ピアノがトミー・フラナガンからシダー・ウォルトンに替り、ジャスパーとアダレイ両方を従えた三管に増員しますが、'60に「家族との時間を大切にしたい」と、突然自己グループを解散してしまいます。その後はマイルス・デイヴィス(tp)、ソニー・スティット(as.ts)、ジミー・ヒース(ts.ss.fl)と断続的に演奏活動を続けますが、活動の重点は徐々に作曲の方にシフトして、'70年にジャズ業界に見切りをつけ、昔のボス、ベニー・カーターや、BeBop時代の仲間、クインシー・ジョーンズ、ラロ・シフリンの勧めで映画TVのフィルム・ミュージックの世界で17年間仕事をします。それは、都市部の黒人層をターゲットにしたブラック・ムービー(Blaxploitation)の世界的な流行が、J.J.の才能を必要としていたと言えるかもしれません。

<映画音楽での成功とジレンマ>
shaft.jpg 映画界に入ったJ.J.ジョンソンが手がけた映画は、『黒いジャガー(Shaft)』『クレオパトラ危機一髪』などブラック・ムービーをはじめとして、アル・パチーノのギャング映画『スカーフェイス』その他娯楽映画色々・・・TVでは私が子供の時に人気番組だった刑事シリーズ『スタスキー&ハッチ』など、リアルタイムで観たものが沢山あります。ジャズ業界に幻滅して飛び込んだ映画の世界での仕事をJ.J.ジョンソンはどんな風に感じていたのでしょう?  彼のインタビューを読むと、彼のフラストレーションは意外にも、芸術的なものではなく、業界の持つ人種差別やジャズへの偏見にあったようです。

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 J.J.ジョンソン:映画音楽の世界は凄い競争社会だ。良いエージェントを持ち、的確に仕事をしなければ業界で成功することはできない。
 それに映画界は非常に人種差別的だ。「スター・ウオーズ」「E.T」や「ジュラシック・パーク」のような大作映画の音楽の仕事が黒人に回ってくることは絶対にない。
 業界の人間は、人種差別的であるだけでなく、偏見に凝り固まっていて、視野が狭い。「J.J.ジョンソンはジャズ・ミュージシャンだろう。この映画にジャズは要らない」そんな風だ。
 私はそうでない業界人と知り合えたのはラッキーだった。そしてTV界では、私の『Poem for Brass』を高く評価してくれている人間と出会ったので、仕事を得ることができた。別にTV業界が映画界より開放的な業界というわけではない。

 私が映画界で書いた音楽はジャズとは全く違うものだ。しかし、芸術的には満足のいくものだった。私はジャズ界にいた時から、ストラヴィンスキーやラヴェル、パウル・ヒンデミットの大ファンだった。映画界ではクラシック音楽の要素を使った仕事が出来た。

<トロンボーンへの回帰>

 J.J.ジョンソンがクラシック音楽に目覚めたのは友人のミュージシャンがストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴かせてくれたのがきっかけであったといいます。チャーリー・パーカーもストラヴィンスキーやヒンデミットが好きだったそうです。だからと言ってJ.J.はクラシックに変なコンプレックスを抱いている風情も全くありません。J.J.ジョンソンはインタビューで、モーツアルト、ベートーベン、シューマンは好きではないと答えています。トミー・フラナガンも昔「サド・ジョーンズはモーツアルトよりずっと偉い」と言ってたなあ・・・

 J.J.ジョンソンは映画音楽家時代も、トロンボーンの技量を維持するためにギャラの安いTVショウのバンドで演奏を続け、自宅でも基礎練習は欠かしませんでした。
 ;TV番組がお手軽なホーム・コメディー全盛になり、もう本格的なフィルム・ミュージックが必要とされなくなった時、再びジャズ界にカムバックします。
 先週皆で聴いた『Pinnacles』は、選りすぐりのミュージシャンを集め、オーバーダビングや、エフェクター、キーボードのセレクションに至るまで、「映画時代に培った知識と、昔から変わらないアレンジの技法を集大成したもの」だと、J.J.ジョンソンの音楽解説書"The Musical World of J.J.Johnson"にはあります。この本はジャズ評論家のアイラ・ギトラーさんが勧めてくれたけど、高くて手が出なかったのですが、最近ペーパーバックになって安価に入手できます。同書には録音技師のノートが記載されていて、"Deak"でフラナガンが弾いているのはヤマハ・エレクトリック・グランド、"Cannonball Junction"では録音時にピアノを演奏し、後でクラヴィネットというJ.J.がTV音楽で使用したキーボードを重ねているそうです。その他にもテイク数や、オーバーダブの詳細が書かれていて興味深かった。この本が届いたのが今朝だったので、講座に使えず残念!講座本になった時に、加筆してもらいたいものです。

<晩年>
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 正式に映画界から引退したJ.J.ジョンソンは、故郷インディアナポリスに居を構え、80年代に多数の若手スターを輩出した敏腕ジャズ・エージェント、メアリー・アン・トッパーのプロダクション、Jazz Treeと契約、演奏やレコーディングを重ね、全世界のあらゆるフィールドのトロンボーン奏者の「神様」であり続けました。アヴァンギャルド系のトロンボーン奏者スティーブ・トゥーレは「自分のレコーディングはすべてJJに送って聴いてもらっている。」と告白しています。

 1997年、前立腺癌と診断されたJ.J.ジョンソンは正式に引退。それでも自宅のスタジオは、カムバックの日に備えて最新の装備が施されていたそうです。
 それにも拘らず2001年2月4日、インディアナポリスの自宅での拳銃自殺は全てのジャズ・ミュージシャンにとって大ショックでした。
 葬儀で棺を担いだのは、ポストJ.J.ジョンソン最右翼のスライド・ハンプトン、スティーブ・トゥーレ、ロビン・ユーバンクスなど世代を超えた9人のトロンボーン奏者でした。

 完全無欠の神様、J.J.ジョンソンの人生を調べていくにつれ、「神様」ですら深いジレンマを感じ、一度ならず麻薬に耽溺した時代もあったことなど、意外な事実が次から次に見つかって、私の疑問は増えるばかり・・・

 今朝届いた"The Musical World of J.J.Johnson"は、残念ながらトミー・フラナガンのクインテット時代について余り触れていませんが、譜例を含めた詳細なデータが沢山あるので、色々参考になりそうです。またいつか続編を書きたいな。

 明日のThe MainstemでもJ.J.ジョンソンのおハコが聴けるかも・・・私はリクエストのあった賀茂ナスグラタンを作って待ってます!

CU

2009年7月16日

J.J.ジョンソン(前篇):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

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 先週のジャズ講座も皆さんどうもありがとうございました。
 ジャズの真冬が終わり、バンドスタンドに戻ってきたスター達・・・講座に登場したアルバムの味わいは、すっきりしたものから、涙の味のしょっぱいものまで色々・・・秘蔵音源で、懐かしい「波止場」の風を浴びてハッピーエンドになれました!

 あの夜、皆で聴いたJ.J.ジョンソンのカムバック作品『ピナクルズ』、表面的な音楽スタイルは当時隆盛のクロスオーバー志向だけど、隙のない緻密な構成は、以前の講座で聴いたJ.J.ジョンソンの姿と少しもブレていなかった。あのアルバムを制作した"マイルストーン"というレコード・レーベルが、かつて.J.J.のバンドの一員で、フラナガンの親友だったディック・カッツ(p)さんがオリン・キープニュースと創設したレーベルであることも、感慨深いです。

<トロンボーンの神>
 J.J.ジョンソンは存命中から「トロンボーンの神様」と呼ばれる生き神さまだった。

 カフェ・ボヘミア時代から晩年までJ.J.ジョンソンを公私ともによく知るダイアナ・フラナガンは、私にJ.J.のことを色々話してくれたけど、残念ながらここで書けることは、以下の言葉以外ほとんどない。

 「トミーはステージで、しょっちゅうミスをしてたでしょ、リスクのあるプレイをするタイプだからね。でもJ.J.ジョンソンはパーフェクト!誰もJ.J.ジョンソンのミスノートなんて聴いたことないと思う。生まれてから一度もミスなんてしたことないんじゃないかしら?」

 トミーがJ.J.について饒舌に語ってくれた記憶はないけど、寺井とトロンボーンについて議論していて、寺井がJ.J.ジョンソンを持ち出したら、こう言ったのが印象にあります。
 「J.J.ジョンソン?あれはもうトロンボーンじゃない!」

 つまり、J.J.は例外なので、トロンボーンを語る時に持ち出さない方がいいという意味でこう言ったんです。カーティス・フラー、タイリー・グレンやアル・グレイ、スライド・ハンプトン・・・多くの名トロンボニストと共演して来たトミーにとって、J.J.ジョンソンのトロンボーンは既成の概念を遥かに超越したものだったんですね。

<Why Indianapolice-Why Not Indianapolice?>

 インディアナポリスに生まれ育ち、BeBop以降の全トロンボーン奏者に影響を与えた"The Trombonist"は、インディアナポリスで拳銃の引き金を引いて自ら人生の幕を引いた。

 ネット上に遺る晩年のインタビューを読むと、"Logic(論理)""Clarity(明瞭)"という二つの言葉をJ.Jは繰り返し口にしている。『論理的で明瞭』であることが、全てに優先するというのが彼の哲学だったことは、『ピナクルズ』を聴いても明らかだった。だからこそ、パーカー+ガレスピーにBeBopの洗礼を受けたとき、スライドを疾走させるためなら躊躇なくトロンボーンらしい(と思われていた)音色と決別することが出来たのかもしれない。

 J.J.ジョンソンがあっさりジャズ界を離れ、青写真技師や映画音楽家に転職したのも、評判の愛妻が亡くなって後、すぐに再婚して新しい妻をマネージャーにして、周囲を驚かせたことも、『論理的且つ明瞭』な決断だったのだろうか?

 寺井尚之は前から「J.J.ジョンソンは自殺すると思う。」と言っていたけど、彼にとっては自殺ですら「理にかなった明瞭な決断」だったのだろうか?或いは、癌に犯された時から、J.J.の内側で「論理性」と「明瞭さ」は崩壊していったのだろうか?

 ミュージシャン達が畏敬を込めて『トロンボーンの神様』と呼ぶJ.J.ジョンソンの人生を、JJ自身の証言を読みながら、駆け足で辿ってみようかな。

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<最初のアイドルはレスター・ヤング>

 J.J.ジョンソンこと、ジェームズ・ルイス・ジョンソンは'24年1月4日、中西部の大都市インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼い頃は教会でピアノを学び、10代の初めにジャズが好きになってからサックスを志したそうです。J.J.ジョンソンの最初のアイドルはレスター・ヤング(ts)でした。でもJ.Jの楽器はバリトン・サックスで、レスターの音色を自分のものにすることはできなかった。ハイスクール・バンドで、たまたま人数が足らなかったという理由からトロンボーンに転向してからも、ずっとレスターへの想いは不変だと語っています。

art_lesteryoung.jpgJ.J.ジョンソン:最初のヒーローはレスター・ヤング(ts)だ。その頃の私は完全な"レスターおたく"だったよ。レスターは音楽を志す仲間たち全員の「神」だった。皆で何時間もレスターのソロを聴き続け、「ああでもない、こうでもない」と色々分析していたものだよ。

 トロンボーンに転向してからはレスターのソロを丸コピーして吹こうと思ったことはない。私の敬意はそういう種類のものではない。レスターの凄いところは、規制のテナーの即興演奏の枠に全く囚われない斬新なアプローチにある。たった2つか3つの音だけで『あっ!レスターだ!!』と判る強烈な個性だ。同じようなペルソナは、トロンボーン奏者のトラミー・ヤングやディッキー・ウエルズにもあり、私は大きな影響を受けた。

 J.J.ジョンソンは殆ど独学でトロンボーンに習熟、レッスンを受けた経験は数回だけだったそうです。1941年に高校を卒業するまでに、高度な音楽理論を身に付け、地元バンドに楽曲を提供していました。卒業後すぐ、スヌーカム・ラッセル楽団に加入、バンドメイトだったファッツ・ナヴァロ(tp)のBeBop的アプローチに大きく影響を受けたといわれています。J.J.ジョンソンの卓越した技量は仲間内で評判になり、翌年ベニー・カーター楽団に移籍。'44年のJ.J.ジョンソンは、すでに往年の疾走感溢れるスタイルを確立していました。

 ディック・カッツさんによれば、J.J.ジョンソンの紳士的なマナーはベニー・カーターから学んだもので、J.J.に作曲活動を強く勧めたのもやはりカーターだったそうです。"ザ・キング"の大きく聡明な瞳は、音楽家の資質をすぐに見抜いたわけですね。

 大戦後、J.J.ジョンソンはカウント・ベイシーやJATPなど様々なフォーマットでキャリアを積みます。当時J.Jが参加するイリノイ・ジャケーのバンドがシカゴで公演した時には、町中のミュージシャンが噂に聞くJ.J.ジョンソンの驚異的なプレイを一目見ようと押し寄せたと言います。

<ありえないBeBopトロンボーン>

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マックス・ローチ(ds)オスカー・ペティフォード(b)と。

 '46年になると、J.J.ジョンソンはNYに腰を落ち着け、BeBopムーブメントの中心として活躍。チャーリー・パーカーのオリジナル・カルテットが迎えた唯一のゲスト・プレイヤーとして全米に名を馳せます。リーダー作だけでなく、バド・パウエル、ソニー・スティット、ディジー・ガレスピー達と歴史的録音を重ね、次のトレンドを予見するマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』にも参加しています。

 複雑なハーモニーやマシンガンのような急テンポの革命的音楽BeBopに、トロンボーンというスライド楽器を順応させるための苦労について質問されたJ.J.ジョンソンは、インタビューで、このように答えています。

J.J.ジョンソン:もちろんBeBopを演奏する上で課題はあった。だがそれは、「速く吹く」とか「高音を吹く」というテクニック的な問題でなく、即興演奏上のアプローチの問題だ。
 世間は私を超絶技巧派と思っているようだが、決してそうではない。私が演奏家として、過去も現在も一貫して目指すのは、明瞭さ(clarity)と論理性く(logic)、そして聴く者に感動を与える表現力だけだ。この三点を達成すれば、私のトロンボーンにペルソナが宿り、(レスター・ヤングのような)強烈な個性を持つことができる。そうなればいいと常に望んでいる。
 『あいつは一体何をやりたいんだ?』と思われない演奏をしたい。

<転職その1>

 チャーリー・パーカーがキャバレー・カードをはく奪され、BeBop時代の終焉が近づいた1952年、J.J.ジョンソンは突如ジャズ界を離れ、元々興味があった電子関係の企業に青写真技師として就職しました。

 最大の理由は無論経済的なものでしょうが、ジャズの行く末に幻滅を感じたこと、しばらくジャズ界を離れて、外側からジャズを眺めたかったとJ.J.自身は語っています。ロジックを最優先するJ.J.ジョンソンなら、周到な準備の上何の躊躇もなく転職したのだろうか?

 でもジャズ界はJ.J.ジョンソンを放っておかず、2年間後の1954年、デンマーク生まれのトロンボーン奏者、カイ・ウィンディングと双頭コンボを組んでジャズ界に復帰。洗練され聴きやすいサウンドの"Jay & Kai"は大人気を博し、商業的に大成功します。その時期のレギュラー・ピアニストがディック・カッツさんです。

 "J&Kai"は音楽的方向の相違から1956年にコンビを解消しますが、その後も繰り返しリユニオンしていて、私もAurex Jazz Festival('82)で、J&Kaiの生演奏を楽しむことができました。下のYoutube動画は当時TV放映されたものです。
 コンサートでは私たちの予想に反して、J.J.ジョンソンよりもロマンス・グレーのカイ・ウィンディングの方が溌剌として沢山拍手をもらっていました。よもやその翌年にカイ・ウィンディングが亡くなるとは思ってもいませんでした。


*曲はおハコの"It's Alright With Me "トミー・フラナガン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)

 え?トミーのソロを半コーラス聴いただけで満足だから、もう先を読むのがしんどいって?
そりゃそうですね!
 じゃあ続きは数日後に!

 今週末は明日17日(金)が末宗俊郎(g)3、そして18日(土)がThe Mainstem!
お勧め料理は定番"牛肉の赤ワイン煮込み" です。

Enjoy!