2011年4月14日

<ゴールデンウィーク楽しいJAZZの講座>予告編:サラ・ヴォーン

 大阪の街は造幣局「桜の通り抜け」が始まりました。皆様はいかがお過ごしですか?

 連休中、5月4日(水)のお昼、OverSeasでは、寺井尚之がサラ・ヴォーン選りすぐりの歌唱を、不肖私の作った<ゴールデン・ウィークの楽しいJAZZの講座>を開催いたします。ジャズ初心者大歓迎!ぜひご予約の上お越しくださいね!

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 エラ・サラ・カーメンと称される、ヴォーカルの御三家の一人サラ・ヴォーンは、ハリウッドの" ウォーク・オブ・フェイム"に名前が刻まれる数少ないジャズ歌手の一人。現代もビールや乗用車のCMで「ラヴァーズ・コンチェルト」など、サラの歌声が使われるのは、きっとハイクラスでセクシーなインパクトのせいですね!

 サラ・ヴォーンは、日本の大女優、高峰秀子さんと同じ、1924年3月27日生まれ、生地はNYマンハッタンからハドソン川を渡ったNJのニューアークという街です。

young_Sarah_Vaughan.JPG 18歳の時、ハーレム・アポロ劇場のアマチュア・コンテストに優勝し、歌手兼ピアニストとしてアール・ハインズ楽団に入団、スター街道が始まりました。その頃のサラ・ヴォーンは、左の写真のように、歯並びが悪く、やせっぽちのいかり肩、歌はうまいが、美人とは程遠かった。アール・ハインズ楽団はゴージャスな一流バンド、音楽だけでなく、ルックスの良さでもトップを誇った。ですからサラの入団が決まったとき、アール・ハインズは気が狂ったんじゃないかと噂になったそうです。楽団一の男前で女性ファンを熱狂させたのが、専属歌手のビリー・エクスタイン、サラは彼からバップ的奏法を習得、エクスタインはサラにとって、生涯の師でありアニキとなったのです。

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<醜いアヒルの子から美人歌手へ>
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 独立後、タッド・ダメロン書き下ろしの名バラード"If You Could See Me Now"など、多くのヒットを飛ばし、ライブ・シーンでは、「人種混合」のリベラルなポリシーで、流行のさきがけとなった<カフェ・ソサエティ>(ビリー・ホリディに「奇妙な果実」を歌わせたのもこのクラブです。)を本拠に、どんどん知名度を上げます。

 ニューアークのイモねえちゃんは、華やかなスポットライトを浴び、見違えるように垢抜けて行きます。それは、最初の夫ジョージ・トレッドウエルの功績でもありました。トランペット奏者であったトレッドウエルは'47年に結婚してから、マネージャー兼財務管理者に専念、サラの収入から大枚$8000投資して、サラ・ヴォーン改造計画を実行したのです。まず鼻と歯を整形し、発音レッスンを受けさせ、見た目も歌唱も洗練させた。トレッドウエルはなかなかセンスの良い人で、彼女の髪をショートカットにし、ゴテゴテしたドレスの代わりに、NYっぽいスッキリしたファッションにスタイリング、お洒落で憎らしいほど歌のうまい美人歌手、"サッシー"を作り上げたジャズのピグマリオンでした。19世紀の伝説的名女優、サラ・ベルナールから、"The Divine Sarah"(聖なるサラ)というキャッチフレーズもちゃっかり拝借しています。

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<夫は変われど、歌唱は不変>

 サラ・ヴォーンの私生活はエラ・フィッツジェラルドと対照的に「遊び好き」、酒も煙草もガブガブ、スパスパ、その上、マリワナはおろか、コカインの量もハンパじゃなかったといいます。サラにマリワナやコカインを教わったという後輩ミュージシャンはジャズ界にたくさんいるみたい!結婚離婚歴は公式には4回、ミュージシャン、ヤクザ、会計士など、職種も人種もさまざまです。サラは、例え稼ぎをピンハネされようとも、その時々のダーリンに誠心誠意マネージメントさせる主義、ジョージ・ウエインたち大物からオファーがあっても全て断った。ノーマン・グランツに一切の仕事を任せたエラとは、ビジネスセンスも正反対ですね。

 レコーディングの第一期黄金時代は、'50~'60年代の"マーキュリー""エマーシー""ルーレット"からの録音群、"Poor Butterfly"、"Misty" クリフォード・ブラウン(tp)との"バードランドの子守唄"、ビリー・エクスタインとのデュエット集など、歴史的名唱を残しました。'70年代以降は、レコーディングよりコンサート活動に主体を置きましたが、CBSの"ガーシュイン・ライブ"や、「枯葉」など一連のパブロ盤は、生で観たサラ・ヴォーンとオーバーラップして、思い出深いものばかりです。

<ミュージシャンはサラが大好き!>

 サー・ローランド・ハナ(p)は'60年代中盤にサラの伴奏者として活動し、'70年代サラが自分でプロデュースした名盤『枯葉』でもリユニオンしています。
 「普段、歌手の伴奏は好きではないが、サラはミュージシャンとして素晴らしかったから、金のためでなく、心から喜んで共演した。」

 ハナさん以外にもサラ・ヴォーンを崇拝するミュージシャンは、たくさんいます。レッド・ミッチェル(b)、ジミー・ヒース(ts)、ウォルター・ノリス(p)・・・枚挙にいとまがありません。ジミーは、サラ・ヴォーンを聴くと、「テナーなんか辞めて歌手になりたいと思うほどだ。」と言っている。

 それは、彼女がピアニストとして器楽的な思考が出来ることと無関係ではないように思えます。マルチオクターブの豊かな声を、ビバップの高度な理論に裏打ちされたハーモニー感覚で、器楽奏者が舌を巻くようなフレージングを実現した。

 譜面が読めないのに、ミュージシャンに大きな影響を与えたビリー・ホリディ(5/3)と、聞き比べれば更に面白いですね!
 

<終生美人歌手>

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 寺井尚之は、「声だけ聴いてたら、どんな美人やろう!!と、判っていてもダマサレる」と言う。

 対訳係りとして、もうひとつ強調したいのは、彼女の官能的な魅力です。それは、ナンシー・ウィルソンとかダイアナ・ロスみたいな「ウッフン」系のセクシー・ヴォイスとは違う。もっとハードでヘヴィー級!『枯葉』に収録されている"アイランド"で、R-15指定のエロスを感じてください!

 私が観たステージ上のサラ・ヴォーンは、「デラ・リーズ(同輩の黒人ヴォーカリスト)です」と可愛く自己紹介し、ハンカチーフではなくティッシュで、グリースみたいな汗をぬぐいまくった。伴奏が気に入らないと「ギャラあげないわよ」とジョークを言い、客席のリクエストには「Not Tonight!」とすごむ。

 だけど、ひとたび歌い出せばアンコールの"Send in the Clowns"まで、絢爛たる美人に変身、圧倒的歌唱力で終生「美人」を貫いた稀有な歌手。彼女の愛称Sassyは、「小生意気な娘」の意味だった。死ぬまで、Sassy でDivineだったサラ・ヴォーンよ、永遠に!

 ヴォーカル通もオペラ・ファンも、まだ聴いたことがない人も、ぜひ5月4日、来て見てください!


<ゴールデン・ウィークの楽しいJAZZの講座>
【日時】2011年5月4日(水)
     正午~3:30pm 
【講師】トミー・フラナガンの唯一の弟子 寺井尚之
【受講料】各日¥3,150 (税込) 要予約

CU

2011年4月12日

ペッパー・アダムス追記

homage_image022.jpg 先日のジャズ講座、沢山お越しくださってありがとうございました。

 バリトン奏者、ゲイリー・スマリヤンが、尊敬するペッパー・アダムスにトリビュートしたアルバム、"Homage"は、トミー・フラナガン(p)やケニー・ワシントン(ds)の凄いプレイも聴けましたね。"Homage"(「礼」、「敬意」)というタイトルに相応しい、礼節と潔さのあるハードバップが気持ちよかった!講座の前の「相撲」の心の解説と、「ここぞ!」というバップの聴き所をジャストサイズで教えてくれるアルバム解説、一見無関係に見えるトピックが絶妙のハーモニー、この辺りが寺井尚之のジャズ講座の醍醐味です!

 講座に来られる皆さんがすでにペッパー・アダムスを聴き込んでいらっしゃるのを知り、一層嬉しかったです。

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Pepper Adams (1930-86)

 コオロギみたいな風貌、小柄な体に似合わぬ豪放な音色と、切れ味鋭いソリッドなプレイから、"ナイフ"と呼ばれるペッパー・アダムス、出生地、ミシガン州ハイランドパークは、デトロイトの隣町、トミー・フラナガンとは亡くなるまで親友でした。トミーが心臓発作の直後に"Homage"にゲスト出演したもの、亡きペッパーのために一肌脱いだわけだったんですね。

 '若きペッパーやトミーが切磋琢磨した50年代のデトロイトは、自動車産業に多数の黒人労働者が従事しており、労働組合も人種隔離されており、人種間の軋轢から何度も暴動が起こりました。

 ジャズ・シーンも大差なく、モーターシティの「白人」ジャズメンはスタン・ゲッツを、黒人たちは、言うまでもなくチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーを崇拝し、活動場所は分かれていたそうです。ペッパー・アダムスは、アイルランド系だったけれど、彼のヒーローはハリー・カーネイ(bs)やチャーリー・パーカー!故にブラック・コミュニティに入り、信条を貫いた。サー・ローランド・ハナによれば、そのためにペッパーは「何度もひどい目に遭った。」そうです。

 そんな人だから、ジャズの巨人達には大変に可愛いがられた。

 ペッパーの兵役中、「チャーリー・パーカーが彼をギグに連れ出すため、ペッパーの母親の主治医になりすまし、「母危篤」の電話をしてまんまと休暇を取ってくれた。」とか、「ワーデル・グレイの葬儀で、棺の担ぎ役になった。」とか、サイドメンに鉄拳制裁を食らわし、白人への暴言で有名なミンガスも「ペッパーだけにはいつも優しかった。」とか、色んな伝説があります。

 逆にペッパー自身も、男気があって面倒見がよく、多くの後輩に慕われていました。

 サド・メルOrch.時代の盟友、ジョージ・ムラーツ(b)も、その一人、英語が不自由だった頃、大変お世話になったそうです。後に、彼の複雑なフレージングをそっくりそのまま"Pepper"という曲に仕立て、ベースでスイスイ弾いてます。

 ミュージシャンには絶大な尊敬と人望があったペッパー・アダムスですが、批評界は、必ずしもそうではなかった。故に、なかなかまとまった資料がなく、私もG先生から戴いた「ダウンビート・マガジン」そのほかのインタビュー記事しか持っていなかったのですが、昨年ついに、ある研究家の手でペッパー・アダムスのサイトが完成!

<ペッパー・アダムスの足跡を辿る>

 ペッパー・アダムズ・ドット・コムの管理人はジャズ史家のゲイリー・カーナー(Gary Carner)、学生時代からペッパーを尊敬し、修士論文のテーマを「ペッパー・アダムス」にし、ペッパーが骨折のため自宅療養している間、せっせとブルックリンの家を訪ねてインタビューをしていました。

 ペッパーの死後、カーナーは、トミー・フラナガンと会い、トミーからこんなことを言われました。
 「亡くなる4日前にペッパーを見舞いに言ったら、傍らのテーブルに君の原稿を山のように積み上げてあった。意識が混濁しているのに、その原稿の束を指差して、しきりになにか言おうとしていたよ。本にしろって言ってたんじゃないかな・・・」

 トミーの言葉に衝撃を受けたカーナーは、ペッパーの遺した音楽的遺産を守ることに、人生を捧げようと決意したそうです。

 ペッパーの名盤群は例に漏れず廃盤が多い。彼の業績を守るため、オリジナル曲、全43曲を現在のミュージシャン(4枚のアルバムがありゲイリー・スマリヤンも参加しています。)で再録音しました。

 伝記はスミソニアン協会より出版予定ということですが、出来たら絶対に読みます!とりあえずはペッパー・アダムス・ドット・コムディスコグラフィー、作品データ、詳細な年表など貴重な資料がどッとUPされています。

 不景気だ、ジャズ斜陽だ・・・何のかんの言っていても、すごい研究者は突然表舞台に出てくるものですね!

 私の手元にある様々なインタビューを読むと、ギネスを痛飲し、文学に精通していたペッパーの発言はすごく面白い!多くの文学者や詩人を生んだアイルランドのDNAを感じます。ただ演奏と同じで、言葉の洪水!草稿をまとめるのは、よほど大変だろうと思います。

 最後に、ペッパーが最高に尊敬するチャーリー・パーカーに関するコメントを引用しておきますね。'86の"Cadence(ケーデンス)"というジャズ雑誌に掲載されたもの。インタビューは、カーナー氏です。この発言から、チャーリー・パーカーとトミー・フラナガンの共通点や、デトロイト・バッパーたちの方向性が感じ取れます。

Charlie_Parker.jpg 「ああ、クソッ! 彼は最高のプレイヤーだ。

 だが、彼の音楽はまだ充分には認められていないと思う。世間の連中が彼を「名手」と言ったところで、その革新性と尊厳を充分理解している人間がどれほどいるのか疑問だ。

 チャーリー・パーカーは非常に多面的な音楽家だ。ある時はむき出しの荒々しさを愛し、わざと雑なアクセントやフレージングでと吹いてみせる。そうかと思えば、いきなり自分本来の洗練されたアクセントとフレージングへ戻って行く。それが彼流なんだ。

  バードは、自分のプレイの中に20世紀音楽の全歴史を構築した。彼の演奏は、クラシックから、初期のジャズ、サックスの教則本(笑)まで、ありとあらゆる音楽要素を取り入れている。

 それも、わざとらしいやり方でなく、あくまでさりげなく、包括的な音楽言語、文脈にしている。それこそ、僕が目指すところさ。

 僕も利用可能な全ての音楽言語でアプローチしたいと思ってる。・・・ただしそれで生計を立てようとすると問題だ。生計のために頼るべき人たちの大半は、そういう音楽を理解できないから。」

 来月のジャズ講座ではトミー・フラナガンの白眉のソロ・プレイが聴けますよ!ぜひお楽しみに~

CU