2011年6月16日

" Let's" by Tommy Flanagan Trio 余談

let's.jpg (p) Tommy Flanagan
(b) Jesper Lundgaard
(ds)Lewis Nash
'93 4/4 録音 (Enja)

 大阪も凄い雨です。皆様のところは大丈夫ですか?先日は「トミー・フラナガンの足跡を辿る」『Let's』講座に沢山お越しいただきありがとうございました!プロジェクターも発起人ダラーナ氏のおかげで、新しいものになって心機一転!北海道からグリーン・アスパラの差し入れもいただき、心もお腹もおいしい講座になって、とても嬉しかったです!

 トミー・フラナガンが自分で録音費用を払って制作した思い入れのあるサド・ジョーンズ曲集『Let's』(正確には"Let's" Play the Music of Thad Jones)、気品と威厳と疾走感、ユーモア、ブルースの心...ピアノ・トリオによるデトロイト・ハードバップの理想型といえるかも知れません。これっきりになるのが名残惜しい。サド・ジョーンズ作品は曲説が少ないので書いて置きたいと思います。

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1.Let's  レッツ
magnificent.jpg タイトル・チューンのLet'sは、ブルーノート盤『The Magnificent Thad Jones Vol.3』('57)でフラナガンが共演したのが最初、月日は流れ、'90年代にフラナガン・トリオがライブで頻繁に演奏し、やんやの喝采を浴びていた十八番です。通常のAABA形式(32小節)に、あっと驚くファンファーレのようなインタールード(16小節)がついているのがお楽しみ!手に汗握って最後までドキドキしながら聴いてしまいます。

2.Mean What You Say ミーン・ホワット・ユー・セイ

 ルイス・ナッシュのドラム・ソロがタップダンスのように楽しい!なかなか鼻歌にはならないLet'sと対照的に、犬と散歩しながら歌える。"Mean What You Say"はサド・ジョーンズの口癖、「相手にはっきり判るように言え」ってこと。多分プレイヤー達を鼓舞する言葉たったんでしょうね。サドメルOrch.創設時、楽団でも演奏し、楽団員ペッパー・アダムスとの双頭アルバム『Pepper Adams-Thad Jones Quintet』('66)にも録音しています。

 この作品は、ほぼ同時期に録音されたハンク・ジョーンズ3のサド・ジョーンズ集『Upon Reflection』と重複しています。サドメルで録音した時のピアニストがハンクさんでした。
 ちなみに寺井尚之は、鷲見和広(b)とのデュオ、『エコーズ』に収録。印象的な左手のオブリガードは、ハンク・ジョーンズ盤でジョージ・ムラーツ(b)が使ったラインです。

CountBasieMeetsDukeFirstTime1961.jpg3.To You  トゥ・ユー

 トミー・フラナガンは「サドのバラードは完成度が高くアドリブする必要がない。」とコメントしていましたが、これは気品ある賛美歌のようです。ベイシー楽団時代の作品であり、ベイシー+エリントン二大楽団夢の共演盤『First Time』に収録されています。最近の講座ではマンハッタン・トランスファーのものも聴きました。最初のフレーズは歌詞がなくても"To You"にしか聴こえない。澄み切ったハーモニー、ピアノトリオでもビッグバンドに負けない厚みのあるサウンドに清められるような気がします。

mad_thad.jpg 4.Bird Song バード・ソング
 
 チャーリー・パーカーではなく、小鳥がビバップ・フレーズをさえずるとこんな風になるのかと思わせるほど軽やかな曲は、'57年サドが『Mad Sad 』で録音、同年、弟のエルヴィン・ジョーンズ(ds)とフラナガンが参加した名盤、J.J.ジョンソン(tb)の『Dial J.J.5』にも入っていて、ボビー・ジャスパーの一糸乱れぬユニゾンに親しみがあります。本作では、もう少しハードなスインガーで、また違う魅力が感じられます。

tj_detroitny.JPG5.Scratch スクラッチ
 寺井尚之がいつも「めっちゃ難しいわ~」とブルドッグみたいに唸る曲、どこがそんなに難しいのかと尋ねると「なにもかも難しいんやけど、メロディがまず難しい・・・」そうです。トミーは「Easy Song!」と言ってましたけど、反語です。Scratchというのは、「ざっとメモ書きしただけ」という意味だと思いますが、分厚いハーモニーの塊が転がりながらどんどん形を変えて行く、ゆったりしてるのに、スピード感がある不思議な曲です。聴いている方は難しそうに聴こえないので素敵なところ!サド・ジョーンズの初期の名盤『Detroit-New York Junction』に収録されています。

6.Thadrack  サドラック
 1.Let's と同じ、『The Magnificent Thad Jones Vol.3』で初演されていますが、おそらくデトロイト時代に作られた作品でしょう。黒人霊歌"Shadrack"をもじったタイトルで、フラナガンは"Shadrack"のフレーズを引用して印象的なヴァージョンに仕立てています。

Roland_Hanna_87.jpg7.A Child Is Born  チャイルド・イズ・ボーン
  サド・ジョーンズ作品のうちでも、最も多くのミュージシャンに演奏される美しいバラード。作曲家、文筆家アレック・ワイルダーはサドメルの演奏を聴いて深く感動し、自ら歌詞を書いて献上しました。

 ところが、当時サドメルのピアニストであったサー・ローランド・ハナさんが言うには、実はハナさんが作った曲であったのに、サドが勝手に自分の名前にしてしまったということです。ハナさんは憤慨していましたが、演奏を続けるうちに、ハナさんの作品にサド・ジョーンズ音楽の美が融合して、さらに素晴らしい作品になったのかも知れません。


TheJonesBrothers.jpg8.Three In One   スリー・イン・ワン
 元来"Three And One"というタイトルで、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ兄弟に、同姓でも他人のベーシスト、エディ・ジョーンズが参加したカルテットが、サド・ジョーンズとアイシャム・ジョーンズの作品ばかりを収録したジョーンズずくしのアルバム『 Keepin' Up With The Joneses 』('58)で初演された作品です。"Three And One"つまり"三兄弟&他一名"という冗談っぽいタイトルでした。その後、サドメル楽団もよく演奏していました。でも、フラナガンはずっと"Three In One "とタイトルをつけて演奏しています。自分がジョーンズじゃないからかも知れませんね。


thaddeus-joseph-thad-jones.jpg9.Quietude クワイエチュード
 なんて素敵なタイトルでしょう!ヴィレッジ・ヴァンガードのマンデイ・ナイトで、オープニング・チューンとしてよく演奏さ、繰り返し録音されているから、サドメル・ファンならご存知ですね。元はグレン・ミラーOrch.のナンバーで、バディ・デフランコ(cl)がリーダーをしていた時代に、ジョーンズが依頼されて書いたものです。サド・メルでは、デフランコのクラリネット・パートをサドがコルネットで吹いていました。

billy_mitchell.jpg10.Zec ゼック

 これは、デトロイト時代の作品。トミー・フラナガンにとっても思い出の曲。Zecは"Executive"の略、日本語ならエグゼか・・・。"ブルーバード"のレギュラー・バンドで、サドの「上司」だったビリー・ミッチェル(ts)のために書いた曲、『Detroit-New York Junction』にも収録されています。デトロイトを離れて後、ミッチェルは再びカウント・ベイシー楽団でサドの先輩メンバーでした。

fabulus6004.jpg11.Elusive   イルーシブ
 タイトルどおりまさに「つかみ所のない」ウナギみたいな曲、呆気に取られていると、サド・ジョーンズの高笑いが聴こえてきそう。何とも知れない超モダンなこの作品もデトロイトの"ブルーバード・イン"で頻繁に演奏されていたそうです。サド・ジョーンズはDebut盤『Fabulous』に、デトロイトの盟友かつサドメルのスター奏者ペッパー・アダムス(bs)は名盤『Encounter』に、そして寺井尚之は『エコーズ』に録音しています。色々聞き比べるのもまた楽しいですね。

mdavis_mjackson.jpg12.Bitty Ditty ビティ・ディティ
 音質が全く異なる日本盤のみ収録のボーナス・トラック。
 トミーがこの曲を紹介すると、「ビディディディ」にしか聞こえず呪文みたい。「すごくシンプルな歌」という意味ですが、これまた反語。41小節、奇数の変則サイズはいかにもサド・ジョーンズ!故に実はすごく難しい。だからサド・ジョーンズの作品は、ジャムセッションで愛奏されることもないし知名度が低くB級扱いされるわけですね。ところが聴いていると、楽しくてスイングして難しいなんて思いもしないのが素敵なところ!
 マイルズ・デイヴィス(tp)は、ひょっとするとデトロイトに長期滞在中に聴き覚えたのか、『MILES DAVIS AND MILT JACKSON QUINTET - SEXTET』('55)に収録。でもキーもコードも少し違っているように聞こえます。
 トミー・フラナガンはドナルド・バード(tp)+ペッパー・アダムス(bs)の『Motor City Scene』、自己トリオで『Nights At The Vanguard』と計3回録音を残しています。

 というわけで、自分の覚書として、古い資料をあれこれ引っ張り出してScratchしてみました。

 18日(土)の寺井尚之メインステム・トリオで、サド・ジョーンズの明るく楽しいデトロイト・ハードバップ沢山お聞かせいたしますので、存分にお楽しみください!

CU

2011年6月 9日

"Let's" Talk about Thad Jones(3)

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<ビッグ・バンドの世界へ>

 '54年、ディジーやブラウニー以上の「ジャズの救世主」として期待を集めたサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団。ミンガスのレーベルと専属契約しながら、偽名で他社に録音し裁判沙汰になるトラブルが一因だったのかも知れません。ベイシー楽団以降、ミュージシャンなら誰もが畏敬するサド・ジョーンズのプレイヤーの資質は、アレンジャーやコンダクターといった顔の陰になってしまうのが残念です。『Detroit NY Junction』など『 Motor City Scene』など、トミー・フラナガンとの幾多の共演作のことは、ジャズ講座の本を読み直してくださいね。

<カウント・ベイシー楽団>
CountBasieMeetsDukeFirstTime1961.jpg サド・ジョーンズがベイシー楽団に在籍したのは、'54-'63までの10年間。バンドのソロイストとして活躍する傍ら、バンドの作編曲も多数手がけました。『Let's』に収録されている気品溢れるバラード"To You"は、ベイシーとエリントンの二大ビッグバンドの夢の競演盤『First Time』で聴くことが出来ます。

april_in_paris.jpg ベイシー楽団のソロイストとして、最も有名なの演目は、なんといっても"パリの四月"で、アドリブの中に誰でも知ってる童謡"Pop Goes to Wiesel"の一説を挿入したものでしょう。"Pop Goes to Wiesel"は、私と同世代の方は、子供の頃ロンパールームっていうTV番組で、うつみ宮土里おねえさんが「箱の中からジャック君が・・・」って言う時に流れていたメロディとしてよくご存知ですよね!このソロでヒットしたのがサド・ジョーンズの退団の引き金になったのですから、皮肉なものです。

 サド・ジョーンズはベイシー楽団独立の際、ダウンビートにこんなコメントを残しています。

「僕が"April in Paris"のレコーディングでたまたま吹いた短い童謡(Pop Goes to Weasel)の一節が良い例だ。そのレコードがヒットしたものだから、ベイシーはそのナンバーを演る時には必ず、ソロで同じフレーズを入れるように指示した。僕が一体何度そのフレーズを吹いたか判るかい?つくづくうんざりしてしまったんだが、必要不可欠だった。一度、フィラデルフィアで演ったとき、わざと全く違うソロを吹いてやった。そうしたら客席から「パリの四月」を演ってくれ!とリクエストが来たよ。あの短い童謡フレーズがなければ、同じ曲とは判らなかったんだな。それが楽団を辞めた理由のひとつだ。この曲がいやと言うわけじゃないが、もうそろそろ本当にプレイがしたい。今の苦痛からは解放されるだろうし、一旦退団して、柔軟性を取り戻したいんだ。」

 優れたジャズメンを殺すのに刃物は要りません。狭い枠にむりやり押し込めて、同じプレイばかりさせると間違いなく窒息死します。サー・ローランド・ハナは同じ理由でブロードウェイの大ヒットミュージカルを降板し、アキラ・タナ(ds)は「毎日、毎日、同じがたまらなくて」超人気グループのバックバンドを辞めました。

<ドリーム・チーム!サド・メル楽団>

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 サド・ジョーンズが独立した'63年は米国にビートルズ旋風が巻き起こり、ジャズ・ミュージシャンは受難の時期、ヨーロッパに移住した者も多かった。(トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルドの専属になる直前です。)同時に活況を呈するTV局のスタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を稼ぐジャズメンもいました。サド・ジョーンズは、しばらくフリーランスで演奏や編曲の仕事をした後、米国TV三大ネットワークのひとつCBSに勤務、兄のハンク・ジョーンズやベイシー楽団の盟友、スヌーキー・ヤング(tp)はNBCのスタッフ・ミュージシャンとして常勤していました。一方、メル・ルイス(ds)やペッパー・アダムス(ts)たちは、スタジオ・ミュージシャンとしてポップスターのレコーディングに明け暮れていました。つまり多くの一流ジャズメンがツアーに出ずNYで高給を稼ぎ、夜になると本物のジャズがやりたくてうずうずしていたんです。伝説のビッグバンド誕生の第一要因でした。

 もうひとつ直接要因があります。以前、サド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団のアルバム制作に際し、LP一枚分のアレンジを依頼されたのですが、出来上がった譜面は余りにも複雑、「シンプルでスインギーな」ベイシー楽団のコンセプトに合わないとボツにされていたのです。寛大なベイシーは、ジョーンズに譜面の使用許可を与えてくれたので、NYの町でTVやスタジオの仕事で退屈しているミュージシャンたちに声をかけると、ビッグバンドの面子はすぐに集まり、週に一度、深夜リハーサルが始まったんです。スタジオの借り賃は、見習いのエンジニアが練習で録音するのを許可する条件で無料にしてもらいました。集まったのはジョーンズ選りすぐりの一流ミュージシャンばかり!勿論ドラムはメル・ルイス(ds)、創設メンバーとして他に有名なところでは、ハンク・ジョーンズ(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、エディ・ダニエルズ(as,cl)、ペッパー・アダムス(bs)などなど...よだれが出そうなメンツですね。

 やがて噂を聞きつけた業界人が覗きに来て、その凄さに度肝を抜かれます。著名なジャズ批評家、ダン・モーガンスターンはリハについてこんな風に語っています。
「バンドのサウンドは、最初から従来のものと全く違っていた。ひとつはサドのアレンジに起因している。さらにリズム・セクションの使い方が革新的だった。サドの合図ひとつで、ソロのバックのリズム・セクションが出し入れされ、大きなコントラストが醸し出された。」(ディック・カッツさんによるモザイク盤「サド・メルOrch.」のライナーノーツより)

 ジャズ系FMのDJ、アラン・グラントは「こんな凄いバンドなのに、プライベートなリハだけじゃもったいない!」と、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンに掛け合い、一番お客の少ない月曜に出演させるところまでこぎつけました。1966年2月7日(月)初演、バンド名は「サド・メル」でなく「ザ・ジャズバンド」、初日のギャラは一人僅か15ドル!ハンク・ジョーンズやリチャード・デイビスが15ドルのギャラなんて考えられませんよね!さすがマックス・ゴードンは商売人です。蓋を開けてみれば、お客の少ないはずのマンデイ・ナイトがソールド・アウト!評判が評判を呼び、結局毎週月曜に出演することに。以来、メンバー変更を繰り返しながら、数多くのレコーディングを重ね、私の知る限り三度来日しています。来日コンサートの翌日は、陶酔しきった友達が一杯でした。サー・ローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツ、ウォルター・ノリスなどなど、OverSeasゆかりの巨匠もサド・メル卒業生は数多い。『Let's』に収録される"Quietude" "Mean What You Say""Three in One"などはバンドの十八番でもありました。'78年、サドが突然脱退して以降、メル・ルイスOrch.となり、メル・ルイスの死後、月曜の夜は、ヴァンガードOrch.が現在もヴィレッジ・ヴァンガードで演奏を続けています。

<別天地コペンハーゲン>
 '78年、サド・メルOrch.がグラミー賞を受賞した直後、サド・ジョーンズは、家族も仲間も全て残し、何も言わずに単身コペンハーゲンに移住し、ジャズ界を大いに当惑させます。それについては、「女性問題」や「メル・ルイスとの相克」とか様々な噂が飛び交いました。サドをよく知る人は、バンド経営で財産を使い果たしアメリカに留まることが出来なかったと言うのですが、本当だとしたら惨い話です。国務省から冷戦時代のソ連に派遣されたアメリカ文化を代表する楽団のリーダーですよ!クラシックの世界なら、政府や財団の助成金で決してそんなことにはならなかったでしょう。

 コペンハーゲンでは、自己バンド"エクリプス"やデンマークのラジオ局のバンドで活躍、同時に王立デンマーク音楽院で教鞭を取り、現地のミュージシャンに多大な貢献を果たしました。『Flanagan's Shenanigans』や『Let's』に参加しているベーシスト、イエスパー・ルンゴールは当時のメンバーですから、サド・ジョーンズ音楽のエキスパートなんです。

 '85年には再び米国に戻り、ベイシー亡き後のカウント・ベイシー楽団を率い、同年、再来日しています。サドはフリューゲルで最高のバラードを吹き、トランペット・セクションは、今まで何度も観たカウント・ベイシー楽団のうちで最もビシっと充実していたと思いました。厚い胸板で、ピリっとも動かず、完璧なコントロールで吹く姿は、そのまま銅像にして美術館に飾っておきたい位美しかった!しかし、すでに癌に犯されていたことは、誰も知らなかったんです。

 翌1986年8月21日、サド・ジョーンズはコペンハーゲンで死去、僅か63歳でした。娘さんのThediaは小児科医、息子さんのBruce Jonesは音楽プロデューサー、コペンハーゲン時代に、サド・ジョーンズJr.という息子さんを儲け、モーター・シティでなく、コペンハーゲンの墓地に埋葬されています。

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 気品に溢れるデトロイト・ハードバップの創始者、サド・ジョーンズ作品集、"Let's"by トミー・フラナガン3は6月11日(土)ジャズ講座に登場します。6:30pm- 受講料\2,625 皆様のお越しをお待ちしています!

 おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮 北海道産グリーン・アスパラ添」です。

CU

2011年6月 2日

"Let's" Talk about Thad Jones(2)

 地震や台風、心が休まらない毎日ですが、皆様お元気ですか?6月11日(土)ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に名盤"Let's"が登場するのを記念して、今日もサド・ジョーンズのお話をご一緒に!

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<幼年時代>

  サド・ジョーンズは、1923年、3月28日、ミシガン州ポンティアックに生まれました。トミー・フラナガンより7才上、兆速で発展した当時のジャズ史を考えると、一世代上と言えます。父は教会の助祭でギタリスト、母はピアノをたしなんだ。10人の子供達は、音楽に囲まれて育ちました。皆さんもよくご存知のように、5才上兄のハンク・ジョーンズ(p)、4才下の弟のエルヴィン・ジョーンズ(ds)と共にジョーンズ兄弟はジャズ史を語る上で欠かせません。姉のオリーブ(クラシックのリサイタル・ピアニスト)、兄のポールとハンクが順番でピアノの稽古に明け暮れ、なかでもハンクの上達は目覚しく、兄弟全員が大いに発奮したといいます。

  ところが、サド坊やは、ピアノよりも何故かホーンに心引かれて、最初はトロンボーンに憧れた。やがて、デトロイトに来演したルイ・アームストロングを聴き「これだ!」と思い、叔父さんに中古のトランペットをもらって吹き始めた。でもルイのスタイルは「彼独自のもの」と判っていた。まあ、なんて生意気なガキでしょう!子供の頃から、楽団のサウンドがフルスコアで縦割りに把握できた天才なんでしょうね!因みにサドが始めて楽団の編曲したのはなんと13歳の時です。

  サド・ジョーンズの証言(Downbeat 1963 5/9):「ルイ・アームストロングと同じことをしようとは思わなかった。あれは彼だけのスタイルだということに気がついたから。それにコピーするのは好きじゃなかった。おかしな話だが、今もトランペットのレコードは余り持っていない。そりゃ勿論ディジー・ガレスピーのレコードは何枚か持っているけど、殆どビッグバンドだ。なぜかピアノ・トリオのレコードばかり買ってしまう。」

trumpet_cornet.JPG まもなくコルネットに転向し、終生、主楽器としました。コルネットはトランペットより音域が高く、丸みのある明るい朗々とした音色が魅力、ビックス・バイダーベックやナット・アダレイのサウンドを思い出してみてください。

 子供時代、兄弟や音楽仲間のお小遣いは、ほとんどデューク・エリントンやチック・ウエッブ、それにブルースのレコードになりました。やがて、町内の少年楽団に入団、少年といっても、きっと高レベルだったんでしょうね。一晩5$のギャラで、レコードだけでなく新品のホーンも買えました。

  '30年代の終わりには兄弟バンドを結成、ソニー・スティット(as,ts)との共演を皮切りに、ミシガン州で本格的にプロ活動を始めます。

 終戦近い'43年、20歳になると兵役に就きテキサスなど内地に駐屯、非公式なアーミー・バンドで断続的に演奏、'46年にアイオワ州デモインで除隊後、各地を周りバンド稼業の苦労も味わい、'50年代に故郷に舞戻ります。


<ジョーンズさんちのジャムセッションに行こう!>

 サドが帰郷した時、兄ハンクはすでに街を去り、NYで売れっ子ピアニストとして活躍していました。弟のエルヴィンはギグのない夜にポンティアックの自宅でジャム・セッションを開催し、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、フランク・フォスターetc...隣町デトロイトから腕に覚えのある連中がワンサカ車で押し寄せ、「ジャズ虎の穴」的様相を呈していたといいます。

 なにしろジョーンズのお母さんが腕によりをかけた夜食をたっぷり用意して応援してくれるし、高度なバップ理論を学べるのですから夢のセッションです。でもセッションに参加できるのは、本当に上手な子だけ。ピアノの一番手がトミー・フラナガンでした。後輩、サー・ローランド・ハナは、クラシックからジャズに転向したばかりで"How Long Has Been Goin On?"を一緒に演らせてもらったけれど、サドがどんどんコードを変えていくのに付いていけなくて・・・』と嘆くのですから恐るべし。

<伝説のクラブ"ブルーバード・イン">

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 やがて、サド・ジョーンズはデトロイトのジャズクラブ、"ブルーバード・イン"のレギュラーバンドに入ります。メンバーは、バンドリーダーがテナー奏者、ビリー・ミッチェル(後にカウント・ベイシー楽団に入団)と、若手のトップジャズメンたち、トミー・フラナガン(p)、ジェ-ムズ・リチャードソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という凄い編成で、ZecやElusiveなど『Let's』にも収録されている作品群やパーカーやガレスピーのバップ・チューン、アフターアワーズはソウルフルなブルースまで、デトロイト・ハードバップ・ジャズの真髄が確立されたのです。

 '50年代の"ブルーバード・イン"はデトロイトで最も腕の立つミュージシャンを集め、最先端のモダン・ジャズを聞かせるクラブとして内外から注目を集めていました。ミュージシャン達もリスナーも歴代のレギュラー・バンドの中で、ミッチェル&ジョーンズのこのコンボが最高だったと口を揃え、サド・ジョーンズ自身も、このコンボが最強だったと回想しています。

 彼らの演奏はNYで活躍するトップ・ミュージシャンにも大きく影響を与えました。

brown_Incorporated.jpgトミー・フラナガンの証言:「マックス・ローチ(ds)とクリフォード・ブラウン(tp)は街に来るたびに、サドのアレンジを聴きに来ていた。ブラウンーローチ・クインテットのレコーディングには、サドの影響が色濃く出ている。例えば、"I Get a Kick Out of You"でワルツを入れる有名なヴァージョンがそれだ。僕達のテンポの切り替えにマックスは夢中だった。」

 ドラッグのリハビリでデトロイトに滞在していたマイルス・デイヴィスは、サドのコルネットを聴き、「涙を流しながら佇んでいた」とハナさんは証言しています。(Before Motown p.130)それは感動の涙?それとも悔し涙だったのだろうか?ライバルのプレイを聴いて泣けるなんて、なんとナイーブな人だろう!私はこのエピソードを聞いてマイルスが凄く好きになりました。

<デトロイトにて:チャーリー・ミンガス >
charles-mingus-03.jpg

 ベースの巨匠チャーリー・ミンガスも、"ブルーバード・イン"のサド・ジョーンズに天啓とも言える強烈なショックを受けた一人でした。そして自己レーベルでサドをレコーディングすることを決意。'54年にダウンビートのエディター、ビル・コス宛てに、サドを絶賛した書簡を送ります。以下はダウンビート誌'63 5/9号に公開された文面です。

 "サドは僕の人生で遭遇した内で最高のトランペッターだ。クラシック音楽の技量が完璧に備わっている。クラシックのテクニックでスイングしてみせた史上初のトランペット奏者だ。...弟のエルヴィンはドラムで双璧の実力者。サドを、仲間のミュージシャンは、「トランペットの救世主」と呼んでいる。

FatsNavarro.jpg100629_clifford-brown.jpg 左:Fats Navarro('25-'50) 右クリフォード・ブラウン('30-'56)

 サドは信じられないほど凄い。ディジー・ガレスピーやファッツ・ナヴァロさえ苦手にすることを、いとも簡単にやってのける。この二人以外ならハナから思いつかないこと、マイルズですらやったこともないことだ。ディズがバードのプレイで聴き、ファッツならば出来たのでは・・・と期待したことをだ。(ファッツの死後)我々はひたすら待ち続けた。そしてクリフォード・ブラウンが現れた。(この手紙はブラウンの早過ぎる事故死以前に書かれたものである。)ブラウニーは、もしもファッツが、麻薬に耽溺せず一週間練習していたら...と思うプレイをした。
 だがとうとう出現した!ファッツが怠ける間に練習し、ブラウンがコピーにいそしむ間に考えるトランペッターが!まるでヴァルヴをつけたバルトークが、神に授かった鉛筆で譜面を書いているようなものだ。

 サド・ジョーンズは、アメリカ音楽史上初めて第一コーラスをホールトーンの束から始める作曲家だ。...セカンド・コーラスはファースト・コーラスの展開型...それを聴きながら、僕達は深く息を吸う。彼が吹くのを止めてしまわないか、あるいはそれ以上続けると、がっかりさせれらはしないかと恐れながら。もしそうなら本物じゃない。その64小節はただの偶然で、僕らは、改めてバードを亡くした事を嘆くのみ。だが彼はミスしなかった!..."

 ミンガスは強面(コワモテ)だけに説得力がありますね!ミンガスに「クラシックのテクニックを全て備える演奏者」と言わしめたサド・ジョーンズ、実は、初心者の時に基本的な吹き方を教わっただけで、後は全て独学だったんです。楽器はおろか、『Let's』で聴ける時代を超えたモダンな作曲法から、ビッグバンドの編曲に至るまで、全て自分で習得したんですって!

fabulus6004.jpg ミンガスは'54年自己レーベル、"Debut"で、ハンク・ジョーンズ(p)、ケニー・クラーク(ds)、フランク・ウエス(ts,fl)とミンガス自身でレコーディングし好評を博します。(『The Fabulous Thad Jones 』)、ElusiveやBitty Dittyも収録されており、フラナガン・バージョンとの違いが興味深いです。ところが、このアルバムが発売された時、すでにサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団して、ソロ活動の出来ない状況になっていた。

 運命の女神はいたずらですね。

(続く)