2013年3月 7日

J.J.ジョンソンをもっと楽しむためのキーワード

 

jjwithhat.jpgJ.J.ジョンソン (1924-2001)

  大阪は急に暖かくなりました!「ブログずっと読んでますよ。」とOverSeasに来て下さったお客様、ありがとうございます。おかげで気分は「春の如し」!
 
 小鳥のさえずりに『Dial J.J.5』の "Bird Song"や、ボビー・ジャスパーの"It Could Happen to You"が重なります。

 3月9日、「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」用『Dial J.J.5』の構成表も、ようやくPCファイルに転写できました。
 J.J.の「理にかなった明快さ」、レコードを聴きながら構成表を見れば、一目瞭然!リスナーもミュージシャンも、一緒に楽しめるよう、寺井尚之が解りやすく図解しています。複雑だけどすっきり明快なリズムの割り振り、プレイヤーの個性を生かしたアレンジにのけぞりましょう!
 
 トミー・フラナガンでさえ、「J.J.ジョンソンがバンドスタンドでミスをしたことは、一度もない。私は間違ってばかり。ただただ粛々と演奏するのみ・・・」と信じられないことを言っていました。実際にお目にかかった時の眼光の凄さが忘れられません。
 コルトレーンがGiant Stepsを録音する8年も前、J.J.ジョンソンは、"サークル・オブ・4th"の進行を取り入れた"Turnpike"('51)という曲をさり気なく作ってた!なんというメティキュラスな天才!私のようなチャランポラン人間には、アンビリーバブルな雲の上の遠い人・・・今回のプリント資料のために、色んな伝記的インタビューを読んでみても、「こんなに私は練習した」とか「こんなに私は勉強した」とか、音楽的な発展という意味での苦労話は全く見当たらない。J.J.ジョンソンの「苦労」は、むしろビジネスの方だったのかも知れません。

 『Dial J.J.5』は永遠の愛聴盤、同じくらい人間として、親しみを持てるようなキーワードを列挙しておきます。

 

<Naptown>
 "ナップタウン"とは米国中西部、インディアナ州、インディアナポリス(Indianapolis)のこと。J.J.ジョンソンはこの街で生まれ、NYやLAと東西の大都会で暮らした後、この街に戻り、自ら命を立つまで暮らした。

  父は地元の人間で貨物運送の労働者、母はミシシッピからやって来た。両親とも、教会の聖歌隊の他には、音楽とは無縁だったとJJは言う。普通高校を卒業後、すぐにプロ活動。正規の音楽教育は受けなかった。「音楽理論」は、ジュリアード音楽院で勉強したマイルズ・デイヴィスから教えてもらったそうです。多分、実地体験として、知ってることばかりだったのかも知れないけど。

<レスター・ヤングとフレッド・ベケット>

  lester.jpeg「音楽的な影響」を問われれば、必ず挙げるのが、テナー奏者、レスター・ヤング と、夭折の天才トロンボーン奏者、フレッド・ベケット、レスターからは、「一音一音、隅々までを追求する『理に適った』アドリブの姿勢」を、ベケットには、レスター的な要素を、トロンボーンに置き換えた「かたち」として影響を受けた。ベケット(Fred Beckett: 1917- 1946)は、ジミー・ヒースはじめ多くの名手が在籍したテリトリー・バンドNat Towles楽団やライオネル・ハンプトン楽団などに在籍していましたが、残念ながら、J.J.の発言を私たちが実感できる録音は見つけることが出来ませんでした。

 

 

 


<ベニー・カーター>

benny_carter50wi.jpg J.J.ジョンソンは、多くの楽団で活躍しましたが、憧れのレスター・ヤングが仕えたカウント・ベイシーよりも、「The King」 ベニー・カーターは、J.J.にとって、とても特別な存在!プロとしての手本だった。ミュージシャンたるものはこうでなくては!バンドリーダーとしての帝王学、そして、作編曲の面でも大きな影響を受けたと言っています。J & Kai時代.のピアニスト、ディック・カッツさんも、同じ事を言ってました。ミュージシャンにとってベニー・カーターの存在は、私たちが思うよりずっと大きいんですね。


<ディジー・ガレスピー>

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   1946年、カウント・ベイシー楽団と共にNYにたどり着いたJ.J.ジョンソンは、楽団を去り街に落ち着いて、52ndストリートで活躍、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクたちと盛んに共演、彼らの創った新しい「ビバップ」のイディオムをトロンボーンに充当して、モダン・トロンボーンの開祖に成長します。
 ステージで彼らと共演しながら、耳にした新しいサウンドを、幕間にせっせと書き留めているジョンソンを、常に励ましたのがガレスピーだった。

  「俺は、トロンボーンが従来とは違う可能性があると判っていたよ。いつか、きっと誰かがそれをやってのけるってね。J.J.、お前が、その『お役目』を授かったんだよ。」

  J.J.ジョンソンはディジー・ガレスピーについてこう言っています。

 「ディジー・ガレスピーをビバップという狭いカテゴリーに押し込めてはいけない。彼の才能は、それをはるかに超えている!」

  
 

<中毒>
 
 
 数あるJ.J.ジョンソンのインタビュー記事を読んでいて、最も頻繁に出てくる言葉ベスト1が先週書いた「logic and clarity」、そしてベスト2は、「中毒」を表す、「addict」や「・・・holic」という言葉、「レスター・ヤング中毒」「MIDI中毒」「ストラビンスキー中毒」などなど・・・「好き」なものには「中毒」するほどのめりこむのがJ.J.ジョンソン流なのかも・・・あるいはJ.J.にとって、何かを徹底的に追求するためのロジカルな方法として「中毒」することをためらわなかったのかも・・・

 並外れてクールなJ.J.が立派なヘロイン中毒だったというのを知って、私はびっくり仰天したけれど、サウンドへの集中力をぎりぎりまで高めるための、「理詰め」の選択であったのかしら? ジャズ界のオスカー・ワイルドのような人だったのかも知れません。

<J.J.ジョンソンの死>
 

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 J.J.ジョンソンは、2001年2月4日、自宅で拳銃自殺をした。J.J.ジョンソンの二度目の奥さんでマネージャーでもあったキャロラインによれば、J.Jは、家族や親友を亡くした寂しさから、過去にも自殺を真剣に考えたことがあったそうだ。

 死の理由は様々な憶測を生んでいる。公共放送のケン・バーンズのジャズ・ドキュメンタリーでJ.J.のことが全く語られなかったからと言う人もいる。(まさか!)

 或いは、前立腺がんの痛みに耐えかね、24時間付き添い看護が必要だと医師に告げられたため、家族のお荷物にならないように死ぬことを選んだ。最初の理由よりはもっともらしい。・・・でも、亡くなる直前まで、自宅のスタジオで過ごしたり、トロンボーンの教則本を書いたりしていたと言います。トミー・フラナガンやジミー・ヒースたちは、みんな「わからない」としか言いません。

 では、3月9日(土)は『Dial J.J,5』を聴きながら、J.J.ジョンソンの、徹頭徹尾「理詰め」なところと、熱く燃えるジャズ魂を味わいましょう!

「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は6:30pm開講、受講料は2,625yen

CU