2013年7月25日

トミー・フラナガン・トリオ:Overseas にまつわる話

 

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 大阪の街は天神祭、暑い暑いと言っているうちに、学生諸君は夏休みの話題で持ち切り!
寺井尚之とトミー・フラナガンの運命的な出会いとなった名盤『Overseas』が、8月10日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。当日はこの一枚に焦点を絞って徹底的に聴きながら、寺井尚之が語りつくします。旧講座で取り上げたのが2004年7月、今回は新たな発見も沢山ご紹介していきます。前回以降、オリジナルEP盤のBOXセット(DIW)や、メトロノーム・レコードのアンソロジー『Jazz in Sweden』(ワーナーミュージック・ジャパン) など、様々なかたちで復刻が続いています。8月の足跡講座、Overseas Specialに先駆けて、ここではレコーディングにまつわるエピソードを。

 

<J.J.ジョンソンとの海外遠征>


downbeat_1957_9_5.JPG ご存知のように、本作はJ.J.ジョンソンとスウェーデン楽旅中、1957年8月15日に、ストックホルムで、バンドのリズムセクション(エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトル)でピアノ・トリオとしてレコーディングした『海外』作品。当時のダウンビート誌(1957年9月5日付)には、"Dear Old Stockholm"と題して、J.J.ジョンソン速報が掲載されています。

 王立公園で2万人以上の聴衆を熱狂させたこと、アフターアワーズのでジャム・セッションをするにも、ストックホルム、イエテボリ、マルモといった大きな街以外にはジャズ・クラブがないので仕方なくレストランで行ったこと、北欧の人々は英語に堪能で言葉の心配がないことなどなど、北欧ジャズ・ブームのSCN_0015.jpg一端を垣間見ることが出来ておもしろい!

 



<陰の立役者:ダールグレン>
 

 J.J.ジョンソンがキャバレー・カードを剥奪され、NYのジャズ・クラブ出演が長期にわたって規制されていたことは以前書きました。そのような状況下に舞い込んだ数ヶ月間のヨーロッパ楽旅は願ってもない仕事だったでしょう。

clas-dahlgren.jpg スウェーデン政府の招聘によるJ.J.ジョンソンのツアーとメトロノーム・レコードでのフラナガンの録音のお膳立てをしたのが、「スウェーデンのジャズ大使」と謳われたクラエス・ダールグレンという人物です。(左写真:Claes Dahlgren.1917 - 1979) )生粋のスウェーデン人ですが生まれはコネチカット、金融、工業など様々な企業の要職に就き、1949年から60年代まで米国に駐在し、スカンジナビア・ラジオやメトロノーム・レコードの代理人も務めていました。自他共に認める大のジャズ・ファンで、スカンジナビア・ラジオに"Jazz Glimpses of New York"という自分のジャズ番組では、自らレポーターとしてNYのジャズクラブから最先端のジャズ情報を発信していました。ダールグレンはまたジャック・ハーレムというステージ・ネームでピアニストとしても活動し楽団まで組織したこともある人ですから、新進ピアニスト、トミー・フラナガンにいち早く目をつけて、スウェーデン楽旅の際にはぜひ!と録音を依頼していたことは容易に想像がつきます。

 各方面に責任ある名士のアレンジメントですから、『Overseas』の録音契約は、フランスでライオネル・ハンプトン楽団のメンバーがハンプトン抜きで行ったVogueのセッションとは違い、抜け駆けの仕事ではなかったと推測できます。なによりもジョンソンはコロンビア・レコードの専属ですから他の会社でレコーディングはできなかったし、ボスを裏切るようなレコーディングであれば、フラナガンとジョンソンが終生個人的に親しくお付き合いすることもなかったでしょう。

 <ビリー・ストレイホーンの厚意>

 

billy-strayhorn-festival-2.jpg 『Overseas』にさきがけて、プレスティッジで録音した初リーダー作『The Cats』の出来が、想定外の憂き目にあったフラナガン、同じ轍は踏まず。

 録音プランは、自分のオリジナル曲と、尊敬する音楽家たちへのトリビュート的なヴァージョンの2本柱になっていました。

restau72.jpg 今回のメンバーは、J.Jのレギュラー・リズムセクションですから、"Dalarna"や"Eclypso"といった手強いオリジナル曲も、下準備の余裕がある程度あったはず。それらと、フラナガンが最も尊敬する3人の音楽家に因む曲を組み合わせて録音しようという構想を立てた。

 アート・テイタムの名演で知られる"柳よ泣いておくれ"はスタンダードですが、チャーリー・パーカーの、"Relaxin' at Camarillo"は難曲!でもデトロイト時代からのエルヴィン・ジョーンズが一緒だから心配はなかった。そして、もうひとつの大きな要が、大好きな作曲家、ビリー・ストレイホーンの『チェルシー・ブリッジ』でした。

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 なんたる幸運!出発前、フラナガンは、マンハッタンでビリー・ストレイホーンにばったり会った!場所はジャズ・ミュージシャンの溜まり場になっていた『Beefsteak Charlie's』というステーキハウス兼居酒屋でした。 現在も『Beefsteak Charlie's』はありますが、ファミリー・レストランみたいになっていて往時の雰囲気はありません。


 新人のフラナガンにとって、デューク・エリントンの懐刀ストレイホーンは雲の上の人、だけど男として、ミュージシャンとして、きちんと筋はとおさなければ。、私はこれこれこういう者です。「実は今度、あなたの名曲をレコーディングさせていただきます。」とご挨拶をした。
 そうするとストレイホーンは「時間があるなら、ご一緒にどう?」とティン・パン・アレイにある自分の音楽出版社まで同行し、オリジナル曲の譜面をごっそりくれたのだそうです。フラナガンの大きな瞳はどれほど輝いたことでしょう!

 ストレイホーンの厚意をしっかり受け止めた結果が、あの名演!後のビリー・ストレイホーン集『Tokyo Recital』も、ライブでの名演目『Ellingtonia』も、この素晴らしい偶然の出来事から始まっのではないだろうか。

 
 <水浸しのスタジオ、マイク1本録り!>

 

overseas2.jpg 1957年8月15日、ストックホルムの某地下スタジオに入ったフラナガン一行は唖然とした。数日前に洪水に見舞われ床は水浸し!機材に損傷があったのか録音マイクは1本という"terrible"な装備だったのです。ピアノの状態は推して知るべし・・・その話をしてくれたときのフラナガンのへの字の口と天を仰ぐ目つき、今でもはっきり覚えています。

 そんな悪条件を思いやってか、地元の人から差し入れが届いた。ビールが2ケース(!)とジンが1本、レコーディングしながら全部3人で飲んじゃった!ウェ~イ!いい気分!完全に出来上がった状態でスイングしまくった即興ブルースは、そのまんま「乾杯、ブラザー!」"Skål Brothers"になった。

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 <続きは講座で>

 

mitsuplate8.jpg トミー・フラナガン27才のレコーディングは『Tommy Flanagan trio』として 、メトロノーム・レコードから3枚のEP盤として発売され、まもなく米国のPrestigeから『Overseas』のC並びのジャケット(デザイン:エドモンド・エドワーズ)でLPとして発売されました。(左の写真は、さらにシャレたお客様に当店が頂いた手作りプレートです。)

 

 ジャケットも実に様々なものがあり、トミー・フラナガン公認ファンクラブ「フラナガン愛好会」のサイト

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に詳細が掲載されていますが、私の初恋Overseasは、大学時代の先輩に強制的に購入させられたテイチク盤、ジャケット写真がDUGの中平穂積さんの撮影で、それがフラナガンの姿との初対面でした。

 ずっと後に、フラナガンに中平さんとの交友について聞かされて、NYのアパートに行ったときは中平さんから頂いたという豪華な羽子板が飾ってあり、数年前にご本人とお会いできたときは感激でした。

 コンプリート盤やSACD...これからも、様々な形でOverseasは再発されていくのかな?別テイクの収録は、研究者にはありがたい資料ですが、フラナガン自身はとても嫌がっていました。

 たくさんあるレコードの中には、「別テイクでない別テイク」という摩訶不思議なものもあってややこしい・・・

 そういう辺りや、演奏内容、内から外から、音楽についての目からウロコのお話は、どうぞ8月10日(土)6:30pmから、寺井尚之の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でお楽しみください。

CU

2013年7月11日

MR. PC: 素顔のポール・チェンバース


paul1.gif   左から:ポール・チェンバース(b)、クリフォード・ジョーダン(ts)、ドナルド・バード(tp)、トミー・フラナガン(p) 『Paul Chambers 5』(BlueNote)のセッションにて。撮影:Francis Wolff


 今週(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Paul Chambers Quintet (Blue Note BLP 1564) 』が登場します。
 
 高校入学した頃、ジャズ評論家、いソノてるヲ氏と懇意だった従姉のお姉さんの部屋に行くと、いつも『Kind of Blue』がかかっていたので、ポール・チェンバースは、ごく当たり前のベーシストという感じでした。だってそれしか知らないから。OverSeasに来てしばらくした頃の大昔、寺井尚之が、ジョージ・ムラーツ(b)に「好きなベーシストは?」と訊いたら、ポール・チェンバースとレイ・ブラウンという返事で、なんか「当たり前やん・・・」と思ったけど、ジャズの歴史を調べると、スラム・スチュアートと共に、ジャズ史上、初めてピチカートと弓(アルコ)を併用したベーシスト。当たり前どころか革新者!

 
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 Paul Laurence Dunbar Chambers, Jr. デトロイトで育ち、NYで開花したベーシスト、Mr. PCは、僅か33才と8ヶ月の人生を、太いビートで駆け抜けた。

Paul Chambers Quintet

Paul Chambers Quintet (Photo credit: Wikipedia)

 デトロイト出身の名手に数えられるMr.PCことポール・チェンバース、でも生まれは母方のピッツバーグ、13才の時、お母さんが亡くなって、お父さんの住むデトロイトに移ってきた。最初はチューバを吹いていて、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを聴いてからベースに転向したのが14才頃、体育会系のお父さんは、ベーシストに成るのに猛反対したといいます。

 チェンバースは1935年生まれで、トミー・フラナガンより5才年下、あの頃のデトロイトの音楽年齢を考えると、完全に一世代下の異次元世代と言えます。20才になるかならないケニー・バレルとフラナガンが、十代の学生たちのパーティで演奏(バンド用語なら「ショクナイ」という営業か?)しているところに、「すみません、一曲演らせてもらえませんか?」と飛び入り志願したのが中学生のチェンバース少年、バレルは大学でセカンド・インストルメントとしてベースを勉強していたので、「ベース奏法のABCを最初に教えてあげた師匠は私だ!」と自慢しています。



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 チェンバースとダグ・ワトキンス(b)が従兄弟同士であったことは有名ですが、血縁関係はないらしい。異なるDNAでも、この二人は親友で、デトロイトの黒人街に同居し、多くのジャズの偉人を輩出したカス・テクニカル高校に通いながら、現在の音大に優るクラシックの高等教育を受け、お互いのベースの腕を磨きあったといいます。

 学校ではデトロイト交響楽団のコントラバスの名手が、そして放課後は、ご近所の住人、ユセフ・ラティーフやバリー・ハリスがジャズ理論をしっかり教えてくれて、ホーム・ジャム・セッションまであったんだから、モーターシティはジャズ・エリート養成所でもあった!

 『Paul Chambers Quintet』の参加ミュージシャンは、テナーのクリフォード・ジョーダン以外、全員デトロイターで、トランペット奏者の、ドナルド・バードはカス・テック高の同窓生です。ティーン・エイジャーながら、ピンホール・カラーのワイシャツがトレードマークで、デトロイトのジャズクラブに盛んに起用されました。デトロイト時代に儲けた息子さん、ピエール・チェンバースは、現在歌手として活躍中です。
 
 1955年、レスター派でVice Prez(副大統領)と呼ばれたテナー奏者、ポール・クイニシェットにスカウトされてNYへ。ジョージ・ウォーリントンや、J.J.ジョンソン & カイ・ウインディグの双頭コンボを経て、マイルズ・デイヴィスのバンドでブレイクします。

 <アイドルか?ニュー・スターか?>

paul-chambers.jpg マイルズ・デイヴィスやジョン・コルトレーンとの活躍は名盤と謳われるアルバム群が示すとおりですが、ライブのステージでも、チェンバースのベース・ソロは、いつでもお客さんの喝采と掛け声が凄かったと、マイルズ・バンドでしばらく共演していたジミー・ヒースが驚いています。それほど大きなベース・サウンドで『掴み』のあるプレイだったんですね。
 
 丸顔で愛らしい風貌と、マッチョな体躯とファッション・センス、そして痺れるビートで、どこに行っても女性にモテモテだったそうです。
 
 でもチェンバースは、クラシックの地道なトレーニングをコツコツやると同時に、激しいデトロイトの競争社会を勝ち抜いて、真面目に下地を作ったプレーヤーですから、チヤホヤされても努力は怠らなかった。しこたま飲んだ翌日も、デトロイト時代からお世話になっているカーティス・フラーの家に、朝の10時ころから、ライブで演奏する曲を予習したいと、出稽古に押しかけて、そのうち、ジョン・コルトレーンやクリフ・ジョーダンも加わって、夕方までずっと練習三昧の生活をしていた。音楽も快楽も、子供のようにむさぼって、並の人間よりも、人生を疾走しすぎたのかもしれません。

 <Big P>
 
  
 ジミー・ヒース(ts)は、麻薬で服役した後に、ジョン・コルトレーンの後任者としてマイルズ・デイヴィス・クインテットに入団。当時の同僚は、ウィントン・ケリー(p)、ジミー・コブ(ds)、そしてチェンバース(b)でした。コブは、前任者フィリー・ジョー・ジョーンズと対照的に、空手もたしなむ礼儀正しい優等生タイプ、後の二人は天才肌で大酒呑みだった。ケリーは酒好きでも、自分をコントロールする術を知っていたけど、チェンバースは赤ちゃんみたいに無邪気で、ブレーキをかけることが出来ないタイプだったそうです。だからツアーともなると、しばしばベロベロになってステージに上がるというようなことがあったらしい。そうなると、リーダーのマイルズは、わざと、早いテンポで出たり、ベースのイントロが要の"So What"を演ってお仕置きした。ベロベロのチェンバースが、噛むわ、滑るわで凹んだ時には、マイルズが、あの嗄れ声で囁きかけた。
 
 "OK、ポール、もういいよ。今夜は飯を食いに連れてってやろう。"
 
 マイルズにご馳走してもらうと、ポールは子供みたいに無邪気な顔で、パクパクと食べ物にむしゃぶりついた。ツアー中、ジミーとホテルのバーに行くと、まるで駄菓子屋にいる子供みたいに、あれも、これもと飲みまくる。
「後にも先にもあんな奴、観たことない・・・」
 
latepaulchambers.jpg マイルズ・バンド時代、チェンバースは、尊敬するチャーリー・パーカーの三番目の妻だったドリス・シドナーと同棲していた。ドリスは13歳年上だったらしいけど、ポールのような無邪気な天才には、ベスト・マッチだったのかも知れないですね。
 
 
 その間、クスリと酒は彼の強靭な体をゆっくりと蝕み、結核を患ってから、半年余りで、あっけなくこの世を去りました。
 ビートも、その生き様も、文字通り"BIG P"の名前に相応しいサムライ!


 
 
 「スイングの定義?それはポール・チェンバースが繰り出す二つの連続音である。」
Joel Di Bartolo、ベーシスト
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