<ジョージ・ムラーツ来日速報>

Date Venue Info
Fri September 5, 2008 大阪 Billboard With Hank Jones Trio
Sat September 6, 2008 大阪 Billboard With Hank Jones Trio
Sun September 7, 2008 名古屋 Blue Note With Hank Jones Trio



<Biography/ ジョージ・ムラーツ経歴>
  ジョージ・ムラーツは、1944年、チェコ共和国生まれ、7歳でヴァイオリンを始め、高校時代にアルトサックスでジャズを始める。61年プラハ音楽院入学、66年卒業。

 彼が若いうちにヴァイオリンやサックスなどのメロディ楽器に親しんだことは、恐らく、後のベーシストとして叙情的な資質の成熟に関係しているのであろう。ムラーツは回想する。「高校の頃、僕は週末になるとビッグバンドの仕事をしていた。このバンドのベーシストが今ひとつでね、下手か天才のどちらかだった。」彼はそう言って笑う。「だって、彼はいつでも間違った音ばかり弾いているように聴こえたからだ。まぐれでもいいからたまには「正しい音」を弾いてくれよって感じだった。でもまぐれ当たりもなかったんだ。それで僕は休憩時間に彼のベースをちょっと借りて、正しい音を弾いてみることにした。そうしたら、『そんなに難しくないじゃないか。』と思った。それで、ベースを少しやり始め、気が付けば、プラハ音楽院に入学していた。」

 プラハ音楽院在学中から、ムラーツはプラハの一流ジャズグループで活動、卒業後ミュンヘンに移り、ベニー・ベイリー、カーメル・ジョーンズ、レオ・ライト、マル・ウォルドロン、ハンプトン・ホーズ、ヤン・ハマー達とドイツ全土のクラブやコンサートで共演、中央ヨーロッパにツアーをする。

 当時、アメリカ合衆国の国際放送、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が世界中に発信するウィリス・コノーバーのジャズ番組に大きな影響を受ける。それは彼に、海の向こうの新世界への大きな可能性を示唆するものだった。
「僕が初めて聴いたジャズはルイ・アームストロングだった。毎週日曜日に、地元プラハの軽いオペレッタ放送に混じって、ルイ・アームストロングの一時間番組があった。僕は、サッチモのへんてこな声に大きなショックを受けた。最初は、なんでこんな変な声でうまく歌えるんだろう?と不思議だったけど、結局、一時間番組が終了する頃には、この日僕が聴いた音楽のうちで、これが僕の一番好きな音楽なんだと確信した!それでジャズに興味を持ち始めた。」

 「VOAは深夜一時間ほど放送されていたんだけど、僕のラジオは上等じゃなかったから、ベースの音を判別するのは一苦労だった。仕方なく、ベースばかりを聴くのでなく、全部の楽器を聴きながら、それらのサウンドがどういう様に関連しているのか耳を傾けた。だから楽器の種類にかかわらず、色んな楽器から影響を受けた。もちろん、レイ・ブラウン、スコット・ラファロ、ポール・チェンバース、ロン・カーターは、必死になって聴いたよ。」
 このように、ムラーツは、自然に音楽の世界に引き寄せられ、彼の想像力を毎晩出し尽くすクラブで、味のあるベテランに成長して行く。「音楽院を卒業できたのは、ある種の奇跡と言えるけど、その後、ミュンヘンでベニー・ベイリーやマル・ウォルドロンと仕事を始めた。しばらくして、バークリー音楽院から奨学金をもらえることになった。丁度、ソ連の戦車がプラハに侵攻したのと同時期のことだ。奨学金を利用する絶好のタイミングに思えた。」

 1968年、ジョージ・ムラーツはバークリー音楽院の奨学生となるや否や即、当地の有名クラブ、レニーズや、ジャズ・ワークショップでクラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ、カーメン・マクレエなど一流どころと共演した。

 翌'69年冬、ムラーツはディジー・ガレスピーからNYに来て彼のバンドに加入するよう要請され、ディジーと共演して僅か数週間後、オスカー・ピーターソンと約2年間ツアーをすることになる。その後、サド・ジョーンズ−メル・ルイスOrch.のレギュラー・ベーシストとして6年間活動、70年代後半には、スタン・ゲッツ、サー・ローランド・ハナとのニューヨーク・ジャズ・カルテット、ズート・シムス、ビル・エヴァンス、ジョン・アバクロンビー達と、その後、いよいよトミー・フラナガンとの10年間の共演期を送る。

 ジョージ・ムラーツはアコースティック・ベースへの完璧な資質を持って生まれたアーティストだ。故郷チェコスロヴァキアから、米国に上陸した瞬間から、いわゆるMusician's Musician としてミュージシャンの仲間内で大きな評価を得て、確固たる存在感を確立した。それに比べて一般的には、まだまだ過小評価されている気味がある。恐らく、ステージ上でも私生活でも物静かな彼の性格を反映して、バンドスタンドでも、自分の実力をひけらかそうとしないせいかもしれない。

 生来の無欲な性格ゆえに、ムラーツはリーダーとしての活動を避けていたのだろうか…いや、決してそうではないと、彼は素直に認める。「ただ、その暇がなかったんだ。」つまり、この30年間、ジャズ界の人名辞典に載る一流ミュージシャン達(サドーメルOrch.、ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、クラーク・テリー、スタン・ゲッツ、スライド・ハンプトン、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ジョー・ロヴァーノetc...)がこぞって、ずっと彼をファースト・コールのベーシストにしていることが、リーダー活動を阻止した主たる原因であることは驚きに値しない。「'92年にトミー・フラナガンのトリオを退団してからは、かなり時間の余裕が出来た。」ジョージは微笑みながら付け加えた。「もっと色々なことをやって行っても大丈夫だよ。」

 フラナガンの許を去った後、ジョージは、ジョー・ヘンダースン、ハンク・ジョーンズ、グランドスラム(ジム・ホール、ジョー・ロヴァーノ、ルイス・ナッシュ、DIM(ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴ)、マッコイ・タイナー、ジョー・ロヴァーノ+ハンク・ジョーンズ4、マンハッタン・トリニティなど、多岐に渡るフォーマットで活動。

 加えて、リッチー・バイラーク、ビリー・ハート、リリカルなテナー、リッチ・ペリーを擁する自己カルテットを率いている。(このカルテットは、マイルストーン・レコードの一連のアルバムで聴くことが出来る:当レーベルでの第一作“ジャズ”、1997年に、ムラーツが自己作品や、ベーシスト仲間(ジャコ・パストリアス、ロン・カーター、マーカス・ミラー、チャーリー・ミンガス、バスター・ウィリアムス、スティーブ・スワロウ)ばかりを取り上げたアルバム“ボトムライン”で、また、バイラークとハートとのトリオは、“マイ・フーリッシュ・ハート”で堪能することが出来る。
 
 「ジョージはいつも、正にこっちが欲しいと思う音をドンピシャリと弾いてくれるんだ。」リッチー・バイラーク(p)はムラーツについてこう言う。「それに、まるで彼自身がベースという楽器の発明者じゃないかと思う程、楽器を知り尽くしたプレイだ。」だが、ムラーツはそれをわざとひけらかすようなことはしない。縁の下の力持ちとして、何をすべきかしっかりと感知しながら、わざと自らの存在を透明なものにしてしまう。「例え、四分音符のランニングしかしなくとも、彼の音の選択は完璧だ。まるで、ソロイストの後ろで、素敵な物語を語っているようだよ。」と彼のプロデューサー、トッド・バルカンは熱く語る。

 ジョージ・ムラーツのレコーディングの共演者は膨大だ。:オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガンサー・ローランド・ハナ、ハンク・ジョーンズ、チャーリー・ミンガス、サド−メルOrch.、NYJQ、ライオネル・ハンプトン、ウディ・ハーマン、穐吉 敏子、ケニー・ドリュー、バリー・ハリス、テテ・モントリュー、ジミー・ロウルズ、ラリー・ウィリス、リッチー・バイラーク、マッコイ・タイナー、アダム・マコーウィッツ、ジミー・スミス、スタン・ゲッツ、ズート・シムス、ペッパー・アダムス、アート・ペッパー、ウォーン・マーシュ、フィル・ウッズ、グローヴァー・ワシントンJr.、アーチー・シェップ、デイブ・リーブマン、ジョー・ロヴァーノ、ジム・ホール、ジョン・アバクロンビー、ケニー・バレル、ラリー・コリエル、ディジー・ガレスピー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、ジョン・ファディス、ジミー・ネッパー、ボブ・ブルックマイヤー、ジョン・ヘンドリクス、カーメン・マクレエ、ヘレン・メリル、エルヴィン・ジョーンズ他書ききれない。

 リーダー作としては、アルタ・レコードから“Catching Up”、マイルストーン・レコードからは“Jazz”、“My Foolish Heart”、“Bottomlines”、“Duke's Place”“Morava”など多数のアルバムがある。

 ジョージ・ムラーツの最新作は“Moravian Gems”(モラビアの至宝たち)だ。モラヴァ民謡を題材とし、鋭いリズム、面白いハーモニー、様々なメロディが、ジャズのスイング感、洗練さ、即興演奏の独創性と合体し新しい音楽世界を構築している。ムラーツは成長期を父の生地で過ごした、西欧では『モラヴィア』と呼ばれる地方だ。彼の心に残る「モラヴァ」の思い出は、緑生い茂る草原、そして陽気で心温かい人々、メリハリの効いた方言で歌われる民謡の数々だ。その思い出が本作でのムラーツのプレイの中に生きている。ピアニスト、エミール・ ヴィクリツキーは、本作で一曲以外の全ての作編曲を担当している。もう一人のパートナー、ラツォ・トロップは、ヴィクリツキー・トリオの長年のドラマー、ここに驚異的な才能を誇るシンガー、イヴァ・ビトヴァが加わる。

 ムラーツとヴィクリツキーは、1976年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルで知り合った。ムラーツがNYに移り、世界で最も多忙なベーシストとして、スタン・ゲッツ・カルテットなどで共演をし、一方ヴィクリツキーはボストン、バークリー音楽院卒業後、チェコに帰国しカレル・ヴェレブニー(vib)のSHQアンサンブルに参加して、ピアニストとしての評価を確立していた頃だ。ムラーツ自身は、それに遡り、プラハ音楽院の学生時代にヴェレブニーのバンドで活躍していた。初顔合わせから20年後の1997年、再び二人の大きな出会いが始まった。プラハを訪問した時、ムラーツがエミールに、モラヴィア民謡とジャズを融合した音楽を創るというプロジェクトを提案したのだ。本CDはこの二人のコラボレーションの産物だ。

  二人は、モラヴィア音楽特有の叙情性や感情の深さ、ジャズの即興演奏へのポテンシャルなど、モラヴィア音楽の持つ広範な可能性について熟考し、プランを練った。
 
 本アルバムのプロデューサー、ポール・ヴルセックは、モラヴィア民謡、特に南モラヴィア地方の音楽のモーダルな特性を指摘する。地理的に孤立していた為だけでなく、その音楽が土地の人に愛され、歌い継がれてきたために、時代や流行の変遷に影響されず、何世紀の年月を経ても、音楽の美質が損なわれずに守られてきたのだ。本能的にモーダルな和声進行を感知する鋭敏な耳を持つモラヴィア人達にとっては、これらの民謡を歌い奏でたり、ちょっと風変わりなものであっても、自然に音楽を作るのはいとも容易いことなのだ。またモラヴィア人でない者にとっては、それらの音楽は予想もつかない斬新なものである。

 本作のヴォーカルとして、エミールはチェコのみならずヨーロッパ全土で活躍するスター、イヴァ・ビトヴァを推薦、並外れて清らかな声と、あらゆるフォーマットに対応する柔軟さを持つ大歌手であり、ヴァイオリニストとしても一流、しかも映画界では主役を何本も勤める名女優でもある。ビトヴァは1958年北モラヴィアの街ブルンタル生まれ、母、リュドミラ・ビトヴァは教師で歌手、父、コロマン・ビトヴァは、多数の楽器を演奏し、中でもダブル・ベースの名手であった。

 ビトヴァは語る、「私は今回のマテリアルが大好きです。録音前、エミールやラコと一緒にリハーサルをした時は、気楽だったんだけど、ジョージとは初めてだったし、ジャズバンドとレコーディングするのも全く初めてだったの。でもジョージのベースからは、同じ楽器を演奏した私の父コロマンの心臓の鼓動が聞こえてくるようでした。父は素晴らしい音楽家だったのですが、'84年に54歳の若さで亡くなりました。ジョージの演奏には心の底から感動しました。それで、レコーディングではヘッドフォンやモニターは一切使わず、その瞬間の波動を直接感じながら歌うことにしたんです。この方法は私に大いに刺激を与えてくれました。」

 ジョージとイヴァ・ビトヴァは、今後、アルバム“モラヴィアン・ジェムズ”のレパートリーやオリジナル曲を、デュオで演奏する予定。演奏日程は本サイトのPerformance Scheduleを参照されたい。

 ジョージ・ムラーツのHPへ 

 翻訳:寺井珠重