Jazz Club OverSeas創世記

サラーム・ボンベイ
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NYジャズクラブの草分け“ヴィレッジ・ヴァンガード”は、約75年前のオープン時にはジャズクラブでなく、様々な試行錯誤の末にジャズに行き着いたそうです。一方、Jazz Club OverSeasは28年前、『ジャズクラブ』を目指して、オープンしたものの、最初はなかなか理想どおりには行きませんでした。
 寺井尚之は、学生バンドマンを経て、更にサラリーマンとプレイヤーの二足のワラジで更に荒稼ぎをし、ある日遂に、最も尊敬するトミー・フラナガンのアルバムから名前を取った“OverSeas”という名の店を持つ決心をします。
 大きなコーヒー・ショップの厨房で、しばらく飲食業の修行をした寺井尚之が、両親の助けを借り、繁華街より手堅い商売が出来そうなビジネス街に、“Piano Play House OverSeas”をオープンしたのは’79年5月でした。朝はモーニング・サービス、昼はランチ、夜はピアノ演奏をしながらお酒と居酒屋風の料理を出していました。ライブ・チャージは無料、当時コーヒーは一杯230円、オフィス街に合わせ、日、祝日と土曜日の夜が休みでした。
“Piano Play House OverSeas”は、現在の店舗から東南に数ブロック離れた南本町1丁目のテイジンビルの東向かい、“ボンベイビル”という少し風変わりな古めかしい建物の一階にありました。現在では新しいビルに建て替わっています。当時その界隈は「インド村」と呼ばれ、大阪の主要産業であった繊維関連のインド人貿易商達がたくさん商売をしていました。現在も船場センタービルなど、町の中にインドの人達は多く居ますが、何倍も人口が多かったのではないでしょうか。背広姿の企業戦士の群れに混じり、様々な形のターバン姿や髭の彫りの深い顔立ちの男性達、目を見張るように美しいサリー姿の女性達が往き来するエキゾチックな街でした。
 
 ボンベイビルは名前の通り、隣近所インド系の人たちばかり、天井がものすごく高い3階建で、コロニアル様式というのか、各階に中二階のある実質6階建て、ご近所のオフィスは中二階を応接間や倉庫にしていました。OverSeasも、他の部屋同様、天井に映画“カサブランカ”のような大きな扇風機が2機ついていて、中二階のこじんまりしたバルコニー席は、絶好のデート・スポットでした。現在の常連さんで、ここを知っているのはジャズ講座発起人のダラーナさんくらいかな・・・でもたしかダラーナさんはデートでなく、近くの大企業に就職の際に、この中二階でパーティをされていたはずです。
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バルコニー席から…
 
 寺井尚之は開店当時26歳、朝早くから夕方まで、コックさんと共に厨房に入り、忙しくコーヒーを点て、仕込みを手伝い、色んなドリンクを作っては、夕方になると演奏していました。ドリップの腕はかなりのもので、私は今でも寺井がネルドリップで点ててくれるコーヒーが一番好きです。
 開店後しばらくして、寺井のレギュラー・ベーシストとなったのが、当時関大1回生のYAS竹田。関大生らしくジーンズに下駄とか履いていて、私とおやつの取り合いでよくケンカしてました。そんな彼がNYで沢山のギグを抱えるベーシストになろうとは…一年遅れでやってきた甲南大のベーシストが倉橋幸久(b)、今と同じく無口で物事に動じず、コックさんから「東海林太郎=ショージさん」と仇名を付けられ可愛がられてました。今だに、それが彼の本名と思っている人がいます。山の手の甲南ボーイのイメージに反し、夜店の“輪投げ”の店番でお金を貯めてベースを買った時には、皆あっと驚きました。
レギュラー・ドラマーは、設計士の松田利治と、現在フラナガニアトリオの河原達人、当時はイケメン関大生でした。ゲスト出演していたのが、やはり関大の末宗俊郎(g)、その頃からブルージーにガンガン・スイングしていましたよ。
 寺井尚之は、すでに流麗なデトロイト・ハード・バップスタイルだったけれど、今よりもずっと音数が多かったように思います。ピアノの響きの力強さは、現在を10にしたら6くらいかな?髭は白くなっても、ずっと今のほうが、ピアノのサウンドはカラフルで若々しいように思います。
 私は開店時、四ツ橋本町のテキスタイル会社の新入社員で、退社後バイトまがいのことをしていて、正式に就職(?)したのは80年の3月です。スタッフは寺井がマスター、寺井の母がママさん、アルバイトたちと、プロの料理人、殆んどが素人のお店でした。中でも一番不出来なウエイトレスが私、サービスのノウハウも知らぬまま、毎日13時間労働、足は腫れて痛いし、食事はゆっくり出来ず、寝不足で悶々とする日々が続きました。でもふとしたお客さんの言葉や笑顔に、励まされたり、教えられたり、おかげで、なんとか今までやって来れてます。
 そのうち、外国のご近所さん達のおかげで、ウエイトレスとして必要最低限の英語を話すことを少しずつ覚えました。彼らはシンガポール、スリランカなど様々な国籍で、中には神戸で生まれ、大学はUCLAというジャズファンもいました。殆んど人たちはコテコテの大阪弁とインディアン・イングリッシュのバイリンガル、ビジネス用には「もうかってまっか」、プライベートは「Hi, What’s up?」と使い分け、オフィスには十日戎の福笹とシバ神の絵姿を一緒に祭っていました。日本文化に対して懐が広く、開けっぴろげではないにしても社交的、付き合い上手。現在はIT国家として学力の高さが注目されていますが、私にはちっとも目新しいことではありません。今も町で出会うと、優しいまなざしで気軽に声をかけてくれます。子供のときからOverSeasのカレーが大好きというインド人も沢山居て、もうランチ営業していない今でも、祖国から帰ってきて、日本の味を食べたいと、出前の電話を頂くことがあるほどです。
 お向かいのテイジンホールで催しがあると、落語家さんや、モデルさん達が休憩に来て、お店も華やかな雰囲気に包まれました。でも主流はサラリーマンのお客さんたち、今みたいにジャズを聴くためだけにやって来るお客様はまだいませんでした。 
 
 当時のタウン誌、“プレイガイドジャーナル”に、OverSeasが紹介されていますが、その記事が当時のOverSeasの様子を端的に表現してくれています。
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「…ライブと、モダンジャズがたっぷり楽しめる。日差しの入り込んだ店内は、外の喧騒とは無縁、隣のテーブルからは仕事の打ち合わせは聞こえて欲しくないもの。」

 お店は賑やかでも、まだまだジャズクラブには遠かったお店の転機は、1982年6月に故デューク・ジョーダン(p)3のコンサートを開催したこと。ジョーダンはまだ59歳でプレイは円熟を極め溌剌としていました。初めて一流プレイヤーのコンサートを、自分の店で出来て、すごく興奮したのを覚えています。トリオのメンバーはデンマークの実力派、ジェスパー・ルンゴール(b)とオーエ・タンゴール(ds)、不思議な縁で、ジェスパーはその後、トミー・フラナガンが北欧ツアーする際のお気に入りベーシストとなり、フラナガンの名盤“Let’s”やジャズパー賞受賞記念のライブ盤“Flanagan’s Shenanigans”に参加しています。当時は髪もふさふさでした。
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左から:ジェスパー、寺井、オーエ
 初めて、“聴く為”に沢山のお客様達がOverSeasに集まって来たのです。私たちはテーブルを全部外にほうり出し、パイプ椅子をレンタルして一人でも多くの人に聴いてもらおうとしました。満員の聴衆がぎゅうぎゅう詰めで膝突き合わせながら、ドリンク片手に、ジョーダンの演奏と、甲高い声ではっきりしたMCに聴き入ったのを思い出します。今ならテーブルがないと皆さんに叱られたことでしょう。目と鼻の先で聴ける臨場感たっぷりのコンサートは大成功で、OverSeasは初めてジャズファンに知ってもらうことが出来たように思えました。マイルス・デイヴィスやサラ・ヴォーンから直接指名がかかる、ジャズ界屈指のロードマネージャー、斉藤延之助氏の、ミュージシャンの熱演を引き出す仕事振りも、私にはすごく勉強になりました。
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演奏中のデューク・ジョーダン
 その翌年、同様の形態でジョージ・ケイブルス(p)トリオ(bass:デヴィッド・ウィリアムス、drums: ラルフ・ペンランド)、再びデューク・ジョーダントリオを開催、そして、今まで周囲がひっそりしているからと休んでいた土曜日の晩に、ゆっくりジャズのライブを楽しんでもらおうとライブを始め、徐々にジャズ・クラブへと軌道修正を目指したのです。
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左から、私、寺井尚之、(一人置いて)ジェスパー・ルンゴール、YAS竹田、デューク・ジョーダン、(二人置いて)オーエ・タンゴール、オーエの後ろが寺井の母、横顔が斉藤マネージャー
 ボンベイビル時代にトミー・フラナガンは2度来日しています。私はジャズ・ピアニストの内でも最高ランクのギャラを取るフラナガンをOverSeasに招くとは、夢にも思っていませんでしたが、寺井尚之はボンベイビルでのライブ録音も視野に入れ、フラナガン3のリハに立ち会ったりして、色々と計画を練っていました。
 ところが83年の秋、やっと慣れ親しんだボンベイビルは近代的なビルに立替工事をすることになり、新しい本拠地を探さなければならなくなり、私たちは途方にくれてしまいます。
 
 さて、この続きはまたの機会に。
 次回は、私が今でも忘れられないジャズメンたちの思い出をお送りします。前回のオスカー・ペティフォード(b)が、国定忠治のようなジャズの“侠客”なら、次回はジャズの“武士道”のお話。
 どうぞお楽しみに。CU

「Jazz Club OverSeas創世記」への10件のフィードバック

  1. いつもブログ楽しみにしています。前回のオスカー・ペティフォードの記事も面白かったですが、overseasはどうやって生まれたのだろうと思っていたので、今回の記事もすごくわくわくするものでした!発表会の準備やらなんやらで、大変かと存じますが、ブログ更新頑張ってください!いろんなことをさら~とやってのけてそうな珠重さん、ステキです!!

  2. トモティちゃん、私のつたないブログを読んでくださって感謝感激です。
    ちっともためにならないことばかり書いていくと思いますが、また覗いてくださいね!!
    ありがとうございました。

  3. はじめてオーバーシーズへ伺った時堺筋の交差点にインド系の銀行があったのを思い出します。
    最初のオーバーシーズにいけなかったのが残念。
    オーバーシーズ・コロッケが食べたくなりました。スペアリブは真似して作って食べてます。

  4. 凄い!
    私もブログを書いていますが、情報量に驚かされます。
    アホの僕にはできませんねぇ。
    次回も楽しみです。

  5. コメントありがとうございます!
    石井様
    スペアリブは、今のお店でも時々メニューに入れてます。今度召しあがってください!
    鷲見様
    鷲見さんブログのデザインや内容にはとっても及びませんが、これから毎週更新めざしてガンバリます。オスカー・ペティフォードに興味を持ったのは、鷲見さんのように強烈な個性のベーシストを聴いているからです。コメントにタグを使うのもかっこいいな!

  6. 私のブログも見易くする為に、先程カテゴリー分けをしました。
    スタイル用のタグの意味がよく解りません。
    昨夜、色々とタグを試したのですが、太字にする事しかできませんでした。
    色を付けたり、字の大きさを変えたりしようとしたのですが…。
    また教えてください。

  7. 寺井さんに「これから土曜日にライブをやるから、リハをやろう」と言われたのは、私がOverSeasでベースを弾かせてもらえるようになってから、半年も経った頃だったでしょうか。そのリハを録音したテープを聴いて寺井さんは「わしデューク・ジョーダンみたいや」と言っておられたのをよく憶えています。
    ジョーダンは亡くなる数ヶ月前、NYのいろいろなジャズクラブに顔を出していました。Cleopatra’s Needleというクラブのジャムセッションに姿を見せたジョーダンは、若いミュージシャン達に囲まれピアノを弾くよう頼まれると「もう数年前にリタイアして、演奏は一切やっていない」と答えたそうです。

  8. 学生時代に、Flight to DenmarkやJorduなどのアルバムがヒットして、「寺井さんって、Dジョーダンみたい」といわれてふくれっ面をしていたのを思い出します。
    Dジョーダンは、何度も会いましたが、シャイというのか、なんというか、普通のアメリカ人ミュージシャンを違い、自分が目立つのを、ことさら嫌っていた印象があります。
    優しさと悲しさを感じさせる巨人でした。

  9. ボンベイビル、インド村、インド人貿易商達・・・懐かしい記述に感謝です。
    今月、1980年代に船場地区で貿易金融に携わっていた仲間たち(旧三井銀行船場支店・外国課勤務)が同窓会を開催したからです。
    当時は、東区唐物町なんて地名も有りましたね。
    ボンベイビルの他にも、マヤビル、ディワンチャンドビル・・・等々、インド商をめぐる思い出は尽きませんでした。

  10.  旧三井銀行、外国課さま、思いがけないコメント、とっても嬉しいです。
     あの頃の堺筋本町は高度成長時代、”糸へん”の人たちばかり、昔の船場と、エキゾチックな香りで、活気に溢れていましたよね。
     銀行のお客様も沢山いらっしゃいました。
     デワンチャンド・ビルのレリーフは今も健在です。
    懐かしいお話をありがとうございます。またいつかお会いできればうれしいです!

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