トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン



 今週の土曜日のジャズ講座には、(別名 A Day in Tokyo)が登場します。
 ’75年2月録音、フラナガンがエラ・フィッツジェラルドとの日本ツアーのオフ日に東京で録音したアルバム。当時大学3回生の寺井尚之は、その4日後に、最終公演地の京都で、トミー・フラナガンに初めて弟子入りを志願し、「人に教える暇があったら、自分の練習をしたい。」と見事に断られた。もし、フラナガンが調子よく「よっしゃ、今日から君は僕の弟子だよ!」と、言っていたら、寺井尚之の今はなかったかも知れない。
 当時のスイングジャーナルを読むと、このアルバムの実質的な製作者であった日本ポリドールが『スタンダード集』を要望したにも関わらず、フラナガンの強弁な主張に押し切られた形で、『エリントン-ストレイホーン集』に成ったと書いてありました。恐らくトミー・フラナガンは、来日前に「リーダー・アルバムを」とだけの録音オファーを受け、長年温めていたエリントン集の構想を、映画の絵コンテのようなしっかりとしたイメージを準備して、東京で録音に臨んだに違いないのです。
 それが土壇場になって、「トミーさん、エリントン集なんたって、そんなもの売れませんや。何とかスタンダードでお願いしますよ。」とか言われたに違いない。フラナガンという人は、そんな時、ピストルで脅されたって札束を積まれたって、、テコでも動かない人ですからね。No!と言ったはずだ。頭から湯気を出しためちゃくちゃコワイ顔が想像できる。
 <Tokyo Recital>が、どれほどの名作かは、ぜひジャズ講座に来て寺井尚之の話を聴いて楽しんで頂きたいと思います。
 ところが、最近は、ジャズが好きでも、デューク・エリントンという名前も”A列車で行こう”も聴いたことがないと言う、若い方々が増えている。時代が変わるという事は、こう言うことなのでしょうか? Oh, My God, 神様、仏様、こりゃ、困った。
 だから、ちょっとザ・デュークとストレイホーンの話をしてみよう!
とは言え、経歴だけでも、アメリカ音楽史となり、楽団メンバーの変遷だけでも、ジャズ人名辞典になる。楽曲を並べると、アメリカン・ヒットパレード。デューク・エリントン=ビリー・ストレイホーンの世界は、アマゾンの熱帯雨林より奥深い。だから、本当に少しだけ。
 ellington_1.jpg ピアノとワードローブに囲まれたデューク

撮影ハーマン・レオノール

(その1)デューク・エリントン
<明治のぼんぼん>
  “デューク”こと、エドワード・ケネディ・エリントンは、日本で言えば明治32年生まれ。”アンタッチャブル”でおなじみのギャングのボス、アル・カポネ、日本なら川端康成、笹川良一と同い年だ。当時全米で最大の黒人人口を誇った都市、ワシントンDCに生まれた。 父親は、裕福な医師の邸宅の食事やパーティを仕切る有能な執事だった。エリントン少年は、アメリカに人種差別があることも知らず、お坊ちゃまとして何不自由なく育ち、幼少からピアノを習ったが、発表会では片手を先生に手伝ってもらわなければ満足に弾けない劣等生、野球の方がずっと好きだったと自伝に書いている。
Fats_Waller.jpg エリントンの天才仲間、ファッツ・ウォーラー(p)
 
  ハイスクール入学後のエリントン少年は、“ぼんぼん”の例に漏れず、夜遊びを覚えた。プールバーや、浅草ロック座のように、綺麗なお姉さんがしどけなく踊るバーレスクの劇場に出入りする。そのうち、生演奏するピアニストの脇には、必ず美人がはべるという法則を発見し、初めてピアノへの情熱が生まれたのだった。エリントン少年の非凡な点は、女性を追い掛け回すだけでなく、ハスラー達のいかさまの極意や、お客に喜んでチップを払ってもらう術を、即座に会得したところです。例えばピアノ演奏のエンディングでは、わざと腕をオーバーに上げると喝采とチップが増えると言うような実践的テクニックを次々に身につける。電話帳に「芸能なんでも承り」と、一番大きな枠の広告を張り、自分で演奏するだけでなく、芸能事務所や広告代理店など多角経営を行い、破格の収入を得て、高校中退。そんなエリントンにNY進出を薦めたのはファッツ・ウォーラー(p)だ。’23年、エリントンが故郷を出る時に持っていた有り金は、全て道中で散財し、NYに着いた時は一文無しだったが、蛇の道は蛇、天才的な要領の良さで、酒場からコットン・クラブやブロードウエイへと、天井知らずにどんどん出世して行く。
cotton%20club.jpg
<禁酒法に学ぶ>
  エリントンがブレイクしたのは禁酒法時代。第一次大戦後、バブル景気に沸くアメリカで施行されたけったいな法律、禁酒法は、結果的にギャングと娯楽産業を大儲けさせた。だって非合法ビジネスは税金を払わなくていいから儲かります。客席は白人オンリーのハーレムの名店《コットン・クラブ》は、毎夜、富豪やセレブで大繁盛、専属バンドのエリントン楽団は全米にラジオ放送され、海外にも名声が轟いた。ジョニー・ホッジス(as)の官能的な響きやクーティ・ウィリアムス(tp)の野生的なプランジャー・ミュートは、絢爛たるハーレム・ルネサンスの栄華と、エキゾチックな肢体をさらすコーラス・ガールなしには生まれなかったのだ。
  エリントン達は、もぐり酒場(スピーク・イージー)で密造酒の作り方も会得した。
 非合法のもぐり酒場で提供される密造酒は、同じ中身でも、A.Bとランク付けされていた。豪華なカップで供されるAは値段が倍違う。大阪人なら、「Bでええわ」と言うところですが、景気の良いお客さんは、例え中身は同じでも、“A下さいっ”と高い方を注文し、女性達に羽振りのよさを見せ付けたのです。容器が違うから、高価な飲み物とそうでないのはひとめで判るのです。(今ならキャバクラのドンペリか?)エリントンは、それを観て「これだ!」と膝を打ったと言います。
エリザベス女王に謁見するエリントン
<音楽にジャンルなし。良い音楽とそうでないものだけ。>
 中身は同じでも、ステイタスを付けよう。 故にエリントンは、ハーレムの一流で終わることなく、禁酒法でギャングが没落し、ハーレムが廃れても、どんどん出世した。ギャングとの黒いつながりも、エリントンは巧みに避ける処世術を持っていた。 ヨーロッパでは、英国皇太子(後のウィンザー公)が“追っかけ”となり、一晩中バンドの近くから離れない。そしてエリントンが出演するイギリスの晩餐会でダイヤのイヤリングを落とした高貴なレディの名文句は世界に発信されたのだ。
 「ダイヤはいつでも買えるけど、エリントンは今しか聴けないのですよ。皆さん、どうぞ、ダイヤなんてお気になさらないで。」
   ’38年にビリー・ストレイホーンと出会い、二人の非公式な共作活動が始まってからは、組曲やクラシックのエリントン・ヴァージョン、バレーに至るまで、創作スケールは更に拡大を続ける。ビートルズやロックに主役の座を奪われたジャズ界から超越した存在になることで生き残りを図り、ジャズの枠に囚われることを徹底的に避けたのだ。
<エリントンの楽器はオーケストラだった。>
 エリントンの革新的な和声解釈はジャズだけでなく、ジャンルの区別なく20世紀の音楽に大きな影響を与えた。エリントンは、楽団メンバーの持ち味を最高に生かした楽曲を創り、自分のピアノのサウンドを絶妙に生かす楽曲を作った。
 留学時にエリントンへの弟子入りを熱望した武満徹は、こんなことを言っている。「エリントンは常にこの音を誰が弾くのかと常に考えて作曲することが出来た。あれほど作曲家冥利に尽きる贅沢はありません。クラシック界では、夢のまた夢のようなことです。」
 以前、ジャズ界のサギ師としてセロニアス・モンクの事を書きましたが、モンクが一番尊敬したのがデューク・エリントンだった。エリントンの痛快なサギ師ぶりは、またいつか書いてみたいけど、それは決して音楽家の内容のなさを小手先の術で補ったのではないのです! むしろ、自分の音楽の崇高さを、正しく世間に認めさせるために使った、「ちょっとした魔法」ではなかったか?
 Duke-Ellington--at-the-Graystone-Ballroom--1933-.jpegトミー・フラナガンが3つの時の、デトロイトでの公演ポスター
 ビッグバンド時代の終焉後も、エリントンは作曲の印税を、ほとんどバンドの給料に宛てて維持したと言いますが、主要なバンドメンバーが抜けても、エリントンは決して動じず、新しいメンバーで新しいバンドの醍醐味をどんどん創って行った。それほど懐の深いエリントンが、ただ一人、独立を徹底的に阻止したスタッフが、ビリー・ストレイホーンだったのです。
 
 次回はビリー・ストレイホーンの天才について、少し話そう!
その前にジャズ講座は10日です。皆さん、どうぞいらっしゃい!
CU

「トーキョー・リサイタルとデューク・エリントン」への2件のフィードバック

  1. フラナガン氏のザ・トーキョー・リサイタルも好きですね〜特にストレイホーン作のチェルシー・ブリッジが大好きです。
    フラナガン氏の演奏するチェルシー・ブリッジはオーバー・シーズも本盤も素晴らしいですね。寺井先生の演奏も聞いてみたいな〜
    ぼくはエリントンよりストレイホーン派だな?

  2.  あきじんさま
     ヨコハマのトミー・フラナガン愛好会の会長夫妻は、チェルシー・ブリッジを観る為に、ロンドンまで行って写真を撮ってきました。
     ストレイホーン派と言って下さる方は珍しいです! ありがとうございました。

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