J.J.ジョンソン(前篇):「あれはもうトロンボーンじゃない。」:トミー・フラナガン

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 先週のジャズ講座も皆さんどうもありがとうございました。
 ジャズの真冬が終わり、バンドスタンドに戻ってきたスター達・・・講座に登場したアルバムの味わいは、すっきりしたものから、涙の味のしょっぱいものまで色々・・・秘蔵音源で、懐かしい「波止場」の風を浴びてハッピーエンドになれました!
 あの夜、皆で聴いたJ.J.ジョンソンのカムバック作品『ピナクルズ』、表面的な音楽スタイルは当時隆盛のクロスオーバー志向だけど、隙のない緻密な構成は、以前の講座で聴いたJ.J.ジョンソンの姿と少しもブレていなかった。あのアルバムを制作した”マイルストーン”というレコード・レーベルが、かつて.J.J.のバンドの一員で、フラナガンの親友だったディック・カッツ(p)さんがオリン・キープニュースと創設したレーベルであることも、感慨深いです。
<トロンボーンの神>
 J.J.ジョンソンは存命中から「トロンボーンの神様」と呼ばれる生き神さまだった。
 カフェ・ボヘミア時代から晩年までJ.J.ジョンソンを公私ともによく知るダイアナ・フラナガンは、私にJ.J.のことを色々話してくれたけど、残念ながらここで書けることは、以下の言葉以外ほとんどない。
 「トミーはステージで、しょっちゅうミスをしてたでしょ、リスクのあるプレイをするタイプだからね。でもJ.J.ジョンソンはパーフェクト!誰もJ.J.ジョンソンのミスノートなんて聴いたことないと思う。生まれてから一度もミスなんてしたことないんじゃないかしら?」

 トミーがJ.J.について饒舌に語ってくれた記憶はないけど、寺井とトロンボーンについて議論していて、寺井がJ.J.ジョンソンを持ち出したら、こう言ったのが印象にあります。
 「J.J.ジョンソン?あれはもうトロンボーンじゃない!」
 つまり、J.J.は例外なので、トロンボーンを語る時に持ち出さない方がいいという意味でこう言ったんです。カーティス・フラー、タイリー・グレンやアル・グレイ、スライド・ハンプトン・・・多くの名トロンボニストと共演して来たトミーにとって、J.J.ジョンソンのトロンボーンは既成の概念を遥かに超越したものだったんですね。
<Why Indianapolice-Why Not Indianapolice?>
 インディアナポリスに生まれ育ち、BeBop以降の全トロンボーン奏者に影響を与えた”The Trombonist”は、インディアナポリスで拳銃の引き金を引いて自ら人生の幕を引いた。
 ネット上に遺る晩年のインタビューを読むと、“Logic(論理)””Clarity(明瞭)”という二つの言葉をJ.Jは繰り返し口にしている。『論理的で明瞭』であることが、全てに優先するというのが彼の哲学だったことは、『ピナクルズ』を聴いても明らかだった。だからこそ、パーカー+ガレスピーにBeBopの洗礼を受けたとき、スライドを疾走させるためなら躊躇なくトロンボーンらしい(と思われていた)音色と決別することが出来たのかもしれない。
 J.J.ジョンソンがあっさりジャズ界を離れ、青写真技師や映画音楽家に転職したのも、評判の愛妻が亡くなって後、すぐに再婚して新しい妻をマネージャーにして、周囲を驚かせたことも、『論理的且つ明瞭』な決断だったのだろうか?
 寺井尚之は前から「J.J.ジョンソンは自殺すると思う。」と言っていたけど、彼にとっては自殺ですら「理にかなった明瞭な決断」だったのだろうか?或いは、癌に犯された時から、J.J.の内側で「論理性」と「明瞭さ」は崩壊していったのだろうか?
 ミュージシャン達が畏敬を込めて『トロンボーンの神様』と呼ぶJ.J.ジョンソンの人生を、JJ自身の証言を読みながら、駆け足で辿ってみようかな。
jj-studyingmusic.jpg<最初のアイドルはレスター・ヤング>
 J.J.ジョンソンこと、ジェームズ・ルイス・ジョンソンは’24年1月4日、中西部の大都市インディアナ州インディアナポリス生まれ。幼い頃は教会でピアノを学び、10代の初めにジャズが好きになってからサックスを志したそうです。J.J.ジョンソンの最初のアイドルはレスター・ヤング(ts)でした。でもJ.Jの楽器はバリトン・サックスで、レスターの音色を自分のものにすることはできなかった。ハイスクール・バンドで、たまたま人数が足らなかったという理由からトロンボーンに転向してからも、ずっとレスターへの想いは不変だと語っています。
art_lesteryoung.jpgJ.J.ジョンソン:最初のヒーローはレスター・ヤング(ts)だ。その頃の私は完全な”レスターおたく”だったよ。レスターは音楽を志す仲間たち全員の「神」だった。皆で何時間もレスターのソロを聴き続け、「ああでもない、こうでもない」と色々分析していたものだよ。
 トロンボーンに転向してからはレスターのソロを丸コピーして吹こうと思ったことはない。私の敬意はそういう種類のものではない。レスターの凄いところは、規制のテナーの即興演奏の枠に全く囚われない斬新なアプローチにある。たった2つか3つの音だけで『あっ!レスターだ!!』と判る強烈な個性だ。同じようなペルソナは、トロンボーン奏者のトラミー・ヤングやディッキー・ウエルズにもあり、私は大きな影響を受けた。

 J.J.ジョンソンは殆ど独学でトロンボーンに習熟、レッスンを受けた経験は数回だけだったそうです。1941年に高校を卒業するまでに、高度な音楽理論を身に付け、地元バンドに楽曲を提供していました。卒業後すぐ、スヌーカム・ラッセル楽団に加入、バンドメイトだったファッツ・ナヴァロ(tp)のBeBop的アプローチに大きく影響を受けたといわれています。J.J.ジョンソンの卓越した技量は仲間内で評判になり、翌年ベニー・カーター楽団に移籍。’44年のJ.J.ジョンソンは、すでに往年の疾走感溢れるスタイルを確立していました。
 ディック・カッツさんによれば、J.J.ジョンソンの紳士的なマナーはベニー・カーターから学んだもので、J.J.に作曲活動を強く勧めたのもやはりカーターだったそうです。“ザ・キング”の大きく聡明な瞳は、音楽家の資質をすぐに見抜いたわけですね。
 大戦後、J.J.ジョンソンはカウント・ベイシーやJATPなど様々なフォーマットでキャリアを積みます。当時J.Jが参加するイリノイ・ジャケーのバンドがシカゴで公演した時には、町中のミュージシャンが噂に聞くJ.J.ジョンソンの驚異的なプレイを一目見ようと押し寄せたと言います。
<ありえないBeBopトロンボーン>
JJJohnson_MRoach_et_OPettiford_BNote_Marcel_Fleiss_AG400.jpg  マックス・ローチ(ds)オスカー・ペティフォード(b)と。
 ’46年になると、J.J.ジョンソンはNYに腰を落ち着け、BeBopムーブメントの中心として活躍。チャーリー・パーカーのオリジナル・カルテットが迎えた唯一のゲスト・プレイヤーとして全米に名を馳せます。リーダー作だけでなく、バド・パウエル、ソニー・スティット、ディジー・ガレスピー達と歴史的録音を重ね、次のトレンドを予見するマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』にも参加しています。
 複雑なハーモニーやマシンガンのような急テンポの革命的音楽BeBopに、トロンボーンというスライド楽器を順応させるための苦労について質問されたJ.J.ジョンソンは、インタビューで、このように答えています。
J.J.ジョンソン:もちろんBeBopを演奏する上で課題はあった。だがそれは、「速く吹く」とか「高音を吹く」というテクニック的な問題でなく、即興演奏上のアプローチの問題だ。
 世間は私を超絶技巧派と思っているようだが、決してそうではない。私が演奏家として、過去も現在も一貫して目指すのは、明瞭さ(clarity)と論理性く(logic)、そして聴く者に感動を与える表現力だけだ。この三点を達成すれば、私のトロンボーンにペルソナが宿り、(レスター・ヤングのような)強烈な個性を持つことができる。そうなればいいと常に望んでいる。
 『あいつは一体何をやりたいんだ?』と思われない演奏をしたい。

<転職その1>
 チャーリー・パーカーがキャバレー・カードをはく奪され、BeBop時代の終焉が近づいた1952年、J.J.ジョンソンは突如ジャズ界を離れ、元々興味があった電子関係の企業に青写真技師として就職しました。
 最大の理由は無論経済的なものでしょうが、ジャズの行く末に幻滅を感じたこと、しばらくジャズ界を離れて、外側からジャズを眺めたかったとJ.J.自身は語っています。ロジックを最優先するJ.J.ジョンソンなら、周到な準備の上何の躊躇もなく転職したのだろうか?
 でもジャズ界はJ.J.ジョンソンを放っておかず、2年間後の1954年、デンマーク生まれのトロンボーン奏者、カイ・ウィンディングと双頭コンボを組んでジャズ界に復帰。洗練され聴きやすいサウンドの”Jay & Kai”は大人気を博し、商業的に大成功します。その時期のレギュラー・ピアニストがディック・カッツさんです。
 “J&Kai”は音楽的方向の相違から1956年にコンビを解消しますが、その後も繰り返しリユニオンしていて、私もAurex Jazz Festival(’82)で、J&Kaiの生演奏を楽しむことができました。下のYoutube動画は当時TV放映されたものです。
 コンサートでは私たちの予想に反して、J.J.ジョンソンよりもロマンス・グレーのカイ・ウィンディングの方が溌剌として沢山拍手をもらっていました。よもやその翌年にカイ・ウィンディングが亡くなるとは思ってもいませんでした。

*曲はおハコの”It’s Alright With Me “トミー・フラナガン(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
 え?トミーのソロを半コーラス聴いただけで満足だから、もう先を読むのがしんどいって?
そりゃそうですね!
 じゃあ続きは数日後に!
 今週末は明日17日(金)が末宗俊郎(g)3、そして18日(土)がThe Mainstem!
お勧め料理は定番”牛肉の赤ワイン煮込み” です。
Enjoy!

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