ジミー・ヒース自伝を読みながら・・・(1)

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 台風が去り、朝晩少し涼しくなったような気がしますね。エアコンよさらば、ビールのがぶ飲みよさらば…
 そして今日はジョージ・ムラーツ(b)の誕生日、兄さんおめでとう!!お祝いで飲みすぎていないかが心配ですが。
 さて、11日(土)のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」には、ジミー・ヒース(ts,ss)のアルバム、『New Picture』が登場!
 ジミー・ヒースさんと初めて会ったのは’83年、OverSeasがアジアビルに引っ越した時のヒース・ブラザーズ(!)のコンサート。良かったな~!皆に聴かせてあげたかった~!
 最近電車で読みふけるジミー・ヒースの自伝”I Walk with Giants”には、その名のとおり、ジャズの巨人達がキラ星のごとく登場し、波乱万丈の人生の物語は、読み進むたびに感動の連続です。
 講座のまえにジミー・ヒースのバックグラウンドを少しまとめておきますね!
<兄弟愛の街 フィラデルフィア>
book_300.jpg  ジミー・ヒースは1926年10月25日、ギリシャ語の「兄弟愛」から名づけられたペンシルバニア州の都市フィラデルフィアで生まれた。いみじくもお兄さんはMJQのパーシー・ヒース(b)、弟さんは、最後のトミー・フラナガン3のドラマーとしても、また長年のOverSeasの常連様ならご存知!何度もコンサートやプライベートで来てくれたアルバート”トゥティ”ヒース(ds)、全員がジャズ史上燦然と輝く天才ミュージシャン。よく比較されるのは、ハンク、サド、エルビンのジョーンズ・ブラザーズで、こちらも天才揃いですが、個々の名声を確立した後で兄弟として音楽活動した姿を実際見ているせいか、より「兄弟」の絆を感じます。
HeathBros_.jpgオーラ溢れるヒース・ブラザーズ!左からパーシー(b)、ジミー、トゥティ(ds) 
 フィラデルフィアは独立戦争中から黒人のコミュニティ(free black community)を持つ大都市で、現在も人口の4割強がアフロアメリカンの人たちだそうです。ヒースの両親は南部ノースカロライナ州の海辺の町、ウィルミントンから幼いパーシーを連れて移住。ジミーの曾祖母は奴隷で祖母は白人との混血であったそうです。子供のころは決して裕福でなかったけれど、両親は慎ましく生活し、子供達(三兄弟と姉のエリザベス)にはありったけの愛情とお金を使ってくれたとジミーは伝記で感謝しています。ヒースbrosのアルバム『Marchin’ On』はマーチングバンドで活動してた亡き両親に捧げたものです。
<家族愛のヒース・ファミリー>
 父は自動車工、母は美容師、二人は身を粉にして4人の子供達を養いました。二人とも音楽好きで、クリスマス・プレゼントとしてパーシーはヴァイオリンを、ジミーとトゥティはサックスを贈られたそうです。ジミーが6歳の時、母親に連れられてデューク・エリントン楽団を聴き、エリントンに声をかけてもらったのが記憶に残っており、後にジミー・ヒースは自分のリーダー作には必ずエリントン・ナンバーを録音するようになりました。
 ジミーがバンド活動するようになってからは、ヒース家の地下室が練習場、地下室でレコード聴いたり、練習した後は、10人でも15人でも、ジミーのお母さんが手料理でご馳走してくれた!それは一流ミュージシャンになってからも続き、「ジミーと一度でも共演したことのあるミュージシャンで、ジミーの家に招待されない人間はいない。」という伝説があります。ジミーのお父さんは、夕食の間にチャーリー・パーカーのレコードをかけ「バードを聴いている間は静かにしなさい。」とミュージシャンたちを注意するほどビバップに敬意を持っていた。そしてご馳走の伝統はお嫁さんのモナさんにも引き継がれていて、私たちもクイーンズのヒース家でおいしい晩御飯をごちそうになったことがあります。ジミーがビッグバンドで大阪に来たときは、タクシー何台も分乗してやってきた大勢のメンバーに、ご馳走作ったこともありました。
<リトル・バード>
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 1943年に親戚の食料品店やバンドでバイトしながら工業高校の木工科を卒業し、そのままフィラデルフィアの地元の楽団に入団しプロとしてのキャリアが始まります。初期のジミー・ヒースの楽器はアルト・サックスでアイドルは勿論ジョニー・ホッジス、ベニー・カーター、それからチャーリー・パーカー!ほぼ同年輩の親友、ジョン・コルトレーンもアルト奏者として出発しています。
 独学のジミーは最初は譜面もろくに読むことが出来なかったのですが、独学でどんどん頭角を現し、’45年に中西部で人気を博したナット・タウエルズ楽団に入団、かなりの給料をもらい巡業を続け、土地の郵便局からせっせと両親に仕送りを続けます。伝記でこの辺りを読み進むと、当時ジャズの中心的フォーマットだったビッグ・バンドの世界は、例えばルーキー・リーグからMLBへとピラミッドになっているアメリカのプロ野球のように、かなりシステマティックに人材が動いていたことが判って非常に興味深い。
 そのツアー中にディジー・ガレスピー楽団に遭遇。ジミーの和声やリズムへの探究心に火が点きます。
 戦争中、数少ない黒人のエリート・パイロットとして空軍に所属していた兄パーシーが故郷に帰還し、ベーシストへと人生を方向転換。彼に呼び戻されたジミーは、20歳の若さで自分の楽団を結成します。バンドメンバーに土地一番の黒人実業家の息子を入れて、うまくビジネス展開して、2年足らずの活動期間でしたが、かなりの人気を博しました。ジミー・ヒースOrch.のサックス・セクションには、若きジョン・コルトレーンとベニー・ゴルソンが加入していたこともあり、彼らは一緒に稽古し、未来へ続くジャズの途を夜を徹して語り合ったそうです。20歳の彼らがどんな話をしていたか聞いてみたかったですね!
 当時の写真はヒース・ブラザーズのサイトにあります。
 ジミー・ヒース楽団時代のハイライトは、’47年にチャーリー・パーカーがフィラデルフィアにやって来た時です。自分の楽器を(多分質入れして)持って来なかったパーカーはジミーのアルトを借りてギグを演り、ジミーの楽団にゲスト出演します。
  「チャーリー・パーカーが吹くと、僕の楽器からあの素晴らしいサウンドが聴こえたんだ!返してもらったアルトを吹くと、バードの魔力が残っているような気がしたが、実際はそうではなかった;ジミー・ヒース自伝」
 地元の若手スター・アルトとして頭角を現したジミー・ヒースはチャーリー・パーカーの再来=“リトル・バード”の名前で各地のミュージシャンの間でも有名になっていました。
<栄光と挫折>
 好調だった自分の楽団は、マフィアがらみのクラブでギャラをもらうことが出来ずにツアー中に破綻、バンドごと人気トランペット奏者のハワード・マギーが引き継いでジミーもそこで活動し、マギーとパリにツアー時にJ.J.ジョンソンや後年、音楽的にも個人的にも親密になるマイルス・デイヴィスと共演しました。
 ガレスピーの番頭格のギル・フラー楽団を経て、’49年、いよいよ念願のディジー・ガレスピー楽団に入団。バンドには、ジョン・コルトレーン(as)や、後にエリントン楽団のスターとなるポール・ゴンザルベス(ts)など錚々たるメンバーがいました。コルトレーンやジミーが、聴衆によりアピールするテナー・サックスに転向を考え始めるのはこの時期です。
 音楽的には大きな実りの時代を迎えるジミー・ヒースでしたが、個人的には大きなトラブルを抱えていました。最初の妻が生まれたばかりの息子(後のパーカッション奏者、ムトゥーメ)を連れて、自分の楽団のピアニストと一緒になるという不幸を忘れる為に、麻薬に深く依存していったのです。そして、’51年にヘロイン中毒が原因で、ディジー・ガレスピーに解雇され、タッド・ダメロンを始めとする多くのジャズ・ミュージシャンがお世話になったレキシントンの麻薬矯正施設からペンシルバニア刑務所へと、坂を転げ落ちるように転落の時代に入っていきます。
 ジミー・ヒースに会ったことのある人なら、まさかこんな聖人みたいな人が刑務所にいたなんて信じられないでしょう。私もいまだに半信半疑です。5年も刑務所に入ってはったなんて、伝記読むまで知らなかった。というか、絶対に面と向かって聞けないようなことが本には包み隠さず書かれていて、そんな悲劇を経験したからこそ、あんな聖人になれたのかと納得しました。その歴史の影には、奥さんのモナの大きな存在があります。
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 この本には、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの「どういうところが凄いのか?」「リハモニゼーションの本質」それに「モード・ジャズの長所、短所」などについて、いままで読んだどんなジャズ評論より説得力ある解説がされているので、いつか翻訳して載せたい。
 私はNYで演奏する銀太くんにお土産としてもらったのですが、この本は新刊で勿論入手可能!英語も比較的簡単なので、読める人はぜひ読んでみてね!講座の日はお店においておきます。
 ジャズ講座は9月11日(土)6:30pm開講!サックスの好きな方、ジャズの名盤と、楽しい解説がお聴きになりたい方、初めての方、ぜひぜひ皆様、お越しくださいませ!
 続きはまた次回に。
CU

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