“Let’s” Talk about Thad Jones(3)

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<ビッグ・バンドの世界へ>
 ’54年、ディジーやブラウニー以上の「ジャズの救世主」として期待を集めたサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団。ミンガスのレーベルと専属契約しながら、偽名で他社に録音し裁判沙汰になるトラブルが一因だったのかも知れません。ベイシー楽団以降、ミュージシャンなら誰もが畏敬するサド・ジョーンズのプレイヤーの資質は、アレンジャーやコンダクターといった顔の陰になってしまうのが残念です。『Detroit NY Junction』など『 Motor City Scene』など、トミー・フラナガンとの幾多の共演作のことは、ジャズ講座の本を読み直してくださいね。
<カウント・ベイシー楽団>
CountBasieMeetsDukeFirstTime1961.jpg サド・ジョーンズがベイシー楽団に在籍したのは、’54-’63までの10年間。バンドのソロイストとして活躍する傍ら、バンドの作編曲も多数手がけました。『Let’s』に収録されている気品溢れるバラード”To You”は、ベイシーとエリントンの二大ビッグバンドの夢の競演盤『First Time』で聴くことが出来ます。
april_in_paris.jpg ベイシー楽団のソロイストとして、最も有名なの演目は、なんといっても”パリの四月”で、アドリブの中に誰でも知ってる童謡”Pop Goes to Wiesel”の一説を挿入したものでしょう。”Pop Goes to Wiesel”は、私と同世代の方は、子供の頃ロンパールームっていうTV番組で、うつみ宮土里おねえさんが「箱の中からジャック君が・・・」って言う時に流れていたメロディとしてよくご存知ですよね!このソロでヒットしたのがサド・ジョーンズの退団の引き金になったのですから、皮肉なものです。
 サド・ジョーンズはベイシー楽団独立の際、ダウンビートにこんなコメントを残しています。
「僕が”April in Paris”のレコーディングでたまたま吹いた短い童謡(Pop Goes to Weasel)の一節が良い例だ。そのレコードがヒットしたものだから、ベイシーはそのナンバーを演る時には必ず、ソロで同じフレーズを入れるように指示した。僕が一体何度そのフレーズを吹いたか判るかい?つくづくうんざりしてしまったんだが、必要不可欠だった。一度、フィラデルフィアで演ったとき、わざと全く違うソロを吹いてやった。そうしたら客席から「パリの四月」を演ってくれ!とリクエストが来たよ。あの短い童謡フレーズがなければ、同じ曲とは判らなかったんだな。それが楽団を辞めた理由のひとつだ。この曲がいやと言うわけじゃないが、もうそろそろ本当にプレイがしたい。今の苦痛からは解放されるだろうし、一旦退団して、柔軟性を取り戻したいんだ。」
 優れたジャズメンを殺すのに刃物は要りません。狭い枠にむりやり押し込めて、同じプレイばかりさせると間違いなく窒息死します。サー・ローランド・ハナは同じ理由でブロードウェイの大ヒットミュージカルを降板し、アキラ・タナ(ds)は「毎日、毎日、同じがたまらなくて」超人気グループのバックバンドを辞めました。
<ドリーム・チーム!サド・メル楽団>
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 サド・ジョーンズが独立した’63年は米国にビートルズ旋風が巻き起こり、ジャズ・ミュージシャンは受難の時期、ヨーロッパに移住した者も多かった。(トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルドの専属になる直前です。)同時に活況を呈するTV局のスタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を稼ぐジャズメンもいました。サド・ジョーンズは、しばらくフリーランスで演奏や編曲の仕事をした後、米国TV三大ネットワークのひとつCBSに勤務、兄のハンク・ジョーンズやベイシー楽団の盟友、スヌーキー・ヤング(tp)はNBCのスタッフ・ミュージシャンとして常勤していました。一方、メル・ルイス(ds)やペッパー・アダムス(ts)たちは、スタジオ・ミュージシャンとしてポップスターのレコーディングに明け暮れていました。つまり多くの一流ジャズメンがツアーに出ずNYで高給を稼ぎ、夜になると本物のジャズがやりたくてうずうずしていたんです。伝説のビッグバンド誕生の第一要因でした。
 もうひとつ直接要因があります。以前、サド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団のアルバム制作に際し、LP一枚分のアレンジを依頼されたのですが、出来上がった譜面は余りにも複雑、「シンプルでスインギーな」ベイシー楽団のコンセプトに合わないとボツにされていたのです。寛大なベイシーは、ジョーンズに譜面の使用許可を与えてくれたので、NYの町でTVやスタジオの仕事で退屈しているミュージシャンたちに声をかけると、ビッグバンドの面子はすぐに集まり、週に一度、深夜リハーサルが始まったんです。スタジオの借り賃は、見習いのエンジニアが練習で録音するのを許可する条件で無料にしてもらいました。集まったのはジョーンズ選りすぐりの一流ミュージシャンばかり!勿論ドラムはメル・ルイス(ds)、創設メンバーとして他に有名なところでは、ハンク・ジョーンズ(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、エディ・ダニエルズ(as,cl)、ペッパー・アダムス(bs)などなど…よだれが出そうなメンツですね。
 やがて噂を聞きつけた業界人が覗きに来て、その凄さに度肝を抜かれます。著名なジャズ批評家、ダン・モーガンスターンはリハについてこんな風に語っています。
「バンドのサウンドは、最初から従来のものと全く違っていた。ひとつはサドのアレンジに起因している。さらにリズム・セクションの使い方が革新的だった。サドの合図ひとつで、ソロのバックのリズム・セクションが出し入れされ、大きなコントラストが醸し出された。」(ディック・カッツさんによるモザイク盤「サド・メルOrch.」のライナーノーツより)
 ジャズ系FMのDJ、アラン・グラントは「こんな凄いバンドなのに、プライベートなリハだけじゃもったいない!」と、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンに掛け合い、一番お客の少ない月曜に出演させるところまでこぎつけました。1966年2月7日(月)初演、バンド名は「サド・メル」でなく「ザ・ジャズバンド」、初日のギャラは一人僅か15ドル!ハンク・ジョーンズやリチャード・デイビスが15ドルのギャラなんて考えられませんよね!さすがマックス・ゴードンは商売人です。蓋を開けてみれば、お客の少ないはずのマンデイ・ナイトがソールド・アウト!評判が評判を呼び、結局毎週月曜に出演することに。以来、メンバー変更を繰り返しながら、数多くのレコーディングを重ね、私の知る限り三度来日しています。来日コンサートの翌日は、陶酔しきった友達が一杯でした。サー・ローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツ、ウォルター・ノリスなどなど、OverSeasゆかりの巨匠もサド・メル卒業生は数多い。『Let’s』に収録される“Quietude” ”Mean What You Say””Three in One”などはバンドの十八番でもありました。’78年、サドが突然脱退して以降、メル・ルイスOrch.となり、メル・ルイスの死後、月曜の夜は、ヴァンガードOrch.が現在もヴィレッジ・ヴァンガードで演奏を続けています。
<別天地コペンハーゲン>
 ’78年、サド・メルOrch.がグラミー賞を受賞した直後、サド・ジョーンズは、家族も仲間も全て残し、何も言わずに単身コペンハーゲンに移住し、ジャズ界を大いに当惑させます。それについては、「女性問題」や「メル・ルイスとの相克」とか様々な噂が飛び交いました。サドをよく知る人は、バンド経営で財産を使い果たしアメリカに留まることが出来なかったと言うのですが、本当だとしたら惨い話です。国務省から冷戦時代のソ連に派遣されたアメリカ文化を代表する楽団のリーダーですよ!クラシックの世界なら、政府や財団の助成金で決してそんなことにはならなかったでしょう。
 コペンハーゲンでは、自己バンド”エクリプス”やデンマークのラジオ局のバンドで活躍、同時に王立デンマーク音楽院で教鞭を取り、現地のミュージシャンに多大な貢献を果たしました。『Flanagan’s Shenanigans』や『Let’s』に参加しているベーシスト、イエスパー・ルンゴールは当時のメンバーですから、サド・ジョーンズ音楽のエキスパートなんです。
 ’85年には再び米国に戻り、ベイシー亡き後のカウント・ベイシー楽団を率い、同年、再来日しています。サドはフリューゲルで最高のバラードを吹き、トランペット・セクションは、今まで何度も観たカウント・ベイシー楽団のうちで最もビシっと充実していたと思いました。厚い胸板で、ピリっとも動かず、完璧なコントロールで吹く姿は、そのまま銅像にして美術館に飾っておきたい位美しかった!しかし、すでに癌に犯されていたことは、誰も知らなかったんです。
 翌1986年8月21日、サド・ジョーンズはコペンハーゲンで死去、僅か63歳でした。娘さんのThediaは小児科医、息子さんのBruce Jonesは音楽プロデューサー、コペンハーゲン時代に、サド・ジョーンズJr.という息子さんを儲け、モーター・シティでなく、コペンハーゲンの墓地に埋葬されています。
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 気品に溢れるデトロイト・ハードバップの創始者、サド・ジョーンズ作品集、”Let’s”by トミー・フラナガン3は6月11日(土)ジャズ講座に登場します。6:30pm- 受講料\2,625 皆様のお越しをお待ちしています!
 おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮 北海道産グリーン・アスパラ添」です。
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