ジャズファン注目:NYキャバレー法と日本の風営法

 8/19付:朝日新聞「withnews」、ジャズ史と関わりの深い「NYキャバレー法」の歴史と、日本の”クラブ”に於けるダンスの規制についての裁判や法改正でマスコミを賑わした「風営法」を比較検討した記事が話題になっています。

 

   朝日新聞デジタル編集部の神庭さんは、風営法の取材を通じ、一般の人が”ダンス”をするという娯楽を規制するNY市の「キャバレー法」に注目、現地で綿密な取材を行った上で記事にまとめていて、”クラブ”やダンスには全く無縁な私にとっても、とても興味深い考察が行われています。

 結婚してからダンス・クラブに行ったのは20世紀、トミー・フラナガンに連れられてイースト・ヴィレッジの”CAT CLUB”に行っただけ。普段はディスコだけど、その夜は、Swing Dance Societyという団体が、メル・ルイス(ds)やジョン・ファディス(tp)といった超豪華メンバーによるビッグバンドで催したダンス・イベントだった。フラナガンは見た目通り、踊るのは嫌い。小さなテーブルに座って、プロのダンサー達が見せつけるアクロバティックなリンディ・ホップそっちのけで、バンドばっかり必死で観察してました…

SCN_0034.jpg 「NYキャバレー法」から派生した「キャバレー・カード法」は、’40年代以降、ビリー・ホリディやチャーリー・パーカー、セロニアス・モンクなど幾多の天才達の生活の糧を奪ってきた法律。人種隔離政策を背景に持つシーラカンスのようなこのキャバレー法にチャレンジを続けるNYの名弁護士、大ジャズファンでもあるポール・シェヴィニーのインタビューや、NY市政史がスカっとまとめられているのも、私たちにとっては嬉しい記事です。

 私がこのブログで紹介したJ.J.ジョンソンのキャバレー・カード裁判にも言及してくださっています。

 ジャズ史の視点からも楽しく読める記事、ぜひご一読を!

メインステムが奏でる「地中海の情景」

  デトロイト・ハードバップの名演目と季節に因んだ”旬” の名曲をお聴かせするメインステム、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)菅一平(ds)の3人が集まって、稽古に没頭してるのが、サー・ローランド・ハナの名作”Mediterranean Seascape (地中海の情景)”です。

 この作品は、”New York Jazz Quartet”時代のもの。このグループは、度々メンバーが入れ替わるのですが、ハナさん、フランク・ウエス(soprano sax)、ロン・カーター(b)、ベン・ライリー(ds)での来日コンサートで、素晴らしい演奏を聴くことができました。レコーディングは上のYoutubeで聴ける『Live in Tokyo』(CTI)と、もうひとつ、ハナさん自身がとても気に入っていたソロ・アルバム『Round Midnight』で演奏されています。今この曲をレパートリーにしている演奏家はいるのかな?

 c58315h7107.jpg情熱のロマン派、ハナさんのオリジナル曲には、いつも物語があります。この「地中海の情景」はアフリカ、中近東、ヨーロッパに囲まれた地中海のハイブリッドな文化圏を音楽で俯瞰する趣き、アフリカのリズム、中近東のエキゾチックな旋律、クラシカルなハーモニー、曲の中に様々な民族の文化と歴史が走馬灯のように現れては消えていき、ジャズに通じる海路を思わせます。イントロはアルゴー船の櫂の音?それともローマ軍の足音か、ハナさんならではの壮大な歴史ロマンが聴こえてきます。

 もう随分前になりますが、OverSeasでコンサートを終え、ディナーを楽しんだ後のハナさんのために、寺井尚之が鷲見和広さん(b)とデュオでこの曲を演奏し、大変喜んでもらったことがあります。あれからもう15年以上の歳月が経ちました・・・

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 ハナさんとトミー・フラナガンは兄弟みたいに仲良しで、弟分のハナさんは、寺井尚之を甥っ子みたいに可愛がってくれました。

 そんなハナさんを偲ぶ「地中海の情景」、ぜひご一緒に聴いてみませんか?

「一般に、音楽は色々なカテゴリーに分割して捉えられている。しかし、私は違う。私にとって音楽とは食物と同じだ。これはリンゴだ、梨だと、いちいち区別をする必要はない。」-サー・ローランド・ハナ(1932-2002)

もしサー・ローランド・ハナ(p)をご存じない方は、このブログに色々と書いています。

戦争とリトル・トーキョーのチャーリー・パーカー

 暑中お見舞い申し上げます。

 下町の市場に買い出しに行くと、商店街のあちこちから「大阪大空襲」「学童疎開」や「学徒動員」といった言葉が聞こえてくる暑い夏、否応なしに青春を戦争と過ごした両親や、さらに祖父母の世代の苦労を想います。

  第二次大戦以前、米国に出かけていった日系移民の方々の主な出身地は、広島、山口、岡山などの中国地方、長崎、佐賀、熊本などの九州、そして和歌山だった。一世の子弟達は、れっきとした米国市民であったのに、原爆をわざわざ広島と長崎に投下したのは何故だったのだろう?

 <キャバレー税とBebopの関係>

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 さて、数年前、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版に、私達がこよなく愛するビバップ芸術は、第二次大戦の産pyramid.ai.jpg物、つまり「キャバレー税」という戦争税の産物であるという説が掲載されていました。

 戦前、ジャズの本道として人気を博したスイング・ジャズはビッグバンド形式のダンス音楽として発展した。楽団は全米津々浦々、星の数ほど存在し、「National Band (全米的な名楽団)」「Territory Band (米国の決まった地方を巡業する楽団)」「Local Band(地元で活動する楽団)」というサッカーや野球のリーグに似たピラミッド型の構成の住み分けが確立し、各層がそれなりの安定収入を確保していた。演奏家は様々な土地を巡りながら、その土地の音楽を吸収し、上の階層を目指し切磋琢磨することによって、ジャズ音楽は有機的な発展を続けたわけです。

 ところが、第二次大戦が勃発すると、ガソリンやタイヤは配給制となり、巡業の要であるバスの調達が困難になります。同時に若手ミュージシャンは次々と徴兵されていった。さらに1944年、「キャバレー税」という連邦税の施行はビッグバンド界へのとどめの一撃となったのです。

 「キャバレー税」は、飲食を含むダンスホールの勘定書の20%。課税対象は、ステージのあるなしに関係なく、とにかくダンスをさせる店、そして、歌を聴かせる店だ。戦争特需の好景気とはいえ、20%という重税で全米のダンスホールは閑古鳥、ビッグバンドを支える営業システムは崩壊してしまったのです。ダンス音楽の代わりに台頭したのが、ダンスせずに「聴く」ことを目的としたスモール・コンボ、しかも歌手のいないインストルメンタル・ジャズ、つまりビバップだったのです。強烈な個性と洗練、ハーレムのヒップな香り一杯の音楽とファッション、ミュージシャンが大きく注目を浴びるようになりました。

charlie_parkerdizzy_gillespie.jpg バップ時代の立役者の一人、マックス・ローチ(ds)は語る。

「誰かが席を立ってダンスをすれば、勘定書きに20%の税金がプラスされた。誰かが立ち上がって歌ったら、また20%。…しかし器楽奏者の発展には素晴らしい時期だったな・・・」
 

 一方で、ビバップは、レコーディング禁止令のおかげで、最良の録音が少ないと言われています。

 できることなら、タイムマシンに乗って’40年代初期にタイムスリップして、52丁目でチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのライブを聴きに行きたいなあ!

 ところがどっこい、もしタイムマシンが出来たって、時は太平洋戦争中。日本人がNYの街を闊歩できるようになるのは、’50年代まで待たなければ・・・

<リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー> 

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 終戦直後、1945年12月、NYジャズシーンの寵児となったチャーリー・パーカー-ディジー・ガレスピー・バンドは本拠地NYの52丁目を離れ、西海岸LA、ハリウッドのど真ん中にある有名クラブ、《Billy Berg’s(ビリー・バーグス)》に8週間出演した。「ビバップ旋風」が西に!地元のミュージシャン達は熱狂したものの、輝く太陽とパームツリーと夜間外出禁止令・・・西の文化は、東のNYとはずいぶん違っていた、というか、遅れていた。結局、娯楽性が少ない先鋭的な黒人音楽は、ハリウッドのリッチな娯楽嗜好と合わず興行は大コケになった。麻薬の調達が困難なために、パーカーが度重なるすっぽかしをやらかしたのも火に油。やっとギグを終え、NYに帰る飛行機に、パーカーの姿はなかった。どうやら飛行機代は、いつのまにかクスリに替わっていたらしい…ディジー・ガレスピーの忍耐もジ・エンド。ジャズ史上最高の名コンビは、袂を分かつことになります。

 パーカーにとっては住み難い土地柄であったはずなのに、彼はそのまま居残って活動を続け、心身ともにボロボロになり、滞在ホテルでボヤ騒ぎ、ロビーに全裸で現れて、カマリロ病院送りになります。この悲劇の舞台がLAの日本人街、リトル・トーキョーであったことは、余り知られていません。でもなぜリトル・トーキョーなんでしょう?

<戦時敵性外国人強制収容>

Instructions_to_japanese.png  1941年12月、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が起こり、翌42年2月、フランクリン・ルーズベルトは大統領令9066号を発令。「特定地域を軍の管理下に置く」という法令の元に、敵性外国人である日系人のほとんどが、「保護」の名目の元、家も財産も放棄させられ、家族離散、コロラドやアリゾナ砂漠など人里離れた辺境地域にある粗末な強制収容所に移送された。その数12万人!鉄条網と監視兵に囲まれた劣悪な環境の中、ある者は、日系人の米国に対する忠誠の証に志願兵として前線に赴き、ある者は日本に引き揚げた。広島で被曝した日系米人の数は3000人に上ると言われています。

 強制収容は最長4年に及び、戦争が終わると収容所は閉鎖、日系人は市民権を剥奪され、着の身着のままで、「解放」された。そこから、元の生活に戻るまで、日系の方々が、どれほどの時間と労力を費やされたのか、想像もつきません。チャーリー・パーカーの滞在した町は日本人のいないリトル・トーキョーだったんです。

<リトル・トーキョー/ブロンズヴィル>

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  元来、ロスアンジェルスは、日系人や黒人といった「特定」の集団の住居所有を制限する居住隔離の町であり、リトル・トーキョーもまた、日系人に特化した人種隔離の町であったそうです。第二次大戦中、戦争特需の好景気に湧くLAには、南部から多くの黒人労働者が流入してきました。戦前から、リトル・トーキョーの南方に位置する、セントラル地区、ワッツ地区が黒人の居住地域として割り当てられていましたが、黒人人口の爆発的な増加で、従shepps-ad-1-31-46.jpg来の地区には収まりきれず、必然的に、日系人が退去させられゴーストタウンとなったリトル・トーキョーの空き家を急ごしらえの生活の場とし、瞬く間に「ブロンズヴィル」という名前の黒人の町に変貌します。

 「ブロンズヴィル」は、治安が悪く、不衛生なスラム街であったと言われる一方、24時間体制のシフトで働く黒人労働者が溢れる町には「ブレックファスト・クラブ」と称し、朝食を提供するという建前で、深夜営業をする非合法クラブが乱立し、ジャズやダンスの娯楽の殿堂として活況を呈します。中でも最も有名だったのは、パーカー-ガレスピーをLAに招聘したkawafuku-menu-1_jpg_515x515_detail_q85.jpg張本人、ビリー・バーグが出資した《Shepp’s Playhouse》で、《川福》という日本料理店であった場所にオープンしたクラブ。コールマン・ホーキンスやTボーン・ウォーカーといった人気ミュージシャンを出演させ、ハリウッドからジュディー・ガーランドといったセレブが通うほど繁盛した。 

 <ザ・フィナーレ>

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 一方、チャーリー・パーカーの出演場所は《The Finale》というクラブ、1944年にオープンしてから、度々経営者が代り、神出鬼没で、店の住所は転々とした。モグリ営業であったことは明らかですが、チャーリー・パーカーは1946年3月ころからハワード・マギー(tp)のバンドに飛び入りし、やがて20才のマイルズ・デイヴィス、ジョー・オーバニー(p)、アート・ファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)とバンドを組んで出演。おかげで《The Finale》はバップの聖地の様相を呈したそうです。『Dilal』というマイナー・レーベルを起こしたばかりのロス・ラッセルは、ここに足繁く通って録音契約を取り付け、演奏の模様はLAやパサデナのラジオ局が中継放送していた。怪しげな『Charlie Parker at the Finale Club and More』というCDはエアチェック盤ですね。

 バードの出演当時、実質的な経営者は兄弟分のハワード・マギーであったと言われています。上の写真でサングラスをかけたアルト奏者がバードです。

 その当時の《The Finale》の場所は、日本文化協会のビルの一室にあり、入り口はOverSeasの裏口のようなビルの廊下にあった。ライブは午前一時より、もとより「ブレックファスト・クラブ」にリカー・ライセンスなどないので、客は酒のボトルを持ち込んで、トニックやソーダや氷を店で買うシステムだった。 

 

 1st_and_San_Pedro.jpg7月29日、『Dial』の録音セッションでLover Manの演奏中、バードの心身のバランスはとうとう限界点に達し、ヒステリー症状に陥りました。

 数時間後、心神喪失のチャーリー・パーカーは、滞在ホテルのロビーを全裸で徘徊し、それどころかタバコの火の不始末で火事を起こし、大騒ぎになり、カマリロ病院に収容されることになります。

 そのホテルは、サンペドロ・ストリートと1st Avenueの交差点にあった「シヴィック・ホテル」、当時、巡業した多くのミュージシャンの滞在地であったと言われていますが、ここも元は「ミヤコホテル」として、リトル・トーキョーを代表する一流ホテルだったのです。

  8週間のはずのLAの滞在は、バードにとって地獄の14ヶ月となったのでした。

 一方、戦後この街に帰還した日系の方々が、それまでブロンズヴィルとして住み着いた黒人コミュニティとの協調と軋轢を繰り返しながら、リトル・トーキョーを再建するまでには、さらに何年もの歳月を要することになります。

 日本の経済白書に「もはや戦後ではない」という文言が入ったのは1956年、米国政府が日系人に対する非人道的な強制収容についての謝罪と倍賞がなされたのは、1980年代以降のことです。 

参考資料:How Taxes And Moving Changed The Sound Of Jazz
 
多人種都市ロスアンジェルスと環太平洋の想像力/南川文里
Little Tokyo / Bronzeville, Los Angeles, California / 日系アメリカ人資料館「伝承」
Memories of Bronzeville, a Forgotten Downtown Era 
Boronzeville, Little Tokyo, Los Angels 
Bronzeville Gypsy: How Charlie Parker lit up Little Tokyo 
Azusa Street to Boronzeville, Black History of Little Tokyo 

Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
Swing to Bop / Ira Gitler (Oxford University Press)