トリビュート・コンサートの前に:トミー・フラナガンの幼年時代

tommy_red4.jpg

<氏より育ち:Breeding Counts More…>

 

  ジャンルに関係なく、どんな音楽や芸能でも、そのパフォーマンスから、「品格」とか「エレガンス」という、浮世離れしたものが、さり気なく漂っているのを感じると、水戸黄門様に出会った町民みたいに、ひれ伏したくなることがあります。

  私が生で見た事のあるジャズのプレイヤーなら、目まぐるしく変動するジャズの潮流の中、”ザ・キング”として、半世紀以上、全ジャズ・ミュージシャンに尊敬されたベニー・カーター(as,tp.comp.arr.その他何でも)や、ジャズ・ヴァイオリンの最高峰、ステファン・グラッペリ、ピアノならジョージ・シアリング、勿論トミー・フラナガンもその一人!これらの高貴な巨匠達は、銀のスプーンをくわえてお生まれになったのかというと、そういうわけでもないみたい。

george_shearing.jpg  例えばシアリングは、英国の労働者階級の出身、父は石炭の運搬人で、自ら貧乏人の子沢山と言い、望まれない9人兄弟の末っ子として生まれた。生まれながら目は不自由で、子供の頃は、毎月借金取りが集金に来ると、帰っていただく役目をしていたと自ら語っている。盲学校に行くまでは、日曜になると、父さんと公園でクリケットの試合を観戦(!)したり、労働党の演説を一緒に聴きに行ったり、母さんは、末っ子の目の不自由さを忘れさせようと、精一杯、家庭を明るくすることに専心した、と楽しそうに語っている。並み居る巨匠ピアニストと共演するクラシックの指揮者達も鳥肌を立てるほどの、天上の調べのようなソフトタッチの演奏は、子供時代に両親から注がれた愛情によって輝いていたのだろうか・・・

  一方、フランスの至宝、グラッペリは幼い時に母親を亡くし、父は第一次大戦に出兵、残されたステファーヌは孤児院で育った。高貴な音楽性に、家族の豊かな愛情はエレガンスの必須要素でもないみたい。
 

では、我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

young_tommy_flanagan.jpgTommy Flanagan(21才,  ’51)、巡業中Ohio州Toledoにて

 

 フラナガンに、時々、子供の頃の話をしてもらったことはあるけれど、その頃は、目の前のフラナガンに夢中で、もっと詳しく聞こうと思いもしませんでした。
  未亡人 ダイアナはトミーが40代の時に結婚したから、NY以前の生活は共有していない。
  フラナガンの生い立ちは、雑誌や書物で、断片的知ることは出来るけれど、インタビューが余り好きでないせいか、なかなか、詳しく語られているものがないのです。 

newyorker-2.JPG  その中で、かなり詳しく両親や子供時代のことが述べられている資料が、“The New Yorker”のアーカイブにあります。ジャズ・コラムを担当していた名ライター、ホイットニー・バリエットがエラ・フィッツジェラルドの許から独立したフラナガンにインタビューした記事(’75 11/20)。インテリ文芸雑誌の代名詞、リベラルにした感じ。カリスマ編集長、ウイリアム・ショーンが采配を振るった時代の古き良き”The New Yorker”の記事、さすがにしっかりした内容です。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

 「私が生まれたのは、デトロイト北東部にあるコナント・ガーデンズという地域で、男五人、女一人の六人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟は今もデトロイトに住んでいて、生家には、今も何人か兄弟が住んでいる。 

  (訳注:コナント・ガーデンズ(Conant Gardens)は、1910年代、奴隷解放主義の篤志家が、アフリカ系の人達に提供した住宅地。第一次大戦後に、フラナガンの両親を含め多くの黒人が、南部から好況に沸くトロイトに移住、この街に移り住んだ。フラナガンの両親達が、ここに初めて教会を建立した。)

 88歳で亡くなった父は、ジョージア州、マリエッタ出身(綿畑の多い地域です。)で、第一次大戦後にデトロイトに移り住み、35年間、郵便配達夫として働いた。父はまっすぐな気性でユーモアに富む人だった。良い人間になるために何をすべきかを、身をもって子どもたちに示した。父と私は瓜二つなんだ。父も禿げで、私も若いうちから毛髪がなかったから、かなり長いあいだ、そっくりだったと言える。母は私がNYに移ってしばらくした頃、1959年に亡くなった。父と同じジョージア州出身だが、母の出はレンズと言う町だった。

  母はアメリカ先住民の風貌を持ち(訳注:トミーの祖父はインディアンだ。)、小柄で身長158センチそこそこだった。生活が苦しくなると、通信販売会社の内職でドレスを縫い、会社が送ってくるサンプル用のはぎれでパッチワーク・キルトを作って生計を助けた。

   私にピアノを続けるよう励ましてくれたのは母親だ。母は独学でピアノを弾いていて、兄のジェイ(Johnson Flanagan)がピアノを弾く姿を、幼い私が真似するのを見て、弾き方を教えてくれた。後に私も、ピアノ教師、グラディス・ディラードについて正式なレッスンを受けた。彼女は現在もデトロイトで教えている。ディラード先生は、私にピアノの正しいタッチや運指、指先の使い方をしっかり教えてくれた。」

  (訳注:Gradys Wade Dillardは、デトロイトで音楽を志す多くの黒人子弟が師事したピアノの名教師、後に音楽学校を開設、地域の職能教育に大きく貢献した。バリー・ハリスもディラード・スクール出身。トミーの兄、ジョンソン・フラナガンは後にディラードのピアノ教室で教えるようになり、カーク・ライトシー(p)は彼の教え子だ。ディラードが最も誇りにした生徒がトミー・フラナガン、彼が7才の時、レッスン中にアドリブを弾こうとするトミーに手を焼いて、「ちゃんと譜面通りに練習させてください。」と両親に釘を刺したという伝説があります。)

Art_Tatum-49.jpg    母はいつもピアノに興味を持っていた。子供の頃に、アート・テイタムのレコードをかけたら、一緒に聴いて、『まあ!これはアート・テイタムじゃないの?』って言ってくれて、私はいっぺんに得意になったもんだ。

  アート・テイタム以外に、ファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソンを聴いた。しかしハンク・ジョーンズは格別だった。テディ・ウイルソンをさらにモダンにした感じで、私には大きな意味があった。バド・パウエルも同様だ。バド・パウエルはクーティ・ウィリアムス楽団時代にデトロイトで聴いた。その頃からすでに彼は”バド・パウエルだったよ!つまり、『何だこれは!?今まで聴いたことがない!』という感じのピアノだったんだ。それからナット・キング・コール!深いニュアンス、パワー、スイング感、物凄い魅力を感じた。パルスとドライブ感たっぷりの独特の音色があったからだ。彼はピアノの音に命を与えてバウンスさせていた。

  私をジャズ界に入り、経済的にひとり立ちできるようになったのは、兄のおかげだ。初めてのクラブ・ギグは高校時代だった。セットの合間に他の人達と付き合うには、余りに子供だったので、休憩中は家に帰って宿題をしていた。…」

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

TommyFlanagan1990_COPYRIGHT_EstherCidoncha.jpg

   フラナガンの言葉の端々から、両親やお兄さんに対する尊敬と感謝の気持ちが伝わってきます。お父さんもお母さんも、決してお金持ちではなかったろうし、立派な学歴ではなかったかも知れないけれど、家族をしっかりと守り、きちんと人生を送った。  フラナガンの兄、ジェイことジョンソン・フラナガンはプロのピアニストとして地元で活躍した。ジェイのお孫さん、スコットはアトランタ生まれ、’80年代に広島で英語教師をしていて、私達を訪ねてきてくれたことがあります。やっぱりトミーと良く似ていました。他の兄弟達は、なんでも教育委員会とか、固い仕事についておられたそうです。  フラナガンのユーモアのセンスは最高だったけど、「業界人」っぽい軽薄なところは全然なかった。

 ただ、広く言われているように「温厚な紳士」とか「控えめな性格」といった印象はありません。確かに「紳士」ではあったけど、家の中では、瞬間湯沸器みたいな気性の激しさと、凄まじいほどの天才のオーラをムンムン漂わせていました。彼のプレイそのままに・・・

piano_tommy_flanagan_autograph.jpg 

 寺井尚之メインステムによる、トミー・フラナガン・トリビュートは11月28日(土)。どうぞお越しください。

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(5) 母ともゑのカレッジ・ライフ

famiry_1.png

アメリカの
国歌うたいて
育つ子に
従い行かん
母我の道

 上の一首はアキラさんの生まれる前の年、夫の任地であった日米開戦の地、オアフ島、ホノルルで詠まれた。戦時中、日本人であるが故に被った様々な苦難を乗り越えたともゑの決意が31文字に凝縮されている。深みのある彼女の短歌には、独特の清涼感が漂っていて、アキラ・タナのドラミングと相通ずるものを感じます。この短歌に感銘を受けた大歌人、斎藤茂吉は 「下の句で、アメリカの国歌を歌う子供達の幸福を願う母の心情が明瞭に浮かび上がる感動的な一首。」と評した。

<よく学び、よく教え>

tomoe_teachingSCN_0006.jpg

 最愛の夫、田名大正を看取り、息子たちを立派に社会に送り出した時、ともゑはすでに還暦を過ぎていた。高校時代のアキラ・タナを鮮烈に捉えたドキュメンタリー映画『マイノリティ・ユース』で、「母は英語を勉強したいと思ってるけど、なかなか余裕がない。」という独白から十年、やっと勉強のチャンスがやって来たのだ。

 
  異国の生活と太平洋戦争、夫と離れ離れで収容所に4年間、その後は家族を支え、早朝から夜中まで27年間働き続けた人ならば、「余裕」ができると同時に、エネルギーが尽き果てて、波乱万丈の人生をフィードバックさせながら余生を送るのが普通ですが、ともゑは違った。真っ直ぐな瞳は曇ることなく、妻として、母として、一人の人間として、思い出を将来の遺産にしようと、まっしぐらに進みます。何十年という苦労の蓄積をエネルギーに変えてしまう力は、一体どこから受け継いだのだろう?それとも、その歳月を苦労とも思っていなかったのだろうか?

 念願の英語習得のため、近郊の州立”フットヒル・カレッジ”に入学したのが61才。 社会人大学生なんてゴロゴロ居る米国でも、毎日バスで通学し熱心に学ぶ熟年学生であり天皇に選ばれた歌人を、コスモポリタンな気風溢れる西海岸は放っておかなかった。しばらくすると、所属大学や傍系の文化センターに請われ、習字や琴といった日本の伝統文化の教師として大活躍するともゑの姿が評判になります。

tomoe_tana_teach_stanford.jpg 左の写真はスタンフォードの”イーストハウス“というアジア文化センターで教えるともゑを報じた新聞記事。「Tomoe Tana: 学生の身でありながら、教える事多く」の見出しの元 これまでの波乱万丈の人生と、歌人としての功績とともに、「ウィークデーはフルタイムで受講と教授を続け、授業に欠席したのはたった一度だけ。毎(土)には、自宅で育てる花を山程抱えて、夫と同胞の墓参りを欠かさない。学生たちは、習字や琴、そして彼女の人生から、多くを学んでいる。  と紹介されています。一流教師であると同時に、幅広い教養と、彼女の人柄が、多くの人々を魅了したようで、これ以外にも、ともゑは地元の新聞にたびたび掲載されている。これらの学業と並行して、短歌活動と、亡夫、田名大正の「敵国人抑留所日記」の丁寧な編纂作業と自費出版を10年間続けているわけですから、彼女のパワーの凄さは、想像もつきません!

 <学問の理由>

tomoe_tana_master_degree.jpg

 ともゑは学業も、自己満足の教養では終わらせなかった。じっくり急がず、6年かけてフットヒル・カレッジを卒業、1979年には、正真正銘の名門校、サンノゼ州立大学に入学し、’82年に学士号を取得した。その頃には、ともゑの英語力は、多くの人々を前に感動的なスピーチが出来るほどになっていました。

 彼女は、LAの国際的スピーチ団体で、日系一世、69才の学士として、「父の日の輝く贈り物」という講演を行っている。

 いったい何故、この年になって学士号を取ったのか?このスピーチで、ともゑは3つの理由を挙げた。

 1. アメリカ市民である子どもたちに付き従うため。
 2. アメリカで幸福な人生を送るために、他の人々と同じ立ち位置に付きたかった。

 3. 最大の理由は19才のときに亡くなった父(享年52才)の遺志に報いるため。
  「私の父は、幼い頃病弱で、小学校5年生までしか学校に通えませんでした。中学に復学できた時、弟と同じクラスで授業を受けるのが苦痛で、学校に行かず、寺に入り学問を受けたのです。出家後は、開拓時代の北海道に赴き人々に尽くし、名僧と呼ばれるほどになりました。父には、国作りには、何よりもまず若者の教育が必要!という信念がありました。私は9人兄妹ですが、父は、さらに10人以上の恵まれない子どもたちを引き取り養育し、実技や高等教育を受けさせました。子どもたちの中には、日本やドイツで大学教授と成った者、医師となった者も居ます。それでも、父は高等教育を受けられなかったことを終生悔いていました。
 このたび私が頂いた学位は、亡父への『父の日の贈り物』です。」

  ともゑは、別のインタビューで英語習得の目標について、さらに語っている。

  「亡夫は、日記と法話の本を三冊遺しました。私は夫の哲学を子や孫に伝えたい!日系の若い世代は、どんどん日本語を話さなくなっています。私がこれらの本を英訳しなければ、夫の遺産は失われてしまいますから・・・」

 

<アメリカ発:日系短歌史>

tomoe_thesis.jpg

  卒業後、さらに上を目指し、迷わずサンノゼ大学院史学部に進んだともゑは、米国の短歌発展史という前人未到のテーマに取り組んだ。2年後、「The History of Japanese Tanka Poetry in America (アメリカに於ける日系短歌史) 」と題する論文(’85)で、修士号を授与されます。

tomoe_autograph.JPG 借り物ではない筆者自身の英語で書かれたこの論文はネット上でも読むことができます。私は幸運にもアキラさんから紺色の革で丁寧に装丁された元本をお借りしました。(左は本の内側に書かれていたサインです。) 私も時たま文学系の学術論文を読ませてもらう機会があるのですが、ともゑの著作は「修士論文」のレベルを遥かに超越しています。

 「短歌」に馴染のない読者が明瞭に理解できるように、日本書記に遡る短歌の起源や、米国でより知名度の高い「俳句」と比較し、「短歌」という詩形式を定義付けた上で、米国、南米、カナダを網羅した短歌史を明瞭に述べている。

 この論文を読んで、ジャズや短歌、スポーツ、何事でも、それがどんなものか知るには、その分野の名手で愛情と知識のある人に訊くのが一番だという事を改めて実感しました。日頃、三十一文字に全く無縁で無学な私も、この論文を読んで、「短歌」をもっと知りたくなりました。

 本論中、とても興味を惹かれたのは、米国に於ける短歌運動のパイオニアが泊良彦(とまり よしひこ)という植木屋さんだったというところ。泊は50年間、庭師として労働する傍ら、戦前から短歌会を主宰して、この詩芸術を大いに広めた。彼の非凡なところは、自分の派閥にこだわらず、他の短歌サークルからも広く秀作を集めて歌集を編纂したこと。収容所時代、自らガリ版で短歌を印刷、他の収容所にも回覧し、短歌運動を展開、先の見えない苦難の日々の中で、短歌は多くの日系人、日本人の心の拠り所となっていったというのです。そして、この時代が分岐点となり、日系人短歌の芸術性が飛躍的に向上したことを、ともゑは、様々な実例を挙げて論証していきます。「受難の時代が、芸術の開花を促す」というのはジャズの歴史と共通していて、ともゑの論文にすごく共感しました。

 論文には、ルシール・ニクソンなど、非日系アメリカ人の短歌運動史や、研究者でなくても、興味をそそるアペンディクスもたっぷり!活動範囲が広すぎて、今だ実態が掴めない伝説の文芸評論家、木村穀が企画した日系人短歌集、日米の新聞雑誌に掲載されたものの、本としては未出版の「在米同房百人一首」を、一挙日本語と英訳を合わせて付録にしている。そこには、短歌翻訳に関する留意事項もあり、翻訳者としても見逃せないコンテンツ満載の論文でした。

 ともゑはこの論文を亡き親友、ルシール・ニクソンに捧げ、結論で「短歌を詠む」という行為について、ジャズの即興演奏に通ずる見解を述べている。

 「短歌創作は決して特別な作業ではない。短歌はその人の人生であり、感じたこと、思うこと、それらが短歌として日常的に湧き上がるものである。(デューク・エリントンだ!)・・・短歌創作は、人間の隠れた一面であり、日々の仕事と離れた余暇の世界、短歌にはそれぞれの平安と喜びが表現されている。
 私は短歌が、それぞれの人の、様々な心の模様を表現するかたちであることを、このアメリカの、内に秘めた詩心が花開かずにいる未知なる人たちに知らせたい。この研究が、全人種の未知なる詩人たちにとって、真の美しい人生を送る一助になることを、そして日系人短歌活動が、アメリカの未知なる詩人たちに受容されることを祈る。」

 前人の研究や参考文献はほぼ皆無、ゼロから論拠と考察を行って自説を構築した短歌論、一体、ともゑはどれほどの努力と時間を費やしたのだろう?出来上がったアメリカの日系短歌史は、あくまで清明な筆致で、気負いや自己陶酔の痕跡は一切見つからない。でも、クリスタルで論理的な考察の行間には、短歌に貢献した亡き同胞や親友への愛が溢れていた。私は学術論文を読んで初めて泣きました。 

 この素晴らしい論文から6年後、1991年4月、ともゑは77才で、最愛の夫の元へ旅立ちました。

 ともゑの死後、遺族と友人は、ともゑの母校、“フットヒル・カレッジ”に「Tomoe and Daisho Tana Scholarship」という奨学金制度を設立。日米の相互理解の促進を目指す学生たちを支援しています。

 田名大正、ともゑの歩んだ稀有な人生、私も、このパーフェクト・カップルが差し出したバトンを受け取るために、これからも二人の歴史を調べていきたいと思っています。 ともゑさんのように、あせらず、ゆっくりと。

(この章了)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(4) 母ともゑ:愛と気骨の人

akira_2.png

  意外にも、アキラ・タナは高校時代に、教育用の短編ドキュメンタリー映画に主演しています。映画のタイトルはズバリ“Akira( 照)”(BFA Education Media, ’71)で、アメリカの様々な少数派に属する若者の青春像を描く”Minority Youth”というシリーズの一編。日米二つの文化の間で戸惑いながらも、アイデンティティを確立していく日系人少年、アキラさんの姿や、両親との日常生活が描かれていて、15分の短編ながらとても心を打たれました。

映画の中で、少年時代のアキラ・タナは母、田名ともゑについてこんな風に語っています。

 「母は長い間、よその家の掃除や庭仕事をするメイドをして、僕たち家族を養ってきた。その合間に短歌を創っている。朝早くから起きて、夜中まで台所で皿洗いをやっている。母がどうやって時間をやりくりしているのか、僕にもわからないほどだ。母は結婚するまで日本で教師をしていた。だけど、英語がうまくないから、こっちでは教えられない。英語をちゃんと勉強したいと思ってるんだけど、その余裕がないんだよね。」
 アキラは日本人らしく謙遜して、お母さんのことを語ったのでしょう。実のところ、ともゑは、すでに「Tanka Poetry」として北米に大きく広がる短歌運動の担い手の一人でした。後には、「英語の習得」どころか、日米の短歌史に関する素晴らしい学術論文(もちろん英語で)を発表して修士号を取得しています!日本には、世界に誇る美女や芸術家、偉人も沢山いるけど、私は、ともゑさんのような人生の歩き方をした女性は、他に知りません。

<家政婦、青い目の歌人を育成する>

tomoe_3.png(田名ともゑ1913-1991)

  戦後、晴れて家族一緒の暮らしを再開したともゑは、仏に仕える病弱な夫と、食べ盛りの幼い子供たちの生活を支えるために、家政婦として、様々な上流家庭に出入りしました。アキラさんは、1952年、戦争を知らない末っ子としてサン・ノゼで生まれパロ・アルトで育っています。一家がパロアルトに落ち着いた頃、ともゑは、地元の教育委員会の役員であったルシール・M・ニクソンという女性宅で、毎週掃除をすることになります。このニクソン女史は町の名士、詩人でもあり、GHQ日本占領時代、少年時代の平成天皇(明仁親王)の家庭教師となったエリザベス・ヴァイニング夫人の親友でもありました。ニクソンがともゑを雇い入れたのは、このヴァイニング夫人の推薦で、おそらくは天皇の歌会始に選ばれたことを知っていたからかも知れません。


 ある日、ニクソンが、ともゑに自作の詩を見せると、「あなたの詩は日本の短歌ととても似ていますね。」と言われた。どこまでも嘘のない誠実な瞳を持つともゑの言葉に、ニクソンの知的好奇心は否応なく刺激されます。たちまち二人は意気投合!いつしか、女主人が在宅している時は、ともゑが掃除機を動かす暇はなくなっちゃった。ともゑは家庭教師として、彼女に請われるまま、日本語と短歌を教えることになり、掃除は彼女が留守の時しかできなくなってしまったのだそうです。
 いつしか、二人は無二の親友となり、「日本書紀の時代から受け継がれてきた独自の詩形式、短歌を米国に広めよう!」という共通の目標を持つようになりました。英語の短歌創作、在米日本人の詠んだ短歌の味わいを、そのまま生かした英訳、という課題に取り組み、パロアルトの公立小学校のカリキュラムに短歌を導入するという事もしています。ニクソンは、一方で、日本語による短歌創作にも励みました。

lucileAS20140124002490_comm.jpg 1957年、ニクソンは日本でも大注目されることになります。新年の宮中歌会始に彼女の作品が見事選出されたのでした!高額な渡航費にも、地元有志や短歌会から寄付が集まり、ニクソンは儀式への参列をすることに!その年の歌の御題は「ともしび」で、ニクソンの歌は日本への想いを綴ったものでした。

「あこがれの
うるはしき
日本法隆寺
ひるのみあかし
いつまたとはむ」
(大意:私は憧れの日本にやっと来ています。法隆寺に入ると、昼間からともされる灯明に、浮かび上がる荘厳な伽藍の様子に心打たれます。いつかまた、この光景を見ることはできるのでしょうか・・・)

 昭和天皇より「日本と米国の文化の懸け橋になってください。」とお言葉を賜ったニクソンのニュースは「青い目の歌人、宮中歌会始へ!」と、当時の日本のメディアで大きく報道されました。 (左写真)

 8年前、同じように選出の光栄に浴したともゑは、宮中に参じることはできなかったけれど、親友の快挙を自分のことのように喜んだのでしょう・・・

 この後も、二人は自分たちが英訳編纂した短歌を一冊の本にして出版しようと仕事を続けます。この計画が成就する目前の’63年、ニクソンは鉄道と自分の車が衝突するという事故によって不慮の死を遂げ、彼女が保管していた校正原稿が紛失するという憂き目に遭ってしまいます。

 でも、ともゑは決してくじけなかった。

<友情と不屈の精神>

 ともゑは、ニクソンの死によって失われた校正原稿を、独力で復元し、英語で読め4193CUpobbL._SY344_BO1,204,203,200_.jpgる日系人短歌集『Sounds from the Unknown (未知の響き)』として出版にこぎつけ、ニクソンへの追悼としました。一言で「復元」といっても、パソコンもワープロもない時代、それがどれほど忍耐力と知力の要る大変な作業であったのか・・・想像することすらできません・・・

 ともゑの情熱は、衰えることなく、1976年には、亡きニクソンの短歌と彼女の伝記を『Tomoshibi』という本にして、自費出版を成し遂げます! この本に感銘を受けたのが、アーカンソー州立大の教授で詩人でもあるウェズリー・ダンで、『Tomoshibi』は、彼の授業の教科書として採用されます。ともゑの友情が、短歌をひとつの文学スタイルとして最高学府に認知させたわけです。これらの出版物の収益は、さらに夫の「勾留所日記」4巻の自費出版資金にもなっていきます。

  51549-TWJGL._SL500_SX314_BO1,204,203,200_.jpg これらの短歌集にせよ、夫、大正の「抑留所日記」の編纂にせよ、どの作業も途方も無い労力と心配り、そして時間が必要です。どの仕事も、自分の功名のためではなく、短歌への愛情、夫や親友への愛情、そして後の世代へ伝えたいという不屈の熱意によって実現したものばかり。彼女の愛の大きさと、しなやかで鋼のように折れない意志に、ほんとうに心を打たれます。

 もし、私が入稿寸前に、パートナーと原稿の両方を失ってしまったら、どうしただろう?

 もし私が、朝から晩まで、家族の世話と、他のお宅の掃除に明け暮れていたら、短歌の創作だけでなく、他人の作品まで愛情をこめて、英語で編纂することなんかできただろうか?

 田名ともゑさんの愛の力は底知れないほど凄い!

  そして、映画でアキラさんが語っていた、ともゑの「英語習得」の熱意もまた、息子達への深い愛に根ざしたものでした。末息子のアキラさんをハーバード大学に遣り、4人の息子全員が立派なアメリカ市民として独立したのを見届けたともゑは、とっくに還暦を過ぎていましたが、迷わず地元の大学に入学します。(つづく) 


 Special thanks: 短歌の大意について助言してくださった Wakamiya Makiko様、ありがとうございました!

秋のトミー・フラナガン・トリビュートは11/28(土)に!

tribute _27th-2015.jpg 毎年3月と11月に開催するOverSeasの恒例ビッグ・イベント、「トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート」、秋のトリビュート・コンサートを11月28日(土)に開催します。

 毎回、フラナガン生前の名演目をずらりと並べてお聴かせするのは、寺井尚之(p)メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)。寺井尚之は、すでにプログラムの準備に入り、皆さんにお楽しみ頂けるよう、ザイコウ、イッペイと共々、稽古を重ねる毎日です。それにしても、このトリオは、本当に稽古が大好き。本番をどうぞ楽しみにしてください!


 フラナガンが亡くなってから早14年になろうとしています。トリビュートでお聴かせする演目の数々、フラナガンのアレンジを引き継ぐ者は、ここ大阪の寺井尚之だけになってしまいました。 ピアノを初めて60年、フラナガンと出会って40余年、寺井の愛情と情熱は、色褪せるどころか、燃え盛るばかり!それに応えるように、愛器のピアノの音色も、粒立ちと輝きを一層増して、生音を聴きに来てくださるお客様を驚かせています。

 初めてのお客様も大歓迎です。ぜひデトロイト・ハードバップの真骨頂を聴いてみてくださいね!

 前売りチケットは当店にて好評発売中です!

a0107397_23132084.jpg=第27回 Tribute to Tommy Flanagan=

日時:2015年 11月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)