左:デューク・エリントン(1899-1974) 右:ビリー・ストレイホーン(1915-1967)
3月26日は28回目のトミー・フラナガン・トリビュート、ここ何週間もの間、寺井尚之以下The Mainstem Trio(宮本在浩 bass 菅一平 drums)一丸となって、フラナガン三昧のプログラムを順調に仕上げているところです。
公私共に、色んな行事と用事が舞い込んで、それなりに充実した毎日でしたが、気が付くと、もう3月後半!ご無沙汰で~す。書きたいことは山程あるのに、長らく時間が作れませんでした。
さて、今回は、トリビュート前のお楽しみ、トミー・フラナガンが子供の頃から心酔し、生涯愛奏した名曲群を生み出した二人の天才、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンの関係と、途方も無くアンビリーバブルな「共同作業」について語られる神話の数々を。トリビュート・コンサートでも、二人の名曲が一杯聴けます。
<二人の出会い:神のプレゼン>
デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、この二大天才の共同作業ほぼ30年に渡って続きました。かつてエリントンは、ストレイホーンの存在について、こんな風に説明しています。
「彼は私の右腕であり、左腕、私が見えないものを見通してくれる目だ。私の頭脳には彼の脳波が流れ、彼の頭脳には私の脳波が流れている。」
ベターハーフ・・・そう言えば、ギリシャ哲学の授業で習ったなあ、古代の哲学者プラトンは、対話集「饗宴」で愛とエロスとは、原生時代に神によって切り離された、自分の半身を求める行為で、その方割れは異性に限らないと。
二人の年齢差は16才、エリントンが、19世紀末の黒人社会の中では、比較的裕福なお坊ちゃん育ちであったのに対し、ストレイホーンは、当時どんな家にもあったとされるピアノすらない貧しい家庭に生まれ、アルバイトに明け暮れながら音楽の勉強をした苦労人だった。
ハイスクール時代から、仲間内では”天才くん“として有名だったストレイホーンがエリントンの音楽に出会ったのは18才のとき、映画館で観たスリラー映画『 Murder at the Vanities/ 邦題:絢爛たる殺人』のワン・シーンだった。リストのハンガリー狂詩曲第二番を堅苦しく演奏するクラシックの舞台に、突如エリントン楽団が登場、リストのこの曲で強烈にスイングし、喝采をかっさらうという派手なレビューの場面。
ストレイホーン少年は、その華やかさにうっとりしながら、エリントン楽団が発するコードの構成音が判別できずに悩んだ。そこが天才!いつの日かエリントンに会ってみたい!あのコードが何か訊いてみたい!そんな夢を持った。3年後の或る冬の日、その夢は思いがけないかたちで叶うことになります。ストレイホーンの才能を認め、世に出ることを応援してくれたバンド仲間の父親が、エリントンの興行の面倒を見ていたガス・グリーンリーというピッツバーグの黒人社会の大親分で、掛け合ってくれたのです。
「愚息の友達に、ちょっと出来る子が居てね、いい曲を書くんだ。実際モノになるかどうか、わしには判らんので、ちょっと見てやってくれないかね。」
きっとエリントンに、こんなセリフは耳にタコだったはず、当代随一のエリントン楽団に入団したいミュージシャンは、有名無名、自薦他薦に関わらず、ワンサといて、行く先々で、ありとあらゆるコネに頼って、オーディションを請われていたはずですから。
ともかく、ピッツバーグの劇場に招待されたストレイホーンは、精一杯の一張羅を着こみ、書きためた自作の楽譜を抱え、幕間にエリントンの楽屋を訪問した。
折しもエリントンは、付き人達にかしずかれ、仰向けになって、縮れっ毛を伸ばす”コンク”と呼ばれるストレートパーマ中、液が目に染みるので、胸ときめかせて挨拶する青年の姿を見ようともせず、目を閉じたまま、こう言った。
「そこのピアノで何か弾いてよ。」
ストレイホーンは、ピアノで自作を弾き語りし、たった今エリントン楽団が演奏したばかりのアレンジと、その曲に対する自分なりのアレンジの弾き比べをして聴かせると、エリントンはベタベタの頭のまま、ガバッと起き上がって、あの大きな目を見開いて、まじまじと、この青年を上から下まで見つめ、側近中の側近、ハリー・カーネイに立ち会うよう、付き人を走らせた、といいます。
「うちの楽団にピアニストはいらないが、NYに帰ったら、何とか君が入団できるよう、ポジションを考えてみよう。」エリントンは取り合えず、20ドルという大金でストレイホーンに作詞を依頼してくれたものの、それ以後はなしのつぶて、もうこうなったらNYに自分から行くしかない!数カ月後、ストレイホーンはエリントンを訪ねて、NYに赴きます。“A列車で行こう”は、エリントンからの連絡を待ちながら、まだ見ぬハーレムへの思いを綴った作品だったのです。
<エデンの園で>
左:315 Convent Ave.:ストレイホーンが住んだハーレムのアパート
エリントンは単身やってきたストレイホーンを住み込みの弟子(トミー・フラナガンは「書生」と読んでました。)として迎え、息子のマーサー・エリントンや娘のルースと家族同然、ハーレムの自分のアパートに住まわせ、演奏現場に付き人として同行し、エリントン・サウンドがどのようにして作られていくのか?各楽団員達の個性の活かし方や、音楽の組み立てかたを、自分の背中から学ばせたのです。
1930年代終盤、ペンシルバニアの田舎町からNYにやってきた20代後半の青年、ストレイホーンは、黒人文化のメッカであるハーレムのど真ん中で、超ド級のエリントン芸術を、空気のように吸い込んで、自分の中に取り込んでいきます。折しも、ハーレムではビバップが産声を上げていた。ストレイホーンはエリントンのスコアを吸収すると同時に、《ミントンズ・プレイハウス》でディジー・ガレスピーやセロニアス・モンク達が繰り広げる音楽の実験にも足蹴く通い、ジャムセッションに参加しています。そして、その当時は「罪」であった彼の同性愛嗜好を受け容れてくれる知的で富裕なソサエティも、大都会NYにはあったのです。
エリントンの庇護の元、彼の陰で、自分の名前を表に出さないことと引き換えに、ストレイホーンはゲイであることを隠さずすんだのかもしれません。彼の匿名性と自由は、皮肉にも表裏一体のものになっていた。20代の若さで、芸術の花を開花させていくストレイホーンにとって、これ以上の幸せはない。ハーレムは彼にとってまさに「エデンの園」だった。彼が自作品のクレジットをエリントンに譲らなければ、莫大な「著作料」が自分の手元に入ることを知ったとき、そこはエデンの園ではなくなってしまうのですが・・・
<神々の共同作業>
さて、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーン、二人の天才の共同作業とは、一体どんなものだったのでしょう?エリントニアを隅々まで知りつくすトミー・フラナガンは、かつて私達にこう語ってくれました。
「どれほど巧妙に作っても、ストレイホーンがペンが入れた場所には自分の<スタンプ>がちゃーんと押してあるんだよ。」その言葉の後で、すごく得意そうに、子供みたいな笑顔を見せたのが忘れられません。
楽団で実際に彼らのスコアを長年演奏してきたジミー・ハミルトン達も、同じような事を証言しています。でも、彼らのように飛び入り優れたミュージシャンでなく、資料に頼る研究家には、正確に言い当てるのは不可能らしい。何故ならこの二人、手書き譜面の筆跡も、区別がつかないほど似ているのです。
また、この二人の共同作業は、同じ机で同時に行われる、というようなものではありませんでした。エリントンが年中バンドと一緒に世界中を飛び回り、遠隔地からストレイホーンでに簡単に指示のみで創作させた。ドラフトをファックスやメールで送るなんてありえない時代、またこの二人にはそんなことは必要じゃなかった。たまに同じホテルの部屋にいたとしても、エリントンが書きだしたスコアを、彼が仮眠したり食事している間にストレイホーンが書き続ける、そしてストレイホーンが寝ている間にエリントンがまた書く・・・そんな風にして行われました。
―初期の共同作業
ストレイホーンが新入りの頃は、楽団ではなく、小編成コンボの編曲や、歌手達のアレンジといった作業が主で、エリントンは煩雑な雑用をストレイホーンに任せて浮いた時間を、オリジナル曲の創作に当てることができたのです。その時期の、ストレイホーンのアレンジで最もヒットしたのが、美男の歌手ハーブ・ジェフリーズが歌って大ヒットした”Flamingo”(1940)、やはりストレイホーンらしい印象派的な香りが漂います。同年、エリントンがヨーロッパ・ツアー中に書き起こした作品でボツにしたものを、ストレイホーンが手を入れたのが”Jack the Bear”、モダン・ベースの開祖としてジャズ史に残るジミー・ブラントンの十八番として人気を博しました。
―円熟期
二人のコラボが成熟期を迎えるのは、ストレイホーンが一旦エリントンの元を離れ、再び戻ってきた1950年代です。この当時、エリントンは「組曲」の創作期を迎え、さまざまな音楽祭で書き下ろしの「組曲」を演奏することで、他のジャズ・バンドと一線を画しました。それもまたストレイホーンという頼もしい共作者が居てこそ、できたにに違いありません。この時期のコラボは枚挙にいとまがありません。一例を挙げると<The New Port Jazz Festival Suite(1956) >、シャークスピア音楽祭のための組曲<Such Sweet Thunder(1957) >、初めてストレイホーンがジャケットに登場した<くるみ割り人形(1960)>、ポール・ニューマン主演、エリントンも出演したジャズ映画、<パリ・ブルース(1960)>、<極東組曲(1964-66)>と、大作がズラリと並びます。
遠隔地で二人の神コラボはどのようにして行われたのでしょう?1962年の”ダウンビート“誌に、ストレイホーン自身による、貴重な証言が遺されています。
「僕たちが電話によって、そのように仕事をするのか、お話しましょうか。3年ほど前、NYの<グレート・サウスベイ音楽祭>で演奏の予定がありました。そこで、デュークは主催者に新曲を作る約束をしていましてね、ツアー先から長距離電話が来ます。『いくつかのパートを書いたから』ってね。音楽祭は数日後、本番まで2,3日しかないんです。彼が電話口で思いついたパートをざっと説明してくれて、キーとか、各パートの関わりなど、いろいろ話し合います。そして、彼が僕にこうしろ、ああしろと指示するんです。で、言われたとおり、当日僕が言われたパートの譜面を仕上げて、会場に持っていきます。リハーサルの時間?そんなものありません。デュークには、読みやすい簡単な譜面だし、演奏したことがなくても、すぐ判るよと言っておきます。
そうこうするうちに本番が始まります。そのとき、僕の書いたのは、真ん中のパートです。実際の音も、もちろん、デュークの書いたパートも知らないし。聴いていないんです。とにかく、その経緯を知る関係者と一緒に客席に座って演奏を聴きました。僕の書いたパートに続いてエリントンの書いたパートが演奏されると、僕たち関係者は大爆笑してしまった。全く聴いていないのに、僕の書いたパートが、エリントンのパートの発展形になってたんです!!舞台を見上げると、エリントンも同じように大笑いしてました!まるで二人が一緒に並んで書いたみたいだった、というよりむしろ、一人の作曲家の作品になっていたんです。 知らないうちに人の心の中を覗き見ているようで、妙な気持ちになりました。まるで魔法みたいだった。」
エリントンはストレイホーンを「高尚(Sophisticated)」と評し、それに対して自らを「粗野(Primitive)」と評しました。でも、その役どころは変幻自在に入れ替わり、陰陽合わさって完璧な美の世界を創り上げました。
ストレイホーンはエリントンの天才に埋もれて、その翼の下で自分の才を思う存分伸ばしていった。やがて、その関係が悲劇を招き、そのことによって、二人の芸術は一層円熟したようにも見えます。
今回のトリビュート・コンサートでは、ストレイホーンが終生愛奏した名曲宮本在浩の弓の妙技をフィーチュアした“Passion Flower”、そして二人の共作の白眉、”Sunset and the Mocking Bird”がお楽しみになれますよ!
参考:A Biography of Billy Strayhorn / David Hadju
Me and You / Andrew Homzy
全米人文科学基金HP In Ellignton’s Shadow/ Scott Ethier
The Billy Strayhorn Suites / Village Voice 1982 ジャズ特集より