左から:ホレス・シルヴァー、ピーウィー・マーケット、カーリー・ラッセル、アート・ブレイキー、ルー・ドナルドソン、クリフォード・ブラウン
アート・ブレイキー・クインテットのアルバム<A Night at Birdland(バードランドの夜)>(’54)に収録されたピーウィー・マーケットのこんな名司会ぶりが収録されている。
「レディーズ&ジェントルメン!皆さんご存知かと思いますが、今宵、<バードランド>では、なんとブルーノート・レコードが、ライブ録音を敢行いたします。お客様が色んなパッセージに拍手をなさると、それがそのまんま録音されます!レコードになった暁に、これが全国津々浦々でかかりますと、皆さんの拍手が聞こえてくるんです。だから「今のは僕の拍手だ!僕はこのバードランドの客席に居たんだ。」って自慢できますよ。
それではご紹介いたしましょう。偉大なるアート・ブレイキー!彼のバンドのメンバーは、ピアノ―ホレス・シルヴァー、アルト・サックス―ルー・ドナルドソン、ベース―カーリー・ラッセルでございます。それでは皆さん、さあ一斉に大きな拍手をお願いします!!アート・ブレイキー!」
ピーウィー・マーケット(Pee Wee Marquette 1914-92)は、歴史的ジャズクラブ《バードランド》の名物ドアマン兼司会者として人気を博した。身の丈115cmほどの小柄な体と、洒落たステージ衣装、大きな葉巻、大柄なお客のタバコに火がつけられるようにとても長い炎の出るガスライター(当時は珍しかった)、少年のような甲高い声と南部訛りがトレードマーク、愛嬌たっぷりのピーウィー・マーケットは、上のアルバムの録音当時40才だった。「小人症」であった彼は、一説には女性であったとも言われている。Pee Weeは” おちびちゃん”という意味で、本名はWilliam Clayton Marquette、1914年アラバマ生まれ、元はダンサー兼コメディアンとしてナッシュビルで活動していた。第二次大戦中の1943年、流れ流れてNY にやって来たマーケットは、その姿かたちから、街頭スカウトされて、ナイトクラブの司会業や接待役として働き始め、’49年《バードランド》に入店、クラブが閉店(’65)するまで、名物キャラクターとしてお客さんに可愛がられた。
だからといって、ピーウィー・マーケットがジャズを愛したとか、ジャズメンに好かれた、というような記録は見当たらない。村上春樹のおかげで日本でも有名になった「ジャズ・アネクドーツ」「さよならバードランド」といったビル・クロウのジャズ本にもくりかえし登場しているし、《バードランド》に出演したホレス・シルヴァー、メイナード・ファーガスン、テリー・ギヴス、ジョー・ニューマンといった様々なミュージシャン達がマーケットについての証言を遺している。彼らの話に共通しているのは、マーケットにチップをしつこくせびられた、ということだった。
マーケットはまず出演するバンドのリーダーから数ドルのチップをせびる。そして、ギャラの支払い日に、楽屋を回って各メンバーに50¢ずつ請求した。当時の50¢は、現在の日本では800円くらい、貧乏ミュージシャンには結構な金額でした。もしチップを払うのを拒否しようものなら、マーケットはそのミュージシャンの名前をわざと間違えて紹介した。例えばホレス・シルヴァーは”Whore Ass Silba (売春婦のケツのシルバ)”、ポール・デスモンドは”バド・エズモンド”といった具合に、ミュージシャン顔負けのアドリブ力を発揮したといいます。いやがらせに辟易してチップを渡せば、その夜からきちんと名前を紹介してくれる。まさに海千山千のプロだった。
可愛い容姿と裏腹に、護身用のジャックナイフを持ち歩き、新人ミュージシャンには高飛車で、ヴァイブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンに至っては葉巻の煙を顔に吐き掛けられ「今すぐ楽器をたたんで帰りやがれ!」とスゴまれたこともあったらしい。そんなわけで、ミュージシャン達はマーケットのことを名前ではなく”Midget(小人)”と陰で呼んでいた。その中で比較的マーケットと親しかったのが、カウント・ベイシー楽団の面々で、”バードランド・オールスターズ”として一緒にツアーした時には、ジョー・ニューマン(tp)、フランク・ウエス(ts)、ソニー・ペイン(ds)など比較的小柄なメンバー達と自虐志向のレスター・ヤングがマーケットと共に”The Midgets”というチームを作り、エディ・ロックジョウ・デイヴィス(ts)やエディ・ジョーンズ(b)達の大男チーム”The Bombers(爆撃達)”と各地で激しい水鉄砲合戦を繰り広げたという伝説があります。ジョー・ニューマンの有名曲”The Midgets”は、このツアー中に作られたのだった。
仲良くなってもチップは別、マーケットは皆平等にチップをせびった。
或るときレスター・ヤングは、マーケットのしつこさにうんざりして、とうとう彼を怒鳴りつけた。
「うるさいよ。あっちへ行け!この1/2マザファッカー野郎!」
《バードランド》閉店後、マーケットはタイムズ・スクエアの近くにあったお上りさん向けレストラン、《ハワイ・ケイ・レストラン》で客引きをして生活した。往年の名MCぶりを覚えている人が通りすがりに声をかけて、当時のことを訊きたがると、質問一つにつきチップ1$を請求したという伝説が残っている。
1985年、ジャズ・ブーム再燃、この頃マーケットは、深夜の人気バラエティTV番組、『Late Night with David Letterman』にゲスト出演し、《バードランド》時代の思い出話を語った。それから3年後、クリント・イーストウッド監督がチャーリー・パーカーの半生を描いた映画『バード』 で、小人症の個性派俳優トニー・コックスがマーケットに扮して司会ぶりを再現。マーケットはこの映画が自分を「実像からかけはなれた屈辱的な姿に描いた」として、ワーナー映画を相手取り200万ドルの慰謝料を請求する訴えを起こした。この訴えが受理された記録はない。ちょっと請求するチップが高すぎたのかな。