夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(2)

= 余りにもNY的な=

その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドリーズ》の音楽的全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドリー・カニングハムが病に倒れる’80年代後期までと言われている。

 なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。

撮影:阿部克自

  ブラッドリーは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。

 その時間をブラッドリーは「人生で最高のひととき」と語る。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=玉砕のテニアンからナガサキまで= 

 ブラッドリー・カニングハムは、1925年(大正15年)生まれです。戦争中、学徒動員に明け暮れた私の両親より少し上の世代で、戦地に赴いた元軍人だった。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられた。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、息子は唐突な別離を宣告された。ブラッドリーは、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次大戦が始まっていた。

 1943年、ブラッドリーは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というより、徴兵されて陸軍に行かされるより海兵隊に志願したほうがまし、という選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイ経由で、日米の激戦地、玉砕の島として歴史に刻まれるマリアナ諸島のテニアン島へ…そこで、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドリーは上層部の命令を受け、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。彼の堪能な日本語は海兵隊時代に培われたものだった。日本陸軍は入試科目から英語を撤廃したが、アメリカは戦争の先を見据え、敵を熟知しようとしたんですね。1945年4月、研修を終えた彼は沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦時に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない… 捕虜尋問の際、ブラッドリーが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵にとって「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドリーは長崎に上陸する。ホイットニー・バリエットのインタビューで、ブラッドリーは、自分の従軍体験について、かなり仔細に語っているが、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドリーは除隊を決意、翌1946年に帰国し、大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのでしょう。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

 ブラッドリーは、雑誌NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃には「日本という国と、日本人が大好きになっていた。」と語っている。《ブラッドリーズ》を訪れた日本人客に、積極的に日本語で話しかけていたのは、そういう理由があったのですね。 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドリー・カニングハム、彼がデュオという形態を愛したのは、音楽の会話が、生涯癒えることのなかった戦争の痛みを癒やしてくれたからではなかったのかな?

 民間人を含め、おびただしい数の人々が犠牲になった南方の戦地に赴き、敵国後として習得した彼の日本語が、日本から訪れるジャズ愛好家の心を癒すことになったというのは、感慨深いものがあります。

 ブラッドリー「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかった。
 私もこの業界で長くやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

 トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせるばかりだった。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」(Barney, Bradley, Max: Sixteen Portraits in Jazz/Whitney Balliett著より)

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参考文献
  • The New Yorker, February 24, 1986
  • The New Torker, October 11, 1982
  • BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)
  •   The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)
  •   The Bradley’s Hang (Ted Panken)
  • Bradley’s (David Hadju, John Carey)

 ー終戦の日に-

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