アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(2)

「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記 第一巻 (山喜房佛書林 刊)」より抜粋 

   アキラ・タナの両親による幻の日記文学「戦時敵国人抑留所日記」からの抜粋です。アジア系アメリカ文化研究者、神田稔氏のご協力のおかげで、研究者の間で広く引用されている英訳の原文を閲覧することができました。その一部が上の引用文です。大正が「僧侶である」という理由から、FBIに逮捕され、他の日系要人と共に、サンタバーバラ刑務所から「日系人一時勾留所」に移送された直後の記述。その勾留所は、LAのダウンタウンから30kmほど北上した場所で、後に『E.T』のロケ地となったタハンガ(Tujunga)という山間地の「ツナ・キャニオン日系人一時勾留所」でした。アキラ・タナが誕生するちょうど10年前のことです。 

 この短い記述の中に、収容所の気候や、家族との面会の哀しさ、会話に日本語が禁じられるもどかしさが、映画の1シーンのように描かれ、悲惨な歴史の一端を垣間見せてくれます。 

<仏教東漸と家族愛>

ツナキャニオン勾留所内部

  田名大正師は、寺の嫡男や高学歴の、いわゆるキャリア組ではなく、実力で開教使というエリート職に抜擢された僧侶だった。収監されて外界と隔絶するまでは、家族よりも仏への帰依を重んじた人だという。180センチほどもある長身の堂々とした体躯と容貌は威厳を放ち、収容所内でも「聖人(しょうにん)さま」と呼ばれていた。だが、強靭な外見に反し、非常に病弱であったため、収容所での重労働を免除されていたという。
 収容所時代の大正は、戦争が終わった後、この異国の地でどのように仏教を広めようかと思索し、妻と子供の住む収容所の人々のために法話を書き、習字やこれまで叶わなかった英語学習などに時間を費やした。一方、東京帝国大学卒など、立派な肩書を持ちながら、拘留所で野球やギャンブルに興ずる「お坊ちゃん」開教使への批判を日記に綴りながら、大正は苦境の中で前向きな姿勢を崩そうとはしなかった。 

 他の日系一世の人達と同様、大正もまた大日本帝国の勝利を信じ、解放の日を心待ちにしていたのである。ところが1942年ミッドウエ-海戦で日本軍が大敗北を喫し戦況は暗転。そして入所して一年半経ったころ、大正はとうとう結核を発症し収容所内で病院暮らしを送ることになった。隔離された収容所で、更に隔離された大正の日記は、より内省的になり、妻と子どもたちに対する愛情がこれまでにないほど色濃く投影されていく。

 日系人拘留所の助成金プログラムによって行われたアキラ・タナのインタビューによれば、両親は結婚した当初は、お辞儀をして挨拶するほど他人行儀だったということです。皮肉にも見合い結婚した二人の恋は、戦争によって遠く引き裂かれた状況の中、文通という手段を通して、初めて燃え上がりました。日記には、名歌人であったともゑが大正送った短歌が挿入されている。そこに込められた想いが仏の道一辺倒だった大正の心の扉を開き、万葉集の人々のように恋や家族への思いを吐露する日記への変貌していく様子が感動的です。

(抑留所日記 第四巻、p188-189  阿満道尋による英訳を和訳)」

 大正の内面の変容は、一徹な夫を支え続けるともゑの愛の深さと、彼女が送り続けた短歌が大きな役割を果たしている。聡明さと強靭な忍耐力を兼ね備えたアキラ・タナの母、田名ともゑ、米国で短歌を広めた立役者はどんな女性だったのだろう? 

Daisho and Tomoe Tana

うるむ瞳(め)を
日記にはしらせいきつかず読み終りたり汗もわすれて

(『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 250より)
(続く)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(1)

 

寺井尚之とアキラ・タナ
Hisayuki Terai-piano, Akira-Tana-drums May 2024

 サンフランシスコを拠点に各地で演奏活動を行う日系アメリカ人名ドラマー、アキラ・タナさんは現在72才、同い年の寺井尚之との親交は40年余りの長いお付き合いです。
 2024年5月にアキラさんを迎えて行ったコンサートは、一部が寺井の師匠Tommy Flanaganの演目、二部はアキラさんが長い間共演していたテナーの巨匠Jimmy Heathの作品集で、他では聴けないプログラムと演奏内容。ジャズ・ジャイアント、アキラ・タナの衰えを知らない実力と、音楽に対する造詣の深さをまざまざと感じさせる素晴らしい機会になりました。

「戦時敵国人抑留所日記」

 さて、日系アメリカ人二世であるアキラさんは、四人兄弟の末っ子として、戦後に生まれました。お父様、田名大正(たな だいしょう)さんは僧侶で、太平洋戦争前は、サンフランシスコの日本人コミュニティのリーダー的な役割を果たし、お母様のともゑさんは、戦後、宮中の歌会始に招かれたほどの名歌人で、地域の日本文化の担い手です。
 私がアキラさんのご両親に興味を持ったのは、アキラさんのNY時代、彼の自宅にご両親の名が記された立派な書物が数冊飾ってあるのを目にしたことがきっかけでした。それが「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」です。
 それから何年も経ってから、私はこの本の名前と再び出会います。「取材の鬼」の異名を持つ作家、山崎豊子の長編小説『二つの祖国』を読んだとき、の名を、巻末の膨大な参考文献リストの中に見つけ、不思議なめぐりあわせの感覚を覚えました。(以下敬称略)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 11071092_1191582390868490_7635479489105396729_o.jpg

 「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」(田名大正 著、田名ともゑ 編、 山喜房沸書店)は、アキラの父、田名大正が、真珠湾攻撃のその日から、敵国人であるという理由で逮捕勾留された4年間に書き綴った貴重な記録です。戦後、妻、ともゑがその日記を編纂、1976年から’89年にかけて自費出版した四巻の書物は、総ページ数1500頁を越える壮大な日記文学です。現在は国会図書館などでしか読めない希少本、私はアキラさんにお借りしたり、英訳された抜粋で読みましたが、簡潔な文章の中に、宗教人として、ひとりの人間として、不条理な状況に立ち向かう赤裸々な想いが吐露されていると同時に、米国の抑留所にいながらも、大日本帝国の勝利を固く信じていた姿に心を揺さぶられました。
 最近になって、主に米国の仏教研究者がその価値を再発見し、英語版の翻訳作業も進行しているということです。思い起こせば、英語で育ったアキラさんが、猛然と日本語の読み書きを学んだのは、この日記の出版時期と重なっています。

 日本文学研究の権威、ドナルド・キーンは、その日に起こった事実を書き留める欧米の日記とは異なり、書き手の内面を日々記す、日本の日記文学の素晴らしさを事ある毎に説いていました。そして、キーン先生と日記文学との出会いは、第二次大戦中、南方に通訳として赴いた際、玉砕した兵士たちの遺品の中にあった血まみれの日記であったということです。同じ時期、米国の異なる不条理の中で書かれた大正の貴重な日記が周知されないのには、様々な理由があるのですが、それは追って書いていきたいと思います。

「アキラ・タナの父 田名大正」 

田名大正 Daisho Tana (1901-72)

 アキラの父、田名大正(Daisho Tana 1901-72)は、明治34年札幌生まれ、本人は子供時代の事を余り語らなかったということだが、後の研究によれば、貧しい家に生まれ、祖父母に育てられたとされている。尋常小学校卒業後、札幌の東の町、厚別にあった寺の住職に跡取りとして引き取られ、17才で得度(とくど:出家して僧侶になること。)した。

 大正は、幼い時に叶わなかった学問への情熱が消えず、親代わりの住職は、彼の志を汲み、京都にある浄土真宗本山、西本願寺へと送り出した。そこで大正は7年間研鑽を積み、海外での布教活動を担う「開教使」という役職に就く。そして、23才の若さで、台湾、そして米国へ赴任、多数の日系人が働くカリフォルニア、バークレーの仏教寺院で奉職した。

 やがて、三十代後半になった’38年に一時帰国、同じ北海道の寺の嫡男であった同僚の聡明は妹、早島ともゑとの縁談がまとまり、新婚夫婦揃ってカリフォルニアに戻り地域の日系人社会のために法務を続けた。

 この時代は見合い結婚が当たり前、一回り年上の夫の許に嫁いた途端、異国の地に向かったともゑの新生活はどんなものだったのだろう? 里帰りも叶わず、法務の手伝いや家事、出産、育児・・・新婚生活を楽しむ余裕はなく、月日だけが流れたのではないだろうか。夫婦が互いに深い男女の愛情を自覚したのは、戦争によって引き離されてからのことであったそうです。

 渡米して7年、アキラの兄になたる二人の男の子を授かった田名夫妻が、カリフォルニア州北部のロンポックという町で、法務と、日系子弟の日本語教育に勤しんでいた頃、真珠湾攻撃勃発、3ヶ月後、大正はFBIに連行されてしまう。

 FBIは、用意周到に在米日本人のブラックリストを作成し、スパイ行為やプロパガンダ活動を抑止する目的で、日系人社会でリーダーの役割を担う人々を根こそぎ逮捕した。ブラックリストに入っていたのは、日本人会、県人会、在郷軍友会といったグループの会長、日本語学校の校長、日系新聞社の幹部、そして仏教開教使と呼ばれる僧侶たちだ。

Tuna Canyon Camp

 大正はサンタバーバラ刑務所から、日本人の逮捕者が次の勾留地が決まるまで一時的に留め置かれる山岳部のツナキャニオン・キャンプ(上写真)に4ヶ月勾留後、カリフォルニアから1300km東に離れたニューメキシコ州に移送され、サンタフェとローズバーグ勾留所を往来、劣悪な生活環境のため、台湾時代に感染していた結核を発症しながら、終戦まで抑留されます。日系のリーダー達の勾留所は司法省管轄で、一般の日系人転住センターより遥かに厳重な、刑務所のような場所でした。

田名大正、ともゑ夫妻

 一方、排日運動高まる中、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごした。やがて、大統領令9066号が発効され、ともゑは息子たちと共に、アリゾナ州のヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:下左写真)に収容、砂漠の中の施設で、夫と離れ離れの生活を送ることになった。

 それまで当たり前であった日常の生活が、或る日突然に、どうしようもない大きな力に呑み込まれ、家族も財産も故郷の町も失われる、その人々の喪失感と、見えない未来…東日本大震災を契機に、アキラさんが、在米のミュージシャンたちとのバンド『音の輪』を結成し、精力的に被災地への支援を続けた原動力は、家族の歴史と、どこかで重なっているように見えます。(つづく) 

夫の手の我がに触るるとして醒めし目に入るものか星のまたたき 
田名ともゑ
My husband is about to touch my face;

When I awake from that dream, the flickering of stars enters my eyes.