ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(後編)

hank_dizzy.jpgビバップ時代のハンクさんたち―左から:ディジー・ガレスピー(tp)、タッド・ダメロン(p)、ハンク・ジョーンズ、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)、ミルト・オレント(b.、NBCスタッフ・ミュージシャン)’47 William P. Gottlieb撮影

  

  前編で紹介したケニー・ワシントン・インタビューの聴き手は、ニック・ルフィーニというドラマー、現存するバップ・ドラムの第一人者で、自他ともに認めるジャズのうるさ型であるケニーは、ドラム教本のことは知っているけど、ジャズのことは素人同然の彼のために、ハンク・ジョーンズがどんなピアニストかを、ちょっとガラの悪い池上彰みたいに、忍耐強く簡潔に説明してあげていた。ケニーもヤルモンダ、じゃなくて、丸くなったもんだ!

 

hank-jones_bluenote.jpg ケニー・ワシントン:「ハンク・ジョーンズは歴史上最高のピアニストの一人だ。彼は膨大なレコードに参加している。’50年代、彼は引っ張りだこのスタジオ・ミュージシャンだった。名ベーシスト、ミルト・ヒントン、名ドラマー、オシー・ジョンソン(OCジョンソンちゃう!オシー・ジョンソンや!)と一緒にリズム・セクションを組み、時にはギターのバリー・ガルブレイズを入れ、何百枚というレコードに参加した。毎日、色んな相手と、2~4枚ものレコーディング・セッションをこなしたんだ。そして夜になるとライブをしていた。なのに彼らの録音には一枚の凡作もないっ!!ただの一つもだ!マジだぜ!」

 ハンクさんは、関西に強力なパトロンが居て、歯の治療をするためだけでも、関西にやって来た。NYの一流ミュージシャンと強力な信頼関係を持っていた故西山満さんも、盛んにハンクさんを招聘して地元のミュージシャンを加えたコンサートを企画していたから、関西のミュージシャンはハンクさんに接することが多く、ケニーと同じように襟を正した人も少なくないはずです。「(小型電子ピアノのない時代)来日時には必ず、特製の鍵盤を持参し、ホテルの部屋で練習してはった。」「コンサートが終わると、ステージの撤収を、自ら進んで手伝った。」とか、色んな伝説が伝わってきた。 

<若者たちへの言葉>

  ハンクさんは、亡くなる前の年に、ダウンビート誌の批評家投票で「名声の殿堂」入りを果たしました。御年91才!遅きに失した殿堂入りではあったけど、記念インタビューで若い人達へのアドヴァイスを求められ、自分が行ってきた節制と精進について淡々と語った。タバコも酒もギャンブルもしないというハンクさん。もっと若い時なら、愛奏よく微笑んで、沈黙を守ったかもしれない。71歳で亡くなったトミー・フラナガンは「自分の背中を見て覚えろ」の姿勢を貫き、練習してないふりを通した。

 ハンクさんの謙虚な言葉は、自分の選んだ生業と人生に対するこの上ない敬意と誇りが満ちた宝の山です。

0809.jpgダウンビート・マガジン2009年8月号より抜粋(聴き手ハワード・マンデル) 

<父を手本に>

 何をするにも、100%集中しろと言いたいね。全身全霊で努力しろ。私はこの年になっても、そうするべきだと思っている。私はこういうことを父親から学んだ。父は私の知るうちで、最も公明正大で筋の通った人間でね、人生の最高の手本を身をもって示してくれたんだ。清い生き方をした人だった。酒もタバコもやらなかった。そして敬虔なキリスト教徒だった。父のように生きようと努力してきたが、かなりうまくいったのではないかな。

(訳注:ハンクさんのお父さんはミュージシャンではなく、バプティスト教の助祭で、木材検査官として生計を立てていた。)

 

<集中するということ>

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 「集中力」には何が必要か?「興味を持つ」ことが第一!とにかく自分のしている事に興味を持たなくてはいけない。そこに完璧に焦点を絞り込んで没頭せよ。そして、知識、能力、知覚神経、創造力といった関連要素をありったけ注ぎ込め。

 自分の眼前の題材について考えろ。自分が集中している対象物が一体どんなものなのかをしっかり考えるのだ。何故そうするのか、どうしているのか、そんなことをごちゃごちゃ考えるな。私の言うように集中すれば、結果が出る。集中力というのは、物凄いパワーがある。どういう仕組みかは知らないが、「集中力」さえあれば、「聴く」力がつく。もし聴こえないのなら、集中が足りないんだ。 

<センスを磨きたいなら沢山聴け!> 

 (エレガントで趣味の良い)演奏スタイルをどのように確立したかだって(驚)!?

 誰だってそうだと思うが、沢山のものを聴き、多様なスタイルを吸収しそれを消化すれば、遅かれ早かれ、いずれ各人、自分なりのアイデアが出来上がってくるものじゃないかね?自分流に演奏したくなるのは当たり前だ。出来上がった自分のスタイルが、ほかの誰かに似ていたという結果になるかもしれないし、そうではないかもしれない。運が良ければ、誰にも似ていないスタイルが出来上がる。独自のスタイルや演奏解釈を会得すること、同じ曲でも、余人と異なる自分の流儀で演奏できるというのは、道半ばの学習者全ての目標だ。

 もうひとつの目標は、喜んで聴いてもらえるような演奏をすることだ。それはスタイルとはまた別で、センスの良し悪しが関わってくる。センスとは、ものの捉え方だ。それもまた、多彩な人たちの演奏を聴くことによって生まれるのだ。自分が聴いた音楽が、受け容れられるものなのか、聴きたくないものか、取捨選択を繰り返して、やっと身に付くものだ。多種多様なものを聴いた末に、自らの中に残っているもの、それこそが、「この楽曲はこういうサウンドであるべきだ」という意識をかたちづくる。それを人は「センス」とか「趣味の良さ」と呼ぶのだ。

 

 <即興演奏>

 私は自分のイマジネーションをうまく使おうとする。それに関わる要素について思いを巡らす。和声だけではなく元のメロディーについても思考を働かせ、そこから何かを作り出そうと試みるわけだ。その行為は家を建てるのと似ている。まず基本設計からスタートし、それに従って実際に建築してみる、その作業が進むうちに、装飾も加える、というようなことだ。

<ピアノ上達に近道はない!>

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 まず言っておきたいのは、ピアノが上手になる魔法なんてどこにもないということだ。ピアノに関わらずいかなる技量も、稽古するかしないか。毎日の練習は絶対に必要だ。毎日稽古すれば、どんなレベルであろうと現状を維持することができる、そして、ひょっとすると、そこからさらに上に行けるかもしれない。

 私の場合、ピアノはクラシックの練習から始めた。おかげで、どんなピアニストにも必須の基礎を身につけることが出来た。まともなピアニストになるための指針を教えてくれと言うのなら、私の答えはこうだ。

-まず勉強しろ。ピアノという楽器について熟知せよ。初心者の段階では、(可能な限り)最良のピアノ教師を見つけ、その人に習え。なぜならば、まず最初に正しい演奏法を学ぶことができなければ、後から誤った演奏方法を変えるには、大変な努力を要するから。間違ったテクニックを身に着けてしまうと、悪い癖を取り去るのは至難の業だから。これが若い人達への私からのアドバイスだ。(了)

  DBインタビューはアメリカ人の翻訳者ジョーイ・スティールさんが「読め」って送ってくれたものです。最後の「ピアノ習得」のくだりに、私は爆笑してしまいました。だって、毎日稽古を欠かさない寺井尚之が、常日頃自分の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることだったから。

 ともあれ、ハンクさんが亡くなって、さらに世の中は便利になり、次期大統領でさえ、ツイートばっかりやってる世の中になった。ハンクさんの言葉は、ミュージシャンのみならず、私たち全員がちゃんと生きていく上での忘備録のように思えます。 

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)

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Hank Jones (1918-2010)

’70年代以降、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズは、双方ともに謙虚で控えめな物腰の裏で、互いに最大のライバルとして、闘志の火花を激しく燃やしていた。

だから、この二人を(しばしばバリー・ハリスも含め)同じカテゴリーで議論されると、寺井尚之の癇癪がときどき爆発します。言うまでもなく、寺井はハンク・ジョーンズの凄さをいやというほど良く知っているからなのですが…

そんな中、今年初めて寺井が「楽しいジャズ講座:映像でたどるジャズの巨人たち」のテーマに選んだのがハンク・ジョーンズ・トリオがフランク・ウエスはじめ4人のテナー奏者と共演するという日本のコンサート映像なので、楽しみで仕方がありません。

 

<ハンク・ジョーンズ略歴>

 JATP 1950 multi signed with clipped coupon Hank Jones.jpg  ハンクさんは1918年(大正7年)ミシシッピ州生まれ、奇しくもハンクさんがCM出演していたパナソニックの前身である「松下電気器具製作所」のできた年です。幼少期が米国の工業化に伴う労働人口の南部から北東部への大移動時代と重なり、家族でミシガン州ポンティアック(フラナガンの出身地デトロイトとすぐ近くです。)に移り住みました。父が聖職と木材関係の仕事に就くジョーンズ家の子供は七人、姉二人はピアニスト、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズはジャズ史に輝く天才兄弟ですが、ヒース・ブラザーズ(パーシー、ジミー、アルバート)のように兄弟で共演することは稀でした。

 

 プロデビューは13歳で、フラナガンはまだピアノの鍵盤の上に上るのがやっとのよちよち歩き。すでにミシガン一やオハイオで、そこそこ名の知れた楽団に入り巡業に明け暮れた。成人すると、地元のメジャー・ミュージシャン、ラッキー・トンプソンの誘いを受け、故郷を出てNYに進出、当時のジャズのメッカ、52丁目の有名クラブ《オニキス》でホット・リップス・(tp)と共演、たちまちエラ・フィッツジェラルドやビリー・エクスタインといったスター達から引っ張りだこの超売れっ子となった。 

 だからデトロイト時代のフラナガン少年にとってハンクさんは、親友(エルヴィン)の兄さんであったけれど、ラジオやレコードを通じてしか知らない名手、神と崇めるチャーリー・パーカーと共演する天上人で、実際にフラナガンがハンクさんに会ったのはずっと後、NYに出てきてからのことだった。 

 1959年、ハンクさんは、全国ネットワークCBSのスタッフ・ミュージシャンとなった。以来17年間、エド・サリヴァン・ショウなど、TV界屈指のスタジオ・ミュージシャンとして活動しながら、空き時間はNYのレコーディング・スタジオに入り録音に勤しむ毎日が続く。参加アルバムには、ビリー・ホリディ晩年の不朽の名作<Lady In Satin>、ウエス・モンゴメリー<So Much Guitar>、ローランド・カークの<We Free Kings>といったものから、ジョニー・マティスなどのポップ・スター達のアルバムまで数百枚に上る。

 HCD-2023-l.jpg1968年には、弟サド・ジョーンズとメル・ルイスの双頭ビッグバンドの創設メンバーとして兄弟共演を果たしています。毎日色んな場所でいくつもの仕事を掛け持ちするハンクさんについたあだ名は「キャンセル魔」-昼間に街で会って、「ほんじゃ今夜のレコーディング、よろしく頼むわ。」「よっしゃ!」と挨拶しても、現場に現れるのはハンクさんに頼まれた別のピアニスト、というのが日常茶飯事。それでも、ハンクさんの仕事が減らなかったのは、その腕前に対する絶大な信頼であったから。

 ’70年代中盤にはブロードウェイ・レビュー《Ain’t Misbehavin》で音楽監督とピアノを担当、流れるようなシングルトーンが身上のハンクさんの演奏スタイルとは異なるファッツ・ウォーラー・スタイルを見事に再現し、ジャズピアノ通の度肝を抜いた。一方では、日本企画の《グレイト・ジャズ・トリオ》が大当たり、パナソニックのTVコマーシャル「ヤルモンダ!」でお茶の間にも親しまれ、新旧の名手と様々なフォーマットで、世界各地を公演、92才まで現役レジェンドの道をひた走った。

 ジャズ・ミュージシャンの旬は案外短く、かつての名手も、70を越えたライブに行くとがっかりすることも。でもハンクさんのピシっと伸びた背筋と、タッチ・コントロールの完璧さは、80才を超えても不変だった。

その秘密はどこにあったのだろう?

 

<端整なプレイの陰で>

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 昨年、寺井のドラマー、菅一平さんから、彼が尊敬するバップ・ドラマー、ケニー・ワシントン・インタビューの日本語訳を頼まれました。ドラマー向けのインターネット・ラジオ番組”Drummer’s Resource“のものだったのですが、そこでケニーが大変面白い話をしていた。彼を「練習魔」にした人が、ハンクさんだったというのです。

ケニーの話を要約すると…

 僕が20代そこそこの駆け出しの頃、光栄なことにハンクさんからギグに誘われた。ベースはジョージ・ムラーツ!ピアノ・トリオのコンサートだ。演奏会場がハンクさんの家から遠く、音出しが早いので、「家内の手料理をご馳走するし、君が寝る部屋もある。前日から自宅に泊まりなさい。翌朝一緒に出発しよう。」と言ってもらった。

泊めてもらった翌朝6:30amに目覚めると、スケール練習をするピアノの音が聞こえてきた。Cメジャー、Dメジャー…順番に、全音と4ビートで稽古している。あの名人がこんな基礎練習をしている!!若いドラマーはぶっ飛んだ。

 

 やがて、ハンクさんが朝食を食べに食堂にやってきた。

「おはようございます。ジョーンズさん」

「おはよう、ワシントンくん、昨日は良く寝られたかな?」

「あのう…ジョーンズさん、さっきの練習は毎日やっておられるのですか?」

彼は私を真顔でじ~っと見つめた。

「そうだよ。あれは絶対にやらなくてはいけない。」

そのとき、僕の中でディンドン、ディンドンと鐘が打ち鳴らされた。当時ハンク・ジョーンズ70代だったが、物凄い名手だった。彼のタッチが完璧なのは、この練習を続けているからだんだ!

僕も今から同じことを始めれば、彼の年齢になってもプレイできるに違いない!!それから、僕は毎日早朝練習をするようになった。(つづく)

 

コールマン・ホーキンス達の”ルート66″ (2)

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 ここでお話する『ルート66』は、1960-64年に放映されたTVドラマ、LAとシカゴを結ぶルート66を、バズ&トッドという二人の若者(上の写真左:バズ/ジョージ・マハリス、右:トッド/マーティン・ミルナー)が、コルベット・スティングレーに乗って旅するロード・ムービー。日本でもNHKでも放映され大ヒットした。余談ですが、トッドの吹き替えを担当した愛川欽也は、このドラマを下敷きにして『トラック野郎』の企画を作ったのだそうです。

<Season2/ Episode No.3 ”Goodnight, Sweet Blues”>

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 『ルート66』、シーズン2の第三話<グッドナイト・スイート・ブルース>はシリーズ中でも最もジャズ色の濃いもので、往年の名歌手エセル・ウォーターズを中心に、コールマン・ホーキンス、ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジという錚々たるジャズメンがゲスト出演するというもの。このエピソードの監督ジャック・スマイトの代表作は、ビリー・ホリディ、レスター・ヤングからモンクまで、現存するスター達のスタジオ・セッションを記録した歴史的ジャズ番組『The Sound of Jazz』ですから、なるほどという感じです。

 【あらすじ】 

 ストーリーは愛と涙の人情話。ピッツバーグに近いRoute 66のどこか、老女Ethel-Waters.jpgジェニー(エセル.ウォーターズ)は運転中に心臓発作を起こし、トッド&バズの運転するコルベットと接触事故を起こす。トッド&バズに救助され、医師の診察を受けたものの、ジェニーの心臓は手の施しようがないほど悪化しており、余命いくばくもない。

 ジェニーは、昔大活躍した往年のブルース歌手だった。彼女の夢は、30年前に、共に活動した仲間“メンフィス・ナチュラルズ”ともう一度一緒に歌うこと。それを冥途の土産として天国に召されたい。

そこでジェニーは、トッド&バズに、「私の有り金全部使ってくれていいから、昔の仲間に会いたいの。彼らの演奏が聴きたいの。お願い!」と頼みます。 

 バズが大のジャズファンであったことから、二人は往年のディーヴァのために一肌脱ぐことを決意。手分けしてメンバー達を捜しにアメリカ中を飛び回る。.あの人はいま・・・LAやシカゴ、メンフィス、NY、かつての人気ミュージシャンは明暗分かれるそれぞれの人生を歩んでいた。現役バリバリのミュージシャンやスタジオ・ミュージシャンとして第二の人生を歩む者、、亡くなったり、刑務所で服役中だったり、音楽ときっぱり縁を切って靴磨きで生活している者まで、人生いろいろ。ともあれ、トッド&バズは、死を目前にするジェニーの病床で、約束通り“メンフィス・ナチュラルズ”のリユニオン・セッションを実現させる。

 元気をもらったジェニーは昔の仲間の演奏で、かつてのヒット・ナンバー、<Goodnight, Sweet Blues>を歌うと、幸せの笑みを浮かべながら天国に召されるのだった。

 黒人女優として初めてエミー賞にノミネートされたエセル・ウォーターズの演技もさることながら、コールマン・ホーキンスとパパ・ジョーとロイ・エルドリッジがドラマに出てるのがすごい!それにまだまだ人種差別があった’60年代始めに、白人青年が黒人女性の願いで、色々努力すというプロットも珍しい。

 コールマン・ホーキンス扮するスヌーズ・モブレーは、昔はクラリネット、今はテナーに転向して、大人気を誇るモダン・ジャズ・ジャイアントという役どころ、でも、実際のところ、セリフもほとんどなくて、芝居しているというよりも「素」のままです。芸達者な役者さん達も一緒にミュージシャン役を演じているのですが、ジョー・ジョーンズとロイ・エルドリッジは彼らと対等にしっかり芝居をしています。ところが、役柄の設定にびっくり!

<トランペットを吹くジョー・ジョーンズ>

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左から:ジョー・ジョーンズ(tp)、actor ウィリアム・ガン(banjo)、actor フレデリック・オニール(b)、ロイ・エルドリッジ(ds)一人おいてコールマン・ホーキンス(cl)


 このドラマでは、ジョー・ジョーンズとロイ・エルドリッジの楽器が入れ替わっているんです。刑務所に服役中で、判事の温情によって一時的に釈放してもらうトランペット奏者がジョー・ジョーンズ、NYのスタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこのドラマーがロイ・エルドリッジ!勿論、セッション・シーンもそのとおりで、パパ・ジョーの吹き替えをロイ・エルドリッジがやっている・・・

 なんでこんなややこしいことになったの??JazzWaxのサイトに、ジャズメンの友人である評論家、ダン・モーガンスターンが納得のいく説明をしていました。

 特別出演の3人のミュージシャンの役柄のうち、一番重要で出演シーンの多いのがトランペット奏者、Lover Brownだった。そこで、パパ・ジョーは、「この役やりたい!」ともくろんで、誰よりも早く撮影スタジオに入り、「私、トランペットも出来るんです。芝居も出来るんです!」と、監督に直訴したのだとか・・・身のこなしも滑らかで、トランペットも実際に吹けるジョーンズの方が、カメラ映りがいいと思われたのかもしれません。

 後からやってきたロイ・エルドリッジは、パパジョーの抜け駆けに激怒したものの、後の祭り、ドラマー役をやるしかなかった。なんたってエルドリッジは十代の頃はドラマーとして稼いでいたのだから、演奏するのには何の問題もなかったんです。

 上のスチール写真を観ると、ロイ・エルドリッジが何となくブスっとしているように見えなくもない。

ともあれ、歴史的なドラマ画像、セリフも短いし、ストーリーもシンプルで判りやすい。音楽はネルソン・リドル、残念ながら、ナット・キング・コールで有名な、あの<ルート66>の歌は登場しません。

 

 

コールマン・ホーキンス達の”ルート66″

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 月例講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、フラナガン自身が最も敬愛し、影響を受けたたボス、コールマン・ホーキンスとの共演アルバム群を聴いています。

eddie_terai.jpg ホーク晩年の最高傑作と言われる『ジェリコの戦い』は、本当に”最高”の出来なのか?T.フラナガン、メジャー・ホリー、エディ・ロックという若手を擁するレギュラー・カルテットの醍醐味はどのにあるのかを、寺井尚之の解説でじっくり堪能中。生前のエディ・ロックが寺井と、このカルテットの話で盛り上がっていたとき、その「白眉」として寺井に推したのは、ドラム・ソロなし、全編ルバート、4人の息を1テイクでビシっと合わせた”Love Song from Apache“という渋いバラード(Impulse盤『Today and Now』)だったという話が、彼らがどれほどチームワークを尊んでいたかを象徴していて、しみじみとした感動を呼び起こしました。

 コールマン・ホーキンス芸術の最後期の成熟を助けたトミー・フラナガン達、彼らの結束はホーキンスが第一線から退いた後も、生活の援助というかたちで最後まで継続したと言われています。


 『ジェリコの闘い』を始めとする一連の《ヴィレッジ・ゲイト》でのライブ録音がなされたのは’62年8月、同時期、NYでは他にどんなライブが行われていたのだろう? 当時の”The New Yorker”誌のデータベースで調べてみると、アップタウンからダウンタウンまで、NYの街はジャズ博物館の様相を呈していました。《バードランド》ではディジー・ガレスピーのコンボが、《ヴィレッジ・ヴァンガード》はシェリー・マンを擁する新人ピアニスト、ビル・エヴァンス・トリオが、《ファイブ・スポット》ではチャーリー・ミンガスのバンドが、《ハーフ・ノート》にはズ―ト&アル・コーンのテナー・コンビが!ヴィレッジ地区を離れ、イーストサイドに向けば現在のキタノ・ホテルの近くにあった《リヴィングルーム》というサパークラブには、マット・デニスがトリオを率いて弾き語りを聴かせていた!すでにTVが夜の娯楽の主流になっていたとはいえ、クラブシーンは花盛り!ああ・・どこに行くか迷いますよね。

 TVといえば、この時期のホーキンスの足跡を調べていくうちに、彼が、パパ・ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジと共に、超人気TVドラマ・シリーズ、『ルート66』にミュージシャン役で出演していたことを発見!ほぼ1時間のエピソード“Goodnight Sweet Blues”が全編Youtubeにアップされていました。

 さわりだけ・・・と思ってたのに、結構面白くて最後まで観てしまった。おかげで時間がなくなって、ドラマとミュージシャン達の面白いエピソードは次回に続く・・・

写真展の中の写真 from スウェーデン

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  公私共に忙しく、ブログで大変ご無沙汰しています!お知らせしたいこと、書きたいこと沢山あるのですが、なかなか時間のやりくりが下手くそで、落ち着いたらどっさり書きたいと思っています。

 上の写真は”スイート・ジャズ・トリオ”の一員として知られるスウェーデンのベーシスト、トミー・フラナガン同志であるハンス・バッケンロスさんが送ってきてくれたものです。

 左端はスウェーデンの名ドラマーでハンスさんの大先輩でもあるルネ・カールソン、何故かドラムの向かって右側にいるのがレッド・ミッチェル(b)、そしてトミー・フラナガン(p)、フロントがディジー・ガレスピー(tp)で、奥に見えるサックスはジェームス・ムーディ! 

 ディジーを含めジャズの巨匠の写真が飾られた不思議なロケーション、なんとも不思議なセッティング、これは1983年頃、ストックホルムから車で1時間ほどの都市Västerås(ヴェステロース)の美術館で開催されたGunnar Holmberg(グンナー・ホルベルグ)という当地の名ジャズ写真家の展覧会の情景で、オープニング・イベントの演奏をホルベルグ自身が撮影したものだそうです。

  普通と逆のバンドのセッティングは、「常にハイハット側に立つ」というミッチェルのこだわりの結果なんだそうです。

 ディジー・ガレスピーは、この演奏の前、ペットを抱えウォーミングアップ代わりに、展示写真を鑑賞しながら、その演奏者の曲を吹くということを繰り返していたそうです。

 この逸話を教えてくれたハンスさんは当時まだ高校生、後にルネ・カールソンや ニッセ・サンドストーム、モニカ・ゼッタールンドといった地元の名手に可愛がられ、北欧のトップ・ベーシストとなりました。

you_are_me.jpg Red Mitchell-Tommy Flanaganコンビも大好き!二人はジョージ・ムラーツがレギュラーになるまでは、頻繁に共演していました。

 ということで、しばし二人の『You’re Me』を聴きながら休憩したいと思います。

CU

コールマン・ホーキンスの肖像(4)

<親分子分>

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 左から: トミー・フラナガン、ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)

 ’50年代から’60年代にかけて、ホーキンスはしばしば若手ミュージシャンと共演している。エディ・ロック(ds)、トミー・フラナガン(p)、メジャー・ホリー(b)といった面々である。最近、彼等はホーキンスについて次のように語った。

tommy_coleman.jpg トミー・フラナガン(p)「とてもユーモアがある面白い人だった。あの独特の低音で、物凄く長い物語をとうとうと話してくれた。その声はいつだって、他の誰よりも大きくて、彼のサックスと同じだった。あらゆるジャンルの音楽を網羅し精通していた。まさしく真の巨匠だ!」

 

eddie_terai.jpg エディ・ロック(ds)「私をクラシック音楽に開眼させてくれた人だ。自分の音楽にクラシックを取り入れたのだと確信している。それによって、彼のプレイは、他のサックス奏者と一線を画したものになった。もちろん、彼が演奏したのはジャズだが、むしろクラシカルなジャズと言うべきものだった。

 彼はまたピアノを非常に愛した。いつもピアノ弾きを家に出入りさせていた。例えばジョー・ザヴィヌル、それにモンク…モンクはね、コールマンが大好きだったんだ。彼はコールマンの前では別人だったよ!奇人でも変人でもない、きちんと普通に話をしていた。」(訳注:ロックは、ホーキンスと関わり深いサー・ローランド・ハナ(p)とトリオでOverSeasに来演し、そのときのCaravanでのドラムソロはOverSeas史に残る名演。)

 メジャー・ホリー(b): 「とても博学な人だった。音楽に関係のないことでも、驚くほどよく知っていたなあ。自coleman_hawkins-major_holley.jpg動車の構造にもすごく詳しかった。ほんとだよ、だって、私は自動車工場で働いた事があるので、よく判るのさ。(訳注:メジャー・ホリーもモーターシティ、デトロイトの出身で、フラナガン達の先輩。) 芸術一般に通じていたし、花のことまで良く知ってた。洋服のセンスは完璧、ワイン通でもあった。それに料理の名人だった!シチューを作らせたら、本格的なヨーロッパ料理みたいで、ジャガイモやニンジンが丸ごと入ってるんだ。それを食べに来いと招待されて、もしも行かないものなら、えらくご機嫌斜めになった。

 彼はピアノも弾けた。それもプロ顔負けの腕だった。サックスは、ロータリー呼吸法(鼻で呼吸しながら、口中に貯めた息で吹く呼吸法、これが出来ると息継ぎなして吹き続けることができる。)が出来たから、すごく長いラインを吹くことが出来た。チェロを手にとって、とてもうまく演奏したのも一度見たことがある。それが40年ぶりに弾いたというんだから驚いた。

 彼は人を笑わせる名人で、ジョークの天才でもあった。よくセントラル・パーク・ウエストの自宅に若手連中を呼んでくれた・・・トミー・フラナガンやローランド・ハナ(p)、ルー・タバキン(ts,fl)やズート・シムス(ts)といった面々だ。

 みんなが来ると、おもむろに、クラシックのレコードを一時間ほどかけるんだ。ショパンが多かった。レコード鑑賞の後、ローランド・ハナに向かって、今かけたショパンのエチュードを弾けと言う。その頃には、ローランドは当然のことながら、しこたまブランデーを飲んで出来上がっている・・・で、後は言わないでおこう。

 時々、ホーキンスはいたずら電話をかけてきた。電話のベルが鳴り受話器を取ると、グラスの氷のカチャカチャ言う音だけが聴こえていて、遠くで笑い声がする。そしてすぐ切っちまうんだ。とても人見知りでシャイな人だったが、すごく思いやりがあった。ツアーに出ると、刑務所で服役している知り合いのミュージシャンを面会に行ったりしていた、親友かどうかは知らないけどね。そうそう、セント・ジョセフに行くと必ずお母さんを訪ねていたな。規律や道徳というものをきちんと持っている人だった。子供時代に教わった礼節を大人になってもそのまま持ち続けた人だ。若者に興味を持っていて、自分のアイデアも伝えてくれた。若い人の為に演奏したいという大いなる野望があった。私達が一緒に仕事をしたのは、2-3年の間だ。私の大切な友人でもあった。だが、もっと彼をことを良く知りたかったよ。まだまだ自分は、彼のことを本当に理解していたわけじゃない。あれほどの人を完璧に理解するためには、余りにも時間が足りなかった。」 

〈この章了〉

コールマン・ホーキンスの肖像(3)

<コールマン・ホーキンス芸術の変遷>

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 1939年7月、ホーキンスはヨーロッパから帰国、10月に、かの有名な”ボディ&ソウル”をVictorに録音した。翌1940年初め、自己のビッグ・バンドを結成。ホーキンスの演奏は、その生涯で4段階に大別されるが、まさに第三段階の最良の時期に到達しようとしていたところであった。ホーキンスの第一段階は’20年代後半まで、サウンドは硬質で、リズムはスタッカートを多用するアグレッシブなアタックで、音の密度の濃いものだった。その時期は、ニュー・オリンズ由来で、歯車のような音を出すスラップ・タンギング 奏法さえ使用している。彼の演奏は、1930年代初頭、第二段階に移行し、彼のトーンは豊満さを極めた。スタッカートのアタックは影を潜め、代わりに豊かなビブラートを特質とするようになり、”トーク・オブ・ザ・タウン”、”アウト・オブ・ノーホエア”、”スターダスト”と言ったスロー・バラードを好んで演奏するようになる。出たとこ勝負、絶叫するような大音量、それまで現世の音楽だと思われていたジャズが、実は、この上なくロマンティックに成れる事を、ホーキンスが証明し、従来の「ジャズ」という概念を根底から覆したのである。

 103324636.jpgヨーロッパから帰国してからも、不遜とも言えるほどの自信は揺らぐことなく、出かける先々で、うやうやしくもてなされた。しかし、きっとなにか苛立ちを感じていたに違いない。
 Victorから発売された”ボディ&ソウル”、それは、飾り気なく、切れ目のない2コーラスの即興演奏で成り立っている。このレコードの大ヒットは、明らかに彼に活力を与えた。その後1940年から43年までの間のレコーディングはない。(ミュージシャン組合のレコーディング禁止令が理由の一つである。)’43年から’47年にかけては100曲以上の録音があるが、いくつかは凡作である。

ホーキンスを尊敬したマルチリード奏者、ボブ・ウィルバー は40年代初め、有名ジャズクラブ”ケリーズ・ステイブル”に出演したホーキンスを回想する。
bobwilbur.jpg 「コールマン・ホーキンスが出るから聴きに行こう!と、私たちは”ケリーズ・ステイブル”に繰り出した。彼はグレイのピンストライプのスーツを着て登場した。我々は何か特別な、ものすごい演奏を期待したんだが、ピアノ弾きが「ホーク、何を演るんだい?」と聞くと、ホーキンスは、ただ「ボディ」と言った。つまり、”ボディ&ソウル”のことで、当時の大ヒットしていた。後は、”アイ・ガット・リズム”のコード・チェンジを基にしたオリジナルの中から1曲、似たような曲をまた1曲演奏した。それでセットは終り、2時間たたないと次のセットはなかった。」

 彼のプレイは絶頂期を過ぎていた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言には絶対反対している。

 彼のスロー・ナンバーは、包容力のある音色、散漫とさえいえるヴィブラート、そしてどの曲のアドリブにも挿入される男性的な斬新なメロディで、他者と一線を画していた。一変してアップテンポのナンバーになると、大胆で向こう見ずになった。コーラスを重ねる毎に、曲を再構成しながら吹きまくった。息継ぎのために、一旦停止することは決してなかった。弾みをつけてたたみかけるように吹き、頭の中に聴こえるサウンドを、物凄い速さでサックスの音に置き換えた。例え、ごく稀にミスノートを吹いたとしても、そんなものは完璧な音の中で雲霧消散してしまった。彼の絶頂期の即興演奏に見られる濃密さと大胆さ、そして強靭さに、彼と肩を並べるのはアート・テイタム(p)だけである。(ホーキンスは1930年代初頭にアート・テイタムの演奏を初めて聴き、強い印象を受けた。)

 ’40年代の終り、ホーキンスはノーマン・グランツのJATP に参加してツアーを始めた。’50年代にツアーを辞めて落ち着いてから、彼のスタイルに再び変化が起きた。彼の芸術的変遷は最終段階に入ったのである。時として、絶好調の状態もあったが、不安定な兆候が増え始めた。彼のヴィブラートは、消えたり、震えたりすることがあった。トーンは硬めになり、20年代終りの初期のサウンドを思わせるようになった。また驚くような甲高く、叫ぶ様なトーンのリアー・サウンドを使い始めた。創造的なメロディの迸りは減り、素晴らしいリズム感も衰えを見せ始めた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言にも異を唱えています。

<盟友ロイ・エルドリッジの証言>

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  ホーキンスのビッグ・バンドは失敗で、1年足らずしか存続しなかった。一時期、シカゴで活動、そこで彼はデロレス・シェリダンという女性とめぐり合う。二人は1943年にNYで結婚し3児をもうけた。コレット、ルネ、ミミである。ビッグ・バンド以降はJATPか、リズムセクションだけのワンホーン・カルテットを率いて活動を続けた。’50年代初めには、仕事をホサれる憂き目に会い、第一線に返り咲いたのは’50年代中盤で、亡くなる1-2年前まで、活躍した。

 彼は健啖家として有名であったが、徐々に酒が食べ物に取って代わっていった。晩年には殆ど何も食べずに、飲み続けるようになった。痩せ衰えて、長老の様なあごひげを蓄えていたが、それは多分やつれを隠す為だったのだ。椅子に腰掛けて演奏する時もあった。

 彼の死後間もなく、旧友ロイ・エルドリッジ(tp)が彼について語っている。

「コールマンは、何につけても最高級の奴だった。

 昔気質で、絶対にエコノミー・クラスでは旅行しなかった。

 そして、勿論、いかにも天才ホーン奏者だった!多分誰よりも私が彼をよく知っているかも知れないな・・私が初めて仕事をもらったのは1927年で、週給12$だったんだが、それも彼のおかげだよ。私は、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の”スタンピード”のレコードの彼のソロを一音漏らさずコピーしていたので、仕事にありついたんだ。

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 1939年に彼が5年ぶりでヨーロッパから帰ってきた時も、一番最初に一緒に居たのが私さ。私の愛車はリンカーンで彼はキャデラックだった。我々は旅でもいつも同じルートを追いかけ合っていた。同じ場所にダブル・ビルで出演したりしてね。 

 彼には近寄りがたい雰囲気があった。仕事で何かうまく行かない事があったら、皆彼に近寄らないようにして、僕の方に寄って来た。プライドは高いが、冷たい人間じゃなかった。それに、ユーモアのセンスもあった。好きじゃない人間とは距離を置いていただけさ。世間は、彼がレスター・ヤングを、最大のライバルとして嫌っていたと、言っとるようだ。しかし、私とコールマンは’50年代に朝までレスターと一緒に飲み明かしたこともあるんだぞ!それはJATPに出演していた時だった。一体なんでレスターはあんなにきちっとしてるのか調べようってことになってね。まあ、それは全く判らんかったんだが。

  亡くなるまでの5年間、コールマンは病気だった。殆ど食べる事を止めてしまった。随一の例外が中華料理だ。これもレスターとおんなじだ。私は夕方になると彼に電話をして、私が何を夕食に作っているのか教えてやったもんだ。すると彼は『へえ、そりゃうまそうだな。そっちへ食わせてもらいに行くよ。』と言う。来ないので、翌日また電話をすると、昨日の電話のことは全部忘れていた。 

chrysler-imperial-1940-1.jpg コールマンはいつでも金を持っていたが、無駄遣いはしなかった。彼はライカやスタインウエイ、300$の高級スーツを持っていたが、何を置いても、まずは妻子の生活費と家賃の$600を確保した。自分自身の小遣いなんてあるのかと思ったこともあったが、金の話はしない決まりだったんでね。

 昔、コールマンがロールス・ロイスを買いたいと言うので一緒に見に行った事がある。私は彼に言ったんだ。

 「おい、こんなもん乗り回してたら、バカだと思われるぞ。」ってね。そうしたら、奴はクライスラー・インペリアルを買ったよ。$8,000ポンと現金払いだった。だが、結局1000マイルも走っていないんじゃないかな。」

(続く)

コールマン・ホーキンスの肖像(2)

977.jpg  <生い立ち>

 

  ホーキンスは1904年、あるいはそれより数年前、ミズーリ州セント・ジョセフに、コーデリア・コールマンとウィル・ホーキンスの第二子として生れた。(第一子は女児で生後まもなく死亡。)「両親がヨーロッパでヴァカンスを過ごし、帰りの船の中で自分が生れた。」という話を、数々のインタビューで喜々として語っている。彼は人をかつぐ名人であり、伝説を作る名人でもあった。

 実のところ、彼の父親は電気工事の作業員であった。父は1920年代に事故死しているが、母親は学校教師で95歳まで長生きした。(祖母も104歳の長寿であった。) ホーキンスは5歳でピアノを始め、その後チェロを数年間学ぶ。テナー・サックスを与えられたのは9歳、13歳になると、もう心身ともに十分成長したことを確信した両親は、息子をシカゴへと送りだした。彼はこの大都会で、友人と同居し、高校に通った。

lg-louis-armstrong-and-king-oliver.jpg左:ルイ・アームストロング、右:キング・オリヴァー

 シカゴでは、キング・オリヴァー(tp)やルイ・アームストロング(tp)、ジミー・ヌーン(cl)を聴くことになる。高校卒業後、トペカ(カンザス州)のウォッシュバーン・カレッジに入学したと言うが、証拠はない。ホーキンスは、1921年にカンザス・シティの《12丁目劇場》に出演、そこでブルース歌手、マミー・スミスに見出される。彼女の伴奏者は、エリントン楽団のトランペット奏者、ババ・マイリーや、名マルチリード奏者、ガーヴィン・ブシェルなど、錚々たる顔ぶれであった。

 ブシェルはジャズ・ジャーナリスト、ナット・ヘントフのインタビューで、「12丁目劇場》に出演していた時にコールマン・ホーキンスと初めて出会った。」と証言している。

 ガーヴィン・ブシェル:オーケストラボックスにサックスを加えようってことになってね。だが、ホーキンスは、加入したサックスプレイヤーより、ずっと上だった。確かCメロディのサックスを吹いていたと思う。いずれにせよ、彼はまだほんの15歳くらいだった。我々が彼を巡業に連れて行く許可をもらおうと、セント・ジョセフのお袋さんの家を訪ねたら、こう言われたよ。

 『だめだめ!あの子はまだ、ほんの赤ん坊です。まだ15歳なんですからね!』

 若い頃から、途方も無い実力があった。ミス・ノートは全くなく、完璧な読譜力があった。あれから37年、。私しゃ彼が一音でもミスするのを、いまだかつて聞いた事がないよ。昔、サックスという楽器は、トランペットやクラリネットと同じような感覚で吹いていたもんだが、彼はそうじゃなかった。すでに、コード進行に添って吹くことも出来た。きっと、子供の時にピアノを習得していたからだ。」

fletcher_henderson_hawk.jpg 1922年、ホーキンスは、”メイミー・スミスのジャズ・ハウンズ”に入団、翌1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(左写真)に移籍、以後11年間在籍した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団(パワフルでありながら、好不調の波があり、楽団としての鍛錬は欠けていた。)は、1930年代の殆ど全てのスイングバンドの手本であった。そして、この楽団は、当代一流のジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(tp)、レックス・スチュワート(tp)、ロイ・エルドリッジ(tp)、ジョー・トーマス(tp)、ジミー・ハリソン(tb)、ベニー・モートン(tb)、J.C.ヒギンボサム(tb)ディッキー・ウエルズ(tb)、ケグ・ジョンソン(tb)、ベニー・カーター(as.tp)、ベン・ウェブスター(ts)、チュー・ベリー(ts)、ジョン・カービー(bs,tuba)、ウォルター・ジョンソン(ds)、シドニー・カットレット(ds)達を輩出した最高の学校でもあった。

<合理主義>

rex_stewart1.jpg 楽団の盟友、名トランペッター、レックス・スチュワートは著書『30年代のジャズの巨匠達』で、ホーキンスのことを回想している。

 「公演地に着くと、楽団のお決まりのメンバーで、こぞって街を見物することになっていた。とある町で、たまたまコールマンとデパートを見物に行ったことがある。すると彼は化粧品売り場で、大変高価な石鹸を半ダースも買った。ホークは『バーゲンで得だから、1年分の石鹸を買いだめした。』とのたまった。たった6個の石鹸だけで、どうやって1年持たせるのか?私はあきれ返った。ところが翌朝、ホテルの部屋でわけが判った。まず2枚の飾りの付いたきれいなタオルが出てくる。一枚は高級石鹸用、もう一枚は普通の石鹸用だった。この2枚はきっちりと区別してある。化粧用石鹸は1番タオルの隅に上品にこすりすけて、彼の顔や目の周りだけを洗うことになっていた。もう一方のタオルは、普通の石鹸を泡立てて、体を洗うことになっていた。」

 スチュワートは更に続ける。

 「Mr.サクソフォンのもう一つの顔は、倹約家の顔だ。だからと言って、ホークは決してしみったれた男ではない。用心深い人間だったのだ。彼が銀行預金への不信感を克服するまでは、常時$2,000、$3,000の現金をポケットに入れて歩きまわっていた!ある時は、夏のツアーの間に稼いだギャラを全部持ち歩いた。およそ$9000の大金だ。ある時、何かの事情で、ツアーの途中でギャラをもらえず立ち往生したたことがあったが、彼はポケットの中に蓄えた札束を見せて笑っていた。だが、例え自由の女神が、真昼のブルックリン・ブリッジで、ツイストを見せてあげると言ったとしても、彼は、25セント玉一枚すら浪費したことはなかった。」

 <花のヨーロッパ>

hawk_in_ch.jpg1937、於スイス、 Photograph by André Berner

 1934年、バンドリーダー、経営者であるフレッチャー・ヘンダーソンの無気力ぶりに辟易したホーキンスは、ヨーロッパの上流生活の噂に魅力を覚え、英国のバンドリーダー、ジャック・ヒルトンに電報を打った、すると、早速仕事のオファーが来た。楽団から6ヶ月の休暇をもらい渡欧したホーキンスは、結局5年間ヨーロッパに滞在する。恐らく、この時期がホーキンスの人生で最高の時期であった。

 彼は、ヨーロッパに初めて上陸した名ソロイストの一人として、行く先々で貴族の様に厚遇された。イングランド、ウエールズを旅した後、ヨーロッパ本土に腰を落ち着け、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、フランスと各国で演奏活動を行った。同時に、英国、オランダ、フランス、ベルギーのミュージシャンと録音を行った。現地の共演者の中にはジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリが、アメリカ人には、ベニー・カーター(as, tp その他編何でも)、トミー・ベンフォード(ds)、アーサー・ブリッグス(tp)がいた。

11576.jpg クリス・ゴダード著『ジャズ・アウェイ・ホーム』で、ブリッグスが見たホーキンスのパリ生活が紹介されている。

 「彼は本当に素晴らしい人だった。あれほどアルコールを大量に飲める人間がいる事も信じ難いが、あれほど飲んでもほとんど酔わないというのも、同じほど信じ難いことだった。・・・彼は毎日ブランデーを一瓶空にしていた。・・・よく昼下がりのダンスパーティにゲストとしてフィーチャーされたが、3曲ほど演って、あとはバカラ部屋でくつろぐのが彼の常だった。といっても賭け事はしない。バーでひたすら飲んでいた。私が演奏してくれるよう使いを遣ると、彼はすぐに帰ってきた。練習をしているのは見た事がない。・・・とにかく無口で、抜群に趣味が良かった。一足のソックスに大枚$20使っていたのを見たこともある。美しいシャツやシルクの小物に目がなく、王子のようにお洒落な格好をしていた。彼にとってヨーロッパは安息の土地だったのではなかろうか。」(つづく)0cce7dc63531437cbe816d5dc8e934f5.jpg

 

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

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 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

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 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、”コード・チェンジというハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。’50年代にリヴァーサイド・レコード“で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書”The World of Swing”でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

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参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History