アメリカン・パトロネス: ドリス・デューク

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Doris Duke (1912-1993) 

 先日、パノニカ男爵夫人のことを書きました。多くのミュージシャンに援助の手をさしのべ、沢山の曲を献上されたパトロン、彼女は英国人。ミュージシャンは、パトロン自慢が好き!モナコ国王レーニエ大公やタイのプミポン国王が大のジャズ・ファンだとか、ヨーロッパの貴族がフィリー・ジョー・ジョーンズに多額の遺産を残したとか、いろんな人から、いろんな話を聞いた事があります。それじゃ、ジャズの母国アメリカ国民でパノニカに匹敵するようなパトロンはいなかったのでしょうか?

oscarpettiford-orchestra.jpg トミー・フラナガン初期のレコーディング、”Oscar Pettiford in Hi-Fi”は私の大のお気に入り、アルバムのオープニングはオスカー・ペティフォード作、 “The Pendulum at Falcon’s Lair”(はやぶさ邸の振り子)という一風変わったタイトルが付いている。丁度、時計の振り子に併せたようなテンポのバップ・チューンで、ハープが効果的に使われています。(足跡講座に出席されている方なら、この題名について色々論議があったのを覚えていらっしゃるかも)、“Falcon’s Lair”の女主人、ドリス・デュークは、アメリカ人として最も著名なジャズのパトロンだった。



<Falcon’s Lairとヴァレンティノの幽霊>

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rudolph+valentino+in+turban+and+pearls.jpg ”Falcon’s Lair”は「刑事コロンボ」の担当区域、ビヴァリー・ヒルズ有数の大邸宅で、本館と召使の館、広大な車庫や馬屋からなるV字型のカリフォルニア式建築。1925年、サイレント映画の伝説的スター、ルドルフ・ヴァレンティノが何億というお金で購入し、”Falcon’s Lair”と名付けた。アラブの王子様が当たり役だったヴァレンティノが収集したイスラム美術品など、贅を尽くした調度品で埋め尽くされた豪邸でしたが、この屋敷に住んで僅か1年後にヴァレンチノは亡くなった。邸にはヴァレンチノの幽霊が出ると言われ、主が転々とし、1950年代始め、やはりサイレント時代の伝説的女優、後年「サンセット大通り」で再ブレイクしたグロリア・スワンソンから邸を買ったのがドリス・デューク。でも”Falcon’s Lair”は、ドリスが全米各地に所有する5つの大邸宅のうちの一軒に過ぎなかった。季節に応じて住み分けたそうで、ハワイの豪邸”シャングリ・ラ”は今も名だたる観光名所。
 


<The Richest Girl>
 

Cecil-Barton.jpg ドリスは、タバコ産業で巨万の富を築いた億万長者の一人娘。全米屈指の名門校、デューク大学は、彼女の祖父と父が財政支援して設立された。ところが父のジェームズ・デュークは、ドリスがたった12才の時に病死。なんでも、ドリスの母親が、窓を開け放った寝室に、風邪をこじらせた夫を監禁したため肺炎が治らなかったと噂されるキナ臭い死でした。

 おまけに、父の遺言状は、「遺産の大部分を(妻でなく)娘に遺す」という内容であったために、実の母娘ながら、二人の間には大きな確執があったと言われている。以来、ドリスは「全米一のリッチな女の子」として、マスコミに追っかけまわされることになります。

 そのためなのか、母親はドリスに高等教育を施さず、ヨーロッパの社交界に無理やりデビューさせるという教育法をとりました。ヨーロッパの上流社会では成金娘と陰口をたたかれ、故国ではセレブとしてスポイルされ・・・ドリスの少女時代は、さぞかし窮屈なものだったでしょう。

 <Something to Live For>
 

doris_joe0111013195.jpg 成人後、7000万ドルという途方も無い財産を手にしたドリスが一番欲しかったのは、お金で買えるものではなく、”自由”と”生き甲斐”だったのかも。大戦中は週給1ドルで水兵の食事係、戦後はヨーロッパ各地の状況を米国に発信する特派員活動、でも、どれも長続きはしなかった。歴史に残るのは、ハワイ暮らしのおかげで、史上初の女性サーファーになったこと。パノニカが、レジスタンスで活動し、英国初の女性A級パイロットになったのと似ていますが、多くの親戚がガス室に送られ、自分や家族もアウシュビッツに連行されるかも知れないという修羅場をくぐってきたパノニカとは、必然性が少し違うのかもしれません。 

<ジャズに惚れ込み>

joe_castro4y80x.jpg ドリス・デュークは2度結婚している。最初は米国人の政治家、2度めの夫はドミニカの外交官だった。どちらも、世界一周や、B29爆撃機の購入などなど、ふたりとも彼女の財産を相当派手に使った。

 それ以来結婚せず、ハリウッドスターやスポーツ選手と浮名を流す。セレブな彼女がジャズに惚れ込んだのは、ジョー・カストロという西海岸で活動するピアニストと恋をしたのがきっかけのようです。

 億万長者のお相手、ジョー・カストロは1958年から西海岸で活動したバップ・ピアニスト、テディ・エドワーズ(ts)、ルロイ・ヴィネガー(b)、ビリー・ヒギンス(ds)とカルテットでの活動が有名です。二人は”Falcon’s Lair “で同棲し、カストロはお城のような家からギグに出かけた。何十もの部屋がある大邸宅には、カストロを訪ねてルイ・アームストロング始め多くのジャズ・ミュージシャンが入れ替わり立ち代り逗留していました。

 マイルズ・デイヴィスのバンドが西海岸に演奏旅行すると、メンバーのキャノンボール・アダレイはホテルを取らず”Falcon’s Lair “を定宿にしていた。屋敷に遊びに行ったジミー・ヒースは「あんな豪邸を訪問したのは生まれて初めて」とびっくり仰天!

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resize.jpg はやぶさ邸”には、各部屋に豪華な録音機器が設置され、ミュージシャン達のセッションが録音できるようになっていた。オスカー・ペティフォードは言うまでもなく、ジェリー・マリガン(bs)、スタン・ゲッツ(ts),ラッキー・トンプソン(ts,ss)などのセッションを含む150本のオープン・リールが現存しているそうで、そのうち、ズート・シムスがアルト・サックスを吹いているプライベート・セッションがリリースされています。ジャケット写真は、屋敷内のセッションの模様で、しどけないTシャツ姿で。

 

 

 

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 1960年、カストロとドリスは、共通の友人、デューク・エリントンともに”Clover”というレコード会社と音楽出版の子会社を設立しましたが、結局はカストロのレコードを一枚リリースしただけで頓挫、二人の愛人関係も1966年に終わりました。その後は、最新の録音機材の数々もガレージに山積みで使われることはなかった。

 二人の長い愛人関係は、ジャズが結ぶ「大人の関係」とは行かなかったようで、カストロに「妻」呼ばわりされるのをやめてもらうため、ドリスはわざわざ裁判を起こさなくてはならなかった。まあ、色々あったけれど、ドリスのジャズに対する支援は続き、現在もドリス・デューク基金から、ニューポート・ジャズ・フェスティバルや、ミュージシャンへの活動支援として、高額のお金が拠出されているようです。

 ドリスは、エイズ研究や自然保護、恵まれない子供達の支援など、ありとあらゆる慈善活動に貢献した。”Falcon’s Lair”が数ある邸宅の一つに過ぎなかったのと同じように、ジャズへの愛も彼女の人生に彩りを与えるOne of Those Thingsだったのかもしれない。

 パノニカの名前を冠したジャズ作品は多いけれど、ドリスにまつわる作品は、彼女の名前でなく、屋敷だったというのは、何故なんだろう? この屋敷でドリス・デュークは亡くなった。享年80才、沢山豪邸があっても、寝たきりで動くことが出来ず、看取ったのは執事だった。

 ”Falcon’s Lair”は、道路建設用地として大部分が取り壊され、現在はエントランスの一部が残るのみ。

 

人がうらやむ贅沢も、  殆ど私は手に入れた。

 車や家や別荘も、

 熱い暖炉のその脇の、熊の毛皮の敷物も…

 なのに何かが欠けている・・・

(ビリー・ストレイホーン:Something to Live For)

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パノニカに夢中 (4): ロスチャイルド家の女


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dvd28470096718934.jpg 先日、英国BBC放送のドキュメンタリー番組「The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)」を観ました。The Jazz Baronessとは、言うまでもなく、パノニカ男爵夫人、数年前に出た「三つの願い」は、パノニカの孫娘によって編纂されたものでしたが、この作品は、パノニカの実家、兄の孫娘である放送作家、ハナ・ロスチャイルドが、パノニカ本人や、自分の一族、モンクゆかりの人々を入念にリサーチしながら、ヨーロッパの名家、ロスチャイルドの親族としてまとめ上げた興味深いドキュメンタリーでした。

 

 ハナ自身がナビゲーターとして、ヨーロッパ大富豪の末裔であるニカと、西アフリカ出身の黒人奴隷の子孫である天才音楽家セロニアス・モンクの生い立ちをシンクロさせながら、二人の結びつきが必然的なものだったことを暗示していきます。
 以前、パノニカ夫人、Kathleen Annie Pannonica de Koeningswater について散々書いたのですが、この番組を観たら、また話題にしたくなりました。
 
 証言者として登場するのは、パノニカの姉(昆虫学の世界的権威 ミリアム)や甥(ハナの父)、デヴォンシャイア公爵夫人といった上流階級、そして、セロニアス・モンクの息子、TS.モンク、クインシ―・ジョーンズ、ジョージ・ウエイン、アーチー・シェップ、ロイ・ヘインズ、チコ・ハミルトン、それにモンクのドキュメンタリー、『Straight No Chaser』を作ったrクリント・イーストウッドなどなど。ヨーロッパ、米国、色んな立場の証言で、一見かけ離れた二人の接点を見事に浮き彫りにしていました。
<ヒントは『Thelonica』に!>
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 ハナは1962年生まれ、私のように出来の悪い子は「名門ロスチャイルドの一員としてふさわしくないのではないか?」というプレッシャーを常に抱えてきた女性。彼女にとって大叔母であるパノニカ(1913-88)は家の恥、下品な女、はみ出し者として、話題にすることすらタブーだったのですが、自分と似ているように直感し、強い興味と親近感を覚えるようになります。パノニカを探る旅は、作者ハナ自身を探す旅でもあります。
 
 パノニカを訪ねて、彼女がロンドンから初めてNYに旅をしたのが1984年。偶然にも私がヴィレッジ・ヴァンガードでニカを観たのと同じ年でした。

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 NYに着いたハナはニカに電話をかけます。
「大叔母様、私は今、NYにおります。ぜひお目にかかりたいのですが。」
 「それじゃ、真夜中にダウンタウンのジャズクラブにいらっしゃい。」とニカは神経質そうにクラブの住所だけ言った。
 「住所だけで判るのですか?」 物騒なNYの町で右も左も分からないハナが不安気に言うと、
 「目印はベントレー。」それだけ言って電話は切れた。
  地下組織で活躍したニカらしい逸話です。
 毛皮のコートに真珠のネックレスのニカは、お決まりのテーブルに陣取り、いかにもくつろいだ雰囲気だった。71才の大叔母はジャズのために、家族を捨てた人。彼女は初対面のハナにこう言います。
「覚えておおき。人生は一度しかないのよ。」

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Brilliant Corners (Photo credit: Wikipedia)

 ニカに会って、ハナはますます興味を掻き立てられます。そんな彼女の元に、ニカは2枚のLPを送ってきた。一枚は、”Pannonica”を収録したモンクの『Brilliant Corners』、そしてもう一枚がトミー・フラナガンの『Thelonica』だった。

 ホレス・シルヴァーやソニー・クラーク、ジジ・グライス・・・数多の音楽を献上されたニカは、多くのレコーディングの中から『Thelonica』を選んだ訳は、音楽を聴けばよく分ります。フラナガンが、モンクとニカの関係を、最善の形で音楽として表現していたということに違いありません。
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ニカとその兄弟:(左から、ヴィクター、ミリアム、リバティ、パノニカ)

220px-Narranga_tessularia_male.jpg “パノニカ”という名前が、父の発見した新種の「蝶」に因んだものだということは、以前Interludeに書きましたが、このドキュメンタリーでは、実際の”パノニカ”は美しい蝶ではなく「蛾」だった。英国王立自然史博物館に所蔵される標本を観たハナは、その蛾の色を、ヒトラー以前、ロスチャイルド家のハウス・ワインであった、「シャトー・ラフィット・ロートシルトに浸したような色と表現している。

 
 

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 その逸話が象徴するように、令嬢パノニカの子供時代は決してバラ色でなかった。一家の住居は、人里離れた丘の上に建つ ワデスドン・マナーと呼ばれる城、英国王や首相を始め各国の要人が客として訪れる。ロココ風の豪奢な調度品や、当主が集めた珍しい動物の剥製の数々!
 
 紅茶に入れるミルクだって、3種類の牛からお好みの乳を選ぶんですから、私のようなドブ板庶民には想像もできない世界。
 でも、子どもたちにとって、その城は、おとぎの国どころか、息の詰まる場所だった。清潔過ぎる部屋、看護婦や召使に囲まれて、鬼ごっこすら出来ないし、好きな洋服も食事も選べない。
 女の子はドレスのリボンの色まで決められていた。
 母親ロジツカに会えるのは寝る前に、お祈りする時だけ。
 そして何よりも驚くべきことは教育。女の子には高等教育が許されなかった。美しく成長したら、社交界にデビューし、よき伴侶をゲットし、多くの子供を作ることが女の努め。
 ロスチャイルド家だけでなく、名家というものはそういうものだったそうです。
 <モンクとロスチャイルドの共通点>

  

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nica (Photo credit: ChrisL_AK)

 女性の教育を嫌ったロスチャイルド家ですが、ニカの姉上、ミリアムは「蚤の研究家」として生物学史に名を残しているし、父チャールズ、兄ヴィクター、銀行家として投資に勤しむ傍ら、科学の研究でも成果を残しています。彼らのペットがフクロウで、まるでハリー・ポッターの魔法学校!

 パノニカだって英国女性として初めてA級パイロット免許を取得しています。(だから、兄ヴィクター・ロスチャイルドは、ニカの結婚祝いに飛行機(!)をプレゼントした。) 脳のCPUが並外れた家系なのかも知れません。

 その反面、パノニカの姉、リバティは統合失調症で苦しみ、父チャールズはうつ病のために自分の喉をナイフで掻き切ったという負の歴史を背負っています。

 チャールズ・ロスチャイルド卿の自殺のニュースは国中を駆け巡りましたが、母ロジツカは子供達にその不幸な事実を隠して、病死を偽った。子供達が成長して、悲惨な事実を知った後も、家庭でその話をすることはなかったといいます。パノニカが家庭を捨てて、ジャズメンと人生を共にした遠因はそこにあったのでは、とハナは感じています。
 
 一方、セロニアス・モンクの父親も警察署長になったほどの優秀な人でしたが、後に精神を病み療養所で亡くなり、モンク自身も精神を蝕まれて亡くなった。
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 ニカの子どもたちの親権は全てケーニグスウォーター男爵に。

<ニカはモンクの愛人だったのか?>

   

round_midnight_single.jpg パノニカがモンクに惚れこんだのは1948年、まだモンクが無名の頃、兄のピアノ教師であったテディ・ウイルソンに”Round Midnight”のレコードを聴かされたのがきっかけでした。それからニカは20回以上立て続けにこのレコードを聴き続けたと言います。モンクの音楽のおかげで、彼女はアルコール中毒から立ち直った。
 ニカの非凡なところは、その時の思いを一生持ち続けたところ。
 ニカはモンクのためなら何だってやってのけた。自らマリファナ所持の罪をかぶって拘置所に入った。何故ならモンクは黒人で無防備なアーティスト、自分は白人女性で金持ちだからダメージは少ないと。チャーリー・パーカーが彼女の住むホテルの部屋で「変死」し、黒人と共に逮捕されたパノニカは、変態、淫乱男爵夫人として、マスコミから大バッシングを受け、ロスチャイルド家からも見放され、夫から離婚を言い渡されても、モンクとジャズへの愛情は揺るがなかった。
 ニカはモンクだけでなく多くのジャズ・ミュージシャンの面倒を観ていました。
 ハナは、彼女の信念が、ロスチャイルド家で父を亡くした生い立ちと、ホロコーストにつながったユダヤ人差別に密接に関わっていることを映像で証明していきます。
 
 モンクにはジャズ界で良妻の誉れ高いネリーといういう妻と子供がいましたが、ニカとの関係は男女のものだったのか?これまでの伝記と違って、ハナはその辺りを興味本位でなく、真摯にクローズアップしています。
 
  晩年、ネリーは精神に以上をきたしたモンクに付き添い、ニカの邸宅”キャット・ハウス”に移り住み、葬儀には、ネリーとニカが並んで参列者に挨拶をした。 妻妾同居?  息子のTSモンクは、「そりゃニカはモンクに惚れてたんだ。」とシニカルにコメントしています。一番上の写真でも、ニカのモンクに対するまなざしは愛情に溢れています。  それでも、三角関係のややこしさの痕跡はどこにもありません。夫や子供を犠牲にしてモンクの元に走った女なら、それこそ財力にモノを言わせて、モンクを離婚させる事だって出来たかもしれない。  でもそんなことは全然起こらなかった。確かに愛していたのでしょうが、私たちの定規を越えた愛だったに違いない。 
 トミー・フラナガンの名作『Thelonoca』の硬質なバラードを聴くと、二人の稀有な友情が、色恋を超えたものだったことが、何となく分るように思えます。  私も、まだまだパノニカに夢中、今度はハナ・ロスチャイルドの書いた伝記本も読んでみよう!  
 
 今回、貴重なDVD、『The Jazz Baroness』を見せてくださったサックス奏者、高橋氏に心より感謝します。  
 
CU  

J.J.ジョンソン我がキャバレー・カード闘争(後編)

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 1958年10月、J.J.ジョンソンは、他2名のミュージシャンと共に、キャバレー・カード申請で、人権を侵害されたとして、NY市警察本部長と警察年金基金の理事13名を相手取り、NY州上級裁判所に告訴した。

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  あと二人の原告は、ジョニー・リチャーズとビル・ルビンスタイン、リチャーズはフランク・シナトラでヒットした”Young at Heart”の作曲者として名を残すバンドリーダー。彼は自分の楽団にルビンスタインをピアニストとして雇用する予定だった。ところが、ルビンスタインが過去の麻薬問題を理由に、キャバレー・カードの再申請を却下されたことで、演奏活動に大損害を受けた。

 原告団の代理人、マックスウエル・コーヘン弁護士は、バド・パウエルのキャバレー・カード事件以来、キャバレー法の制度的問題を追求してきたリベラル派の弁護士。同志には、マフィアと警察の両方に、みかじめ料を払っているのにも関わらず、バド・パウエル出演の一件で煮え湯を飲まされた「バードランド」の経営者、オスカー・グッドスタイン、”Jet” や”Ebony”など黒人向け人気雑誌の編集長、アラン・モリソンがいた。この訴訟を、バックでサポートしていたのは、”Local 802″(NY地域のミュージシャン組合)、”American Guild of Variety Artists”(演劇、演芸など、舞台人の組合)という、芸能関係の労組で、キャバレー法が違憲であることを主張し、無効にすることを目標としていた。

 つまり、この訴訟は、労働争議的な性格があるのですが、ジョンソンとしては、自分の生活と、仕事場から閉めだされ、破滅させられた仲間の十字架を背負ったイチかバチかの勝負でした。

 注射針の所持だけで逮捕されたJ.J.ジョンソンは、本当に潔白だったのでしょうか?

 ジョンソンの音楽評伝”The Musical World of J.J.Johnson”には、「決して麻薬中毒ではなかった。」とはっきり記されています。その一方で、終生親交のあったジミー・ヒース(ts)は、自分とドラッグとの関わりを赤裸々に告白した自伝”I Walked with Giants”に、コルトレーンやマクリーンと同様、「札付きのヘロイン中毒」であった仲間の一人と語っています。

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 いずれにせよ、J.J.ジョンソンが、進んで原告となった際には、かなりの勇気と覚悟が必要だったはずです。

 法廷でのジョンソンは、品格と知性に溢れる一流のアーティストで、どう見てもジャンキーではなかった。『J.J in Person』のMCさながらに、自分のカード申請が却下された顛末を、明瞭に証言し、裁判官に「人権を守る正しい法的な手続を受けられなかった善良な市民」であることを、強く印象付けました。

  審理は二日間に渡り、コーヘン弁護士は、ジョンソンの証言を裏付ける強力な証人を用意していました。

 

<証人登場>

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 まず、J.J.ジョンソンの妻、ヴィヴィアン(上の写真)が出廷、夫の家族愛について感動的に証言した。そして業界の著名人がどんどん証言台に立ちました。

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 大レコード・プロデューサー、カウント・ベイシーからボブ・ディランまで、多くのスターを育てたジョン・ハモンドもその一人。

 「キャバレー・カードは、ミュージシャンがNYで生活費を稼ぐため、当然持つべき権利のあるカードです。それにも関わらず、申請する際、まるで犯罪者のように指紋をとられている。明らかにハラスメントですよ。」 ハモンドの証言は、警察が憲法と人権を冒涜しているという原告の主張と完璧にマッチしたものでした。

 

 

 

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 TVでおなじみの人気司会者、スティーブ・アレンも証言した。黒縁メガネがトレードマークのアレンは放送作家出身でジャズ通、自ら音楽もたしなむ。ちょうど大橋巨泉の元祖みたいな人です。全米の人気番組だったTonight Showの初代ホストだった大物タレント。ジョンソンは彼の番組にしょっちゅう出演していた。

「私の番組には、健全な人物しか出演させません。麻薬犯罪者を、自分の番組に出演させたことなどないですよ。まして出演者がスポンサーや視聴者と問題を起こしたこともありません。はい、もちろんジョンソン氏には何度も私の番組に出演してもらっています。」

 

 

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 そして、意外にも、法廷で最大のインパクトを与えたのは、歌手でTVタレントのデヴィッド・アレン!ヴォーカル通なら、彼がジャック・ティーガーデンやボイド・レイバーン楽団で人気を博した後、麻薬で逮捕され引退していたことをご存知かも。(左は’70年代にザナドウから出たバリー・ハリスとの共演盤)

 アレンは、リハビリ後、カード再申請の際、警察の妨害を受けたことを証言した。その内容もさることながら、第二次大戦の功労者であることが重要だった。前線でマラリアに罹り負傷、勲章を授与された退役軍人だったんです。米国社会で戦争の功労を無視するというのは、日本人が考えるよりずっと理不尽なことだった。

 幸か不幸か、おまけに法廷で大ハプニングが!アレンは、戦場で罹ったマラリアの発作に襲われて、法廷で倒れたんです。これがホームラン!気の毒に・・・お国のために戦った人が、なんと気の毒に・・・審理の流れが一挙に優性になった。

 「デイヴが法廷でマラリアの発作に襲われたことが、審理に新しい展開をもたらした。証人でありカードの申請者であるデイヴが、判事や傍聴人の面前で、国のための戦いで負った痛みに襲われた。我々の証言者や目撃者は、もはや単なる法廷の申請者ではなく、苦悩し涙する人間となったのである。」コーヘン弁護士の著書”The Police Card Discord”より

<判決>

 ジェイコブ・マコーウィッツ裁判長は、原告、被告の代理人達と非公開審議を行った後、判決を言い渡した。

  •  NY市警は、原告ジェームズ・ルイス・ジョンソン、ビル・ルビンスタイン両名に対し、直ちにキャバレー従業員身分証を発給すること。
  • 人権重視と人道主義にのっとり、キャバレー従業員身分証発給の指針を緩和すること。

 ジャズ研究の大御所、ダン・モーガンスターンは喝采を叫びます。「J.J.ジョンソンこそが、不愉快極まりないNYのキャバレー法の化けの皮を引っ剥がしてくれた!」

 裁判所命令に添って、即刻キャバレー・カードを支給されたジョンソンは、数週間後にヴィレッジ・ヴァンガードに出演を果たしました。

  めでたしめでたし、というわけではない。結局キャバレー・カード制度を違憲とするコーヘンの主張は認められず、制度が廃止されるのは、これからまだ8年の歳月がかかります。有名コメディアンがカード申請のトラブルの間に死亡したり、麻薬前科のあるフランク・シナトラが、当局の「お目こぼし」によって、カードなしに堂々と高級クラブに出演していたことが発覚し、NY市警本部長が退任するほどの大スキャンダルを巻き起こしてからのことです。

 その後のJ.J.ジョンソンの人生も、決して平坦なものではなかった。常に「明瞭かつ論理的」をモットーにした天才にとって「明瞭でなく理に叶わない」ことは耐えがたいことだったのではないだろうか?自ら銃を取って幕引きをした彼の人生そのものが、激烈な闘争だったように思えてなりません。

 

  「暮らしの術を奪うとは、俺の命を奪うも同然。」 

    シェークスピア:「ベニスの商人」 第4幕1場。

J.J.ジョンソン:我がキャバレー・カード闘争(前編)

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  このところ、足跡講座で毎月聴いてるJ.J.ジョンソンのレコーディングは、大胆不敵で非の打ちどころがない。レギュラー・ピアニスト、フラナガンは「あれはトロンボーンじゃない!べ・つ・も・ん。」と言った。恐るべしJ.J.ジョンソン…彼がもし科学者だったらノーベル賞をもらったかも・・・極悪人なら山ほど完全犯罪をやったかも… そんな天才もたった一度だけしくじった。それは1946年にキャバレー・カードを剥奪されたこと。理由は「麻薬所持」ではなかった。なんと「注射針」がポケットから見つかっただけ。

 <キャバレー・カードとは>

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これがキャバレー・カード(キャバレー従業員身分証)
 NYのキャバレー・カードは「キャバレー従業員身分証」で、いわばクラブ出演のパスポートと呼ばれた。このカードを剥奪されたおかげで生活の糧を奪われたジャズの巨人は、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディ、バド・パウエル、セロニアス・モンク、ジミー・ヒース、ジャッキー・マクリーン、ソニー・クラークetc…と枚挙にいとまなし。そもそもNY特有のキャバレー・カードとは何でしょう?

 キャバレー・カードの起源は、禁酒法時代に大繁盛したモグリ酒場(Speakeasy)を統括するためにNY市がひねり出したの苦肉の条例。だいたい非合法ビジネスを法律で管理するというのが無茶で、酒場と言えないからキャバレーにして、店の営業許可制度と従業員の身分証制度を作った。

 条例におけるキャバレーの定義は、歌やダンス、それに類する音楽的娯楽と、「飲食物」の販売が関連する業態の部屋、空間、場所、回りくどいね!とにかく、もぐり酒場の営業許可証制度を敷く法令を作ったのです。だから元々は店の営業許可。それがいつの間にか従業員の就業許可制度になった。

 禁酒法のおかげでモグリ酒場は大儲け!故にキャバレー法を管理する認可局と警察には、酒場からの賄賂で潤った!ついでに警察年金基金も潤った。だから、或いは、しかしか?禁酒法撤廃後もキャバレー法は存続します。

 1940年代、全米に労働組合運動の嵐が吹き荒れて、米国に、「赤狩り」時代到来!社会主義革命を恐れる余り、自由の国アメリカ、その大統領がFBIに「合衆国の治安を脅かす可能性のある国民のリスト」を作った時代、キャバレー法はストライキ防止のための条例になった。つまり、キャバレーで働くコックやウエイターさんが組合活動なんかしないように、好ましくない分子を規制するのに使われた。この時代にキャバレー・カードという従業員身分証制度が生まれたんです。カードは調理師やウエイターだけでなく、出演ダンサー、ミュージシャン、コメディアンも取得しないと働けない。前科者や麻薬中毒者にカードは支給されない。NYのアルコール販売局が関わりながら、実質的な審査と発行はNY市警、発行手数料は警察年金基金にまわすというシステムになった。

<事例①:J.J.ジョンソン>

 J.J.ジョンソンの場合は、1946年に「注射針」が発見されて逮捕、司法取引に応じたジョンソン「有罪」を認めた。有色人種がお上にたてつくなんてありえない時代です。結果、実刑は免れたものの、キャバレー・カード剥奪。主要ジャズ雑誌の人気投票では常に1位であったのにNYのクラブ出演はできない。ツアーに出るか、劇場に出演するか、川向こうのニュージャージーのクラブに出るしかなかった。それでも、名門コロンビア・レコードからコンスタントにレコーディングすることが出来たのは、人気と実力がいかに凄かったかの証明です。

 ジョンソンは、その後もカード再発行の申請を続けましたが、NYPD(NY市警察)の認可局は一貫して却下。彼が一旦青写真技師として工業メーカーに勤務した原因のひとつです。
 事件から10年後の1956年11月、NY市警察はやっとこさ、6ヶ月間限定の臨時カードを交付してくれました。ただし出演できる店は一件だけ、そしてNY市立病院発行の「麻薬中毒者でないことの診断書」をもってこいと言われた、どだい、そんな証明書を私立病院は発行しない。NY市警はそんな証明書がないことを承知で無理難題をふっかけた。

 トミー・フラナガンのレギュラー時代、ジョンソンが海外の長期ツアーに出たり、NJの店「Red Hill In」ののライブ・レコーディングがあるのに、NYのクラブ出演はカフェ・ボヘミア以外ほとんどないのは、このためです。

 <事例②:バド・パウエル

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Jazz Original (Photo credit: Wikipedia)

 NY史上最もリベラルな法律家と言われるマックスウエル・コーヘン弁護士とキャバレー法の関わりは、1951年のバド・パウエルの事件がきっかけです。パウエルは精神病院を退院してまもなく、「バードランド」から出演依頼を受けた。それでキャバレー・カードを申請するも、「不適格」として却下。ドル箱興行が潰されて怒ったのは「バードランド」のマネージャー、オスカー・グッドスタイン、実はこの人も法律家です。パウエルの友人である黒人メディア「Jet」や「Eboby」の編集長、アラン・モリソンも怒った!そこで彼らは、コーヘン弁護士にパウエル事件の法的調査を依頼した。 すったもんだの末、パウエルもJ.Jのように限定的カードを発行され、「バードランド」のみの出演が可能になっただけでした。

 調査を進めていく内に、コーヘン弁護士は驚いた!

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 「私の徹底的な調査研究の結果、バド・パウエル(あるいは類似の従業員)に対し、NY市警がキャバレー・カードを要求する法的根拠は、どこにも存在しないことが明らかとなった。」 (コーヘン著書「The Police Card Discord」より) 

 バド・パウエルの窮状がきっかけで、このキャバレー・カード訴訟に発展するまで、7年の月日がかかったんです。

 <J.J.ジョンソン参戦>

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左からコーヘン弁護士と原告団J.J.ジョンソン ビル・ルビンスタイン(p)、ジョニー・リチャーズ

1959年5月、J.J.ジョンソンは、作編曲家、バンドリーダーのジョニー・リチャーズ、ピアニスト、ビル・ルビンスタインとともに、NY州上級裁判所に訴状を提出。被告人はNY市警本部長とその代理人、及び警察年金基金の理事13名。原告代理人、同時に裁判の仕掛け人は、コーヘン弁護士、「名目上の原告達」のバックにはオスカー・グッドスタイン、そしてミュージシャン組合などこの業界関連の労働組合がおり、キャバレー・カード条例が憲法に反し、違法に申請手数料が警察年金に流用されていることを主張するためでした。

 訴状の項目は119アイテムに及ぶもので、原告はキャバレー・カードのせいで財産に不当な損害を被った善良な市民である音楽家3名、なかでも人気ジャズマンのJ.J.ジョンソンは、「善良な米国市民が、キャバレー・カードを剥奪されて、経済的にも精神的にも甚大な被害を被った完璧な好例」だった。

 原告になると、衆目にさらされ、揚げ足をとられるかも知れない。でもジョンソンはリスクを顧みず、進んで原告を引き受け法廷に出た。ジョンソンの英断は、自分が受けた仕打ちだけでなく、バド・パウエルのように人生をめちゃくちゃにされた多くの同胞を代表して戦うんだ!という強い使命感があったからです。

 原告、J.J.ジョンソンの運命はいかに?判決は?続きは次回。

 

 

Black and Tan Fantasy 幻想の時代

allIMG_1518.JPG第21回トリビュート・コンサート開催!

 久々に駆けつけてくださった懐かしいお顔、初めてのお客様、いろいろ楽しいご縁ができるのも、トリビュート・コンサートご利益です!

 皆様、応援ありがとうございました。

 『OVERSEAS』でおなじみの”Beats Up”から、アンコールのエリントン・メドレーまで、フラナガンの演目は、所謂スタンダード・ソングが少ないので、毎回、曲目説明をHPに出しています。ぜひご一読ください。

 今回は、ジャズ評論家&名カメラマン、後藤誠氏の写真のおかげで、かっこよくUPできました。後藤先生ありがとうございます!

 
 
 
<黒と茶の幻想って?>
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 トリビュート・コンサート、アンコールで聴いた、”Black and Tan Fantasy”がまだ耳にこだましています。この曲は「黒と茶の幻想」というアートな邦題。デューク・エリントン・コットン・クラブOrch.のヒット曲、短編映画では、美しいダンサーが、病を押して愛するエリントンのためにダンス踊り死んでいく・・・ああ、美人薄命・・・という半分悲劇仕立て。幻想的ではあるけれど、”ブラック&タン”の意味はあまりよくわからなかったのです。

 最近、モータウン以前のデトロイトのジャズ史、”Before Motown”のBebop以前の章を詳しく読むと、“Black and Tan” という言葉の意味が詳しく書かれていて目からうろこでした。

<Black and Tan>

harlem_nocturne.jpg  “Black and Tan “という言葉は、この曲が生まれた1920年代にできた言葉だそうです。“Black”は「黒人」、そして茶色というよりはむしろ「小麦色」、「褐色」を意味する“Tan”は、「褐色の美女」ではなく「白人」を指す。すなわち“Black and Tan “ は「黒人&白人」だというのです。現在は米国人にもわからない言葉です。

  1920年代以前は、売春宿のサロンではない一般社会では、”ジャズ”のような音楽さえ、白人の聴衆は白人の演奏を聴くのがふつうでした。それが、第一次大戦後に、「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれる黒人文化の開花期が訪れ、白人の間でも、ジャズや文学など、黒人の文化がとてもかっこいい、おしゃれなものとしてもてはやされるようになり、白人客のために、黒人たちのダンスや音楽を聞かせるキャバレーやバーが流行しました。それが“Black and Tan “ なんですって!

 フラナガンの生地、デトロイトでも、 第一次大戦後、“Black and Tan “の店は、パラダイス・バレーで繁盛しましたが、なんといっても全米一の“Black and Tan “ はNYハーレムの”コットン・クラブ”、そこで“Black and Tan Fantasy”が生まれた!  当時“Black and Tan “の主役は、楽団ではなく、褐色の踊り子たちが繰り広げるセクシーなショウでした!衣装は限りなく裸に近く、ジャングルをイメージしたもの。  白人にとっては、黒人=アフリカのジャングルというステレオタイプを逸脱すると、売れなかった。だから、エリントンもジャングル・ミュージックを演るしかなかったんですね。

 エリントンという人は、最初は春歌みたいなのを演っていて、だんだん「芸術家」に化けていく。それも桁外れの芸術家に化けるのだからモンスターですね!エリントン楽団は“Black and Tan “仕様 、白人のお客向けのレパートリー・ブックと、同胞の黒人向けのブックの二通りのレパートリーを装備して、演奏活動を行っていたのです。

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 視点を変えると、”Black and Tan”こそが、ジャズ芸術が一般社会に認知される出発点であったのだと”Before Motown”は結論付けています。”Black and Tan”の営業形態はさまざまで、「コットンクラブ」は白人専用高級クラブ、有色人種はお客になれなかった。でも、客席も人種混合というのも数多くあったそうです。

 エリントンは、白人社会の偏見を受容しながら、芸を荒らすどころか、逆に新しい「芸術」を作っていったというのが、すごいですね! 

 
 
<ブラック・ビューティ、フレディ・ワシントン>tumblr_lfc7tbNiU31qgtqgzo1_500.jpg

  余談ですが、短編映画のヒロインを勤めた美しい女優さんはフレディ・ワシントン(1903-1994)といい、ブラック・ビューティの草分け的な女優さんです。ブロードウエイのダンサーであった彼女の映画デビューが『Black and Tan』でした。当時の映画界で黒人の役といったら、ほとんど「召使」、美貌ゆえ、却って役柄に苦労した。エージェントは「あんたの外見は白人で通るのだから、仕事のために自分を白人といいなさい。」と勧めたけれど、「私は黒人です!」と、人種的なプライドから、ガンとして首を縦に振らず、いろいろ苦労をしたといいます。
 
 映画『Imitation of Life』では、黒人の血を引くことを隠して生きる、自分とは逆のヒロインを演じたため、バッシングを受けるという目にもあいましたが、のちにアカデミー賞にノミネートされました。
 
 私生活では、エリントンと浮き名を流しながら、楽団のトロンボーン奏者、ローレンス・ブラウンと結婚、目の覚めるような美男美女の二人がハーレムを闊歩すると、町が騒然としたという伝説もあります。
 
 その肌の白さゆえ、さまざまたな苦難にあったワシントンは、後年、黒人俳優のコンサルティングを務め、公民権運動にも大きな貢献をしたといいます。
 
 日本も外国も、明治の女はエライ!
 
 そんなことを思い返しつつ、私の耳にはトリビュート・コンサートでThe Mainstemが演奏した“Black and Tan Fantasy”がこだましています。
 

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 コンサートのCD(三枚組)がもうすぐできる予定ですので、ご希望の方は、当店までお申し込みください。
 
CU 
 

 

 

タブロイド的 ”ブルーバード・イン”考

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  明日11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日、デトロイト・ハードバップが産声を上げたジャズクラブ “ブルーバード・イン”について書くことにいたします。フラナガンがケニー・バレルと録音した『ビヨンド・ザ・ブルーバード』は、このクラブへのオマージュです。..

   地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒルと、NY帰りのモダン・ドラマー、アート・マーディガンから、ポスト・ハードバップのジョー・ヘンダーソン(ts)まで…デトロイトのモダンジャズの象徴的ジャズクラブ、ここしばらくは毎月の足跡講座で楽しむことが出来るデトロイト・ハードバップの基礎を構築したビリー・ミッチェル+サド・ジョーンズ+トミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズたちが出演した期間は1953年から54年と、驚くほど短いのです。でも、その間の思い出は、出演ミュージシャン達めいめいのジャズライフのハイライトを飾る重要な位置を占めています。

 

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 1948当時の”ブルーバード・イン”、玄関脇の窓際がバンドスタンドで、OverSeas旧店舗とよく似てるとフラナガンが言っていた。フィル・ヒル(p)、アート・マーディガン(ds)、エディ・ジャミソン(as)、ビーンズ・リチャードソン(b)、エイブ・ウーリー(vib)

 

 

 

  創業1930年、”NYの名門クラブと違い、黒人の経営する黒人のためのジャズクラブ、お客の99%が黒人でしたが、店の中では驚くほど人種のこだわりがなく、気取りもない。(ペッパー・アダムス証言)とにかく別世界、最高の雰囲気!いかなる公的援助も受けず、21世紀になっても業態を変えながら営業を続けた大変な老舗でもあります。

 サド・ジョーンズの曲「5021」のとおり、”ブルーバード・イン”の住所は、「5021 Tireman St, Detroit, MI 48204」いかにも自動車工業の街を思わせる”タイアマン”地区は、デトロイトのウエストサイドにあり、旧来の黒人居住区(ブラックボトム)のあるイーストサイドと反対側のの新興住宅地です。開店の1930年は、奇しくもトミー・フラナガンの生まれ年でした。

 タイアマンのあるウエストサイドの黒人居住地は、第二次大戦の戦争特需で街が好景気に転じた時期に開発されました。徴兵の為に労働者が不足した結果、黒人の雇用が安定し、収入の増加を受け、黒人用一戸建て住宅が沢山建設されたと言います。

 因みに、フラナガンのお父さんは景気と余り関係のない実直な郵便配達夫、生家のあったコナント・ガーデンズは、タイアマンから北東約10キロの地区でした。

<経営者たちのアウトレイジ>

 銀行の援助の期待できない黒人のビジネス、”ブルーバード・イン”の創業者は町の顔役、デュボア・ファミリーのロバート・デュボアといいます。開店当時はアメリカ料理と中華料理が楽しめるレストラン・バーで、ジャズクラブではありません。

 1938年、創業者ロバートは息子に殺害されてしまいます。父親殺しのバディ・デュボアが戦勝の恩赦で出所する1945年まで、子分のヘンリー・ブラックが社長代行を務めました。

 デュボアは戦後のビバップ・ブームに着眼し、モダンジャズに特化したジャズクラブへ経営方針を変更、するとそれが大当たり!1948年ごろにはデトロイトでピカイチの音楽を提供するトップ・ジャズクラブとなっていました。

 当時のクラブは、コミックやダンスといった他の出し物を合わせるショウバー形式か、ダンスホール兼用が多く、『聴く』を重視した”ブルーバード・イン”のジャズクラブ戦術は最も都会的でおしゃれなものだったんです。

bebop_look.jpeg お客は、近隣だけでなく、デトロイト中からやってきました。ミュージシャンもリスナーも、客席のほとんどがビバップ・ファッション、ディジー・ガレスピーよろしくベレーと眼鏡にヤギ髭とカーディガン・ジャケットという出で立ちで、ジャズに聴き入り、ミュージシャンを応援してくれたのです。幕間にジュークボックスでダサい音楽をかけようものなら、バーテンにまで怒られる始末でした。

 当時のハウス・バンドは地元のモダン・ピアニスト、フィル・ヒル、NYから戻って来たアート・マーディガン(ds)を中心に、ワーデル・グレイ(ts)や近所の住人、ビリー・ミッチェル(ts)、それに地元の有名ミュージシャンが参加。ヒルは駆け出しのトミー・フラナガンを可愛がり、まだ16才のトミーにピアノを演奏させたことがあったそうですが、経営者のデュボアに追い出されたという証言が残っています。未成年だったからかもしれませんね。

Clarence_Eddins1950s.jpg 1953年、実業家クラレンス・エディンズ(左の写真)が共同経営者として本格的に参入。ちょうどフラナガンが朝鮮戦争から帰還し、テリー・ギブズ(vib)にスカウトされNYに進出したテリー・ポラードの後任としてハウス・ピアニストになった頃です。エディンスはクリーニング屋や食堂などを経営していましたが、本業はナンバーズ賭博の胴元です!恐らくはデュボア・ファミリーに資金を提供していたのかもしれません。エディンスはジャズを愛し、マイルズ・デイヴィスの後援者として有名でした。マイルズが麻薬と縁を切るためデトロイトで滞在したときには、彼に様々な便宜を図り、”ブルーバード・イン”に出演させ、ホテルを世話し、自分のワードローブさえ自由に使わせる寛大なタニマチでした。

ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、マックス・ローチなどNYSugar-Ray-Robinson.jpgのトップ・ジャズメンはデトロイトに来ると必ず”ブルーバード・イン”に顔を出して、サド・ジョーンズのアイデアを吸収し、見込みのあるミュージシャンをチェックして行きました。デトロイト出身の大チャンプ、シュガー・レイ・ロビンソンも”ブルーバード・イン”のセレブな常連でした。

 やがて第二の凄惨な事件が起こります。1956年、バディ・デュボアが店から僅か数ブロック離れたところで待ち伏せにあい殺されたのです。事件は迷宮入り、エディンスが名実ともに唯一の経営者となったわけです。この頃には、トミー・フラナガン、ケニー・バレル、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルは皆NYに進出していました。

 

<ブルーバードの変貌>

  フラナガンが「OVERSEAS」をスエーデンで録音する頃、”ブルーバード・イン”は改装、窓際にあったバンドスタンドは店の奥に移り、NYのトップ・グループを出演させるブッキング、いわばデトロイト版「ブルーノート」となり、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズと言ったハードバップ・バンドがライブ・スケジュールのラインナップを飾っていました。

 SonSti.gifところが、再び暴力沙汰が起こります。”ブルーバード・イン”に頻繁に出演していたソニー・スティットと店が揉め、エディンスがショットガンでスティットを脅した挙句、大事なサックスを壊すという事件が起こり、スティットはAFM(アメリカ事件音楽家協会)に提訴。結果、”ブルーバード・イン”はAFMのブラックリストに入り、会員の出演を禁止する事態に。スターの出ない”ブルーバード・イン”の客足は遠のいて行きました。

 時代は変わり、デトロイトの治安が悪化する’70年代初めにライブを中止。店はそのままに守られていましたが、エディンズは1993年に死去。

 その後、夫の愛した”ブルーバード・イン”の歴史を守るため、未亡人のメアリー夫人が、サンデイ・ジャムセッションなど、様々なイベントを主催しましたが、彼女も2003年に亡くなり、2008年に店舗は競売にかけられました。

 デトロイトでは、”ブルーバード・イン”を史跡として保存しようという声もあるそうですが、時節柄、実現していません。

 上の荒れ果てた店舗の写真を見ると、諸行無常の響きが聞こえて来ます。往時はNYのジャズクラブのようなテントが通りに張り渡してあった玄関口。ブルーの塗装はフラナガンが居た頃にはなかったものでしょう。

 デュボア・ファミリーの抗争も、お客たちの歓声も、窓から漏れ聴こえるライブに耳を澄ます未来のミュージシャンたちの輝く瞳も今はありません。 

 トミー・フラナガンたちの演奏するサド・ジョーンズのオリジナル曲、聴きなれなくとも受け容れて、大きな拍手で応援してくれた”ブルーバード・イン”の陽気で音楽をよく知っていたお客さんたちは、その後どんな人生を送ったのでしょうか? 

 

 土曜日は、トリビュート・コンサート!精一杯お客様に楽しんでいただけますように!まだ少し席はありますので、どうぞ沢山お越しください!

 

CU

 

知っておきたい裏ジャズ史② フレンチなジャズ評論家:シャルル・ドローネー

今日は路地裏から、澄み渡る秋空が…皆さんの街はいかがですか?
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  このところ、講座や本の資料作りにずっとゴソゴソしています。
 トミー・フラナガンやサド・ジョーンズなどデトロイト系、ジミー・ヒースやジョン・コルトレーンなどフィラデルフィア系の音楽家たち…ジャズの歴史は本当に面白くて、秋の夜長にぴったり!調べるほどに、未知の領域、ヨーロッパのジャズ界にぶつかります。というのも、フラナガンより少し上の世代、1920年代或いはそれ以前に生まれたジャズ・ミュージシャンは、ヨーロッパ楽旅を経てから、ワンランク上のアーティストに「化ける」人が多いように思えます。その理由は、ヨーロッパの聴衆の素晴らしさと「おもてなし」が深く関係しているようなのです。故国アメリカでは、どんなに人気があっても、フルトヴェングラーのように尊敬されることは絶対なかった。アメリカの南部ツアーでは、食事できるレストランを捜すにも苦労したコールマン・ホーキンスやベニー・カーターたちが、ヨーロッパでコンサートをすれば、盛装した紳士淑女が熱狂し、王侯貴族のサロンでは同じコニャックを飲み、知識人やセレブが客分として歓迎し、自分達の値打ちを教えてくれたんです。

jazzpoet.jpg   ダイアナ・フラナガンは、「ヨーロッパ、特にフランスのジャズ評論は、こっち(USA)よりずっと知的で素晴らしい。」と言っていました。大学でデカルトの『哲学原理』を購読したにもかかわらず、フランス語といえば、店に来たお客さんにBon Appetit!とニッコリするのが関の山…『Beyond the Blue Bird』や『Jazz Poet』で素晴らしいライナーを書いてくれた大評論家、ダン・モーガンスターンも英国人ですから推して知るべし…

ヨーロッパで咲いたジャズの華として、私がまず思い浮かべるのは、ジプシーのギタリスト、ジャンゴ・ラインハルト、彼を知る前からM.J.Qの演奏するDjangoは知ってました。ウディ・アレンの映画「ギター弾きの恋」を観ると、ジャンゴのギターだけでなく、醸し出すムード全てが、アメリカ人にとって、どれほど”ハイカラ”かというのがよく判ります。

books.jpeg  ジャンゴの時代、フランス・ジャズ界は、ジャズを心底愛する評論家達が、執筆だけでなく、米国ミュージシャンの招聘やプロモート、レコードのプロデュースをしたというからすごい!ジャンゴとヴァイオリニストのステファン・グラッペリで名を馳せたフランス・ホット・クラブ五重奏団…いえ、仏語はhを発音しないのでオット・クラブかも…?とにかく、ホット・クラブというのはジャズ・ソサエティの名前で、このクラブを主催したのが、ベルギー人のヒューゴー・パナシエと、フランス人のシャルル・ドローネーという二十歳そこそこの二人の評論家でした。彼らは、本格的ジャズ評論の元祖と言える人たちで、彼らが1934年に創刊した “Le Jazz Hot ル・ジャズ・オット”は世界初のジャズ専門誌でした。ダウンビートの創刊も同じ年でしたが、当時はジャズ専門ではなかったんです。

  今や常識のディスコグラフィーの元祖もこのドローネーさん、1936年に歴史上初のジャズ・ディスコグラフィーなるものを出版!ドローネーは貴族の血統で、両親は二人ともキュビズムのアーティストです。パリが占領された後も、貴族の責任、ノブレス・オブリージュを果たし、レジスタンス運動に参加、命がけで、たった一枚のチラシとなっても”ル・ジャズ・オット”を出し続けました。

Dela0001.jpg 占領下のパリ、1943年、レジスタンス活動の隠れ蓑となったホット・クラブの編集部をゲシュタポがガサ入れし、ドローネーと他のスタッフ、そして英国の諜報員が根こそぎ連行されてしまいます。取り調べの厳しさは並大抵ではありません。独房に入れられ数週間、ついにゲシュタポの隊員が一人でやってきました。

 拷問か、強制収容所か、ガス室か…? 覚悟したドローネーに向かって、その隊員はこう言ったそうです。

 「あなたのディスコグラフィーを読みました。ラッキー・ミリンダー楽団の頁ですが、2番トロンボーンの名前が間違っていましたよ。」驚いたことに、ナチ秘密警察にも、隠れジャズ・ファンがいたんです。その隊員のおかげで、まもなくドローネーは釈放されましたが、二人の仲間はガス室に送られたそうです。同じころ、アフリカでレジスタンス活動した、パノニカ男爵夫人との接点はあったのでしょうか?色々興味は尽きません。

 命がけでジャズを愛したシャルル・ドローネーはこんな言葉を残しています。

 「生まれて初めて耳にしたジャズのコンサート、私の感動を言葉にすることはいまだ不可能である。」(Django: The Life and Music of a Gypsy Legendより)

 浮世絵を「美術」と認めたのは日本人でなく欧米人だった・・・私たちも負けずに、全てを賭けてジャズを愛して行こうと思います。どうぞよろしく!

CU

知っておきたい裏ジャズ史 その①

 阪神タイガース背番号6番、金本知憲選手の引退が、とてもさびしいです。私よりずっと若いけど「アニキ」と呼ぶことのできるヒーローだった。哀しい秋の気配の中、私は11月から始まる「新・トミー・フラナガンの足跡を辿る」(仮題)の為に、色んな本を読みながら資料収集中!トミー・フラナガンというアーティストのレコーディングを丁寧に辿って行くと、ジャズ史の変遷と共に、音楽以外の社会や文化の様相が見えてくるから面白いですね!
<ナット・ヘントフを知っていますか?>
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nat74896.jpg コルトレーンの”Giant Steps”やバド・パウエルの”Blues in the Closet”などなど、数えきれないジャズ名盤のライナーノートの末尾にNat Hentoffという署名をご覧になったことがおありでしょう。これまで私が最もよく読んだ「ジャズ評論」は、ナット・ヘントフのものかもしれません。英語を読み始めた大昔、定期購読していた週間新聞”The Village Voice”にヘントフが書いたジャズや政治のコラムは、”Down Beat”よりもずっと言葉が難しかった。でも、ヘントフ自身の生の体験をベースに、思いがけない切り口で考察する彼の文章は、NYの香りとインテリっぽい魅力があり、ミーハー気分で、辞書を引くのももどかしく、夢中で読みふけりました。
nat1060196_p.jpg ナット・ヘントフ、1925年,ボストン生まれ、ジャズ批評だけでなく、自ら”Candid”というジャズ・レーベルを主催、ジャズに深くコミットしながら、小説家、ジャーナリストとして多面的に活動、80才を越えた今も、論議を巻き起こすようなコメントをどんどん発信しています。ヘントフにとって、ジャズとは「強烈な主張と個性を持つミュージシャン達が、お互いの言葉(プレイ)を誠実に聴き合うことによって、音楽と言う素晴らしい調和を作り上げる」アート!それはアメリカの唱導してきた自由民主主義そのものなのです。彼は時代の風向きに動じず、堂々と人工中絶に反対を唱え、「誇り高き時代遅れ、石頭で不信心なユダヤ人」を自称している日本にないタイプのジャーナリストです。
<ジャズ雑誌のジム・クロウ>
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 少年時代からジャズに魅せられたヘントフは、僅か10代で、ボストンのラジオ局のジャズ番組のホストを担当してから、ジャズ評論家への道を歩むのですが、「師と仰ぎ尊敬する人」とヘントフが挙げるのは、先輩評論家ではなく、音楽だけでなく、人間的な触れ合いから色々学ぶことのできたという、デューク・エリントンやジョー・ジョーンズ、チャーリー・ミンガスやコールマン・ホーキンスなどのジャズメンばかりです。ひょっとすると、それがダウンビートに解雇される一因だったのかも知れません。
 1952年、JATPを主催するノーマン・グランツの推薦で、レナード・フェザーの後任として、憧れていた”ダウンビート”マガジンの共同編集者としてNYで勤務。毎夜ジャズ・クラブで演奏を聴き、尊敬するミュージシャンの話を聞きながら、嬉々として執筆活動を続けます。
 現在の”ダウンビート”は月刊誌ですが、当時は週刊誌として相当な発行部数を誇っていました。本社はシカゴで、NYやLAに支所があり、黒人の芸術であるジャズのニュースを発信していたのです。まだ公民権法は成立していなくとも、「ジャズ・ジャーナリズムに、人種の隔離はありうべからざるもの。」少なくともヘントフは固く信じていました。
でも、”ダウンビート”社の隅から隅まで探しても、黒人の従業員はいなかったのです。
 1957年、ヘントフの勤務するNY支社で、「受付」やその他の秘書的な業務をしてくれるスタッフが欠員となり、新人を募集することになりました。会社の規則には「スタッフの雇用は事前に社長の許可が必要」という項目があり、ヘントフがその理由を聞いてもはっきりしなかった。とにかく人手不足で困っていたので、面接の結果、一番経歴が優秀で、頭脳も性格もよさそうな候補者は、たまたま黒人女性でした。黒人の音楽で利益を得ている会社なんだからと、ヘントフの一存で採用決定!ところが、その直後にシカゴ本社の社長がNYにやってきて、受付に黒人が座っているのを発見されてしまいます。
 週明けにヘントフが、レビューするレコードや原稿一式を抱えて出社すると、彼のデスクはなくなっていました。ヘントフは、その黒人女性とともに名門ジャズ雑誌、”ダウンビート”を解雇されてしまったのです。
 後に、その女性が黒人ではなくエジプト系アメリカ人であったと判ったのですが、有色人種であることには変わりありません。あなたが、どんなにジャズを愛し、聡明でシックな人であったとしても、有色人種である限り、1957年代のダウンビート黄金時代のスタッフにはなれないのです。
nat9a970c-320wi.jpg 1957年といえば奇しくもトミー・フラナガンのOverseas録音の年、余談ですが、この年のNYには、三島由紀夫が長期滞在していました。自作の戯曲でブロードウェイを征服したいという野望を持って意気揚々とやって来ましたが、色々な努力も徒労に終わってしまいました。時代が早過ぎたんですね。
 さて、ジャズ誌をクビになったことで、ヘントフはタイム・マガジンや全米の一流誌のコラムニストとして、活動の幅を広げたわけですから、人生は不思議です。私としては、解雇されたエジプト系の女性が、その後どのような人生を送ったのかを知りたいのですが…
 というわけで、毎月第二土曜の新講座、ヘントフ以上に率直に、ジャズへの愛情をこめて、寺井尚之が、皆さんの聴きなれた名盤の、まったく新しい切り口をお見せしていきます。どうぞよろしく!