11/16:トミー・フラナガン忌に

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Tommy Flanagan (1930, 3/16- 2001, 11/16)
写真:Jan Persson Jazz Collectionより

   今日はトミー・フラナガンの命日。フラナガンが亡くなってから丸14年になります。

それは、アメリカ同時多発テロ事件の二ヶ月後でした。911が起こった朝はセントラル・パークを散歩するほど元気だったのに…「インターネットで訃報を見たのだけど」と、ジャズ評論家の後藤誠氏から知らせがあり、確認しようにも、OverSeasのピンク電話(!)では、国際電話ができないので、小銭を沢山握って、公衆電話ボックスを探し回ったのが昨日のようです。

 もちろんフラナガン家には誰も居なかったし、ハナさんの家も留守でした。やっとジミー・ヒースさんの奥さんと連絡が付いて、ニュースが本当だと知りました。しばらくすると、新聞社やジャズ雑誌から訃報の確認の電話が相次いでかかってきて、だんだんと亡くなったことが実感となっていきました。

 しばらくすると、ハナさんから寺井に連絡があり、「無理して葬儀に来なくていい。ほんとうに寂しくなるのは、数ヶ月後なのだからね、その頃にNYに来てダイアナを慰めてあげなさい。」と言ってくださった。まさか、一年後にハナさんも亡くなるとは夢にも思っていませんでした。

tfdoorP1090922.JPG  4日後にセント・ピータース教会で行われた告別式には、フラナガンゆかりの多くのミュージシャンが集まって追悼演奏をしました。後輩として、演奏を披露したマルグリュー・ミラーやジェームス・ウィリアムズも亡き人になってしまいました。( OverSeasの玄関を入ったところにある左の写真は、告別式に飾っていたものです。

 ジャズ雑誌から、告別式の写真を頼まれて、NY在住のYas竹田(b)に頼んだら「トミー・フラナガンの葬式でカメラをパチパチするような失礼なことはできません。」と言われ、大いに恥じ入ったのも覚えています。

 

 今日は、フラナガンの好きだった白い花を一輪飾りました。師匠を思う気持ちは何年経っても不変、寺井尚之はトリビュート・コンサートの練習に余念がありません。

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トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

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参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History

トリビュート・コンサートの前に:トミー・フラナガンの幼年時代

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<氏より育ち:Breeding Counts More…>

 

  ジャンルに関係なく、どんな音楽や芸能でも、そのパフォーマンスから、「品格」とか「エレガンス」という、浮世離れしたものが、さり気なく漂っているのを感じると、水戸黄門様に出会った町民みたいに、ひれ伏したくなることがあります。

  私が生で見た事のあるジャズのプレイヤーなら、目まぐるしく変動するジャズの潮流の中、”ザ・キング”として、半世紀以上、全ジャズ・ミュージシャンに尊敬されたベニー・カーター(as,tp.comp.arr.その他何でも)や、ジャズ・ヴァイオリンの最高峰、ステファン・グラッペリ、ピアノならジョージ・シアリング、勿論トミー・フラナガンもその一人!これらの高貴な巨匠達は、銀のスプーンをくわえてお生まれになったのかというと、そういうわけでもないみたい。

george_shearing.jpg  例えばシアリングは、英国の労働者階級の出身、父は石炭の運搬人で、自ら貧乏人の子沢山と言い、望まれない9人兄弟の末っ子として生まれた。生まれながら目は不自由で、子供の頃は、毎月借金取りが集金に来ると、帰っていただく役目をしていたと自ら語っている。盲学校に行くまでは、日曜になると、父さんと公園でクリケットの試合を観戦(!)したり、労働党の演説を一緒に聴きに行ったり、母さんは、末っ子の目の不自由さを忘れさせようと、精一杯、家庭を明るくすることに専心した、と楽しそうに語っている。並み居る巨匠ピアニストと共演するクラシックの指揮者達も鳥肌を立てるほどの、天上の調べのようなソフトタッチの演奏は、子供時代に両親から注がれた愛情によって輝いていたのだろうか・・・

  一方、フランスの至宝、グラッペリは幼い時に母親を亡くし、父は第一次大戦に出兵、残されたステファーヌは孤児院で育った。高貴な音楽性に、家族の豊かな愛情はエレガンスの必須要素でもないみたい。
 

では、我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

young_tommy_flanagan.jpgTommy Flanagan(21才,  ’51)、巡業中Ohio州Toledoにて

 

 フラナガンに、時々、子供の頃の話をしてもらったことはあるけれど、その頃は、目の前のフラナガンに夢中で、もっと詳しく聞こうと思いもしませんでした。
  未亡人 ダイアナはトミーが40代の時に結婚したから、NY以前の生活は共有していない。
  フラナガンの生い立ちは、雑誌や書物で、断片的知ることは出来るけれど、インタビューが余り好きでないせいか、なかなか、詳しく語られているものがないのです。 

newyorker-2.JPG  その中で、かなり詳しく両親や子供時代のことが述べられている資料が、“The New Yorker”のアーカイブにあります。ジャズ・コラムを担当していた名ライター、ホイットニー・バリエットがエラ・フィッツジェラルドの許から独立したフラナガンにインタビューした記事(’75 11/20)。インテリ文芸雑誌の代名詞、リベラルにした感じ。カリスマ編集長、ウイリアム・ショーンが采配を振るった時代の古き良き”The New Yorker”の記事、さすがにしっかりした内容です。

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 「私が生まれたのは、デトロイト北東部にあるコナント・ガーデンズという地域で、男五人、女一人の六人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟は今もデトロイトに住んでいて、生家には、今も何人か兄弟が住んでいる。 

  (訳注:コナント・ガーデンズ(Conant Gardens)は、1910年代、奴隷解放主義の篤志家が、アフリカ系の人達に提供した住宅地。第一次大戦後に、フラナガンの両親を含め多くの黒人が、南部から好況に沸くトロイトに移住、この街に移り住んだ。フラナガンの両親達が、ここに初めて教会を建立した。)

 88歳で亡くなった父は、ジョージア州、マリエッタ出身(綿畑の多い地域です。)で、第一次大戦後にデトロイトに移り住み、35年間、郵便配達夫として働いた。父はまっすぐな気性でユーモアに富む人だった。良い人間になるために何をすべきかを、身をもって子どもたちに示した。父と私は瓜二つなんだ。父も禿げで、私も若いうちから毛髪がなかったから、かなり長いあいだ、そっくりだったと言える。母は私がNYに移ってしばらくした頃、1959年に亡くなった。父と同じジョージア州出身だが、母の出はレンズと言う町だった。

  母はアメリカ先住民の風貌を持ち(訳注:トミーの祖父はインディアンだ。)、小柄で身長158センチそこそこだった。生活が苦しくなると、通信販売会社の内職でドレスを縫い、会社が送ってくるサンプル用のはぎれでパッチワーク・キルトを作って生計を助けた。

   私にピアノを続けるよう励ましてくれたのは母親だ。母は独学でピアノを弾いていて、兄のジェイ(Johnson Flanagan)がピアノを弾く姿を、幼い私が真似するのを見て、弾き方を教えてくれた。後に私も、ピアノ教師、グラディス・ディラードについて正式なレッスンを受けた。彼女は現在もデトロイトで教えている。ディラード先生は、私にピアノの正しいタッチや運指、指先の使い方をしっかり教えてくれた。」

  (訳注:Gradys Wade Dillardは、デトロイトで音楽を志す多くの黒人子弟が師事したピアノの名教師、後に音楽学校を開設、地域の職能教育に大きく貢献した。バリー・ハリスもディラード・スクール出身。トミーの兄、ジョンソン・フラナガンは後にディラードのピアノ教室で教えるようになり、カーク・ライトシー(p)は彼の教え子だ。ディラードが最も誇りにした生徒がトミー・フラナガン、彼が7才の時、レッスン中にアドリブを弾こうとするトミーに手を焼いて、「ちゃんと譜面通りに練習させてください。」と両親に釘を刺したという伝説があります。)

Art_Tatum-49.jpg    母はいつもピアノに興味を持っていた。子供の頃に、アート・テイタムのレコードをかけたら、一緒に聴いて、『まあ!これはアート・テイタムじゃないの?』って言ってくれて、私はいっぺんに得意になったもんだ。

  アート・テイタム以外に、ファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソンを聴いた。しかしハンク・ジョーンズは格別だった。テディ・ウイルソンをさらにモダンにした感じで、私には大きな意味があった。バド・パウエルも同様だ。バド・パウエルはクーティ・ウィリアムス楽団時代にデトロイトで聴いた。その頃からすでに彼は”バド・パウエルだったよ!つまり、『何だこれは!?今まで聴いたことがない!』という感じのピアノだったんだ。それからナット・キング・コール!深いニュアンス、パワー、スイング感、物凄い魅力を感じた。パルスとドライブ感たっぷりの独特の音色があったからだ。彼はピアノの音に命を与えてバウンスさせていた。

  私をジャズ界に入り、経済的にひとり立ちできるようになったのは、兄のおかげだ。初めてのクラブ・ギグは高校時代だった。セットの合間に他の人達と付き合うには、余りに子供だったので、休憩中は家に帰って宿題をしていた。…」

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   フラナガンの言葉の端々から、両親やお兄さんに対する尊敬と感謝の気持ちが伝わってきます。お父さんもお母さんも、決してお金持ちではなかったろうし、立派な学歴ではなかったかも知れないけれど、家族をしっかりと守り、きちんと人生を送った。  フラナガンの兄、ジェイことジョンソン・フラナガンはプロのピアニストとして地元で活躍した。ジェイのお孫さん、スコットはアトランタ生まれ、’80年代に広島で英語教師をしていて、私達を訪ねてきてくれたことがあります。やっぱりトミーと良く似ていました。他の兄弟達は、なんでも教育委員会とか、固い仕事についておられたそうです。  フラナガンのユーモアのセンスは最高だったけど、「業界人」っぽい軽薄なところは全然なかった。

 ただ、広く言われているように「温厚な紳士」とか「控えめな性格」といった印象はありません。確かに「紳士」ではあったけど、家の中では、瞬間湯沸器みたいな気性の激しさと、凄まじいほどの天才のオーラをムンムン漂わせていました。彼のプレイそのままに・・・

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 寺井尚之メインステムによる、トミー・フラナガン・トリビュートは11月28日(土)。どうぞお越しください。

秋のトミー・フラナガン・トリビュートは11/28(土)に!

tribute _27th-2015.jpg 毎年3月と11月に開催するOverSeasの恒例ビッグ・イベント、「トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート」、秋のトリビュート・コンサートを11月28日(土)に開催します。

 毎回、フラナガン生前の名演目をずらりと並べてお聴かせするのは、寺井尚之(p)メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)。寺井尚之は、すでにプログラムの準備に入り、皆さんにお楽しみ頂けるよう、ザイコウ、イッペイと共々、稽古を重ねる毎日です。それにしても、このトリオは、本当に稽古が大好き。本番をどうぞ楽しみにしてください!


 フラナガンが亡くなってから早14年になろうとしています。トリビュートでお聴かせする演目の数々、フラナガンのアレンジを引き継ぐ者は、ここ大阪の寺井尚之だけになってしまいました。 ピアノを初めて60年、フラナガンと出会って40余年、寺井の愛情と情熱は、色褪せるどころか、燃え盛るばかり!それに応えるように、愛器のピアノの音色も、粒立ちと輝きを一層増して、生音を聴きに来てくださるお客様を驚かせています。

 初めてのお客様も大歓迎です。ぜひデトロイト・ハードバップの真骨頂を聴いてみてくださいね!

 前売りチケットは当店にて好評発売中です!

a0107397_23132084.jpg=第27回 Tribute to Tommy Flanagan=

日時:2015年 11月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その2)

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(前回よりつづき)<トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

 静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

<アート・テイタムのことなど>

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    フラナガンにとって、特に思い出に残る場所は、《パラダイス・シアター》(訳注:デトロイトの黒人街の中心に在った映画館兼劇場です。)の少し北にあった《フレディ・ギグナーズ》と言うアフター・アワーズ・クラブ(訳注:ギグが終わったミュージシャンのたまり場となる朝まで深夜営業の店)だった。

 「ジミー・ランスフォード、アール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー・・・レコードで愛聴した名手たちを初めて見た場所です!」-フラナガン 

   オーナーであるギグナードが自宅の地下で営業していたクラブで、テイタムもそこに足繁く現れた。テイタムは、良いピアノさえあれば、どんな場所にでも立ち寄るのであった。テイタムの弟子格のピアニスト、ウィリー・ホーキンスが出演していたためでもある。地元の名手であったホーキンスの演奏はテイタムに酷似しており、テイタムや、それ以外にも演奏しようというピアニスト達がスタンバイするまで演奏していた。

 「その頃の私はかなり内気でした。」フラナガンは言う。「まあ、今でもアート・テイタムがその場に居れば、やっぱりそうなると思います。ただし、彼が来ると判っていれば、ずっとその店で粘っていて、実際に弾いてくれるのを待ち構えていました。テイタムがもの凄い演奏をした夜のことは今もよく覚えています。皆すごいと言って、一体どんなコードを弾いていたのか?と尋ねたんです。実は、前座でウィリー・ホーキンスが弾いた一つのコードが気に障ったテイタムが、この曲は「かくあるべし」というコード進行をで、最初から最後まで弾いて見せた、と言うわけでした。すると今度は、テイタムがいかに和声進行に習熟しているかと、皆がわあわあ話し始めた。すると、テイタムは彼らに向き直ってこう言いました。

『デューク・エリントンこそがコードの達人だ!』

  テイタムがどの程度エリントン楽団を聴きこんでいたかは分かりませんが、少なくとも、あらゆるピアニストを熟知していたのは間違いありません。

  私が聴きたいのはテイタムだけでした。なぜなら彼のアプローチは私が探求していることと密接に繋がっていたからです。有り余る才能に恵まれた、真の天才だと思っていました。最初は全盲だと思っていましたが、後になってそうではないと知りました。でも、字や譜面は読めなかったと思います。あれほど凄いピアノ・テクニックをどうやって編み出したのか分かりませんが、彼の演奏する和声構造を聴くと、修練したことは明らかです。彼こそ正真正銘の名人(ヴァーチュオーゾ)だ。名人芸というものは、基本的な修練なしには、絶対に得られない!

  もう1人フラナガンに大きな影響を与えたピアニストがハンク・ジョーンズである。フラナガンがハンク・ジョーンズを初めて聴いたのは、コールマン・ホーキンスとの共演盤だった。

<ソフトタッチ>

hank-jones.jpg 「彼の演奏は、テディ・ウィルソンと同型だと感じました。」フラナガンは言う。「ただし、ハンクはテディをアップデートしたスタイルだった。私はハンクがテイタムの次世代のピアニストであると、常に感じていました。今も、その意見は余り変わっていません。あの頃からずっとハンクの演奏を尊敬してきたし、その思いは自分のプレイに反映されていると思います。あの頃の私は、きっといつかテイタムみたいに弾ける時が来ると思っていましたが、やがて、テイタムと全く同じように演奏する望みはないと思い知った。それからは、ハンクをよく聴くようになりました。バド・パウエルもよく聴きました。(訳注:これらの昔話はフラナガンの高校時代のことです。念のため)良く話題になるタッチの相違は、多分身体的な問題ではないかと思いますが、鍵盤を叩きつけるようなハードなタッチは絶対に嫌です。私の好むスモール・コンボ(ビッグ・バンドではなく)なら、ハードなタッチでプレイする必要は全くないし、とにかく、ハードなアプローチはどんな場合も必要ではないと思います。」

<13才のプロ・ミュージシャン>

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  初期の参加バンドで、フラナガンにとって特に思い出深いのは、中学時代に活動したピアノとサックスとドラムのトリオだ。当時、まだ13才ではあったが、プロに相応しい卓抜した技量をすでに備えており、早くもデトロイトでのギグが次々と舞い込んできた。1947年、ラッキー・トンプソンがデトロイトの町に戻ってくると、ミルト・ジャクソン(vib)、ケニー・バレル(g)と共に、彼のセプテットに参加している。 

  クラブ演奏可能な年齢に達する頃には、地元デトロイトでの仕事場は潤沢で、良いミュージシャンも多数居たものの、多くは名声を求めてNYへと進出した。テナー奏者のフランク・フォスターもこの街にやって来て、軍隊に入る前の2年間を過ごした。彼は “強烈な印象をもたらした。”とフラナガンは言う。 

  PepAda.gifフラナガン自身、1951年から1953年まで陸軍に入隊している。すんでのところで、音楽家等級なしで、一歩兵として韓国に送られるところであった。だが、幸運にも、訓練地のショウでピアニストの募集があり、オーディションを勝ち抜いたフラナガンは特別芸能部(Special Service)に転属となった。彼が居たキャンプ、ミズーリ州、レオナード・ウッド基地では、例のラッキー・トンプソンのデトロイト・バンドの盟友であったバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスとの偶然の再会があった。 

  「彼は、すでに数週間の基礎演習を修了していて、私がホヤホヤの新兵で居ることを知っていました。」フラナガンは回想する。「初めて野営地に向かって行進している時に、ペッパーが現れた!隊列の中の僕を目がけて走ってきたんです。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込みました。 『きっと役に立つよ!』と言って…」 

韓国駐屯を経て除隊、故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。

 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

(つづく)

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

『Overseas』生誕の地

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 新年明けましておめでとうございます。

今週土曜日は早くも「トミー・フラナガンの足跡を辿る」開催、新春講座に相応しく、トミー・フラナガン・トリオ初期の最高作『Moodsville9』が登場します!

この作品では、『Overseas』と一対を成す初期フラナガンの音楽美を味わえます。『Overseas』が「動」なら、『Moodsville9』はフラナガンの「静」的ジャズの極致で一対の美術作品のような趣があります。

ところで、新年にスウェーデンのトップ・ベーシスト、ハンス・バッケンロスさんから年賀状代わりに2枚の写真が届きました。

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  ここは「カーラヴェーゲン(Karlavägen)」、スウェーデン、ストックホルム郊外をほぼ東西に走る美しい大通りです。19世紀に作られた道路で、ネオルネッサンス様式の歴史ある建築が立ち並んでいます。

hans_backenrothIMG_5714.JPG ハンスさんが立っているこの場所はKarlavägen67番地、1階は洒落たベビー用品店ですが、50年余り前、ここにメトロノーム・レコードのスタジオがあり、トミー・フラナガン・トリオが、地階のスタジオで、『Overseas』を録音したのだそうです。

 フラナガンへの敬慕を共有するハンスさんは、私達や、日本のトミー・フラナガン・ファンの皆さんの為に、わざわざ、市の中心地から離れたこの場所までドライブして写真を撮影してくださったようです。ほんとうにありがたいですね!

 ストックホルムの歴史を調べてみると、’50年代のKarlavägen67番地の写真がありました。確かに同じ建築で、よく見ると…ありました!《METRONOME》の看板が!

 1957年8月15日、J.J.ジョンソン・クインテットとしての演奏旅行で、リズム・チームのトミー・フラナガン、エルヴィン・ジョーンズ、ウィルバー・リトルが、Relaxin’ at Camarilloを始めとする、あの9曲の演奏を繰り広げたと思うと感無量!

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 録音直前、ストックホルムは豪雨に見舞われ、録音ピアノは水浸し、信じられない話ですが、あの名盤はマイク一本だけで録音されたのだそうです。写真を見ると、ビルと舗道がほとんどフラットですから、雨が吹き込んだのでしょうね。

 この録音のわずか2日後には、J.J.ジョンソンと共に、オランダ、アムステルダムに渡り、由緒あるコンサート・ホール、《コンセルトヘボウ》で大喝采を浴びました。彼らは船でヨーロッパに渡り、2ヶ月以上に渡る楽旅は大成功、意気揚々と帰国しますが、このツアーを境に、J.Jはエルヴィンとボビー・ジャスパー(ts.fl)をはずし、アルバート”トゥティ”ヒース(ds)、ナット・アダレイ(cor)に入れ替え、新生クインテットとして活動を再開、それまでの端正で気品溢れるコンボから、鮮烈なコントラストで魅せるダイナミックなコンボへと変貌を遂げますが、どちらもフラナガンの輝きは重要な役割を果たしています。

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ハンス・バッケンロス:「J.J.ジョンソン・クインテットは、スウェーデン国内をくまなくツアーした。彼らのプレイを聴いて、スウェーデンの全世代のジャズ・ミュージシャンに『革命』が起きた!」

Denna artikel är tillägnad min vän, Hans Backenroth.
 

トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(2)

〔思慮深い会話の達人〕

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 (前回より続き)  フラナガンは整った顔立ちの威厳ある風貌だが、ここ数年前から体重が落ち、華奢な体躯を包む洋服がダブついている。無愛想だが、瞳は暖かで、優しい微笑みを見せる。フラナガンは大きく丸い眼鏡をかけている。若い時から禿げているけれど、耳の後ろに少し白髪が残り、白く豊かな口ひげはえくぼをほとんど覆い隠している。
 フラナガンは「急ぐ」という事をしない、話す時は特にそうだ。彼はヴァンガードのステージから筆者のインタビューを受けている。しかし答えが出てくるまで、彼の視線は質問者から遥か遠く宙を漂い、果てしない沈黙が流れる。だが一旦気が向くと、ドライマティーニの様なピリっとした辛口のウイットで素早く会話を進める。

 “トミーは余りおしゃべりではないけれど、本当のことしか言わない。”: ピアニスト、マイケル・ワイス

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 フラナガンは1950年代からマンハッタンのアッパーウエストサイドに住み、ここ25年程は82丁目で、妻ダイアナと暮らす。彼女とは1976年に結婚した。溌剌とした女性である。フラナガンはその前に1度結婚歴があり、前妻との間に3人の子供をもうけ6人の孫がいる。

 アパートは趣味の良い造作で、ダイアナの蔵書が無造作に置かれている。彼女は元歌手、大学では文学を専攻し、詩、小説、歴史、伝記、音楽に関する書物を読み漁る。ソファのある窓際と反対側になる居間の一角にはスタインウエイのグランド・ピアノが鎮座している。

 また居間にはチャーリー・パーカーやデューク・エリントンといったジャズ・ミュージシャンの写真や、絵画がそこら中に飾られている。絵画は、雑誌<ニューヨーカー>のジャズ評論家、ホイットニー・バリエットの妻、ナンシー・バリエットが書いた風景画の小品もあれば、ピアノを見下ろすように掲げられている額には、漫画家アル・ハーシュフィールドの書いたフラナガンの似顔絵 (上の写真のスタンドの上です。)が入っている。

 この日の午後、フラナガンとダイアナはソファでくつろぎながら、新刊”Before Motown”のページをむさぼるように繰っている。フラナガンは生涯の友人達で、20世紀半ばにデトロイトに出現したおびただしい数の才能あるジャズミュージシャン達の写真(バリー・ハリス、エルヴィン・ジョーンズ、今は亡きペッパー・アダムス等)を見つけては指差し、にこにこしている。

  ダイアナは当時デトロイトの街で活躍していた夫の10代の若き日の姿を見つけて高い声で叫んだ。”OH、スイートハート、あなたってすっごく可愛かったのねえ! この時代に会っててもきっと好きになっていたわ!”
 するとフラナガンは無表情にこう言った。”(フラナガンに夢中だった女の子たちの)列に並んで!

 彼は本を閉じテーブルに置いて、駆け出し時代を回想し始めた。1953年、彼は”ブルーバード・イン”の名高いハウスバンドに参加する。メンバーは、サックス奏者、ビリー・ミッチェル、トランペッター、サド・ジョーンズ、ドラマー、エルヴィン・ジョーンズであった。この”ブルーバード”で初共演したミュージシャン達の多くと、その後NYで共演することになる。

 ”あの修行時代がなかったら、今の自分はなかったろう。”フラナガンは言う。”ミュージシャンとして良い手本になるべき人が私の周りにいた。その頃はrole modelなんて言葉はなかったけれども、街に来たら私たちが必ず聴きに行くような一流ミュージシャンにひけをとらない、皆が尊敬するミュージシャン達が地元にいた。ミルト・ジャクソンや、ユセフ・ラティーフ、ラッキー・トンプソン、ワーデル・グレイといった人たちだ。”

〔デトロイトで音楽を始めた頃〕

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 フラナガンはデトロイト北東部、コナントガーデンズ地区で育った。6人兄弟の末っ子で、父は郵便配達夫だ。両親、特に母が音楽好きだった。6歳でクラリネットを始めるが、もうそれまでには、ピアノの椅子によじ登り兄のピアノレッスンの真似事をしていた。

 10歳の時、母の薦めでピアノのレッスンを受け、そのせいで現在もショパンやラヴェルを愛好している。ジャズに興味を覚えたきっかけは、兄がビリー・ホリディの新譜を家に持って帰って来たことだった。そこにはテディ・ウイルソンのピアノがフィーチュアされていた。

“ジャズとは6歳の時からの付き合いだ。”フラナガンは言う。

 そしてフラナガンはノーザン・ハイスクールに入学、ローランド・ハナとベス・ボニエ(p)がクラスメートであった。1949年、”フレイムズ・ショウ・バー”でハリー・ベラフォンテの伴奏を務めた後、ベラフォンテにNYの仕事を紹介された。しかし、母親がまだ若すぎると息子が街を離れるのを許さなかった。泣く泣くフラナガンは街に残ったのだ。

 やがて徴兵、2年間兵役に就いた。韓国駐留を言い渡された彼は一番新しい音楽を持っていこうと、スーツケースにセロニアス・モンクのSP盤(BLUENOTE)を詰め込み外地へと向かった。

 退役後の1956年初頭、とうとうフラナガンはNYに進出。音楽と家族を以外、デトロイトの思い出は楽しいことばかりではなかった。

 ”早く街を出たいとそればかり思っていた。デトロイトの単調さに嫌気がさしてきたんだ。町中を動き回る自由が制限されていた。当時の警官はひどいものだった。我々が住んでいる地区で難癖をつけてくる。私が12歳頃、ある夜印刷所の前を通った時のことだ。そこは反体制的な印刷物が見つかった場所で、私は警官に呼び止められた。警官は拳銃を抜いていた。

 私は言ってやったよ。『何をするんだ!?僕はほんの子供だぞ!』

 NYでは、とんとん拍子に素早く事が運んだ。出て来て一年経たぬうちに、《バードランド》でバド・パウエルの代役を務め、たちまちマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズの両者のレコーディングに参加する。フラナガンはその頃を懐かしむ:

jack_kerouac9780141182674.jpg マイルス・デイヴィスとの初レコーディングで、このトランペッタ―はポケットから紙切れを取り出した。そこにはデイブ・ブルーベック作の<In Your Own Sweet Way>が殴り書きされていた。マイルスはフラナガンが演奏したあの有名なコード・ヴォイシングを指示したが、リズムはフラナガンのアイデアである。

 ほぼ同時期、J.Jジョンソン・クインテットで、《ヴィレッジ・ヴァンガード》にビートニック詩人ジャック・ケルロアックの朗読会とダブルビルで出演したことがあった。フラナガン、エルヴィン・ジョーンズと、大酒のみで有名なケルロアックがはしご酒をしたあげく、最後はフラナガンのアパートで飲み明かした事があったという。

 ”昼前になって、エルヴィンがケルロアックに向かって殺してやると脅かした。ケルロアックがとんでもなくひどい事をエルヴィンに言ったからだ。私も頭に来たが、エルヴィンは怒り狂っていた。”

〔気分を出してもう一度〕

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 フラナガンは話を終えて立ち上がり、ゆっくりとピアノに向かう。ピアノの脇の棚にはポピュラーソングの譜面集が積み上げられている。ピアノの上にはMJQの創設者ジョン・ルイスの作品を挟んだ紙ばさみが置いてある。3月に亡くなったジョン・ルイスは死の直前に、よかったらCDにしてほしいと自作楽譜をフラナガンに送ったのであった。

 フラナガンは謎めいたアルペジオを少し弾いてから、ジミー・マクヒューのバラード、”Where Are You?”に滑り込む。曲の裏側の鍵を開けるような、風変わりで一ひねりあるハーモニーをつけて演奏する。1コーラス目は囁くように、2コーラス目ではヴォリュームが大きくなり、対話が生まれ感情が高まる。演奏が余りに表情豊かで感動的なものだったので、私はフラナガンをピアノの前に留めておきたい一心で、すかさず”Last Night When We Were Young”をリクエストした。

 それは、ポップソングに似つかわしくない抽象的な感じの曲だ。ハロルド・アーレンのメロディとハーモニーが、風変わりなパターンに変化する。フラナガンは何年もこの曲を弾いた事がなかったので、自分の指の動きを、あたかも他のピアニストの指を見ているような不思議そうな目つきで凝視している。彼が音符に行き詰まると、彼と同じ位多くの曲を知っている妻ダイアナが、ソファーに座ったままでイップ・ハーバーグの円熟した歌詞をそっと歌って助け舟を出す。感情の高まりで音楽が震える。曲が終わった時ダイアナの目には涙が浮かび、フラナガンは夢見るように遠くを眺めていた。(了)

トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(1)

11/16は我らがトミー・フラナガンの命日です。亡くなってから13年の月日が経ちましたが、敬愛の思いは高まるばかり。
命日前の15(土)はトミー・フラナガン・トリビュート・コンサート開催!
フラナガンの弟子、寺井尚之(p)が自己トリオ”The Mainstem”で在りし日の名演目をお聴かせします。

 それに先駆けて、フラナガンが亡くなる直前に遺したインタビューの邦訳を掲載。
 元々、<デトロイト・フリー・プレス>というサイトが、2001年9月のデトロイト・フォード・ジャズフェスティバルのPRとして、目玉となるフラナガンがNYヴィレッジヴァンガード出演した際、行われたインタビュー。

 体調を崩していた時期ですから、 このデトロイトのジャズフェスティバル実際に出演を敢行していたのかどうか・・・私も覚えていません。
  リーマンショック以降、フェスティバルのスポンサーが代り、このインタビューのオリジナル記事もネット上からは消滅していますが、フラナガンのプレイや、Jazz Club OverSeasでの寺井尚之を聴いて、よく話題にされるピアノのタッチについて語る希少なインタビューです。

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聴き手: マーク・ストライカー

伝説のタッチ:デトロイト出身トミー・フラナガン、
ジャズフェスティバルに出演、深みと艶、スイングするビバップを故郷へ!
NY発

 トミー・フラナガンがセヴンスアヴェニューのヴィレッジ・ヴァンガードへと通じる階段を降りていく。おぼつかない足取りで、まだガランとした店内を少し見回してピアノの方へ向かうと、まるで古い友だちと握手をするかのように、いとおしげに鍵盤に指を滑らせた…

 今回の【フォード・デトロイト・ジャズフェスティバル】の看板ミュージシャン、トミー・フラナガンはデトロイトが生んだ最高の音楽家の一人である。彼が始めてヴィレッジ・ヴァンガードに出演したのは50年代後半、トロンボーン奏者JJジョンソンのサイドマンとしてであった。近年、フラナガン率いる最高のトリオは、このジャズの神殿で演奏する機会が一層増えている。
 だが今日、静かな午後のひと時、フラナガンは自分自身や、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン達、この世界一有名な地下室(ヴィレッジ・ヴァンガード)のすすけた壁に掛けられた今は亡きジャズの英雄たちの為にプレイしている。
 柔らかなコードがまた別のコードへと、川の流れの様に移り変わり、やがて茫洋とした霧の中からメロディが顔を出す…1937年作の佳曲”ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド”だ。これを聴くとフラナガンはあらゆる曲を知っているのではなく、良い曲しか知らないのだと改めて思う。次第に”公園を散歩しているような”ゆったりとしたテンポへと滑り込み、無邪気なスイング感、絶妙に入るカウンターメロディ、シングルノートのラインがクリスマスツリーの飾りの様に和音に絡まる、エレガントなビバップのフレーズで、円熟の即興演奏がどんどん繰り出される。
  
 フラナガンのリリカルなタッチは今や伝説だ。まるで一音一音が絹に包まれた真珠の様である。このタッチの事が曲が終わってからの最初の話題となった。
“頭の中でイメージしている音に注意深く耳を傾け、それを忠実に再生すると、こういうタッチになるのだ。”―優しい声がステージから静かに響く。

“強いイメージでハードに弾きすぎることは決してないね。自分で音が大きすぎるなと感じたらソフトペダルを使う事にしている。それが好きなんだ。ハードに弾いて、ソフトなサウンドを出す。――なにしろ家のピアノはおんぼろでひどい音だからね。(笑)”

  今年71歳になるフラナガンの演奏ぶりは、天国で一番ヒップな天使のようだ。気品と気合い、スイング感とクレバーさ、ウイットと温かみが、絶妙にミックスして、聴く者を魅了する。彼の故郷での演奏は2年ぶりのことである。病気で、昨年オーケストラホールで予定されていた71歳を祝うコンサートのキャンセルを余儀なくされたフラナガンにとって、今回のジャズフェスティバルが、ヴェテラン・ドラマー・アルバート・ヒース、ピーター・ワシントン(b)という彼の新編成のトリオの、故郷への初お目見えとなるのだ。

〔輝かしい経歴〕

 現在、フラナガンの持ち味である詩的モダニズムは世界的に高く評価されているが、いつの世も常にそうだったわけではない。彼のキャリアの第2章が始まる70年代後半までは、ミュージシャン仲間以外には知る人ぞ知るの存在で、ベテラン伴奏者というのが一般的な評価であった。それはフラナガンの控えめな性格と彼の経歴が災いしたのだった。1962―1965、及び1968―1978と通算14年間、エラ・フィッツジェラルドのピアニスト(このブランクに短期間トニー・ベネットのピアニストも務める。)として活動したフラナガンのリーダー作は少なく、1960―1975にかけて自己名義のレコーディングは皆無である。しかし一方ではサイドマンとして、数多くのレコーディングをしている。例えば<コレクターズ。アイテム/マイルス・デイヴィス>、<サクソフォン・コロッサス/ソニー・ロリンズ>、<ジャイアント・ステップ/ジョン・コルトレーン>といった’50年代の古典的名盤の数々である。

  転機は1978年に訪れた。心臓発作に襲われ、17日間の入院生活を余儀なくされたのである。彼は禁煙と節酒をし、エラに辞意を伝えた。まもなく自己トリオ結成、洗練されたスタンダード曲や、サド・ジョーンズ、モンク、タッド・ダメロン、ビリー・ストレイホーン、デューク・エリントンの、余り演奏されることのないオリジナル曲に独特の解釈を加え、見事なヴァージョンに仕上げる事を身上とする一連のピアノトリオ時代の幕開けである。

 フラナガンはNYの様々なクラブに常時出演するようになり、ヨーロッパの小さなレコードレーベルで一連の名作をレコーディングした。アメリカの大手レコード会社がフラナガンを支援するようになったのは、1998年になってからのことで、名門BLUENOTEが<サンセット&モッキンバード>を製作、この頃になってやっと、フラナガンの名声が確立したのである。

 批評家ゲイリー・ギディンスは、数年前フラナガンについて次のように述べた。

 ”フラナガンは、競争相手のいる場で一番を勝ち取るというよりも、競争とは無縁なところで、自分の最高の力を発揮するタイプだ。 彼は自分にぴったりの分野を確立し、完璧なものに磨き上げた。それはスタイルを超越したスタイルだ。その分野で比較対照できるものをいえば、彼自身の演奏の内、その場でとっさに触発を受け生まれたヴァージョンと、元々固有のヴァージョンの違いといったものが関の山である。”

 フラナガンのスタイルには、人を欺く要素がある。絹の様なタッチで有名な彼だが、ある時は鋭いアタックを巧みに駆使して、他のピアニストに負けぬほど深くスイングしてみせる。彼はバップの申し子であり、バップ的な目くるめくリズムの変化や、大胆なハーモニーの使い方―バド・パウエルが確立した奏法スタイル―の達人である。

 しかしフラナガンの音楽的ルーツを辿ると、同時に、テディ・ウイルソン、アート・テイタム、ファッツ・ウォーラー、といったバップ以前のピアニスト、またナット・キング・コールや、ポンティアック出身の初期のモダニストハンク・ジョーンズと言った過度的なスタイルのピアニスト達にも行き着く。

 フラナガンはこう語る。”最初に影響を受けたのはテディ・ウイルソンだ。力強い演奏でありながら、タッチが美しい。そんな彼の演奏に感動すれば、自分もそう言う風に弾きたいと必死に願うものだ。そんなわけでここ20年ほどの間に私の音量は大きくなってしまった。前に『ピアノの音がうるさすぎるから』と言われドラマーに辞められた事があった。” フラナガンはこの皮肉な話を笑い飛ばす。”ピアノ弾きに向かって音がうるさいと文句を言うドラムなんて考えられん。”

 フラナガンを敬愛する多くの若いピアニストの一人、マイケル・ワイスは、フラナガンのピアノの秘密は、ダイナミクス、アタック、ペダル使いとオーケストレーションに対するアプローチにあると指摘する。

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 “フラナガンの演奏は、単なるヴォイシングによるのではなく、一音一音、コードのそれぞれは、音の響きを綿密に計算した結果だ。例えばテーマをシングル・ノートだけでまず弾き始める、やがてそこに3度の音などが加わり、そこからいつのまにかオクターブやフルコードに発展して、彼のアドリブへと繋がっていく。アドリブのパートで、クライマックスへ上り詰める瞬間、豊かなオーケストレーションとなる。―メロディの基礎となるコードは、彼のプレイにアクセントや色合いを加える為のものだ。”

 フラナガンはクラシックの巨匠達と同様ペダル使いの名人である。ダンパーペダルを駆使し、一音一音を汚すことなく湧き出るアイデアを、滑らかなレガートで繋げていく。

“時々、私の足を観察するためだけに来る連中もいるよ(笑)ペダルを使う時には、その為の呼吸法が必要なんだ。フレージングと同じでね!” (続く)