ビバップを彩った名司会者:意地悪ピーウィー・マーケット

birdlan.jpg左から:ホレス・シルヴァー、ピーウィー・マーケット、カーリー・ラッセル、アート・ブレイキー、ルー・ドナルドソン、クリフォード・ブラウン

 アート・ブレイキー・クインテットのアルバム<A Night at Birdland(バードランドの夜)>(’54)に収録されたピーウィー・マーケットのこんな名司会ぶりが収録されている。

Blakey_Birdland_Vol._1_Original.jpg 「レディーズ&ジェントルメン!皆さんご存知かと思いますが、今宵、<バードランド>では、なんとブルーノート・レコードが、ライブ録音を敢行いたします。お客様が色んなパッセージに拍手をなさると、それがそのまんま録音されます!レコードになった暁に、これが全国津々浦々でかかりますと、皆さんの拍手が聞こえてくるんです。だから「今のは僕の拍手だ!僕はこのバードランドの客席に居たんだ。」って自慢できますよ。
 それではご紹介いたしましょう。偉大なるアート・ブレイキー!彼のバンドのメンバーは、ピアノ―ホレス・シルヴァー、アルト・サックス―ルー・ドナルドソン、ベース―カーリー・ラッセルでございます。それでは皆さん、さあ一斉に大きな拍手をお願いします!!アート・ブレイキー!」

 

   ピーウィー・マーケット(Pee Wee Marquette 1914-92)は、歴史的ジャズクラブ《バードランド》の名物ドアマン兼司会者として人気を博した。身の丈115cmほどの小柄な体と、洒落たステージ衣装、大きな葉巻、大柄なお客のタバコに火がつけられるようにとても長い炎の出るガスライター(当時は珍しかった)、少年のような甲高い声と南部訛りがトレードマーク、愛嬌たっぷりのピーウィー・マーケットは、上のアルバムの録音当時40才だった。「小人症」であった彼は、一説には女性であったとも言われている。Pee Weeは” おちびちゃん”という意味で、本名はWilliam Clayton  Marquette、1914年アラバマ生まれ、元はダンサー兼コメディアンとしてナッシュビルで活動していた。第二次大戦中の1943年、流れ流れてNY にやって来たマーケットは、その姿かたちから、街頭スカウトされて、ナイトクラブの司会業や接待役として働き始め、’49年《バードランド》に入店、クラブが閉店(’65)するまで、名物キャラクターとしてお客さんに可愛がられた。 

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 だからといって、ピーウィー・マーケットがジャズを愛したとか、ジャズメンに好かれた、というような記録は見当たらない。村上春樹のおかげで日本でも有名になった「ジャズ・アネクドーツ」「さよならバードランド」といったビル・クロウのジャズ本にもくりかえし登場しているし、《バードランド》に出演したホレス・シルヴァー、メイナード・ファーガスン、テリー・ギヴス、ジョー・ニューマンといった様々なミュージシャン達がマーケットについての証言を遺している。彼らの話に共通しているのは、マーケットにチップをしつこくせびられた、ということだった。 

 マーケットはまず出演するバンドのリーダーから数ドルのチップをせびる。そして、ギャラの支払い日に、楽屋を回って各メンバーに50¢ずつ請求した。当時の50¢は、現在の日本では800円くらい、貧乏ミュージシャンには結構な金額でした。もしチップを払うのを拒否しようものなら、マーケットはそのミュージシャンの名前をわざと間違えて紹介した。例えばホレス・シルヴァーは”Whore Ass Silba (売春婦のケツのシルバ)”、ポール・デスモンドは”バド・エズモンド”といった具合に、ミュージシャン顔負けのアドリブ力を発揮したといいます。いやがらせに辟易してチップを渡せば、その夜からきちんと名前を紹介してくれる。まさに海千山千のプロだった。 

friedlander_marquette_and_basie1.jpg 可愛い容姿と裏腹に、護身用のジャックナイフを持ち歩き、新人ミュージシャンには高飛車で、ヴァイブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンに至っては葉巻の煙を顔に吐き掛けられ「今すぐ楽器をたたんで帰りやがれ!」とスゴまれたこともあったらしい。そんなわけで、ミュージシャン達はマーケットのことを名前ではなく”Midget(小人)”と陰で呼んでいた。その中で比較的マーケットと親しかったのが、カウント・ベイシー楽団の面々で、”バードランド・オールスターズ”として一緒にツアーした時には、ジョー・ニューマン(tp)、フランク・ウエス(ts)、ソニー・ペイン(ds)など比較的小柄なメンバー達と自虐志向のレスター・ヤングがマーケットと共に”The Midgets”というチームを作り、エディ・ロックジョウ・デイヴィス(ts)やエディ・ジョーンズ(b)達の大男チーム”The Bombers(爆撃達)”と各地で激しい水鉄砲合戦を繰り広げたという伝説があります。ジョー・ニューマンの有名曲”The Midgets”は、このツアー中に作られたのだった。

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 仲良くなってもチップは別、マーケットは皆平等にチップをせびった。

 或るときレスター・ヤングは、マーケットのしつこさにうんざりして、とうとう彼を怒鳴りつけた。

「うるさいよ。あっちへ行け!この1/2マザファッカー野郎!」 

peewee.jpg 《バードランド》閉店後、マーケットはタイムズ・スクエアの近くにあったお上りさん向けレストラン、《ハワイ・ケイ・レストラン》で客引きをして生活した。往年の名MCぶりを覚えている人が通りすがりに声をかけて、当時のことを訊きたがると、質問一つにつきチップ1$を請求したという伝説が残っている。 

 1985年、ジャズ・ブーム再燃、この頃マーケットは、深夜の人気バラエティTV番組、『Late Night with David Letterman』にゲスト出演し、《バードランド》時代の思い出話を語った。それから3年後、クリント・イーストウッド監督がチャーリー・パーカーの半生を描いた映画『バード』 で、小人症の個性派俳優トニー・コックスがマーケットに扮して司会ぶりを再現。マーケットはこの映画が自分を「実像からかけはなれた屈辱的な姿に描いた」として、ワーナー映画を相手取り200万ドルの慰謝料を請求する訴えを起こした。この訴えが受理された記録はない。ちょっと請求するチップが高すぎたのかな。

ジャズファン注目:NYキャバレー法と日本の風営法

 8/19付:朝日新聞「withnews」、ジャズ史と関わりの深い「NYキャバレー法」の歴史と、日本の”クラブ”に於けるダンスの規制についての裁判や法改正でマスコミを賑わした「風営法」を比較検討した記事が話題になっています。

 

   朝日新聞デジタル編集部の神庭さんは、風営法の取材を通じ、一般の人が”ダンス”をするという娯楽を規制するNY市の「キャバレー法」に注目、現地で綿密な取材を行った上で記事にまとめていて、”クラブ”やダンスには全く無縁な私にとっても、とても興味深い考察が行われています。

 結婚してからダンス・クラブに行ったのは20世紀、トミー・フラナガンに連れられてイースト・ヴィレッジの”CAT CLUB”に行っただけ。普段はディスコだけど、その夜は、Swing Dance Societyという団体が、メル・ルイス(ds)やジョン・ファディス(tp)といった超豪華メンバーによるビッグバンドで催したダンス・イベントだった。フラナガンは見た目通り、踊るのは嫌い。小さなテーブルに座って、プロのダンサー達が見せつけるアクロバティックなリンディ・ホップそっちのけで、バンドばっかり必死で観察してました…

SCN_0034.jpg 「NYキャバレー法」から派生した「キャバレー・カード法」は、’40年代以降、ビリー・ホリディやチャーリー・パーカー、セロニアス・モンクなど幾多の天才達の生活の糧を奪ってきた法律。人種隔離政策を背景に持つシーラカンスのようなこのキャバレー法にチャレンジを続けるNYの名弁護士、大ジャズファンでもあるポール・シェヴィニーのインタビューや、NY市政史がスカっとまとめられているのも、私たちにとっては嬉しい記事です。

 私がこのブログで紹介したJ.J.ジョンソンのキャバレー・カード裁判にも言及してくださっています。

 ジャズ史の視点からも楽しく読める記事、ぜひご一読を!

戦争とリトル・トーキョーのチャーリー・パーカー

 暑中お見舞い申し上げます。

 下町の市場に買い出しに行くと、商店街のあちこちから「大阪大空襲」「学童疎開」や「学徒動員」といった言葉が聞こえてくる暑い夏、否応なしに青春を戦争と過ごした両親や、さらに祖父母の世代の苦労を想います。

  第二次大戦以前、米国に出かけていった日系移民の方々の主な出身地は、広島、山口、岡山などの中国地方、長崎、佐賀、熊本などの九州、そして和歌山だった。一世の子弟達は、れっきとした米国市民であったのに、原爆をわざわざ広島と長崎に投下したのは何故だったのだろう?

 <キャバレー税とBebopの関係>

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 さて、数年前、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版に、私達がこよなく愛するビバップ芸術は、第二次大戦の産pyramid.ai.jpg物、つまり「キャバレー税」という戦争税の産物であるという説が掲載されていました。

 戦前、ジャズの本道として人気を博したスイング・ジャズはビッグバンド形式のダンス音楽として発展した。楽団は全米津々浦々、星の数ほど存在し、「National Band (全米的な名楽団)」「Territory Band (米国の決まった地方を巡業する楽団)」「Local Band(地元で活動する楽団)」というサッカーや野球のリーグに似たピラミッド型の構成の住み分けが確立し、各層がそれなりの安定収入を確保していた。演奏家は様々な土地を巡りながら、その土地の音楽を吸収し、上の階層を目指し切磋琢磨することによって、ジャズ音楽は有機的な発展を続けたわけです。

 ところが、第二次大戦が勃発すると、ガソリンやタイヤは配給制となり、巡業の要であるバスの調達が困難になります。同時に若手ミュージシャンは次々と徴兵されていった。さらに1944年、「キャバレー税」という連邦税の施行はビッグバンド界へのとどめの一撃となったのです。

 「キャバレー税」は、飲食を含むダンスホールの勘定書の20%。課税対象は、ステージのあるなしに関係なく、とにかくダンスをさせる店、そして、歌を聴かせる店だ。戦争特需の好景気とはいえ、20%という重税で全米のダンスホールは閑古鳥、ビッグバンドを支える営業システムは崩壊してしまったのです。ダンス音楽の代わりに台頭したのが、ダンスせずに「聴く」ことを目的としたスモール・コンボ、しかも歌手のいないインストルメンタル・ジャズ、つまりビバップだったのです。強烈な個性と洗練、ハーレムのヒップな香り一杯の音楽とファッション、ミュージシャンが大きく注目を浴びるようになりました。

charlie_parkerdizzy_gillespie.jpg バップ時代の立役者の一人、マックス・ローチ(ds)は語る。

「誰かが席を立ってダンスをすれば、勘定書きに20%の税金がプラスされた。誰かが立ち上がって歌ったら、また20%。…しかし器楽奏者の発展には素晴らしい時期だったな・・・」
 

 一方で、ビバップは、レコーディング禁止令のおかげで、最良の録音が少ないと言われています。

 できることなら、タイムマシンに乗って’40年代初期にタイムスリップして、52丁目でチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのライブを聴きに行きたいなあ!

 ところがどっこい、もしタイムマシンが出来たって、時は太平洋戦争中。日本人がNYの街を闊歩できるようになるのは、’50年代まで待たなければ・・・

<リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー> 

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 終戦直後、1945年12月、NYジャズシーンの寵児となったチャーリー・パーカー-ディジー・ガレスピー・バンドは本拠地NYの52丁目を離れ、西海岸LA、ハリウッドのど真ん中にある有名クラブ、《Billy Berg’s(ビリー・バーグス)》に8週間出演した。「ビバップ旋風」が西に!地元のミュージシャン達は熱狂したものの、輝く太陽とパームツリーと夜間外出禁止令・・・西の文化は、東のNYとはずいぶん違っていた、というか、遅れていた。結局、娯楽性が少ない先鋭的な黒人音楽は、ハリウッドのリッチな娯楽嗜好と合わず興行は大コケになった。麻薬の調達が困難なために、パーカーが度重なるすっぽかしをやらかしたのも火に油。やっとギグを終え、NYに帰る飛行機に、パーカーの姿はなかった。どうやら飛行機代は、いつのまにかクスリに替わっていたらしい…ディジー・ガレスピーの忍耐もジ・エンド。ジャズ史上最高の名コンビは、袂を分かつことになります。

 パーカーにとっては住み難い土地柄であったはずなのに、彼はそのまま居残って活動を続け、心身ともにボロボロになり、滞在ホテルでボヤ騒ぎ、ロビーに全裸で現れて、カマリロ病院送りになります。この悲劇の舞台がLAの日本人街、リトル・トーキョーであったことは、余り知られていません。でもなぜリトル・トーキョーなんでしょう?

<戦時敵性外国人強制収容>

Instructions_to_japanese.png  1941年12月、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が起こり、翌42年2月、フランクリン・ルーズベルトは大統領令9066号を発令。「特定地域を軍の管理下に置く」という法令の元に、敵性外国人である日系人のほとんどが、「保護」の名目の元、家も財産も放棄させられ、家族離散、コロラドやアリゾナ砂漠など人里離れた辺境地域にある粗末な強制収容所に移送された。その数12万人!鉄条網と監視兵に囲まれた劣悪な環境の中、ある者は、日系人の米国に対する忠誠の証に志願兵として前線に赴き、ある者は日本に引き揚げた。広島で被曝した日系米人の数は3000人に上ると言われています。

 強制収容は最長4年に及び、戦争が終わると収容所は閉鎖、日系人は市民権を剥奪され、着の身着のままで、「解放」された。そこから、元の生活に戻るまで、日系の方々が、どれほどの時間と労力を費やされたのか、想像もつきません。チャーリー・パーカーの滞在した町は日本人のいないリトル・トーキョーだったんです。

<リトル・トーキョー/ブロンズヴィル>

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  元来、ロスアンジェルスは、日系人や黒人といった「特定」の集団の住居所有を制限する居住隔離の町であり、リトル・トーキョーもまた、日系人に特化した人種隔離の町であったそうです。第二次大戦中、戦争特需の好景気に湧くLAには、南部から多くの黒人労働者が流入してきました。戦前から、リトル・トーキョーの南方に位置する、セントラル地区、ワッツ地区が黒人の居住地域として割り当てられていましたが、黒人人口の爆発的な増加で、従shepps-ad-1-31-46.jpg来の地区には収まりきれず、必然的に、日系人が退去させられゴーストタウンとなったリトル・トーキョーの空き家を急ごしらえの生活の場とし、瞬く間に「ブロンズヴィル」という名前の黒人の町に変貌します。

 「ブロンズヴィル」は、治安が悪く、不衛生なスラム街であったと言われる一方、24時間体制のシフトで働く黒人労働者が溢れる町には「ブレックファスト・クラブ」と称し、朝食を提供するという建前で、深夜営業をする非合法クラブが乱立し、ジャズやダンスの娯楽の殿堂として活況を呈します。中でも最も有名だったのは、パーカー-ガレスピーをLAに招聘したkawafuku-menu-1_jpg_515x515_detail_q85.jpg張本人、ビリー・バーグが出資した《Shepp’s Playhouse》で、《川福》という日本料理店であった場所にオープンしたクラブ。コールマン・ホーキンスやTボーン・ウォーカーといった人気ミュージシャンを出演させ、ハリウッドからジュディー・ガーランドといったセレブが通うほど繁盛した。 

 <ザ・フィナーレ>

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 一方、チャーリー・パーカーの出演場所は《The Finale》というクラブ、1944年にオープンしてから、度々経営者が代り、神出鬼没で、店の住所は転々とした。モグリ営業であったことは明らかですが、チャーリー・パーカーは1946年3月ころからハワード・マギー(tp)のバンドに飛び入りし、やがて20才のマイルズ・デイヴィス、ジョー・オーバニー(p)、アート・ファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)とバンドを組んで出演。おかげで《The Finale》はバップの聖地の様相を呈したそうです。『Dilal』というマイナー・レーベルを起こしたばかりのロス・ラッセルは、ここに足繁く通って録音契約を取り付け、演奏の模様はLAやパサデナのラジオ局が中継放送していた。怪しげな『Charlie Parker at the Finale Club and More』というCDはエアチェック盤ですね。

 バードの出演当時、実質的な経営者は兄弟分のハワード・マギーであったと言われています。上の写真でサングラスをかけたアルト奏者がバードです。

 その当時の《The Finale》の場所は、日本文化協会のビルの一室にあり、入り口はOverSeasの裏口のようなビルの廊下にあった。ライブは午前一時より、もとより「ブレックファスト・クラブ」にリカー・ライセンスなどないので、客は酒のボトルを持ち込んで、トニックやソーダや氷を店で買うシステムだった。 

 

 1st_and_San_Pedro.jpg7月29日、『Dial』の録音セッションでLover Manの演奏中、バードの心身のバランスはとうとう限界点に達し、ヒステリー症状に陥りました。

 数時間後、心神喪失のチャーリー・パーカーは、滞在ホテルのロビーを全裸で徘徊し、それどころかタバコの火の不始末で火事を起こし、大騒ぎになり、カマリロ病院に収容されることになります。

 そのホテルは、サンペドロ・ストリートと1st Avenueの交差点にあった「シヴィック・ホテル」、当時、巡業した多くのミュージシャンの滞在地であったと言われていますが、ここも元は「ミヤコホテル」として、リトル・トーキョーを代表する一流ホテルだったのです。

  8週間のはずのLAの滞在は、バードにとって地獄の14ヶ月となったのでした。

 一方、戦後この街に帰還した日系の方々が、それまでブロンズヴィルとして住み着いた黒人コミュニティとの協調と軋轢を繰り返しながら、リトル・トーキョーを再建するまでには、さらに何年もの歳月を要することになります。

 日本の経済白書に「もはや戦後ではない」という文言が入ったのは1956年、米国政府が日系人に対する非人道的な強制収容についての謝罪と倍賞がなされたのは、1980年代以降のことです。 

参考資料:How Taxes And Moving Changed The Sound Of Jazz
 
多人種都市ロスアンジェルスと環太平洋の想像力/南川文里
Little Tokyo / Bronzeville, Los Angeles, California / 日系アメリカ人資料館「伝承」
Memories of Bronzeville, a Forgotten Downtown Era 
Boronzeville, Little Tokyo, Los Angels 
Bronzeville Gypsy: How Charlie Parker lit up Little Tokyo 
Azusa Street to Boronzeville, Black History of Little Tokyo 

Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
Swing to Bop / Ira Gitler (Oxford University Press)

 

 

女の言い分:リー・モーガン事件(その2)

 先週から、この事件のことを書き始めたら、思いがけなく沢山の反響を頂きました。リー・モーガンが今もなお、ジャズの枠や時代を越えて、多くの人達を今も魅了していることを実感し、とても嬉しかったです。

<ハードバップ・バイオハザード>

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 10代から、地元フィラデルフィアで天才の名を欲しいままにしていたモーガンは、並み居る先輩にタメ口をきく、超「生意気なガキ」でしたが、ドラッグとは無縁の少年だった。19才でNYに進出したきっかけは、麻薬禍で崩壊寸前だったジャズ・メッセンジャーズ立て直しを図る、ベニー・ゴルソンが、同郷フィラデルフィアで傑出した存在だったモーガンを最終兵器として呼び寄せたからだ。 皮肉にも、そのモーガンをヘロイン漬けにした張本人は、リーダーのアート・ブレイキーだったと周囲はこぞって証言しています。ヘロインはたった一度試しただけで、ひどい禁断症状に襲われるために、瞬く間に依存症になるのだそうです。

ヘレン: モーガンがアートにハイな状態はどれくらい続くの?と訊いたら、ブレイキーが永遠だ。(Forever)と言ったから。ヘレンはそう語っている。ブレイキー自身は、ヘロインのさじ加減を熟知していて、うまくクスリと付き合うことが出来たけれど、20才になるかならないモーガンは、あっというまに呑まれてしまった・・・

 

 1940年代中期以降、ヘロインが米国の他の都市より、NYで一番流行した背景には第二次大戦中にルーズベルト大統領とマフィアの間に交わされた密約のためだと言われています。大戦中、NYマフィアは、連合軍が表立って執行できない闇の作戦を命を張って遂行し、連合軍の勝利に大いに貢献し、その見返りとして、麻薬の密輸が容易に出来るようになった。おかげで、ヘロインはNYのストリートで、アスピリンよりずっと手軽に買えるようになった。おまけに、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディというジャズメンの永遠のヒーロー、ヒロインのおかげで、麻薬は「最高の高揚感」だけでなく「最高のプレイ」を与えてくれる魔法の薬と信じた、多くの若手が人生を台無しにした。そんな確率はSTAP細胞が出来るより少ないのに…

 「麻薬は、ギャンブルよりもずっと危険で、善良な市民の生活を破壊する。あんなものを扱うべきではない。」 映画『ゴッドファーザー1』の中で、マーロン・ブランド扮する昔気質の侠客、ヴィトー・コルレオーネがヘロインの売買に反対すると、他のボスが「それじゃあ、ニガーにだけ売れば?」と議論するシーンがありました。つまり、黒人は「市民」じゃなかった。ましてジャズが流行し、白人女性が黒人ミュージシャンに恋をするようになると、「やってまえ!」と絶好のターゲットになった。麻薬中毒のミュージシャンは、クスリ代で借金まみれになり、タダ同然でレコーディングをし、著作権を二束三文で売り飛ばす。人種差別に拳を上げると、薬物所持で摘発され、キャバレーカードを剥奪され、仕事ができなくなるわけですが、それはまた別の話。モーガンの物語に戻りましょう。

<シーシュポスの神話>

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 さて、ヘレンは、モーガンとの付き合いが始まったのは1960年代初めだと語り、周囲のミュージシャンの証言では、二人がマネージャー、プレイヤーのおしどり夫婦として、円満な二人三脚が出来た時期は、1965年から1970年ごろまでのようです。

 彼の年譜を観ると、最初の妻、キコ・モーガンが彼の許を去ったのが1961年、その直後にジャズ・メッセンジャーズを退団、独立してからのギグがたびたび「体調不良」でキャンセルされている。1962年、NYシーンからこつ然と消えた彼について、「従軍」「入院」「転職」と色々憶測が流れた。真相は、多くのジャズメンがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設NARCOで療養していたようです。クスリとの付き合い方を覚え、再びNYに戻ったモーガンは『サイドワインダー』華々しいカムバックを遂げた。

 1963年、すでにジャズは流行遅れとなり、時代はすでにロックンロール全盛時代、そんな頃、斜陽のBLUENOTEに録音したアルバムが『サイドワインダー』。録音中に急遽トイレに籠ってトイレットペーパーに走り書きしたロック・テイストのソウルフルな変則ブルースが大ヒット!プレスが追いつかないくらいよく売れて、儲けたお金が15,000ドル!せっかく療養したというのに、大金はヘロインとなって血液中に消え、また元の黙阿弥。聴く者を翻弄しながらクライマクスに連れて行く、クールに計算された圧倒的なプレイとは裏腹に、彼の生き様は、頂点に上り詰める寸前に奈落へ転げ落ちるという不条理の繰り返しだった。

Nightofthecookers.jpg 1965年、フレディ・ハバードのライブ盤『The Night of the Cookers』にゲスト出演した時、モーガンは借り物のトランペットで演奏するしかない極貧状態だったとビリー・ハート(ds)は証言しています。それを見かねたヘレンは、本格的に彼の救済に立ち上がった。

 ヘレンはモーガンの楽器を調達し、ジャズ・メッセンジャーズに舞い戻ったり、レコーディングと単発のツアーだけの状態だった彼を鼓舞して、自己バンドを結成させた。レギュラー・メンバーは、ハロルド・メイバーン(p)、元メッセンジャーのジミー・メリット(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、控えにはシダー・ウォルトン(p)やハート(ds)を擁し、バンドを抱えるための資金も彼女が肩代わりしていた。ヘレンがただの娼婦であったのなら、40才になってこれほど資金力があるはずはない。彼女は詳しく語っていないけれど、やっぱり裏社会で働いていたのかも知れません。とにかく、彼女はテキパキ仕事が出来、はっきり物が言えるサバケた女傑だった。

 ヘレンはモーガンに、ヘロインを克服するように説得する。

「ヘロインをやり過ぎなければ、もう一度凄いプレイができるようになるのよ!だから自分で努力しなさい!」

 納得したモーガンはブロンクスの病院に通い、メタドンというヘロインの代替物を処方する薬物治療を受けるようになった。その頃のヘレンの家の冷蔵庫を開けるとメタドンが山のように貯蔵されていたそうです。

 同時にヘレンはモーガンの「取り巻き」を「寄生虫」と呼び、バッサリ排除するという荒業をやってのけた。寄生虫の代表格が、モーガンとホテルの部屋を共有していたルロイ・ゲイリー、彼に因んだ”Gary’s Notebook”という曲が『サイドワインダー』に収録されている。モーガンはヘレンと同居する直前、安ホテルでゲイリーと同宿し、ホテル代が払えず追い出さた挙句、二人一緒にヘレンの家に転がり込んできたジャンキー仲間だ。彼は、モーガンが立ち直るにつれて「自然消滅」した、ということになっていますが、実のところどんな形で消滅したのかは分からない。

 治療のおかげで、モーガンは精力的にギグとレコーディングをこなすようになります。ヘレンはいつも彼と一緒で、ツアーがあると必ず同行し、シャツやスーツにピシっとアイロンをかけてスタイリッシュなトランペッターの出で立ちを整えた。1968年、ヘレンはマンハッタンの”ヘレンズ・プレイス”を引き払い郊外ブロンクスの高級コンドミニアムに転居。仕事の話は全てヘレンを通して行われ、二人は、年の離れたおしどり夫婦として世間に広く認知されるようになっていました。

 思えばメタドンの治療期間が、二人の蜜月だった。ヘレンは彼が立ち直るよう、誠心誠意尽くしたけれど、彼が本当に立ち直ってしまえば、モーガンは自分の許から巣立ってしまうことを、心のどこかでずっと恐れていたのかも知れない。ヘレンにとっては年の差の不安を紛らわすため、モーガンにとってはヘロインに頼らないため、その頃巷で流行した比較的依存性の少ないコカインが絶好の嗜好物になって行きます。

<Fine and Mellow>

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 1970年になると、モーガンは高級スポーツカーを乗り回し、夜の街のどこかで、だれかとコカインを楽しむようになっていきます。朝帰りをして、ヘレンにズケズケ言われるのが耐えがたく、反抗期の子供のように、うとましいと思うようになっていた。

 この頃、彼は恋が出来るほど元気を取り戻していました。相手は、彼にお似合いの若い女の子だった。彼女が何者かはどこにも書かれていませんが、少なくとも業界の人間ではなかった。当時流行の先端だったアフロヘア、スレンダーな抜群のスタイルで、ひと目を引くほどの美女だった。モーガンは彼女と一緒にコカインを楽しみ、スポーツカーに同乗させて、仲間に見せびらかすようになった。ヘレンは、最初のうちは鷹揚に振舞っていましたが、モーガンは、恋人とコカインの両方にぞっこんになり、ブロンクスの家に帰らなくなります。そしてモーガンのギグに、これまでのようにヘレンが声援を送る姿は見られず、マネージャーとして最終日にギャラの受け取りに現れるだけになっていきます。

 或る日、ヘレンが家に帰ると、モーガンは浴室で若い恋人と一緒だった!

 ヘレンが恐れていたときが、とうとうやって来た。彼女は、自殺を図りましたが、モーガンが病院に運び一命をとりとめます。

 「もう潮時だ。」ヘレンは別れる決心がつきました。

 「私はあんたの本妻で、愛人は別にいる。」そういうのは無理なのよ。私はそういう女じゃない。そんな生き方はいや!だから、もう別れましょうよ。あなたは彼女と一緒になりなさい。私はちょっとシカゴに行ってくる。昔の友達に会いたくなった。いつ戻るかは分からない。あなたが望むのなら、これまでどおりにマネージャーの仕事はしてあげる。でも、もう終わりにしましょう。」

 すると、モーガンは喜ぶどころか懇願した。ヘレンの庇護がなければ、おちおち女の子と遊んでいられない甘えん坊なのだろうか?

「行かないで。シカゴには行くな。嫌だよ。別れたくない!」

 モーガンの甘えに負けたヘレンは結局、思いとどまり、そのときつぶやいた。

「いいわ、モーガン、でもヨリを戻すなんて、私の人生最大の過ちになるかもね。」 

 厳寒のNYでモーガンが質入れしたコートを取り返したことが縁で結ばれた二人は、数年後、やはり厳寒のNYで、一着のコートのために破滅へと導かれていきます。(続く)

 

女の言い分:リー・モーガン事件(その1)

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 北国の皆様、暴風雪の影響はいかがですか?被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。こちら大阪も日頃の寒さが身に染みます。

  リー・モーガンがイースト・ヴィレッジのクラブ、Slugs’ Saloonで、内縁の妻に射殺された1972年2月19日の夜も、みぞれ混じりの雪が降る、凍てつくような夜だったそうです。

 嫉妬に狂った毒婦の犯行だ!と勝手に決め込んでいましたが、今年発表された彼女のインタビュー『The Lady Who Shot Lee Morgan』(Larry Reni Thomas著)を読んでみると、あながちそうでもないらしい。

 

<女の履歴書>

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 モーガンを撃った女、ヘレン・モアは1926年、ノース・カロライナ州の農業地帯の生まれ。リーよりも一回り上の姉さん女房ということになります。美人で早熟だったヘレンは13才で未婚の母となり翌年にはもう一人出産、子どもたちは祖父母が自分の子として育てました。

 やがて、ヘレンはウィルミントンという都市で知り合った22才年上の男性と17才で結婚。夫はNY出身で密造酒売買に携わり、たいそう羽振りのいい結婚生活を送った。しかし、わずか2年後、夫は溺死体となり、ヘレンは19才の若さで未亡人となります。NYから夫の身内がやって来て、ヘレンをNYに連れ帰りましたが、自分の居場所はなかった。大都会で、頼る人もなく、職能もなく、黒人で、若く美しい女の子が、手っ取り早くお金を稼ぐには、夜の世界に行くしかない。モーガンの共演者ビリー・ハートは、ヘレンが娼婦だったとはっきり証言しています。同時に彼女は麻薬の運び屋もやっていた。玄人であり麻薬中毒でない黒人は、その世界では” Hip Square”と呼ばれ、商品の薬に手を付けず、女だから怪しまれることも少なかった。ドラッグの取引は、たいていハーレムのアフターアワーズのクラブで行われ、ジャズ・ミュージシャンとの付き合いも、ドラッグの売人達を通じて始まりました。特に親しかったのが、その頃ハーレムで弾き語りをしていたエッタ・ジョーンズで、ヘレンが殺人罪で告発された時も、彼女は奔走してくれました。

 ヘレンはハードバップを演奏するジャズメン達が、非常に知的で教養があることに驚きます。それにもかかわらず、彼らが白人から二重三重に搾取され、白人客しか入れない場所で演奏をしなければ生きていけない。深い人種の悩みを抱え、真面目に音楽を追求しながらも、麻薬に耽溺していく姿が不憫でたまらなくなります。

 彼らが悩みを忘れられるのは、演奏に没頭できるバンドスタンドだけ。そんな若いミュージシャン達の姿は、少女時代に産んだ子供達には叶わなかった母性本能の対象となり、時にはそれが男と女の愛になりました。

 彼女のアパートは”バードランド”のすぐそばで、ジャズメン達が仕事を終えて立ち寄るには絶好の場所、まともな食事を摂る機会のない彼らはヘレンのアパートに行けば、温かくおいしい手料理をごちそうしてもらえた。そこで麻薬をやるのだけは厳禁。若手バッパー達は53丁目の彼女のアパートを”ヘレンズ・プレイス”に呼び、ヘレンはみんなに姉御として慕われるようになります。ほとんどのミュージシャン達にとって彼女は「女性」ではなく、面倒見が良く、何でも相談できる「おばちゃん」だったんです。

<男の事情>

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 リー・モーガンが初めてヘレンのアパートを訪れたのは1960年代の始め、やっぱり真冬で、その頃ヘレンと男女の関係にあったトロンボーン奏者のベニー・グリーンが連れてきた。寒い寒いNYの冬にやってきたモーガンはジャケットしか着ていなかった。おまけに仕事帰りなのに、楽器のケースも抱えていない。

「ボクちゃん、今夜は零度よ!コートはどうしたの?」

 クスリを買うためにコートもトランペットも質入れしてしまっていたのだ。

「なんてことするの!金槌持たずに仕事に行く大工なんていないわ!それじゃ、コートとトランペットを出してあげるから一緒に質屋に行きましょう。でもお金はあげないわよ。お金を渡すと、あんたはまっ先にクスリを買っちゃうでしょ!」

 あれこれ母親のように面倒を見てくれる年上のお姐さん、モーガンは年上の彼女と一緒に居ると、とても安心できて、音楽に専念できた。一文無しになっても住む場所はあるし、食事も作ってくれる。当時のモーガンは、麻薬のせいで、たびたび仕事をすっぽかすという悪評が立ち、ギグが激減していたんです。

 或る時、先輩ミュージシャンが急死し追悼演奏を頼まれたモーガンは「悪いけど行けない。」と断ろうとしていた。理由は黒い革靴まで質入れしてしまい、履くものがなかったから・・・

 情けなくて、見ちゃいられない!

 ヘレンは彼のために知り合いのクラブに電話をして仕事を取り始めた。

「私が責任を持ってギグに行かせます。もし来なかったら私が弁償するからブッキングしてよ。」と保証人になった。

 地方のクラブに行くときは、交通の手配も怠りなく、隅々まで気を配ってあげていた。モーガンは、ヘロインを辞める薬物治療を始め、だんだんと立ち直っていきました。

 「ヘレンは大した女だ。ボロボロのモーガンがまともになってきたじゃないか!」 仲間は、ヘレンを敬愛していた。

 でも彼女がどれほど努力しても、モーガンの麻薬癖だけは断ち切ることだけはできなかった。一旦ヘロインから遠ざかり、生活が安定するにつれ、今度は、比較的依存性が少ないと言われる高級薬物、コカインに手を出すようになります。そして、ヘレンも一緒にコカインを吸うようになります。

(続く)

Moanin’ と軍師ベニー・ゴルソン

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 <軍師ゴルソン>

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  みなさんご存知のように、”Moanin'”はメッセンジャーズの名ピアニスト、ボビー・ティモンズ作曲。でもテナー奏者、ベニー・ゴルソンの周到なプロジェクトなしに、名曲の誕生はなかった。ゴルソンがメッセンジャーズに入団したのは、レギュラー・メンバーのジャッキー・マクリーンがキャバレー・カードを剥奪され登録抹消になった事がきっかけでした。急遽代役に駆りだされ、なし崩し的にレギュラー登録されたんです。
 ゴルソンがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍したのは、1958年5月頃から半年余りの短期間でしたが、メッセンジャーズへの貢献は計り知れないものがあります。 

 その時、ゴルソン29才、浮き沈みの激しい演奏家の生活を捨て、作編曲に専業しようと真剣に考えていた。若い時から憧れていたバップのメジャー・リーグ、ディジー・ガレスピー楽団に入団を果たし、理想的な音楽の場で充実したジャズライフを送っていたのもつかの間、ローマ楽旅のトラブルで楽団は破産し解散。最高の音楽を提供しても、儲かるどころか、むしろ逆なんだ…夢破れ、興行の世界に幻滅し、比較的安定した道を選ぼうとしていた矢先、ガレスピーの推薦でブレイキーに駆り出された。場所はイースト・ヴィレッジのクラブ《カフェ・ボヘミア》、ゴルソンは一晩だけトラのつもりでメッセンジャーズのギグに参加したのですが、アート・ブレイキーのドラムは余りにも素晴らしかった!一緒に演っていてシビれました。それじゃ、もう一週間やりましょう…そしてツアーに数週間、すっかりブレイキーのビートに魅入られ、気付いた時にはレギュラーになっていた。
 ホレス・シルバー(p)や、ケニー・ド-ハム(tp)で有名だったメッセンジャーズもメンバーが入れ替わり、この頃も確かに人気はありましたが、演奏もステージ・マナ―もガレスピー楽団で躾けられたゴルソンにすればB級もいいところ、本番中にピアニストが居眠りする、演奏時間になってもブレイキーは帰って来ない、当然仕事はジリ貧という体たらく。その惨状を見たゴルソンのやる気にスイッチが入った!ガレスピー楽団の敗北を繰り返してはならないという気持ちだったのかも知れません。この瞬間、ゴルソンは軍師になった!バンド再生プロジェクトを推進します。

<再生プロジェクト企画書>

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 当時のゴルソンはNYでは無名もいいところ、そのNobodyがトップ・ドラマー、アート・ブレイキーに意見した。
 「あなたは凄いドラマーです!現状のギャラはあなたの価値を考えるとタダ同然じゃないか!あなたのような才能の持ち主は大金持ちにならなくちゃいけません。新しいバンドを作りましょう!」etc.etc…いわばプレゼン、もう止まらない!自分でも呆れるほど色々アイデアを出した。最初は乗り気でなかったブレイキーも、ゴルソンの舌鋒になんとなくその気になり、メッセンジャーズ再生プロジェクトが始まったのは1958年5月のことです。ゴルソンのアイデアは次のとおり。

1. 人事:必須事項:メンバー総入れ替えだ!
 旧メンバーに対する解雇通告は、ブレイキーが「クビなんて言えない」というのでゴルソンが首切り役、同時に新メンバーの提案もした。
 新登録候補は、ゴルソンが実力をよく知る同郷フィラデルフィア出身者ばかり、ピッツバーグ出身のブレイキーは当初「ピッツバーグは俺だけかい(怒)」と難色を示しましたが、「大丈夫、大丈夫!ピッツバーグもフィラデルフィアも同じペンシルヴァニア州じゃないですか。」と丸め込まれちゃった。
 フィラデルフィア出身で固めた新レギュラーはフロントに19才の新人トランペット奏者、リー・モーガン、チェット・ベイカーのピアニストだったボビー・ティモンズ、そしてベーシストはB.B.キングと演っていたジミー・メリットに決定!フィラデルフィア出身者で固めることは、規律を守るためにもゴルソンの音楽プロジェクトにも必要な案件だった。最初は殆どの項目に難色を示したブレイキーを、ゴルソンは理詰めでどんどん説得して行きました。

2. 経理は一流バンドらしく。
 ゴルソンは、エージェントに掛け合い、これまで日銭勘定だったツアーの経費やメンバーへのギャラを、月極の一括精算とし、帳簿を自ら管理することにした。それによって明細がはっきりし、仕事の計画を立てやすくしたのだ。

3. 就業規定:メッセンジャーたる者、紳士であれ。
 ゴルソンはメッセンジャーズのメンバーに就業規則を作った。遅れない、休まない、ステージで眠らない…などなど、これによって、ステージマナーも驚異的に改善されたことは言うまでもなく、当時のDVD映像でも、メンバーの立ち位置までしっかり配慮が行き届いていたのが判ります。ただし親分ブレイキーの遅刻癖は、ゴルソンがいつも見張っていなければならなかったとか。

4. ユニフォーム着用
 ゴルソンはブレイキーに新ユニフォームの着用を提案。お客は演奏を聴く前に見た目で判断する。ビシっとクールに決めようぜと、難色を示すブレイキーを説得。恐らくホレス・シルヴァー時代と同様に、経費はパノニカが援助してくれたのではと推測されます。

5 .コンテンツ・リニューアル:オール新曲でレコーディングが目標。
 ゴルソンの作編曲者としての叡智がここで最も発揮されます。新バンドの為に書き下ろしたのが” Along Came Betty”と “Are You Real”今もジャズ・スタンダードとして演奏されている名曲。それに加えてブレイキーの魅力が最大限に爆発する”Blues March”を一晩で書き上げた。例によってブレイキーは「俺はバッパー!ニューオリンズの葬式じゃあるまいし、マーチなんて恥ずかしくて出来るかよ。ウケるわけない!」の一点張り。
「ダメ元で一度だけ演ってみて。」と小さなクラブで演奏したら、店が地響するほどお客さんが熱狂し、その夜から半世紀に渡りブレイキーの十八番は”ブルース・マーチ”になった。
 軍師ゴルソンは、ずらりと揃った新レパートリーを眺め、次の一手を案じる。もうひとつの決め球を…

<Moanin’登場>

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 その年の夏、ボビー・ティモンズがアドリブの中でよく使う、いわゆる「仕込み」フレーズ、ファンキーな8小節がゴルソンの心を捉えた。ある日、リハーサルの合間にゴルソンはティモンズに頼んだ。
 「ボビー、いつものフレーズを弾いてみてくれない?それそれ!そこにサビを付けて曲にしてくれよ。」
 「ベニー、これはただのフレーズで、曲にするほど大したものじゃないし、サビなんて思いつかないよ…」
 「ステージなら、アドリブでこのフレーズから、サビへ行ってるじゃないかよ。それなのに、ここじゃできないっちゅうの!?」
ボビーはしばらくしてサビを作って弾いてみせた。
 「これはどう?」
 「アカン!だめ、だめ、元のフレーズみたいにファンキーでないと…」
 「そんならベニーが作曲すりゃいいじゃん。」
 「アカン!お前の曲だ、サビも創らなアカン!ただし最初の8小節みたいにファンキーなブリッジにしてくれ。」
 しばらくして、ボビーは黒っぽくでかっこいいブリッジを作りあげた。よし!新生メッセンジャーズの決め球だ!ゴルソンは迷わずこの曲に”Moanin'”と名づけた。「嘆き」や「ぼやき」それに「うめき」、ときには「喘ぎ」だったり、なんとも日本語にしにくいけれど、曲を聞けば意味カテゴリーが理解できるほどぴったりした名前ですよね!

<彼を知り己を知れば…>

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 さて、新曲が揃った。お次はレコーディングだ。「ブレイキーはもう十分録音したから…」と渋るブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオンに、半ば強引にライブを聴かせて「OK」を取り付けた。10月30日、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音。選曲も、ブレイキーの顔が強烈なインパクトのあるジャケットも、『Moanin’』というアルバム・タイトルも、全部がゴルソンのアイデアだった。その結果、『Moanin’』(BLUE NOTE 4003)は世界中で大ヒット!たった一晩の代役として演奏してから5ヶ月後のことでした。

 軍師ゴルソンは、全身全霊でバンドを立て直し、作編曲全てお膳立てしておきながら、新作アルバムのタイトル・チューンは自作にしなかった!なんてクールなんでしょう!並の人間なら、まして自己主張の強いミュージシャンなら尚更、『Blues March』や『Along Came Betty』と自作をタイトルに持ってきたはず。ところが彼はバンドが売れることを第一義とし、どの曲にすべきかを冷静に見極め、ティモンズ名義の『Moanin’』をアルバム名にしたのだった。

 正に孫子の兵法=「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」を実践できる稀有なミュージシャン!翌月、録音と平行してゴルソンがエージェントにお膳立てさせた1ヶ月に渡るヨーロッパ公演も大成功を収めた。

 でも戦を終えた軍師に安住はない。 帰国して3ヶ月後、ウェイン・ショーターを後任に決めて円満退団、潔く自らの道を進んだ。

 後年、ゴルソンはアート・ブレイキー70才のバースデー・コンサートで共演、その時ブレイキーは、ゴルソンをこう紹介しました。

「メッセンジャーズを始動させたベニー・ゴルソンに拍手を!」

 その頃には ”Moanin'”の作者ボビー・ティモンズも、リー・モーガンも生き急ぎ、とうにこの世を去っていました。

 参考文献

 Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master interview:Benny Golson

 Cats of Any Color: Jazz Black and White Gene Lees 著/ Oxford University Press刊

日系Lee Morgan夫人のこと

lee-morgan-800.jpg Edward Lee Morgan (1938- 1972)

 Kiko Yamamotoという名の日系アメリカ人女性がいる。1960年代、雑誌「プレイボーイ」のバニー・ガール特集の他にも彼女は何度か日米のメディアに紹介されている。若手トップ・ジャズ・ミュージシャン、リー・モーガンの妻となった日系人女性としてだった。

 Kiko Yamamotoは1940年頃、カリフォルニアの農場で生まれた。日系移民の両親は農業に従事していたが、第二次大戦中、敵性移民として財産を没収され強制収容所に送られた。山本家は差別の強い西海岸に懲りて、解放後は人種混合の文化を持つ大都会、シカゴに移っている。

 Kikoは美人の誉れ高く、10代でモデルにスカウトされ、着物(或いは着物っぽい)姿のダンス・ショーで人気を博したThe Keigo Imperial Dancersの踊り子や、プレイボーイ・クラブのバニー・ガールとして、オリエンタルな魅力な発散した。 

wifw601262_313796235374376_2082014442_n.jpg ジャズ・ファンであったKikoのお気に入りはシカゴ界隈のジャズ・スポットで、ジャズメンが黒髪の美女を見過ごすはずはなかった。

 

 左の写真はスイング・ジャーナル(’61, 2月号)から(ブログ[雨の日にはジャズを聴きながら]より拝借しました。)。名前も「山本テイコ」と誤記されているし、その魅力が捉えられていないのが残念なのですが、女優の小池栄子さんのような人だったのかも知れません。

 モーガンとKikoの運命的な出会いは1959年の大晦日の夜、シカゴのサザランド・ホテルのロビーだった。モーガンはジャズ・メッセンジャーズとヨーロッパ・ツアーから凱旋直後、リーガル・シアターでマイルズ・デイヴィスのバンドとダブル・ビル(!)で公演中。ホテルのパーティに来ていたKikoとすれ違いざまに、モーガンは「綺麗な娘だね!」とフランス語で声をかけた。数日後、同じホテルのラウンジで、モーガンとマイルズは、Kikoや仲間の女の子を誘って合コン、二人はたちまち恋に落ちた。年が明けて1月の中旬、再びメッセンジャーズでシカゴを訪れたモーガンとKikoは、何度かデートしただけで、お互いを伴侶と認め合い電撃婚約、まもなくイースト・ヴィレッジのモーガン宅で同居を始めことが、米国のアフリカ系女性誌、”Tan”に掲載されている。(’60, 8月号)

 44190011_m.jpg婚約時代にレコーディングされた『Here’s Lee Morgan』( VeeJay) では、哀しいはずの”I’m Fool to Want You”でさえも希望の星が輝くような演奏ぶりだ。結婚式を挙げたくても、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのスケジュールはびっしり詰まっていて、5月末まで結婚式はたびたび延期された。NY市庁舎でようやく式を挙げたときには、ボビー・ティモンズ(p)が新郎の介添人を努め、出演中の”Birdland”で披露宴が行われた。ただしアフリカ系と日系の異なる人種の結婚式に、2人の両親は誰も立ち会っていない。

  (その頃は)亭主関白の国、日本文化をルーツを持つ新妻、Kikoの献身ぶりはジャズ界で前例のないことだった。

 「お風呂の湯加減はいかがですか?」「肩を揉みましょうか?」「お食事は?」・・・甲斐甲斐しく尽くすKikoの姿にブラック・コミュニティの友人はみんなぶっ飛んだといいます。

616M2XFPEKL.jpg 同年8月に録音された『A Night in Tunisia』(BlueNote)には、Kikoの旧姓”Yama”、そして2人が飼っていたプードルの名前”Kozo’s Waltz”(子犬→小僧のワルツ)をつけたオリジナル曲が収録されている。“Yama”の翳りある曲調は、この幸せは続かないかもしれないという不安の表れだったのかもしれない。

<ドリアン・グレイの肖像>

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 「私が白人だったら、リーは私と結婚しなかったでしょう。白人は彼をジャズと引き離そうとするでしょうから。彼は一流ジャズ・ミュージシャン!ジャズが彼の生きがいなんです。」 Tan誌のインタビューで新婦は語っている。ステージ上のモーガンには、パリのマダムもNYの女達も、みんな恋をした。22才の若い夫はユーモアと知性に溢れ、ちょっぴり尊大であっても、仕方ない。なんて素晴らしい夫だろう!オスカー・ワイルドの創った悪魔、ドリアン・グレイに恋をした貴婦人たちのように、愛する夫に秘密があるなんて夢にも思わなかったに違いない。

 誰だって結婚すれば「こんなはずじゃなかった・・・」というのはあるだろうが、彼らの場合はギャップが大きすぎたのだ。

 結婚してしばらくすると、Kikoは夫の収入が余りにも少ないのに驚いた。ほとんど休みなくツアーやクラブ・ギグがあって、財布にはお金がうなるほどあるはずなのに、彼のくれる生活費は余りに少ない。そうかと思えば、フィラデルフィア出身ミュージシャンの例に漏れず、高級車を買ったりするのに・・・

 そして夫はときどき姿を消すようになった。どこで何をしているかわからない。やがてモーガンがヘロインにどっぷりつかり、収入の大部分が闇社会へと蒸発していたことに気がつくが後の祭り。Kikoの貯金も吸い取られ、気がつけばその日暮らしも同然の状態で、モーガンは人前で彼女に暴力を振るうほど変わり果てていた。

 麻薬厳禁のディジー・ガレスピー楽団に在籍していたモーガンが、クスリをやるようになったのは、次のボス、アート・ブレイキーの影響と言われている。ブレイキーが歴代のメッセンジャーの中で最も気に入っていたのはモーガンがブレイキーを見習い、彼以上にドラッグに溺れたのはとても皮肉だ。やがて、モーガンのステージ・マナーは悪くなり、ボビー・ティモンズ(p)と共に、ギグをすっぽかし始める。

 2人が結婚した翌年、1961年8月、遂にブレイキーはモーガンを解雇しフレディ・ハバートと入れ替える。表向きは「独立のため」と退団と報じられたものの、当時のモーガンは長らく親しんだイースト・ヴィレッジのアパートの家賃を滞納し、なによりも大切なトランペットすら質入れしていた。

<ホームレス>

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 二人はイースト・ヴィレッジのアパートを追い出され、モーガンの故郷、フィラデルフィアの姉の家に身を寄せた。アーネスティン・モーガンはリーが子供の頃にトランペットを買い与えたお姉さん、可愛い弟の窮状を見かねて手を差し伸べたのだった。アーネスティンの幼い子どもたちは、黒髪が美しい東洋人の叔母になつき、しばらくは安住できると思った矢先のある日、モーガンは姉の家でヘロインを注射しているのを家族に見つかってしまう。幼い子どもたちの居る家庭で、モーガンは恩を仇で返すことになった。

 姉の家を退去した最後の手段として、モーガン夫妻は母を頼る。再起への援助を請うKikoに、姑は厳しかった。ネッティ・B・モーガンは、子供たちのために、リーの父親、オットーと長らく別居しながら重労働に耐えた苦労人だ。やっと出世した大事な息子がジャンキーに落ちぶれたとは、到底受け容れられないことだった。母の目には、全ての災いは、モデルかダンサーかしらないが、チャラチャラした東洋人の嫁のせいだと思ったのだろう。

 「Kiko、息子がこんなになったのはあんたの責任よ。嫁のあんたがしっかりしないからよ。息子がえらい目に合ってるときこそ助けるのが妻でしょう。なんでも職を見つけて働きなさい!」

 まだ21才のKikoには、ヘロイン中毒で暴力をふるう夫に仕える術も、姑に状況はそれほど生易しくないのだと説得する術もなく、シカゴの実家に帰る他はなかったのだった。

 リー・モーガンはKikoとの別れ話が出た頃に”Alimony”(別居手当)というタイトルの曲を作曲しているが録音はされていない。

 2人は正式に離婚せず、現在もモーガンの著作料は遺族であるKiko Morganに支払われているという。

<嫁にするなら日本人?>

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  この不幸な事件の後、ジャズメンの間で「結婚するなら日本人女性に限る。」という風潮があったと、よく耳にします。日本人妻はジャズ界ではCoolだったらしい。その理由はどうやら美貌ではなくて、”Patience(忍耐力)”。NYに居ると、この私ですら、「○○の奥さんがあんたみたいな人ならねえ・・・」と、的はずれな意見を何度か言われた。それは、Kikoさんの態度に感動したジャズメンが作り上げた幻想だったのかも・・・

 実際、メッセンジャーズのアート・ブレイキーやウェイン・ショーターが次々と、日系、あるいは日本人女性を娶り、ホレス・シルヴァーは、出光一族の出光真子さんの美しい着物姿を『Tokyo Blues』のジャケットに使い、伝記で彼女との淡いロマンスを嬉々として語っています。

 ディジー・ガレスピーやデューク・エリントンにも可愛がられた日系女性Kiko Morgan、日本女性と結婚することがCOOL! と思われたのは、Kikoさんが、リー・モーガンに尽くした証拠ではないだろうか?

 Kikoが去った後、廃人になりかけたモーガンは母親の希望どおり、しっかりものの年上の女性、ヘレンの支援でカムバックを遂げるが、彼女の銃弾に倒れ、34年間の人生を終えた。刑期を終えたヘレンの語るリー・モーガン像は、母と妻をごちゃまぜにしがちな日本人男性みたい。モーガン姓を終生名乗ったヘレン・モアのことも、いずれここに書いてみたいと思います。

その男、凶暴につき(2):ルーレット・レコードCEO、モリス・レヴィー

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Morris Levy (1927-1990)

 禁酒法時代、ジャズは密造酒に洗われ、ずいぶん垢抜けた。カポネは大恐慌の後脱税容疑で投獄。1947年、梅毒で脳を侵されて見る陰もない最期だった。財布に入りきらないお札を、弱い黒人ミュージシャン達に多少なりとも分け与えたアル・カポネに比べて、音楽界のドンとして君臨したギャング、モリス・レヴィーのやり方は、ミュージシャンの著作権を奪い、クスリやギャンブルで二重三重に絞り上げるという卑劣極まりないものだった。
 だからといって、カポネが音楽を愛する善人で、レヴィーが真正のワルだったというわけではないのだろう。カポネの時代、音楽は美しいダンサー達のショウの添え物的な存在でしかなかったし、莫大な利益をむさぼる対象からはずれていただけなのかも知れません。

 第二次大戦中、マフィアは「暗黒街工作員」として連合軍勝利のために命を張って手を汚した。戦争に勝った後、ルーズベルト大統領はその見返りとして、ヘロインの密輸を黙認、麻薬の売買は密造酒に変わる主要産業になった。また砂漠のど真ん中にモルモン教徒が開拓したネバダ州に、カジノと娯楽の聖地ラスベガスを建設したのもマフィアの功績(?)だ。

<ビバップのフィクサー>

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 L1.jpg 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したプランジャー・ミュートの達人、タイリー・グレンのアルバム『Let’s Have a Ball』や、1月同講座で聴いたカウント・ベイシー楽団とジョー・ウィリアムス&LH&Rのコラボ盤『Sing Along with Basie』をリリースしたレコード会社は“Roulette Records”。このレーベルのオーナーはラジオのDJ、シンフォニー・シドと組みビバップ・ブームを大いに盛り上げた流行の陰の立役者で、音楽業界のドンとなったモリス・レヴィーです。

 その男、実は、NYのマフィアのうちでも五本の指に入るジェノヴェーゼ一・ファミリーの一員、 一家を束ねた親分は、泣く子も黙るヴィトー・ジェノベーゼ、映画”ゴッドファーザー”のモデルのひとりだった。映画でマーロン・ブランド扮するヴィトー・ドン・コルレオーネは地域の争い事を収め、麻薬売買には断固反対した侠客でしたが、そんなこと言ってちゃ食べて行けない。現実のジェノヴェーゼ一家は博打、クスリ、売春、ボクシングその他の興行、金融業など、手広く事業展開する大実業家、その中の音楽エンタメ部門を仕切った幹部がモリス・レヴィーだった。本名モーセ・レヴィー、シチリアではなくてユダヤ系。NYブロンクス出身で、13才のとき、御年75才の担任教師に暴行を働き放校処分、それ以来ヤクザ稼業一筋、ほんとはこういう人を「Mean Streets」と呼ぶのでしょうね。

 

 

Letshaveaball.jpg 若いころはフロリダの高級クラブで丁稚奉公した。カワイコちゃんが店内のお客様の記念写真を撮影すると、お客さまが帰るまでに現像してお渡しするサービス係を務め、暗室の現像技術を取得した。きっと隠し撮りされて恐喝されたお金持ちもいたんでしょうね… モリスはこの土地でクラブ経営のノウハウを学んだ後、NYに舞い戻り、Topsy’s Chicken Roostという店の経営に関わります。折しも到来したビバップ・ブームに便乗して、店は”Royal Roost””Bop City”と屋号を変え有名ジャズクラブとなりました。人気ディスク・ジョッキー、シンフォニー・シドと組んで、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンといったスターをブッキング、ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げた。ここからモリスは、ラジオでPRしてくれるDJを味方につけることがいかに大事を身をもって学んだ。それと平行して”Roulette Records”を設立、ビバップのレコード・レーベル”Roost”を買収、”Birdland”レーベルではPrestigeのボブ・ワインストックと組んだり、ジャズにかぎらずR&Bやスタンダップ・コメディのレコーディングなど多方面で、どんどん事業展開、ビバップ、ハードバップ期の象徴的クラブ、”Birdland”を設立した。前述のタイリー・グレンがフラナガンやハンク・ジョーンズと常時出演していたアッパー・イーストサイドの高級レストラン”The Roundtable”は、”Roulette”で得た利益を投資して開店したからラウンドテーブルという屋号になったのです。

 『Let’s Have a Ball』(’58)は、この店のオープンと前後にリリースされたアルバム、レコードが売れれば店が繁盛し、店で生演奏を聴けばレコードが売れるという仕組みです。

<カウント・ベイシーとルーレット>

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 カウント・ベイシー楽団は、前述の『Sing Along with Basie』を含め20枚以上ものアルバムを”Roulette Records”に録音してる。名門コロンビア・レコードの司令官ジョン・ハモンドが面倒をみたベイシーが何故多く録音をしたのか?これが私にとって長年の「謎」だったのですが、トニー・ベネットの自伝(The Good Life: The Autobiography Of Tony Bennett)を読んで疑問が溶けた。そこにはベイシーが知る人ぞ知る無類のギャンブル好きであったことが書かれていた。カウント・ベイシーは、博打で負けてレヴィーに莫大な借金があったのです。ベネットとベイシーのゴキゲンにスイングする共演盤『Basie Swings, Bennett Sings 』さえも、借金のカタとして録音されたものだった。ベネットはこんな風に書いている。
basie43.jpg 「レヴィーはミュージシャンの骨の髄までしゃぶる古典的悪党だった。噂によれば、カウント・ベイシー楽団員全員がレヴィーの会社の従業員として強制的に演奏奉仕させられた挙句、1セントの著作権料も支払われなかったらしい・・・」
 名門ジャズクラブ、”バードランド”にベイシー楽団は何度も出演しているけれど、最高に楽しい演奏のギャラは雀の涙(peanuts)だった・・・
 ミュージシャンを徹底的に搾取するレヴィーの商法、20才そこそこの若きジャズ・ミュージシャン達が創造するビバップ・ムーヴメント、その演奏の場所を経営する団体がヘロインの売買を主たる産業にしていたのですから、彼らがドラッグ浸りになったって何も不思議ではないですよね。
 

<版権ほど素敵な商売はない>

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 モリスの手がけた店で最も有名なのがチャーリー・パーカーの名前を拝借した“バードランド”、実質的な経営者は弁護士の肩書を持つオスカー・グッドスタイン、モリスは6人の共同経営者のひとりとして財務を担当していました。彼が音楽業界のドンにのし上がったきっかけがここにあります。或る日、ASCAPの職員が音楽家や出版社の代理人として、バードランドに対し演奏著作料を請求しにきた。顧問弁護士(恐らくグッドスタイン)は、その請求は完璧に合法的だから払いなさいと言う。そうか!「著作権」があれば、寝ててもお金が入ってくるんだ!目の前に「宝の山」があったことに気づいたレヴィーは、この著作権法を逆手に取って一儲けしようと決意。最初の妻の名を取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立し、バードランドで初演される楽曲の著作権をせっせと取得した。その中で最も有名なのものが、バードランドから発信されるラジオ番組のテーマソングとして大ヒットした”Lullaby of birdlande5f.jpgBirdland”(1952)。作曲家であるシアリングは、店のレギュラー・ピアニストで、わずか10分でこの曲を創ったと言います。いったい彼がどのような手段を使ったのかはわからないのですが、後になって、出版権をレヴィー、作曲著作権をシアリングに、ということで折り合いがつき、シアリングにも莫大な印税が毎月転がり込んできた。レヴィーが、この著作権事業を更に拡大するため、1956年に設立したのが「ルーレット・レコード」で、それからは作曲著作権も独り占めしようと、新人の契約書を工夫した。とにかくミュージシャンに対しては、おこぼれをあげるどころか、ぼったくる主義を貫徹。恐らくモリスにとって音楽家は単なる消耗品にすぎず、いくらでも代りがあるものだった。ヒットは楽曲ではなくPRによってのみ作られる、という信念があったんでしょう。

 モリスを良い人間だと褒めているのはディジー・ガレスピーくらいで、自伝には「未払のギャラを請求しに行ったら靴箱一杯の札をくれた。自宅の敷金を無利息で肩代わりしてくれる親切な男」と書いてある。しかし、この伝記が書かれた時期を考えると、全くの本心かどうかはわからない。

  

<ロックンロール!>

 

Alan_Freed_1957.JPG  レヴィーは、ロックンロールの創成にも大きく貢献した。その時代、レヴィーが最も重要視したのは音楽の作り手ではなく流行の作り手、つまりラジオのディスク・ジョッキーたち。 レヴィーはラジオの番組のヒット・チャートに自分の楽曲を優先的に流すために、ミスター・ロックンロールと言われた伝説のDJ、アラン・フリードはじめ数々のディスクジョッキーを接待漬けにした。DJの給料はとても安いから接待にはイチコロだった。レストランもホテルも沢山持ってるギャングだから、お・も・て・な・しは得意です。豪華ディナーやただ酒をたらふくごちそうしてから、自分の高級車を提供して乗り回させる。助手席には高級娼婦がもれなくついて… 勿論、現金だってたんまり包んで渡すものだから、レヴィー傘下の曲はラジオでガンガン流れた。レヴィーは、その代わりにフリードの造った”rock & roll”という流行語の所有権を独占し、使用権を徴収していたというからたいしたもんだ。やがて、DJが賄賂と接待にまみれながらヒット曲を操作していることが大きな社会問題となりますが、糾弾されたのはDJで黒幕はお咎め無しだった。内田裕也さんもレヴィーがいなくなってよかったですよね!

 大実業家として、「音楽業界の蛸」「ゴッドファーザー」と雑誌で賞賛されたモリス・レヴィーは、マンハッタンの超豪華アパート暮らし、セレブが憧れる日本人のハウスボーイがお仕えし、傘下企業の利益は7500万ドルと言われていました。
 
6a00d83451c29169e20168e852dc3c970c.png 一方、その裏では、暗黒街の抗争は絶えず、ジャズのメッカ、”バードランド”では立て続けに殺人事件が起こった。最初に殺されたのはギャングの一味、その直後に刺殺されたのはモリスの兄だった。レヴィーと間違えて兄が代わりに殺された。”バードランド”はここから凋落しますが、モリスにとっては痛くも痒くもないことだった。

 

<ジョン・レノンを告訴>

ori-roots09.JPG 1973年、レヴィーは、ビートルスのヒット曲『Come Together』の冒頭歌詞が、チャック・ベリー(レノンのアイドル)の作品”You Can’t Catch Me”(1956)の盗作として、レノンを告訴。示談の結果、レノンがレヴィーが版権を持つロックンロール曲3曲をレコーディングすることで落ち着いた。すったもんだの末、レビーは1セントも出費することなくレノンのアルバム”Roots”を通信販売することで大儲けします。 レヴィーは少しやり過ぎたのかも・・・
 その頃から、競合する音楽企業は、どんどん健全化(?)してギャング以外のビジネスマンが参入し始めて、レヴィーの手がけるポップ・ミュージックに翳りが出てきます。

 <ヤクザ商法の終焉>

6a00d8341c4fe353ef0134880b8394970c-800wi.jpg 時とともに、レヴィーのビジネス感覚や流行を嗅ぎつける嗅覚が鈍り、膨らみ上がった音楽企業の収益が複合的に減少して行きました。財力が引き潮になったとき、それまで金と権力のおかげで隠れていた悪行が徐々に露見し始めた。

 1984年から、FBIがレヴィーの企業について潜入捜査を開始、レコード卸売業者に対して125万ドル相当のレコード売買契約を結ぼながら、高額商品を故意にカタログから削除して販売するという詐欺行為を行ったことを突き止めます。それに気づいて満額の支払いを拒否した業者は暴行を受け重症を負うという事件が表沙汰になり、レヴィーは1986年に逮捕、一流ホテルでの捕物シーンが派手にTVで報道されることに。

 FBIは捜査の手を緩めることなく、「ルーレット・レコード」が、実はマフィアの隠れ蓑として、マネー・ロンダリングの役割を受け持つ会社であることも明るみに出ました。

 1988年、レヴィーは「ルーレット・レコード」と複数の音楽出版社を5,500万ドルで売り抜けますが、マフィアとしての裏の顔はかつてレヴィーが大いに利用したマスコミによって大々的に報道され、TV特番まで組まれた。結局レヴィーは「ルーレット」の管理職2名(うち一名はジェノベーゼ・ファミリー)と共に、強要罪で10年の懲役刑を宣告されることになりました。控訴は棄却され、服役前の1990年、レヴィーは癌で死亡。享年63才、バッパーを食い物にしたバップの立役者の最期でした。

 彼のヤクザ商法は、映画「ゴッドファーザー」でたびたび登場するマフィアらしい台詞 ”I made an offer he can’t refuse” (奴がいやとはいえない提案をしてやった。)を思い出します。ミュージシャンに対するレヴィーの脅しは、レヴィーの死後、60年代に売れっ子だっロック・バンド、「ションドレルズ」のトミー・ジェイムズの手記” Me, The Mob, and The Music (僕とヤクザと音楽)“に赤裸々に書かれています。


 今回、モリス・レヴィーや、彼の著作権商法を調べていると見えてきました。黒人ミュージシャンで初めて著作権会社を設立したジジ・グライスが被害妄想に陥り、ラッキー・トンプソンがホームレスにまで落ちぶれた理由が・・・彼らは後進のためにトラの尾っぽを踏んだ殉教者と言えるのかもしれません。ブームの立役者はミュージシャンの生き血を吸いながら大きくなった。フィリー・ジョー・ジョーンズのビバップ・ヴァンパイアは現実にいたんだね!

その男、凶暴につき (1) アル・カポネとジャズ

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(Al Capone 1899 – 1947)

 毎日寒いですね!今週は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」の下準備で必死のパッチ。今回はミルト・ジャクソン(vib)の名盤『Bags’ Opus』を中心に、コールマン・ホーキンスのレギュラー時代前夜のフラナガン参加盤を楽しみます。

  さきほど寺井尚之とコーヒー飲みながら、ちょっと講座の内容を聴いたのですが、ミュージシャン耳が捉えた名盤の切り口は、ディスク・レビューではなかなかお目にかかれない興味深いもの。前回の講義よりずっと深く楽しく楽しめそうです。ミルト・ジャクソンやベニー・ゴルソン・・・バッパー、ハードバッパーと言われる一流の人たちの音楽に対する「姿勢」は、ルイ・アームストロングはじめ、偉大なる先人から脈々と受け継がれてきたものだということを、サウンドと共に実感していただけますよ!

 講座のラストに紹介する『Let’s Have a Ball』のトロンボーン奏者、タイリー・グレンはルイ・アームストロングと長らく共演したプランジャー・ミュートの達人、前々回のアイリーン・ウィルソン同様、ジャズエイジの栄華を知る名手です。禁酒法のおかげで富と権力を得たマフィア、1920年代のジャズの発展は禁酒法とギャングなしには語れません。

 teddy_wilson_talks_jazz.JPG テディ・ウイルソンは自伝『Teddy Wilson Talks Jazz』で、その時代の体験をヴィヴィッドに語っています。要約するとこんな感じ。
 
カポネが秘密裏に経営する会員制高級クラブ””ゴールド・コースト”の会員証は18金でできていた。深夜、カポネが現れると、貸し切りになる。カポネもマシンガンを持つ子分たちもジャズが大好きだ!カポネが贔屓にするアール・ハインズ楽団の演目はずべて知ってる。彼らのお気に入りミュージシャンは、サックスならジョニー・ホッジスかベニー・カーター、トランペットならルイ・アームストロングかジャボ・スミスだった。(趣味がいいですね!)
 バンド演奏が始まると、王様カポネは始終バンドスタンドに上がってくる。(それはリクエストをするためではなく)ミュージシャンのポケットにチップの100ドル札を入れてやるためだ。時には一晩のチップが一ヶ月分のサラリーより上回ることもあった。大恐慌が始まった頃だったが、おかげで私はクライスラー・インペリアルに乗っていた。
 カポネが飲んでいる間、店の外には防弾ガラス仕様のキャディラック3台と15人の屈強な用心棒が待機していた。
 私は演奏以外に、彼らの仕事をしたこともあるよ。バイオリンのケースにマシンガンを入れて運んだんだ。
 カポネはギャングだし人も殺す。その資金源は密造酒、売春、麻薬…ろくなもんではないが、彼らの潤沢な富みの一部はミュージシャン達に流れ、我々の懐は大いに潤った。
 もうひとつ、カポネのいいところは、シカゴの密造酒販売の利権を黒人のマフィアに任せたことだ。カポネは白人のファミリーは全滅させたが、この黒人一家には手厚かった。おかげでそのファミリーは米国黒人史上第二の億万長者となった。

 <ファッツ・ウォーラー拉致事件>

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 ギャングがジャズ通なんて今じゃ到底考えられませんが、私の学生時代、組事務所が並ぶミナミの街に『デューク』というジャズ・クラブがありました。そこに田村翼(p)さんのライブを聴きに行ったら、最前列に着流しの親分さんみたいな人が子分を連れて真剣に演奏に聴き入っていたのを観たことがあります。

 カポネのジャズ・ファンぶりについて、とてもおもしろいエピソードがあります。1926年1月17日、寒い夜のこと、シカゴの繁華街にあるシャーマン・ホテルにファッツ・ウォーラー(p)がに出演し大当たりをとっていた。ファッツ・ウォーラーは道化の仮面をかぶった天才音楽家、ピアニスト、歌手、作詞作曲家、ファッツはトミー・フラナガンの子供時代のアイドルで、晩年には彼のレパートリーを再発掘していました。その夜の演奏がハネてファッツがホテルから出てくると、屈強なその筋の兄さんたち4人に取り囲まれた。ぽっこりしたお腹にピストルの銃身がめり込む。ファッツは否応なしに、脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれた。

hawthorne_500.jpg 「もうこれで俺もお陀仏だ・・・神様・・・」ファッツは生きた心地がしなかったそうです。降ろされた場所はシカゴ郊外のハートホーン・インというホテルだった。そこは、アル・カポネ一家の根城。ホテルに入り、ファッツが強引に連行された場所は、処刑場ではなく、宴会場、ステージ上のピアノの椅子だった!

   主賓席に座る男の頬の傷を見てファッツは、その男こそシカゴの帝王、カポネだとわかった。1月17日、その日はカポネ親分の27才の誕生日だったんです!  ファッツを拉致した屈強な男たちは、敬愛する親分に喜んでもらえるプレゼントをあれこれ考えた結果、極上のジャズを選んだというわけ!手段は怖いが、ケーキいから登場する裸の美女ではなく、ファッツ・ウォーラーをサプライズにしたとは、なんとも粋な兄さんたちです。

 多分生きた心地がしなかったファッツは、気合を入れ直し歌って弾いた。最高の技量とユーモア・センス!美しいピアノ・タッチ!満員のお客は大喜び、中でもいちばんウケていたのが主賓のカポネ。人種差別の時代、黒人ミュージシャンは一流クラブで演奏しても、お客と同じ席で食事もできない。正面玄関から出入りもできない。でもジャズを愛するカポネは野暮なことは言わない。食いしん坊のウォーラーに極上シャンパンやキャビア、最高の食事をたんまりふるまって、演奏を続けさせた。拉致されたって、自分の音楽を喜んでくれるなら、それにごちそうも一緒にあるのでから、きっとノリにのった演奏になったんでしょう。

 一曲終わると、「最高だ!」と喜ぶカポネや、他の客が100ドル札のご祝儀を次々とウォーラーのポケットに突っ込む、そしてまた演奏、という繰り返し・・・そのパーティは3日3晩続いたといいます。演奏が終わると、男たちは来た時と同じリムジンにファッツを乗せて、シャーマン・ホテルまで安全に送リ届けた。ポケットに入りきらないチップ、お札の山、その合計3,000ドル、今の貨幣価値でざっと300万円だった。

 

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 そんなわけで、ジャズはニューオリンズのコンゴ広場で芽吹き、娼館をゆりかごにして、禁酒法とギャングの潤沢な経済援助を受けながら発展した歴史があるのです。禁酒法が終わりを告げて、ギャングの資金源が変貌するとともに、ミュージシャンとギャングの関係も大きく様変わりしていきます。

   次回はタイリー・グレンの『Let’s Have a Ball』をリリースしたルーレット・レコード、フラナガンとグレンが出演していたジャズ・レストラン『ラウンドテーブル』そして『バードランド』の経営者、果てはジョン・レノンまでゆすったマフィア、モリス・レヴィーについて。

Relaxin’ at Camarillo、西の情景

 Jimmy-Heath.jpg先週末、バードの生誕を記念する,恒例” チャーリー・パーカー・ジャズフェスティバル”がNYハーレムで開催されました。金曜日には、我らがジミー・ヒース(ts)がビッグ・バンドで書き下ろし演目のコンサートを!
 NY特派員、Yas竹田によればジミー・ヒースのプレイは素晴らしく、最高のコンサートだったとのこと!10代でリトル・バードと呼ばれたジミー・ヒースは現在86才!万歳!

 というわけで、先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」<Overseas特別講座>で改めて感動した”Relaxin’ at Camarillo”のことを調べてみました。日本で語られる逸話は、主に、パーカーゆかりの”Dial Records”の創始者でプロデューサー、パルプ・フィクション作家でもあったロス・ラッセルの著書“Bird Lives”からの出典が主のようですから、ここでは、パーカーと同じ世界に生きたミュージシャンの証言集、アイラ・ギトラーの”Swing to Bop”や、バードを神と崇めるミュージシャンたちのインタビューを色々紐解いてみました。

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(Charlie Parker August 29, 1920 – March 12, 1955),

 
カマリロでリラックス

 ・・・と言っても、カマリロは熱海みたいなリゾートではなく、ロスアンジェルスから車で一時間ほどの場所にある精神病院、バードはそこに6ヶ月入院していました。かなり自虐的タイイトルです。

 1946年、パーカーは、ディジー・ガレスピーとのコンボでハリウッドにある”Billy Berg’s”というクラブで演奏、NYに帰る交通費はクスリ代になったのか、コンビを解消し、単身ロスアンジェルスのガレージを改装したアパートで暮らした。LAとNYは、同じ米国でも西と東で、文化も違う。NYでは飛ぶ鳥落とす勢いのパーカー・ガレスピー・バンドも、西海岸ではマニアック。狂喜するのは、ビート族か若手ミュージシャンで、売上げに貢献してくれない客層。一般的な人気はまだまだだった。なにしろ、この当時、西の一番人気がキッド・オーリーのシカゴ・ジャズ、ビバップと銘打つなら、スリム・ゲイラードみたいに歌の入ってなくては喜んでもらえない。私たちがタイムマシンに飛び乗って聴きたいビバップ・バンドへの客足は日に日に遠のいたといいます。

 LAで、バードの一番の仲良しはトランペット奏者、ハワード・マギー、バードはマギーにしょっちゅうお金を無心して、彼の自宅にある酒やマリワナをごっそり拝借して行ったらしい。

 それは、LAの麻薬事情と関係がある。LAではヘロインの流通が少なく、入手困難の上に価格はNYの3倍(!)。曲の名前になるほどバードが世話になった(?)売人”Moose the Mooch”は既に服役していたから四面楚歌。

 

<リトル・トーキョー>

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 ディジーと袂を分かったバードの新しい本拠地は、「クラブ・フィナーレ」という店で、共演者はマイルズ・デイヴィスと、地元のジョー・オーバニー(p)、アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)というメンバーでした。

 その店は意外にも日系人の街、リトル・トーキョーにありました。住所は230 1/2 East First Street、元はオフィスビルの会議室だった場所ですが当時は空き家。大戦が連合軍の勝利に終わった後も、日系人は強制収容されていたから空いていた。皮肉だな・・・日系人がやっとリトル・トーキョーに戻り、死に物狂いで復興を始めるのは、1949年になってからです。
 
 さてParkerFinale-1.jpg、「クラブ・フィナーレ」は会員制、アルコール販売免許がなく、お客が自分で酒を持ち込み、入場料を払いライブを楽しむシステム、夜中から朝まで営業するアフターアワーズのクラブとして、知る人ぞ知る店となります半分非合法な業態ですから、閉店、開店を繰り返し、結局ハワード・マギー(tp)がマネージメントを担当、チャーリー・パーカーがレギュラー出演するので、パーカーを信奉する多くの若手ミュージシャンで大盛況、一時はラジオ中継されるほど賑わいます。ところが、繁盛ぶりを観た警察に「みかじめ料」を要求され、あえなく閉店。バードはたちまち生活に困窮。ガレージの家賃が払えず、安ホテルに引っ越した。

 

 当時のバードの状態をハワード・マギーはこう証言しています。「朝の5時でも、正午でも、夜中でも、バードはガレージで、常に起きていた。ベンゼドリンを大量に飲んでいたからだ。」

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, Ne...

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, New York, N.Y., ca. Sept. 1947] (LOC) (Photo credit: The Library of Congress) 

ベンゼドリンは覚せい剤、通称bennyと言われ、ヘロインはhorseと呼ばれてた。

 「起きている間、彼は常に読書をし、勉強していた。クスリでおかしくなっている時以外は、彼はものすごく教養にあふれた深い人間だった。女性には殆ど興味を示さなかった。

 バンドと編曲にしか注意を払わなかった私に、ストラヴィンスキーやバルトーク、ワグナーたちを教えてくれたのもバードだ。よく一緒に”火の鳥”や”春の祭典”を聴いた。」

  尊敬するバードがクスリをやるならと、真似をしたアルト奏者が死亡するという事故も起きた。バードは致死量のクスリを飲み、酒を浴びるほど飲み、何日も寝ない。

1946年7月29日、歴史的に有名な”Lover Man” セッションの夜、、ついに錯乱状態になり、ホテルのロビーに全裸で表れて注意され、その間には部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎ。10日間の勾留後、カマリロ精神病院に送られた。

<ようこそカマリロ精神病院に>

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 後記:上と左の写真は、ジョン・コルトレーンのエキスパート、藤岡靖洋氏が膨大なフォト・コレクションの中から探して送って下さったものです。上は現カリフォリニア州立大チャンネル・アイランド校となっているカマリロ病院。左は”ベル・タワー”、元男性患者の病棟で、バードが滞在していたと推測される建物です。Fuji先生ありがとうございました!)


 バードが6ヶ月過ごしたカマリロ州立精神病院は、1997年に閉院し、今はカリフォリニア州立大学の一部になっている。彼が入院していた頃は4000人を超える患者であふれていた。

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 彼はなかなか手ごわい患者、なにせ頭がいい。おかげで、彼を担当した精神分析医は、彼の精神状態を全く理解することが出来ずに、自殺未遂をします。ウィーン出身の研修医、ミイラ取りがミイラになってしまった。

 その間、マギーは何度も見舞いに行き、共演ピアニストだったジョー・オーバニーも治療の為に入院。病棟でであったバードが余りにも太っていたので、最初誰かわからないほどだった。仲間の殆どが再起不能と危惧していたバードは2月に退院し、復活を果たします。

<バスタブで生まれたオフ・ビートのブルース>

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 1947年2月、再びダイアルでセッションが決まりました。メンバーは、マギー、ワーデル・グレイ(ts),ドド・マーマローサ(p)、バーニー・ケッセル(g),レッド・カレンダー(b)、そして何故かドン・ラモンド(ds)、ラモンドは、バードとの共演を大喜びし、ジミー・ロウルズ(p)に大自慢していたといいます。

 録音の一週間前に、リハーサルがあり、マギーはバードを迎えに行きました。するとバードはお風呂に浸かって、譜面を書いている最中だった。LAのその地域で車を止めておくのが心配で、マギーはせかした。

「譜面は僕がバンド用に仕上げるから、もう服を着て行こう!」
 

 それじゃあ頼むわ、とバードが手渡した12小節の譜面。裏から入るオフ・ビートの意表をつくリズムは、これまで観たこともないようなものだった。それが「Relaxin’ at Camarillo」だ。マギーは懸命にパート譜を書き上げて、録音当日にメンバーに配って、バードがテンポを出した。

 ありゃりゃ、バード以外の全員があえなく撃沈。譜面を仕上げたマギーまでわからなくなったといいます。

 それから、格好がつくまで、バード以外の全員が、ゆっくりと譜面を見て練習しなくてはならなかった。

 それを観たバードはうんざりした様子で言った。

「君たちができるようになったら、呼びに来てくれ。」

 バードは酒を買って、車の中で飲みながら待った。マギー達が、一応プレイできるようになった頃、ボトルは空になり、彼は酔いつぶれていた。

 翌日、仕切りなおしの録音で、バードは絶好調!マギーは、彼が本当にカムバックできたことを実感して、嬉しかったといいます。

 <西からの福音書>

 この録音の直後、やはりバードを信奉しアルトを吹いていたジョン・コルトレーンが、キング・コラックスOrch.の一員としてLAにたどり着き、ジャムセッションでバードに遭遇、「Relaxin’ at Camarillo」の譜面をいただき、フィラデルフィアに持ち帰りベニー・ゴルソンと必死で練習したと言います。西海岸からもたらされたバードの新曲の譜面は、西方浄土の経典か、聖なる「福音書」として、うやうやしく取り扱われたんだろうな!

 

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 それから10年、やはりバードを尊敬し、ビバップのエッセンスを中学時代から吸収したトミー・フラナガンが、エルヴィン・ジョーンズとウィルバー・リトルで録音した「Relaxin’ at Camarillo」、フラナガンはドド・マーマローサのイントロをピカピカに磨き上げていとも自然に弾いている。オフ・ビートのユニークなリズムがエルヴィン・ジョーンズの鮮烈なブラシで一層際立ち、曲の解像度が大幅にアップしている。

 このときチャーリー・パーカー没後3年、もしもバードがジミー・ヒースのように長生きしてくれていたら、どこかのセッションで、このトリオと演ってくれたかも知れないですね。

 フラナガンは、それから40年後、『Sea Changes』で再録音し、ライブでも何度か演奏したのを聴きました。47年に、ミュージシャン達が度肝を抜かれた意表をつくリズムは、すっかりトミー・フラナガン達の血となり肉となって行ったんですね。