第11回トリビュート・コンサート!良い集まりになりました!

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 11月17日に開催したトミー・フラナガンへの第11回トリビュート・コンサート・・・もう11回になったのです。
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 寺井尚之は、このコンサートの為に骨身を削って稽古し、体も指も、脳も、ビシビシに研ぎ澄ました。河原達人(ds)、宮本在浩(b)も、切磋琢磨、色々工夫して、この特別なコンサートに充分備えました。
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左:河原達人(ds)、右:宮本在浩(b)
 トリビュートは楽しい集まりでなくてはなりません。
 近くから、遠くから、トミー・フラナガンを偲んで、色んな方々が集まって、食べたり飲んだり、初対面のお客様同士でも、幕間にはフラナガンの話題で、話が盛り上がる…トリビュートとはそんなイベントなのです。
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 でも、そういう集まりにするためには、フラナガニアトリオの名演が不可欠!オープニングの“ビッティ・デッティ”からアンコールの“ブラック&タン・ファンタジー”まで、じっくりと聴かせてくれました。
 寺井尚之のピアノの音色には、フラナガンへの色々な思いと、自分自身の生き方への確信が満ち溢れていた。
 客席は、お馴染みの常連様からトリビュート初体験の若いお客様までびっしり… 小さな子供達も目を凝らして聴いてくれた、フラナガンの名演目の数々、聴き手のオーラが若い人たちから強く出ているのを感じ、とっても嬉しかったです。来て下さって本当にありがとう!
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埼玉から、何度も家族で来てくださっているKDファミリー!お嬢ちゃんたちも、牛肉の赤ワイン煮込みとフラナガン大好き!お姉ちゃんは河原達人ファンです。
 私はこの夜の演奏を聴いて、色んな曲で色んなフラナガンの姿を思い出した。
 …初めてOverSeasでフラナガン3を聴いた夜の大きく赤いトレーナーの背中、いつかのアンコールで『トミー!トミー!トミートミートミー…』とトミー・コールが起こった時、バンドスタンドから客席に向かって「ミートてなんや?」と言ったときの平然とした表情、うちのコックさんが工夫して作ったピアノ型のバースデイ・ケーキに、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして喜んだときの笑顔、優しい言葉を言ってから、頬を突き出してキスを待つトボけた顔、カンカンに怒ったときのかすれた大声…NYのアパートのキッチンでお皿を洗っているフラナガンの妙にまじめな顔…最高の最高のトミー・フラナガン!
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東京から来てくれたサックス奏者タカハシ・アツシさん。
 
 次回のトリビュートは来年3月。ダイアナはトリビュートのイベントをダウンビート誌に記事にさせようと言っていたけど、まあ、そんなことはどっちでも構わない。
これからも、もっともっと楽しい集いに出来るよう、一生懸命がんばります!
皆さん、どうもありがとうございました。
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CU

トリビュート・コンサート曲目説明はHPに近日UP!

演奏:フラナガニアトリオ
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<1st><2nd>
1. Bitty Ditty (Thad Jones)

ビッティ・デッティ
1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

 ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラヴ
2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

ビヨンド・ザ・ブルーバード
2. Smooth as the Wind (Tadd Dameron)

 スムーズ・アズ・ザ・ウィンド
3. Thelonica(Tommy Flanagan) セロニカ

 ~ Minor Mishap (Tommy Flanagan)マイナー・ミスハップ
3. With Malice Towards None (Tom McIntosh)

 ウィズ・マリス・トワード・ノン
4. Embraceable You(Ira& George Gershwin)

  ~Quasimodo(Charlie Parker)

 エンブレイサブル・ユー~カジモド
4. Mean Streets (Tommy Flanagan)

 ミーン・ストリーツ
5. That Old Devil Called Love (Allan Roberts, Doris Fisher)

 ザット・オールド・デヴィル・コールド・ラブ
5. Easy Living (Leo Robin, Ralph Ranger)

 イージー・リヴィング
6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)

 レイチェルのロンド
6. Our Delight (Tadd Dameron)

  アワ・デライト
7. Sunset and the Mockingbird (Duke Ellington)

 サンセット&ザ・モッキンバード
7. Dalarna (Tommy Flanagan)

  ダラーナ
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo,Gill Fuller,Dizzy Gillespie)

 ティン・ティン・デオ
8. Eclypso (Tommy Flanagan)

  エクリプソ
<Encore:>Like Old Times (Thad Jones) ライク・オールド・タイムズ
Ellingtonia: エリントニア

Come Sunday (Duke Ellington)

  ~Passion Flower (Billy Strayhorn)

  ~Black & Tan Fantasy (Duke Ellington)

デューク・エリントン・メドレー:

カム・サンデイ~パッション・フラワー~黒と茶の幻想

トミー・フラナガンの遺産:トリビュート・コンサートの前日に・・・

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トミー・フラナガンは6年前の今日、11月16日(金)に亡くなった。
 訃報が届いたその夜のライブは奇しくもフラナガニアトリオ、寺井尚之が溢れる涙をぬぐいもせず演奏した哀しい哀しい“Easy Living”、今も忘れることが出来ない。
 それ以来、寺井尚之は、私のちっぽけな哀しみを遥かに超越した大きなスタンスで、ジャズ講座や年2回のトリビュート・コンサートなど、フラナガンの業績が忘れさられないようにじっくりと良い仕事をしている。それ以上に本業のピアニストとしての力量もムラーツアニキが驚くほど大きくなった。日本人だな!えらいね。
 フラナガンからもらった色々なものを考えると、それは「正しいこと」だと思う。
  OverSeasにいるピアノの音色も、フラナガンの遺産のひとつ。一番上の写真は、今週のピアノ調律の風景です。左が名調律師、川端定嗣氏、川端さんの凄いところは、音程を揃える調律だけでなく、ピアノのアクションの調整技術にある。
 「この音だけ引っ込んでますな。」「これはかさついてるなあ、もうちょっとしっとりさせてほしいわ。」とか、寺井尚之が88ある鍵盤の一本一本のサウンドにあれこれつける細かいいちゃもんに、完璧に応えてくれます。すごいでしょう!調律は正午から日暮れまで、休憩なしですよ。
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 元々、川端さんと寺井尚之に、「調整技術」の本当の意味を教えてくれたのはトミー・フラナガンだった。初めてOverSeasに来たときに、「この音に“ゴースト”がある」と指摘してくれたおかげで、にごりやくすみのないサウンドを追求する術を獲得できたのだった。その後川端さんの技術は、寺井の演奏と同様、飛躍的に向上し、巨匠ウォルター・ノリスをして、「大阪に世界レベルの調律師あり!」と驚喜させる結果となった。
 
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フラナガンはコンサートで演奏するときだけ、ピアノにサインをして行った。2代目のこのピアノにもびっしり…
 「木で出来た楽器には魂が宿る」とTVで霊能者なる人が言っていた。この人の言うこと全てを信じるのは無理だけど、これは本当だ。
 うちのピアノが典型的で、トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナとか、自分好みのピアニストが演奏した後は、調律は落ちていても、「音」そのものは冴え冴えと研ぎ澄まされて伸びの良い、幸せ一杯の音になり、その後数週間は寺井が驚くほど高らかに鳴っている。逆にタッチの汚い荒くれピアニストが一晩弾きまくると、すっかり落ち込んでしまって、川端さんや寺井尚之を手こずらせる。
 トリビュート直前の調律は、川端さんも寺井も舌を巻くほどスムーズに落ち着いた。ピアノにも気合が入っているからだ。
 明日はトリビュート・コンサート、別に厳かな行事でなく、生前フラナガンがライブで愛奏した名演目の数々を、フラナガンをよく知っている人も知らない人も、小さい子供から大人まで、皆が「トミー・フラナガンっていいなあ!」と心から楽しんでもらえれば、一番の供養になると思う。
宮本在浩(b)、河原達人(ds)の二人の名プレイヤーも、わくわくするような楽しい演奏を聴かせてくれることでしょう!
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 これから、明日皆さんにお出しする料理の仕込みにかかります。おいしく作ろう!
 ENJOY!!
 

ジョージ・ムラーツ3レポートできました!

 今週いっぱいかかったコンサート・レポート、やっと出来上がりました。
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 ご興味のある方はこちらまで
 レポートを書き進むと、あのベースの生音が心に甦り、また幸せな気持ちになれました。良いコンサートを聴くと、一生楽しめるのがお得です。
 このInterludeに載せたムラーツの伝記の日本語のページを、(日本語は読めないはずだけど)気に入ってくれたムラーツが、自分のHPにもぜひ載せたいと言うので、現在彼のWEBデザイナー、ジャック・フリッシュ氏が作業中です。彼はマーカス・ミラーやハイラム・ブロックなど、色々なジャズのCDやHPをデザインしていますが、なにせ、日本語を扱うのは初めてなので、打ち合わせが大変です。今も、このエントリーを書いていたら、お達しが来て、仕事してました。出来上がったら、お知らせします…
 ジョージ・ムラーツのサイトには、ツアー日程を知らせてくれるメーリングリスト登録ページもあります。勿論メールは、ジョージ・ムラーツ自身から来ますよ!読みやすい英文のはずです。英語の練習もかねて登録してみませんか?
 http://www.georgemraz.com/contact.htmlにアクセスして、国名(Japan)とあなたのお名前とメルアドを入れるだけなので簡単です。大阪の皆さんは、ぜひOSAKA, JAPANと入れてくださいね。
 登録してくれる人が多ければ、ジョージ・ムラーツが再びJazz Club OverSeasに帰って来る日も近いかも…
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 今回の送迎部長、鷲見和広氏撮影、次にこの名器がOverSeasでしどけない姿を見せるのはいつ?
皆さん、JOIN, NOW!
 

初めてのトミー・フラナガンDAY(3)

God Is in the House!トミー・フラナガン弟子を取る!
 初めてのトミー・フラナガン・トリオ、当日券をあてにして来られた方々をどれほどお断りしたことか…今思っても申し訳ない気持ちで一杯です。ライブ・レコーディングしていれば、フラナガンのマグマが爆発する瞬間を捉えた名盤となったことしょう。
 長細い店内の最後尾まで、バー・カウンターの中さえ、立ち見のお客さまで一杯、私はてんてこまい。その間に寺井尚之は、フラナガンのオリジナル曲を含め、レコードから長年採譜してきた譜面の束を巨匠に見せていました。
 その夜の壮絶なコンサートは、遠く離れた日本の地で、一心にフラナガンを研究してきた寺井尚之に対する「お答え」とも言うべき内容でした。
 私は信心深い人間ではないけれど、あの夜、生まれて初めて”神の御業”を目の当たりにしたと確信しています。それまで私がレコードでよく知っている(と思い込んでいた)名演の数々は、トミー・フラナガンという壮大な音の宮殿にそびえる大きな城門のちっぽけな鍵穴から覗いた断片でしかなかっのです。
 セット・リストは”初めてのトミー・フラナガンDAY(2)“をご参照ください。
 やはりサウンドチェックの曲は本番では演奏しなかった…フラナガン一流のヒップなコンサートの序章だっんですね…コンサートの全貌は、いつかジャズ講座で寺井尚之が解説する日が来るでしょう。
 
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一部はダーク・スーツ姿のトミー・フラナガン
 一部の幕開けComfirmationからフル・スロットル、BeBopの権化の様なアーサー・テイラー、彼のベース・ドラムのアクセントと、ジョージ・ムラーツ(b)の完璧にレガートの効いたランニング、それを自分のエネルギーに取りこんで「ヒサユキよ、おまえさんの神が来たんだぞ!」とばかりに疾走するトミー・フラナガン! フラナガンの尊敬する巨匠アート・テイタム(p)と同じ、「God Is in the House (神はこの館におられる)」でした!
 1部のレパートリー1~6は、すでに寺井尚之が愛奏していた曲ばかりです。超速のMinor Mishap(マイナー・ミスハップ)を聴きながら、ダイアナに、「ヒサユキのプレイでしょっちゅう聴いている大好きなナンバーです。」と言うと、彼女はびっくり仰天していました。

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左:アーサー・テイラー、中央:ジョージ・ムラーツ、右:トミー・フラナガン
 このセットのハイライトは、“セロニアス・モンク・メドレー”(このコンサートの2年前、同じメンバーでモンク集の名盤、『セロニカ』を録音しています。)この夜は、アルバムよりも情熱的で、記したリスト以外にも、”Epistrophy(エピストロフィー)”など数え切れないモンク・チューンがちりばめられたモンクの小宇宙、でも、「いかにもモンク」的なフレーズはなし、モンク特有の「アク」を抜きつつ、モンクらしさを損なわず、フラナガン独特の品格と大スケールで息もつかせず聴かせます。だけど、これはまだ序の口だった。
 二部開演までの休憩時間、フラナガンは疲れも見せず、赤ペン片手に、寺井尚之の譜面の分厚い束をチェックするのに一生懸命。とうとうジョージ・ムラーツまで座りこみ、一緒に採譜の違った箇所があれば訂正を入れてやろうというのです。フラナガンのオリジナル曲は、絶対音感さえあれば譜面に起こせるといった単純なものではありません。巨匠のアイデアを理解していないと、ちゃんとしたコピーなど出来ません。チェックしてもらった束の中から、“Dalarna(ダラーナ)”と”Minor Mishap”は、OverSeasの壁に飾ってあります。良く見ると、フラナガンのサイン入りのMinor Mishapに一箇所だけ、赤ペンでコードが加筆されているのがご覧になれますよ。
 譜面のチェックが一段落すると、フラナガンは、スーツでキメたムラーツにOverSeasのブルーのトレーナーを着るように指示、自分は燃えるように赤いトレーナーに着替え、2部が始まりました。当店のバンドスタンドに掲げるムラーツの肖像は、その時のものです。
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ムラーツはお気に入りの肖像の前で10月にコンサート開催予定
 二部開演の際、客席に向かってフラナガンは、こう言いました。
「今夜演奏できて、我々は本当に幸せです。月日が経ち、ヒサユキは音楽の良き理解者として立派に成長した事が今日判りました。皆さんは、良いジャズクラブがあっていいですね。今からここに来て2回目の演奏を始めます。我々はこれからもずっと、ここで演奏をしていくつもりです。今日招いてくれたヒサユキに心から感謝しています。
 …フラナガンは何も口に出さなかったけれど、ピアノの上に飾られた’75年の雪の京都の出会いのシーンから、ちゃんとヒサユキの事を覚えていたのです。そして“これからもずっと…”と言ったフラナガンの予言は現実になりました。
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 それからのフラナガンのプレイの凄かったこと…寺井が書き貯めた譜面の束が、天才の心の鍵を開け、とてつもない霊感を吹き込んだとしか言いようがありません。
 フラナガンが心の門を全開にして、ヒサユキと聴衆全員を、自分の壮大な音楽の宮殿に招きいれてくれたような気がします。庭園や建築、豪華な調度類から、先祖の肖像画に至るまで、60分の演奏時間で、全てをくまなく見せようとする物凄いものだった! たとえば、コルトレーンの曲(1)にチャーリー・パーカーを引用し、二人のスタイルが相反するものでない事を解き明かしてみせたり、バド・パウエル(5)には、モンクやマイルスの曲を重ね合わせ、BeBopへの想いを熱く語り、”リーツ・ニート”では、デトロイトの先輩サド・ジョーンズの”ライク・オールド・タイムズ”(数年後、フラナガン3のオハコとなる曲です。)をリフに入れてみせます。
 クライマックスには再びメドレーを持ってきました!ソロやトリオで奏でる、数え切れないエリントン&ストレイホーンの曲、あの名フレーズ、このリフ、「知っているのはいくつある?」と言わんばかり…ジャングルの様々な植物が百花繚乱するフラナガン宮殿の芳香溢れるボール・ルームに案内されたように豪華な夢の世界でした。
 燃えるように赤いフラナガンの大きな背中、鍵盤を滑るグローブのように大きな手、ハイ・ポジションを弾くムラーツの額に落ちる輝く前髪、腰の据わったATの姿勢、苦みばしった顔つき…私がどんなにしわくちゃのおばあさんになったって一生忘れません。
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どこから撮っても絵になるバッパー、アーサー・テイラー、この一連の写真を撮影してくれた桑島紳二氏(現在 神戸学院大学教授)は、ATを撮影した一連の作品で、国際写真コンペで賞を受賞しました。
 ジョージ・ムラーツは、フラナガンにぴったりと併走し、要所で鮮やかなベース・ソロを聴かせます。フラナガンより一つ年上のアーサー・テイラーは、「よっしゃ、トミー、とことん行け!」と言わんばかりにエネルギーを供給し、ドラムソロになると、BeBopの千両役者の貫禄を見せ付けます。息もつかせぬ長尺のメドレーの後のアンコールは、店名のOverseasから2曲。燃えさかる興奮を鎮めるどころか、一層火花の散るハードバップ…何億ドルもかけて作る大作映画だってこのコンサートのスケールにはかなわない!胸を張って言いますよ。
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この夜のフラナガンのアドヴァイスで新たな調律のコンセプトが開けたという、名調律師川端氏と
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 終演後、ディナーを楽しんでからも、フラナガンはまだ譜面の束を仔細に眺め、ヒサユキに色々質問しています。すると突然ダイアナ夫人がワっと泣き出しました。まるで最近の夕立のように激しい慟哭でした。それは、愛する夫の音楽を、自分に負けないほど敬愛していた人間がいた事への嬉し涙だったのです。彼女はヒサユキを固く抱きしめ、ぐしゃぐしゃの涙の中から決然と言いました。
 「トミー、ヒサユキを弟子にしてあげて。」フラナガンは頷き、何度もYeah、と言います。そこには、私が夕方見た「どこ吹く風」のとぼけた様子は微塵にもありませんでした。
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 夜中の1時になっても、OverSeasはお祭り騒ぎ、皆は一向に帰る素振りも見せません。狐につままれたような迎えの事務所の人たちにうながされ、しぶしぶ皆が帰ったのは午前3時近くなっていました。
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この夜からMr.フラナガンは自分をトミーと呼ぶように言った。
 翌日は大阪のメインの仕事、ホテル・プラザでのディナー・ショウがありました。弟子入りを許された寺井尚之は、仕事のハネる時間に師匠を迎えに行き、ギグ後外出自粛主義のムラーツに誘われて、ホテルのバーで義兄弟の契りを結んだ後、師匠とATを連れて帰ってきました、当時隣にあった老舗ホテル、「ひし富」の板長さんが大のジャズファンで、深夜にもかかわらず懐石料理を仕出しして下さって、盛大なパーティをしました。二人ともすっかりくつろいで、昨日、怒涛のように激しいプレイをしていたジャズの巨人と思えない気さくな紳士でした。
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 私が英語を話すのを面白がったATは、帰国後、自著のインタビュー集、『Notes & Tones』(ジャズの巨人達の生の語り口がスイングしていて凄く面白い!)を送ってくれました。それがきっかけで、「英語を読む」楽しみも授かりました。
 だけど…そうなんです。皆さんはもうお気づきでしょうけど、結局、私が英会話など勉強しなくとも、寺井尚之の弟子入りは彼自身の力で果たされたということだったんです。

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 ★この初コンサートは’84年12月14日(金)、契約が決まったのは半年近く前の初夏、契約直後から、当日に風邪など絶対引かないようにと決意したわしは、以後全く風邪をひかんようになったのです。これが「バッパーは風邪をひかん」という格言(?)の由来です。(特別出演:寺井尚之)
さて、次週は、ジャズ講座、名盤名場面集:いよいよ”Overseas”へ!CU

初めてのトミー・フラナガンDAY(2)

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1984年12月14日(金)
コンサートの曲目リスト
トミー・フラナガン(p)、ジョージ・ムラーツ(b)、アーサー・テイラー(ds)



















第一部 7pm- 第二部 9pm-
1. Confirmation (Charlie Parker)

    コンファメーション
1.Syeeda’s Song Flute (John Coltrane)

  サイーダズ・ソング・フルート
2. With Malice Towards None(T.McIntosh)

  ウィズ・マリス・トワーズ・ノン
2. Reets Neet(Phil Woods)

  リーツ・ニート
3. Scratch (Thad Jones)

  スクラッチ
3. Lament (J.J.Johnson)

 ラメント
4. Minor Mishap (T.Flanagan)

  マイナー・ミスハップ

4. Eclypso(T.Flanagan)

  エクリプソ
5. Theme for Ernie (Fred Lacey)

  アーニーのテーマ

5. Summer Serenade (Benny Carter)

  ~ Dance of the Infidels (Bud Powell)


  サマー・セレナーデ~異教徒の踊り
6. Recorda Me(Jo Henderson)

  レコーダ・ミー

7. セロニアス・モンク・メドレー 6. エリントン&ストレイホーン・メドレー
 

  Ruby, My Dear  ルビー・マイ・ディア

 ~Round Midnight ラウンド・ミッドナイト
  ~Friday the 13th  13日の金曜日

  ~Thelonica(T.Flanagan) セロニカ
  ~ Ask Me Now   アスク・ミー・ナウ
  ~ Reflections リフレクションズ

   ~ Pannonica パノニカ
  ~ Ugly Beauty アグリー・ビューティ
  ~ Off Minor
 オフ・マイナー

 Sophisticated Lady  ソフィスティケイテッド・レディ
  ~All Too Soon   オール・トゥー・スーン 
  ~Chelsea Bridge  チェルシーの橋
  ~In a Sentimental Moodセンティメンタル・ムード 

  ~ It Don’t Mean a Thing 

            スイングしなけりゃ意味ないよ

  ~Day Dream   デイ・ドリーム
  ~ I Got It Bad   アイ・ガット・イット・バッド
  ~ Come Sunday カム・サンデイ
  ~Isfahan      イスファハン
 ~ Raincheck     レインチェック
 ~ Things Ain’t What They Used to Be


             昔は良かったね

      
アンコール アンコール
Rhythm-A-Ning (Thlonious Monk)

  リズマニング
Relaxin’ at Camarillo (Charlie Parker)

  リラクシン・アット・カマリロ
Verdandi (T.Flanagan) 

  ヴァーダンディ

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 ★トミー・フラナガンや寺井尚之の音楽に親しんでいらっしゃる方は、このセット・リストで、充分楽しいでしょ?
明日は、コンサートの前後に、寺井尚之に起こった色んな事件を写真とともにレポートします!
 CU

初めてのトミー・フラナガンDAY(1)

What It Is! Mr. Flanagan?
Tommy Flanagan Trio Live at OverSeas George Mraz(b), Arthur Taylor (ds)

1984年12月14日、初めてトミー・フラナガンがやって来た!
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終演後の記念写真:最前列左からアーサー・テイラー(ds)ジョージ・ムラーツ(b)、ダイアナ&トミー・フラナガン、ダイアナの背後にいるのが寺井尚之、私はトミー・フラナガンの右後に。
  大阪の小さなジャズクラブがトミー・フラナガンのコンサートを公表するや否や、北海道から九州まで全国のファンから電話が殺到し、二部制で各60席分しかないチケットは瞬く間に売り切れてしまいました。それどころか、「うちの店でも“トミフラ”をやりたいが、どうすれば出来るのか?」と、全国のジャズクラブから問い合わせが来ました。
「どうすれば出来たのか?」
  …それは、寺井尚之がずうっとトミー・フラナガンを尊敬していたからと言うほかはありません。単なる大ファンやコレクターでなく、フラナガンの音源を研究して、譜面を起こし、すでに自分のレパートリーとして消化していました。学生の頃からトミフラなんて呼んだこともありません。OverSeasも開店以来5年の歳月が過ぎ、それが、すでにジャズ界の関係者には良く知られていました。それで、阿川泰子(vo)さんの伴奏者として来日の話が出た時、「せっかくフラナガンを呼ぶのなら、OverSeasでやってはどうか?」と関係者に助言をして下さった方々がいたのです。今思っても、本当にありがたいことでした。
  前回のブログにも書いたように、私はビリーからアメリカ人であるMr.フラナガンの心に通じるように、英会話を教わって、OverSeas開店以来、5年間、ひたすらこの日を待っていた事を伝え、寺井尚之を弟子として受け入れてもらえるような空気を作りたいと切望していました。
  ところが、コンサートの数日前、招聘元の事務所から、異例の通達が来ました。
&nbsp「一行は、ハード・スケジュールで疲れ切っていて、非常にナーバスになっている。とにかくフラナガンは神経質なアーティストだから、応対にはくれぐれも気をつけて欲しい。疲れているので、店に入るのも本番直前にして欲しいし、終演後は、サインや接待も一切お断り。翌日に備え、すぐにホテルに戻り休養したいと希望している。加えて、フラナガン夫人がマネジャーとして同行しており、この人がフラナガンに輪をかけた難しい人です。お願いですから、そっとして刺激しないようにして下さい。」というのです。
  ええっ!?あんな美しいピアノを弾く人が威張り屋の意地悪じいさんなの?信じられない…どうしよう!!! もう大ショックでした。
 一方、寺井尚之は慌てず騒がず、調理場のコックさん達に通達しました。「どんなに気難しい人間でも、うまいもんには弱いはずや。コーヒー言うはったらケーキもつけて出してくれ。腹減った言うはったら、アメリカ人が好きそうなピザやフライド・チキンでも、子羊のローストでも、何でも、欲しい言いはるもんを、思い切りうまいこと作って手早く出したってくれ!」
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コンサート第一部のトミー・フラナガン
  その日は、12月らしくなく、とても暖かい日だったと記憶しています。本番ぎりぎりにしか来ない予定でしたが、結局フラナガン一行は5時過ぎにやって来ました。初めて近くで見る姿は、別に尊大でもないけれど、むやみに愛想を振りまくという風でもありません。写真で見るとおり、ヘリンボーンのハンチングをかぶっています。
 奥で歓迎の拍手をしている私に、フラナガンが近づいてきた瞬間、(最初の挨拶はWhat it is!だよ。)ビリーの声が頭に蘇り、ここぞとばかりに呼びかけました。
“Hi! What it is!(調子はどう?)
 寡黙なムードのハンチングの紳士は、まるで、小学生にカツ上げされそうになったアインシュタインのような表情になり、うつむき加減で眼鏡を少しずらしてから、眼鏡越しに、長いまつげの鋭く大きな瞳で、私をじーっと見つめました。(気に障りはったんかしら…大失敗やん、どないしよう…)一瞬の沈黙が、果てしなく感じます。地球外生物に会ったように、私の頭の先から足の先まで観察した後、立派な鼻から少し息を出し、おもむろに彼は答えました。
Yeah, What it is!(絶好調さ、お前さんはどうだい?) …エヘン、私のコートを預かってくれるかね? ”
“イエッサー!!We are So Happy you are here! ヨウコソ、オコシクダサイマシタ!”
“I am happy, too”(私も嬉しいよ。)あのかすれ声で、フラナガンは威厳を持って言うと、再び私のニコニコ顔を、診察なのか観察なのか判らない目つきで見つめました。
 きっと私は、桂米朝の様な大師匠に、「ヨロオネ!」みたいな初対面の挨拶をしてしまったのだ、今になって思います。でも、フラナガンの反応は、”恥ずかしいことをした”という気持ちにさせるような意地悪なものではなかった。
  預かったベージュ色のバーバリーはウールのライナーが付いていて、ずっしり重かったけど、「そんな意地悪じいさんでもないやんか!」と、スキップしながらハンガーに掛けに行きました。
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一部の風景:左、ジョージ・ムラーツ、右、アーサー・テイラー
  ジョージ・ムラーツ(b)は当時40歳、瞳と同じブルーのスーツと、より淡いブルーのワイシャツでビシっと決めた姿は、ジャズメンというより外交官か一流商社マン、ため息の出るような男前。アーサー・テイラーは、日本の職人さんのようにキリっとした様子、二人とも黙々と楽器のセッティングをしています。トップシンバルは、いかにも使い込まれたもので、BeBopの歴史を生き抜いてきたドラマーの風格を感じさせました。
  飲み物に少し口をつけただけで、休憩もせず、立ち位置を決めて、そのままサウンド・チェックに入るようです。寺井尚之はピアノの後ろにセミのように張り付き、どんな些細なことも見逃さず、聞き逃さぬように集中しています。
 サウンド・チェックというのは、マイクの調子やモニターを調べる為にするものですが、今回はフラナガン側の要望で、全てマイクなしの生、ジョージ・ムラーツだけがポリトーンのベース・アンプを使います。だから、サウンドチェックはピアノの調子と、トリオのバランスを調べるためだけに軽く弾いてみるだけのはず…
  ところが、フラナガンは、後の二人を放っておいて、ソロで弾き始めました。聴いたことのないルバートから、ゆったりした分厚い質感の“Yesterdays”が響きます。それはサウンドチェックというよりも、寺井尚之へのメッセージだったのです。「お前が待ち焦がれたトミー・フラナガンがここにいるんだぞ。しっかり聴け!」と言わんばかり、侠客の仁義や、歌舞伎役者が切る見得と似ているように感じました。
 背後の寺井は、全身全霊で貪りつくような聴きぶりです。6年後に出た”ビヨンド・ザ・ブルーバード”という名盤で、この聴いたこともなかったYesterdaysのヴァースは再現されています。
 次の「サウンドチェック」もソロ、それも、BeBopでもこれ以上ハードなものはないというバド・パウエルの“Un Poco Loco”でした。イントロを聴いただけで寺井尚之が「おおっ!!」と呻きながらピアノの後ろにある手すりを握ってのけぞります。余裕がありながら疾走するグルーヴ、”Amazing Bud Powell Vol.1″でパウエルすら突っかかっている左手の猛烈なカウンター・メロディが、ごくスムーズに繰り出されます。本家パウエルより磨きのかかった”Un Poco Loco”、私達は竜巻に呑み込まれ、OverSeasごと不思議な夢の世界にワープした様な、非現実的な気持ちになりました。強い衝撃を受けた寺井尚之は後年、自分でもこの曲の鮮烈なヴァージョンを“Fragrant Times”というアルバムに収録しています。
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Beyond the Bluebird/Tommy Flanagan4,  Fragrant Times/寺井尚之3
 ふと我に返ると、傍らのフラナガンのマネジャー兼奥さんと目が合います。おっちょこちょいの私は、そっとしておくよう事務所の人に言われていたこともすっかり忘れ、ビリーに習った最高の褒め言葉が口をつきました。
「He is Amazing! isn’t he!? 」
 彼女は、人懐っこい優しそうな笑みを浮かべました。
「ええ、そのとおり!トミーはAmazingなの! 私はダイアナっていうの。あなたの名前は? 英語上手ね、カリフォルニアにいたことあるの?」
 サウンドチェックを終え、ウィンストンをふかせながら休憩をするフラナガンにダイアナ夫人が話しかけます。
 「トミー、この子はタマエ、あなたのこと、Amazingだって言ったわ!彼女英語が話せるのよ。」
 フラナガンは、どこ吹く風という様子で、宙を見ながら「I know.」とボソっと言ったのを覚えています。フラナガンは目も鼻も口もすごく立派なので、ボソボソとしゃべると、声帯が振動せずに、立派な鼻孔から発声しているようです。「トミー、演奏の後で、ディナーを作ってくれるんだって。ぜひごちそうになりましょうよ!さっき生ハムのサンドイッチを作ってもらったんだけど、おいしかったのよ。ねえ、タマエ。」
 私は、予想に反する彼女の笑顔に見とれながら、「なんだ、フラナガン夫妻は、それほど神経質でも難しい人でもないじゃない。」と思ったのでした。そんな私の思いは、ある意味当たっていたし、ある意味でははずれていました。
 これからのコンサートでの演奏や、その後の年月で、私達はトミー・フラナガンと言う人が、心の中に途方もなく熱く激しいマグマを秘めた、余りに巨大なアーティストである事を見せ付けられるのです。
さあ、これから初めてのトミー・フラナガン3の開演!
(つづく)

“BILLY’S エイゴ CAMP”

フラナガン来訪前夜の英会話レッスン
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アジアビルにあったOverSeas
 フラナガンを迎える直前に出会った私のユニークな英語の恩師、ビリーに出会ったのは、1984年8月末、ちょうど今頃の暑い夏の土曜日の夜でした。
 夏休みでひっそりしたOverSeas、洗いざらしの白いTシャツとジーンズ、ブルネットの長身の女の子と、ヨガ・ウエアみたいな白リネンのシャツとパンツ姿の男の子、ファッション雑誌から抜け出たような外人のカップルがふらりと入って来ました。化粧っ気はないのに、お人形さんみたいに可憐な女の子、男性もこの街に沢山いるビジネスマンじゃないみたい。どこの国の人だろう?ロックなら似合うだろうけど、とてもジャズを聴くタイプじゃなさそうだ…私は思いました。でも二人は予想に反して、楽しそうに演奏に耳を傾け、「いい音楽だね。LAから来たんだけど、しばらくこの街にいるんだ。また来るよ。」と帰っていきました。でも、きっと二度と来ないだろうな…と、私は思っていたのです。
 数日後、またその男性が現れました、また翌日も、その翌日も…何日目かに、アイスコーヒーを飲んでから、彼は切り出しました。「あのピアニストはオーナーなの?彼にちょっと話があるんだけど…」聞けば、彼はLAで活動するロック・ドラマーで、ビリー・ルーニーと言います。妻のジュリーが日本のモデル・エージェンシーと契約して数ヶ月間大阪で仕事するので一緒に来た。妻は超売れっ子のファッション・モデルで毎日忙しいが、自分はたまにモデルのバイトをするくらいで時間がある。だから一緒に演奏をさせてもらえないだろうか?自分の父親はジャズ・ピアニストでレッド・ガーランド(p)の友人だった。本業はロックだが、アメリカのまともなロッカーは、ジャズに対する尊敬と理解がある。だからこの機会に日本でジャズを覚えたい。ギャラは少なくていいから、僕もバップを演りたい、と言います。
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OverSeasで熱演中のビリー(’84)
 案外真面目そうなビリーの態度に、寺井尚之も快諾し、帰国までの数ヶ月間、週に一度セッションを始めました。バップの猛スピードにヒーヒーいいながら、「そんなトロいドラム叩いてたら音符に蝿が止まるぞ。」なんて寺井の毒舌(ビリーはこの一言が今でも忘れられないらしい。)に耐え、寺井のレパートリーを覚えて行きました。イケメンの彼が演奏していると、外からその姿を見て入ってくる女性客や、美人妻のジュリーや仲間の外人モデルが沢山来るので、調理場のコックさん達も張り切って仕事してました。ジュリーの写真はコックさん達が皆持って行ってしまったので、手元にないのが残念です。
 それから間もなく、トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ(b)、アーサー・テイラー(ds))が12月に、レコードで共演した美人ジャズ歌手、阿川泰子さん(vo)のディナー・ショウに付き合い来日が決まり、とんとん拍子にOverSeasでのみフラナガン・トリオとしてコンサートを開くことが決まりました。トミー・フラナガンが日本の小さなジャズクラブ出演するのは史上初!という快挙でした。一方、寺井尚之は、フラナガンが’75年、エラ・フィッツジェラルド(vo)の伴奏者として来日以来、フラナガンの来日時には必ず会い、リハーサルにも同行させてもらっていました。その都度、弟子入りをフラナガンに志願しましたが、「私は演奏家で教える暇はない。」と、首を縦に振ってはもらえなかったのです。だから今回が寺井にとって弟子入りの最後のチャンスと言えました。OverSeasは、すでに何度もアメリカのジャズメンのコンサートの経験はあったものの、このコンサートは、寺井だけでなく、私にとっても人生の一大事でした。
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’75年2月、雪の京都会館の楽屋口にて、初めて弟子入り志願したものの…
 初めてOverSeasにやって来るフラナガンに、何とか想いを伝えたい!
 ボンベイビル時代からウエイトレスとしての英語には困ることはありませんでしたが、それ以上の英語力なんて、私には何もありませんでした。子供のときから勉強嫌い、小学生の時に近所の教会のお姉さんに英語を習った貯金と「試験に出る英単語」だけで大学受験まで誤魔化した怠け者が、生まれて初めて「英語を勉強せな!!」と目覚めたのです。とはいえ、私には、英会話学校に通うような時間とお金の余裕などないし、逆に常連のネイティブの英会話講師さんたちに「あなた英語どうやって勉強したの?授業の参考にしたいから、詳しく教えてほしい。」と聞かれる始末ですからいけません。
 そこで、周りを見渡すと、ちょうどビリーがいたのです。彼とは誕生日が数日しか違わず、見た目は全く違うのに、なんとなくウマが合いました。交渉の結果、お店が空いている午後の一時間、一回2000円(!)で教えてくれることになりました。生徒は寺井尚之と私、講義は全て英語、テキストはなし、お茶つきという条件。年末に来るトミー・フラナガンに心を伝える事に的を絞った4回のレッスンが、私の受けた唯一の、まともな(?)「英語のレッスン」です。大学で国語教師の免状を持っているというビリーのレッスンはユニークで実践的、即戦力の効果抜群、加えて、その後の勉強の基礎として大いに役立ちました。以下がレッスンの概要です。
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ビリーと私(’84)
“BILLY’S エイゴ CAMP=学習ノート”
<レッスン1:口語を覚えろ>
 初めてのレッスンで開口一番、ビリーは言いました。「トミー・フラナガンとちゃんと話したければ、まず”Colloquial English”を覚えろ。」「コ・ロッ・キャル??それなに?」「教科書に書いてある堅苦しい英語でなく、普通に皆が話してる言葉のことや。わかるか?」後で辞書を引くと「口語」と書いてありました。
 最初の3語。
 ① Umm… ② Let me see…. ③ Well… 
 レッスンはまずこの3つの言葉じゃないような言葉から始まりました。
「相手の言うことが即理解できなかったら、上のどれかを使って時間稼ぎして、その間に次の手を考えろ。」
 3つとも、つなぎことばの間投詞ばかり。半開きの口を閉じて鼻から息を出すUmm…(アム~)「なんや、単語というより鳴き声やん」と戸惑いましたが、日常大いに重宝してます。今思えば「演奏中何をすればよいか判らなくなったらドラム・ロールをせよ。大抵の困難はしのげる。」と言ったドラムの神様、ビッグ・シド・カトレット(ds)と同じ話だった。
<レッスン2:人さまの話には合槌を打て。>
 「フラナガンにとってタマエはガイジンなんだから、彼が何か言ったら、判っているとをアピールしなくちゃいかん。びっくりするような話ならWow! 普通の話ならReally? 同感したらI hear yeah.おいしい話ならGreat! と合いの手を入れろ。ほな会話が弾む。ただし、どれもあまり連発するとアホと思われるから注意せよ。」
<レッスン3.褒め言葉を覚えろ。>
 「フラナガンはアーティストや、プレイに感動したら、感動したと伝えろ。」と言うビリー、「“感動度”は、Amazing > Incredible, Unbelievable> Beautiful > Great の順番や、Amazing を一番ええ時に使え。“アメイジング・バド・パウエル”って知ってるやろ?」
 「気に入ったら素直に口に出せ。すごく気に入ったのなら、Like でなくてI love it!みたいにLoveを使う。日本人と違って、アメリカ人はlikeとloveの境目がないんだ。すごく気に入ったら I really love it!と強調すればいいんだ。really って言葉は3回まで繰り返していいぞ。I really really really love it! って言っても大丈夫、でも4回繰り返したらアホと思われるから注意しろ。」
<レッスン4.米国社会と人種問題を理解せよ。>
 「僕はアイルランド-カソリック系の白人で、人種的に言うとマイノリティだ。アメリカの社会はWASPと言って、実質的に白人(White)で英国系(Anglo Saxon)の新教徒(Protestant)が支配してるんだ。アメリカの白人といっても、一くくりには出来ない。ケネディはWASPでなく、僕と同じアイルランド系だから暗殺された。黒人は昔アメリカで奴隷だったのは知ってるだろ?実は白人は奴隷制度の時代から、内心「黒人は、自分達より、知性も体力もあって、カッコもいいと思い、恐れていたんだ。差別はコンプレックスの裏返し。いまだに白人は、言葉でも音楽でも、黒人を真似ようとしてるんだよ。」
<レッスン5.黒人英語と四文字言葉を理解せよ。>
 「黒人が使う言い回しは、反対語が多いんだ。黒人がBad(悪い)と言うときは、時としてGood (良い)という意味の場合があるから注意しろよ。心配ないさ、言い方で判るから。ポルシェを見て、A Baaaad Ride! ってのは、『いい車だね』ってこと。黒人も白人も親しかったら、Swear Wordsといって、fu*k、sh*t,とか言ってはいけない悪い言葉を使うんだよ。黒人は友達をmotherfu*kerって呼んだりする。うまく使うと、ぐっと親しくなれると言うことだけは理解しておいた方がいい。だけどタマエは絶対に自分で使うなよ。」
 上の項目以外にも、沢山のミュージシャン用語や、ダサいもの、鼻持ちならないもの、その他、世間で出会う多種多様な人物のキャラクターにぴったりな形容詞、ゲイ・カルチャーやドラッグ、アルコールに関する隠語などが、大学ノートにびっしり。ほとんどが一時的な流行語でなく、今でも十分使えるし、映画を見るときにも重宝してます。なにより、英語で英語を説明してもらうと、日本語の訳よりもよっぽどよく判ったような気持ちになりました。後に、頭をエイゴモードに切り替えるのにも役に立ったと思います。
とうとう最後のレッスンになり、私はビリーに質問しました。
「初めてトミー・フラナガンに会ったら、なんて挨拶すればいいの?」

「ジャズ・ミュージシャンだから、くだけた言い方がいい。What it is?って言いなよ。」
What it is? 何よ、それ?疑問文か肯定文かどっち?」
「What’s going on? (調子はどう?)っていう意味や。近頃、ヒップな人は皆こう言うんだ。その後に、”ようこそ”って言いなよ。I’m happy you are hereでいいから。」
「もうひとつ、君達にぴったりの言葉を教えてあげる。for the love of it ってわかるかい?ヒサユキとタマエはジャズが好きだからこの仕事を一生懸命やってる。大変なことだけど、すばらしい。for the love of it, not for the moneyだ。(金のためじゃなく、好きだから、心を込めてやっている。) 音楽は金のためにやると、watered down (水っぽくなって感動できない)からな。
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ビリーがマネジメントをしている、巨匠チック・コリア(p)
 短く有意義な英語レッスンや、ジュリーが果敢に店の調理場に入って作ってくれたメキシコ料理をごちそうになった後、秋の終わりに二人は帰国しました。以来、長いこと音信普通でしたが、一昨年の夏、突然、大阪に来たと、ビリーから電話がかかって来ました。
 ビリーはその後、出版業界で仕事をした後、数年前からフロリダに移り、チック・コリアのマネージャーとして、コンサート・ツアーやレコーディング、出版やCMに至るまで、完璧主義の彼の全てのプロジェクトが同時進行できるよう仕切っているのだそうです。今回もCコリアのアコースティック・バンドの来日と、コマーシャル撮影の為に同行してきたのです。マネジャーの分をわきまえ、服装も地味になり、すっかりおじさんになったビリーがどうしても食べたいと言うビーフカレーを作り、寺井尚之と3人でランチを楽しみながら、しみじみ彼は言いました。
「あれから、僕は“スペース・フロンティア”っていう宇宙雑誌を出版したりしたけど、長いこと食えない時期が続いたんだ。だけど、ジュリーは文句ひとつ言わず、しっかり僕について来てくれた。ジュリーにはほんとうに感謝している。今は娘が二人、ハイスクールに通ってるし、チックともうまくやってる。彼は最高のアーティストだよ。」そう言って財布からジュリーと娘さんたちの写真を見せてくれました。ジュリーは相変わらず細くて、髪の長いウィノナ・ライダーみたい。お嬢さんたちもジュリーにそっくりの美人だから、よくモデルにスカウトされるらしい。
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現在のビリー&寺井尚之(’05)
 We’ve been through a lot.(色々あったよね…) 誰かがそうつぶやき、私は昔教えてもらったとおり言いました。Yeah, we all did it for the Love of it… ビリーは何度も頷き、カレーの匂いに混じって、食卓に思い出と微笑が溢れました。
 ビリーがレッスンをしてくれたのも、 for the love of itだったんだ。ありがとう!
さて、次週は初めてOverSeasにトミー・フラナガン3を迎えた日のお話。はてさて、ビリーに習った英語で心を伝えることは出来たのか…週末に更新予定!CU

Jazz Club OverSeas創世記

サラーム・ボンベイ
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NYジャズクラブの草分け“ヴィレッジ・ヴァンガード”は、約75年前のオープン時にはジャズクラブでなく、様々な試行錯誤の末にジャズに行き着いたそうです。一方、Jazz Club OverSeasは28年前、『ジャズクラブ』を目指して、オープンしたものの、最初はなかなか理想どおりには行きませんでした。
 寺井尚之は、学生バンドマンを経て、更にサラリーマンとプレイヤーの二足のワラジで更に荒稼ぎをし、ある日遂に、最も尊敬するトミー・フラナガンのアルバムから名前を取った“OverSeas”という名の店を持つ決心をします。
 大きなコーヒー・ショップの厨房で、しばらく飲食業の修行をした寺井尚之が、両親の助けを借り、繁華街より手堅い商売が出来そうなビジネス街に、“Piano Play House OverSeas”をオープンしたのは’79年5月でした。朝はモーニング・サービス、昼はランチ、夜はピアノ演奏をしながらお酒と居酒屋風の料理を出していました。ライブ・チャージは無料、当時コーヒーは一杯230円、オフィス街に合わせ、日、祝日と土曜日の夜が休みでした。
“Piano Play House OverSeas”は、現在の店舗から東南に数ブロック離れた南本町1丁目のテイジンビルの東向かい、“ボンベイビル”という少し風変わりな古めかしい建物の一階にありました。現在では新しいビルに建て替わっています。当時その界隈は「インド村」と呼ばれ、大阪の主要産業であった繊維関連のインド人貿易商達がたくさん商売をしていました。現在も船場センタービルなど、町の中にインドの人達は多く居ますが、何倍も人口が多かったのではないでしょうか。背広姿の企業戦士の群れに混じり、様々な形のターバン姿や髭の彫りの深い顔立ちの男性達、目を見張るように美しいサリー姿の女性達が往き来するエキゾチックな街でした。
 
 ボンベイビルは名前の通り、隣近所インド系の人たちばかり、天井がものすごく高い3階建で、コロニアル様式というのか、各階に中二階のある実質6階建て、ご近所のオフィスは中二階を応接間や倉庫にしていました。OverSeasも、他の部屋同様、天井に映画“カサブランカ”のような大きな扇風機が2機ついていて、中二階のこじんまりしたバルコニー席は、絶好のデート・スポットでした。現在の常連さんで、ここを知っているのはジャズ講座発起人のダラーナさんくらいかな・・・でもたしかダラーナさんはデートでなく、近くの大企業に就職の際に、この中二階でパーティをされていたはずです。
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バルコニー席から…
 
 寺井尚之は開店当時26歳、朝早くから夕方まで、コックさんと共に厨房に入り、忙しくコーヒーを点て、仕込みを手伝い、色んなドリンクを作っては、夕方になると演奏していました。ドリップの腕はかなりのもので、私は今でも寺井がネルドリップで点ててくれるコーヒーが一番好きです。
 開店後しばらくして、寺井のレギュラー・ベーシストとなったのが、当時関大1回生のYAS竹田。関大生らしくジーンズに下駄とか履いていて、私とおやつの取り合いでよくケンカしてました。そんな彼がNYで沢山のギグを抱えるベーシストになろうとは…一年遅れでやってきた甲南大のベーシストが倉橋幸久(b)、今と同じく無口で物事に動じず、コックさんから「東海林太郎=ショージさん」と仇名を付けられ可愛がられてました。今だに、それが彼の本名と思っている人がいます。山の手の甲南ボーイのイメージに反し、夜店の“輪投げ”の店番でお金を貯めてベースを買った時には、皆あっと驚きました。
レギュラー・ドラマーは、設計士の松田利治と、現在フラナガニアトリオの河原達人、当時はイケメン関大生でした。ゲスト出演していたのが、やはり関大の末宗俊郎(g)、その頃からブルージーにガンガン・スイングしていましたよ。
 寺井尚之は、すでに流麗なデトロイト・ハード・バップスタイルだったけれど、今よりもずっと音数が多かったように思います。ピアノの響きの力強さは、現在を10にしたら6くらいかな?髭は白くなっても、ずっと今のほうが、ピアノのサウンドはカラフルで若々しいように思います。
 私は開店時、四ツ橋本町のテキスタイル会社の新入社員で、退社後バイトまがいのことをしていて、正式に就職(?)したのは80年の3月です。スタッフは寺井がマスター、寺井の母がママさん、アルバイトたちと、プロの料理人、殆んどが素人のお店でした。中でも一番不出来なウエイトレスが私、サービスのノウハウも知らぬまま、毎日13時間労働、足は腫れて痛いし、食事はゆっくり出来ず、寝不足で悶々とする日々が続きました。でもふとしたお客さんの言葉や笑顔に、励まされたり、教えられたり、おかげで、なんとか今までやって来れてます。
 そのうち、外国のご近所さん達のおかげで、ウエイトレスとして必要最低限の英語を話すことを少しずつ覚えました。彼らはシンガポール、スリランカなど様々な国籍で、中には神戸で生まれ、大学はUCLAというジャズファンもいました。殆んど人たちはコテコテの大阪弁とインディアン・イングリッシュのバイリンガル、ビジネス用には「もうかってまっか」、プライベートは「Hi, What’s up?」と使い分け、オフィスには十日戎の福笹とシバ神の絵姿を一緒に祭っていました。日本文化に対して懐が広く、開けっぴろげではないにしても社交的、付き合い上手。現在はIT国家として学力の高さが注目されていますが、私にはちっとも目新しいことではありません。今も町で出会うと、優しいまなざしで気軽に声をかけてくれます。子供のときからOverSeasのカレーが大好きというインド人も沢山居て、もうランチ営業していない今でも、祖国から帰ってきて、日本の味を食べたいと、出前の電話を頂くことがあるほどです。
 お向かいのテイジンホールで催しがあると、落語家さんや、モデルさん達が休憩に来て、お店も華やかな雰囲気に包まれました。でも主流はサラリーマンのお客さんたち、今みたいにジャズを聴くためだけにやって来るお客様はまだいませんでした。 
 
 当時のタウン誌、“プレイガイドジャーナル”に、OverSeasが紹介されていますが、その記事が当時のOverSeasの様子を端的に表現してくれています。
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「…ライブと、モダンジャズがたっぷり楽しめる。日差しの入り込んだ店内は、外の喧騒とは無縁、隣のテーブルからは仕事の打ち合わせは聞こえて欲しくないもの。」

 お店は賑やかでも、まだまだジャズクラブには遠かったお店の転機は、1982年6月に故デューク・ジョーダン(p)3のコンサートを開催したこと。ジョーダンはまだ59歳でプレイは円熟を極め溌剌としていました。初めて一流プレイヤーのコンサートを、自分の店で出来て、すごく興奮したのを覚えています。トリオのメンバーはデンマークの実力派、ジェスパー・ルンゴール(b)とオーエ・タンゴール(ds)、不思議な縁で、ジェスパーはその後、トミー・フラナガンが北欧ツアーする際のお気に入りベーシストとなり、フラナガンの名盤“Let’s”やジャズパー賞受賞記念のライブ盤“Flanagan’s Shenanigans”に参加しています。当時は髪もふさふさでした。
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左から:ジェスパー、寺井、オーエ
 初めて、“聴く為”に沢山のお客様達がOverSeasに集まって来たのです。私たちはテーブルを全部外にほうり出し、パイプ椅子をレンタルして一人でも多くの人に聴いてもらおうとしました。満員の聴衆がぎゅうぎゅう詰めで膝突き合わせながら、ドリンク片手に、ジョーダンの演奏と、甲高い声ではっきりしたMCに聴き入ったのを思い出します。今ならテーブルがないと皆さんに叱られたことでしょう。目と鼻の先で聴ける臨場感たっぷりのコンサートは大成功で、OverSeasは初めてジャズファンに知ってもらうことが出来たように思えました。マイルス・デイヴィスやサラ・ヴォーンから直接指名がかかる、ジャズ界屈指のロードマネージャー、斉藤延之助氏の、ミュージシャンの熱演を引き出す仕事振りも、私にはすごく勉強になりました。
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演奏中のデューク・ジョーダン
 その翌年、同様の形態でジョージ・ケイブルス(p)トリオ(bass:デヴィッド・ウィリアムス、drums: ラルフ・ペンランド)、再びデューク・ジョーダントリオを開催、そして、今まで周囲がひっそりしているからと休んでいた土曜日の晩に、ゆっくりジャズのライブを楽しんでもらおうとライブを始め、徐々にジャズ・クラブへと軌道修正を目指したのです。
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左から、私、寺井尚之、(一人置いて)ジェスパー・ルンゴール、YAS竹田、デューク・ジョーダン、(二人置いて)オーエ・タンゴール、オーエの後ろが寺井の母、横顔が斉藤マネージャー
 ボンベイビル時代にトミー・フラナガンは2度来日しています。私はジャズ・ピアニストの内でも最高ランクのギャラを取るフラナガンをOverSeasに招くとは、夢にも思っていませんでしたが、寺井尚之はボンベイビルでのライブ録音も視野に入れ、フラナガン3のリハに立ち会ったりして、色々と計画を練っていました。
 ところが83年の秋、やっと慣れ親しんだボンベイビルは近代的なビルに立替工事をすることになり、新しい本拠地を探さなければならなくなり、私たちは途方にくれてしまいます。
 
 さて、この続きはまたの機会に。
 次回は、私が今でも忘れられないジャズメンたちの思い出をお送りします。前回のオスカー・ペティフォード(b)が、国定忠治のようなジャズの“侠客”なら、次回はジャズの“武士道”のお話。
 どうぞお楽しみに。CU