ビリー・ハーパー(ts) カルテット

 義を見てせざるは…美しきミュージシャンシップ
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ビリー・ハーパー(ts,ss)
 ビリー・ハーパーというテナー奏者をご存知ですか?
 トミー・フラナガンゆかりのOverSeasのサイトですから、ここを訪れてくれる若い皆さんには、特に馴染みがないかもしれませんね。ビリー・ハーパーは、テナーの宝庫、テキサス出身、1943年生まれで、昔は何度も来日しました。でも’94年のコンコード・ジャズフェスティバルで、<テナー・サミット>と銘打ってジョニー・グリフィンと競演して以来、日本に来たという話は聞きません。
 幼い頃から歌っていたゴスペルの延長線上でテナーサックスを習得、16歳でプロ入りしNYに進出するや否や、魂を揺さぶるような歌心のあるハードなプレイで注目を浴び、ジョン・コルトレーンの跡を継ぐ若手の逸材と騒がれます。以来ギル・エヴァンスOrch.、ジャズ・メッセンジャーズ、サドーメルOrch.など名だたる楽団で活躍しました。特に’74年、サド-メルOrch.で、サー・ローランド・ハナ(p)、ジョージ・ムラーツ(b)や、弱冠20歳の天才トランペッター、ジョン・ファディスと共に来日して、強烈な印象を残しました。深夜、確かサンTVでサド・メル特番があり、その迫力と、個性溢れる人種のるつぼの様なメンバー達、圧倒的なフルバン・ジャズ!高校生だった私は、ものすごく感動したのを覚えています。
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アジアビルにあったOverSeas
 これからの話は、もう20年も前のこと、来日中のビリー・ハーパー(ts)カルテットがツアー中に、大阪で数日間オフとなり、OverSeasに、プライベートで遊びに来た或る夜の出来事です。
同行メンバーは、サー・ローランド・ハナ(p)の一番弟子と言われた超絶技巧のピアニスト、ミッキー・タッカー(p)、スタンリー・カウエル(p)、チャールズ・トリヴァー(tp)のMusic inc.またジョン・ヒックス(p)やウディ・ショウ(tp)と共演するベーシストで速弾きの鬼才と言われたクリント・ヒューストン、現在、巨匠として第一線で活躍するビリー・ハート(ds)、全員が新主流派の錚々たる面々です。寺井尚之は30歳少し出たくらい、OverSeasはボンベイビルからアジアビルに移転して間もないころでした。
 その夜、OverSeasの客席にはハーパー達の他に、サラリーマンの団体さんが、居酒屋気分でワイワイ飲んでいました。演奏が始まっても、一向に耳を貸そうとしません。それどころか、音楽に負けじと自然に声も高くなる…ジャズ演奏を提供しているNYのレストランでも、よく出くわす光景です。
 客席のハーパー達の前で、何となく恥ずかしく、またプレイヤーに申し訳ない、そう思いつつも、ホール係りの未熟な私は成すすべなしのお手上げ状態でした。
 ハーパー達は、細長いお店の後部にある9番テーブルに陣取り、ざわめきも気にならないのか、真剣な表情で演奏に耳を傾けてくれています。一曲目のピアノソロが終わった瞬間、4人のミュージシャンが、一斉に大きな歓声と拍手を爆発させました。すると、大騒ぎしていたお客さんたちが、ぎょっとなって彼らの方を振り向き、演奏をしていることに初めて気付いたように静かになったのです。
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クリント・ヒューストン(b)
 4人の風貌だけでも人目を引くのに充分でした。ビリー・ハーパーは身長190センチ以上の長身で肌はチョコレートの様に艶のある褐色、大きな瞳がマッチ棒の先の様に小さな顔の強いアクセントになっています。ジーンズに漆黒のタートルセーター、精悍な姿はバスケ選手のようにも見えました。ビリー・ハート(ds)は対照的に、クレオールの浅黒い肌、ずんぐりした体型で、鋭い目つきと、角刈りのような短髪がいかにもコワモテ、クリント・ヒューストン(b)は、白人の様に白い肌と淡いへーゼル色の瞳が美しく、アフロヘアと濃い髭面がビートニク詩人のように知的で個性的、ミッキー・タッカー(p)が、激しい演奏ぶりと裏腹に一番目立たない風貌だけど、甲高い掛け声が凄かった。
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ビリー・ハート
 ほとぼりが冷め、再び大声を出す背広姿のお客さんに、今度はハートが、射抜くような視線を投げ、絶妙のタイミングで、バンドスタンドに喝采を送ります。今思えば、メジャーリーグのベンチの様でもありました。
 強力な味方に意を強くした寺井尚之デュオがゴキゲンに2曲目を演奏し終える頃には、客席はすっかり静かになっていました。騒いでいたお客さんたちも、ハーパー達の魔法にかけられたように、いつしかプレイに大きな拍手と歓声を送りながら、一緒に音楽を楽しんでくれていたのです。
 私はハーパー達の応援ぶりに、初めてミュージシャンシップというものの素晴らしさを体験したのです。格の上下は関係なし、心のこもったプレイには、受け手も全力で聴くのがジャズメンの道、バンドスタンドの窮地を見れば、進んで手を差し伸べるのがジャズメンの掟と学びました。
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翌日再びやって来たミッキー・タッカー(p)と寺井尚之
 音楽を聴いてくれない人たちの前でシリアスにプレイするということが、どんなものかを一番良く知っているのは演奏家自身です。一流ピアニストのサー・ローランド・ハナやジュニア・マンスでさえ、騒々しいヤッピー達には無力であるバンドスタンドの悲哀を口にしたのを聴いたことがあります。
 そんな光景に出くわせば、絶対に見殺しにせず助けてやろうというミュージシャンシップは、「義を見てせざるは勇なきなり。」の武士道精神と同じやん!と、意気に感じたのでした。
 それ以来、OverSeasでも他所のお店でも、NYでもどこでも、同じような光景に出くわすと、必ずその夜のことを思い出して、私も同じように応援しようとします。この事件の後、トミー・フラナガン達、ジャズの巨人というものは、目下の者の演奏であろうと、全力で聴く態度が備わっていることに気づきました。
 他人の演奏を全力で精魂込めて受け取ろうとする人は、自分が演奏の送り手となる時のエネルギーも、より大きくなる。ジャズの世界でも、「エネルギー保存の法則」は成り立つのです。
 夜が更けると、楽器を持ってきていなかったハーパー以外のメンバー達と寺井尚之のセッションが始まりました。送り手となった彼らの演奏は、やはり物凄いものでした。
 ただのセッションなのに、寺井尚之とデュオで顔を高潮させ汗だくになってプレイしたヒューストンや、ハイハットの二段打ちのウルトラCをまざまざと見せつけてくれたハート、タッカーの剃刀の如く研ぎ澄まされたピアノ・サウンド、今でも強く心に焼き付いています。
  その後ミッキー・タッカー(p)は単身で何度も何度も寺井尚之を訪ねて来てくれるのだけど、それはまた別の機会にお話しましょう。
 現在もビリー・ハーパーは活躍中で、最近ポーランドで60人の合唱団を入れたコンサートがDVDになるらしい。ビリー・ハートは押しも押されもせぬドラムの巨匠となり、’99年にムラーツカルテットのコンサートで正規に演奏してくれました。
 一方クリント・ヒューストンは2000年に53歳という若さで亡くなりました。ミッキー・タッカーは、’89年に奥さんの祖国オーストラリア、メルボルンに移住、’91年、当地の音楽学校で教鞭を取っている最中に突然脊椎を損傷し、不幸にもピアノを演奏することが出来なくなったけれど、音楽への情熱は衰える事無く、現在もプロデュースなど活動を続けているそうです。
 或る夜、旅の途中でふらりとOverSeasに立ち寄った4人のジャズのサムライ達、彼らのくれた贈り物は、今も私の心にしっかり焼き付いています。
さて、次回は、ジャズ講座名場面集シリーズ、サド・ジョーンズの名盤 – Detroit-New York Junctionを聴きながら、デトロイト・ハード・バップについて語る予定です。
来週末に更新予定、CU
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Jazz Club OverSeas創世記

サラーム・ボンベイ
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NYジャズクラブの草分け“ヴィレッジ・ヴァンガード”は、約75年前のオープン時にはジャズクラブでなく、様々な試行錯誤の末にジャズに行き着いたそうです。一方、Jazz Club OverSeasは28年前、『ジャズクラブ』を目指して、オープンしたものの、最初はなかなか理想どおりには行きませんでした。
 寺井尚之は、学生バンドマンを経て、更にサラリーマンとプレイヤーの二足のワラジで更に荒稼ぎをし、ある日遂に、最も尊敬するトミー・フラナガンのアルバムから名前を取った“OverSeas”という名の店を持つ決心をします。
 大きなコーヒー・ショップの厨房で、しばらく飲食業の修行をした寺井尚之が、両親の助けを借り、繁華街より手堅い商売が出来そうなビジネス街に、“Piano Play House OverSeas”をオープンしたのは’79年5月でした。朝はモーニング・サービス、昼はランチ、夜はピアノ演奏をしながらお酒と居酒屋風の料理を出していました。ライブ・チャージは無料、当時コーヒーは一杯230円、オフィス街に合わせ、日、祝日と土曜日の夜が休みでした。
“Piano Play House OverSeas”は、現在の店舗から東南に数ブロック離れた南本町1丁目のテイジンビルの東向かい、“ボンベイビル”という少し風変わりな古めかしい建物の一階にありました。現在では新しいビルに建て替わっています。当時その界隈は「インド村」と呼ばれ、大阪の主要産業であった繊維関連のインド人貿易商達がたくさん商売をしていました。現在も船場センタービルなど、町の中にインドの人達は多く居ますが、何倍も人口が多かったのではないでしょうか。背広姿の企業戦士の群れに混じり、様々な形のターバン姿や髭の彫りの深い顔立ちの男性達、目を見張るように美しいサリー姿の女性達が往き来するエキゾチックな街でした。
 
 ボンベイビルは名前の通り、隣近所インド系の人たちばかり、天井がものすごく高い3階建で、コロニアル様式というのか、各階に中二階のある実質6階建て、ご近所のオフィスは中二階を応接間や倉庫にしていました。OverSeasも、他の部屋同様、天井に映画“カサブランカ”のような大きな扇風機が2機ついていて、中二階のこじんまりしたバルコニー席は、絶好のデート・スポットでした。現在の常連さんで、ここを知っているのはジャズ講座発起人のダラーナさんくらいかな・・・でもたしかダラーナさんはデートでなく、近くの大企業に就職の際に、この中二階でパーティをされていたはずです。
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バルコニー席から…
 
 寺井尚之は開店当時26歳、朝早くから夕方まで、コックさんと共に厨房に入り、忙しくコーヒーを点て、仕込みを手伝い、色んなドリンクを作っては、夕方になると演奏していました。ドリップの腕はかなりのもので、私は今でも寺井がネルドリップで点ててくれるコーヒーが一番好きです。
 開店後しばらくして、寺井のレギュラー・ベーシストとなったのが、当時関大1回生のYAS竹田。関大生らしくジーンズに下駄とか履いていて、私とおやつの取り合いでよくケンカしてました。そんな彼がNYで沢山のギグを抱えるベーシストになろうとは…一年遅れでやってきた甲南大のベーシストが倉橋幸久(b)、今と同じく無口で物事に動じず、コックさんから「東海林太郎=ショージさん」と仇名を付けられ可愛がられてました。今だに、それが彼の本名と思っている人がいます。山の手の甲南ボーイのイメージに反し、夜店の“輪投げ”の店番でお金を貯めてベースを買った時には、皆あっと驚きました。
レギュラー・ドラマーは、設計士の松田利治と、現在フラナガニアトリオの河原達人、当時はイケメン関大生でした。ゲスト出演していたのが、やはり関大の末宗俊郎(g)、その頃からブルージーにガンガン・スイングしていましたよ。
 寺井尚之は、すでに流麗なデトロイト・ハード・バップスタイルだったけれど、今よりもずっと音数が多かったように思います。ピアノの響きの力強さは、現在を10にしたら6くらいかな?髭は白くなっても、ずっと今のほうが、ピアノのサウンドはカラフルで若々しいように思います。
 私は開店時、四ツ橋本町のテキスタイル会社の新入社員で、退社後バイトまがいのことをしていて、正式に就職(?)したのは80年の3月です。スタッフは寺井がマスター、寺井の母がママさん、アルバイトたちと、プロの料理人、殆んどが素人のお店でした。中でも一番不出来なウエイトレスが私、サービスのノウハウも知らぬまま、毎日13時間労働、足は腫れて痛いし、食事はゆっくり出来ず、寝不足で悶々とする日々が続きました。でもふとしたお客さんの言葉や笑顔に、励まされたり、教えられたり、おかげで、なんとか今までやって来れてます。
 そのうち、外国のご近所さん達のおかげで、ウエイトレスとして必要最低限の英語を話すことを少しずつ覚えました。彼らはシンガポール、スリランカなど様々な国籍で、中には神戸で生まれ、大学はUCLAというジャズファンもいました。殆んど人たちはコテコテの大阪弁とインディアン・イングリッシュのバイリンガル、ビジネス用には「もうかってまっか」、プライベートは「Hi, What’s up?」と使い分け、オフィスには十日戎の福笹とシバ神の絵姿を一緒に祭っていました。日本文化に対して懐が広く、開けっぴろげではないにしても社交的、付き合い上手。現在はIT国家として学力の高さが注目されていますが、私にはちっとも目新しいことではありません。今も町で出会うと、優しいまなざしで気軽に声をかけてくれます。子供のときからOverSeasのカレーが大好きというインド人も沢山居て、もうランチ営業していない今でも、祖国から帰ってきて、日本の味を食べたいと、出前の電話を頂くことがあるほどです。
 お向かいのテイジンホールで催しがあると、落語家さんや、モデルさん達が休憩に来て、お店も華やかな雰囲気に包まれました。でも主流はサラリーマンのお客さんたち、今みたいにジャズを聴くためだけにやって来るお客様はまだいませんでした。 
 
 当時のタウン誌、“プレイガイドジャーナル”に、OverSeasが紹介されていますが、その記事が当時のOverSeasの様子を端的に表現してくれています。
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「…ライブと、モダンジャズがたっぷり楽しめる。日差しの入り込んだ店内は、外の喧騒とは無縁、隣のテーブルからは仕事の打ち合わせは聞こえて欲しくないもの。」

 お店は賑やかでも、まだまだジャズクラブには遠かったお店の転機は、1982年6月に故デューク・ジョーダン(p)3のコンサートを開催したこと。ジョーダンはまだ59歳でプレイは円熟を極め溌剌としていました。初めて一流プレイヤーのコンサートを、自分の店で出来て、すごく興奮したのを覚えています。トリオのメンバーはデンマークの実力派、ジェスパー・ルンゴール(b)とオーエ・タンゴール(ds)、不思議な縁で、ジェスパーはその後、トミー・フラナガンが北欧ツアーする際のお気に入りベーシストとなり、フラナガンの名盤“Let’s”やジャズパー賞受賞記念のライブ盤“Flanagan’s Shenanigans”に参加しています。当時は髪もふさふさでした。
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左から:ジェスパー、寺井、オーエ
 初めて、“聴く為”に沢山のお客様達がOverSeasに集まって来たのです。私たちはテーブルを全部外にほうり出し、パイプ椅子をレンタルして一人でも多くの人に聴いてもらおうとしました。満員の聴衆がぎゅうぎゅう詰めで膝突き合わせながら、ドリンク片手に、ジョーダンの演奏と、甲高い声ではっきりしたMCに聴き入ったのを思い出します。今ならテーブルがないと皆さんに叱られたことでしょう。目と鼻の先で聴ける臨場感たっぷりのコンサートは大成功で、OverSeasは初めてジャズファンに知ってもらうことが出来たように思えました。マイルス・デイヴィスやサラ・ヴォーンから直接指名がかかる、ジャズ界屈指のロードマネージャー、斉藤延之助氏の、ミュージシャンの熱演を引き出す仕事振りも、私にはすごく勉強になりました。
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演奏中のデューク・ジョーダン
 その翌年、同様の形態でジョージ・ケイブルス(p)トリオ(bass:デヴィッド・ウィリアムス、drums: ラルフ・ペンランド)、再びデューク・ジョーダントリオを開催、そして、今まで周囲がひっそりしているからと休んでいた土曜日の晩に、ゆっくりジャズのライブを楽しんでもらおうとライブを始め、徐々にジャズ・クラブへと軌道修正を目指したのです。
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左から、私、寺井尚之、(一人置いて)ジェスパー・ルンゴール、YAS竹田、デューク・ジョーダン、(二人置いて)オーエ・タンゴール、オーエの後ろが寺井の母、横顔が斉藤マネージャー
 ボンベイビル時代にトミー・フラナガンは2度来日しています。私はジャズ・ピアニストの内でも最高ランクのギャラを取るフラナガンをOverSeasに招くとは、夢にも思っていませんでしたが、寺井尚之はボンベイビルでのライブ録音も視野に入れ、フラナガン3のリハに立ち会ったりして、色々と計画を練っていました。
 ところが83年の秋、やっと慣れ親しんだボンベイビルは近代的なビルに立替工事をすることになり、新しい本拠地を探さなければならなくなり、私たちは途方にくれてしまいます。
 
 さて、この続きはまたの機会に。
 次回は、私が今でも忘れられないジャズメンたちの思い出をお送りします。前回のオスカー・ペティフォード(b)が、国定忠治のようなジャズの“侠客”なら、次回はジャズの“武士道”のお話。
 どうぞお楽しみに。CU

Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!(その2)

=オスカー・ペティフォードの肖像=

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 ジャズ、クラシック、民俗音楽、映画やTV音楽、ビートニクのカルチャー・ムーヴメントなど、ボーダレスな音楽界の名士として、私を含め、カルト的信奉者を持つデヴィッド・アムラムは”Oscar Pettiford in Hi-Fi”など一連のオスカー・ペティフォード楽団のアルバムにフレンチホルンで参加しています。作編曲、指揮、それに数え切れないほどの楽器を演奏できるらしい。

 トミー・フラナガンと同じ1930年生まれで、彼の自伝「ヴァイブレーションズ」には、ペティフォードのカリスマ性や、楽団を必死で維持する熱い生き方が、活き活きと描かれています。

 こういう話は他人事と思えない!ついつい誰かに教えたくなってしまいます。下記のオリジナル・テキストを日本訳にし、それからダイジェスト版にしてみました。もっと編集するつもりでしたが、寺井尚之に「このままでええ!」と言われたので、ちょっと長いよ。

デヴィッド・アムラム 著 ”ヴァイブレーションズ“より 

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NYC マクミラン社刊:

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 僕がとうとう文無しになり、昼の職を探そうとした矢先、オスカー・ペティフォードからお呼びがかかった。オール・スター・バンドでしばらくツアーをするという。僕は喜んで仕事に飛びついた。ギャラが少ないのは承知の上だ。とにかくもう一度、仲間と一緒にプレイをしたいと思っていた。シェイクスピア祭(NYでは’54から毎年行われているイヴェント、現在はセントラル・パークでやっているようです。)の仕事ばかりやっていた僕にとって、20世紀に戻るというのは、最高の気分転換だ。ペティフォードと仕事をすれば、自分の三重奏の作品を書くためにもためになるだろう。

この楽団はツアーに参加するミュージシャン達との付き合いがまた楽しい。リハはなるべく早めの時間にして、後は一緒に飲んでは話に興じた。
 「俺はお前のプレイを聴いたぜ。ヤバダバディー♪」:テナー奏者のジェローム・リチャードソンは、なんと、僕が昨年のシェークスピア祭で、作曲して演奏したファンファーレをくちずさんでくれた。他にも何人かのメンバーは僕の演奏を聴いていた。僕はミントンズで1955年に、ジェロームとジャムったことがあった。彼はジャズと同じくらいクラシック音楽や音楽理論に精通しており、4種類の楽器に熟達していた。だが彼だけでなく、全員がそういうレベルの楽団だったのだ。

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 *本拠地『バードランド』に出演中のペティフォード楽団、画像をクリックして拡大すると、ハープのジャネット・パットナム、JRモンテロース(ts)、アート・ファーマー(tp)、ブリット・ウッドマン(tb)など、”In Hi-Fi”に参加している面々の姿が見れる。

 オスカーは、リハが終わると「ギャラは雀の涙くらいかも知れない。」とバンド全員に警告した。だが誰も文句を言う者などいない。皆、彼を敬愛していたからだ。約束していたギャラが払いきれぬ場合は、扶養家族の居ない独身ミュージシャンのギャラが一番安くなる決まりだった。勿論、彼の懐が豊かなら、我々は必ず分け前をもらえた。こういう楽団を維持していくのは、苦労がつきものさ。しかし、全員が楽しんでいた。
 
 フロリダへのツアーは、毎日が移動日で仕事という、一番ハードなツアーだった。レギュラーのトロンボーン奏者が行方不明になり、代理の奏者は”ポークチャップ”っていう仇名だ、実力は推して知るべし…

 列車やバスを乗り継ぎ、空港からフロリダのどこかに着陸し、最初のバスよりもオンボロのバスに乗り込むと、フロリダの風光明媚な湿地帯エヴァーグレードを途中駐車することもなく走り抜ける。青い目をしたなんとも感じの悪い白人運転手が、同じ白人のエド・ロンドン(frh)や、J.R.モンテローズ(ts)たちに向かって話しかけた。「おめえら、黒いのと一緒に混ざりやがってうっとうしい!いい加減にしろってんだ。すぐにおだぶつにされちまうぜ。」まるで自分がその予言を実行したいような口ぶりだった。
 
 それはまだワシントン大行進や公民権運動以前のことだ。バスを待っている間、僕はすでに気付いていた。フロリダの黒人達が、3人の白人を従えた黒人のバンドリーダーを見て呆気に取られていたのを。一方NYのミュージシャン達は、フロリダの「人種」に関するひどい社会常識に動揺していた。同時に地元の黒人達に浮かぶある種の「恐怖」の表情に対しても。それは僕らには悲しい光景だった。

 やっとの思いで我々は大学に着いた。今までのトラブルのおかげで、オスカーはとても気分を害していて、バスから出ようとしない。「俺はここで寝るよ。」と言ったきり、車両の奥で横になりバタンキューと寝込んでしまった。僕達団員は、着替えと食事の部屋を提供されたものの、部屋に入れたのは夕刻6時で、じきに本番だった。”ポークチャップ”のように 土壇場でトラとして入った連中は、演奏曲の譜面さえ見ておらず、本番前にリハーサルをすることになっていたのだが、オスカーは寝ている。しかたなく僕達は夕食を取り、余った時間は疲れ切った体を休める事にする。そして、本番直前にオスカーを起こして演奏を始めた。無論『バードランド』でのいつもの演奏レベルには及ばなかったが、学生達は大いに楽しみ、ダンスに興じた。彼らは、バンド・メンバーの多くがジャズ界で有名であることを知っていて、惜しみなく喝采を送ってくれた。

 コンサートの後、大学の学長が楽団の為に公式レセプションを開催してくれた。しかしオスカーは当夜の演奏の内容が不服で、宴会場の隅っこにふてくされて座っていた。
 とうとう、件の学長が、団員と共にオスカーのところに挨拶にやって来た。「オスカー、学長さんを紹介したいんだけど。」団員がそう言うや否や、ふくれっつらのオスカーの顔が悪魔的な笑顔に一変した。腕を大きく広げ抱擁し、びっくり仰天している学長に向かってこう言った。「ヘイ、マザーファッカー、調子はどうだい?」それから再び学長をしっかり抱きしめると、まるで、それが彼の出来る唯一の芸であるかのように、雄叫びのような笑い声を出した。学長も他の教授達も呆気にとられた様子だったが、両者の緊張がほぐれて、パーティはぐっと打ち解けた雰囲気になったのだ。
 
 僕も多くのバンドリーダーと仕事をしたが、オスカーほど誠実で気性の良い人はいない。狂気じみたところも彼が大天才である証拠だった。だからミュージシャン達は彼のためならどんな苦労も厭わなかった。

 パーティが終わる頃には、学部のスタッフ全員が、すっかりオスカーに魅了されていた。我々は朝の4時まで起きていて、バスでNYへと戻った。やっとの思いでマンハッタンたどり着いたと思ったら、その15時間後には、再び汽車や飛行機、バスを乗り継ぎ、トイレや食事の時だけ小休止というハードな巡業が始まるのだった。

 その一週間後、僕達の最後の大仕事があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドで、人気歌手ダイナ・ワシントンも出演するコンサートだ。しかし、コンサートの看板は町中にたった8つしかなかったし、新聞広告も出ていない、PRとおぼしきものが皆無なのだ。武器庫をにわかコンサート・ホールに仕立てた会場に、お客はたったの25人。誰もコンサートがあることを知らないのだから仕方がない。オスカーは当時ジャズ界のスターだし、ダイナ・ワシントンはそれ以上の知名度があったから、満員になって当然なのに。ダイナも不入りに驚いていた。ダイナがうちの楽団に飛び入りで歌い、我々も彼女のバンドに入り、コンサートはセッションの様相になった。不入りのコンサート終了後、オスカーはどうにか金をかき集め、家族のいるメンバーにギャラを払い、独身者たちには、自腹を切って支払った。
 
 帰り道には、全団員がバンドは解散せざるを得ないだろうと察し、暗い気持ちで一杯だった。オスカーは、すぐにそんなムードを感じて、大声を出したり笑ってみせたり、皆を元気付けようとした。オスカーにとって、憐れみを受けるのは、耐え難いことだったのだ。

 「これからもシェークスピアを演るのかい?」他の団員が家路に着いた後、オスカーは僕と28丁目を歩きながら尋ねた。

「ああ…」僕は応えた。「でも、これからも一緒に出来ればいいなあ。ねえ、僕に何か助けられることはない?例えばパート譜を写譜するとか、どんなことでもいいからさ…」

“た・す・け・る”?!おい、お前が俺を助けるってかよ?!」オスカーは、まるで金星人の襲撃に遭ったように怒鳴りちらした。「一体何言ってんだ?俺がお前の助けを必要としてるってのか? おい、デイヴ、お前は自分のことだけ助けてりゃいいんだよ!しっかりしろよ。精一杯良いプレイをして、良い曲を書けよ。お前さんなら出来るさ。他人を助けるなんて考えるな!そんなのたわ言だって判ってるだろ。頑張って書き続けろ。誰にも邪魔立てさせるな。俺たちはな、神様に祝福されて音楽の世界に遣わされてるんだ!まあいいさ。俺の家でちょっと何か食べて行け。俺はな、フレンチホルンが大好きだ。次に一緒に演る時は、ミスノートなんか吹いてバンドを滅茶苦茶にすんなよな。俺が気付いてないとでも思ってるのか?全て耳に入ってるんだからな。」

 それから、僕達はオスカーのアパートでエール(例えばギネスビールのような飲み物、日本のラガービールよりフルーティだったり苦かったりする。)を飲み始めた。
「人生って素晴らしいよなあ!」オスカーが大声で言う。「俺たちのバンドは世界一だ!なあ、そうさ!だから、おまえ大声出すなよ!」と、オスカーは雄叫びを上げた。「俺の息子が眠ってるんだ、明日学校に行かなくちゃならないんだから。さあ、乾杯だ!!デイブ。」

「乾杯、オスカー」僕は小声で囁いた。

「神様が俺たちをこの世に遣わしたのは、凄いプレイをする為なんだ。お前がこれ以上しょうもないことばかり言うと、俺はフレンチホルンのセクションをしょぼいメロフォーンに変えちまうぞ、判ってるだろうな。だけど今夜はゴキゲンなサウンドを出してたよな!何てすげえバンドなんだ!!」

 僕達は結局一晩中盛り上がっていた。やがてオスカーは子供の時に覚えたインディアンの踊りを披露してくれた。彼の息子が学校へ行く支度の為に起きてきたときには、僕達は輪になってインディアンのダンスをしている真っ最中だった。奥さんが作ってくれた朝食をごちそうになってから、僕はやっと家路に着いた。

 オスカーは世界一の同志だった。最高に心の広いボスだった。何事にも純粋な気持ちで向かっていく力の凄さを見せてくれた人だった。自らのエネルギーと生命力で、ミュージシャン達や他の人々の苛立ちや悪感情も、喜びに変えてしまえる事を教えてくれた人だった。(了)

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 どうですか?天才ミュージシャンというものは、こんな風に音楽の天国と、現実社会の地獄の狭間を駆け抜けていくものなのでしょうか・・・
長いのを読んで下さってありがとうございました!

次回のお題は、『OverSeasの足跡を辿る その1-サラーム・ボンベイ』、今は昔、OverSeasの始まった頃について、書いてみたいと思います。
来週のウィークエンドに更新予定、CU

Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!

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 OPことオスカー・ペティフォードは天才だ! ベースでもチェロでもソロを取っては華があり、アンサンブルでは安定したビートでバンドに命を与え、弦楽器特有の魔力を放つ。曲を作れば、腕に自信のあるミュージシャンなら必ず挑戦したくなる<Tricrotism>や、マグマの様に燃えるようなブルース<Swingin’ Till the Girls Come Home>など、力強い作品を創った。そして何よりも、個性の強いミュージシャン達をぐっと自分の下に引き寄せ、途方もないエネルギーにまとめ上げる錬金術師のようなリーダーシップがあった。
  トミー・フラナガン(p)がケニー・バレル(g)と共にNYに進出した1956年当時、すでにOPはNYの有名ジャズクラブ『バードランド』(現在のNYの同名クラブとは違う。)で、ビッグバンドを率いて活動していた。同時にジャムセッションも主催しており、バド・パウエルの代役として急遽ここでNYデビューを果たした若きフラナガンのプレイが、即オスカー・ペティフォードの耳に留まっただろうことは推測に難くない。
 OPはアメリカ先住民族とアフリカ系アメリカ人の混血で、1922年にオクラホマのインディアン居留地で生まれている。両親と11人の兄弟殆んどが複数の楽器に熟達する音楽家の血統だ。この録音の3年後、僅か37歳の若さで、デンマークで客死した。アイラ・ギトラーの名著<Swing to Bebop>では、ビバップ維新の立役者であると同時に、破天荒な武勇伝の持ち主として描かれている。滅法ケンカが強く、同じく親分肌でボブ・サップのような武闘派ベーシストとして名高いチャーリー・ミンガスが酔って暴れた時には、ピーター・アーツのように数秒間でノックアウトしたという神話さえある。 
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 このアルバムが録音された1956年と言えば、ビッグバンド時代はとうの昔に終焉し、スモール・コンボ全盛時代、だがOPはトレンドより理想を優先した。ハープやフレンチホルンを擁し、ホレス・シルバー、ジジ・グライス、ベニー・ゴルソンといった、スモール・コンボ主流のハード・バップ時代をリードするコンポーザー達のオリジナル曲を、ビッグバンドの大スケールで表現した。’40年代に時代を先取りしたビリー・エクスタイン楽団同様、OPのビッグバンドは経済的に行き詰まり、あえなく短命に終わる。
 
 講座では『名盤中の名盤』と紹介されていたこのアルバム、とにかく聴いていて気持ちがいい!明るくてキップがいい!品が良くてキレがいい! 
 
 私のお気に入りは<Smoke Signal>-ジャズ講座では、リチャード・ロジャーズ作曲のスタンダード<Lover>の進行を基にしていると教わった。最初から最後まで颯爽として起伏に富むカラフルな構成、作曲者、ジジ・グライス(as)の、風が吹きぬけるようなソロや、オシー・ジョンソン(ds)のツボにはまったドラミング、一音一音が有機的に連鎖しながら、このハード・バップ・ビッグバンドに生命を与えている、同時に、全てがお釈迦様然としたOPの掌の上で起こっているような安定感があるから、一層気持ちが良くなるのかな?“スモーク・シグナル”とは、インディアンの連絡手段だった「のろし」のことだ。それゆえ、何かの「前兆」と言う意味もある。新たな音楽的地平を予見する曲なのだろうか?
 最低のギャラしかなくたって、OPと一緒に演りたいから、音楽の喜びを味わいたいからと、ハードバップの獅子達がこぞって参加したビッグバンド!デトロイトで頑固にバップへの信念を貫き、NYで同じ志を持つ集団に参加した若きフラナガン、彼の大きな瞳の輝きはどんなだったろう?
 ヒーロー達の姿に思いを馳せながら、このアルバムを聴くと、レンブラントの集団肖像画のように、ペティフォード、アート・ファーマー、ジジ・グライス、ラッキー・トンプソン…そしてフラナガン…疾走するジャズメン達の一瞬の表情が、ビッグバンドと言う名の大きなカンバスに鮮やかに浮き上がり、自分もその時代の空気を共に呼吸しているような不思議な気持ちにさせてくれる。
 フラナガンのソロ・パートは少ないけれど、余りある名盤だ。そして、再び講座の本を読むと、詳しいアレンジやソロの解説に加えて、ライナーノートの余談など、お楽しみがまた大きくなる。
 次回のブログでは、本アルバムに参加しているフレンチホルン奏者-デヴィッド・アムラムの自伝に、その時の情景が鮮やかに描かれているので、抄訳を紹介したい。
 
 

ブログ始めました。tamae teraiの自己紹介

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 私の名前はtamae terai、父は関東育ち、母は根っからの大阪人、母方の曾祖母は、「雀のお松」と呼ばれ、口八丁手八丁を活かし、大阪天満で鮪(まぐろ)屋を営み、昭和初期には、大きな鮪問屋となりました。おまつさんは三度のご飯より歌舞伎が好き、芝居小屋の大向こうから女だてらに掛け声をかけるのを得意とし、大阪の三女傑の一人と謳われたそうです。鮪問屋は、第二次大戦前の経済統制で廃業を余儀なくされ、私が生れた時には影も形もありませんでしたが、子供の時から、ライブやコンサートを聴いたり、市場に行くと何故か血が騒ぎます。
 私自身はごく普通の家庭に育ちました。父も弟もカタギのサラリーマンですが、縁あって、ジャズピアニスト寺井尚之と結婚し四半世紀以上、ふと我が道を振り返ってみれば、人生の半分以上をOverSeasというジャズクラブの片隅で過ごしていました。生活は楽ではないけれど、今もこうして、毎日主人のピアノを聴けるのは、誰にも味わえない私だけの幸せです。また仕事柄、たくさんの方々と知り合い、有形無形に、貴重なことを学ばせてもらっています。
 NYに、ナット・ヘントフという、政治ジャーナリスト兼、ジャズ評論家がいます。彼は回想録で、「これまでワシントンDCで数多くの政治家達に出会ったが、ジャズ・ミュージシャンは、彼らよりよっぽど、博学で賢明だ。」というようなことを述べています。私は政治家には会ったことはありませんが、優れたジャズメンとは、数多くの出会いや別れがありました。
 さて、ひょんなことから、この度ブログを作ることになりました。雀のお松の血が騒ぐ!そんなこんなの『誰にも奪えぬ思い出』や、OverSeasと、その周辺で体験した色々なことを記して行こうと思います。どうぞよろしく! 
 

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