雑誌 WAY OUT WEST の表紙

関西発のJAZZ フリーペーパーWAY OUT WEST (2022年7月号)より。


※本記事は、WAY OUT WEST誌発行人 藤岡宇央氏の特別なご厚意により転載しております。無断転載はご遠慮ください。

Hisayuki Terai

 トミー・フラナガンの世界唯一の弟子を経て、デトロイト・ハードバップの伝承者として邁進する寺井尚之氏。現代とは違って、しがらみの多い時代をインディペンデント精神で切り抜け、今年6月にプロ・デビュー50周年を迎えた孤高のピアニストに迫る。

掲載誌:WAY OUT WEST (2022年7月号)

インタビュー

ピアノの前に座る寺井尚之

今年(2022年)の6月に70歳を迎えられたと同時に、プロ・デビュー50周年という節目も迎えられたわけですが、ターニングポイントや印象深いエピソードについて教えてください。

 ずっとトミー・フラナガン一筋で来たので、これがターニングポイント、というのが分からないですが、最初の弟子入り志願(1975年)で断られ、何度も志願して9年後(1984年)に認められ、初めて教えてもらえたのはその5年後(1989年)! しいて挙げるとすれば、この時かなと思います。OverSeasで行ったコンサートのあと、フラナガン夫妻が泊まりに来て、深夜3時ごろまで稽古をつけてもらいました。8月でしたが、近畿地方に台風が接近し、外は暴風雨。フラナガンは「何から教えてやろう……そうだ! 今夜は嵐だから、タッド・ダメロン(p)の《Smooth As the Wind(フラナガンの名演目、タイトルの意味は「風のようにさわやかに」》にしよう」と言い、専売特許のエンディング奏法を伝授してもらいました。この夜を境に、いつ、どこで、どんな質問をしても、何でも教えてくれるようになりました。ただし、師匠は天才ですから、凡人のことが理解できません。「さっきのあの曲の○○のところは、どうやって弾いたんですか?」と聞いても、「あそこか? あれは、聴いたとおりや」という感じの人でした。一般的に、フラナガンは温厚な紳士という風に言われていますが、それは世を欺く仮の姿で、本当はあれほど芯が強く気性の激しい人はいません。

 最初、フラナガンには「わしのそっくりさんになって、どうするんだ? そんなことは何の意味もない」とお説教をされましたが、それから何年も経ち、生前最後に会った時に、フラナガン得意の曲(Black & Tan Fantasy)を演奏すると、「とても良いヴァージョンを創ったな」と誉めてもらうことができました。晩年、フラナガンが私をジョニー・グリフィン(ts)に紹介した時、「こいつは、わしのレパートリーは皆出来るんや。お前にそんな弟子はいるかい?」と言ったことがあります。これは私にとって何よりの賛辞でした。

ご自身のお店 OverSeas は、44年目を迎えましたが、一貫したプレイスタイルや、他所ではまったく演奏することがない、そのこだわりについてお聞かせください。

 学生時代にトミー・フラナガンの音楽に出会って以来、彼は自分にとって神であり師匠です。自分のスタイルを位置づけると、デトロイト・ハードバップ・ロマン派。師匠に教えてもらったヴォイシングをそのままするには、手が小さすぎるし、師匠に「ルート音をはずすな」と言われたことを基本に考えてます。フレーズのアクセントはデトロイトのスタイルが基本ですが、大阪弁も混じります。それと、とってつけたようなブルーノートはしたくなく、日本人であることも忘れません。そんなトミー・フラナガンの音楽スタイルを貫くために、自分の店でしか演奏しません。理想の場所にするため、そしてその場所を守るためです。

今回、70歳を迎えて初めてソロピアノに挑戦されましたが、今後の抱負や、今の若いミュージシャンへのアドバイスなどあれば教えてください。

 私自身の抱負は、今までやってきたことを、さらに磨くのみです。プロのピアニストならテクニックがあって当たり前。そのテクニックというものも、指が動くだけでなく、〈暖かい・冷たい〉、〈青い・赤い〉、〈甘い・苦い〉を音色に響かせ、さらには香りまでをも感じさせる音を出さねば本物とはいえません。私は師匠との対話から、ほんの一片ですが、こういったテクニックを身につけました。これこそ、師匠からもらった遺産です。私が大阪人だったことも幸いしました。大阪弁は音程の起伏が著しく、アクセントの強弱に富む言葉です。いわば、デトロイトやニューヨークの黒人たちが話すヒップな言葉に近い。それが師匠のテクニックを吸収するのに役立ったと思います。メジャーリーグを象徴する日本人プレイヤーが現れ、外国人力士が横綱を張る時代。本場のデトロイト・ハードバップを関西人の私が受け継いでもいいのではないか、と少し思うようになりました。  50年前、北新地でプロ・デビューして以降、ギャラをもらえば、ありったけのレコードを入手して、それらを採譜すると同時に、ありとあらゆる来日ジャズメンのコンサートに通いました。それは私だけでなく、当時、ジャズを志すミュージシャンの多くがやっていたことです。現在は、世界中の音楽をYouTubeや配信などで、手軽に聴くことができます。膨大な情報を簡単に取り入れることができる反面、素晴らしい音楽を大切に思う気持ち、感動の大きさや深さが減ってきているように思えてなりません。若い皆さんには、少しでも良い音楽を聴いてほしい。それも生で聴いてほしいと強く思っています(OverSeasは、ずっと学割チャージ半額です)。そして、ジャズのこと、デトロイト・ハードバップのこと、トミー・フラナガンのことについて、知りたいことがあったら、私のところに来てください。ピアノという楽器だって、いつまでこの世にあるかわからない……40年以上調律してもらっている川端さんと冗談で言っています。もうしばらくしたら、全部電子ピアノになっていて、本当のピアノは博物館入りしているかもしれません。私もいつまで演奏できるかわかりませんが、今のうちに生のプレイを聴いておいてください。

寺井尚之の足跡をたどる

1952
6月6日 大阪市旭区に生まれる。4歳の誕生日からクラシック・ピアノを始め神童と呼ばれる。
1971
医大を目指す浪人中、YMCA土佐堀校時代、校舎のエアコンが故障し、涼を取りに近所の喫茶店に飛び込む。そこは《ル・ジューヌ》というジャズ喫茶で、薄暗い店内に大音量で流れるジョン・コルトレーンの音楽に強烈な啓示を受け、ジャズのとりこになる。受験勉強のフリをしてラジオでジャズを聴き漁り、聴いた曲や演奏者を大学ノートに記録する毎日を送る。トミー・フラナガン(p)に夢中になる。
1972(20歳)
結局、関西大学に進学し軽音楽部へ。アドリブの方法も知らないまま、先輩の命令で、6月1日から北新地本通にあった高級クラブ《ラ・ビアン・ローズ》のハウスバンドのピアニストとしてプロ・デビュー。先輩ミュージシャンに叱咤され、レコードを耳でコピーしながらジャズの勉強と演奏の毎日を送る。老舗ジャズ・クラブ《デューク》など、大阪市内の数多くのクラブ、キャバレーで演奏経験を重ね、ワルツ堂、LPコーナー、阪根楽器、ミュージックマンなど、大阪のレコード店や、ジャズ喫茶《やかた》《Open Door》などで、トミー・フラナガンのレコードを集める学生として知られるようになる。
1975
トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルド(vo)の音楽監督兼ピアニストとして来日。熱狂する聴衆と一体になった圧倒的なパフォーマンスに再び大きな啓示を受け、プロになる決意を固める。大雪の京都公演の日、フラナガンを入り待ちし、弟子入り志願。しかし、「私は自分の練習に忙しいので、弟子は取らない」とあっさり断られる。以後、何度も志願するが断られる。
1979
サラリーマンをしながら演奏は続けるが、トミー・フラナガンの音楽スタイルを貫くのは自分の店を持つしかないと考え、繊維貿易でにぎわうオフィス街、本町にあったインド人貿易商のビル、ボンベイビルで《OverSeas》を開業。
1982
初の海外アーティスト、デューク・ジョーダン(p)トリオのライブ開催。
1983
ビル建て替えのため、本町通のアジアビルに移転。年末の開店記念コンサートにはヒース・ブラザーズを迎え、ジミー・ヒース(ts)、スタンリー・カウエル(p)との深い親交が始まる。
1984(32歳)
12月、念願のトミー・フラナガン・トリオ(with ジョージ・ムラーツ、アーサー・テイラー)を招聘。来日は阿川泰子(vo)の伴奏の仕事で、トリオ公演は《OverSeas》のみ。チケットは口コミで瞬く間に完売、北海道から九州まで全国のファンが集結し、フラナガンは熱い演奏でファンの熱意に応えた。終演後、トミー・フラナガンの参加作350枚を聴いて寺井が書き溜めた譜面を前に、フラナガン夫妻は号泣、弟子入りを許され、演奏テープを定期的にNYに送るように指示される。(最初の弟子入り志願から実に9年後のことだった。)
1988
トミー・フラナガンの招待でNYへ。ヴィレッジ・ヴァンガードにおける2週間のフラナガン・トリオ(with ジョージ・ムラーツ、ケニー・ワシントン)のライブや、様々なイベントに同行。フラナガンという天才音楽家の人間としての姿に強烈なインパクトを受ける。
1989
8月トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ、ケニー・ワシントン)を招聘、台風吹き荒れる深夜、初めて長時間の稽古をつけてもらう。12月、同トリオがミナミにあったキリンプラザ出演、OverSeas近くのホテルに一週間滞在、フラナガンから集中的に教えを受ける。
1993(41歳)
韓国ソウルに演奏旅行をし、韓国系レコードレーベルで初リーダー作「Anatommy」を録音。「Eclipse」などのトミー・フラナガンの名演目と、尊敬するジョージ・ムラーツ(b)に捧げた寺井のオリジナル曲を収録。(現在廃盤)
1994
自主レーベル「フラナガニア・レコード」を設立。
1995
阪神淡路大震災で、店はもちろん、ピアノも被災。
1996
トミー・フラナガンが、寺井アレンジの「Dalarna」を「Sea Changes」に収録。寺井のセカンド・アイドル、サー・ローランド・ハナ(p)のコンサートを開催、終生の親交を持つことになる。
1997
ライブの休憩時間の音楽談義が話題を集め、「ジャズ講座」を開講。故三村晃夫さんによるワルツ堂出張所の「ジャズ講座」も人気に。4thアルバム「Fragrant Times」が、スイングジャーナル誌の最優秀録音盤に選ばれる。
1998(46歳)
トミー・フラナガンが大動脈瘤で倒れ生死の境を彷徨う。それを機に、「トミー・フラナガンの音楽を志す人のため」のジャズピアノ教室を開講。
1999
トミー・フラナガン・トリオから独立したベーシスト、ジョージ・ムラーツのリーダー・ライブを開催。
2001
11月、トミー・フラナガン逝去(71歳)。翌年11月に、フラナガン生前の演目を演奏する「トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート」を開催。以来、誕生月3月と逝去月11月の年2回開催。
2003(51歳)
5月、現在の安土町に店舗を移転。ランチ営業を辞め、ジャズクラブと教室のみに業態を変更。これまでの「ジャズ講座」を、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」にシフトチェンジ。フラナガンのディスコグラフィーを時系列に解説しながら、当時のジャズ界や、社会、人種問題などを、ピアニストならではの鋭い音楽解説に交えて語る。プレイとともに寺井のライフワークとなる。
2006
6月、誕生日にジョージ・ムラーツ・トリオがお祝いに駆けつけ、コンサートを開催。
2011
3月11日、東北大震災。ジャズ業界にも不況の嵐が吹き荒れるが、自分の音楽的信念を貫き、演奏にいそしむ。震災を期に、毎年被災地で演奏するようになったアキラ・タナ(ds)や、NYで活躍する田井中福司(ds)を招き共演する。
2020
4月、Covid-19による初めての緊急事態宣言が出され、感染拡大防止と時短営業に翻弄される。ジミー・ヒース、スタンリー・カウエルという親しい巨匠たちが相次いで他界。
2021
ジョージ・ムラーツ逝去。
2022(70歳)
目下、女房役のベーシスト宮本在浩とともに季節感溢れるジャズの歳時記「スペシャル・セレクション」を中心に演奏。5月、念願のサー・ローランド・ハナとジョージ・ムラーツへのトリビュート・コンサートを開催。6月、デビュー50周年を記念し、70歳にして初のソロ・コンサートを開催。
以下は本HPで追加しました。
2024(72歳)
念願だったサー・ローランド・ハナ・トリビュート・コンサートを初開催。
2026(74歳)
6月に動脈硬化のため左目を失明するが、精力的に演奏活動を続け、9月には3度目のサー・ローランド・ハナ・トリビュート、11月には49回目のトミー・フラナガン・トリビュートを開催。

Tommy Flanaganとは

寺井尚之を魅了したトミー・フラナガンの経歴と推薦盤(リーダー、サイドマン)をご紹介。

Text: 寺井珠重

トミー・フラナガン

デトロイト時代

1930年3月16日、ミシガン州デトロイトの黒人居住地区に生まれる。当時デトロイトは自動車産業のモーターシティとして、黒人労働者層が経済的安定を享受する一方、人種間の激しい軋轢による理不尽な差別が多感な思春期に影を落とした。その頃、ダンスミュージックだったジャズを、「鑑賞音楽」に昇華させたビ・バップ勃興。黒人の尊厳を高い芸術性で表出する音楽が人生を決定する。

 10代半ばでプロ活動。大活躍するも、朝鮮戦争へ徴兵され、2年のブランクを経て、デトロイトの伝説的クラブ《ブルーバード・イン》のレギュラーとしてサド・ジョーンズ(tp)と充実した演奏活動を行う。高度に洗練されたデトロイト・ハードバップが誕生した。当時のレパートリーは終生の愛奏曲となり「Let's」(1993)に集大成。

サイドマンとして

1956年、ニューヨーク進出。連日録音に呼ばれる。有名な『Saxophone Colossus(ソニー・ロリンズ)』『Giant Steps(ジョン・コルトレーン)』他、高度な歴史的作品の大部分はスタジオで簡単な打ち合わせ後のワン・テイク録りだった。1957年、J.J.ジョンソン(tb)クインテットでスウェーデン楽旅。現地でリーダー作『Overseas』を録音。

60年代初め、コールマン・ホーキンス(ts)・カルテットに参加、人間と音楽家の両面で深く尊敬し、ホーキンスが亡くなるまで支援する。

1968年、エラ・フィッツジェラルド(vo)の音楽監督に就任し世界中をツアーする傍ら、リーダー作を録音。1978年、心臓発作を機にエラの許を辞し、リーダーとして活動。

リーダーとして

独立後はピアノ・トリオ作品を次々発表、もはや「脇役」ではなく、最高のピアノタッチによる洗練と品格の演奏スタイルを持つ巨匠として、欧米、日本で抜群の人気と高い評価を誇り、1990年にダウンビート誌人気投票などで一位を獲得。1993年、デンマークJazzpar賞受賞、賞金でサド・ジョーンズ集『Let's』を自費録音。

2001年11月16日、大動脈瘤破裂で死去。終生現役を全うした。

推薦盤(誌面掲載)

誌面に掲載された推薦盤のジャケット

Tommy Flanagan / Overseas — CRAFTMAN RECORD CMSR27

Tommy Flanagan / Jazz Poet — SOLID, TIMELESS CDSOL6314

At Ease with Coleman Hawkins — OJC 0888072300811