名文で知っておきたいジョージ・シアリング

トミー・フラナガンの親友でありピアノの名手、知性と知識を兼ね備えたジャズ・ライター!我らがディック・カッツ氏がMosaicのボックス・セット、『The Complete Capitol Live George Shearing』のために書いたライナー・ノートのサワリの部分をここに和訳して掲載いたします。

Tommy Flanagan and Dick Katz 著者、ディック・カッツ氏とトミー・フラナガン

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ジョージ・シアリング
George Shearing (1919-2011)

ジョージ・シアリングがロンドンで送った子供時代、それは、決して「バードランドの子守唄」あるいは、どこかよその子守歌のようなものでもなかった。ぎりぎりの貧困での生い立ちから、裕福な音楽的有名人としての成功は、ハリウッドの黄金期の映画さながらに、ボロ服から大金持ちへの大転換だった。
勿論、彼のスタートも慎ましいものであった。1919年8月13日、9人兄弟の末っ子として、生まれながらの全盲として誕生。父は石炭人夫、母は子供達を世話する傍ら、夜は列車の掃除婦として働いていた。

ジョージの学歴は控え目に言っても多彩なものだ。1987年、文芸誌「ニューヨーカー」で、シアリングはホイットニー・バリエットにこのように語っている。
「3才の時に伊達男を気取って音楽を試みたものの、方法が不適切で・・・トンカチでピアノをガンガン叩いたものです。」 これはロンドン南西部、バターシーの「シリントン・スクール」の出来事だ。

12才から16才の間は、緑多い田園地帯にある寄宿制盲学校、「リンデンロッジ」に在学。入学は強制的なものではあったが、ロンドンのすすけた下層労働階級から逃れ、ほっとできる喜ばしい機会であった。彼がバッハ、リストなどクラシックの作品の弾き方や音楽理論を学んだのもそこ「リンデンロッジ」である。

卒業後、パブのピアノ弾きの仕事にありつく。そしてほどなく、クロード・バンプトン率いる全盲ミュージシャンで編成した17ピースのバンドに加入する。紳士服で有名なサビルロウで仕立てのユニフォームでの仕事は、フィナーレには6台のグランドピアノが並ぶという、彼の最初の大仕事であった。リーダー以外、全員が視覚障害者で、譜面はシアリングが概に学んだ点字譜に書き直された。そこが若きピアニスト、シアリングと生のジャズとの初めての出会いである。楽団で、ジミー・ランスフォード、エリントン、ベニー・カーターなど名楽団のアレンジを演奏した経験がシアリングに大きな刻印を残した。やがて、当時最新の、アート・テイタム、ルイ・アームストロングなど一流ジャズメンのレコーディングを聴き始める。

さて、ここで若く熱意にあふれた、新進気鋭の批評家レナード・フェザーの登場となる。「リズム・クラブ」のジャムセッションでシアリングを聴いたフェザーは、この若きジャズの修行生にできるかぎりの援助を申し出た。シアリングわずか19才の時に、フェザーはレコーディング、ラジオ出演の御膳立てをした。おかげで1939年迄に、英国のジャズピアニストの人気投票で第1位に輝き以後7年間その地位を守り続ける。それまでに、主要な米国のジャズピアニストのスタイルを習得し、しばしば「英国のアート・テイタム」あるいは「テディ・ウイルソン」あるいは「No1ブギウギピアニスト」という称号を贈られた。だが、この贈り物は後に逆効果を生むことになる。

早くからグレン・ミラー、メル・パウエル(p)、そしてファッツ・ウォーラーから支持され、勇気を得たシアリングは、もはや英国に留まって活動すべきではないと感じていた。大戦後の1946年,、アメリカのジャズ界で腕試ししようと渡米。期待は大きかったが、その顛末は後の1986年、NYタイムズでジョン・S・ウィルスンに語ったとおりである。

 「私は芸能エ-ジェントに会いに行き、演奏を聞かせました。テディ・ウイルソンやアート・テイタム、ファッツ・ウォーラーの様に弾いて見せますと、こう冷たく尋ねられました。『他には何ができるんだい?』って…」

アメリカでは、自分の真似た本家が、いつでも生で聴けるのだと悟ったシアリングは、聴衆にアピールする自分自身のアイデンティティを確立する必要性を痛感、そして帰国。再び腕を磨いてから1年後に再渡米した。

再挑戦の初仕事は52丁目にあるクラブ、「オニキス」でサラ・ボーンの対バンとして演奏することであった。彼のピアノの卓抜さはすぐに注目の的となり、ミュージシャンの口コミも彼の評判を確立するのに役立った。

洗練された彼の演奏は、折衷的であるにせよ、確かに驚異的ではあった。とはいえ、まだまだ音楽的に”自分自身のヴォイス”を確立するところまでは行かなかったのだ。だが、その”ヴォイス”が生まれるのも、長くはかからなかった。

1949年1月、彼はカルテットを率いてブロードウェイ、「クリーク・クラブ」に出演、クラリネットのバディ・デフランコをフィーチュアしスムーズなボイシングと微妙なリズムのアプローチを強調し、ドラマーであり作曲家、ブラシ・ワークの名人、デンジル・ベストが、グループのサウンドを周到に計算した。2週間後、デフランコは別の契約の為に退団。シアリングの米国への移民手続きをしたレナード・フェザーはグループにユニークなサウンドを与える方法を思いついた。ドラムのベストと、後にマネージャー となるベースのジョン・レビーはそのままにして置き、シアリングはバイブのマージョリー・ハイアムスとギターのチャック・ウエインを新たに加入させ、それが決定的な転機になった。昔のグレン・ミラーのグループを模したオクターブ・ユニゾンのボイシングのおかげで、完璧にユニークなクインテットのハーモニーを手中に収めたのだった。その頃、シアリングが会得していた「ロック・ハンド」といわれるブロックコードで、ギター+ヴァイブラフォンのラインを肉付けした。そのピアノスタイルの元祖はデトロイト出身のミルト・バックナーだが、シアリングは、もっと完璧な和声感覚で、コードを驚異的なスピードで変化させ、自分のアドリブの番になると、更に聴衆を驚嘆させてみせた。一方、ナット・キング・コールもまたブロック・コードで大成功を収めたが、キング・コールの場合は非常に繊細で、スイング感のある使い方だった。

NY、「ダウンタウン・カフェソサエティ」とシカゴ、「ザ・ブルーノート」のギグを皮切りに。グループはNYの高級クラブ、「ジ・エンバーズ」と当時のジャズのメッカ、「バードランド」に出演。成功は目前であった。

そしてMGMが”9月の雨”を録音、1949年2月に発売するや否や、シアリング・クインテットは全国的な名声を掴んだ。それは驚異的なヒットだった。その後はジャ
ズ史と商業音楽史そのものである。引き続き多くのヒット曲が生まれたが、それらは皆同様のアレンジの方程式を使っており根本的には同じサウンドであった。アレンジは元々シアリングとマージョリー・ハイアムスとで分担していた。ハイアムスは素晴らしいバイブ演奏家でもあり、優美で堂々とした存在感を印象付けた。ジャズのバンドスタンドに女性がほとんど居なかった時代のことである。(例外はメアリー・ルー・ウィリアムズと、マリアン.マクパートランドだけである。)

このグループのユニークなアイデンティティは以後29年間持続する。そして先のNYタイムスの記事でシアリングが語っている様に「最後の5年間、僕は自動操縦状態でプレイしていた。寝ながらでも、ショウを最初から最後まで通して演ることができた。」という状況に陥る。

1978年、クインテットは解散、以来シアリングは、主にカナダ人のドン・トンプスンやニール・スウェインスン達、トップの技量を持つベーシストとデュオで活動してきた。また交響楽団とモーツアルトで共演したり、メル・トーメや、カーメン・マックレー、ジム・ホールなど彼のお気に入りのアーティストとの共演など様々に活動の範囲を拡大してきた。それ以外にNYのラジオ局WNEWでDJを勤め、ワークショップで教えたりしている。

1949年~1978年、クインテットは度重なるパーソネルの交替を行ったが、このグループを出発点としてメジャーに成ったアーティストは極めて多い。幾人か名前を挙げると、ヴァイブではゲイリー・バートン、カル・ジェイダー、ギターではトゥーツ・シールマンス、ジョー・パス、リズムセクションでも、デンジル(ベスト)以外にベストなプレイヤーが居る。時代の移り変わりに従って、アル・マッキボン(b)、イスラエル・クロスビー(b)、バーネル・フォーニエ(ds)達が、グループのサウンドにきらめきを与えた。クロスビーとフォーニエは、アーマッド・ジャマール(p)トリオの成功にも、大きな役割を占めている。

1954年になるとシアリングは、コンガ奏者、アルマンド・ペラーツァをグループに加入、ラテンリズムを徐々に導入することで、グループはしばしば、純正のアフロキューバン・バンドのようにサウンドした。特にシアリングは、アフロ・キューバンのイディオムを完璧にマスターしていた。

また、シアリングは、ピアノ同様、創造性に溢れた卓抜な作曲家であることを証明している。”バードランドの子守歌”、そのクラブに出演したアーティストにとって、礼儀上、不可欠な演奏曲目と成っただけではなく、いつの時代でも最も頻繁に演奏される、実り多いジャズスタンダードとなった。他にも”コンセプション”のような複雑なビバップのメロディ(バド・パウエルの愛奏曲であった)や、彼のもっとも人気を博したイージーリスニング・アルバムのタイトル曲で、コマーシャルなボレロ風の作品”ブラック・サテン”なども作曲している。

シアリングのクインテットが、よりコマーシャルなサウンドに変化すると、『政治的正当性』を重んじる派閥のジャズ・ジャーナリズムの態度はシアリングの才能に対して冷淡に成った。「コマーシャル」ということで、こっぴどく叩かれたのである。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンでさえもが、ショウビジネスの現実にへつらったといって、不興を買ったのあるから、シアリングは純粋主義者の魔女狩りに合った最初の一流ジャズ・アーティストではない。

’50年~’60年代の評論家連中は、ジャズに生きながら、余りにも経済的に成功することに我慢がならなかった。アーティストは成功すればするほど、コマーシャルになったと非難されたのだ。

耳に聞こえたものは、殆ど何でも全て自分で演奏してみせてしまうシアリングの能力は、逆に彼自身の真の創造性をわかりにくくしてしまう傾向があった。仲間を形容する為に、良い耳でミュージシャンのフレイズを借用して、彼らを描写するジョージにはどんなに細かい微妙な音でも聞き分けることができた。

だが彼が、ジャズやそれ以外のどんなスタイルでも真似できるから、「何でも屋」というわけでは決してない。むしろ多国語を流暢に話すことのできる人のようなもので、言葉の代わりに、スイング、ビバップ、ラテン、クラシックを問わず、彼の想像力を刺激するものなら何でも、自分のピアノの鍵盤にも譜面の上にでもいとも容易に写し取ることができるのだ。

勿論、彼の作曲は、目の見える筆記者に書き取られることが多い。批判的な評論とは逆に、口述筆記されるということに関する贅沢な悩みを、アンサンブルのサウンドに投射してみせるのは、むしろポジティブなことだ。結局のところ、そのクインテットは、ジャズ界にも、一般大衆にとっても、大いなるレコードの遺産をもたらしたのだった。

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ビジネスの成功と真の評価、その間の葛藤を露ほども見せず、至芸を磨いたジョージ・シアリング、あなたはどの時期のシアリングがお好きですか?日曜日にゆっくり鑑賞してくださいね!

楽しいジャズ講座、ぜひお待ちしています!

CU

ソニー・ロリンズのアドリブ哲学

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 2月9日(土)開催の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、巨匠ソニー・ロリンズの名声を決定的にし、トミー・フラナガンを「名盤請負人」と言わしめるきっっかけとなった初期の最高傑作『Saxophone Colossus』から始まります。

 

Saxophone20Colossus.jpg  “Blue Seven”のテーマから一貫するアドリブの素晴らしさが発表当初から絶賛されたアルバム、『サクソフォン・コロッサス』。プレスティッジ・レーベルのセールスポイントだったブロウイング・セッション、つまりアルバム企画より、即興演奏を重視(?)する低予算のジャムセッション形式で、少々ミスがあっても1テイクぽっきり、編集なしのレコーディングで制作されました。とはいえ、ぶっつけ本番のアクシデントが予想外の効果を生んで行くプロセスが鮮やか謎解きしてみせた寺井尚之の解説は、演奏の迫力とともに、手に汗握るスリルと楽しさを味あわせてくれます。

 私の方は、講座の資料として、ソニー・ロリンズの数々のインタビューをチェック中。

 後進のミュージシャンたちのために、どんな質問にも誠実に答えようとするロリンズの言葉は、「現存する最高の即興演奏芸術家」に相応しいものばかりですが、現在のロリンズに、26才で録音した『サクソフォン・コロッサス』を最高傑作であるかのよう言うインタビュアーには、さすがに、辟易した印象が感じられます。

 

  今回、講座で配布するのは、エラ・フィッツジェラルドの伝記作家としても有名なスチュワート・ニコルソンによるソニー・ロリンズ・インタビュー、後進のミュージシャンたちのために、自分のアドリブ哲学について語っています。

 

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 ロリンズの目指すジャズの即興演奏感は「禅」ともいえる精神性重視のものでした。

 ロリンズによれば、アドリブとは絵を描くのと同じで、「潜在意識とのコミュニュケーション」と言います。楽曲のメロディやハーモニーを徹頭徹尾学習した挙句、一旦すべての情報を意識から追い払った無我の境地、トランス状態で、潜在意識から出てくるサウンドに従って表現するというのです。ロリンズが麻薬に耽溺した時代があったのは、他の理由があったにせよ、ドラッグはやはり彼の音楽哲学に影響を与えているように感じました。

  「より高度な即興演奏」を突き詰める姿勢は、明らかに、彼が師と仰ぐチャーリー・パーカーを見習ったものでしょう。

 

 チャーリー・パーカー達が創造したビバップという音楽の形は、絵画でいうなら、ピカソやブラック達が展開したキュビズムと少し似ているように思えます。キュビズムは、描く対象を完璧に理解した上で、一旦解体し、再構築することによって絵画的真実を追求するというものですから、楽曲の骨組みだけ残して、鮮やかに疾走する音楽を作り上げたバッパー達の手法と似ていると常々感じていたのですが、ロリンズのインタビューを読んで、一層納得しました。一方、キュビズムのアーティストたちが、アフリカ芸術や楽器に霊感を得たというもの、偶然なのか、必然なのか、興味がつきません。

 

 音楽は自然界を見習って想像する芸術ではありませんが、芸術家の視点は似ているんだと改めて感じました。キュビズムのさきがけとなったのはセザンヌの不自然な静物画だということになっていますが、ジャズのセザンヌは誰だったのでしょうか? 

 ”St.トーマス”に見られる、ロリンズのルーツであるカリブ海の要素も、ロリンズ自身は、潜在意識に備わっていると信じていたのかもしれません。豪快な演奏の裏には、自分自身を追及する哲学のまなざしがあるんだな・・・インタビューを読むと、ロリンズの真摯な気持ちが伝わってきます。

 

 新足跡講座は2月9日(土)に!ぜひご参加ください!

 

CU

 

 

OverSeas2月のイベント

 阪神・淡路大震災から18年、あの時、OverSeasのあったビルは2階から上の窓ガラスが粉々になり、それでもランチを作って昼過ぎまで営業したのが昨日のことのようです。

 今週の月曜お昼に開催した「楽しいジャズの歴史」、新たにジャズを聴いて行こうという新しい仲間も増え、文字通り楽しい集いになりました。

 来月の休日にも、2つの講座を開催します。ご興味のある方はぜひお越しになってください!

その①:【日時】2月3日(日) 正午~2pm
テーマ:George Shearing pianist

【受講料】2,100yen

 

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  ジョージ・シアリング(1919-2011)といえば、「バードランドの子守唄」や、ヴァイブやギターで繰り出す、いわゆるシアリング・サウンドのイメージが強いかもしれません。

 

 でも、ジョージ・シアリングの本当の魅力は、そこだけにとどまりません。最高のテクニックと完璧なタッチを持つヴァーチュオーゾ!パーカッシブにガンガン弾けばダイナミックな演奏ができると信じている方は、ぜひ映像と音楽を体感してみてください。ピアノを「弾く」ということの本当の意味が実感できると思います。

 同時にシアリングは“Play”という言葉の意味を知っている人でもあります。生来の音楽的センスの良さと、ボーダーレスにどんな音楽でも、自分の栄養として取り込んでしまうモダンアートのようなコラージュ、例えば、ベートーベンのピアノソナタ14番「月光」からコール・ポーターの「Night and Day」に入っていくアレンジも、シアリングが演ると、200年以上の年月を一緒にタイムスリップしているような不思議に自然な高揚感を味わうことができます。

  ロンドンの下町生まれ、パブのピアニストとして出発したシアリングは、ラジオで人気を博します。第二次大戦後渡米、サラ・ヴォーンの対バンとしてスタートしてから、たちまち人気者になり、「バードランドの子守唄」や「9月の雨」で破格のギャラを稼ぐスター・ピアニストとなりました。そのため、同世代の黒人ミュージシャンの中には反感を持つ人も多かったようです。でも、トミー・フラナガンはシアリングが大好き、寺井尚之に聞かせたいピアニストの一人でした。

 生来盲目だったシアリングは、生涯「色」というものを知らずに過ごしましたが、彼のサウンドのカラーパレットは無限!ぜひ2月3日(日)に一緒に観ましょう、聴きましょう!

 

その②:【日時】2月11日(月、祝)   正午~  

テーマ:Billie Holiday singer

【受講料】2,100yen

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   ビリー・ホリディ(1915- 1959)は、このブログの「対訳ノート」にも頻繁に登場してきました。とにかく、トミー・フラナガンを始め、多くのミュージシャンに大きな影響を与えた歌手です。「スキャットをしないからジャズ・シンガーでない」というような文章を読んだことがありますが、この講座に来れば、真実が明らかに!

 売春、暴力、刑務所、麻薬、彼女を食い物にする男たち、彼女の人生には、スターにつきものの、ありとあらゆる不幸な出来事に溢れています。

 南部で頻発していた黒人に対するリンチに抗議した「奇妙な果実」を歌ったことから、ビリー・ホリディの名声は更に大きなものになりましたが、麻薬癖を摘発され、キャバレーカードを剥奪されNYのクラブ出演ができなくなったのはのは、当局の見せしめ的な所為があったのかもしれません。

 そんなビリー・ホリディの人生よりも大きなドラマは彼女の歌唱の中にあります。

 今回は、数多くあるレコードの中から、ホリデイ・マニアを自認する寺井尚之が選りすぐりの歌唱をセレクトして、歌詞対訳を観ながら解説していきます。

 ビリー・ホリディって名歌手と言われてるけど、イマイチピンと来ないな~ そう思っている方にこそ参加していただきたい講座です。

 2月の休日は、ぜひOverSeasで! 関連サイトはこちらです。

オスカー・ペティフォード(1922-60):アメリカ先住民とジャズ

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 今週の新「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、『Oscar Pettiford in Hi-Fi』から、フィル・ウッズ(as)『Pairing Off』、超人気盤、ソニー・ロリンズ『Saxophone Colossus』(前篇)まで。3枚とも、主役、脇役、双方が強烈な輝きを発散し合う名盤ばかり!

 『Oscar Pettiford in Hi-Fi』は、ハープやフレンチ・ホルンを完璧にジャズに取り込むジジ・グライス(as)達編曲陣のスゴ技も聴き所!ペティフォードは自らが主催するジャムセッションに参加したNY進出直後のトミー・フラナガンの実力に、いち早く着目し起用したのでした。そのころペティフォード34才、フラナガン26才!

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<チェロキー!>


AI03.jpg オスカー・ペティフォードはアメリカ先住民が多く住むオクラホマ州、オクマルギー群に生まれた。母はチョクトー族、父はチェロキー族とアフリカ系アメリカ人の混血、そんな彼の血脈は親しい仲間しか知らなかった。昔は「先住民の血筋は隠すべき事柄」だったとか・・・とはいえ、『In Hi-Fi』に収録されているジジ・グライスの颯爽とした作品”Smoke Signal”は先住民のコミュニケーション手段、「のろし」です。
 
 イリノイ・ジャケー、ミルドレッド・ベイリー、チャーリー・パーカーなど、先住民の血を引くと言われるジャズメンは多い。トミー・フラナガンの祖母も先住民との混血だったそうです。フラナガンによれば、黒人と先住民の結婚はごく一般的なことだった。だとすれば、ジャズという音楽は、アフリカ大陸のDNAとヨーロッパ音楽の融合と言われているけれど、アメリカ先住民の音楽的要素も含まれているのではないでしょうか?
 どうやらペティフォードは、同じ4/4拍子でも、ヨーロッパ音楽、アフロアメリカン、インディアンのタイム
はそれぞれに違うということを深く理解して音楽を作ったらしい。
 何百曲というペティフォードのオリジナル曲にも、ネイティブ・アメリカン的ば要素があるのだろうか?その辺りのことを研究している人はまだまだ少ないようですね。ペティフォードのチェロやベースのサウンドは、どれほど凄い技巧を駆使しても、木の持つ温かみの奥に熱い鼓動が脈打つ独特の手触りを感じます。あれはペティフォード個人の魅力なんでしょうか?それともネイティブ・アメリカンのDNAなんでしょうか?
  

 

 ペティフォードは10人兄弟の大家族、幼少から高校卒業する頃まで、父親をリーダーとするファミリー・バンド”ドク・ペティフォード楽団”一員としてミネアポリスを本拠に演奏活動をしていました。幼い時は歌と踊り、12才でピアノ、14才でベースを始めた。兄弟全員が複数の楽器に習熟する凄い家族。例えば、姉、レオンタインはピアノや編曲もこなす才女で、あのレイ・ブラウン(b)を教えたこともあった!兄のアロンツォは後にトランペット奏者としてライオネル・ハンプトン楽団に入団。他にもコールマン・ホーキンスばりのテナーを吹く兄や、美形の姉妹がドラムを担当していた。

 40年代初め、キャブ・キャロウエイ楽団がミネアポリスを訪れた際、ベーシストのミルト・ヒントンが地元のクラブで”ドク・ペティフォード楽団”を発見し、オスカーの余りのうまさにびっくり仰天、バンマスのキャブ・キャロウエイまでオスカーをたいそう気に入ってヒントンはあやうくクビになりかけた。以来、ヒントンとペティフォードの交流は続き、一時オスカーがベースを辞めようと真剣に考えた時に、続けるよう励ましたのもヒントンでした。ミネアポリスの雄、ペティフォードの噂は広まり、チャーリー・バーネット楽団に入団、チャビー・ジャクソンとダブル・ベース・コンビでブレイクするものの、闘志むき出しのアグレッシブな性格が軋轢を生み退団。’43年からNYに定住し、ビバップ・ムーヴメント最前線のベーシストとして活躍、デューク・エリントンやウディ・ハーマンなどの一流楽団で人気を博しました。

 

 <破天荒なカリスマ>

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 ウディ・ハーマン楽団時代は、野球の試合で腕を骨折、ほぼ一年の静養中にチェロに習熟したそうです。ギブスをはめて平然のすごいプレイしていたとか・・・酔うと、お金がないのに、いいかっこしてタクシーで遠距離ドライブ、そのたびにハーマンがタクシー代を払いに行ってたとか。

  喧嘩はめっぽう強くて、バイオレントなことでは負けないチャーリー・ミンガスを一発でKOしたとか・・・今なら大スキャンダルになる逸話には事欠かない天才でした。
 

  「神から与えられたお役目」として音楽にひたすら打ち込むひたむきな姿に、「この人の為ならギャラなんて要らない!」という子分が多かった人。

 『In Hi-Fi』を聴いていると、緻密でクールな音楽性の中に、あふれ出る音楽への情の深さが感じられて、心が洗われるように感じます。でも、天才ペティフォードにとっても経済的に楽団を維持するのは並大抵のことではなかった。バンドが経済的に破たんした後渡欧し、38才を目前にコペンハーゲンで客死しています。

 以前、NY在住のYAS竹田君が、地下鉄の72丁目駅でベースを抱えて降りていくと、駅員さんがオスカー・ペティフォードの甥っこだったそうです。奇遇ですね!

 

 土曜日はペティフォードのカリスマ性を感じながら、ハードバップのサムライたちに一緒に乾杯しましょう!

 

 お勧め料理はハーレム風、ポーク・ビーンズを炊いておきます。

 

CU

1/14(月、祝)「楽しいジャズ入門講座」開催します。 

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 あけましておめでとうございます!皆様のお正月はいかがでしたか?

 寺井尚之は、正月も練習&講座の準備、夜は時代劇で過ごしています。The Mainstemの宮本在浩(b)&菅一平(ds)はスキー三昧のお正月、新年は雪の結晶のようにクリア・クリスタルなプレイが聴けそうですね!昨日は一日オフラインでゆっくりさせていただきました。
 
 ライブは1月5日(土)の寺井尚之(p)+坂田慶治(b)デュオ(Live Charge ¥1,575)から平常通りお楽しみいただきます。ぜひお待ちしています!

<新春特別企画>

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 ネット上でも、「ジャズが大好き!」という気持ちが伝わる楽しいブログを見つけてうれしい気持ちになることがあります。私たちをこんなに惹きつける「ジャズ」はどんな風にして生まれたのでしょうか?アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられた黒人たちが創造した音楽ということは、みなさんどなたもご存じですが、何故アフリカにジャズは生まれなかったのでしょう?

 そんな素朴な疑問から、さまざまなジャズ・スタイルの変遷までを、わかりやすく簡潔に!新年14日祝日の正午より、寺井尚之が面白く楽しく解説するイベントを開催いたします。

 ジャズ発展の背景にある激動の現代史と共に聴くジャズは、また違った印象になるかもしれません。

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 特別価格でどなたでもご参加になれます.。特に学生証をご提示くださると受講料はたったの¥525!ぜひこの機会に覗いてみてください!

「楽しいジャズ入門講座」

it_music.gif2013年 1/14(月、祝) 正午~2pm

講師:巨匠トミー・フラナガンの随一の弟子 寺井尚之(てらい ひさゆき)

受講料:(特別価格) ¥1,000 (税別:学割チャージ半額)

申し込みの締め切りは 2013年 1月10日までとさせていただきます。