トミー・フラナガンの親友でありピアノの名手、知性と知識を兼ね備えたジャズ・ライター!我らがディック・カッツ氏がMosaicのボックス・セット、『The Complete Capitol Live George Shearing』のために書いたライナー・ノートのサワリの部分をここに和訳して掲載いたします。
著者、ディック・カッツ氏とトミー・フラナガン
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ジョージ・シアリングがロンドンで送った子供時代、それは、決して「バードランドの子守唄」あるいは、どこかよその子守歌のようなものでもなかった。ぎりぎりの貧困での生い立ちから、裕福な音楽的有名人としての成功は、ハリウッドの黄金期の映画さながらに、ボロ服から大金持ちへの大転換だった。
勿論、彼のスタートも慎ましいものであった。1919年8月13日、9人兄弟の末っ子として、生まれながらの全盲として誕生。父は石炭人夫、母は子供達を世話する傍ら、夜は列車の掃除婦として働いていた。
ジョージの学歴は控え目に言っても多彩なものだ。1987年、文芸誌「ニューヨーカー」で、シアリングはホイットニー・バリエットにこのように語っている。
「3才の時に伊達男を気取って音楽を試みたものの、方法が不適切で・・・トンカチでピアノをガンガン叩いたものです。」 これはロンドン南西部、バターシーの「シリントン・スクール」の出来事だ。
12才から16才の間は、緑多い田園地帯にある寄宿制盲学校、「リンデンロッジ」に在学。入学は強制的なものではあったが、ロンドンのすすけた下層労働階級から逃れ、ほっとできる喜ばしい機会であった。彼がバッハ、リストなどクラシックの作品の弾き方や音楽理論を学んだのもそこ「リンデンロッジ」である。
卒業後、パブのピアノ弾きの仕事にありつく。そしてほどなく、クロード・バンプトン率いる全盲ミュージシャンで編成した17ピースのバンドに加入する。紳士服で有名なサビルロウで仕立てのユニフォームでの仕事は、フィナーレには6台のグランドピアノが並ぶという、彼の最初の大仕事であった。リーダー以外、全員が視覚障害者で、譜面はシアリングが概に学んだ点字譜に書き直された。そこが若きピアニスト、シアリングと生のジャズとの初めての出会いである。楽団で、ジミー・ランスフォード、エリントン、ベニー・カーターなど名楽団のアレンジを演奏した経験がシアリングに大きな刻印を残した。やがて、当時最新の、アート・テイタム、ルイ・アームストロングなど一流ジャズメンのレコーディングを聴き始める。
さて、ここで若く熱意にあふれた、新進気鋭の批評家レナード・フェザーの登場となる。「リズム・クラブ」のジャムセッションでシアリングを聴いたフェザーは、この若きジャズの修行生にできるかぎりの援助を申し出た。シアリングわずか19才の時に、フェザーはレコーディング、ラジオ出演の御膳立てをした。おかげで1939年迄に、英国のジャズピアニストの人気投票で第1位に輝き以後7年間その地位を守り続ける。それまでに、主要な米国のジャズピアニストのスタイルを習得し、しばしば「英国のアート・テイタム」あるいは「テディ・ウイルソン」あるいは「No1ブギウギピアニスト」という称号を贈られた。だが、この贈り物は後に逆効果を生むことになる。
早くからグレン・ミラー、メル・パウエル(p)、そしてファッツ・ウォーラーから支持され、勇気を得たシアリングは、もはや英国に留まって活動すべきではないと感じていた。大戦後の1946年,、アメリカのジャズ界で腕試ししようと渡米。期待は大きかったが、その顛末は後の1986年、NYタイムズでジョン・S・ウィルスンに語ったとおりである。
「私は芸能エ-ジェントに会いに行き、演奏を聞かせました。テディ・ウイルソンやアート・テイタム、ファッツ・ウォーラーの様に弾いて見せますと、こう冷たく尋ねられました。『他には何ができるんだい?』って…」
アメリカでは、自分の真似た本家が、いつでも生で聴けるのだと悟ったシアリングは、聴衆にアピールする自分自身のアイデンティティを確立する必要性を痛感、そして帰国。再び腕を磨いてから1年後に再渡米した。
再挑戦の初仕事は52丁目にあるクラブ、「オニキス」でサラ・ボーンの対バンとして演奏することであった。彼のピアノの卓抜さはすぐに注目の的となり、ミュージシャンの口コミも彼の評判を確立するのに役立った。
洗練された彼の演奏は、折衷的であるにせよ、確かに驚異的ではあった。とはいえ、まだまだ音楽的に”自分自身のヴォイス”を確立するところまでは行かなかったのだ。だが、その”ヴォイス”が生まれるのも、長くはかからなかった。
1949年1月、彼はカルテットを率いてブロードウェイ、「クリーク・クラブ」に出演、クラリネットのバディ・デフランコをフィーチュアしスムーズなボイシングと微妙なリズムのアプローチを強調し、ドラマーであり作曲家、ブラシ・ワークの名人、デンジル・ベストが、グループのサウンドを周到に計算した。2週間後、デフランコは別の契約の為に退団。シアリングの米国への移民手続きをしたレナード・フェザーはグループにユニークなサウンドを与える方法を思いついた。ドラムのベストと、後にマネージャー となるベースのジョン・レビーはそのままにして置き、シアリングはバイブのマージョリー・ハイアムスとギターのチャック・ウエインを新たに加入させ、それが決定的な転機になった。昔のグレン・ミラーのグループを模したオクターブ・ユニゾンのボイシングのおかげで、完璧にユニークなクインテットのハーモニーを手中に収めたのだった。その頃、シアリングが会得していた「ロック・ハンド」といわれるブロックコードで、ギター+ヴァイブラフォンのラインを肉付けした。そのピアノスタイルの元祖はデトロイト出身のミルト・バックナーだが、シアリングは、もっと完璧な和声感覚で、コードを驚異的なスピードで変化させ、自分のアドリブの番になると、更に聴衆を驚嘆させてみせた。一方、ナット・キング・コールもまたブロック・コードで大成功を収めたが、キング・コールの場合は非常に繊細で、スイング感のある使い方だった。
NY、「ダウンタウン・カフェソサエティ」とシカゴ、「ザ・ブルーノート」のギグを皮切りに。グループはNYの高級クラブ、「ジ・エンバーズ」と当時のジャズのメッカ、「バードランド」に出演。成功は目前であった。
そしてMGMが”9月の雨”を録音、1949年2月に発売するや否や、シアリング・クインテットは全国的な名声を掴んだ。それは驚異的なヒットだった。その後はジャ
ズ史と商業音楽史そのものである。引き続き多くのヒット曲が生まれたが、それらは皆同様のアレンジの方程式を使っており根本的には同じサウンドであった。アレンジは元々シアリングとマージョリー・ハイアムスとで分担していた。ハイアムスは素晴らしいバイブ演奏家でもあり、優美で堂々とした存在感を印象付けた。ジャズのバンドスタンドに女性がほとんど居なかった時代のことである。(例外はメアリー・ルー・ウィリアムズと、マリアン.マクパートランドだけである。)
このグループのユニークなアイデンティティは以後29年間持続する。そして先のNYタイムスの記事でシアリングが語っている様に「最後の5年間、僕は自動操縦状態でプレイしていた。寝ながらでも、ショウを最初から最後まで通して演ることができた。」という状況に陥る。
1978年、クインテットは解散、以来シアリングは、主にカナダ人のドン・トンプスンやニール・スウェインスン達、トップの技量を持つベーシストとデュオで活動してきた。また交響楽団とモーツアルトで共演したり、メル・トーメや、カーメン・マックレー、ジム・ホールなど彼のお気に入りのアーティストとの共演など様々に活動の範囲を拡大してきた。それ以外にNYのラジオ局WNEWでDJを勤め、ワークショップで教えたりしている。
1949年~1978年、クインテットは度重なるパーソネルの交替を行ったが、このグループを出発点としてメジャーに成ったアーティストは極めて多い。幾人か名前を挙げると、ヴァイブではゲイリー・バートン、カル・ジェイダー、ギターではトゥーツ・シールマンス、ジョー・パス、リズムセクションでも、デンジル(ベスト)以外にベストなプレイヤーが居る。時代の移り変わりに従って、アル・マッキボン(b)、イスラエル・クロスビー(b)、バーネル・フォーニエ(ds)達が、グループのサウンドにきらめきを与えた。クロスビーとフォーニエは、アーマッド・ジャマール(p)トリオの成功にも、大きな役割を占めている。
1954年になるとシアリングは、コンガ奏者、アルマンド・ペラーツァをグループに加入、ラテンリズムを徐々に導入することで、グループはしばしば、純正のアフロキューバン・バンドのようにサウンドした。特にシアリングは、アフロ・キューバンのイディオムを完璧にマスターしていた。
また、シアリングは、ピアノ同様、創造性に溢れた卓抜な作曲家であることを証明している。”バードランドの子守歌”、そのクラブに出演したアーティストにとって、礼儀上、不可欠な演奏曲目と成っただけではなく、いつの時代でも最も頻繁に演奏される、実り多いジャズスタンダードとなった。他にも”コンセプション”のような複雑なビバップのメロディ(バド・パウエルの愛奏曲であった)や、彼のもっとも人気を博したイージーリスニング・アルバムのタイトル曲で、コマーシャルなボレロ風の作品”ブラック・サテン”なども作曲している。
シアリングのクインテットが、よりコマーシャルなサウンドに変化すると、『政治的正当性』を重んじる派閥のジャズ・ジャーナリズムの態度はシアリングの才能に対して冷淡に成った。「コマーシャル」ということで、こっぴどく叩かれたのである。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンでさえもが、ショウビジネスの現実にへつらったといって、不興を買ったのあるから、シアリングは純粋主義者の魔女狩りに合った最初の一流ジャズ・アーティストではない。
’50年~’60年代の評論家連中は、ジャズに生きながら、余りにも経済的に成功することに我慢がならなかった。アーティストは成功すればするほど、コマーシャルになったと非難されたのだ。
耳に聞こえたものは、殆ど何でも全て自分で演奏してみせてしまうシアリングの能力は、逆に彼自身の真の創造性をわかりにくくしてしまう傾向があった。仲間を形容する為に、良い耳でミュージシャンのフレイズを借用して、彼らを描写するジョージにはどんなに細かい微妙な音でも聞き分けることができた。
だが彼が、ジャズやそれ以外のどんなスタイルでも真似できるから、「何でも屋」というわけでは決してない。むしろ多国語を流暢に話すことのできる人のようなもので、言葉の代わりに、スイング、ビバップ、ラテン、クラシックを問わず、彼の想像力を刺激するものなら何でも、自分のピアノの鍵盤にも譜面の上にでもいとも容易に写し取ることができるのだ。
勿論、彼の作曲は、目の見える筆記者に書き取られることが多い。批判的な評論とは逆に、口述筆記されるということに関する贅沢な悩みを、アンサンブルのサウンドに投射してみせるのは、むしろポジティブなことだ。結局のところ、そのクインテットは、ジャズ界にも、一般大衆にとっても、大いなるレコードの遺産をもたらしたのだった。
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ビジネスの成功と真の評価、その間の葛藤を露ほども見せず、至芸を磨いたジョージ・シアリング、あなたはどの時期のシアリングがお好きですか?日曜日にゆっくり鑑賞してくださいね!
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CU