トミー・フラナガンが全キャリアを通じて、最も敬愛したボスがこのコールマン・ホーキンス!トミーがソニーと仲良しだったのは、ホークへの想いを共有する同志愛だったのかも。名盤『Hawkins ! Alive ! at the Village Gate』(V6-8509)が同年8月録音ですから、手紙に書かれたホークの演奏もフラナガン達がバックを務めていたに違いありません。
Sir Roland Hanna and Hisayuki Terai at Itami Airport, Osaka, 1990
=ハナさん=
Sir Roland Hanna (1932 2/10-2002 11/13)
サー・ローランド・ハナ没後22年、トミー・フラナガンが、寺井尚之とJazz Club OverSeasの「親父」なら、サー・ローランド・ハナはモノンクル、まさに「叔父貴(おじき)」だった。二人は、ともにデトロイト生まれで、多くのミュージシャンを輩出した市立ノーザン・ハイスクールの卒業生だ。ハナさんはフラナガンの2学年下、フラナガン夫妻は感謝祭になると、ハナさん家で食事を共にする親戚付き合いが続いた。不思議なことに、2人は誕生日も命日も近い。そのため、寺井がハナさんのトリビュート・コンサートを行なうことが困難だった。(T.Flanagan 1930 3/16生-2001 11/16没, Sir Roland 1932 2/10生-2002 11/13没)
Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。
Joe Turner
西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」 一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う. 午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」 噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。 弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ! それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。 それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。 (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)
Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。
テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。 テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。 二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。 特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。 (出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)
=カーメン・マクレエ(vo)の証言= Carmen McRae (1920-94) ビバップの誕生に立ち会い、ビリー・ホリディの生き様を見て育った大歌手。
ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど… (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)
なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。
ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。
これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021
永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。
George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický
1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。
録音曲は、企画段階で〈Uptown Records〉のスネンブリックが〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉など、スタンダード曲を含めた30曲の録音候補リストを作成したが、アダムスは候補曲をことごとく却下、結局候補リストから彼が選んだのは唯一曲、フォスターが作曲し、彼のデビュー盤『Here Comes Frank Foster』(BlueNote ’54)に収録した〈How I Spent the Night〉だけで、一体、他にどんな曲を録音するのか?二人のプロデューサーはスタジオに入っても、さっぱりわからなかったのだそうです。つまり、A&R(アーティスト&レパートリー)もアダムスが仕切った結果のアルバムなのです。
余談ですが、フォスターは〈How I Spent the Night〉の譜面はもう持っていなかったので、自分のアルバムを聴いて、譜面起こしをする羽目になったのだとか…
先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、オープニングのブルース〈Binary〉での6小節交換や、〈How I Spent the Night〉のアウトコーラスで8小節のみテーマを提示して余韻をもたせる粋な手法など、演奏構成の隅々に溢れるデトロイト・ハードバップのエッセンスを寺井尚之が具体的に提示してくれたので、さらに楽しく鑑賞することができました。
ペッパー・アダムスがこのアルバムに収録オリジナル曲のタイトルを見ても、このアルバムが最期になるとわかっていたのではないかという気がする。自らのアイルランド(ケルト人)の血を意識した〈Valse Celtique(ケルト人のワルツ)〉息子ディランに捧げた〈Dylan’s Delight〉、妻に捧げた〈Claudette’s Way〉、そして〈Now in Our Lives(我々が生きている間に)〉には、アダムスの覚悟が伝わってきます。