春のトリビュート・コンサートは3月15日(土)に!

tommy1984.jpg   tribute_logo-1.jpg

 暴風雪!先週は大阪にも雪が積もりました。トミー・フラナガン愛好会の石井夫妻の経営される、トミー・フラナガンや寺井尚之の音楽が流れる「森の中の絵本館」(山梨県山中湖村)が、先日来の大雪で2月20日現在も孤立状態です。コンビニの商品が枯渇していても、食料の備蓄は充分だそうですが、一刻も早い復旧をみんなでお祈りしています。

 さて、3月、トミー・フラナガンの誕生月に毎年OverSeasで開催するコンサート、”Tribute to Tommy Flanagan”、第24回は誕生日の前日、3月15日(土)に行います。

 毎年春にはトミー・フラナガンが愛奏していた春の名曲(Spring Songs)が聴けます!例えば”They Say It’s Spring “には、在りし日のフラナガンが居た頃のNYの風情が感じられます。さらに、圧倒的なフラナガンの十八番を、寺井尚之(てらい ひさゆき)のレギュラー・トリオ”メインステム”(宮本在浩-bass、菅一平- drums)がお聴かせします。

terai_hisayuki_practice75.JPG 寺井尚之はトリビュートのために、毎日が練習中心の生活。トミー・フラナガンが好き、練習が好き、その点では誰にも負けません。ピアノのコンディションは早々と出来上がっていて、乾燥気味の気候に拘らず、恐ろしいくらい冴え冴え響きわたっています。

共演の宮本在浩(b)、菅一平(ds)も負けじとプレイをしっかり磨いております。メインステムにとって、トリビュートの演目は決して「ネタ」ではなくて「宝物」!皆様に心から楽しんでいただける演奏をお聴かせいたします。

zaiko_miyamoto_0219P1070620.jpgsuga_ippei_IMG_3026.jpg 皆様のお越しをぜひお待ちしています!

第24回Tribute to Tommy Flanagan>

日時:2014年 3月15日(土) 7pm-/8:30pm-(入替なし)

前売チケット3,000円(税抜価格) 

当日3,500円(税抜価格)

演奏:寺井尚之The Mainstem Trio :宮本在浩(b)、菅一平(ds)

 フライヤー:tribute _24th-2014.pdf

その男、凶暴につき(2):ルーレット・レコードCEO、モリス・レヴィー

morris_levy_from_uncanny_com.jpg

Morris Levy (1927-1990)

 禁酒法時代、ジャズは密造酒に洗われ、ずいぶん垢抜けた。カポネは大恐慌の後脱税容疑で投獄。1947年、梅毒で脳を侵されて見る陰もない最期だった。財布に入りきらないお札を、弱い黒人ミュージシャン達に多少なりとも分け与えたアル・カポネに比べて、音楽界のドンとして君臨したギャング、モリス・レヴィーのやり方は、ミュージシャンの著作権を奪い、クスリやギャンブルで二重三重に絞り上げるという卑劣極まりないものだった。
 だからといって、カポネが音楽を愛する善人で、レヴィーが真正のワルだったというわけではないのだろう。カポネの時代、音楽は美しいダンサー達のショウの添え物的な存在でしかなかったし、莫大な利益をむさぼる対象からはずれていただけなのかも知れません。

 第二次大戦中、マフィアは「暗黒街工作員」として連合軍勝利のために命を張って手を汚した。戦争に勝った後、ルーズベルト大統領はその見返りとして、ヘロインの密輸を黙認、麻薬の売買は密造酒に変わる主要産業になった。また砂漠のど真ん中にモルモン教徒が開拓したネバダ州に、カジノと娯楽の聖地ラスベガスを建設したのもマフィアの功績(?)だ。

<ビバップのフィクサー>

BopcityPC02.jpg

 L1.jpg 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したプランジャー・ミュートの達人、タイリー・グレンのアルバム『Let’s Have a Ball』や、1月同講座で聴いたカウント・ベイシー楽団とジョー・ウィリアムス&LH&Rのコラボ盤『Sing Along with Basie』をリリースしたレコード会社は“Roulette Records”。このレーベルのオーナーはラジオのDJ、シンフォニー・シドと組みビバップ・ブームを大いに盛り上げた流行の陰の立役者で、音楽業界のドンとなったモリス・レヴィーです。

 その男、実は、NYのマフィアのうちでも五本の指に入るジェノヴェーゼ一・ファミリーの一員、 一家を束ねた親分は、泣く子も黙るヴィトー・ジェノベーゼ、映画”ゴッドファーザー”のモデルのひとりだった。映画でマーロン・ブランド扮するヴィトー・ドン・コルレオーネは地域の争い事を収め、麻薬売買には断固反対した侠客でしたが、そんなこと言ってちゃ食べて行けない。現実のジェノヴェーゼ一家は博打、クスリ、売春、ボクシングその他の興行、金融業など、手広く事業展開する大実業家、その中の音楽エンタメ部門を仕切った幹部がモリス・レヴィーだった。本名モーセ・レヴィー、シチリアではなくてユダヤ系。NYブロンクス出身で、13才のとき、御年75才の担任教師に暴行を働き放校処分、それ以来ヤクザ稼業一筋、ほんとはこういう人を「Mean Streets」と呼ぶのでしょうね。

 

 

Letshaveaball.jpg 若いころはフロリダの高級クラブで丁稚奉公した。カワイコちゃんが店内のお客様の記念写真を撮影すると、お客さまが帰るまでに現像してお渡しするサービス係を務め、暗室の現像技術を取得した。きっと隠し撮りされて恐喝されたお金持ちもいたんでしょうね… モリスはこの土地でクラブ経営のノウハウを学んだ後、NYに舞い戻り、Topsy’s Chicken Roostという店の経営に関わります。折しも到来したビバップ・ブームに便乗して、店は”Royal Roost””Bop City”と屋号を変え有名ジャズクラブとなりました。人気ディスク・ジョッキー、シンフォニー・シドと組んで、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンといったスターをブッキング、ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げた。ここからモリスは、ラジオでPRしてくれるDJを味方につけることがいかに大事を身をもって学んだ。それと平行して”Roulette Records”を設立、ビバップのレコード・レーベル”Roost”を買収、”Birdland”レーベルではPrestigeのボブ・ワインストックと組んだり、ジャズにかぎらずR&Bやスタンダップ・コメディのレコーディングなど多方面で、どんどん事業展開、ビバップ、ハードバップ期の象徴的クラブ、”Birdland”を設立した。前述のタイリー・グレンがフラナガンやハンク・ジョーンズと常時出演していたアッパー・イーストサイドの高級レストラン”The Roundtable”は、”Roulette”で得た利益を投資して開店したからラウンドテーブルという屋号になったのです。

 『Let’s Have a Ball』(’58)は、この店のオープンと前後にリリースされたアルバム、レコードが売れれば店が繁盛し、店で生演奏を聴けばレコードが売れるという仕組みです。

<カウント・ベイシーとルーレット>

Count+Basie+-+Sing+Along+With+Basie+-+LP+RECORD-385356.jpg

 カウント・ベイシー楽団は、前述の『Sing Along with Basie』を含め20枚以上ものアルバムを”Roulette Records”に録音してる。名門コロンビア・レコードの司令官ジョン・ハモンドが面倒をみたベイシーが何故多く録音をしたのか?これが私にとって長年の「謎」だったのですが、トニー・ベネットの自伝(The Good Life: The Autobiography Of Tony Bennett)を読んで疑問が溶けた。そこにはベイシーが知る人ぞ知る無類のギャンブル好きであったことが書かれていた。カウント・ベイシーは、博打で負けてレヴィーに莫大な借金があったのです。ベネットとベイシーのゴキゲンにスイングする共演盤『Basie Swings, Bennett Sings 』さえも、借金のカタとして録音されたものだった。ベネットはこんな風に書いている。
basie43.jpg 「レヴィーはミュージシャンの骨の髄までしゃぶる古典的悪党だった。噂によれば、カウント・ベイシー楽団員全員がレヴィーの会社の従業員として強制的に演奏奉仕させられた挙句、1セントの著作権料も支払われなかったらしい・・・」
 名門ジャズクラブ、”バードランド”にベイシー楽団は何度も出演しているけれど、最高に楽しい演奏のギャラは雀の涙(peanuts)だった・・・
 ミュージシャンを徹底的に搾取するレヴィーの商法、20才そこそこの若きジャズ・ミュージシャン達が創造するビバップ・ムーヴメント、その演奏の場所を経営する団体がヘロインの売買を主たる産業にしていたのですから、彼らがドラッグ浸りになったって何も不思議ではないですよね。
 

<版権ほど素敵な商売はない>

morris1.jpg
 モリスの手がけた店で最も有名なのがチャーリー・パーカーの名前を拝借した“バードランド”、実質的な経営者は弁護士の肩書を持つオスカー・グッドスタイン、モリスは6人の共同経営者のひとりとして財務を担当していました。彼が音楽業界のドンにのし上がったきっかけがここにあります。或る日、ASCAPの職員が音楽家や出版社の代理人として、バードランドに対し演奏著作料を請求しにきた。顧問弁護士(恐らくグッドスタイン)は、その請求は完璧に合法的だから払いなさいと言う。そうか!「著作権」があれば、寝ててもお金が入ってくるんだ!目の前に「宝の山」があったことに気づいたレヴィーは、この著作権法を逆手に取って一儲けしようと決意。最初の妻の名を取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立し、バードランドで初演される楽曲の著作権をせっせと取得した。その中で最も有名なのものが、バードランドから発信されるラジオ番組のテーマソングとして大ヒットした”Lullaby of birdlande5f.jpgBirdland”(1952)。作曲家であるシアリングは、店のレギュラー・ピアニストで、わずか10分でこの曲を創ったと言います。いったい彼がどのような手段を使ったのかはわからないのですが、後になって、出版権をレヴィー、作曲著作権をシアリングに、ということで折り合いがつき、シアリングにも莫大な印税が毎月転がり込んできた。レヴィーが、この著作権事業を更に拡大するため、1956年に設立したのが「ルーレット・レコード」で、それからは作曲著作権も独り占めしようと、新人の契約書を工夫した。とにかくミュージシャンに対しては、おこぼれをあげるどころか、ぼったくる主義を貫徹。恐らくモリスにとって音楽家は単なる消耗品にすぎず、いくらでも代りがあるものだった。ヒットは楽曲ではなくPRによってのみ作られる、という信念があったんでしょう。

 モリスを良い人間だと褒めているのはディジー・ガレスピーくらいで、自伝には「未払のギャラを請求しに行ったら靴箱一杯の札をくれた。自宅の敷金を無利息で肩代わりしてくれる親切な男」と書いてある。しかし、この伝記が書かれた時期を考えると、全くの本心かどうかはわからない。

  

<ロックンロール!>

 

Alan_Freed_1957.JPG  レヴィーは、ロックンロールの創成にも大きく貢献した。その時代、レヴィーが最も重要視したのは音楽の作り手ではなく流行の作り手、つまりラジオのディスク・ジョッキーたち。 レヴィーはラジオの番組のヒット・チャートに自分の楽曲を優先的に流すために、ミスター・ロックンロールと言われた伝説のDJ、アラン・フリードはじめ数々のディスクジョッキーを接待漬けにした。DJの給料はとても安いから接待にはイチコロだった。レストランもホテルも沢山持ってるギャングだから、お・も・て・な・しは得意です。豪華ディナーやただ酒をたらふくごちそうしてから、自分の高級車を提供して乗り回させる。助手席には高級娼婦がもれなくついて… 勿論、現金だってたんまり包んで渡すものだから、レヴィー傘下の曲はラジオでガンガン流れた。レヴィーは、その代わりにフリードの造った”rock & roll”という流行語の所有権を独占し、使用権を徴収していたというからたいしたもんだ。やがて、DJが賄賂と接待にまみれながらヒット曲を操作していることが大きな社会問題となりますが、糾弾されたのはDJで黒幕はお咎め無しだった。内田裕也さんもレヴィーがいなくなってよかったですよね!

 大実業家として、「音楽業界の蛸」「ゴッドファーザー」と雑誌で賞賛されたモリス・レヴィーは、マンハッタンの超豪華アパート暮らし、セレブが憧れる日本人のハウスボーイがお仕えし、傘下企業の利益は7500万ドルと言われていました。
 
6a00d83451c29169e20168e852dc3c970c.png 一方、その裏では、暗黒街の抗争は絶えず、ジャズのメッカ、”バードランド”では立て続けに殺人事件が起こった。最初に殺されたのはギャングの一味、その直後に刺殺されたのはモリスの兄だった。レヴィーと間違えて兄が代わりに殺された。”バードランド”はここから凋落しますが、モリスにとっては痛くも痒くもないことだった。

 

<ジョン・レノンを告訴>

ori-roots09.JPG 1973年、レヴィーは、ビートルスのヒット曲『Come Together』の冒頭歌詞が、チャック・ベリー(レノンのアイドル)の作品”You Can’t Catch Me”(1956)の盗作として、レノンを告訴。示談の結果、レノンがレヴィーが版権を持つロックンロール曲3曲をレコーディングすることで落ち着いた。すったもんだの末、レビーは1セントも出費することなくレノンのアルバム”Roots”を通信販売することで大儲けします。 レヴィーは少しやり過ぎたのかも・・・
 その頃から、競合する音楽企業は、どんどん健全化(?)してギャング以外のビジネスマンが参入し始めて、レヴィーの手がけるポップ・ミュージックに翳りが出てきます。

 <ヤクザ商法の終焉>

6a00d8341c4fe353ef0134880b8394970c-800wi.jpg 時とともに、レヴィーのビジネス感覚や流行を嗅ぎつける嗅覚が鈍り、膨らみ上がった音楽企業の収益が複合的に減少して行きました。財力が引き潮になったとき、それまで金と権力のおかげで隠れていた悪行が徐々に露見し始めた。

 1984年から、FBIがレヴィーの企業について潜入捜査を開始、レコード卸売業者に対して125万ドル相当のレコード売買契約を結ぼながら、高額商品を故意にカタログから削除して販売するという詐欺行為を行ったことを突き止めます。それに気づいて満額の支払いを拒否した業者は暴行を受け重症を負うという事件が表沙汰になり、レヴィーは1986年に逮捕、一流ホテルでの捕物シーンが派手にTVで報道されることに。

 FBIは捜査の手を緩めることなく、「ルーレット・レコード」が、実はマフィアの隠れ蓑として、マネー・ロンダリングの役割を受け持つ会社であることも明るみに出ました。

 1988年、レヴィーは「ルーレット・レコード」と複数の音楽出版社を5,500万ドルで売り抜けますが、マフィアとしての裏の顔はかつてレヴィーが大いに利用したマスコミによって大々的に報道され、TV特番まで組まれた。結局レヴィーは「ルーレット」の管理職2名(うち一名はジェノベーゼ・ファミリー)と共に、強要罪で10年の懲役刑を宣告されることになりました。控訴は棄却され、服役前の1990年、レヴィーは癌で死亡。享年63才、バッパーを食い物にしたバップの立役者の最期でした。

 彼のヤクザ商法は、映画「ゴッドファーザー」でたびたび登場するマフィアらしい台詞 ”I made an offer he can’t refuse” (奴がいやとはいえない提案をしてやった。)を思い出します。ミュージシャンに対するレヴィーの脅しは、レヴィーの死後、60年代に売れっ子だっロック・バンド、「ションドレルズ」のトミー・ジェイムズの手記” Me, The Mob, and The Music (僕とヤクザと音楽)“に赤裸々に書かれています。


 今回、モリス・レヴィーや、彼の著作権商法を調べていると見えてきました。黒人ミュージシャンで初めて著作権会社を設立したジジ・グライスが被害妄想に陥り、ラッキー・トンプソンがホームレスにまで落ちぶれた理由が・・・彼らは後進のためにトラの尾っぽを踏んだ殉教者と言えるのかもしれません。ブームの立役者はミュージシャンの生き血を吸いながら大きくなった。フィリー・ジョー・ジョーンズのビバップ・ヴァンパイアは現実にいたんだね!

その男、凶暴につき (1) アル・カポネとジャズ

Al-Capone-9237536-2-402.jpg

(Al Capone 1899 – 1947)

 毎日寒いですね!今週は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」の下準備で必死のパッチ。今回はミルト・ジャクソン(vib)の名盤『Bags’ Opus』を中心に、コールマン・ホーキンスのレギュラー時代前夜のフラナガン参加盤を楽しみます。

  さきほど寺井尚之とコーヒー飲みながら、ちょっと講座の内容を聴いたのですが、ミュージシャン耳が捉えた名盤の切り口は、ディスク・レビューではなかなかお目にかかれない興味深いもの。前回の講義よりずっと深く楽しく楽しめそうです。ミルト・ジャクソンやベニー・ゴルソン・・・バッパー、ハードバッパーと言われる一流の人たちの音楽に対する「姿勢」は、ルイ・アームストロングはじめ、偉大なる先人から脈々と受け継がれてきたものだということを、サウンドと共に実感していただけますよ!

 講座のラストに紹介する『Let’s Have a Ball』のトロンボーン奏者、タイリー・グレンはルイ・アームストロングと長らく共演したプランジャー・ミュートの達人、前々回のアイリーン・ウィルソン同様、ジャズエイジの栄華を知る名手です。禁酒法のおかげで富と権力を得たマフィア、1920年代のジャズの発展は禁酒法とギャングなしには語れません。

 teddy_wilson_talks_jazz.JPG テディ・ウイルソンは自伝『Teddy Wilson Talks Jazz』で、その時代の体験をヴィヴィッドに語っています。要約するとこんな感じ。
 
カポネが秘密裏に経営する会員制高級クラブ””ゴールド・コースト”の会員証は18金でできていた。深夜、カポネが現れると、貸し切りになる。カポネもマシンガンを持つ子分たちもジャズが大好きだ!カポネが贔屓にするアール・ハインズ楽団の演目はずべて知ってる。彼らのお気に入りミュージシャンは、サックスならジョニー・ホッジスかベニー・カーター、トランペットならルイ・アームストロングかジャボ・スミスだった。(趣味がいいですね!)
 バンド演奏が始まると、王様カポネは始終バンドスタンドに上がってくる。(それはリクエストをするためではなく)ミュージシャンのポケットにチップの100ドル札を入れてやるためだ。時には一晩のチップが一ヶ月分のサラリーより上回ることもあった。大恐慌が始まった頃だったが、おかげで私はクライスラー・インペリアルに乗っていた。
 カポネが飲んでいる間、店の外には防弾ガラス仕様のキャディラック3台と15人の屈強な用心棒が待機していた。
 私は演奏以外に、彼らの仕事をしたこともあるよ。バイオリンのケースにマシンガンを入れて運んだんだ。
 カポネはギャングだし人も殺す。その資金源は密造酒、売春、麻薬…ろくなもんではないが、彼らの潤沢な富みの一部はミュージシャン達に流れ、我々の懐は大いに潤った。
 もうひとつ、カポネのいいところは、シカゴの密造酒販売の利権を黒人のマフィアに任せたことだ。カポネは白人のファミリーは全滅させたが、この黒人一家には手厚かった。おかげでそのファミリーは米国黒人史上第二の億万長者となった。

 <ファッツ・ウォーラー拉致事件>

fatswillie10.JPG

 ギャングがジャズ通なんて今じゃ到底考えられませんが、私の学生時代、組事務所が並ぶミナミの街に『デューク』というジャズ・クラブがありました。そこに田村翼(p)さんのライブを聴きに行ったら、最前列に着流しの親分さんみたいな人が子分を連れて真剣に演奏に聴き入っていたのを観たことがあります。

 カポネのジャズ・ファンぶりについて、とてもおもしろいエピソードがあります。1926年1月17日、寒い夜のこと、シカゴの繁華街にあるシャーマン・ホテルにファッツ・ウォーラー(p)がに出演し大当たりをとっていた。ファッツ・ウォーラーは道化の仮面をかぶった天才音楽家、ピアニスト、歌手、作詞作曲家、ファッツはトミー・フラナガンの子供時代のアイドルで、晩年には彼のレパートリーを再発掘していました。その夜の演奏がハネてファッツがホテルから出てくると、屈強なその筋の兄さんたち4人に取り囲まれた。ぽっこりしたお腹にピストルの銃身がめり込む。ファッツは否応なしに、脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれた。

hawthorne_500.jpg 「もうこれで俺もお陀仏だ・・・神様・・・」ファッツは生きた心地がしなかったそうです。降ろされた場所はシカゴ郊外のハートホーン・インというホテルだった。そこは、アル・カポネ一家の根城。ホテルに入り、ファッツが強引に連行された場所は、処刑場ではなく、宴会場、ステージ上のピアノの椅子だった!

   主賓席に座る男の頬の傷を見てファッツは、その男こそシカゴの帝王、カポネだとわかった。1月17日、その日はカポネ親分の27才の誕生日だったんです!  ファッツを拉致した屈強な男たちは、敬愛する親分に喜んでもらえるプレゼントをあれこれ考えた結果、極上のジャズを選んだというわけ!手段は怖いが、ケーキいから登場する裸の美女ではなく、ファッツ・ウォーラーをサプライズにしたとは、なんとも粋な兄さんたちです。

 多分生きた心地がしなかったファッツは、気合を入れ直し歌って弾いた。最高の技量とユーモア・センス!美しいピアノ・タッチ!満員のお客は大喜び、中でもいちばんウケていたのが主賓のカポネ。人種差別の時代、黒人ミュージシャンは一流クラブで演奏しても、お客と同じ席で食事もできない。正面玄関から出入りもできない。でもジャズを愛するカポネは野暮なことは言わない。食いしん坊のウォーラーに極上シャンパンやキャビア、最高の食事をたんまりふるまって、演奏を続けさせた。拉致されたって、自分の音楽を喜んでくれるなら、それにごちそうも一緒にあるのでから、きっとノリにのった演奏になったんでしょう。

 一曲終わると、「最高だ!」と喜ぶカポネや、他の客が100ドル札のご祝儀を次々とウォーラーのポケットに突っ込む、そしてまた演奏、という繰り返し・・・そのパーティは3日3晩続いたといいます。演奏が終わると、男たちは来た時と同じリムジンにファッツを乗せて、シャーマン・ホテルまで安全に送リ届けた。ポケットに入りきらないチップ、お札の山、その合計3,000ドル、今の貨幣価値でざっと300万円だった。

 

 fats_capone2-795x620.jpg

  

 そんなわけで、ジャズはニューオリンズのコンゴ広場で芽吹き、娼館をゆりかごにして、禁酒法とギャングの潤沢な経済援助を受けながら発展した歴史があるのです。禁酒法が終わりを告げて、ギャングの資金源が変貌するとともに、ミュージシャンとギャングの関係も大きく様変わりしていきます。

   次回はタイリー・グレンの『Let’s Have a Ball』をリリースしたルーレット・レコード、フラナガンとグレンが出演していたジャズ・レストラン『ラウンドテーブル』そして『バードランド』の経営者、果てはジョン・レノンまでゆすったマフィア、モリス・レヴィーについて。