Morris Levy (1927-1990)
禁酒法時代、ジャズは密造酒に洗われ、ずいぶん垢抜けた。カポネは大恐慌の後脱税容疑で投獄。1947年、梅毒で脳を侵されて見る陰もない最期だった。財布に入りきらないお札を、弱い黒人ミュージシャン達に多少なりとも分け与えたアル・カポネに比べて、音楽界のドンとして君臨したギャング、モリス・レヴィーのやり方は、ミュージシャンの著作権を奪い、クスリやギャンブルで二重三重に絞り上げるという卑劣極まりないものだった。
だからといって、カポネが音楽を愛する善人で、レヴィーが真正のワルだったというわけではないのだろう。カポネの時代、音楽は美しいダンサー達のショウの添え物的な存在でしかなかったし、莫大な利益をむさぼる対象からはずれていただけなのかも知れません。
第二次大戦中、マフィアは「暗黒街工作員」として連合軍勝利のために命を張って手を汚した。戦争に勝った後、ルーズベルト大統領はその見返りとして、ヘロインの密輸を黙認、麻薬の売買は密造酒に変わる主要産業になった。また砂漠のど真ん中にモルモン教徒が開拓したネバダ州に、カジノと娯楽の聖地ラスベガスを建設したのもマフィアの功績(?)だ。
<ビバップのフィクサー>
先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したプランジャー・ミュートの達人、タイリー・グレンのアルバム『Let’s Have a Ball』や、1月同講座で聴いたカウント・ベイシー楽団とジョー・ウィリアムス&LH&Rのコラボ盤『Sing Along with Basie』をリリースしたレコード会社は“Roulette Records”。このレーベルのオーナーはラジオのDJ、シンフォニー・シドと組みビバップ・ブームを大いに盛り上げた流行の陰の立役者で、音楽業界のドンとなったモリス・レヴィーです。
その男、実は、NYのマフィアのうちでも五本の指に入るジェノヴェーゼ一・ファミリーの一員、 一家を束ねた親分は、泣く子も黙るヴィトー・ジェノベーゼ、映画”ゴッドファーザー”のモデルのひとりだった。映画でマーロン・ブランド扮するヴィトー・ドン・コルレオーネは地域の争い事を収め、麻薬売買には断固反対した侠客でしたが、そんなこと言ってちゃ食べて行けない。現実のジェノヴェーゼ一家は博打、クスリ、売春、ボクシングその他の興行、金融業など、手広く事業展開する大実業家、その中の音楽エンタメ部門を仕切った幹部がモリス・レヴィーだった。本名モーセ・レヴィー、シチリアではなくてユダヤ系。NYブロンクス出身で、13才のとき、御年75才の担任教師に暴行を働き放校処分、それ以来ヤクザ稼業一筋、ほんとはこういう人を「Mean Streets」と呼ぶのでしょうね。
若いころはフロリダの高級クラブで丁稚奉公した。カワイコちゃんが店内のお客様の記念写真を撮影すると、お客さまが帰るまでに現像してお渡しするサービス係を務め、暗室の現像技術を取得した。きっと隠し撮りされて恐喝されたお金持ちもいたんでしょうね… モリスはこの土地でクラブ経営のノウハウを学んだ後、NYに舞い戻り、Topsy’s Chicken Roostという店の経営に関わります。折しも到来したビバップ・ブームに便乗して、店は”Royal Roost””Bop City”と屋号を変え有名ジャズクラブとなりました。人気ディスク・ジョッキー、シンフォニー・シドと組んで、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンといったスターをブッキング、ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げた。ここからモリスは、ラジオでPRしてくれるDJを味方につけることがいかに大事を身をもって学んだ。それと平行して”Roulette Records”を設立、ビバップのレコード・レーベル”Roost”を買収、”Birdland”レーベルではPrestigeのボブ・ワインストックと組んだり、ジャズにかぎらずR&Bやスタンダップ・コメディのレコーディングなど多方面で、どんどん事業展開、ビバップ、ハードバップ期の象徴的クラブ、”Birdland”を設立した。前述のタイリー・グレンがフラナガンやハンク・ジョーンズと常時出演していたアッパー・イーストサイドの高級レストラン”The Roundtable”は、”Roulette”で得た利益を投資して開店したからラウンドテーブルという屋号になったのです。
『Let’s Have a Ball』(’58)は、この店のオープンと前後にリリースされたアルバム、レコードが売れれば店が繁盛し、店で生演奏を聴けばレコードが売れるという仕組みです。
<カウント・ベイシーとルーレット>
カウント・ベイシー楽団は、前述の『Sing Along with Basie』を含め20枚以上ものアルバムを”Roulette Records”に録音してる。名門コロンビア・レコードの司令官ジョン・ハモンドが面倒をみたベイシーが何故多く録音をしたのか?これが私にとって長年の「謎」だったのですが、トニー・ベネットの自伝(The Good Life: The Autobiography Of Tony Bennett)を読んで疑問が溶けた。そこにはベイシーが知る人ぞ知る無類のギャンブル好きであったことが書かれていた。カウント・ベイシーは、博打で負けてレヴィーに莫大な借金があったのです。ベネットとベイシーのゴキゲンにスイングする共演盤『Basie Swings, Bennett Sings 』さえも、借金のカタとして録音されたものだった。ベネットはこんな風に書いている。
「レヴィーはミュージシャンの骨の髄までしゃぶる古典的悪党だった。噂によれば、カウント・ベイシー楽団員全員がレヴィーの会社の従業員として強制的に演奏奉仕させられた挙句、1セントの著作権料も支払われなかったらしい・・・」
名門ジャズクラブ、”バードランド”にベイシー楽団は何度も出演しているけれど、最高に楽しい演奏のギャラは雀の涙(peanuts)だった・・・
ミュージシャンを徹底的に搾取するレヴィーの商法、20才そこそこの若きジャズ・ミュージシャン達が創造するビバップ・ムーヴメント、その演奏の場所を経営する団体がヘロインの売買を主たる産業にしていたのですから、彼らがドラッグ浸りになったって何も不思議ではないですよね。
<版権ほど素敵な商売はない>
モリスの手がけた店で最も有名なのがチャーリー・パーカーの名前を拝借した“バードランド”、実質的な経営者は弁護士の肩書を持つオスカー・グッドスタイン、モリスは6人の共同経営者のひとりとして財務を担当していました。彼が音楽業界のドンにのし上がったきっかけがここにあります。或る日、ASCAPの職員が音楽家や出版社の代理人として、バードランドに対し演奏著作料を請求しにきた。顧問弁護士(恐らくグッドスタイン)は、その請求は完璧に合法的だから払いなさいと言う。そうか!「著作権」があれば、寝ててもお金が入ってくるんだ!目の前に「宝の山」があったことに気づいたレヴィーは、この著作権法を逆手に取って一儲けしようと決意。最初の妻の名を取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立し、バードランドで初演される楽曲の著作権をせっせと取得した。その中で最も有名なのものが、バードランドから発信されるラジオ番組のテーマソングとして大ヒットした”Lullaby of Birdland”(1952)。作曲家であるシアリングは、店のレギュラー・ピアニストで、わずか10分でこの曲を創ったと言います。いったい彼がどのような手段を使ったのかはわからないのですが、後になって、出版権をレヴィー、作曲著作権をシアリングに、ということで折り合いがつき、シアリングにも莫大な印税が毎月転がり込んできた。レヴィーが、この著作権事業を更に拡大するため、1956年に設立したのが「ルーレット・レコード」で、それからは作曲著作権も独り占めしようと、新人の契約書を工夫した。とにかくミュージシャンに対しては、おこぼれをあげるどころか、ぼったくる主義を貫徹。恐らくモリスにとって音楽家は単なる消耗品にすぎず、いくらでも代りがあるものだった。ヒットは楽曲ではなくPRによってのみ作られる、という信念があったんでしょう。
モリスを良い人間だと褒めているのはディジー・ガレスピーくらいで、自伝には「未払のギャラを請求しに行ったら靴箱一杯の札をくれた。自宅の敷金を無利息で肩代わりしてくれる親切な男」と書いてある。しかし、この伝記が書かれた時期を考えると、全くの本心かどうかはわからない。
<ロックンロール!>
レヴィーは、ロックンロールの創成にも大きく貢献した。その時代、レヴィーが最も重要視したのは音楽の作り手ではなく流行の作り手、つまりラジオのディスク・ジョッキーたち。 レヴィーはラジオの番組のヒット・チャートに自分の楽曲を優先的に流すために、ミスター・ロックンロールと言われた伝説のDJ、アラン・フリードはじめ数々のディスクジョッキーを接待漬けにした。DJの給料はとても安いから接待にはイチコロだった。レストランもホテルも沢山持ってるギャングだから、お・も・て・な・しは得意です。豪華ディナーやただ酒をたらふくごちそうしてから、自分の高級車を提供して乗り回させる。助手席には高級娼婦がもれなくついて… 勿論、現金だってたんまり包んで渡すものだから、レヴィー傘下の曲はラジオでガンガン流れた。レヴィーは、その代わりにフリードの造った”rock & roll”という流行語の所有権を独占し、使用権を徴収していたというからたいしたもんだ。やがて、DJが賄賂と接待にまみれながらヒット曲を操作していることが大きな社会問題となりますが、糾弾されたのはDJで黒幕はお咎め無しだった。内田裕也さんもレヴィーがいなくなってよかったですよね!
大実業家として、「音楽業界の蛸」「ゴッドファーザー」と雑誌で賞賛されたモリス・レヴィーは、マンハッタンの超豪華アパート暮らし、セレブが憧れる日本人のハウスボーイがお仕えし、傘下企業の利益は7500万ドルと言われていました。
一方、その裏では、暗黒街の抗争は絶えず、ジャズのメッカ、”バードランド”では立て続けに殺人事件が起こった。最初に殺されたのはギャングの一味、その直後に刺殺されたのはモリスの兄だった。レヴィーと間違えて兄が代わりに殺された。”バードランド”はここから凋落しますが、モリスにとっては痛くも痒くもないことだった。
<ジョン・レノンを告訴>
1973年、レヴィーは、ビートルスのヒット曲『Come Together』の冒頭歌詞が、チャック・ベリー(レノンのアイドル)の作品”You Can’t Catch Me”(1956)の盗作として、レノンを告訴。示談の結果、レノンがレヴィーが版権を持つロックンロール曲3曲をレコーディングすることで落ち着いた。すったもんだの末、レビーは1セントも出費することなくレノンのアルバム”Roots”を通信販売することで大儲けします。 レヴィーは少しやり過ぎたのかも・・・
その頃から、競合する音楽企業は、どんどん健全化(?)してギャング以外のビジネスマンが参入し始めて、レヴィーの手がけるポップ・ミュージックに翳りが出てきます。
<ヤクザ商法の終焉>
時とともに、レヴィーのビジネス感覚や流行を嗅ぎつける嗅覚が鈍り、膨らみ上がった音楽企業の収益が複合的に減少して行きました。財力が引き潮になったとき、それまで金と権力のおかげで隠れていた悪行が徐々に露見し始めた。
1984年から、FBIがレヴィーの企業について潜入捜査を開始、レコード卸売業者に対して125万ドル相当のレコード売買契約を結ぼながら、高額商品を故意にカタログから削除して販売するという詐欺行為を行ったことを突き止めます。それに気づいて満額の支払いを拒否した業者は暴行を受け重症を負うという事件が表沙汰になり、レヴィーは1986年に逮捕、一流ホテルでの捕物シーンが派手にTVで報道されることに。
FBIは捜査の手を緩めることなく、「ルーレット・レコード」が、実はマフィアの隠れ蓑として、マネー・ロンダリングの役割を受け持つ会社であることも明るみに出ました。
1988年、レヴィーは「ルーレット・レコード」と複数の音楽出版社を5,500万ドルで売り抜けますが、マフィアとしての裏の顔はかつてレヴィーが大いに利用したマスコミによって大々的に報道され、TV特番まで組まれた。結局レヴィーは「ルーレット」の管理職2名(うち一名はジェノベーゼ・ファミリー)と共に、強要罪で10年の懲役刑を宣告されることになりました。控訴は棄却され、服役前の1990年、レヴィーは癌で死亡。享年63才、バッパーを食い物にしたバップの立役者の最期でした。
彼のヤクザ商法は、映画「ゴッドファーザー」でたびたび登場するマフィアらしい台詞 ”I made an offer he can’t refuse” (奴がいやとはいえない提案をしてやった。)を思い出します。ミュージシャンに対するレヴィーの脅しは、レヴィーの死後、60年代に売れっ子だっロック・バンド、「ションドレルズ」のトミー・ジェイムズの手記” Me, The Mob, and The Music (僕とヤクザと音楽)“に赤裸々に書かれています。
今回、モリス・レヴィーや、彼の著作権商法を調べていると見えてきました。黒人ミュージシャンで初めて著作権会社を設立したジジ・グライスが被害妄想に陥り、ラッキー・トンプソンがホームレスにまで落ちぶれた理由が・・・彼らは後進のためにトラの尾っぽを踏んだ殉教者と言えるのかもしれません。ブームの立役者はミュージシャンの生き血を吸いながら大きくなった。フィリー・ジョー・ジョーンズのビバップ・ヴァンパイアは現実にいたんだね!