<コールマン・ホーキンス芸術の変遷>
1939年7月、ホーキンスはヨーロッパから帰国、10月に、かの有名な”ボディ&ソウル”をVictorに録音した。翌1940年初め、自己のビッグ・バンドを結成。ホーキンスの演奏は、その生涯で4段階に大別されるが、まさに第三段階の最良の時期に到達しようとしていたところであった。ホーキンスの第一段階は’20年代後半まで、サウンドは硬質で、リズムはスタッカートを多用するアグレッシブなアタックで、音の密度の濃いものだった。その時期は、ニュー・オリンズ由来で、歯車のような音を出すスラップ・タンギング 奏法さえ使用している。彼の演奏は、1930年代初頭、第二段階に移行し、彼のトーンは豊満さを極めた。スタッカートのアタックは影を潜め、代わりに豊かなビブラートを特質とするようになり、”トーク・オブ・ザ・タウン”、”アウト・オブ・ノーホエア”、”スターダスト”と言ったスロー・バラードを好んで演奏するようになる。出たとこ勝負、絶叫するような大音量、それまで現世の音楽だと思われていたジャズが、実は、この上なくロマンティックに成れる事を、ホーキンスが証明し、従来の「ジャズ」という概念を根底から覆したのである。
ヨーロッパから帰国してからも、不遜とも言えるほどの自信は揺らぐことなく、出かける先々で、うやうやしくもてなされた。しかし、きっとなにか苛立ちを感じていたに違いない。
Victorから発売された”ボディ&ソウル”、それは、飾り気なく、切れ目のない2コーラスの即興演奏で成り立っている。このレコードの大ヒットは、明らかに彼に活力を与えた。その後1940年から43年までの間のレコーディングはない。(ミュージシャン組合のレコーディング禁止令が理由の一つである。)’43年から’47年にかけては100曲以上の録音があるが、いくつかは凡作である。
ホーキンスを尊敬したマルチリード奏者、ボブ・ウィルバー は40年代初め、有名ジャズクラブ”ケリーズ・ステイブル”に出演したホーキンスを回想する。
「コールマン・ホーキンスが出るから聴きに行こう!と、私たちは”ケリーズ・ステイブル”に繰り出した。彼はグレイのピンストライプのスーツを着て登場した。我々は何か特別な、ものすごい演奏を期待したんだが、ピアノ弾きが「ホーク、何を演るんだい?」と聞くと、ホーキンスは、ただ「ボディ」と言った。つまり、”ボディ&ソウル”のことで、当時の大ヒットしていた。後は、”アイ・ガット・リズム”のコード・チェンジを基にしたオリジナルの中から1曲、似たような曲をまた1曲演奏した。それでセットは終り、2時間たたないと次のセットはなかった。」
彼のプレイは絶頂期を過ぎていた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言には絶対反対している。)
彼のスロー・ナンバーは、包容力のある音色、散漫とさえいえるヴィブラート、そしてどの曲のアドリブにも挿入される男性的な斬新なメロディで、他者と一線を画していた。一変してアップテンポのナンバーになると、大胆で向こう見ずになった。コーラスを重ねる毎に、曲を再構成しながら吹きまくった。息継ぎのために、一旦停止することは決してなかった。弾みをつけてたたみかけるように吹き、頭の中に聴こえるサウンドを、物凄い速さでサックスの音に置き換えた。例え、ごく稀にミスノートを吹いたとしても、そんなものは完璧な音の中で雲霧消散してしまった。彼の絶頂期の即興演奏に見られる濃密さと大胆さ、そして強靭さに、彼と肩を並べるのはアート・テイタム(p)だけである。(ホーキンスは1930年代初頭にアート・テイタムの演奏を初めて聴き、強い印象を受けた。)
’40年代の終り、ホーキンスはノーマン・グランツのJATP に参加してツアーを始めた。’50年代にツアーを辞めて落ち着いてから、彼のスタイルに再び変化が起きた。彼の芸術的変遷は最終段階に入ったのである。時として、絶好調の状態もあったが、不安定な兆候が増え始めた。彼のヴィブラートは、消えたり、震えたりすることがあった。トーンは硬めになり、20年代終りの初期のサウンドを思わせるようになった。また驚くような甲高く、叫ぶ様なトーンのリアー・サウンドを使い始めた。創造的なメロディの迸りは減り、素晴らしいリズム感も衰えを見せ始めた。(*訳注:トミー・フラナガンと寺井尚之はこの文言にも異を唱えています。)
<盟友ロイ・エルドリッジの証言>
ホーキンスのビッグ・バンドは失敗で、1年足らずしか存続しなかった。一時期、シカゴで活動、そこで彼はデロレス・シェリダンという女性とめぐり合う。二人は1943年にNYで結婚し3児をもうけた。コレット、ルネ、ミミである。ビッグ・バンド以降はJATPか、リズムセクションだけのワンホーン・カルテットを率いて活動を続けた。’50年代初めには、仕事をホサれる憂き目に会い、第一線に返り咲いたのは’50年代中盤で、亡くなる1-2年前まで、活躍した。
彼は健啖家として有名であったが、徐々に酒が食べ物に取って代わっていった。晩年には殆ど何も食べずに、飲み続けるようになった。痩せ衰えて、長老の様なあごひげを蓄えていたが、それは多分やつれを隠す為だったのだ。椅子に腰掛けて演奏する時もあった。
彼の死後間もなく、旧友ロイ・エルドリッジ(tp)が彼について語っている。
「コールマンは、何につけても最高級の奴だった。
昔気質で、絶対にエコノミー・クラスでは旅行しなかった。
そして、勿論、いかにも天才ホーン奏者だった!多分誰よりも私が彼をよく知っているかも知れないな・・私が初めて仕事をもらったのは1927年で、週給12$だったんだが、それも彼のおかげだよ。私は、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の”スタンピード”のレコードの彼のソロを一音漏らさずコピーしていたので、仕事にありついたんだ。
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1939年に彼が5年ぶりでヨーロッパから帰ってきた時も、一番最初に一緒に居たのが私さ。私の愛車はリンカーンで彼はキャデラックだった。我々は旅でもいつも同じルートを追いかけ合っていた。同じ場所にダブル・ビルで出演したりしてね。
彼には近寄りがたい雰囲気があった。仕事で何かうまく行かない事があったら、皆彼に近寄らないようにして、僕の方に寄って来た。プライドは高いが、冷たい人間じゃなかった。それに、ユーモアのセンスもあった。好きじゃない人間とは距離を置いていただけさ。世間は、彼がレスター・ヤングを、最大のライバルとして嫌っていたと、言っとるようだ。しかし、私とコールマンは’50年代に朝までレスターと一緒に飲み明かしたこともあるんだぞ!それはJATPに出演していた時だった。一体なんでレスターはあんなにきちっとしてるのか調べようってことになってね。まあ、それは全く判らんかったんだが。
亡くなるまでの5年間、コールマンは病気だった。殆ど食べる事を止めてしまった。随一の例外が中華料理だ。これもレスターとおんなじだ。私は夕方になると彼に電話をして、私が何を夕食に作っているのか教えてやったもんだ。すると彼は『へえ、そりゃうまそうだな。そっちへ食わせてもらいに行くよ。』と言う。来ないので、翌日また電話をすると、昨日の電話のことは全部忘れていた。
コールマンはいつでも金を持っていたが、無駄遣いはしなかった。彼はライカやスタインウエイ、300$の高級スーツを持っていたが、何を置いても、まずは妻子の生活費と家賃の$600を確保した。自分自身の小遣いなんてあるのかと思ったこともあったが、金の話はしない決まりだったんでね。
昔、コールマンがロールス・ロイスを買いたいと言うので一緒に見に行った事がある。私は彼に言ったんだ。
「おい、こんなもん乗り回してたら、バカだと思われるぞ。」ってね。そうしたら、奴はクライスラー・インペリアルを買ったよ。$8,000ポンと現金払いだった。だが、結局1000マイルも走っていないんじゃないかな。」
(続く)